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近世国家の形成と戦争体制

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(1)

近世国家の形成と戦争体制

著者 曽根 勇二

学位授与大学 東洋大学

取得学位 博士

学位の分野 文学

報告番号 乙第171号

学位授与年月日 2005‑06‑27

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00003975/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)
(3)

近世国家の形成と戦争体制    曽根勇二著

校倉書房

歴史科学叢書

(4)

近世国家の形成と戦争体制 目次

(5)

序 章⁝⁝⁝・

  問題の所在⁝:・

 . 研究史の概観:

  各論の位置付け・・

第一部 秀吉政権期の奉行人の動向

第︑章 秀吉政権の東国侵攻:⁝⁝:  ・⁝

  はしめに・⁝:⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:

 第一節 小田原への侵攻⁝⁝⁝⁝・   ⁝・

  − 秀吉による指令⁝⁝⁝⁝⁝⁝・::

  2 南関東右.面の状況・⁝

 第.節 関東経営:⁝⁝⁝・・⁝:⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝

  − 武蔵侵攻⁝⁝⁝⁝・⁝・:⁝⁝⁝⁝   四⁝・ 四

(6)

  2 禾乃ー口の川.11城・人城::・:・:::・::::::

  3 鎌倉に対する施策:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝

 第..節 徳川領国⁝

  − 鶴岡︐八幡⁝宮の造営:⁝・

  2 ...涌・小机・鎌倉: ・

  ︑∨  ︺  ︶  一     =°°:°°°:°:°::::  十イ ←4 ー  ー︑ ㊨.....

第..章 豊臣蔵入地支配の形成⁝⁝⁝

  はLめに⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝・

 第︑節 浅野長占と対外政策⁝

  − 秀吉の指令⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝::

  2 国内の浅野.長吉・⁝⁝

  3 朝鮮の﹁御城米二⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:

 第..節 浅野長吉と東国支配⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・

  −取次:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝:

  2 浅野︑長吉の甲斐・人封と信濃豊臣蔵入地

  3 ↑果国芝配の形成::⁝:⁝:::

 第︑.一節 浅野長吉と山中長俊⁝

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        /1\  ノ\  1.  {、         ノk  /N

(7)

  − 山中長俊の登場⁝⁝

  2 山中長俊と豊臣蔵入地・⁝⁝

  3 浅野長吉と山中.長俊の関係⁝⁝

  ︑﹂  ︐  ︶  一\ ::°ー:=::°:ー  七つ ・考 r° ー

第三章 秀吉政権と御鷹場⁝⁝⁝

  はじめに⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝

 第一節 .人.止卜九年十︐︑月の大鷹野

  1 .干大︑止十・八年の知ク汀割:・:・:・:::

  2 Lへ白ピ権威の包㎞摂⁝:⁝⁝::⁝.:

  タ 人名動員体制⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝・⁝

 第..節 御鷹場設定⁝⁝−

  − 諸鳥献ヒ・鳥の追払いと御鷹場

  ・・大名領内設定・・

  3 ︑私噂  の林が止⁝⁝・

  .︶  ︶ ー  ﹂  十イ オ  ー﹂  ー  .㊨.

第四㍍ 秀㍑政権の東国支配−

  はLめに⁝:⁝::

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(8)

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第五苗秀L日政権の﹂父通支配

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75わりに⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・・

3

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フ一鉱山芝配の変化

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(9)

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長期戦への対応 .ハρ汗ヘーん上朝鮮出兵の兵根米供給吟︑﹀︑︑﹂︑.︑■︑・︐︑︑マ︑︐︑︑﹀

3

隈へ羽平定の浅野長㍑

2

小田原合戦の浅野長☆

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日付の赦日状案 ﹁︐﹂柚勇ケP信貝浅野長占の存在 まじ

第六章朝鮮出兵と国内支配体制の実態

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3

文禄四年春の派き

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2

政権の船舶確保

1

文禄

帰国

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〃日︹再出兵の準備

3

次舟システム化の形成

2

1

対馬の拠点化

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壱岐

対馬の重要性■  .

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(10)

第L章 朝鮮出丘ハの撤兵指令・⁝−:

  はLめに⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・

 第.節 再出丘ハの基地博多・⁝・・

  − .右田︑.︐成と博多の関係⁝・

  2 小早川秀秋の博多ド向・⁝・

  3 博多と名島城の関係⁝・⁝:⁝

 第.︐節 撤丘ハの開始:

  − 徳永寿昌・宮城豊盛の朝鮮派遣

  2 具体的指令⁝⁝⁝⁝

  3 .右田..︑成・浅野長吉の博多.卜向

 第:.節 藤堂高虎の渡海・

    第

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   節

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(11)

第一部 徳川政権形成期の奉行人の動向

 第﹁章 慶長四年の徳川家康と片桐且元

   はしめに:・

  第.節 浅利事件⁝⁝:

  脾弔..伸即  曲.紙臣蔵人地支酬﹈⁝ ・

  第...節 ﹂人名の知行宛行⁝:

   おわりに⁝

 第..h章 関ヶ原の戦後の片桐且元⁝::⁝

   丈    ︸ ●﹂   ー︑ L y ー ︑... .㊨

  第.節 慶.長六年の知行宛行と片桐ほ.兀・

   − 札兀と徳川奉行人の連署⁝:

   2 目兀単独の署名:・⁝ − 徳川家康の指示2 .五奉行の動向:おわりに⁝:⁝⁝

1㍑四四四門 四

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(12)

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 ..︑河国の幕領検地⁝: ・7﹂ 

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第..節 豊.臣蔵入地の支配

豊.臣蔵・へ地の培㌍収⁝:

2

順㎏臣W職・へ地の収L文::・

家康政白と豊.臣蔵・人地

おわりに

第...章 慶長期の幕領支配

はLめに 3

家康W身の署名

友兵{一一㌧ll六是{1:{1{1  ∫1. iil 1只只聚

(13)

  2 千村代官:・

  ︑⊃  つ  ︺ ≡﹂ ︑:ー︑:::°二:::  ・乏 才 1  ー

第四章 ﹁豊臣体制﹂の解体⁝・・

  はじめに⁝⁝⁝⁝⁝⁝:

 第一節秀頼領の支配構造⁝⁝・⁝.⁝⁝.

