• 検索結果がありません。

女性教育家の女子職業教育論 : 女性と産業の教育関係史 ; 第2報

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "女性教育家の女子職業教育論 : 女性と産業の教育関係史 ; 第2報"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)69. 女性教育家 の女子職業教育論 一一 女性 と産業 の教育関係史. 三 は. 好. 信 め. 第 2報 ――. 浩 に. 女性 と産業 の教育関係史 と銘打 った本研究 のねらいは,前 稿 において記 し たので ここで繰 り返す ことは しないJ。 前稿 の考察 の 中で,当 面解決 したい と思 う 3つ の課題が浮かび出た。その第 1は ,女 子 の産業教育 に携わった女 性 の教育家 たちは,何 を考 え何 を実践 したか, とい う課題 であって,本 稿 は さしあた りそれに回答 を出 してみたい と思 う。 前稿 と同 じように 3人 の代表的人物 を登場 させ ることにす るが,そ の人選 は容易 ではない。明治維新後 の早 い時期 には,富 岡製糸場 とか京都 の女紅場 などに雇われた外国人女性教師がい るし,教 育職や医療 ・看護職 の ように比 較的早 くか ら女性 にも門戸 の開放 された専門職 の分野 では女性教育家が活躍 した。 しか し,農 業 ・工業 ・商業 の産業分野 となると,男 性中心 の職業領域 とされたため,女 性教育家 の入 り込む隙間は小 さくなる。せいぜ い女学校教 育 の中に,産 業 に関する学術技芸 を取 り入れ,女 子へ の部分的 ・限定的な職 業準備教育 をな した人物 をもってその代表者 とす るしかない。 この制約 された条件 を前提 にして 3人 の人物 を挙げるとすれば,生 年順 に みて,実 践女学校 ・女子工芸学校 の創設者下 田歌子 ,共 立女子職業学校 の発 起人のひと りでのちに校長 を務 めた鳩山春子 , 日本最初 の女子商業学校 を創 立 した嘉悦 孝子 に落ちつ くで あ ろ う。以下 に順 を追 って考察 を進めてみた い。.

(2) 女性教育家の女子職業教育論. 70. 1。. (1)女. 下 田歌 子. 子教育界 の 才華. 下 田歌 子 (1854∼ 1936)に は,彼 女 が 精魂込 めて創 り上 げた実践女子学 園 内 に設 け られ た伝記編纂 所 が 6年 の 歳 月 をか けて ま とめ た詳 細 な伝 記 が あ る2。 また ,同 学 園 の 60年 史 には,序 章 として 「創立者下 田歌子先生 」 が あ. 3,80年 史 には. り. ,第 1章 と して 「学 園前 史」 と して下 田 の伝記 を載 せ て い. る4。 下 田は,美 濃 国 (岐 阜県 )の 松平藩士 の長女 に生 まれ ,幼 名 を平尾銘 と呼 んだ。祖父琴台 は幕末 の儒者 と して,ま た勤王家 と して有名であ る。父 もま た藩内 におけ る討幕派 の リー ダーで あ ったため 3度 も幽 閉 の憂 き目に遭 い. ,. 生 活 は困窮 して い た。少女時代 の彼女 は夜 なべ の手繰 りをす るな ど して家計 を助 けた。維新 後 ,祖 父 も父 も神 祇 官 (省 )に 職 を得 た た め ,1871(明 治. 4)年 4月 ,18歳 の下 田は上京 の夢 を果 た したが ,こ こで も生活 は苦 し く ,. 団扇や扇子 の絵書 きな どを して賃銭 を稼 い だ。 下 田 の運命 を変 えたのは和歌 につい ての天 稟 の才能 が時 の皇后 (昭 憲皇太 后 )に 認 め ら,1872(明 治 5)年 に「宮 内省十五等 出仕」 の 辞令 を受 けた こ とであ る。歌子 の 名前 は皇 后 か ら賜 わ った もので あ る。そ の こ とに よ り,宮 廷 のみ な らず政 府高官 に もそ の 名 を知 られ る よ う にな った。 1879(明 治. 12). 年 ,26歳 の 時 ,下 谷警察署 の剣 道指南 下 田猛 雄 と結婚 し,下 田姓 を名乗 る よ うになるが ,夫 は病弱 で 5年 後 に死 去 した。 病気 の夫 をかか えて 一 家 の生 計 を支 えるため ,彼 女 は 1882(明 治 15)年 に,自 宅で私塾 を開 き,和 漢 の学 を教 えた。 は じめ は下 田学校 といい ,ほ ど な く桃大学校 と改 めた。下 田 の なす 『源氏物語』 の講義や作歌 の指導法が評 判 を呼 び,良 家 の令嬢や伊藤博文 ・山縣有朋 らの高官 の婦 人たちが通 う よ う になった。. 1885(明 治 18)年 ,学 習 院女子 部 が 廃止 され華 族女 学校 が 開校 す る と. ,.

(3) 三. 好. 信. 浩. 伊藤博 文 らの推薦 によって教授 兼学監 に抜擢 され ,再 び貴顕 の世界 に身 を置 くことに な った。桃大学校 の大半 の生 徒 も,下 田 とともに華族女学校 に移 っ た。 同校 の 開校 式 にお け る皇 后 の令 旨 に対 し,下 田は,「 賢母 は 国 の幸福 を 生 む」 とい う趣 旨の答辞 をな し9,賢 母 良妻 の教育 を目ざす こ とを誓 った。 ところが ,1893(明 治 26)年 か ら 2か 年 有余 の 欧米留 学 は,彼 女 の教 育 観 を大 き く展 開 させ る契機 となった。直接 の留学 目的 は皇 女教育 の あ り方 を 研 究す る こ とにあ ったため ,彼 女 は主 と して イギ リス に留 ま り,上 流社会 の 婦 人 と交際 しなが ら見 間 を広 めた。 しか し,異 邦 にあ って ,日 清戦争 を遠望 して い た彼 女 は,ア ジアにお い て 果 たす べ き日本 の役割 を痛感 し,「 国民教 い 育 の一 環 と しての女子教育 」 の あ り方 に深 く思 い を致 した 。 帰 国後 の下 田は,華 族女学校 に復職 して上層 階級 の教育 に尽力す る ととも に,1898(明 治 31)年 には,帝 国婦 人協 会 の 結成 を呼 びか け,中 流 以 下 の 女子教育 に着手 した。実践女学校 お よび女子 工 芸学校 がそれであ って,1928 (昭 和. 3)年 の 実践 女子 学 園 開校 30年 式 典 で の 講 演 で は,当 時 を回顧 し. ,. 「 や は り社会 の 中堅 となる 中等 の 人 お よび下流 の 人 を間違 い な い や う に教 育 して ,知 識 を進 め なが ら固めて い きた い と云 う考 えを起 し,い ろい ろ忙 しい 身 で三 十 一 年 に漸 くどうや ら帝 国婦 人協会 を組織 し,先 づ 第 一 に教育 門 に力 を注 ぎた い考 へ か ら三十二 年 に其 の事 業 として実践女学校 と女子 工 芸学校 を つ 建 て ま した」 とい う 。 1907(明 治 40)年 に学習 院女子部長 を辞任 しての ち の 下 田 の全 精力 は,こ の 学 園 の発 展 に注 が れ ,1936(昭 和. H)年 の死去 の. 年 まで継続 した。「実践」 を標榜 す る この学 園 には,清 国 か らの女子留 学 生 も多数 入学 した。 民 間 か ら出て栄達 を極 めた下 田であ るだけ に,社 会 の嫉妬 中傷 も多 く,学 習院長乃木希典 に辞表 を提 出 したのはそれが 一 因 で あ った とされて い る。 し か し,女 子教育界 にお け る下 田 の盛名 は,実 践女子学 園 を通 して よ り確 か な もの とな った。 1916(大 正 5)年 の 『家庭 週 報』 の 人物 評 で は,「 現代 の 婦 人 で 下 田 さんほ ど種 々評判 を立 て られた女 はない 。あ らゆる罵言説謗 は下 田 さん の 身 の まは りに蝿集 して も,下 田 さんは依然 として婦 人界 の一 角 に其 の.

