59
台湾仏教における尼僧の戒律施行の概況と実例
釈見晋
(台湾香光尼衆仏学院教師、香光書郷出版社編集) 北村一仁 訳 【キーワード】台湾仏教、戒律、比丘尼、尼僧、僧団【概要】
二十世紀末より現在に至るまで、地球上の漢伝・蔵伝・南伝上座部1など、仏教の各系統のな かで、台湾「比丘尼」は(台湾比丘と比べて)多く、優れており、また台湾の仏教と社会に対 して及ぼす影響力は、ただ仏教史上稀に見るものであるというだけでなく、この独特な現象は、 あたかも現代仏教における「台湾の奇蹟」のようになっている。 本文では、台湾仏教の尼僧教団の戒律施行の概況を検討するが、それは「伝戒」と密接な関 係にある。台湾社会において比丘尼戒の伝授の最初の事例は、1919 年(大正 8 年)台南開元 寺での伝戒である。当時、比丘尼戒を受けた者は79 名であった。この後、台湾仏教では自主 的に比丘・比丘尼戒を授ける能力を有するに至った。1953 年、「(台湾の)中国仏教会」は 台南大仙寺で伝戒したが、これは台湾仏教が転換する重要な契機となった。その後は毎年伝戒 を行い、台湾仏教は、早期の日本式仏教及び斎教から抜けだし、出家衆を中心とする仏教へと 変わっていった。仏教の女性修行者は、出家受戒を通して、正式に台湾仏教が認めた比丘尼の 資格を得ることができ、尼僧教団の役割も徐々に変化していった。 1 数世紀前、公的に認可された比丘尼戒の授与は、すでに上座部仏教の伝統から消失していた。最 後の比丘尼僧団は、西暦十一世紀のスリランカに存在していた。二十世紀末、スリランカの比丘 と尼師たちは比丘尼戒の伝授の復活を開始し、法を設け、無くなって久しい比丘尼僧団を再建し た。 参考:菩提長老著、釈見豪訳「上座部比丘尼僧団重建探討」(上座部の伝統における比丘尼戒法伝 授の回復、2007 年ドイツ・ハンブルク大学第一回国議大会『仏教女性在僧団的角色:関於比丘尼 戒及其授戒伝承』)『香光荘厳』第91 期(2007 年 9 月)。60 近六十年の間で、台湾仏教の比丘尼には、大きな社会変革や、政治環境の変化、教育の普及 と女性の地位上昇の中で、社会と仏教界(例えば白聖長老)の協力により、尼衆の成長・弘法・ 領衆の機会が与えられた。そしてそこに女性に内在する自己覚醒の力が加わり、活動的な生命 力が現れ、比丘尼が持つ専門性・自主性が徐々に進展していき、宗教・教育・慈善・環境保護 等の面において、特に優れた社会的貢献が、台湾の社会で認められるようになった。 本稿では、現在台湾で最も戒律的な特色を備えた四つの比丘尼道場を事例とし、その戒律施 行の現況と特色を検討する。内容は以下の四つである。 (一)義徳寺──南山律により比丘尼戒を如法伝授する。 (二)南林尼僧苑──戒を以て師と為し、軽重等持す。毘尼蔵とは、是れ仏法寿なり。 (三)仏教弘誓学院──戒律と倫理学の近代化。 (四)香光尼僧団──女性宗教師を育て、近代的僧制について検討する。 これらの事例は、戒律持守(例えば比丘尼の「八敬法」)については選択を異にしており、 また異なる道風を展開している。 台湾仏教史における尼僧教団の戒律施行状況及び事例を検討する際、必ず注意せねばならな いのが、仏法が世間に流行するということが、「世界悉檀」の律制と最も密接な関係があると いうことである。戒律は仏陀が定めたものであり、その教えに従って行われるべきものである。 ただ、戒律はまた「世間悉檀」でもあり、その時・その地域の文化に適応し、人をうまく仏教 に引き入れることが重要視されるのである。 明日の仏教はどこへ向かうのか。現代における種々の議題に直面して、例えば僧俗が果たす 役割や、仏教各宗派の伝承が遭遇した激動・蔵伝及び南伝における比丘尼の伝承の消失、そし て生態・核エネルギー・種族・ジェンダー・老化・生命倫理等の問題について、また仏法と戒 律の伝承及び展開に対して、如何に智慧ある選択を行っていくのか。如何に仏陀の教導によっ て新たな啓発を受け、理・機にかなった現代的な解釈を行い、時代の需要と苦難に答えていく のか。如何に「世界悉檀」より「第一義悉檀」に向かっていくのか。これらは仏教に関心を持 つ者が深く考え検討し、実践していくに値する課題なのである。
61
前言
比丘(男性)・比丘尼(女性)は仏教の出家修行者であり、僧団の中心的構成員でもある。 二千五百年以上前、仏陀は比丘・比丘尼僧団を創立して、正法を長く世にとどめるために戒に よって僧団をとりまとめ、正法を行って久住させ、出家した僧侶が必ず受持しなければならな い戒律規範を制定した。それは比丘戒・比丘尼戒(また具足戒、大戒と言う)や、また安居や 自恣など、僧侶が経験するであろうことを含んでいる。 現在、仏教の伝承において、各種身分の女性出家修行者が存在している。しかし、漢伝仏教 (及び少数のスリランカ比丘)に「比丘尼」(出家し、具足戒を受けた女性)が認められるの を除いて、その他の伝承ではただ女性出家者は沙弥尼と十戒女・八戒女であり、これらはとも に比丘尼とは認められない。 二十世紀末より現在まで、台湾仏教には二つの重要な潮流がある。一つは伝統的な中国仏教 と近代世界の政治・経済・文化が台湾で出会い、台湾仏教を、近代化した人間仏教とさせたも のである。もう一つは博学にして有能な比丘尼による団体の興起(代表の女性は人間生活の各 方面において最も重要な役目を果たしている)である。女性が宗教と社会の両面において、ま すます重要な役目を担う時、仏教自身は如何にしてこのような世界に対して適切に順応するこ とができるだろうか2。これはまさに戒律が「第一義悉檀」に依拠して「世界悉檀」が密接に関 わる問題を選び取るということである。一、古今往来の台湾について──仏教の初伝
(一)台湾仏教の時代区分
仏教が台湾に伝来したのは、あるいは三国時代より以降、隋の煬帝・唐の昭宗・北宋の末期・ 南宋の孝宗などとされており3、仏教信仰は軍の派兵や、貿易あるいは移住者に従って台湾・金 2 菩提比丘「推薦序」中に言う。参考:于君方『香光荘厳──悟因法師行伝』(台北市、若魚整合行 銷有限公司、2010 年)。 3 史料上、最も早いのは、(1) 230 年(三国時代、呉 黄龍 2 年)であり、呉の孫権が衛温と諸葛直を 派遣し、兵士1 万人を率いて、海を隔てた「夷州」(台湾を指す。『臨海水土誌』に見える)に進 入した、という記録である。この他は以下の通りである。(2) 607 年(隋 大業 3 年)、隋の煬帝は 朱寛・何蛮の二人を派遣して「流求」(台湾を指す)を訪ねて調査させた。(3) 北宋末期(1125-1126)、 金が侵入すると、北宋は南遷した。沿岸の民衆は少なからず避難し、渡海して台湾に到った。(4) 南宋孝宗(1163-1189)の時、かつて泉州の軍民を派遣して澎湖に集め、海防要塞を看守させた。 参考:藍吉富主編『中華仏教百科全書』(台南、中華仏教百科文献基金会、1994 年)。62 門などの地へ伝えられた4。しかし、確かな史実として認めることができるのは、1661 年(明 永 暦15 年)、鄭成功が軍を率いて台湾へ渡った前後である。 台湾仏教の発展の歴史は、およそ五期(表一参照5)に分けることができ、各段階の様相は異 なっている6。
表一 台湾仏教
五期の発展
1.オランダ時代 (1624~1661) オランダ・スペイン占領時期、台湾は原住民の多神的な汎霊信 仰が主であった。ただし仏教は、早くは三国時代(230年)より漢人 の移住に従って台湾に入っていた。 2.鄭氏時期 (1661~1683) 更に多くの民間信仰が現れた他、仏教・道教やイスラム教など の大型宗教が出現した。 3.満清時期 (1683~1895) 正統仏教:閩南系(鼓山派)の禅浄双修寺院を主としていた。 擬似仏教:仏教は一般的な斎教・道教・儒教などと混合し、台湾社 会の民俗的信仰を形成していた。 4.日本時期 (1895~1945) 初期には日・台仏教が併存していた。中期には1922年に台湾全体の 仏教組織である「南瀛仏教会」が設立され、1931年には「皇民化運 動」により、台湾仏教は全面的に日本化した。1919年、比丘・比丘 尼戒の伝授が台湾社会において初めて行われた。 5.中華民国時期 (1945~現在) 主権回復以後、大陸仏教の僧侶と組織が次々と台湾に来ることにな り、中国仏教会の組織的運営と毎年の伝戒の下、日本化・斎教化し た仏教が除去された。戒厳令解除後、台湾仏教は、政治・経済・文 化の発展に従って近代化した。比丘尼僧団が興起した。(二)明清時代の台湾仏教