  − 秀頼領に対する理解⁝⁝⁝⁝⁝⁝

  2 在地支配の実態:⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝

 第..節 秀頼領の豊臣氏と徳川氏⁝⁝

  1 徳川方の対応⁝・::⁝・:⁝・⁝:⁝・

  2 豊臣方の対応::・

  ︑⊃ つ ︶ 甲一  十イ ・オ ー  ー ..今..

第五章 京都方ぴ工寸鐘鋳の鋳物師動口貝

  はしめに・⁝

 第一節 鐘鋳の鋳物師動員⁝⁝

  I  Lー司﹇・.し︶董占大    ー目ー ノσ偉∬﹈ ......

  z 個別領ドの動員⁝⁝⁝

  3  ‡遣.ノ仁︑  :ー:::: °    偉∬ノ ㍑ .︐

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(14)

ρ牙節 家康の中国貿易

・ ︑長崎集中・⁝⁝⁝:

3  2  1

島津氏の抵抗 家康のバ 家康のハ

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ン行為指令 ン林︑小令 ︹戊午日﹂日明の国⁚父L父渉

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1_解体期

ん﹂節 鐘鋳勤務の実態

勤務編成・

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    八  L      ノ、 ノr J]」 ノ、

(15)

  2 .長崎集中の解除:

 第.︑︐節 島津領の中国貿易の実態・・

  − 一秀中心政権の長崎集中:⁝

  2 長崎と薩摩の留︹易:⁝:⁝:

  おわりに⁝⁝:⁝

第L章 近世国家の形成と対外政策⁝

  はしめに:・

 第一節 海賊停止令の周辺・⁝⁝:⁝⁝

  − バハン船の登場:

  2 勘合と朝鮮出兵:

 牌弔.︐⁝︹ ハハン林.小くP:・・

  − 家康外父の本﹁1/;:⁝・

  2 家康による中国との貿易⁝・・⁝⁝

  ー ヨーU︐ハ勢力と中国海商の動・同:

 第..節 唐船貿易⁝・・

  − .川ひ長崎集中へ⁝:

  2 唐船・貿易の実態:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・・

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(16)

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(17)

序 章

問題の所在

古甲

15

 本書は︑豊臣秀吉や徳川家康の時代︑近世国家形成期の政権中枢を支えた奉行人の動きやその権限に焦点を合わ

せて︑その時代の実態を明らかにするものである︒秀吉や家康をはじめ︑その政治に関わった奉行人らの書状をヒ

な分析対象とし︑そこから解明できる様々な事実を確定することで︑近世国家形成期の社会状況も探る手法をとっ

た︒書状という同時代史料を多用したが︑その史料解釈をはじめ年代比定にも充分に配慮したつもりである︒

 豊臣氏家老の片桐且.兀を分析するところから作業を始めたので︑当初︑家康が覇権を握る秀吉死後から人坂の陣

終rまでの時期を検討することになった︒関係史料を読むにつれて家康権−刀に脆弱な印象を感じるようになり︑い

ささかの抵抗感を覚えながら︑こうした状態を﹁公儀の分裂﹂あるいは﹁︐︑重の公儀﹂とかの表現で整理したこと

もあった︒秀七口死後の政治状況の複雑さに戸惑うばかりであったが︑ふとしたことから秀吉政治を支えた浅野長吉

の存在に気づくと︑自ずと秀吉政治の持つ重要性を追求するようになった︒秀吉創出の強固な国家権力の枠組みか

あり︑それは家康でさえも完全に継承することができないものである︒秀占死後の政治状況が極めて複雑な状態に

なるのも当然である︒秀吉権力の検討なしには家康権力の脆弱性解明は不可能と判断したのである︒

(18)

f︶  政権掌握者が立案した政策に対し︑現実に行われた政策が乖−離することはよくある︒秀吉権力の解明に際し︑秀占だけではなく奉行人の動向に着目したのは︑国家構想よりも現場の実態を知りたいとの単純な発想であったが︑且元関係史料を読んでいた経験からくるところもあった.︑戦時体制の秀吉政治の下︑現場では戦況の変化に応じた

政策が要求されるなど︑秀吉と現場の奉行人の間では︑後世の我々が想像する以上の人きな意識の乖離も生じたは

ずである.︑即座に奉行人の判断が必要となる局面も多かったと思われる..現場を重視するこうした不.吋欠な視点は

何も秀吉政権に限ることではないが︑これ以外に奉行人の動向にこだわった理由がある︒秀吉自身だけに責任を転

嫁させず︑大名をはじめ様々な領ヒから被支配者の民衆に至るまで︑政治︵戦争︶責任の加害者として捉える視点も

必要と感じたからである︑朝鮮出兵という侵略戦争研究の重.要性については今さら.︐.︐ワつまでもないが︑とくに海外

派兵の而に着目し︑それを支えた日本列島全体の動向を解明したいとの⁝願望があるからである︒これが秀吉および

家康による政治運営に関わった奉行人の動向に牽かれた理由である︒なお政権中枢の政治機構が確ヴ.していない時

期︑政治運営に関わる個別の奉行人研究から︑当時の国家のあり方を探ることが最も有効な方法であろう︒

 本片は..部構成の形式をとった.︑第︐部は︑浅野長吉の動向を核として秀㍑政権の実態を︑第..部は︑豊臣家家

老片桐ほ.兀の動向から秀占死後の政治状況を検討した︒とくに第..部では︑秀㍑政治を意識L︑ヒに家康政治の実

態を解明する﹁法をとった.︑秀㍑死後の家康政治については︑全.面的な秀吉政治の継.本と見るか︑むしろ.否定され

た点を弔視するのかは人ノ後も充分な議論が必要である︒太−書は全面的な継.承の立場から︑家康による覇権掌握を軸

し一し︑家康と人名領﹂階級のじ従関係に注目した︒家康が豊臣方の且元を起用したのも︑秀㍑以来の武家ド従制を

継続するためであり︑自己のL従関係に諸大名を編成するつもりであった︒秀−︐日政治を継.本する.方︑家康は東ア

シア川界の動向に対−心L︑軍事的な緊張関係に満ちた秀吉政治を不日定しなければならなかった︒第..部に︑対外関

(19)