(4) 72. 女性教育家の女子職業教育論. 勢力 を持 ってゐる」 と記 して い る. 8。. 下 田 の著書 ・論説 はその 数 を定 か にす る こ とがで きないほ ど多数 で あ る。 国立 国会図書館 の 明治期刊 行 図書 目録 には 52件 の 図書 が 挙 げ られ ,そ の 中 には,1885(明 治 18)年 刊 行 の 『和 文教 科 書』 (全 lo巻 )を は じめ とす る. 教科書類や 1893(明 治 26)年 刊行 の『家政学』や女子 の教養書 0教 訓書 な どが含 まれ,そ の幅 の広 さと量 の多 さは,一 世の才女ぶ りを遺憾 な く発揮 し てい る。大正期 において も執筆活動 は衰 えを見せず,1913(大 正 2)年 刊行 の 『 日本 の女性』 などがある。 雑誌記事 も,『 女鑑』 (1891年 創刊 ),『 女学世界』 (1901年 創刊 ),『 をん 『大和 なで しこ』,『 婦人界』(1902 な』(1901年 創刊 )と その後継誌『なで しこ』 年創刊 )な どに多数発表 してい る し,1899(明 治 32年 )創 刊 の帝国婦人協 会の機関誌 『日本婦人』 は彼女が会長であるだけに論説や随筆 を出 し,同 誌 が廃刊 された 19H(明 治 44)年 以 降は,『 婦人世界』が彼女 に執筆 を依頼 し て,美 談や歴史談 などを継続 して掲載 した。彼女が創立者 に加わ り,の ちに 第 5代 会長 (大 正 9年 ∼昭和 2年 在任)を 務 めた愛国婦人会の機関誌 『愛国 婦人』 (19o2年 創刊 )に も論説 は多い。. 1932(昭 和 7)年 から 1934(昭 和 9)年 にかけて,実 践女学校出版部 は. ,. 下田の代表作 を選んで 『香雪叢書』 (全 6巻 )を 刊行 した。第 1巻 は「随筆 紀行 よもぎむ ぐら」,第 2巻 は,「 歌集雪の下草」,第 3巻 は 「日本 の女性」 ,. 第 4巻 は「婦人常識訓」,第 5巻 は「家庭訓」,第 6巻 は「源氏物語講義」 で あ り,本 稿 では特 に第 4・ 5巻 が参考 になる。. (2)婦. 人の職業 と技芸. 1893(明 治 26)年 ,下 田は華族女学校 の講義録 『家政学』 を出版 し,そ の 中で婦人の最大要務 は家事内政 の整理 にあるとした。緒言 を見 ると,「 そ もそ も家事内政 を整理するは婦人生涯の本分 に して,衣 食住 の事 よ り始 めて 金銭 の出納 ,公 私 の交際,賓 客 の応接 ,子 女 の教養,婢 僕 の雇使 に至 るまで. 9,本 論 を「家事経済」 か ら説 き起 して. 皆其責務 にあ らざるはな し」 とあ り.

(5) 三. 好. 信. 73. 浩. い る。同年 ,『 婦女雑誌』に発表 した論説で も,「 凡そ女子 の為すべ き要務中 最大なる職務 は家事経済に過 ぐる者あ らず。家事経済宣 しきを得 ば,其 夫 を 助け其子 を教へ其国 を富 ませ其世 を開明するの基礎 を為す に足るべ し」 と記 してい る。。女性 の天職は家 にあるとい う考 えは,そ の後変 わることはなか った。 ところが,日 本 の中,下 層階級 の婦人 は,こ の家事経済 に対 して自らの収 入をもって補足 をする必 要があ るとい う現実 を,彼 女 は念慮 に入れた。 1898 (明 治 31)年. 10月 ,自 ら起草 した 「帝国婦人協会設立 の趣意」 では,「 賎業. 婦女子」 を問題 に し,「 其正業に務め しむべ きの女子 をして, 長へ に不正の 業 に甘んぜ しむるは,ま ことにわが国の体面 を荘厳 にし,我 国利民福 を増進 するの上 に於て一大欠点な りとい はざるを得ず」 といい,こ の時期すでに. ,. 「各種 の職工 ,電 話電信 の技手,或 る商店 の売子掛取 ,及 び看護人等 に至 る 迄 ,非 常 に女子 を使役す る必要」が生 じてい るにもかかわらず,そ の「供給 に応ずる準備」 のないことを指摘 したH)。 同協会 の実践女学校 お よび女子工 芸学校 はその準備 をなすために設けた ものである。 このころの論説 には,こ れに類す る主張 が多 い。伊lえ ば,「 下等女子 は動 もすれば国の恥 を海外 にまで曝 しにまゐ ります。何卒斯 かる者 どもを教へ て ),「 正業 に就 く事 を喜ぶ様 に致 したい」 とか″ 資力 な き父兄が,其 子女 に対 し普通の教 育終 りたる後は,勉 めて将来独立 の 自営 を全 うせ しむるの道 を教 へ ざるべ か らず。此点 よ りすれ ば,小 学教育 を終 りたる中等以下 の女子 に は,衣 食住独立 の基礎 となるべ き自営の教育 ,即 ち造花縫箔 よ り,裁 縫其他 美術的工芸 ,実 用的文学等 ,其 当人の伎価天品に応 じて之が教育法 を求めざ るべ か らず」 とい うB)。 この後者 の引用 には,「 況 んや資産あ り地位 ある家庭 の女子 に於 るをや」 とい う注 目すべ き一文が加えられてい る。独立 自営 の教育 をすべ ての女性 に 拡大す る発想 を示 してい るか らである。 1902(明 治 35)年 の著書 『女子 の つ とめ』 では,「 主婦たるに於て必 要なるべ き普通 の学科」 に加えて,「 若 し なほ余力あ らば何 にて も女子 が職 業 として相当な るべ き技芸 を学 び覚 ゆベ.

(6) 74. 女性教育家の女子職業教育論. じ」 とい うH。 富貴 の身 なれば,そ の技芸 を生か して慈善事業 をすればよい し,貧 窮 に陥 つた者 は生計 の足 しにすればよい。同年 の「女子 の実業教育」 と題する論説 では,「 女子が一 人で も自活 の路が得 られるや うになる ことは 実 に無言の間に女子 の力 を強めまして,女 子 の程度を高 めると云ふ ことに至 っては非常 なる益があると思ひますか ら,私 はどうぞ理論 よりも先づ女子 の 実力 を養 ひまして, さうして自活 の路 を立 させ ると云ふ ことに付 いて充分力 を尽 したい と思 ひます」 といいい,新 しい職業 として速記術 を奨励 した。. 1904(明 治 37)に なる と,こ の 問題 に対 す る彼女 の 決定打 とい うべ き 『女子 と技芸』 を著わ した。緒言 では,「 工芸」 とせずに「技芸」 と題 したの は,技 の中に「美的観念」 を入れ込んだためであるとい う理由を記 した。 ラ ンカシャーの鉱山女工 のような労働 は,女 性 に不可能ではない にせ よ,女 性 の天性か らすれば過度の労働 を避けて美的技芸 を身 につ けさせて「独立 自営 の道」 を得 させるべ きだ と主張 した“。上 ・下 2編 に分け,上 編 では,機 織 ・紡績 0裁 縫 ・養蚕 ・染工 ・刺繍 ・造花 ・編物 ・押絵 の 9種 を,下 編 では. ,. 絵画 ・写真 ・速記 ・彫刻 ・蒔絵 ・挿花 ・料理 ・包み結 び物 の 8種 について. ,. それぞれの技芸 の伝統や用具 ・方法な どを具体的 に記 した。. 1910(明 治 43)年 に,実 業之 日本社 よ り刊行 された 『婦 人常識 の養成』 は,増 補改訂 の うえ 『香雪叢書』 に収 め られた。その中には,「 婦人 と教育」 「婦人 と職業」「婦人 と手芸」 といつた章が含 まれる。 婦人 と教育 については,「 女子 には女子相当の知識技能があるのは 申す迄 もあ りませぬ。殊 に妻 として家庭 の事 に当 り,母 として子供 に対す る技能 に 至 っては実 に婦 人独特 の もの と申 さなければな りませ ぬ」 といい,「 賢母良 /‐ なる国民」 としての婦人の教育 の必 妻主義 と人格主義」 を一致 させた「完・ 口 要を説 いた 。上記 の 『家政学』以来の彼女 の持論 である。. 婦人 と職業 については,「 分業 と云ふ点か ら見る時 には,女 子 には先天的 に或意味 の職業が与へ られて居る。それは家庭 の整理 を為 し,子 女 を産み且 育 てることであ ります」 とい う前提 の もとで,中 流以下の婦人 には「已むを 得ず執 る職業」 の必要性 を認めた。 しか し,欧 米 の女性 のように各方面 の職.