17 世紀後期以前、歴代の中国王朝はいまだかつて台湾に郡県を設立したことがなく、当然政 府の寺院もなかった。そのため、明・鄭氏時期に至っても、台湾仏教は依然として色濃く個人 的色彩を帯び、個別に僧侶や信者によって単独の祭拝が行われていた。鄭氏三代による台湾経 4 江南・閩粵より台湾への移住民について歴史的に見てみると、三国時代から、特に北宋の南遷以 来、嘉義北港は漢人と原住民の貿易や交流の場所となっていた。加えて江南・閩粤一帯は南北朝 時代以来、仏教が盛んに行われており、特に阿弥陀浄土信仰は隋唐以後、その中国化・庶民化に 従って庶民階層にも普及した。宋に至って、結社念仏の気風が江南一帯に流行し、次第に民間信 仰と融合した点から見て、鄭氏が台湾に依拠するより更に早く、南宋時期にはすでに漢人が移住 して仏教が台湾に入っていた可能性を否定することはできない。 参考:釈慧厳「台湾仏教史前期」 『中華仏学学報』第08 期(1995 年)pp.273-314. 5 邢福泉『台湾的仏教与仏寺』(台湾、商務印書館、初版第三刷、1992 年)pp.3-6. 6 林俊裕「近現代仏教史之研究」(『慧炬』No.527、2008 年)。63 営の時期に、仏教は徐々に重視されるようになった。台湾の最も早期の寺院「小西天寺」(現 在の竹渓寺、台南市に位置する7)は、1661~1664 年の間に建てられた。 1683 年(康煕 22 年)、清朝が台湾を占領すると、仏教も次第に広まり始める。1684 年か ら、各地では続々と多くの寺院が建立され8、統計によると、清代の台湾領内では純仏教寺院が 約102 ヶ寺(斎教が設置した斎堂はここに含まないようである)建てられ、そのうち観音寺(あ るいは観音宮・観音廟・観音亭などの名称)と名付けられた寺院が、およそ55 ヶ寺強を占め ている9。渡海して台湾にやってきた移民社会には、消災・厄除けや西方宗教の導入という需要 があり、仏教を斎教・道教・儒教などと混合させ、台湾社会の民俗信仰を形成した。その上、 仏僧と在家信徒の個人的な弘法布教は仏教勢力を拡大させ、仏教を台湾全土に普及させた。そ のため、清代の台湾仏教は「正信仏教」と「擬似仏教」の混合的特徴を出現させた10。
二、台湾仏教における尼僧の出現──日本統治時期(1895~1945)
(一)台閔仏教・日本仏教と斎教の交流と衝撃
台湾の最近300 年余りの仏教発展史の中 で、日本統治時期は50 年を占めるのみでは あるが、日本の政治、近代化と仏教文化の衝 撃の下にあっては、台湾仏教に対して一定程 度の実質的影響がある。その影響には三つの 層がある。すなわち、 1 日本植民政府の宗教政策が台湾仏教 に対して与えた影響 2 日本仏教の台湾人民に対する影響 3 日本仏教の台湾仏教に対する影響 有山定次郎〈大日本台湾地図〉(1895年) (写真:国立台湾歴史博物館) 7 盧嘉興「台湾的第一座寺院竹渓寺」(『古今談』第 9 期(1965 年)p.33)。また『中国仏教史論集台 湾仏教篇』、『現代仏教学術叢刊』87(大乗文化出版社、1979 年)参照。 8 例えば、台南の名士である李茂春の隠遁した夢蝶園は、改めて法華寺となった。 9 劉枝万「清代台湾之寺廟」『台北文献』第 6 期(台北市、台北市文献委員会、1963 年)pp.48-66. 10 林俊裕「近現代仏教史之研究」(『慧炬』No.527,2008 年)。64 である。この三者は区別しなければならない。 1895 年、馬関条約(下関条約)によって清朝が日本に台湾を割譲したが、日本仏教はこの 時期に台湾に伝来した。日本統治時期、総督府は日本仏教・台湾仏教の共存を許し、閩南仏教 を持続的に台湾に影響させた11。そこで、台湾本土の仏教はいくつかの大きな主要宗派、例え ば台南の「開元寺派」、苗栗大湖の「法雲寺派」、基隆月眉山の「霊泉寺派」、高雄大岡山の 「超峰寺派」、台北観音山の「凌雲寺派」など12を形成した。これらは閩南仏教と深い関係が あり、禅宗の法脈に属している。しかし、これらの宗派の開山あるいは中興の祖師は、皆な台 湾本土の僧侶であり、台湾仏教が独立に向かい始めたことを意味している13。 「斎教14」は、また白衣仏教と称し、仏教・道教・儒教の三教合一を提唱し、禅宗より変遷 してきたと伝えられている。主に華東・台湾一帯で流行している。信者は僧俗の区別に拘わら ず、在家が多数を占めており、食菜人15(男性は斎公、女性は斎姑という)と称し、その布教 を行う場所を斎堂という。清代の台湾在家仏教団体である「斎教」には、主に龍華派・金幢派・ 先天派の三宗派が存在する。中国政府は長らく「斎教」を秘密宗教としており、正統な仏教宗 派もまた斎教を地方在家仏教と見なし、斎教においては「在家人」身分の者が僧侶の役務を担 当し、各種の儀式を行っていることを非難した。 しかし、斎教の立場から見れば、龍華・金幢・先天三派に共通する特徴は、「自らの道場・ 典籍・系譜・等級・儀式がある。強調すべきは禅宗六祖の尊い法脈の秘伝であり、また在家修 行及び弘法者の優越性をもって自任し、出家僧尼の腐敗と能力不足を批判する」という点であ る。斎教は、明清以来の仏教の新興の分派を代表している16。 11 江燦騰は日治時期の台湾仏教の変革と立場について詳述し、総督府が日本仏教と台湾仏教の共存 を許し、「児玉・後藤体制」が日華親善的な大陸拡張政策(閩南仏教を持続的に台湾仏教に影響さ せる)を採用し、日本僧が台湾にやってきて日治時期の台湾四大法脈の形成を促進した等の指摘 をしている。これは、日治時期の台湾仏教の発展を解読するための重要なキーワードである。参 考:江燦騰『台湾仏教史』(台北、五南図書、2009 年)。 12 その中で、四大法脈(基隆霊泉寺、観音山凌雲寺、大湖法雲寺、大岡山超峰寺)は、台湾民間仏 教に属す。しかし、南瀛仏教会や斎教などの組織は日本植民政府の指導を受けた。 参考:Jones, Charles B. 1999 Buddhism in Taiwan: Religion and the State, 1660-1990. Honolulu: University of Hawai'i Press. 13 参考:林俊裕「近現代仏教史之研究」『慧炬』No.527(2008 年)。 14 斎教の「斎」は、身心を修し潔め、嗜欲を絶ち、葷辛を食さないことを意味し、そのため教規は 「不噉葷辛」、「不飲酒」、「不賭博」を重視する。 15 斎教、別名在家仏教。……厳格に五戒十善を受持し、特に不殺戒を重視する。そのため「食菜」、 「食菜人」の名称がある。増田福太郎『台湾的宗教』(台北、南天書局、1996 年)pp.96-99. 16 江燦騰「台湾近代政権鼎革与仏教教派転型:以高雄大崗山超峰寺派的源流与発展為例」『思与言』