  係の論考を含めたのはこうした川由からである︒

   秀㍑.死後︑多方.血から公儀論が噴出して混迷したイデオロギー状態に陥る︵藤片湶治.L川紀の11本−武家の国家の

  形成  パ岩波講座11本.迎史○岩波川店︑.九九四年︶が︑これなども脆弱な家康政治を象徴するものである︒秀㍑政権か

  ら徳川政権への転換期に注日した本書では︑脆弱な家康政治の実態を指摘することではなく︑秀㍑政治によって軍

  事的集権の体制が創出された意味を考えたところに真意がある︒秀吉権力の集権性を軍事.血から追求した結果になっ

  たが︑少なくとも秀占政治と家康政治を比較することか本書のn的ではないことを確認しておきたい︒政権運営の

  ための奉行人登用をはじめ︑最終的には海外派兵の論理形成や天皇勢力の包摂など︑すべて秀占政権の.卜︑軍事的

  集権性の高い国家権力の枠組みが創出された︒列島の﹁︑平和﹂の論理を標傍したことから惣無事とも称された

  この国家権力の枠組みは︑東アジア世界の変動や朝鮮出丘ハの失敗から︑家康政治の実態の中で是.止された点もあっ

  たが︑本質の曳制的性格が変更されることはなかった︒近世的権力のあり万について︑将軍権力の専制性だけでは

  なく︑人名権力や家臣団の日律性も重視する立場を無視するつもりはないが︑将軍専制の本質があるからこそ︑あ

  らゆる列島の階級によって支持された惣無事の論理も理解できよう︒

   秀吉権力と家康権力の実態を検討しながら︑両者をまったく次.兀の違う異︑質なものと考えたことが本杜日の特徴で

  ある.︑秀吉権力を惣無事の論理を達成した極めて将軍専制の強い権力と位置付け︑秀吉政治の継承と是正の視点か

  ら家康政治の実態を理解したいからである︒秀吉死後の複雑な政治状況を有効に理解するための﹁法てもある︒近

序 世国家の核となった惣無事の論理と体制化は︑秀吉政治と家康政治の中で形成されたのである︒

(20)

方川 18

二 研究史の概観

 一九六〇年代︑山口啓二氏や佐々木潤之介氏・朝尾直弘氏らを中心として︑幕藩制国家の構造論的な視点が提起

され︑七〇〜八〇年代には幕藩制における構造論や国家論︑役論など多彩な議論が展開されるようになった︒さら

に東アジア世界論の高まりも加わり︑グローバルかつ実証的な視点から︑北鳥万次氏らの朝鮮出兵や︑加藤榮一氏

らの長崎貿易に関する独自の研究分⁝野も確立されるようになった︒封建制成㍍⁝史と地主制発生−史に関わる太閤検地

論争を意識したこともあり︑これらの議論の底流には徳川政権と先行する秀吉政権を比較する観点が強かったのも

大きな特徴である︒

 ところで七●年代に入ると︑高木昭作氏は新たな研究手法を提唱することによって︑幕藩制成立期の政治史構築

の必要性を力説した︐近世初期の政治とは︑将軍!大名ー家臣団という人間関係を通じて行われ︑最終的には領L

対人民の問題に規定されるとの認識を呈示した︒大名側の第一次史料を意図的に読み込むことの璽要性を説き︑政

権内部の政治状況を明らかにすることで︑政治史の立場から幕藩制成立期の問題点を解明していったのである︵高

木﹃日本近旧﹂国家史の研究﹈岩波書店 ︑ 二几九〇年・︶︒

 八〇年代︑山本博文氏は︑秀吉期から寛永前期までの各政権において︑その中枢が政治機構として成立していな

いとの見地から︑巧妙な史料の読み込みを行ったが︑氏も高木氏の新たな研究r法に影響を受けた.人である︒山

本氏は︑秀占政冶史と初期幕政史を連続的に見通したヒで︑政治史的な寛永期の位置付けを行ったへ同苫﹃幕藩制の

成ぴと近川の国制﹄校倉酵房︑︐九九〇年︶が︑ほぼ同時期︑良質の大名−史料に恵まれた寛永期を中心とし︑藤井譲冶氏

(21)

呂. 19

の﹃江.戸幕府老中制形成過程の研究﹂︵校倉書.房︑一九九〇年︶も出された︒さらに福川下鶴﹃幕藩制的秩序と御家騒動﹄

︵校倉書︑房︑.九九九年︶や︑小池進﹃江戸幕府直 轄軍団の形成﹂︵吉川弘文館︑..◎D∩年︶など続々と意欲的な研究が生み

出されてきたのである︑

 .方︑五●年代の安良城盛昭氏ら太閤検地論争から端を発した秀吉政権論ではあったが︑六〇年代には︑山口啓

..氏・朝尾直弘氏・渡辺信夫氏をはじめ︑岩沢懸彦氏や...鬼清一郎氏も加わり︑豊臣蔵人地研究を核とした実証的

な議論が進めれた︒こうした研究潮流を見91に整理したのが朝尾直弘氏の﹁豊臣政権論﹂︵﹃岩波講座日本歴史﹄近担1︑

.九六四年︶である︒九州の豊臣蔵入地を素材とした森山恒雄氏の﹃豊.臣氏九州蔵人地の研究﹄︵㍑川弘文館︑.九八..︑年︶

もヒ梓され︑ここで秀吉政権論に朝鮮出兵の視点が必須なものとなったのは注目に値する︒当時の東アジア論の高

まりなど無視できない.要素もあるが︑太閤検地論争の延長としての幕藩制国家論や構造論だけてはなく︑豊臣蔵人

地を軸とする社会経済史的な研究の中からも︑こうした視点が51出されていたのである︒

 さらに森山氏の成果を深化させたのか︑中野等氏の﹃豊.臣政権の対外侵略と太閤検地﹄︵校倉書房︑.九九六年︶であ

る︒太閤検地の全国的な施行と︑朝鮮出兵への総力投入が秀吉政権の一貫した政策であったことをじ張したが︑秀

ヒロ︵太閤︶権力と秀次︵関白︶権力は並立したものではないとの立⁝場から︑従来のいわゆる...兀論を完全に.否定した︒

秀次11件以後︑再び秀吉権力の一元的な政治体制が創出されることの意味を追求したのである︒朝鮮出兵の戦況悪

化︵講和・休戦期︶の中︑国内には秀吉権力を揺さぶる独自の関自政権形成の状況が見られたことを秀次抹殺の理由

とし︑事件後の暴力武装集団化する政権のあり方を明示した︒国内の政治状況と朝鮮出兵の戦況を直視した見解で

ある︐朝鮮再出兵の基盤整備として九州の文禄検地が実施されたのではなく︑当初の朝鮮出兵の失敗が︑その後に

おける秀吉の諸政策に大きな影響を与えたことを主張するなど︑第一次・第︑︑次の朝鮮出兵において︑国内的な関

(22)