(7) 三 好 信. 75. 浩. 業 に進出す ることに対 しては消極的であ って,「 婦人が職業 を執 る為 に,家 庭 と婦人 自身の身体 と品格 とに及 ぼす影響 を考へ て見 ますると,自 分 は俄 に 婦人 は男子 と均 しく職業 を執 った方が宜 しい とは 申 しかねます」「 日本 には 廊 両方面 を調和 した職業がある」 といい,日 本 の伝統的 な技芸 を奨励 した )。. 婦人 と手芸 に関 しては,「 手芸 は婦人 に天与 の もの」 であ り,「 日本 の婦人 は手芸 にかけては世界の婦人中一頭地 を抜 いて居 る」 ので,そ の特技 を生か せ と主張 した。その際,「 婦人のた しなみ としての手芸」 と「専門家 として の手芸」 があ り,平 常 の場合 は前者 がふ さわ しい けれ ども,「 万一の場合 を も常 に心 に入れて置 いて,い ざといふ時の準備 をして置かなければ,其 の場 合 に臨んで狼狽 したか らとて取 り返 しのつかぬ事 です」 と,後 者へ の心がけ も必要であると説 いたり )。. 西洋 ,特 にイギリス上流階級 の生活体験 を持 つ機会 に恵 まれた下田は, し か しなが ら,イ ギ リス をそのまま称揚する ことな く, 日本婦人の独 自性 を重 ん じる教育 を構想 した。維新後 の 日本 の女子教育 は,「 当路者 に於て始めか ら一定 の考へがあって起 されたのではな く,唯 だ外国 との交際 に付 て,国 家 の体面上か ら起 された者であるか ら,古 来の歴史,国 情 などには何等頓着無 く外国の教育制度 を其侭直訳的 に持 って来 られたのに過 ぎないのです」 と解 した20。 「今 の教育 の始 ま りが, もと西洋流 の教育 の直訳 的 であつたこと ,. そ してそれが とか く理論 に傾 いて実地 と離 れ易 く,数 学 とか科学 とか文学 と かいふや うにい はゆる学問的であ り,や や もすればいはゆる机上 の理論 にな づ まんとすることは,誰 しも心づいて心配する点 であ らうと思ひます」 とい 21)。. ぅ. 日本婦人の独 自性 とい うとき,彼 女 の主著 ともい うべ き『 日本 の女性』が 意味 を持 つ。「何故 に日本女性 の研究 を必要 とす るか」 とい う序論 での問 い かけか ら始 まって,日 本女性 の特性 を古代 ・上古 に趨 って考察す るとき ,. 「 日本 の婦人 に共通 なる一種 の婦人性」が浮かび出るのであ る. 2'。. 「 日本 の建. 国以来の道徳 の方針 が家族主義 であ って西洋 のや うに個人主義か ら発達 して 来 た ものでない といふ事」が重要な違 い となる")。 下田の女子教育論 が 国家.

(8) 76. 女性教育家の女子職業教育論. 主義 の方向へ と大 き く傾斜 して い く所以 で もあ る。. (3)実 践女学校 と女子工芸学校 の経営. 華族女学校 の学監 を務 め るか たわ ら,下 田は,帝 国婦 人協 会 を結成 して. ,. 自 ら会長 とな り「会務 ヲ総 理」 した。 1899(明 治 32)年 に,同 会 の 教 育 門 の事業 として ,実 践女学校 お よび附属慈善女学校 ,女 子 工芸 学校 お よび附属 下婢養成所 の 4つ の学校設置 につ き申請 を出 し,東 京府知事 の認可 を得 た。 慈善女学校 や下婢養成所 とい う名称 に,イ ギ リス に見 られ る篤志家 の寄付 金 に よる慈善的 な貧民学校 の 意味 合 いが 感 じられ るけれ ども,実 際 には この 2 校 はほ とん ど体 をなす こ とな く終 わったため ,下 田 の教育事業 の 中心 は,実 践女学校 と女子 工 芸学校 の 2校 となった。 本稿 で注 目 した い の は女 子 工 芸学校 で あ る。創 設 時 の 校 則 第 1条 を見 る と,「 本校 ハ 女子 二適 当 ナ ルエ 芸 ヲ授 ケ,併 セ テ修 身斉 家 二必 要 ナ ル実業 ヲ 修 メシメ,能 ク 自営 ノ道 ヲ立 ツ ルニ足 ルベ キ教育 ヲ施 ス所 トス」 とあ り,彼 女 の 目ざす実業 による自営 の道 が うたわれて い る。修業年 限 は,実 践女学校 の 5年 に比 べ て 3年 と短 く,学 科課程 は,術 科 (家 事 0裁 縫 ・編物 ・刺繍 ・ 造花 ・挿花 0図 画 0押 絵 ・速記 ・看病法 ・割烹 0写 真術 )を 中心 と し,特 に 裁縫 に重 きを置 い た。経費予算 は授業料収 入 を主 体 と しつつ も「工 芸 品売 上 利益」 も見込 んで い た. 24。. 開校 当初 の状 況 につ い ては 『 日本婦 人』第 1号 が. 次 の よ うに伝 えて い る。 「工 芸学校 は,尚 臨時 入学 を も許す に よ り,殆 ど日々の 如 く入学志願者 あ り。 工 芸学校 の裁縫科 は 2種 に分 て り。 一つ は銘 々 自己 の 品 を持参 して裁縫 す る もの ,即 ち是 は妻女 な どの少 々の暇 を得 て 一術 を修 めん為 め に便宜 せ る な り。 一つ は其術 の巧拙 に従 ひ学校規定 の 品 を分 与 し裁縫せ しむる もの に し て ,専 ら自営 の道 に進 ま しむる ものな り。其他 ,刺 繍 ・造花 ・編物 ・押絵 ・ 図画 の諸科是 れ に準ず。但 し後者 の規定 に従 はん と欲 す るを望 む生徒 は ,そ の技術熟す るに及 び,潤 益 の幾分 を授 け ,卒 業後 も各 自の望 み によ り学校 の 製作 品 を引受 け ,利 潤 の 配当 に与 るこ とを得。速記 ・料理 ・挿花 は専 ら実地.

(9) 三. 好. 信. 浩. 練習 を勉 め じむ。看護 法 ・写真術 は未 だ着手 せ ず。該校 の製作 品 は既 に注文 に応 じて販売 を始 めた り」b)。 工 芸女学校 の 人気 は上 々で あ って ,開 校 時 は 20余 名 の生 徒 で あ ったが 翌年 の 19oO(明 治 33)年 5月 には,裁 縫科 に 133名 科 に 13名. ,. ,編 物科 に 28名 ,刺 繍. ,造 花科 に 30名 ,押 絵 科 に 6名 ,図 案科 に 2名 と,「 た ち まち二. 百十 二 名 の生徒 を収容す る押 しも押 され も しない一 工 芸学校 に躍進 し,明 治 三 十 四年 三 月 には初 めて八 名 の 卒 業 生 を世 に送 りま した」 と20,同 校 60年 史 は記 して い る。. 1907(明 治 40)年 に学 習 院か ら手 を引 い たの ち の 下 田 は,実 践 女子 学 園 の組織改革 に着手 し,翌 年 には,実 践女学校 と女子 工 芸学校 を合併 して新 し い 実践 女学校 に し,19H(明 治 44)年 の 学 則改 正 で は,そ れ を高等 女 学部 ・実科高等女学部 ・高等技芸部 に分 けた。高等女学部 は,修 業年 限 5年 で普 通学科 を教 え,そ の卒業 生 には修業年 限 2年 の家事専攻科 と技芸専攻科 を用 意 した。実科高等女学部 は,修 業年 限 4年 で 高等女学部 よ りも裁縫 ・手芸 の 時 間 を増 や した。高 等技芸部 は,修 業年 限 2年 で裁縫 ・造花 ・刺繍 ・編物 ・ 押絵 の 5分 科 と し,実 科高等女学校 の卒業 生 を入 学 させ るこ とに した。女子 工 芸学校 の名称 は消 えたけれ ども,そ の理念 は専攻科 と高等技芸部 に引 き継 がれ た こ とになる。 そ の後 の 下 田は,同 校 を女 子専 門学校 に昇格 させ ,可 能 な らば女子大学 に した い と考 えた。 1920(大 正 9)年 には,専 攻科 を国文 ・家政 ・技 芸 の 3科 に,高 等技芸科 を高等 師範部 に して ,い ず れ も修業年 限 を 2年 か ら 3年 に引 き上 げ た。 1925(大 正 14)年 には,専 攻科 を 「専 門学校 令」 に よる専 門学 部 とす る 申請 を出 して認 可 され ,1931(昭 和. 6)年 には,校 名 を実践女子 専. 門学校 と改称す る 申請 を出 して認可 された。但 し,こ の時期 の下 田 の著作 に は,「 わが 実践女子専 門学校 の 中 に も,技 芸科 と称 して手芸 の教 育 を施 して 居 ります。 自分 の考 へ で は,こ の卒業 生 を以 つ て悉 く技術 の 人 としよ う と云 ふので はあ りませぬ 。 む しろ 自分 の望 む所 は,こ の科 を出で相 当 の技芸 を覚 えた人が家庭 の主婦 と して働 い た ら,余 程 便利 な事 があ ら うか と心 私 か に考.