65 1915 年、台湾では「斎教」を中心とした大規模な抗日運動「西来庵事件」が発生し、当時 の台湾の一般信徒と寺院は自らを守るため、次から次へと日本の仏教組織への参加を申請し、 台湾と日本の仏教組織が正式に接触し始めた。 日本植民政府の宗教政策では、「斎教」に政府の認可を与え、斎姑を政府に承認された仏教 の尼僧たちと平等の宗教身分とした17。 これは、統治者の立場に基づくと、一石二鳥の利を収めることができるものだったのかもし れない。一方では、浄土真宗などの日本仏教の僧侶もまた家族を持つので、斎教を否認して、 日本の僧侶が結婚するという戒律に觝触する問題をはっきり示すよりも、斎教の指導者を僧侶 身分と同様に承認して、双方を近づけて斎教信者を吸収する方が良かった。 もう一方では、斎教を台湾仏教 の範疇に分類し、仏教の尼僧たち と斎姑の僧俗の境界線を曖昧に し、台湾仏教の純粋性を低下させ ることができた18。 1922 年、全台湾組織「南瀛仏 教会」が成立し、これで台湾の寺 院・斎堂や信者たちはすべて日本政 府によって統制された。ちょうど日 本の近代仏教が世俗化する時期に 当たり19、そのため台湾は日本の植民支配を受けるだけではなくて、仏教もその世俗化的改変 の影響を受けた。 第37 巻,第 4 期(1999 年 12 月),pp.169-328. 17 日本の宗教政策の植民者としての意識は、斎姑と仏教尼僧たちとの地位の区別を曖昧にしている ということにおいて最も明確になっている。丸井圭治郎は、かつて新竹浄業院を例として、台湾 の尼僧は日本の尼僧と似ておらず、かえって斎姑と比較的似ていることを指摘している。参考: 丸井圭治郎『台湾宗教調査報告書』(台北、台湾総督府、1919 年)p.21. 18 李玉珍「出家入世──戦後台湾仏教女性僧侶生涯之変遷」『回顧台湾、展望新故鄉──台湾社会文化 変遷学術研討会論文集』(台北、師大歴史系、2000 年),pp.409-441. http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-NX012/nx96108.htm 19 王俊中は以下のように指摘している。「明治初年、「清除旧習」という大きな気風の下で、日本仏 教界は伝統仏教の守規持戒から背離して、僧侶の肉食妻帯を許し、宗教の中で「聖」と「俗」の 境界線を大いに消滅させた。社会構造の角度から見ても、僧侶階級の世俗化と同時期の武士階級 大正十年(1921)十一月第二回南瀛仏教講習会紀念 (写真は開元寺オフィシャルサイトより抜粋)
66
(二)台湾における比丘尼の受具足戒──(1919-)
明清以来の女性仏教徒は、かつて主に「帯髪修行」の「斎姑」の形態をとって台湾において 出現した。彼女たちは現代台湾の「近代的女性仏教徒(比丘尼)」の先駆者と見なすことがで きる20。 仏教において女性が出家するには、正式な戒師によって仏法にかなった出家の羯磨プログラ ムを挙行し、戒法を授与されなければならない。戒律によって、女性たちは出家して俗世の家 庭の絆から離れなければならず、まず剃髪染衣し、再び具足戒を受けて沙弥尼となる。実際に 比丘尼としてあるべき戒律・行儀を受持して、ようやく「比丘尼」と称することができる。 台湾仏教史上で最初に具足戒を受けた比丘尼が現れたのは、1919 年(大正 8 年 11 月)、台 南の開元寺に始まる。これ以前に台湾には尼僧がいなかったが、かなり多くの斎姑がいて21、 彼女たちは主権回復前後における台湾の尼僧の主要な出所であった。 の消滅は、すべて日本人が封建社会的身分制を打破することを願い、近代的な平等社会へ向かう 一種の努力であり、そこには西洋のプロテスタントの神職に対する改革を模範としたこともきわ めて明確に表れている。ただし、宗教信仰の角度から見ると、このような改革の実義はどこにあ るのか、評定することが難しい。」 参考:王俊中「日本仏教的近代転変──以仏学研究与教団伝教 為例」『獅子吼雑誌』第33 巻、第 4 期(1994 年 04 月)。 20 江燦騰は、台湾における斎姑出現の原因を指摘している。一、清朝における女性の出家に関する 法律では、四十歳以上に規定されている。二、未婚・後家あるいは身体障害の女性。三、家庭の 伝統的な信仰に従って斎教に帰依する。四、僧侶の無知、社会的地位の低下と行為の汚点(妻帯 者が非常に多い)。 この中の第 2 点について、「多くの斎堂は私有産業であり、養老と宗教による 慰めという二重の機能を兼ね備えており、更に深く見てみると、女性の生活の自主性を保障し、 一族や男性の強権的で恣意的な支配から免れさせた。当然、このような生活を行うためには、経 済的独立が必要であり、伝統社会の中にあっては通常、土豪・地主あるいは仕紳の一族のみ可能 であった。したがって、初期に創立された斎堂は社会的地位の象徴であった。」 江燦騰『日拠時 期台湾仏教文化発展史」(南天出版社、2001 年)p.511. 江燦騰「新竹市浄業院及其仏門女性的百年滄桑史」『竹塹文献雑誌』第24 期(2002 年 7 月号)。 http://media.hcccb.gov.tw/manazine/2002-07-24/magazine1-1.htm 21 1919 年、『台湾宗教調査報告書』第1 巻(釈慧厳 訳)。「本島において尼寺と称されるところには、 尼僧生活を送る女性が居住しているが、これらはすべて斎姑の居住する斎堂であり、認可された 尼院の尼僧ではない。およそ正しい尼僧というものは、仏教に帰依し、受戒して、剃髪して僧衣 を着なければならない。新竹浄業院などでは寺院の構造を備え、居住している老婦も尼僧の条件 も備えているものの、まだ髪を下ろしていない。要するに、台湾には尼僧がいないと言える。」参 考:『台湾宗教調査報告書』(台湾総督府、大正8 年)p.76.67
表二
1919-1940年 台湾伝戒僧尼受戒人数統計表
年(A.D.) 伝授寺院 受戒人数 比丘戒 比丘尼戒 合計人数 1919 開元寺22 23 84 79 163 1923 観音山凌雲禅寺24 83 58 141 1924 鼓山湧泉寺 8 50 58 1934 開元寺 31 83 114 1936 中壢圓光寺 10 41 51 1940 霊泉禅寺25 16 41 57 小計 232 352 584 表二から明らかなように、台湾の各道場で具足戒を受けた男女の人数は、比丘尼の人数が、 次第に比丘よりも多くなる傾向にある。 22 『開元寺同戒録』には、「大正 8 年 11 月(1919 年)四衆戒大会を開く」とある。 23 開元寺は康煕 29 年(1690 年)に建立され、台湾が清の版図に吸収された後、政府の主導によっ て再建された「官寺」の一つである。清代の僧侶の活動は、主に死者供養に従事することであっ た。伝芳和尚は1855 年(清 咸豊 5 年)に生まれて、1881 年(光緒 7 年)に鼓山へ至って出家し、 卓錫すること30 年、1912 年(明治 45 年)に台南にやってきた。1913 年(大正 2 年)、開元寺「住 職」として招聘されたものの、伝芳和尚が台南人でありながら、ずっと中国大陸の戸籍を持って いたことにより、名義上は住職を担当することができず、名目上の住職は成円和尚であった。伝 芳和尚が開元寺に至り最初に行なったのは、三帰五戒の伝授である。 伝芳和尚が亡くなった後、成円和尚(1890-1933)は開元寺住職としての権限を得て初めて行な ったのは、四衆戒会を伝えたことである。『台湾日日新報』(1919 年 12 月 8 日)の報道「開元寺 授戒会」によると、戒師は臨済宗大本山妙心寺派代理の梅山玄秀(主戒)、台湾布教監督の山崎大 耕(導師)、雪峰達本和尚(開堂)である。この時の四衆受戒した人数は393 名という空前の盛況 であった。参考:闞正宗『開元寺伝承発展史』(台南、開元寺、2008)。 http://www.kaiyuan.org.tw/treasure/treasure2.htm 24 『台湾観音山凌雲禅寺同戒録序』(大正 12 年)掲載。 大正12 年 11 月 11 日、初めて三壇大戒を伝え、受戒者は七百人。大正 12 年癸亥冬、11 月 11 日、 一週間開催し、四衆戒壇を設け、十方男女は敬虔に五体投地を行い、受戒者七百人がやって来た。 伝戒大和尚:真空、字は本円、鼓山の振光老和尚より受戒する。 說戒大和尚:策堂、台北円山護国禅寺住職。 羯磨阿闍黎:巌西、字は聖恩、福州鼓山湧泉寺老和尚。 25 民国 44 年に出版された『曹洞宗霊泉寺同戒録』は以下のようにある。 昭和15 年(1940 年)、逢善慧師の還暦にあたり、還暦記念の四衆戒壇を開催した。