☆口・ わりの質的な違いを明らかにしたものである.︑戦時体制の下での秀吉政治史を意欲的に素描したものと.評価できよう.. 近年の戦国史61究や信長研究からも︑中野氏と同様の論点が出されている︒近世国家の公儀論とは距離を置きな

がら︑戦国時代固有の公儀論に挑んだのは久保健一郎氏の﹃戦国大名と公儀﹄侵倉書・房︑.︐◎.\.年︶である︒領民を

含むことによって大名領主層の戦争は公儀として形成されるようになったとの認識から︑戦争の視点をもって裁判

権など戦国人名領国の.公共機能を論じている︒臨戦的な体制の構築過程こそが︑戦国人名の公権形成の本質である

とする..日本列鳥での統一国家形成の契機を戦国時代に求めたものであるが︑このほか︑武家官位をはじめ朝廷内

部の検討から︑包括的な織豊期のE権論を展開する堀新氏の﹁織豊期.﹂権論﹂ご︑人民の歴史μ.−﹄第.四五り︑︐.︑い●︑一缶︶

からも︑極度の軍/1的な制圧なしには近世的な.L権が成り立たないとの見解が提唱されている︒久保氏と同様︑近

世国家の形成を見据えながら︑総合的な.信.長権力の位置付けを行ったものである︒近住−のこうした戦国史研究から

も︑改めて秀吉の軍事的集権の重要性が指摘されている︒

 信︑長や秀吉の出現は軍事的カリスマを生み出し︑彼らの国内統一事業が人名領k層から民衆レベルに.至るまで

「.

A平和﹂国家の創出を列55全体に渇望させたが︑ 一方でこうした軍事的なレベルでの﹁国民︵結集は︑変動しつつ

ある東アジア川界への侵攻エネルギーを支える.要因にもなったことを見逃してはならない︒こうした達成点が秀㍑

の朝鮮出兵を列島全体が支え︑その失敗や挫折が家康権力の実態を経て︑さらに﹁鎖国﹂という徳川政権の対外関

係の枠組みを形成することになった.︒かつて藤木久志氏の﹃豊臣.平和へuと戦国社会㌧東京人㍗出版公︑.九八力年︶や︑

・同木昭伯氏の前掲評て提.小された惣無事論は︑近年ようやく本格的に議論されるようになってきたと.︑︐.日える︒但し

秀占政治て創出された︑平和﹂に対し︑徳川政権は反戦・非戦の思想で国家運営を行ったのか︑あるいは秀占以来

(23)

の臨戦的な本︐11を有Lていたのかは充分な議論が必要であろう︑秀㍑段階の強烈な戦時体制のあり方は︑東アシア

川界の状況から対外関係のLで人きな振幅を見せることがあっても︑その後の徳川政栢に人きな影を落としていた

ことは川違いなかろう.

 なお本書ては︑秀㍑政櫓や秀㍑政治という語句を多用し︑あえて暇臣政権とはしていない︒朝鮮出兵の講和・休

戦期や秀次事件を契機とする専制政治体制の屯.要性を前面に押し出す意図からくるもので︑さらに国家運営のい11任

すべてが秀占という個人に収敏され︑それらか奉行人を介して現実の社会に対応していたことを明らかにしたかっ

たからである︒また︑政権の直轄領である豊.臣蔵入地は︑研究史的にも﹁公儀御料㌧国家運営地︶の性格を有する

ものと周知されていると判断し︑豊臣蔵入地は秀㍑蔵入地とはしなかった︒幕領の語句も︑本来ならは徳川領︵あ

るいは家康領︶とすべきかもしれないが︑理A︐心上は徳川傾も︐公儀御料﹂の論理によって拡大していったと考えてい

るので︑あえて厳密に後世の幕領と︑区別しなかったことを付記する..

各論の位置付け

以ド︑各論の位置付けを記し︑本書の概略を述べることにする︒

vt. f十1

 第一部 秀吉政権期の奉行人の動向

 浅野長吉を中心とした奉行人の動きに焦点をしぼり︑秀吉政治の実態を追求したのが第︐部である︒小田原合戦

以降の国内統︐戦争をはじめ︑朝鮮出兵での検証を行った︒とくに講和・休戦期の地域支配の強化.血に注11し︑朝

(24)

22

f

鮮出兵を国内問題として理解するような手法で臨んだ.︑

 第︸章一秀占政権の東国侵攻一は︑いわゆる小田原合戦を素材とし︑南関東地方の北条方支城を攻撃した浅野.長

占の動向に着目した.︑小田原合戦以降︑拡大する戦場を仕切る奉行人の必.要性を模索したものである.︑具体的には

秀占禁制発給の背景の奉行人の存在などを検討したが︑同時に奉行人の動きを追求することによって︑新たな東国

社会の地域像を提︑小できたかとも思われる︒.関東地方をはじめ各地域の戦国大名研究の深化とともに︑その地域に

おける秀吉や奉行人による発給文書の重︑要性を提唱したつもりである.︑

 第︑.章一︸豊臣蔵入地支配の形成﹂は︑七︵︐︶〜八〇年代の森山恒雄氏による豊臣蔵入地研究や︑安藤︑止人氏の幕領

研究の影響を受けた.︑一公儀御料﹂として形成された豊臣蔵入地の性格にこだわったもので︑現在でもこのような

視点は亟.要てある.︑第.︐部でも検証するように︑家康権力の実態を明らかにするためでもあった︒家康は︑関ヶ原

の戦後︑その権−刀を確立するにあたり︑近江・.︑.河・信濃など全国各地に人久保︑長安配ドの代官を配置した︒︑長安

は広域的支配を実現させたが︑秀占政治でもこうした代官・配置があったとの見込みを持った︒秀㍑や家康の政治で

は︑政権−内部に政治機構らしきものが形成︵あるいは必要と︶されなかったが︑まず各地の代官の動向を追求してい

くことが︑その政権内部の政治運営のあり方を考察するためには有効と考えたからである︑五奉行︑あるいは国奉

行という概人︐心にん化されす︑当該期の政治状況に配慮した史料読みを行いたかったのである.