(10) 78. 女性教育家の女子職業教育論. へ て居 るのであ ります」 と記 されてい るところか らわかるようにン,専 門学 校へ の昇格 は必ず しも専門職業教育の充実 を目ざした ものでなはかったこと に注 目したい と思 う。 下田は,当 時の女学校教育 には批判的な目を持 っていた。その 1は ,着 実 さの欠如 である。「私 は望 むのです。父兄 も生徒 もどうか花 を持 つ と云ふ こ とを止めに して,極 々着実 な考へ で学問 を して貰 ひたい」 とか28,「 とか く 文明の花 に酔 ひ理論 のことに走 って実地 を疎んずるといふ風習が禍 の根 をな してゐるのではないか と思 ひます」 とい う29。 その 2は ,都 会 の華美 に染 ま ることである。「都 の手 ぶ り見 ならはせて,善 き人にせ ま しと出だ し立てた る愛女 の地方 の帰 るに及 びては,去「りて都 の浮華橋奢の風 にのみ染みて,其 他 は一の取 る所無 きに終 るが如 き最 も悲 しむべ き結果に至 る者多 きを見るべ し」 と慨嘆す る30。 その 3は ,キ リス ト教系 の女学校 における日本 の伝統 の 軽視 である。「如何程学校 としては完全 であって,教 師 は立 派,設 備 も亦十 三分 であつ て も,外 国人が 自国通 りの学校 を立て ゝ,自 国 と同様 の教授 を施 す としたならば,決 してその国家 の予想請求通 りの人は作 り出されぬ ことは 明白であ りますか ら,そ の国では寧 ろ有難迷惑 と云はなければな りませぬ」 と断言 してはばか らない〕。 「女学」 と「女職」 の併立 を目ざした実践女子学園の教育経営 は,女 学校 教育 の弊害 を超克 しようとす る彼女 の教育理想 の実現 の場 で あ った。彼女 は,こ の理想 を拡大す るために,勤 労婦女子 のための姉妹校 を設けることに 力 を尽 くした。新潟女子工芸学校 ,武 田裁縫女学校 ,順 心女学校 ,淡 海女子 実務学校 ,明 徳女学校 ,文 化夜間女学校 ,愛 国夜間女学校 ,文 化女学校 など がそれである32。 さらに加 えて,清 国か らの留学生 の積極的受 け入れを図 っ た。学園内に清国留学生部 を設け,中 等科 ・師範科 ・工芸科 に分け,実 践的 な教育 をな した。辛亥革命 の烈士 として名 を残す秋瑾 もこの学園の卒業生で ある33。.

(11) 三 好 信 浩. 2.鳩 山春 子 (1)教. 育家 としての後半生. 鳩山春子 には 『自叙伝』があ る。大正年間 に雑誌 『新家庭』 に連載 した も のを,1929(昭 和 4)年 に亡 き夫鳩山和夫 の伝記 の別冊付録 として刊行 した ものであ る。 これを単行書 として刊行す るに際 して,彼 女 は緒言 と序説 を書 き加 え,そ の緒言 の 中で,「 私 の一生は鳩山 に捧 げた ものであ り,ま た同時 に私 の総 ては子供達 に結 ばれてあるのですか ら,実 際 において私 の 自叙伝 を 綴 らんとすれば,そ れは取 りも直 さず夫 と子供 のことに就 いて語 ることにな りませ う」 と記 してい る 。夫 とは法学博士 ,早 稲 田大学総長 ,衆 議院議長 3“. などの経歴 を持 つ鳩山和夫であ り,子 供 とは,文 部大臣や内閣総理大臣を務 めた鳩山一郎 と東京帝国大学教授 となった鳩山秀夫 であ る。子供 2人 につい ては,別 に 1919(大 正 8)年 に『我が子 の教育』 を著 していて,前 編 は「家 庭教育 の研究」 を記 したが,後 編 は「二子 を育て し二十年間の苦心」 とい う り 自叙伝体 の記述 をした 。その他 ,雑 誌論説 の 中にも,夫 と子供 に関係す る ものが数多 く含 まれる。例 えば,『 婦人世界』 には,「 我が子 を文部大臣に育 てる迄」 といった 自慢話 とも受け取 れかねない ようなもの もある。 夫 に仕 え,子 供 を立派 に育てた良妻賢母の典型 として,自 らも認め,ジ ャ ー ナ リズムの 人物評 も大方 一 致 して い た。 1926(大 正 15)年 に,『 婦 人世 界』 は「血 と涙 をもって書 きとどむる我がが七十年 の回顧録」 と題す る鳩山 の回顧録 を掲載 してい るが,そ れにつ けた同誌 の コメン トの 中には,「 この 一篇 は,か つ て世 にあ らはれたる最 も美 しきローマ ンスで あ り,最 も尊 き “ 妻 の読本 "で あ り,又 最 も高尚なる 処女 の読本"で あ り,最 も切実なる “ “ 母 の読本"で もあるので ご ざい ま して,私 共 は この一 篇 の 中に永遠 なる “ 母性 "を 見出す ことが 出来 るので ござい ます」 とい う最高級 の 女性"と “ 30,ま た上 『 記 自叙伝』 につ けた 『新家庭』記者 の付言 賛辞 を呈 してい るし にも,「 鳩山先生が人の妻 として理想的な方 であつ たことは誰知 らぬ もの も.

(12) 80. 女性教育家の女子職業教育論. な い事実 で あ ります」「鳩 山先生 が 人 の 母 と して最 も完全 な方 で あ つ た事 も り 等 しく認 め られ る事実 で あ ります」 とあ る 。下 田歌子 に向 け られ た よ うな 毀誉褒貶 は見 られ な い。 理想 的 な 「家庭」 を作 る こ とに成功 した鳩 山 では あ るが ,そ の生 い立 ちは 男尊女卑 の 旧式 なサ ム ライ家庭 で あ って ,若 い彼女 は醒 めた 日でその矛盾 を 感 じ取 っていた。父 の 多賀努 は ,信 州松本藩 の重役 であ り,維 新後 も政務 に 奔走 した。「母 は父 を見 るこ と恰 も君主の如 く」「唯 々 と して夫 に従 ふ」 さま を見 て ,不 思議 に,ま た気 の毒 に思 って育 った とい う魏。父 の 活躍 の場 は東 京 に移 り,娘 の学才 を見込 んで い た父 の判断 で ,彼 女 は 1874(明 治 7)年 に 上 京 し,竹 橋 にあ った官 立 の 東 京 女学校 に入 学 した。 1877(明 治 10)年 に 同校 が 閉校 となったため ,お 茶 の水 の東京女子 師範学校 に転校 し,翌 年別科 英語科 を主 席 で卒業 し,師 範本科 へ 進学 した。 アメ リカ留学 か ら帰 国 した神 津専 三郎 の紹介 で ,在 学 中に鳩 山和夫 と婚約 し,卒 業後 に挙式 した。夫和夫 もア メ リカ留学体験 を持 ち, 日本 で初 めて結婚披 露宴 を催す な ど西 洋風 の生 活 が 始 まった。 19ol(明 治 34)年 には,夫 和 夫 が エ ー ル 大 学 か ら名誉博 士 を授 与 され たの を機 に,彼 女 も欧米諸 国 を周遊 す る機会 に恵 まれた。 鳩 山が女学校 の教 師 になる こ とを決 意 したの は,夫 の 没 後 の 1912(明 治. 45)年 4月 の こ とで あ る。『婦 人世界 』 に載 せ た「女学校 の教 師 にな った私 の 決心」 と題 す る記事 で は,共 立 女子 職 業 学校 長手 島精 一 の 従容 に よる。 「先 日校長手 島精 一 氏 が わ ざわ ざ来訪 され て ,今 学期 か ら新 に家庭科 を設 け る こ とになった。 これはボス トンあた りで も近 頃 は じま りま したが ,高 等女 学校 を卒業 して人 の妻 となるに して も, まだ十分 に家庭 の こ とが わか ってゐ ない 。 そ こで裁縫 ・洗濯 ・料理 ・作法 の如 き家政上 に必 要 な実際の知識 は勿 論 ,将 来 の 国民 の精神修養等 につ い て ,一 家 の 主婦 と して の技価 を養 はねば な らぬ 。即 ち高等女学校 卒業後 の仕 上 げ をす るため に家庭科 を新設 した ので あ る。 そ して一 切 を任せ て東縛 も干渉 もしない か ら一つ 引 き受 けてや ってみ ては くれ まい か といふ お 話があ りま した。 私 もこの 世 に生 きて ゐる以上 は. ,. 善 い感化 を人 に与 へ て有益 な事 業 に尽 くした い と考 へ てゐた矢 先 で す か らと.