出家者中、比 丘は16 名、比丘尼は 41 名であった。 伝戒大和尚:常覚、字は善慧、曹洞宗霊泉寺開山。 羯磨阿闍黎:即体、字は本円、観音山凌雲寺住職。 教授阿闍黎:演揚、字は徳馨、曹洞宗宝蔵寺住職。 李添春「序霊泉禅寺沿革」:「前年(宣統元年、1909 年を指す)9 月 23 日、第 1 回伝戒会を開催 した。在家二衆に限っても、来山して受戒を求める者は30 人余であり、これは台湾授戒の発端で あり、更には前例がないほど盛大な行事であった」。68 昭和甲戌年(1934)11月11日 開元寺伝戒円満記念撮影 (写真は開元寺オフィシャルサイトより転載) 1931 年(昭和 6 年)、新竹州 内務部長を務めた中島覚の「仏教 家の使命に就いて」では「特に本 島の特色について説くべきは、尼 僧が多いことである26」と述べら れ、1919~1931 の 12 年間、台 湾仏教界にはすでに相当数の比 丘尼がおり、僧団の質量ともに変 化が起こり、台湾「本島の特色」 となっていたことが分かる。 日本統治時代より、尼僧は台湾仏教の舞台で活躍し始めた。高雄の大岡山龍湖庵、台中の后 里毗盧禅寺、台北の石壁湖山円通禅寺などは、台湾の尼僧を育くんだ揺籃といえる。例えば、 台北の円通禅寺では、妙清法師が1927 年(昭和 2 年)に開山してより、1934 年(昭和 9 年) に大殿が落慶するまで、20 数名が居住し27、その中で高等女学校を卒業した者は2、3 人であ 26 釈慧厳 訳。『南瀛仏教』巻 9 之 5(昭和 6 年 5 月 1 日)p.11. 27「円通禅寺沿革」『南瀛』巻12 之 10(昭和 9 年 10 月 1 日)p.42. 1934年冬、慧雲(前列左から3人目)和尚が開元寺の伝戒に参与。 (写真は開元寺オフィシャルサイトより抜粋)
69 った。彼女たちは円通禅寺において尼僧学院を設立することを計画し、将来の台湾の尼僧教団 を革新させた28 29。
(三)台湾尼僧の剃髪可否
釈尊在世の時、世俗の服飾を捨て、異教徒と容易に区別されるようになったため、出家の象 徴的な符号である「剃除鬚髪」「著袈裟衣」が制定された30。 しかし、台湾にいた日本の僧侶は、皆な台湾の尼僧が剃髪することを奨励しなかった。台湾 に皇民化仏教が入ってきた時期、1941 年に日本の臨済宗妙心寺派の二人の尼師─東海昌道尼と 沢木弘道尼が日本から台湾に来て、「皇道仏教」課程の指導を担当した。1941 年、蓮峰寺で 尼僧講習会を開催し、そこに参加した学生は台湾南部の女性・僧尼・斎姑であった。「大崗山 蓮峰寺において仏教講習会を開催した。6 ヶ月の 1 期であり、課程はすでに終了し、12 月 13 日、修了式を開催する。次回参加の学生は、主に台湾南部の女性・僧尼・斎姑で、公立学校卒 業以上の学力を持ち、日本語運用能力を有する者で、現地寺院の推薦を通じて、講習者20 名 を参加させる。講習会の会長は、東海宜真師が担当し、課程教師は東海昌道尼・沢本弘道尼で あり、すべての皇道仏教の課程を担当する31。」修了式では、日本の剃髪した尼僧教師と、多 くの蓄髪した台湾人女学生が対比をなしていた32。 次に、龍湖庵の例を取り上げる。この庵は台南開元寺の永定和尚(1877-1939)によって建 立され、「大崗山龍湖庵は明治42 年(1909 年)春に建てられた。永定上人が超峰寺に住して まもなく、女性たちが清修する場所が無いことを憂慮し……2 年後の明治 44 年(1911 年)、 山石により仏殿を改築したが、ただ庵舎は粗略であり、女性が4、5 人居住できるだけであっ た。大正7 年(1917 年)春、庵にやって来る者が徐々に多くなり、当時庵に居住していた者 28 曾景来氏「巡迴随録」『南瀛』巻 7 之 3、(昭和 4 年 5 月)p.64。 29 釈慧厳「従台閩日仏教的互動看尼僧在台湾的発展」『中華仏学学報』第 12 期 (1999 年 7 月) pp.249-274. 30 『中阿含経』巻 1(1 七法品)「某尊弟子於某村邑剃除鬚髪、著袈裟衣、至信・捨家・無家・学道。」 (T01, no. 26, p. 422, b29-c2)。 31 江燦騰翻訳『台湾仏教』第 19 巻第 1 号(1941 年 1 月)p.49. 参考:江燦騰「日治時期高雄仏教発 展与東海宜誠」『中華仏学学報』第16 期(台北:中華仏学研究所,2003 年)pp.211-231。 32 李玉珍「出家入世──戦後台湾仏教女性僧侶生涯之変遷」『回顧台湾、展望新故郷──台湾社会文化 変遷学術研討会論文集』(台北:師大歴史系、2000 年)pp.409-441. http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-NX012/nx96108.htm70 はすでに30 数人に及んでいた33。」1920 年、龍湖庵ではかつて大陸の南普陀寺の住職であっ た会泉和尚(1874-1943)を招聘して、台湾に来て「在家菩薩戒34」を授けるように請うたこ とがある。1936 年に至るまで、龍湖庵の人数は増加して 140 人(比丘尼および優婆夷)に至 り、台湾で最大規模の尼僧道場となった。大陸の僧侶である林慧雲は、撰述した『萬年簿序』 において、龍湖庵を「尼僧清修道場」と称している35。 龍湖庵では、そこに住する衆が帯髪修行したので、当時の仏教界から「斎堂」と分類された というわけではなかった。1941 年に出版された『台湾仏教名蹟宝鑑』のように、龍湖庵の住 職と副住職はともに剃髪していない36。李玉珍は、1998 年 9-11 月に屏東の東山寺、万巒の普 賢講堂、左営の興隆浄寺・隆豊寺、高雄の龍湖庵・旧超峰寺などの地を訪問し、円融の出家し た弟子を訪問した際、「円融比丘尼は当時、龍湖庵にあってはほとんど第一位の尼僧であった が、円融自身も不平をこぼしたことがあるように、当時、龍湖庵では皆な彼女の剃髪を尊重し ておらず、朝晩に授業が斎堂で行われると、彼女は剃髪していない尼僧たちの後ろに位置して いた」という話を聞いた37。 日本統治時期、台湾の尼僧たちは出家に際して、剃髪することが普遍的ではなく、彼女たち が戒律を受けることも同様に難しいことであった。台湾では政府あるいは大宗派寺院の戒壇が なく、具足戒を受けたい僧尼は、必ず台湾海峡を渡って福建などの地で行って受戒しなければ ならなかった。女性が遠方へ旅をすることの安全を考慮しなければならないことを除いても、 膨大な旅費と高価な戒場費用(通常、謝師・訪問・遊学などの費用を含む)がかかるため、台 湾寺院は偏向した選抜派遣―特に住職継承の候補者は、大陸に行って受戒する―をしなけ ればならなくなる。比較的、環境に恵まれた尼僧たちは、更に「寄戒」の方法を取ることがで き、受戒する費用を郵送して戒壇に送り、戒碟を購入した38。人が出席していない状況では、 これらの尼僧は剃髪する必要がない。彼女たちはあるいは髪の毛を2 本のおさげにくくって、 彼女たちが処女であることを顕示する。あるいは耳の下でそろえて切り、自らの先進性を表示 33 中国南普陀寺比丘慧雲撰「大崗山龍湖庵万年簿序」『南瀛』巻14 之 3(昭和 11 年 3 月 1 日)p.54. 34 「序」『大崗山龍湖庵護国千仏寺同戒録』(高雄:龍湖庵、1977 年)p.3. 35 林慧雲比丘「大崗山龍湖庵万年簿序」『南瀛仏教』14. 3(1936 年 3 月)p.54. 36 施徳昌『紀元二千六百年紀念台湾仏教名蹟宝鑑』(台中:民徳写真館、1941 年)。 37 李玉珍「出家入世──戦後台湾仏教女性僧侶生涯之変遷」『回顧台湾、展望新故鄉──台湾社会文化 変遷学術研討会論文集』(台北:師大歴史系、2000 年)pp.409-441. http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-NX012/nx96108.htm 38 蔡文婷「菩提道上女児多」『光華』22.12(1997 年 12 月)pp.82-95.