 政権の実務を担当する﹁中央一の奉行人と︑各地での代官との間には︑何らかの関係が生じるはずで︑代官の動

向を抜きにしては実態が見えてこない︑それほど有効な在地史料が多くはない秀㍑期では︑こうした芝配側の文潜

分析が有効と考えた︑.この﹁法は林基氏の仕事を意識したつもりで︑長占やその家臣ら︑さらに長㍑と関係のあっ

た山中長俊の足跡をたとりながら︑.拓田...成や浅野︑長占ら奉行人による豊臣蔵人地支配の実態を明らかにした︒包

(25)

21 r「

括的な浅野︑長占の研究であるが︑その市要性を見出す契機となったものである︒

 第...章﹁秀占政権と御鷹場﹂は︑秀吉か自らの鷹場を形成しつつあったことを︑第.次史料から川らかにしたも

のである︑.旧稿の発表後︑多くの方々による新しい研究成果が続々と出され︑その成果を含めて全面的に改稿する

ことも考えたが︑拙稿に対する批判に答えることを優先し︑基本的には旧稿のままとして︑修.止しなければならな

い部分は修.止を加えた︑一つの秀吉朱印状や添状にこだわりながら︑秀☆の鷹献Lによる人名統制や︑畿内や周辺

の御鷹場設定についての問題を考察し︑御鷹場の設置を通して政権の集権性を考えた︒これらの政策は徳川将軍権

力と比較するよりも︑朝鮮出兵の講和・休戦期に行われたことの意味を考える方が電.要と思われる︒第四章に通す

るものてあり︑御鷹場の設定は︑文禄年間における総力戦の体制形成の問題として考えるべきである︒政権の軍事

的集権性を問うことから︑それが近世国家権力による国上支配権に通ずるものである︒

 第四章﹁秀吉政権の東川支配﹂は︑第一章や第︐.章を受けて︑東国における浅野長㍑の動向に焦点をしぼったも

のである.長占の田−斐移封は︑政権の東国鉱山支配を︸段と進展させるものであり︑ここに講和・休戦期における

東国の実態を見ることができる︒北島.力次氏らの精力的な研究から︑東アジア川界の中で秀㍑の朝鮮出丘ハを議論で

きるようになったが︑本章では逆に国内の地域支配の問題として秀吉の朝鮮出1王ハを考えてみた︒文禄検地や伏見城

普請の研究を軍事的に緊迫した社会⁝問.題として考えたつもりである︒国内紛争を終rさせた﹁惣無事﹂の論理は︑

さらに緊迫した対外侵略戦争の中で醸成され︑列島の全階級が軍事国家を支える論理となったのである︒対外関係

史のヒからも︑秀吉以来の国家が戦時体制による専制国家として形成されたことが重要なのである︒暴力的な枠組

みが剥き出しとなった軍事国家が︑あらゆる面での国家支配の強化を図りながら︑慶.長の再出兵に突人したことを

強調したかったのである.

(26)

「z t「」ヤ 24

 第五章﹁秀吉政権の交通支配﹂では︑九州の陣から小田原合戦・奥羽仕置までの国−内統一戦争を.連の政治過程

として捉え︑その延長ヒに朝鮮出兵の戦時体制を見通した..軍事に関する物資輸送など︑政権による交通支配の事

例から︑それに関わった奉行人たちの動向を検討した.︒残存する史料の関係から︑講和・休戦期の壱岐・対馬の状

況を対象としたが︑大規模な軍事体制が創出される過程から︑政権による交通支配がなされたことを強調した︒

 第六章﹁朝鮮出丘ハと国内支・配体制の実態﹂は︑当初から.長期的な戦争として朝鮮出兵を考えていなかったことを

検討したものである︒あらゆることを想定して︑用意周到な戦争体制の.トで海外派兵は行われたものではないこと

を.小唆した.︑惣無事の論理から中国との貿易を独占することを優先L︑明との貿易を再開することを人義名分とし

た出兵であったのてある..中国との貿易独占は列島の武家政権としては国是であり︑政権の優位性を実質的に獲得

できるものであった︑ところが朝鮮での戦闘が長期化した時点で︑朝鮮出兵の人義名分は消失し︑その戦争体制も

戦況に応じたものにせさるを得なかった︑ここに侵略戦争の本質が顕在化し︑国内問題として総力戦の体制が強い

られた︑.対外的にも軍事国家としての体制ができヒがるのである.︑

 第七章﹁朝鮮出兵の撤兵指令一は︑第..部で明らかにする家康権力の実態との関連にこだわったものである︒秀

占死後︑いわゆる五−入老・五奉行にょる合議の政治運営がなされたか︑とくに秀㍑政治と同様︑五奉行による連署

状が機能していたことに拍目した なお戦争の︑長期化に伴い︑講和・休戦期を中心に︑円出兵に向けて列島全体の

戦時体制の拠点として形成された筑前の博多・名島についても.川検討した.︑秀㍑.死後も︑秀占政治を継承しなけれ

は︑関ヶ原の戦に勝利しても︑家康は政治運営ができないことを小唆﹂たつもりである.

第二部 徳川政権形成期の奉行人の動向

(27)

2「 ∫・

 第..部は︑片桐ほ兀を中心とし︑関ヶ原の戦後の家康権力の実態を把握﹇ようとしたものてある︒.秀占政治が創

出した国家権力的な枠組みか容易に崩壊しなかったことを検.証したつもりである.関ヶ原の戦に勝利Lても︑家康

のぴ場は.κ人老の延.長でLかな・\秀占政治も継続した︑︑煩雑となるのを避けて︑秀占政治の後継者である家康権

−刀の形成過程を柚にLたか︑第.部の成果を括かすためにも︑なるへく関ヶ原の戦だけに影響されずに︑先行する

秀㍑政治と比較することを配慮し︑より客観的な視野から関ヶ原の戦後の政治史の実態を描き出小よう努めた.な

お第六章・第し章は︑近川国家の形成という点を明らかにするため︑対外関係史も視野に入れたものである.

