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こうして 無明 = 無智などが条件 原因となって 苦しみが生じることを説いている 逆にいえば 無智がなくなれば 苦しみがなくなる ということでもある 無智と苦しみは相互依存であり どちらも絶対的な存在ではない ということになる もう少しわかりやすくいえば 十二支縁起は 無明 = 無智から来る自我執着

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Academic year: 2021

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第2章 縁起と空

1.さまざまな縁起の法

ここでは、前章で出てきた縁起や空の思想について、あらためて述べたいと思う。ま ず、縁起の法についてであるが、仏教の根幹ともいえる法則だが、これには、さまざま な解釈がある。 そもそもは、前に述べたように、「条件によって生起する」という意味であり、よっ て、物事は無条件には生起しない=他に依存して生起する、という意味になる。そして、 この結果として、後に述べるように、縁起の法は、「世界の事物は、すべて相互に依存 し合って存在している」という世界観に結びついていく。

2.十二支縁起の法

縁起の法の中で、最も基本的なものが、十二支縁起の法である。これは、無智から、 人の苦しみが生じるプロセスを、12 の段階に分けて示したものである。しかし、この 12 の段階の詳細は他の教本に譲り、ここでは立ち入らないことにする。 というのは、この 12 の段階のそれぞれについての解釈は、まちまちであり、必ずし も統一されていない。そもそも古代の言葉で表現され、それが漢訳されているので、わ かりにくい。よって、ここでは、十二支縁起の細部ではなく、全体の概略・趣旨だけを 理解するに留めたいと思う。 それは、無明(先ほど述べた無智とほぼ同じ)を根本原因として、人に苦しみが生じ るプロセスを述べたものである。よって、これは前章ですでに大まかには述べたことで もある。すなわち、無明=無智によって、自と他を区別する無智が生じ、その結果、自 分と他人を区別して、自分=自我に執着する。十二支縁起では、ここでの自我のことを 「名色みょうしき」と呼んでいる。仏教が説く別の言葉でいえば「五蘊」である。 そして、自我の五感と意識によって外界を体験すると、さまざまなものに愛著するが、 そうして自我に執着し、外界のさまざまなものに愛著しても、苦しみが待っている。と いうのは、自我は、老いて病んで死ぬという苦しみがあるからである。また、外界のさ まざまなものに執着しても、それを求めても、求めても得られない苦しみ、得たものを 失う苦しみ、奪い合い・敵対者の苦しみなどが生じる。これらの人の苦しみを総称して 「四苦八苦」というときがある。

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こうして、無明=無智などが条件・原因となって、苦しみが生じることを説いている。 逆にいえば、無智がなくなれば、苦しみがなくなる、ということでもある。無智と苦し みは相互依存であり、どちらも絶対的な存在ではない、ということになる。 もう少しわかりやすくいえば、十二支縁起は、無明=無智から来る自我執着などが苦 しみをもたらすことを説き、さらには、無智・自我執着をなくすことで、苦しみが滅す ることを説くものである。 私たちが幸福になる上においての十二支縁起の法の重要性とは、苦しみは、無智・自 我執着などを取り除くことで解消することができるという点であろう。

3.万物が相互依存・相互に関連(部分と全体の相互依存)

二つ目の具体的な縁起の法は、「万物が相互に依存し合って存在している」というも のである。仏教の唯識思想では「依え他た 起きしょう性」という教えがあるが、これも本質的には同 じ教えだと思われる。 これは、世界のあらゆる一部分が、世界の全体とつながっているという結論にもつな がる。このことは、華厳経などが「重々無尽の縁起」などとして説いている。 この縁起の法の理解も、十二支縁起と同様に非常に重要である。万物が相互依存、部 分と全体も相互依存であるという認識は、苦しみの原因である自と他を区別する無智を 取り除くことにつながるからである。 しかし、この縁起の法の理解は、日常の常識的な思考には、なかなかないものである。 人は、自分と他人を区別し、自分と他人の幸福を区別する。よって、他人の幸福を喜ば ずに妬み、他人の不幸には冷淡でありがちである。 また、他人の問題を見ると、自分との共通点を見て反面教師にするのではなく、他人 だけの問題だと考えて軽蔑したり、怒ったりしやすい。それと同じように、自分の問題 を見ると、皆が似た問題を抱えていると考えるよりも、自分だけが駄目かのように錯覚 して、卑屈になる場合も少なくない。 よってこの縁起の法の理解は、自と他の区別、自己の偏愛を和らげ、万物が一体であ るという理解を促すものである。