71 する。あるいは斎姑と同じように既婚女性の髪型にして、不嫁守貞を志していることを明らか にする39。
表三
20世紀中葉台湾女性仏教徒の宗教的戒律生活
宗教派別 修行の特徴 鼓山派 仏教 斎教 日本派 仏教 先天 龍華 金幢 不婚嫁 ○ ○ × × × 不淫戒/不邪淫戒 不淫 不淫 不邪淫 不邪淫 不邪淫 茄素 (葷辛を食さない) ○ ○ ○ ○ × 剃髪 △ × × × △(四)台湾仏教の全面的な日本化──(1931-1945)
1931 年の「九一八事変」、1937 年(民国 26 年)の盧溝橋七七事変(盧溝橋事件)により、 中日両国が正式に宣戦すると、日本は台湾の人民に対して「皇民化運動」を推進し、台湾仏教 は「皇民化」の影響を受けて、寺院の設備・僧侶の服装・生活様式や一切の法会・儀式などが、 完全に日本化し、もともと福建伝来であった中国仏教的制度・儀式と規則は、日々衰微してい った。日本仏教の影響下にあって、台湾仏教は戒律を重視しなくなり、結婚して子を成す比丘 や、葷辛を食す者、家族親戚によって寺院を運営する者が多く存在した。しかしこの独特な仏 教の体質は、また後期の仏教発展の種を播いた。 一方、台湾仏教界は伝統的な中国仏教の儀軌唱誦を重視し、僧尼は法脈・字輩、剃髪による 師弟の伝承を重視し、信者は僧侶を招聘して読経し、必ず死者が聞いて分かる言語を要求する など、依然として日本仏教は台湾仏教の僧侶・信者と同化することは無かった。しかも台湾仏 教は中国人的宇宙観の位置にあって、日本仏教の日本人的宇宙観の位置と異なっており、これ によって受けた同化もまたやはり限定的なものであった40。(五)日本統治時期(1896-1945)50年が今日の台湾仏教に与えた影響
39 李玉珍「出家入世──戦後台湾仏教女性僧侶生涯之変遷」『回顧台湾、展望新故郷──台湾社会文化 変遷学術研討会論文集』(台北:師大歴史系、2000 年)pp.409-441. http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-NX012/nx96108.htm 40 江燦騰『台湾仏教史』(台北:五南図書、2009 年)。72 闞正宗は、以下のように指摘している。日本仏教は、国内においては神道・儒家による教化 に協力して、対外的には国家拡張主義に歩調を合わせ、台湾植民にあっては教化・同化・皇民 化の役目を演じた。その歴史的過程は、3 つの時期に分けることができる。 1. 前期(1896-1915)──探求と結盟:軍僧及び各宗の布教師による台湾での開教にあっては、 無分別・無選択な方式で加盟する寺院を探し、そして各自各宗派の開教計画を定める。 2. 中期(1915-1931)──協力と展開:「西来庵事件」勃発後、今までの僧侶・斎友の「素質」 に対して大いに不満がある植民当局は、正式に全台湾の宗教調査をスタートさせた。この政 策が同盟後の台湾・日本仏教の協力を加速させ、臨済宗・曹洞宗をはじめとして展開した後 に、全台湾の地域勢力、つまり本土の四大法脈を区分させ、斎教三派は統一して「台湾仏教 龍華会」となって日本仏教を参考にするようになるなど、史上、最も活発な展開を見せた時 期である。 3. 後期(1931-1945)──皇化と改造:「九一八事変」(1931 年)は、日本史学界の称すると ころの「十五年戦争」を展開させた。中日戦争の勃発により、仏教が演じた役目は極致化を 助けた。「九一八事変」から「七七事変(盧溝橋事件)」を通じて「太平洋戦争」に至るま で、仏教は国家を助成する役目を担い、「部落振興会」(1932 年)、「台湾社会教化合意 会」(1934 年)、「打破旧慣信仰運動」(1935 年)、「民風作興協議会」(1936 年)、「精 神総動員(皇民化)運動」(1937 年)より、「精神総動員運動」に応じて「寺院整理運動」 が起こり、そして「寺院戦時体制」(1942 年)によって「皇国仏教化」がピークに達した41。 日本統治時期、台湾仏教と斎教は日本の植民政策の要求により、丸井圭治郎主導の下で南瀛 仏教会を創立し、正統仏教と斎教(擬似仏教)を合一させた(合称して仏教とし、同一組織に 組み込んだ)。台湾地区の仏教と斎教にもたらされた関係(融合)は、大陸における二教の相 互不承認的な関係(対立)と大いに異なっており、結局は台湾仏教を戦後発展させることがで きた。プラス面の影響としては、1945 年以後、国民党政府が台湾を管掌し、「(台湾の)中 国仏教会」を無事に創立することができ、全台湾の寺院・庵堂を効果的に統制し、更に毎年伝 41 闞正宗『日本殖民時期台湾「皇国仏教」之研究「教化、同化、皇民化」下的仏教(1895-1945)』 国立成功大学歴史学系博士論文、2011 年。
73 戒を取り扱い、斎姑に受戒して比丘尼となる機会を提供した。日本統治時代の変革と組織化が あったため、今日の台湾仏教の誇らしい組織と充実した力があるのである42。 1945 年、国民政府が台湾を接収し、その後、大陸は占領され、国民政府は焦ってその政権 の合法性を確立するように強制して日本化除去の政策をとったために、日本の台湾統治50 年 における功罪と得失については、未だ正式に研究されていないということになってしまった。 台湾史研究は必ず1895 年から1945 年までの50年の歴史過程の課題に向かい合わねばならず、 日治時期の台湾仏教の変遷に対して更に深く理解しなければならない43。
三、伝戒からみた尼衆の戒律施行及び役割の変遷――台湾の主権回復以降
1945 年に台湾が主権を回復してから約六十年、大きな社会変革・政治環境の変化・教育の 普及44・女性の地位向上によって、台湾仏教の比丘尼は、仏教界及び社会と歩調を合わせて成 長し、能力を発揮する機会を与えられた。また内在的な自我が覚醒し、目覚ましい生命力を顕 わすようにもなった。このことによって徐々に比丘尼は、自らが持つ専門性・自主性を発揮す るようになり、社会に認められるようになっていった。 台湾仏教における比丘尼の興起を考察する際、仏教界内部における重要な要素としては、次 のようなことを含んでいる。すなわち、1:毎年の伝戒によって、台湾仏教は、早期の日本式 仏教や斎教から抜け出すことができた。2:仏学院・仏学研修所の相次ぐ設立によって、僧尼 が法を受け、高等教育を受ける機会が提供された。3:比丘・比丘尼は互いに尊重しあい、良 好な協力関係を築き、共に学法・弘法・寺院管理・出版において、平等で開かれた機会を享有 した。42 Jones, Charles B. Buddhism in Taiwan: Religion and the State, 1660-1990. Honolulu: University of Hawai'i
Press, 1999.
43 張珣「台湾仏教史研究及其当代性:兼評 Charles Jones Buddhism in Taiwan: Religion and the
State,1660-1990 与江燦騰『台湾仏教史』」『台湾史研究』第十六巻第三期(中央研究院台湾史研究 所,2009 年 9 月)pp.165-173. 44 台湾では 1968 年より九年間の義務教育の実施後、女性が教育を受ける機会が大幅に上昇した。団 体出家を行った学士尼は、台湾で初めて出現した。九年間の義務教育後、大学を卒業した女学生 がそのうち多くを占める。丁敏「台湾社会変遷中的新興尼僧団︰香光尼僧団的崛起」、『当代台湾 的社会与宗教』(台北:仏光書局、1996 年)pp.20-23.