 第.章﹁慶長四年の徳川家康と片桐且.兀にでは︑秀−︐口の遺....日て豊臣秀頼の家老となった片桐ほ.兀の姿を復.九する

ために︑家譜的な基礎史料から読み込んだ︑国奉行制論にこだわらなかったのは︑ほ.兀の仁ゾ場をより客観的に考え

る視点を持つためである.家康については︑ほ︑兀との関係たけではな/\悟臣家や︑㍑奉行との関係など︑関ヶ.原の

戦に.至る家康の微妙な立場を考慮しながら考察した︒家康とH︑兀の関係において︑背景となった浅利事件における

浅野.長吉や前田利家の白.場など︑対象とした史料の内容がかなり深いものであると感じた︒さらに様々な暇臣奉行

人の分析も必.要と思われ︑人︐後に残した課題は多い︒

 第二章一関ヶ原の戦後の片桐札.兀﹂は︑家康主導の知行宛行を検討することで︑家康権力の脆弱性を指摘すると

ともに︑当該期の日.兀の存在を見出した︒さらに且元の関㌦した旧豊臣蔵入地支配の状況から︑家康権力の実態の

一端をも明らかにした..拙著﹃人物叢書・片桐且.兀﹄の要約にすきないきらいもある︒日.兀の存在とともに︑家康

を取り巻いた政治状況を明らかにしたつもりである︑︒

 第一..章﹁慶長期の幕領支配﹂は︑関ヶ原の戦後︑ぱ.兀の行動を明らかにするための基礎的な作業てある.当該期︑

家康は積極的に幕領支配とその拡大を図ったが︑ここでの且.兀の姿を追求した︒家康は︑臼らの権力の.止統性をL

(28)

26

j

張するため︑城郭普請や人河川工事などの公共事業を通じて︑秀吉恩顧の人名との主従関係を編成するとともに︑

公共事業の扶持米供給地として支配領域を拡大させた.︑こうした中で家康はその権力を確伊.するにあたり︑大久保

長安を重用し︑長安配.トの代官を近江・=.河・信濃の各地に配置した..第一部第...章と同様︑各地の代官の動向を

追求することが︑その政権内部の政治運営のあり方を考察するのに有効と考えたからである︑こうLた面を家康権

力の脆弱性と評価するがらこそ︑豊臣秀頼や且元の置かれた立場も明らかになるのである.︑秀占権力と家康権力を

同質視し︑近世公儀の形成過程と捉える理ム︐心的な視点では︑関ヶ原の戦後における各地の実態的な状況は見えてこ

ないはずである..

 第四章﹁﹃豊臣体制﹄の解体一.は︑家康の政権掌握過程において︑且︑兀の置かれた立場を積.極的に検証する方法

をとった.豊臣方の権力と家康権力が︑同次元でほぼ並行して機能しているかのような印象を㌦えたかもしれない

が︑笠谷和比占氏が提唱する﹁二項公儀論﹂の立場をとったつもりはまったくない︒家康権力の脆弱性を象徴する

ように︑関ヶ原の戦後の公儀論には︑不安定な要素が多いことが指摘される︒本章は︑高木昭作氏の提唱する徳川方

の国奉行たけでは説明できない且元の立場を説明しただけである︒家康権力の脆弱性を指摘するためには︑.不安定

な公儀論を理人︐心的に議論するよりも︑秀吉政治の実態を考えることにLた︒このような論旨を明確にするため秀頼

領の動向たけに焦点を合わせたので︑川稿を大幅に修正する結果になったことを付記する.︒

 第︑汽章﹁︑京都万広与鐘鋳の鋳物師動員一は︑ほ︑兀発給文書の分析から︑著名な京都方広﹂の錨鋳をめぐる問題を

考察した︑︐関ヶ原の戦後︑家康権力が安定・拡大する中︑豊臣氏の家老ほ.兀は各地の鋳物師を召集し︑京都方広寺

の−人仏殿鐘鋳という国家的事業を行った︒畿−内を中・心とし︑各地の与社造営や文化財の修復などは︑その多くが日

兀を介して行われたか︑さらにその職人編成なども極めて.画期的なものが見られる.しかし︑ここでは事実の復.兀

(29)

だけにととめた︒

 第六章家康三秀忠外交とバハン禁令﹂は︑秀㍑死後︑家康が﹁バハン︵海賊行為︶﹂の禁ヘリを︐力大老連署状の形

式で出した意昧を考察Lた︑秀㍑の侵略戦争失敗後︑周辺諸国・諸地域に⊃平和﹂外交を標傍せざるを得ない状況

となった家康は︑外交戦略の.つとLて島津氏に明出ロハを.小唆した︒ところが家康外交の真意を見抜いた島津氏は︑

日実を設けて琉球.L国を侵攻・併合してしまい︑逆に琉球支配を介した中国貿易を徳川氏に容認させた︒こうLた

歴史事実がその後も積み噴ねられ︑徳川氏による長崎川と︑島津氏による琉球川に分かれ︑﹁鎖国一体制の中でも

・列島と中国の貿易関係は継続したのである︒

 第﹂章二近川川家の形成と対外政策﹂は︑﹁バハン禁令﹂を﹁キリシタン禁令﹂に切り替えて︑徳川政権が.長崎

貿易を独占した意昧を叙迩した.秀吉以来の﹁海賊ニハン︶禁令﹂をもって︑徳川政権は中国との貿易を独占した

が︑西洋諸国の進出・脅威が11L立ってくると︑﹁バハン禁令﹂や.キリシタン禁令Lを使い分けながら︑人名貿易

を規制するようになった..中央権力を維持させる必.要から︑徳川政権は長崎貿易の集中管理の体制を整えたが︑そ

の形成では琉球日以外︑対坊川・松前川も誕生させる経緯もあった.・これらは単に個々の地域での歴史的な事情に

よるもので︑徳川政権は.長崎貿易を集中管理するため︑これらの多様な形ての貿易を容認するしかなかった︒但し

朝鮮や琉球国との﹁外交権一だけは徳川氏か掌握したのである︒

 終章は︑拙著﹃人物叢書∴h桐目.兀﹇三㍑川弘文館︑︑.︹.一・二年︶の執筆後︑川想風に述へた﹁豊臣奉行衆と片桐日.兀

の動きについて﹂を人幅に改稿したものである︒とくに秀吉権力と家康権力の違いについて述へており︑本書のま

とめとしたものである︐

(30)

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 最後に本書のもとになった既発表論文を発表順に挙げ︑本書の構成との関係を.小すことに寸る.︑本書収録にあたっ

ては︑重複部・分をできるたけ削除するよう試みたが︑それでも論旨の展開ヒ避けられなかった部.分がある︒また新

たに史料や論点を加えるなど︑大幅に加筆・削除したものもあり︑かつ各節の配列を.再構成するなど原型をとどめ

ていないものもある.︑とくに第一部第.力.章と第七章は︑左の.ごと・︑3論文でも多少.触れてはいるが︑人幅に勺容を書

き換えたのでほとんど新稿といってよいものである.︑また引用した史料の傍点・カッコ・箇条書きのLの条数を.小

すら数字なとは︑すべて筆者によるものであることを断っておく.︒

(31)