(13) 三 好 信. 浩. にか くこれ をお引 き受け した」 とい う。「月給 のための奉職 ではない」 と断 わつ てい るところも彼女 らしい3"。 手島精 一 に対 して,鳩 山 は恩義 と尊敬 の念 を抱 い てい た。 1916(大 正 5) 年 に手島が東京高等工業学校長 を退職 した際 の 『工業生活』 の特集号 には. ,. 「手島先生 と共立女子職業学校」 と題す る一文 を出 し,「 わざわざ私 をお訪 ね 下 さい まして,私 に此の学校 に出て生徒 を教へ るや うにといふ有 り難い御推. 40,1918(大 正 7)年 の 『向上』 の. 薦 を して下 さつたのであ ります」 といい. 手島追悼号 には,「 理想 の人格」 と題す る一文 を寄せ ,「 少 しで も余命 を有意 義 に暮 したいために遂々御受け しまして余命 を教育 に捧げや うと致 したので 引 御座 い ます」 と記 した )。. 鳩山春子 51歳 の春 のことであ り,そ の後 の 26年 間の後半生は,教 育家 と して立 つ ことにな り,1922(大 正. H)年 か らは校長 として経営 の責 を負 う. ことになった。その間,同 校 は共立女子専門学校へ の昇格 を果たすなど,鳩 山の功労 は多大 とされてい る。. (2)良. 妻賢母の中の技芸. 鳩山 もまた,下 田歌子 と同 じように,婦 人雑誌 に多数 の論説 を発 表 した。 『女鑑』『女学世界』『をんな』『なで しこ』『大和 なで しこ』『婦人界』『婦人 世界』な どのほかに,大 日本連合婦人会 の機関誌 『家庭』 (1931年 創刊 )や 『ム ラサ キ』 (1905年 創刊 )な どに論 説 を載せ て い る。『をんな』第 1号 の 「主婦 と家庭」や 『婦人界』第 1号 の「米国の交際社会」 といった標題 か ら 想像 されるように,女 性 の役割 とか心得 とかいった内容 の ものが圧任l的 に多 い。夫 のため,子 供 のために生 きて きた彼女 の前半生の経歴 か らして当然 の ことであろう。彼女 によれば,良 妻賢母 は「婦人 の天職」であ って,「 誰 れ が何 と云って も良妻賢母 といふ ことは婦人の天職 として間違 ひないのであ り ます」 と自信 を持 って言 い放 っている40。 良妻賢母 の第一条件 は,「 家庭 を治める」 ことである。「主婦 の心得 に於 い て尤 とも大切 なる事 は善 き家庭 を作 ることにある と思 ひ ます」 といい43),.

(14) 82. 女性教育家 の女子職業教 育論. 「主婦 たる者 は,家 族 の 為 め には飽 くまで も尽 くし,且 つ 自分 を犠 牲 に供す るこ とを愉快 に思ふ様 で なければな りませ ん。即 ち 自分 の したい事好 む事 を 抱 って も一 家 の平和 ,家 族 の幸福 を図 らなけれ ばな りませ ん」 とい ・ う 。な ぜ なのか ,彼 女 の 答 は それ は神 に対 す る義務 で あ る とい う こ とになる。「夫 が 家庭 を支持 す る義務 あれ ば ,妻 には家 を斉 へ 子女 を教育 し夫 に安心 と慰藉 を与 ふ る義務 が あ ります」「女性 は元 来神 よ り特 に恵 まれ た る天 与 の宝 ,無 我 の愛 ,所 謂母性愛 を先天的 に有 します か ら,女 性 は総 て此 の母性愛 を高潮 ツ し,敷 イ テし,此 の完全 なる発展拡充 に依 って 自己 の 人格 の基礎 を確 立 し,以 て健全 なる家庭 の 建設 に貢 献 す る こ とは,神 に対 す る義 務 で は あ りませ ん か」 とい うので あ る45。 家庭 を治 め る婦 人 は,未 来 の 国民 を養育す る とい う点 で 国家社会 に奉仕 す るこ とになる。「表面女子 の す る事 は何 で もな い様 で す が ,国 に及 ぼ す影響 は決 して少 くあ りませ ん。第 一 未 来 の 国民 を造 るの は女 子 で は あ りませ ん か」 とぃぃ46,「 次代 の 国民 を養成 して我民族 の 隆興 を図 る といふ 責 務 で ご ざい ま して ,こ の責務 は婦 人 と して尽す べ き責務 中 の最 も重 い責務 で あ ら う と信 じます」「殊 に子女 の 学 問 の指導 の如 きは,母 親 が 自 ら之 に当 った ら良 か らうと思 ひ ます。 子女 が世 に学校 の先生 ほ ど偉 い 人はな い と考 へ るの は. ,. 毎 日自己の知 らない事 を教 はるか ら起 こる観念 で ご ざい ます。それで 親 の言 ふ こ とよ りも教 師 の言 ふ こ とを聴 くようになるので す。故 に私 は親 たる人が 己 の成厳 を保 つ ため ,否 子女 を善 良 に躾 けるため には,あ る程度 までの学 問 は 自分 の手 で教授 し且 復 習 せ しむる こ とが ,教 授 と訓練 とを兼 ねたる一 挙両 得 の 良策 たるこ とを疑 ひ ませ ん」 とい う. 47。. 鳩 山が 2人 の子供 の学業 を家庭 で指導 した とい う逸話 はあ ま りに も有名 で あ る。早朝 の 3時 半 ごろ子供 を起 し,英 0数 ・漢 な どの学科 につい て ,学 校 と同 じ程 度 の学習 をさせ た。 それ も,高 等学校 入試 の前 の 中学 5年 ごろ まで 続 けた とい うか ら驚 きであ る。 彼 女 も,「 子 供 の教育 だけは 自分 の 考 へ 通 り 確信 を以 て決行 しま したが ,こ れは幾分成功 した よ うに考 へ られ ます 」 と自 48。. 認 して い る. もちろん ,学 業 だけで な く,兄 弟愛 とか金 銭 の使 い 方 な どに.

(15) 三. 好. 信. 浩. ついて も,種 々の工夫 をこらしなが ら指導 した。後年 の論説 に「慈父厳母主 義」 と題す るものがある。「世間では厳父慈母 と申 しますが,外 に働 く父 は 母 よ り子供 に親 しむ時間が少 ない か ら,父 が厳 にのみ傾 け ば子供 は恐怖す る」 とい うのがその理由である4"。 彼女 自身の受 けて きた少女時代 の発想 を 転換 させてい ることが重要である。 この発想 の転換 は,高 群逸技 の女性史研 究 において も評価 され,「 奴隷的家族制 か らヨーロ ッパ 的良妻賢母的家庭制 へ の向上」 が見 られるとされた50。 後半生は女子教育界 に身 を投 じたけれ ども,良 妻賢母の信念 は微動 だにし なかった。女児 を教育 したとい う経験がないためか,女 子教育 に関す る論説 は多 くはない。『自叙伝』 の中で,「 私 も女子職業学校殊 に女子専門学校 の家 庭科 で良妻賢母 を養成するものですか ら,こ れ等 の娘達 の為 に幸福 な生涯 を 開 く道 を明け暮 れ祈 って居 ります」 と記 してい るものの,こ の域 を越えた発 言 は見当 らない。 そ こで問題 となるのは,彼 女 の勤務校 が女子職業学校 であ るとい うことか ら,彼 女が女子 の職業 をどのように考 えたか とい うことであるが,こ の点 に ついての発言 も少ない。 1918(大 正 7)年 に発 表 した「婦人 と技芸」 と題す 「に苦 んで居 る」老爺 に比べ る論説 では,老 後 の男性 と女性 を比較 し,「 無耶 て,若 いころ技芸 を身 につけた老婆 は幸福 な余生 を送 っていることを夕1に 出 し,「 近来女子 の技芸教育 に携 はるや うにな りまして,始 めて婦人の技芸 を 修得 したる幸福 の如何 に偉大 なるかを切 実 に感ず るや うにな りました」「一 体技芸 を修得 して居れば,家 庭 に於 てはそれだけ役 に立ち,社 会 に対 して も 国家 に対 して もそれだけ利益 を与へ るので,順 境 にあって も逆境 に立って も 為 になる ことは 申す迄 もあ りませ ん」 と'),技 芸 の持 つ 実用 的利益 を認 め た。 この論説 は, 日本弘道会の機関誌 『弘道』 に載せ られた婦人の職業問題 に 関す る特集記事 のひとつであ って,後 述する嘉悦孝子お よび女子医学専門学 校長吉岡弥生の論説 と併載 された。 これ ら 2人 に比べ ると鳩山の職業意識 は はるかに低 い。嘉悦 は後 に述べ るため,こ こでは吉岡 を例 に出 してみると ,.