74
(一)台湾への大陸仏教の正式な流入――戒厳期(1949-1986)
1945 年、台湾は主権を回復した。国民政府は台湾に移り、戒厳期には「日本仏教化を除去 する」という宗教政策を推進し、その一方で大陸仏教が正式に台湾に流入した。このことによ って、教理・僧制・儀規、あるいは言語において、それ以前の斎教化・閩南化45・日本化して いた台湾仏教は全面的に改革し、大陸仏教が主流の地位を占めることとなった。 1950 年、東初法師は次のように述べた。「台湾仏教には基本的な欠点がある。それは、仏 教徒の生活には、制度と厳格に合う規定がないということである。また在家と出家にもはっき りした境界線はなく、出家するにも剃髪し受戒する必要もない。一般的な斎姑について言うな らば、龍華派の斎堂では妻を娶り葷辛を食べることすら許されている。出家の条件が甘いこと によって、一般生活に落ち着くところのない斎姑はみな仏門に入り、仏教の看板を利用し、斎 堂を増設し信徒を争い集め、香油をつける者すらいる。……このほか、台湾の仏教徒には、統 一された標準的な生活制度も乏しい。……典型的な仏教僧には、律儀教育・叢林教育・仏学教 育が必要である。台湾全体の出家僧で仏教制度上の浄戒を受けた者は、比丘でも10%(四十歳 以上)、比丘尼では1%にも満たない。故に根本的な律儀から言うならば、台湾の多くの出家 者を比丘や比丘尼とみなすことはできないのである。出家者たちが律儀教育を等閑視する原因 は、日本仏教の影響であると言わざるを得ない46。」 「1950 年以後、中国仏教総会47の改組により、各県・市に支会が成立し、また一律に中国式 の戒法が採用された。開始後間もなく、先に斎堂・尼寺の年少者が輔導される対象となり、中 国伝統仏教の出家戒法が授与され、日本仏教の影響が除去されることとなった。またこの時か ら中国仏教の正式な再建が始まったと言うことができる48。」 台湾仏教界の僧侶は仏教学を重視し始め、台湾仏教の思想・制度は、徐々に中国式のものと なり、中国大陸の仏教伝戒もまた台湾で進展していったのである。 45 1949 年より後、多くの大陸の僧侶が台湾を訪れ、江浙仏教を主体とする戒法の伝承が不断に展開 していった。そしてもともと日本植民初年の台湾で興った仏教四大法脈(基隆月眉山霊泉寺・五 股観音山淩雲寺・苗栗大湖法雲寺・高雄大崗山超峰寺)は相次いで衰弱していった。参照:闞正 宗『開元寺伝承発展史』(台南:開元寺、2008 年)。 46 釈東初「了解台湾仏教的線索」『民主世紀的仏教──臨済、曹洞法脈東初老和尚紀念数位典蔵専輯』。 http://dongchu.ddbc.edu.tw/html/02/cwdc_05/cwdc_050001.html#d1e183m 47 中国仏教会は出家人を主な対象に、護国衛教を宗旨としており、日常的に重要な職責の一つは、 伝戒の審査と輔導である。 48 中村元主編、余万居訳「漢語文化分布的仏教.第二章 台湾的仏教(張曼濤著)」『中国仏教発展 史』、第四篇(台北:天華、1984 年)p.1064.75
(二)伝戒と台湾僧尼の変化
中国大陸の仏教僧は素食し、妻を娶らないという戒律を保持している。例えば、民国初めの 弘一は、戒律研究に精通し、清浄を行持していた。浄厳や慈舟などの法師もまた戒律を提唱し、 当時著名であった。台湾中部の懺雲法師もまた戒律を提唱していた。中国大陸の伝戒方法・戒 律の伝統は、かつて日本の統治下にあった台湾仏教と、とても対比的なものであった。 白聖長老(1904-1989)は、大陸から台湾に渡った後、積極的に中国仏教会の台湾における 復興を促進した。また、伝戒の方式を通し、台湾仏教を日本仏教と斎教より離れさせた。彼は 1953 年、大仙寺で伝戒大会を開いた時、戒子に対して「七条規定」を設けた。 一、必ず家を捨て俗世間より離れ、僧としての姿を具足し、はじめて比丘の大戒を受ける ことができる。 二、出家した者は、世俗の服装をしてはならない。もし僧服が無ければ、三日のうちに用 意すること。できなければ辞去し居士戒を受けよ。 三、出家在家を問わず、須らく僧宝を師としてはじめて戒を受けることを許す。もし在家 人を師としている者があれば速やかに改めよ。できなければ一律に戒を受けることを 許さない。 四、居士戒を受けるものは、絶対に弟子をとることを許さない。 五、戒を郵便で送ることを許さない。一律に取り消す。 六、道を異にして以前に戒を受けた者は、必ず邪を改め正に帰すことを宣誓すること。 七、戒を受けた日より、絶対にタバコ・酒・葷辛を禁止する49。 この時の戒会では、開参・道源を三師和尚とし、比丘戒を受けた者は39 人、比丘尼戒を受 けた者は132 人であった。これより、台湾の僧尼の生活形態は徹底的に改められ、必ず家を捨 て俗を離れ(不婚嫁)、葷辛や酒を断ち(茹素)、僧像を具足し(剃髪)、僧服を着、僧宝を師 とし、具足戒を受けるなどの規定が、台湾で僧尼となる必要条件となった。 49 釈白聖、「大仙寺開堂記」。釈会性、「憶大仙戒壇懐白公老人」、白聖長老円寂三週年紀念論文集編 審委員会編、『白聖長老円寂三週年紀念論文集』(台北:能仁家商董事会、1992 年)p.35 より引用。76 1953 年の大仙寺の伝戒は、台湾仏教の重要な転機となった。その後、台湾仏教界は毎年伝 戒し、時として年に二度三度行うこともあった。台湾の仏教は伝戒会を通した洗礼を経て、よ うやく質的に変化したのである。 民国四十二年(1953)一月二十七日大仙寺の伝戒終了後、戒師と戒子の記念写真。 (開元寺公式ウェブサイトより転載)
(三)尼衆の剃髪と受戒
第二次大戦の前と後では、台湾仏教の女性修行者は、受持する戒別・教団における身分にお いて、極めて大きな差異が見られる。 日本統治時代、台湾の尼衆は、その多くが、尼衆となる資格を得る機会を日本に求めた。た だ、それは家庭環境に優れ、成績優秀な尼衆に限られたため、剃髪できる尼衆はなお少数であ った。戦後、台湾仏教が伝戒制度を建て、中国の禁欲的教団生活の方式を復興させたことによ り、台湾の尼衆は剃髪しているか否かが僧俗を区別する重要な指標となった。これに対し以前 に盛行していた斎姑などの過渡的な形態である、女性の宗教生活方法は排斥されることとなっ た。そして伝戒制度と密接な関係にある僧としての教育は、台湾の出家女性に正当な宗教上の 身分と相応の訓練とを提供した。伝戒制度は僧俗の境界を強化し、女性は正規の教団に組み込 まれた。斎教の儀式の専門家と台湾の日本式僧侶は宗教的合法性を失った。この変化の過程に よって、制度化・標準化された女性僧侶の修行人生が形作られていったのである50。 50 李玉珍「出家入世──戦後台湾仏教女性僧侶生涯之変遷」、『回顧台湾・展望新故鄉──台湾社会文 化変遷学術研討会論文集』(台北:師大歴史系、2000 年)pp.409-441.77
(四)台湾仏教における初めての僧尼の夏安居