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ぱ−秀㍑政権による東川支配の析川二人野瑞男編㌦史料 ㌧語る日本の近川﹄

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セ.b奉行衆と片桐日..几の動きについてL︵占川弘文館編h.本郷﹂第H﹁!.ノ︑

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(32)

第 部

秀吉政権期の奉行人の動向

(33)

第一章 秀吉政権の東国侵攻

はじめに

:第・1?・ 秀、|1卍(楡し『)E東[司Q」Y〈

 秀吉の小田原合戦や奥羽仕置に関する研究は少なくないが︑豊臣軍がどのようにして関東からさらに奥羽へ侵攻

していったのかは必ずしも明らかではない︒

 近年︑秀吉政権の政治機構に関する再検討がなされ︑個々の奉行人研究に対する重要性も指摘されている︒とく

に東国に多くの足跡を残した浅野長吉や増田長盛に関する基礎的な研究は必須と思われるが︑こうした研究が必ず

しも多いとは....口えない︵︑

 そこで本章では︑秀㍑政権による東国侵攻の関係史料を再検討しながら︑近⁝世初期の関東地方における新たな地

域的状況の一端を明らかにしたいと思う︒

(34)

第.部 秀 li政権期の奉行ノ、の動向 34

第一節 小田原への侵攻

1

秀吉による指令

 天正十八年︑秀吉による小田原侵攻の準備が着々と進められた︒まず駿河の徳川家康を先陣とし︑織田信雄・豊

臣秀次・蒲生氏郷・浅野長吉らが東海道を東ヒした︒北陸のヒ杉景勝・前田利家や信濃の肖へ田昌幸らは︑東山道よ

り関東に出て︑北条氏の背後をつくことになった︒九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治・長パ示我部.兀親らは水軍を編成

し︑海ヒから小田原を攻撃した︒秀吉が京都を出発したのは...月朔日のことで︑総員..卜︐︑︑︑万もの人ボを小田

原侵攻に投入したとされる︒小田原侵攻に関するこうした事実経過については︑これまで多くの研究や叙述にまか

せ︑まずは本節の論点を見出す意味から︑いくつかの文書を検討してみよう︒

 天正ト八年四月..日︑家康・秀次らの先鋒隊は小田原近郊に到着し︑六日には秀㍑が本陣を箱根湯本の早雲寺に

構えるなど︑いよいよ小田原城の攻囲戦が開始された︒同月十.日︑秀占は貞田氏へ次のように指へ口を出Lた︒

  ⁚史料1﹈

  去四日書状︑今日卜︐︑於小川原面到来︑披見候︑乃此表事︑先笹リ一如被仰遣候︑山中城専二相折︑丈人二令      へびほみぐな   覚拍︑人数四五r﹁入置候処︑去︐.︐月け九日中納...ロニ被仰付候ヘハ︑責崩悉捕之︑則致付人︑小田原..町...町之

  間二取巻︑堀を掘︑塀柵を相付︑..市...市二取籠︑諸卒番所・陣屋無透問︑町作二被仰付候︑海﹂之儀者︑警

(35)

第・亭 秀㍑政権の東国侵攻

35

  固船数千艘浮置之︑誠鳥之通も無之付.而︑以外城中無.止体︑去八日夜も︑ド野国皆川山城守侍以ド百余引具走

  人︑命を相助候様にと︑御佗...口申ヒ候︑これハ先年御馬・太刀をも被納候者之儀候問︑無是非被成御助候︑即

  家康へ被遣之候︑此以後ハ︑縦北条刎首候て持来候共︑一人も御助有ましきと被思食候︑関東八州之物ド共︑

  不残相籠候間︑小川原一城二て︑関東一篇二被討果計候︑落去難.不可有程候︑.長陣なされ︑城内之奴原悉.卜殺      トいりいお ぽけりが  二被仰付︑出羽・奥州・11の本果迄も被相改︑御仕置等堅可被仰付候︑就中其面事︑景勝・利家令相談︑無      ニじロ  えモ  由断可相動事︑肝要候︑尚︑石田治部少輔可申候也︑

     卯月十一日 秀㍑︵朱印︶

      真田安.房守とのヘ

       プロ グほピきオ       同源.二郎とのへ

 史料1によると︑秀吉は︑包小田原城を︑.︑町..︑町にわたり取り巻き︑堀や塀を︐︑市..︐市に設け︑海上には兵船

数﹁艘を浮かべ敵を一人も逃さないようにした︒さらに関東の諸大名はほとんど小田原城に籠っているから.卜殺す

るようにし︑2小田原城に籠る諸大名のうちで︑四月八日に︐卜野の皆川広照らが城内から出て降伏したか︑彼らは

従来の誼から助命して家康のドへ遣わした︒③今後は﹁出羽・奥州︑日の本果迄﹂侵攻し﹁御仕置﹂を行うので︑

とくに信濃方.面のことはヒ杉景勝や前田利家と相談して油断なくせよ︑の二.点を真田氏に指.小した︒このような秀

吉の指示は各将へも出されており︑例えば四月ト八日付て相良氏に出されたものぱ︑①や②はほぼ同文てあるが︑

⑥はとくに指示されていない︒秀占の指令を整理すると︑秀吉は各将に対し︑小田原城への攻撃態勢︵←︑さらに

小田原城に籠る北条方の大名に対する具体的な扱い︵②︶︑今後における東国侵攻の全体構想三︶の...点について︑

戦時体制ドの四月から五月にかけて指示したことがわかる︒

(36)

 ,層;1; タ㍉:」女櫓}剴び)4否i]ノ\σノ重力「:1 萎6

 ところで史料1や︑相良氏へ宛てたものとは幾分異なった秀吉の指示もある︒それらは︑南関東方面あるいは東

海道方面の武将に出されたもので︑1についてはほぼ同文であるが︑②や③の部分はまったく異なる.︑次にそうし

た文書を検討してみよう.︶

          ﹇史料2一

  就関東御動座︑為見舞︑鉄砲薬百斤到来︑遠路之懇志悦思食候︑抑小田原面事︑..町...町間二取巻︑堀を掘︑

  1居を築︑塀柵重々被仰付候︑海L者︑兵船数千艘浮置之︑一人も不抜出様候︑八州之物ヒ共悉籠居候間︑十      ︑11苓氏蛎㌔  殺二可被仰付候︑来月朔日鎌倉為見物可被成御出候︑彼近所二有之玉縄城︑此方へ相渡︑物じ北条左衛門人夫