4.万物は、言葉・概念に依存して、仮に設定されただけである

縁起の法の最も深いレベルのものは、私たちの思考の対象となるすべての事物が、言 葉に依存して現れているということである。人は、言葉によって思考する。よって、そ の事物を現す言葉がなかったならば、それは私たちの意識・思考の中で、明確には捉え

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ることができない。 しかし、ここで重要なことは、たくさんの言葉はあっても、現実には、その言葉と完 全に一致するものは存在しないということである。例えば、「山」と「平地」という言 葉があるが、どこまでが山で、どこからが平地なのかは、明確ではない。「生」と「死」 という言葉があるが、どこまでが生きている状態で、どこからが死なのかは明確ではな い。 特に、「私」と「外界」・「他人」という言葉があっても、どこまで「私」で、どこか らが「私」でなく、「外界」・「他人」なのかは、明確ではない。吐いた息は、私ではな く外界であり、吸った息は外界ではなく私である。同様に、切る前の髪や爪と切った後 の髪や爪、食べる前の食事と食べた後の食事などを考えれば、「私」と「私以外のもの」 を区別することができないことはわかるだろう。 実際に、人の体を構成する分子には、誰か特定の人間のものなどなく、ある人間の体 を構成する分子は、数年ですべて外界のものと入れ替わってしまう。すなわち、私たち は、私たちだけの体などは持たず、科学的には、体を共有しているのである。 こうして、一つ前の縁起の法で見たように、万物が相互に依存し合って存在しており、 本質的には一体である。よって、さまざまな言葉があっても、その言葉に対応して、こ の世界がさまざまなものに分かれて存在しているわけではない。 言い換えると、本来は一体の世界が、言葉による思考によって、さまざまなものに分 かれて存在するように感じているだけである。現実に存在するあり方と、人が感じるあ り方が違っているということである。 この意味で、人が感じる事物は、すべて実在するものではなく、言葉によって人の意 識、思考の中に、仮に存在するにすぎないのである。これを「仮け設せ つされたもの」という。 ないしは、単に「仮け」と呼ぶことがある。

5.縁起と仮設と空

こうして、さまざまな事物は、厳密にいえば実際には存在しないのに、言葉によって 人の思考の中に仮設されているのである。そして、人の意識は、それを仮設されたもの ではなく、実在しているかのように錯覚する。 本来は、自分と他人の区別などなく、自他を含めた万物は一体であって、自分や他人 という概念は、人の思考の中に、言葉によって仮設されたにすぎない。しかし、にもか かわらず、人の意識の中では、自と他は別物であり、他とは別の自分が、確かに固定的 に存在するかのように感じられる。そして、そのように考え感じるように、育てられて きたし、自分でもそうしてきたのである。