「夏安居」は仏の在世時に起源を持つ51。比丘が雨季の三か月間、一所にとどまり(安居)52 、 共同の修行生活を送る。律蔵には、安居に対して如法に、住居・部屋の割り当てや、安居期間 の修学内容、どのような場合には安居を中断できるかなど、詳細な規定が記されている。安居 の起源は生物の保護であり、その効用は共同で修行を行うことである。仏陀の時代、比丘たち は四処雲游の布教活動を送っていたが、彼らが、あちこちの「法」と「律」についての見聞、 あるいは疑問について見解を示すことは、一か所に集まり、互いに教授しあうことによっては じめて可能であった。 白聖長老は、戒を伝えるが戒を講じないという当時の大陸の状況に不満を抱いていた。そし て台湾の戒壇では戒の講義を重視し、彼は夏安居を借りて比丘・比丘尼に戒律と法義を学習さ せた。このことはまさに僧人を教育する、これとない機会であった。1955 年、十普寺での伝 戒の時、彼は次のように言った。「私は常に考えている。伝戒とは何か。戒子が寺に戻り持戒 するためである。ただ戒はどのようにして持するのか。必ずや先に戒を知らなくてはならない。 もし戒の条文に対して少しでもわからないところがあるならば、戒壇において『能く持する』 と答えたとしても、それはただ台上で戯れに対話しているだけでないばかりか、自ら嘘をつき 人を欺くことでもある。今回の伝戒では、特に講戒を重視し、皆に戒を理解させたいと思う」 53と。戒期が終わってから、白聖長老は大仙寺(1953)・元光寺(1954)・十普寺(1955)で、 前後三壇の大戒を受けた比丘・比丘尼を率い、獅頭山の海会寺で仏制90 日の夏安居を営んだ。 これは台湾仏教史上初めての、制度に基づいた夏安居であった。この期間、会性法師によって 比丘・比丘尼戒が講じられ、白聖長老は『楞厳経』を講義した。 http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-NX012/nx96108.htm 51 比丘は一年が始まると遊行を行う。夏天になると、印度の雨季が始まり、暴雨が降り、水は氾濫 し、比丘たちが遊行に携帯していた衣物が漂失してしまう。また比丘が雨季に外出すれば、路上 の草木や虫たちを踏み殺すことを免れず、その命を奪ってしまい、居士たちの批判や譏りにあう こととなる。 参見:『四分律』巻37 (T22, no. 1428, p. 830, b7-20)。 52『四分律』巻37:「世尊爾時、以此因縁集比丘僧、以無數方便呵責六群比丘。汝所爲非、非威儀・ 非淨行・非沙門法・非隨順行、所不應爲。云何六群比丘於一切時春夏冬人閒遊行、夏天暴雨・水 大漲・漂失衣鉢・坐具・針筒、蹈殺生草木。居士於草木有命根想、譏嫌故、令居士得罪。以無數 方便呵責六群比丘已、告諸比丘。汝不應於一切時春夏冬人閒遊行。從今已去、聽諸比丘三月夏安 居。」(T22, no. 1428, p. 830, b27-c7) 53 十普寺伝戒会編『護国千仏大戒同戒録』(台北:十普寺、1955 年)p.28.78
(五)尼衆は尼衆によって指導されるべきである:戒壇引贊
「中国仏教三蔵学院」創立に話が及んだ時、白聖長老はかつて次のように述べた。「私が学 校を創設した当初は、比丘を対象としたものであった。しかし本省の比丘は少なく、目につく のは尼衆だけであった。彼女らの資質は優れたものであり、また仏教の責任を負うに足るもの であった。ここで仮に方便として、出家男女二衆を一院のうちに分け、宿舎を分ける。聴講時 は、時に堂を分け、時に堂を共にする」54。 学院・戒壇を問わず、女衆は男衆より多かった。主権回復以後、1953 年に行われた、大仙 寺における初めての伝戒大会においては、戒堂において比丘が担当するのは「引礼」師だけで あり、比丘尼の担当する「引賛」師(引賛とは、戒場で女衆戒子を輔導する責を負う女戒師で ある)は無かった。1954 年、獅頭山元光寺での第二回伝戒の時、白聖長老は比丘尼が引賛を 担当して尼衆を輔導する新戒を始めた。1957 年(農暦 45 年末)、白聖長老は東山寺の伝戒会 で教授和尚兼開堂を任じ、戒子に対して正式に引賛を紹介し、「本戒場では女衆がはなはだ多 い。一切の決まりごとは引賛の助けが必要である」と述べた55。 白聖長老は伝戒・講戒の場を借り、台湾仏教の生態を改革しようと考えていた。いきおい、 比丘以外にも比丘尼の協力が必要であった。天乙法師は台湾仏教の転換期で重要な位置を占め ている。(六)台湾仏教転換期を駆け抜けた比丘尼
―天乙法師
56 天乙法師(1924-1980)は、日本の東京にある昭和大学文学部 を卒業し、1947 年日本より帰国し、東山寺で得度した。円融を 師とし、法名は院儀、字号を天乙とした。円頂後は東山寺の住 職となった。1953 年(民国 42 年)に至り、台南大仙寺で三壇 大戒を受けた。 54『白公上人光寿録』p.345. 55 東山寺伝戒会編『護国千仏大戒同戒録』(屏東:東山寺、1957 年)p.84. 56 釈見曄編著、釈自鑰校訂『走過台湾仏教転型期的比丘尼:釈天乙』(台北:中天、1999 年)pp.363-365. 天乙法師の法相 (香光尼僧団資料写真)79 保守的・閉鎖的で、男女の社会的地位の格差がきわめて大きかった時期において、また台湾 仏教が、僧俗の区分が不明瞭な日本式・斎教式仏教から中国大陸式の仏教に移行する時代にお いて、天乙法師はその独特な見解と確固たる信念でもって、比丘尼たちの自覚を強く引き起こ した。 そして仏教界と社会の大衆に向かって「正法を住持する責任は、男女衆で分けられるもので はない」と宣言した。彼女は「比丘尼の仏教に対する責任」の識見と観点を強調し、尼衆の生 活理念を正し、尼衆の新たな形態を創造した。さらに後の台湾比丘尼の生活形態にも影響を与 え、香光尼衆団を設立する悟因法師も彼女に学び、彼女は深く啓発されることとなった。 天乙法師が初めて戒場で引賛師を担当したのは1954 年、当時彼女はまだ 31 歳であった。こ れ以後、1976 年龍湖庵伝三壇大戒まで、彼女が戒場で果たした役割は引賛・口訳であり、最 初は流暢なものではなかったが、次第に白聖長老に代わって戒の講義を行うまでになった。 初期においては比丘が比丘尼に戒を講義していたので、戒律の細かい部分においてはばかる 所がとても多く、率直な意見を言うことができなかった。天乙は女衆の身分で比丘尼に戒を講 義したので、比丘が戒を講ずる限界を打ち破ることができた。彼女は機会があれば、比丘尼を 教導し、戒を受けることを是認するという意義を把握しており、女衆の出家があってもよいと いう観念や儀態を確立し、あわせて女衆の弊習や、台湾仏教独特の、寺院中における「男女同 居」などの弊害について大いに改革を行った。天乙法師の戒壇への参与は、白聖長老が当時の 台湾仏教の「菜姑」を「比丘尼」へと至らせる過渡の助けとなったばかりではなく、比丘尼衆 を、全国民的な知識が普及した社会潮流に対応させたのである。 悟因法師57(天乙法師の弟子、中国仏教三蔵学院卒)は次のように言った。「初期の仏教経 典には、女性には『五不能』『八十四態』等があり、女性の出家は正法の期間を500 年減少さ せたと思われる。私の上人である天乙和尚尼は、これとは異なる観点を呈示した。彼女は、あ る欠点というのは、もとより人格の暗部がはっきりと現れ出たものであるが、ただそれは個人 をしばる呪いの言葉のみならず、話す者・聴く者をして呪いの言葉の泥沼の中に陥れるもので ある、と考えた。歴史的な見方によれば、上人の精神の貴ぶべきは、彼女が『台湾仏教の転換 期』に、伝戒・寺院管理に参与した時、僧尼の中で声を上げたことにある。比丘尼の身分を以 57 現任の香光尼僧団方丈・香光尼衆仏学院院長。法師は若くして出家し、学を白聖長老・天乙法師・ 明宗法師に授かった、台湾尼僧伽教育及び仏教教育の先駆者の一人である。
80 て社会に参与し、仏教に身を投じ、尼衆を率い、台湾仏教の比丘尼のために、模範を打ち立て たのである」。
(七)正法久住の責任は比丘・比丘尼を分けるものではない