  走入︑命之儀御佗..︐口申候間︑相助︑家康へ被遣候︑即右地へ相移︑関東之城々悉請取︑此方之人数可被入置候︑

    けロロ ソえ   尚増川右衛門尉可申候也︑

     卯月ぽ..日秀占采巴

       ︵宛所なL︶

 史料2は宛所を欠いているが︑﹃島津家文書﹄﹃薩藩旧記雑録後編﹂に収録されており︑島津氏に出されたものと

思われる.さて史料2の前半部分は︑史料1の①とほとんど変わらないが︑史料1での②や③の部分がまったく見

当たらない.その代わりとして︑一来月朔11鎌倉為見物可被成御出候︑彼近所二百之玉縄城︑此方へ相渡︑物じ

・し・霧北条左衛門人大走ぺ︑命之儀御佗..口川候間︑相助︑家康へ被遣候︑即・右地へ相移︑関東−∠城々悉請取︑此方之人数

吋被入置候一の文いかある.﹁来月︵灯月︶朔日﹂に﹁鎌倉見物﹂のため出陣させるから︑とくにその﹁近所﹂にあ

るード縄城 をそれまでに攻略しておけとの指示である︒そのド縄城ト北条氏勝に対する処遇については︑−史料1

の2とほほ同様て︑家康に託したことを報告した︒また︑豊臣軍を﹁右地﹂︵鎌∩やド縄城周辺︶に出撃させ︑その周

(37)

17 第▽S占政栢の東国侵」 (

 史料1のような東山道方面へ出された指.小については︑四月..十・九日︑秀占は肖べ川氏に対し︑北条氏の支城であ

る箕輪城への攻撃とその請け取り︑あるいは頷民による本冊14への還住策を指.小した︒当然のことてはあるが︑秀㍑

の指.小も︑戦況の転変とともに変わっていった︒しかしこの方面への指.小である史料1が︑北条氏支城への攻撃や

その地域への処遇であったのに対し︑南関東方面に出された史料2は︑小田原の開城後を見通した極めて貝体的な

東国侵攻に関するものであった︒さらに関連する文書をあげてみよう︒

  ﹇史料3﹂       蜘川11川.     叶駒忠川  江.P城俵物改之注文披見候︑城中掃除以ド申付︑御座所持︑E縄ニハ瀬多掃部助・生駒E殿正を置候て︑其城

    ㌧︑㌧︐瑚     ・D小力       ﹁川田川家︑  ニハ松卜.白見守・占田織部召寄吋入置候︑河越城羽柴筑前守請取候︑ 一左右次第相越︑彼城兵狼・武具等人く︐心       のゆなぼ  吋改置候︑則鉢形城へ可相動候︑不吋有由断候︑次制札事如申越百枚遣之候︑尚山中橘内吋申候也︑

     ⌒メ︑11・ぺq一     ︑五月...日 秀占呆印︶       へじ ト く       浅野弾正少弼とのへ

      木村常陸介とのへ

 天正−﹁・八年.︑︑月ニト九日︑伊豆山中城の落城とともに︑北条氏勝は居城の玉縄城に戻っていた︒.再...にわたり北

条氏から小田原籠城の誘いがあったが︑氏勝はそれを断り︑ついに四月二十一日︑豊臣方に降伏してしまう︒さら

2

南関東方面の状況

辺を拠点として関東の諸城をすべて請け取り︑占領するつもりであるとも述べた︒

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38

採》  ご扉l  d,F:tr政確}91ゾノti∫ノ\tJ)乎力ifii

に同月二十五日︑浅野や木村らは小田原を離れ︑豊臣方の分遣隊として南関東の北条氏支城攻略に向かい︑同月二

十七日に︑遠山政景の拠る江戸城を包囲し︑戦わずして降伏させた︒五月朔目には︑河越城もヒ杉・前田軍の攻撃

で開城した.︑こうした戦況の中で史料3を検討すると︑五月...日︑秀占は江.11城の兵根米確保や﹁掃除﹂を命じる

とともに︑江.11城に一御座所﹂を設置することを浅野らに命じた︐瀬多正忠・生駒忠清を相模E縄城に人れ︑江戸

城には松ド之綱・占田重然を配置することも指示した.︑後半部分では︑前田利家に河越城開城による城請け取りを

託したり︑前田自身が河越城の兵根米・武具などを調べて︑鉢形城を攻撃せよとの指示も出した︒こうした東山道

方面での戦況もふまえながら︑秀吉は︑分遣隊の総指揮官浅野.長吉らに指示したのである︒

 もう一度史料3の内容について整理してみよう.︑鎌倉周辺の侵攻後の五月初旬︑秀吉は︑江.P城に﹁御座所﹂を

設けることを構想した..さらに−史料り=の内容もへ口わせると︑豊臣軍は︑鎌倉へあるいはその﹁近所.﹂にあるじ縄城︶を

経−田した江.川城入城を考えていたようである︒事実経過としては四月..十六日のことで︑豊臣方の分遣隊が鎌倉へ

・人ったのは翌..十L日てある︑その直後︑浅野長吉らが中心となって汀戸城を接収したのである︒長年︑汀.戸湾を

挟んで北条氏と抗争を繰り返していたΨ見氏が︑豊臣方と連携しながら︑浦半島へ出兵したのもこの四月であった︒       ヘパヒその後︑川見氏と連携した豊臣方の分遣隊は.房総に侵攻し︑五月半ば過ぎまでには両総のほとんどを占領した︒つ

まり天正﹁八年五月初旬の段階︑浅野らの分遣隊の動きを通じて︑秀吉は︑江.11城周辺を拠点とした関東経営を考

えていたのてある

 このような構想を秀㍑が持ったのは︑五月初旬の段階で小田原が容易に落城できるものと判断したからであろう︒

﹂一ころがκ月中︑北条氏へ服属していた武蔵・両総の諸城はほとんど開城したにもかかわらず︑関東における戦況

は凹臣方に好転しなかった とくに武蔵の要衝である岩付城の攻略に.㍗想外に﹁間取った︒六月に人り︑小田原・

参照

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