(16) 84. 女性教育家の女子職業教育論. 吉岡 ははっ き りと婦人 の「 自営 自活」 のための職業 の必要 を説 い た。吉岡 は,「 教師 ・事務員 0医 師 ・薬剤師 ・産婆 ・看護婦 ・農業 ・商業 ・裁縫師 ・ 料理人 ・画工 ・記者 ・職工 ・女中其他」旧来 の女性 の職業 に加 えて,「 学校 長 ・教授 ・病院長 ・技師頭取 ・社長 ・工場長」 などの指導者層 の中にも入 り 込むべ きだとい う主張 をな してい る"。. 1929(大 正 8)年 に鳩山は「職業婦人 として世 に立 つ真 の資格」 と題す る 論説 を出 してい るが,「 た ゞお金 さへ相当に得れば,人 も我れ もそれだけで 近代 の職業婦人 だと誇 りまた許 してゐます。 しか しその考へ は明かに間違 っ てゐる」「単なる理想論 と云はれるか も知れ ませんが,私 はこの社会 に伍 し て立派にや って行けるだけの人で,ま た家庭 にあって も充分 に統一ある教養 を持 ち,若 しも一朝 ことある時には一般 の職業 について直 ちに家族 を扶養 し てゆける女性たちを真 の職業婦人だ と思 はず に居 られ ませ ん」 と記 した 。 5〕. 鳩山の職業婦人はその前 によき家庭婦人であるべ きだとい う条件づ けがなさ れていた。. (3)共 立女子職業学校の経営. 鳩山は,手 島精一 にすすめ られて共立女子職業学校 の家庭科主任 とな り ,. の ち同校長 として生涯 を開 じた ことについては前述 した。校長就任直後 に関 東大震災 に遭 い,校 舎や寄宿舎が焼失 したため,鳩 山は校舎復興 とともに同 校 の組織改革 に乗 り出 した。同校 の 70年 史 には,「 鳩 山春子立つ」「雨 に濡 れて鳩山春子寄附を迄 うて歩 く」「鳩山春子学校組織 の改革 を計 る」 といっ た小見出 しがつ けられてい る54。 東京商科大学 の国立移転 の際 ,同 学長佐野 善作 とのよしみか ら一橋 の跡地 を購入 し,の ちに鉄筋校 舎 とともに全 国 にそ の名 を知 られた共立講堂 を建設 したの も彼女 の功労であ る。 本稿 で問題 となることは,鳩 山のな した一連 の組織改革 の中で,共 立女子 職業学校 の建学精神 となった職業教育が どのように継承発展 されたか とい う ことで ある。共立女子職業学校 は,も ともとは,1886(明 治 19)年 とい う 早 い時期 に,宮 川保全が同志 に呼 びかけて創立 したもので,職 業 に主眼 を置.

(17) 三. 好. 信. 浩. 85. い た こ とは,宮 川が 同校 の 25年 史 につ け た序文 の 中 で彼 自身 の言葉 と して 語 られて い る。 「当時余 は以 為 く。東西 の接 近 は年 に甚 しく生存競争 は 日一 日に激甚 た る べ けれ ば,今 に於 て女子 の為 に適 当 なる教育機 関 を設 くるは最 要急務 たるべ し。時勢 の転変 は久 しか らず して女 子職業学校 の必要 を絶叫す る 日あるべ し と。是 に於 て先 づ都 下 に一 女学校 を建 て ゝ適 当 なる職業教 育 を施 さん と欲 し 之 を桑 の 同僚諸氏 に諮 りた りしに,諸 氏皆余 と其見 を同 じくせ り。故 に余等 欣然直 ちに発起 者 とな りて創 めて本校 の設立 を見 たるは実 に明治十九年 三 月 の こ とな り」55)。 この時 の発起 人 29人 の 中 に鳩 山が含 まれ て い て ,1899(明 治 32)に 同校 が財 団法人 とな った 時 の 10名 の 商議 員 の 中 に も名 を連 ねて い た こ とを見 る と,鳩 山 はかな り重要 な人物 で あ った と思 われ る。 ところが ,手 島が校長 を 務 めて い た時期 に,貧 困女子 に職 業 を与 える こ とよ りも,良 妻賢母 となるた めの技芸 を教 える学校 に軌 道修正 を した こ とは,前 稿 にお い て言及 した50。 鳩 山が手 島 の要請 に よ り家庭科 の 開設 を委嘱 された のは,そ の よ うな路線変 更 の さ中であ った。鳩 山 の述懐 に よれ ば,「 良妻 賢母 たる資格 に適 当 な学科 を設 け て ,家 庭科 と して二 年 間高等女学校 を卒業 した者 を学校 で育 て ゝ見 た い と思ふか ら,来 てや つ て呉 れ と云ふ御話 であ りま した」 とい うのが手 島 の 5"。. 鳩 山 に対 す る要請 で あ った. 当 の 手 島 もそ の こ とを認 め て い る。 1913(大 正 2)年 に鳩 山 の 訳 出 した 『模範家庭』 が出版 された時 ,手 島 はそれ に序 を寄せ て ,「 偶 々明治 四十五年 三 月予 の 関係 す る財 団法 人共立女子職業学校 に於 て新 に家庭 科 を設 くるに会 せ り。予 は女史が従前 よ り同校 商議員 の一 員 たるを以 て該科 の為 め一臀 の力 を貸 され ん ことを請 ひ しに,女 史 は快 く之 を諾 せ られ ,日 々登校 して監督 の 労 を執 らる ゝのみ な らず ,時 々女子処世 の方法等 に就 きて恰 も自家 の子女 を 59。 見 るが如 く懇切 に指導 せ られ つ ゝあ る」 と記 して い る. 新 設 の 家庭科 は,70年 史 で は,「 花 嫁 学 校 と して の 家 庭 科」 とされ て い る5"。 大正末年 の 同校 の 年報 につ け られ た家庭 科 の入 学案 内 に よれ ば,「 高.

(18) 86. 女性教育家の女了‐ 職業教育論. 等女学校卒業者 に して家庭 に入 る準備 を為 さん とす る者 にその 要求す る技芸 及 び学科 を授 くる を以 て 目的 とす」「主婦 た り賢母 た るに必 要 なる学科 を も 修 め しむる等所謂仕 上 げ教育 に して時勢 の 要求 に応 じて設置せ る もの」 とあ る60c修 業年 限 2か 年 で 高等女学校卒業 生 に裁縫 と家事 の ほか 随意科 目 と し て手芸 (編 物 ・刺繍 ・造花 )を 教授 した。 鳩 山 の功績 で あ る専 門学校 へ の昇格 は職業教育 との 関係 か ら見れば どの よ うに解 釈す べ きであ ろ うか。 ちなみ に 1924(大 正 13)年 に鳩 山 の提 出 した 設置 申請書 を見 る と,「 本校 高等 師範科 ハ 明治 四十 四年 四 月 ノ新設 二係 り. ,. 同時 二 同科卒業 生 ハ裁縫 ・手芸 二 関 シ中等教員無試験検定 ノ特典 ヲ付与 セ ラ レタルモ ノニ有之。爾来十有余年卒業 生 ヲ出 ス コ ト既 二六百八十五名 ,W「 カ 斯界 二 貢献 スル所 アル ヲ信 ズ。然 リ ト雖時代 ノ進運 二伴 ヒ内容 ヲ充実 シー 層 教 員養成機 関 トシテ実績 ヲ挙 グベ キ必要 ヲ認 メ候 二付」組織変更 と昇格 を希 望 した。「女子 二必 要 ナ ル専 門 ノ知識技 能 ヲ授 ケ中等学校教 員 タラ ン トスル 者 ヲ養成 スル ヲ以 テ ロ的 トス」 とし,そ れ を学則 の 第 1条 と した。 高等女学 校卒業後 3か 年 を修業年 限 と し,裁 縫 を主 体 に手芸 (編 物 ・刺繍 ・造花 )と 家事 を課 した“。翌 1915(大 正 14)年 に認 可 され た専 門学 部 は,教 員養 成 を目的 と し,良 妻賢母 の仕 上 げである家庭科 とはその 目的 を異 に して い た。 創設当初 の職業 の理念 は,教 員養成 の 中に取 り込 まれたわけで ,こ れ は下 田 歌子 の実践女子専 門学校 に も共通 した こ とであ る。 鳩 山が 家庭 を重視 して い た こ との エ ピソー ドが ぁ る。 1932(昭 和. 7)年 に. 鳩 山 は校 舎建設 の 資 金集 め の ため に 5個 1組 の 色 の 違 った襟止 用 の ピ ン を 「祝賀 ピン」 と称 して生徒 に使 用 させ る とともに,贈 答記念 品 な どと して広 く社会 に広 め る ことに した。70年 史 に よれ ば,「 一 種 の社 会倫理化運動」 で 62。. ある. そ の 5個 は,貞 操 ・義務 0誠 実 0勤 勉 ・家庭 の 5つ の標語 を表 した. もので あ って ,組 合 せ 図 で はその 中心 を「家庭」 に置 い て い る。 loo年 史 で は「なぜ 家庭 を徳 目の 中に入 れたか ,そ の理 由 は明 らかで ない」 と記 されて い るが63,上 述 した よ うな鳩 山 の行実 か ら して ,ま た彼女 の 記 した論 説 「五 つ の徳 の使徒」 の 中 の「 そ の 中で も家庭 こそ この五 つ の徳 が 渾然 と融合 し相.