悟因法師は白聖長老の言葉を追憶し、「民国41 年(陽暦 42 年初)、初めて式に従い法に準じて大仙寺で三壇の大 戒を行って以来、数多くの斎姑が剃髪して比丘尼の姿と なったが、必ずしも以前のように、完全に唐山へ寄戒し、 それで初めて戒を受けられるというような状況ではなか った。これは白聖長老が台湾比丘尼を成就したのである。 ……ただ女衆の生活と修行はなお女衆の世話と指導によ るべきであり、彼はこの一原則―尼衆は尼衆によって 指導される―を強調し貫徹した。これによって、戒堂 白聖長老と尼衆学僧。 (香光尼僧団資料写真) において、例を破って引賛を設置し、尼衆に新戒を指導した。彼はいつも尼衆に対して八敬法 を行い、比丘僧団を尊重せねばならないと述べたが、尼衆自身もまた発奮して成長をはからね ばならない。正法が久住する責任は、比丘・比丘尼に分かたれるものではないからである」と 述べた58。 1987 年、台湾政府が戒厳令を解き、台湾社会の転換を宣言したことにより、仏教の思想・ 文化・組織・活動もまた多元化・活発化した。社会の急速な変化に伴い、台湾の尼衆は仏教の 近代化ということについても自覚するところがあり、仏教界の長老による指導や、自らに対す る期待の下で、三宝の深恩にそむかず、ついには台湾比丘尼の世界を展開していくことになる のである。四、現代台湾仏教における尼僧の戒律施行について
本節では、清涼山義德寺・南林尼僧苑・仏教弘誓學院及び香光尼僧団を含む比丘尼僧団を例 として、戒律施行の特色について検討する。 58 釈悟因、「青山常在、法水常流—憶師公以及那段曾経親炙的日子」白聖長老紀念会編,『白聖長老 円寂紀念集』(台北:白聖長老紀念会、1997 年)pp.120-121.81
(一)事例:義徳寺
59──南山律により、比丘尼戒を如法伝授する
59 台湾内政部では「財団法人台湾省嘉義県義徳寺」として登記されており、組織型態は理事会制で、 主に釈迦牟尼仏を祀る。義徳寺は嘉義市の義徳仏堂にはじまり、1974 年、紹安和尚尼が嘉義県番 路鄉仁義潭畔に遷って建てた。印順長老に「清涼山」という題を賜り、1982 年に落成した。 60 参考:義徳寺公式ウェブサイト「義徳寺沿革」。 http://www.yidesi.org/profile.php 61『随機羯磨・諸戒受法篇』所引『毗尼母論』。 義徳寺の一大特色としては、2002 年 より、住職の招安和尚尼の下、二年毎 に比丘尼具足大戒を授けるということ が挙げられる。如法に比丘尼戒を授け、 三条件を具足することを強調してい る。その三条件とは、1、戒師如法 2、 戒壇如法 3、戒子如法60である。また 比丘尼は「二部僧受戒」を必須とする ことも強調している。 しかし「如法」とは何なのだろうか。 義徳寺で施行されている儀軌は、唐朝 の道宣律師(596-667)の南山律を基準 としている。 清涼山義徳寺。(撮影:蔡華松) 1. 戒師如法 律では、和尚及び二名の阿闍黎が定 められており、これは必ず如法にせね ばならない。七名の尊証師も、みな清 浄にして戒律に通暁していなくてはな らない61。 僧部十師及び尼部十師もまた、みな 戒を持すること清浄で、なおかつ戒律 の止持・作持に通暁している。 2006年義徳寺「伝授比丘尼具足大戒」、 戒師如法。(撮影:蔡華松)82 義徳寺では、尼部十師「如法」条件として、かつて式叉尼戒を受け、法を二年間学んだこと、 二部僧に具足戒を受けたこと、夏臘を満たしていることを特に強調している。 さらに注目すべきことには、義徳寺では、尼僧が「かつて式叉尼戒を受け、法を二年間学んだ こと」「二部僧に具足戒を受けたこと」ということを堅持しており、ここ数十年の台湾におけ る伝戒の、尼僧は「僅かに沙弥尼を受し、未だ式叉尼戒を受け法を学ぶこと二年ならず」及び 「僅かに一部の僧中に於いて、具足戒を受く」という習慣的作法とは異なっている。 義徳寺の「甘露戒壇」の大きさや数などは、唐・道宣律師の『関中創立戒壇図経』に従って 建てられる。 2. 戒壇如法 『四分律刪随機羯磨』によれば、先に「戒場界」を 結し、さらに大界を結す62。如法に結界を成就させる とは、羯磨法によって依憑する所を形作るのである。 伝戒の前に、比丘衆は寺において戒場の界を結し(二 部僧戒壇結界)、僧大界を結した後、比丘尼衆はまた 二部僧戒壇の上で重ねて界を結す63。如法なる結界の 内容や次第については、複雑な規定があるのである。 3. 「戒子如法」の五つの条件 64 (1)是人道。(2) 諸根具足(身体五官に瑕疵がないこと)。(3)身器清浄:事前に五・八・十 戒(及び式叉尼戒)を受けた時、重戒を破っていないこと。なおかつ十三重難65・十六軽遮66が 62 まず比丘衆が僧部の結界を作る。 次の日に戒を常住させ、先にもともと結していた所の浄地・大界・戒場を解き、戒を常住させて 「自然界」を作る。その後、尼部本法堂内で、先に尼部本法によって「戒場界」を結し、ついで 戒場の外に出て「有戒場大界」を結す。この時の「有戒場大界」には、「大界外相」と「大界内相」 の区分がある。次に尼部戒場に出て、大界相内に至り、大界を結し、最後に再び浄地に結す。 63『四分律刪補随機羯磨疏』諸戒受法篇によれば、二部僧が尼に具足戒の戒壇で授け、僧尼二衆はみ な、そこで界を結せねばならない。この二部僧授戒の法は僧尼二部が共同して稟持するものであ るので、僧尼がみな結界せねばならないのである。さらに僧尼は同法であるので、僧衆が結界し た後、尼衆が再び結する時には、必ず重ねて界を結せねばならないが、これもまた界相が同じで なければならず、たがいに交叉することができない。『四分律刪補随機羯磨疏済縁記』巻3 には「初 立理。雖下、引證。諸律聽者、即是『善見』及下『五百問』。彼云、僧尼重結得、不得相叉。謂界 相須等、準非同法、雖叉無害。」(X41, no. 728, p. 283, c15-17)とある。 64 『随機羯磨・諸戒受法篇』「受戒五縁」によれば、受者は五種の条件を満たしてはじめて具足戒を 受けることができる。 戒会比丘が二部僧戒壇結界を作った後、 比丘尼衆はまたそこで重ねて界を結す。 写真では、戒師・戒子が、戒場界の「甘露戒壇」 外で結界している。(撮影:蔡華松)
83 無いこと。(4)出家の形相(出家・剃髮・染衣)を具足していること。(5)得少分法:比丘尼戒を 受けようとするには、すでに沙弥尼戒及び滿二夏の式叉尼戒を受けていることが必須である。 4. 儀軌授受如法 律制によれば、尼衆戒子たちは、先に尼 部本法壇に登り本法を受け、その後尼部十 師がこれら「本法尼」を携え同日のうちに 僧部戒壇に至り、僧尼合計二十師の前で、 比丘尼具足大戒を受ける。 2006年義德寺「傳授比丘尼具足大戒」。 10月30日、戒子は尼部本法壇に登り本法を受ける。 (撮影:蔡華松) 律制により、「本法尼」は三人ごとに、二部僧具足壇に登る。 前方の座上は僧部十師、左右は尼部十師である。(撮影:蔡華松) 如法とは何なのか。仏陀の制した所である。また祖師の立つる所とは?インド式、中国式、 日本式なのか、はたまた……? 義徳寺が伝戒において依拠するのは、中国唐朝の道宣律師の南山律である。道宣律師は、626 年から645 年の間、前後して『四分律刪繁補闕行事鈔』・『四分律拾毘尼義鈔』・『四分律刪 補随機羯磨疏』・『四分律注戒本疏』・『比丘尼鈔』等五書を撰述した。これが南山律宗の五 大部疏鈔である。道宣律師は、終南山で戒壇を創設し、仏教の受戒儀式を制定した。 65 十三重難︰(1) 辺罪難 (2) 犯比丘尼 (3) 曾盗聴比丘(尼)之説戒羯磨、詐称為比丘(尼)者 (4) 学仏志性無定 (5) 黄門・五種不男 (6) 殺父 (7) 殺母 (8) 殺阿羅漢 (9) 破僧 (10) 出仏身血 (11) 非人難 (12) 畜生難 (13) 具男女双性。 66 十六軽遮︰(1) 不知自己之名 (2) 不知和尚之名 (3) 年不満二十 (4) 不具三衣 (5) 不具 (6) 父不聴(允許)者 (7) 母不聴者 (8) 負債人 (9) 為他人奴者 (10) 為官人者 (11) 非為男子者 (12) 身患癩病 (13) 身患癰疽 (14) 有白癩者 (15)有乾痟者 (16) 顛狂病人。
84 義徳寺における伝戒の特色は、尼僧はまず必ず「式叉尼戒」を受けて「法を学ぶこと二年」 ということ、および「二部僧中に於いて具足戒を受く」ということである67。