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6.主体と客体の相互縁起:すべては心の現れ

さらに、科学的に考えれば、人が感じる世界のすべての事物は、外界に実際に存在す るものではなく、その人の五感と意識が作り出した、脳の内部の体験にすぎない。よっ て、人が違えば、同じ世界を違ったように感じる。生き物が違えば、五感や意識が大き く違うから、まるっきり違った世界に見える。 科学の目で見ると、例えば電子顕微鏡などでは、私たちの日常の空間は、分子の集合 体である。自分の体も、その周りの空気も、他人の体も、炭素や酸素や窒素でできてお り、その点は違いがない。自分と他人の体の所だけに物があるのではなく、その間の空 間にも同じ種類の分子がある。その分子は、自分と他人の体の中を出たり入ったりして おり、誰か特定の体だけの分子などはない。こうして、電子顕微鏡の目には、人の目ほ どには、自と他の区別が強く認識されていない。 さらに、分子や原子の内部構造を見ると、それは、ほとんど空っぽということもでき る。原子の中心の原子核とその周りを回る電子は、原子全体の大きさに比べて非常に小 さい。太陽と地球に比べると、両者の間の宇宙空間が、圧倒的に広大であることとよく 似ている。だから、エックス線・レントゲンは、体を透過することができる。 こうして、この世界は、見る側の感覚器官・観測手段を決めない限りは、どのような 世界として現れるかが、決められないのである。見る側の数だけ、世界の現れ方がある。 言い方を変えれば、見る側とは関係なく常に存在するものがあるかと問われても、それ には答えることはできない。 そもそも「世界」とか、「現実」とか、「存在するもの」という概念自体が、見る者を 決めた上で、その見る者の意識・脳に生じる現象だからである。生きものの数だけ存在 するのである。一人に一つの宇宙が現れている。 一方、外界・世界には、(見る側と関係なく)実際には一体何があるのかと問われて も、確かにこれがある、ということはできない。よって、実体がない=空である、とい うことになる。それを見る生きものが決まらなければ、何があるかは決まらない。 そもそも、人が「外界」と呼んでいるのは、「外界」という名前がついた脳の内部の 体験・現象である。「外界」と呼ばれる「内界」の体験なのである。私たちが「目の前」 にあると思っている世界は、実は、目の前ではなく、「目の奥」の脳の内部体験である。 これは、夜の夢で、昼に見ている現実とまったく同じようなリアルな体験をすること からも理解できる。昼の現実の体験も、夜の夢と同じように、脳の内部の体験である。 だからこそ、昼の体験と似たような体験が、夜の夢の中でも可能なのである。目を閉じ て眠っていても、夢の中では目を開けているかのような体験をする。これは、目を開け て昼に体験することも、夜の夢の中の体験も、脳の内部体験だからである。 こうして、「現実」とは、その生きものの五感と意識が、すなわち脳機能が作り出す

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ものである。これを仏教では、すべては心の現れ、ということがある。すべては、心の 現れであり、人によって(=心によって)、違った世界が現れるから、この世界のすべ てには、実体がない=空であるという思想が生まれるのである。 そして、最も重要なことに、体験する世界がすべて心の現れであるならば、心の持ち 方を変えることで、体験する・感じる世界が大きく変わるということである。これは、 心の持ち方によって、苦しみを喜びに変えることができることを示している。

7.縁起と空のまとめ

ここまで述べてきた縁起と空の思想をまとめてみると、苦しみは、無智・自我執着に よって生じている。それゆえに、苦しみは、無智・自我執着を取り除くことで解消する。 その意味で、苦しみにも固定した実体はない。 次に、自分と他人、他人と他人を含めて、万物は実際には一体である。両者は別のも のではなく、すべてが相互依存でつながっている。そして、両者を含めた万物は、固定 的なものではなく、すべてが変化している。しかし、現実には、言葉による思考のため に、日常の私たちは、さまざまな別々のものがあって、それぞれが固定的な実体を持っ ているかのように錯覚している。自分と他人を区別し、両者を固定的に見て、自分を偏 愛し、好きなものや嫌いなものが生じている。 最後に、「世界」・「外界」と呼んでいるものは、その生きものの五感・意識が作り出 すもので、脳の内部体験である。その意味で、すべては心の現れで実体はない。そして、 心を変えることによって、体験する世界、苦しみ・喜びが変わってくる。

参照

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