(19) 三 好. 信 浩. 調和 した至楽至境 の頂 点 と信 じてゐ ます。家庭 を忘去,す る時人 は直下 に人で な くなるのです。家庭 を無視 しては,人 はい か に誠 実 た らん とし,い か に義 務 を遂 行 せ ん と し,い か に貞操 を維 持 し勤勉 た らん として も,そ れ は凡 そ不. 64,そ の理 由 は 明瞭す ぎるほ. 可能事 で あ ります」 とい う よ うな語録 か ら して. ど明瞭 であ る。鳩 山が職業 よ り家庭 を重視 した所以 で あ る。. 3.嘉 悦 孝 子 (1)女. 子商業教育の開拓者. 1940(昭 和 15)年 に,「 嘉悦孝子女子教壇 生活五十年記念事業後援 会」 の 委員長 を務めた嘉悦孝子 の同郷 の幼友達蘇峰徳富猪 一郎 は,そ の趣意書 の中 で,「 明治 ・大正 ・昭和 三代 を通 して民 間女子教育界 に於 け る卓 越 の存在」 であ り,「 特 に女子商業教育 の開拓者 としての功績最 も著名」 なる人物 とし て彼女 を称 えた0。 嘉悦孝子 (1867∼ 1949)の 伝記 をまとめたのは,嘉 悦 の 夫婦養子. (龍. 人 ・数)の 長男 で,現 在嘉悦学園の経営 の衝 に当ってい る嘉悦. 康人であ って,そ の副題 には,蘇 峰 の言葉 どお り「明治 ・大正 ・昭和 を生 き た女流教育家」 とうたわれてい る。 嘉悦 は,明 治維新 の前夜 とい うべ き 1867(慶 応 3)年 ,肥 後熊本 の貧乏藩 士 の家に生 まれた。父親は,肥 後実学党 の リー ダー横井小楠 に師事 していた ため藩の重役 に忌避 されていた。維新後 しばらくして,内 務省官僚 を経 て衆 議院議員 となったけれ ども,少 女時代 の嘉悦 は貧窮 の生活 を体験 した。彼女 の主 著 『怒 るな働 け』 の最終章 は「私 の娘時代 の 回顧」 と題 され ていて. ,. 「私 は五 人 の兄妹」「十二歳 で女工 になった」「 自分 は馬鹿 であると思ふて居 た」「鏡 を見て泣 い た もの」 など,そ の逆境 について語 りつつ も,そ のこと を逆手 に取 ってた くましくて生 きた姿が 自伝 的に語 られてい る。「醜 い顔 に 生んだ母親が有難 い」 と思い直す ようになったのである 。 6ω. 東京 で学問す ることを夢 みてい た彼女 は,19歳 の時 に上京 し,神 田駿河 台 の成立学舎女子部. (の. ちの女子成立学舎)に 入学 した。 この時,そ の創立.

(20) 88. 女性教育家の女子職業教育論. 者棚橋絢子 か ら修 身 の授 業 を受 け,「 私 しの 大恩 人棚 橋 絢子先 生」 と しての 67。. 終生 の恩 師 と出 会 った. 卒業後 は 同校 に残 り教 員 となったが ,1892(明 治. 25)年 ,26歳 の 時 に熊 本市 に鶴城学校 が 開校 され たの を機 に求 め られ て帰 郷 しその教員 に転 じた。 しか し,父 親 が 東京 で活躍 して い た こ ともあ って. ,. 1896(明 治 29)年 に再 上 京 ,大 日本婦 人教 育 会 の経 営 す る女 紅学校 に就 職 した ものの ,同 校 の 閉校 に ともな って ,1900(明 治 33)年 か ら残 った 生 徒 を引 きつ れて成女 学校 に転勤 した。 自分 の学校 を建 てた い とい う彼女 のか ねてか らの念 願 は ,1903(明 治 36) 年 に叶 え られた。嘉悦 36歳 の 時 で あ る。『幸風知新 聞』 の記者 で あ った知人 の 羽仁 もと子 に紹介 され , 日本 の商業教育 の草分 けであ る矢 野 二郎 か ら教 示 を 得 た。 また成女学校時代 の恩 師土子金四郎 の紹介 で和 田垣謙三 の支援 を受 け るこ とにな り,和 田垣 の経営 して い た東京商業学校 が た また ま夜 間授 業 で あ ったため ,昼 間 にその校舎 を使 用 させ て貰 う こ とになった。和 田垣 は ,帝 国 大学教授 ・法学博 士 の 著 名 人で あ った ため ,嘉 悦 は この 和 田垣 を校 長 に仰 ぎ,自 らは学 監 と して女 子 商業 学校 を経 営 す る こ とにな った。 1919(大 正. 8)年 に和 田垣 の引退後 は,嘉 悦 が校長 とな り,没 年 の 1949(昭 和 24)年 ま でその職 にあ つた。 そ の 間に広 い 人脈 関係 がで きた。前述 の 下 田や鳩 山 とは社会事業 な どで協 力 し合 った。彼女 の最後 を看取 ったのは吉 岡弥 生 で あ る。実業界 の大立物渋 沢栄 一 は,19o7(明 治 40)年. ,嘉 悦 の 請 に応 じて 日本 女子 商 業学校 創 立 四. 6&,そ 周年記念式 に出席 し一場 の講話 を した。 そ の発 言 は前稿 で 紹 介 したが の中で,「 怒 るな働 け」 とい う嘉悦 の教育方針に対 して,「 実 に極意味 のある 言葉 で其事 は浅薄のや うに聞え ますが,其 意味 は深長 である と私 は敬服 した のでござい ます」 と述べ た69。 嘉悦 は多数 の著書 をもの した。同校 の 90年 史 には,そ れ らが一覧 となっ てい て,分 担執筆 を含めて 28冊 ,そ の うち 22冊 は現存が確認 で きる とい 70。. ぅ. 代表作 は,『 主婦 の修養』 (津 川梅村 と共著 ,1907年 ),『 家政学講話』. (1908年 ),『 女 四書講釈』 (1911年 ),『 怒 るな働 け』 (1915年 ),『 家庭 生 活.

(21) 三. 好. 信. 浩. の改造』『貯金 の出来る経済の取 り方』 (と もに 1917年 ),『 花 よ り実を とれ』 (1925年. )な どであ って,い ずれ も国立国会図書館 に所蔵 されてい る。. 嘉悦 はまた,婦 人雑誌 に多数 の論説や談話 な どを発 表 してい る。上記 90 年史の調査 では,20種 以上の雑誌 に掲載 され,『 婦人世界』 に 68件 ,『 婦女 新 聞』 に 33件 ,『 女 学 世界』に 31件 な ど,総 計 200件 以上 に達 す る とい η う 筆者 の調査 では,婦 人雑誌以外 に,例 えば 日本弘道会 の機 関誌 『弘 )。. 道』 (1889年 創刊 )に は,東 京大学明治新聞雑誌文庫 に所蔵 される第 217号 か ら第 382号 までを調べ ても,58件 もの論説がある。. (2)家. 事経済 と職業問題. 自分 自身は結婚 しなかった けれ ども,女 性 は結婚 し,家 庭 で「主婦 の務 め」「主婦の職任」「女 の天職」 を果 たすべ きであるとい う立場 において,嘉 悦 も例外 ではない。『女学世界』 に出 した初期の論説 を見ると,「 女子 と云ふ ものが世 にな くてはならぬごと く,そ の必要 だけの真価 を持 って世に処 し ,. 情 の泉 ,愛 の女神 を以て 自ら任 じ,す べ ての人 をたの しましめ,す べ ての家 を面 白 くし,す べ ての社会 を愉快 に勇 ましうする原動力 となるや うにしたい と私 は思 ふのです」 といい72,ぁ るい は,「 女 の専 一の職分 は家庭 を司 る と 云ふ ことであ ります。家庭 を司 ることに大 いなる楽 しみ もあ り希望 もで きる のです もの,何 処何処 まで も愛 に満 ちたる心 を持 ちて,其 天職 とする所 を楽 しむ覚悟 で働 きましたならば何処 に苦 しみが潜んで居 ませ うか」 とい う7"。 主婦の職分 として嘉悦が重視するものが 2つ ある。その 1は ,児 女 の教育 で あ る。 19o8(明 治 41)年 の 『家 政 学 講 話』 の 第 3章 「主 婦 の 職任」 で は,財 務 ・衛生 ・食物その他 と並べ て児女 の教育 を挙 げ,第 10章 では「育 児」,第. H章 では「児女教育」 について論 じた. 74。. しか し,鳩 山 と違 って育. 児体験 を持 たない嘉悦 は,こ の問題 について他 にはほとんど論 じていない。 その 2は ,家 事経済 の統率 で あ って,嘉 悦 の論説 の大半 はこの問題 に集 中 し,下 田や鳩山 を越 えた嘉悦 の独 自な世界が展開す る。 日本女性の欠陥は,経 済思想 の乏 しさと活動性の低 さにあることを,嘉 悦.

(22) 90. 女性教育家の女子職業教育論. は早 くか ら看破 してい た。『新婦人』に発表 した「 日本婦人の三大欠点」 で は,「 第一は経済思想 に乏 しい」「第二は清潔 の念が乏 しい」「第三は活動力 が乏 しい」 といい,特 に第 1の 経済思想 につい ては,「 一 家 を経営 す るの は,経 済思想が其根本 とならな くてはならぬ筈 であ′ りますが, 日本 の婦人 に 不 は経済思想 が頗 る欠けて居 ります」 とい う 。そのことは,第 3の 活動力 を 発揮せ よとい う主張 ともつ なが っている。 家事経済 の第 1歩 は,予 算 を立て家計簿 をつ ける ことか ら始 まる。『婦人 世界』 において 11回 連載 した 「家事経済 の執 り方」 では,「 私 は予算 の必要 な ことをつ くづ く感 じてを りますので,家 計上の御相談 を受けました時 は勿 論 ,家 事 に関 したお話の出ます度 にいつで もこの家計予算 を持 ち出 してはそ の必要を唱へ てを ります」 とい う76。 彼女 の考案 した 『最新実用家計簿』 の 刊行 されたのは,こ の論説 の出た 19H(明 治 44)年 のことである。 翌年 ,『 弘道』 に載せた論説で も,「 一家の収入支出 を明にして一見判 るや うに して行 くことが肝要であ ります。従来で も小遣帳 などの設置 もないこ と はござい ませんが,今 日の忙 しい世の中に僅 に合計 に依 って始 めて過不足が 判明す るや うな大福帳式 の帳簿では殆 ど其 の効力があ りませぬ。矢張洋式 の 77。 帳簿一見収支過不足 の明瞭なもので な くては叶 ひませぬ」 とい う. 家事経済 の発想 は予算生活 をす ることだけでな く勤倹 の奨励 へ と展開す る。 1914(大 正 3)年 の論説 では,「 文明 も開化 も人生 の福祉 も悉 く勤労 の 結果であ ります」「婦人は如何 にすべ きか と云へ ば,種 々の方面 に今迄 とは 生れ更 った気持 になって,至 誠 の心 を持 ち,一 生懸命勤労 と倹約 とを並び行 ふや うにせねばな りません」「由来 日本人 は,金 を儲ける術 は知 って ヽも遣 ふ術 は知 らない と云はれて居 りますが,斯 る責任 は男子 よりも寧 ろ婦人 にあ ります」 とい う. 78。. 彼女 の主著 『怒るな働 け』 はこの翌年 に刊行 された。彼. 女 自身のモ ッ トーであ り,彼 女 の女子商業学校 の校訓 にされた。 そ こで問題 となるのは,婦 人の職業問題 である。上掲 90年 史では,米 騒 動後の「大正七年十月頃か らは,生 活難 を克服するためには主婦 も家庭外で 就職 に就 くことは しかたのないことだ とその主張 を変更 してい る」 と解釈 し.

(23) 三. 好. 信. 浩. て い るが7",彼 女 の語録 を追跡 してみ る と必 ず しも正 確 で はな い。以下 に. ,. この点 に関す る論説 を年代順 に紹介 してみ よ う。. 90年 史 の解釈 とは逆 に,日 露戦争 の 頃 の彼 女 は,時 局 の 中 で ,女 性 の 職 業 を肯定 して い る。「戦争 と生 産」 と題 す る論 説 で は,「 女子 は独 立 してな り 又 は男子 と携 へ て な り生 産上 に貢献 す るは是非必 要 の こ とであ ります」「成 るべ くは職業 な きもの には職 業 を与 へ 職業 を知 らぬ もの には職業 を教 へ ,以 て独立 的精神 と生産 的思想 と加味 し一 般 に発揮 し普及す る様 致 した きこ と ゝ 考 へ て居 ります」 と断言 して い る。そ の 際 ,西 洋 の例 を出 し,「 彼 の英米 国 人 の如 きも,男 も独立すれば女 も独立す る。 夫 も独立すれ ば妻 も独立す。親 も独立す れば子 も独立す る と云ふ有様 で ,而 して生産思想 は一般 に普及 せ ら れて生産事業 は至 る虎 に発達 して居 ります か らあの通 り国 も富 み兵 も強 い と 云 ふ 訳 で あ ります」 とい う80。 戦捷後 の論 説 で も,「 職業 を有 って居 る婦 人 は幸福 で す。 た とへ 今 日の様 な戦 後 で な くとも,婦 人 に職業 は是非必要 で あ ります。嫁 入 りをす るに至 らず方針 に迷 つて居 る婦 人 な どは,実 業家 に使 っ 創 て貰 ふのが一 番安全 に世 を渡 る道 で御座 い ます」 とまで い うので あ る )。. ところが,大 正期の論 説 になると,女 性 が独立主義 を通 して男性 の職業領 域 に入 り込 むことを警戒す るようになる。『怒 るな働 け』 の一部 を引用 して みると,「 女子 は女子 らしく,内 に在 って家政 を処理 し,夫 をして後顧 の憂 ひなか らしむると共 に,僅 かの時間 をも惜 しんで多少の収入 を図 り以て家計 の一部 をも補 ひ得 たならば実 に何 よ りの事 だ らう と思 ひます」 と記 してい る8'。 以後 の論説 において もその主張 は繰 り返 されてい く。以下 い くつ かの 語録 を抜抄 してみる。 「普通 の女子 は,子 女 を生み育 てた り家庭 を斉へ た りす る天職があ ります か ら,男 子 と同 じや うに独立 した職業 に従事 して行 くことはむづ か しい もの であ ります」「普通女子 の職業 に従事す ることは,家 庭 で出来 る職業,即 ち 所謂何 かの内職 とか小売店 とか,外 勤 して もならば少許 の時間で済 むや うな 田。 職業 を選びたい ものであ ります」 「経済思想 と云 って も,婦 人に生産的の仕事 をせ よと強 ひるのではあ りま.

(24) 92. 女性教育家の女子職業教育論. せ ん。 それ は寧 ろ男子 の務 めで ,普 通婦 人 と して心 得 べ きは,消 費経済即 ち 84。 日々の 家政 を執 るに当 っての一 番大事 な こ とであ ります」. 「一体女子 の天職は,男 子 に比 して軽 くあ りませんか ら,家 庭 に於 ける女 子 の 日々の務 は男子 に劣 らぬや う勤労すべ きであ ります。従 って其 れ以上 に 完全 なる一定 の独立的職業 に従事す ることは至 って困難であ りますか ら,普 通主婦 の従事すべ き職業 は所調 良人の職業 の補助. (伊 1へ. ば農工商に於ける耕. 売店 とか又 は外勤 して 作 ・製造 ・売買の補助 のごとき)何 かの内職 とか,月 ヽ 師 時間の少い責任 の軽 い ものを選 びたい と思 ひます」 。 「一般 の婦人 はその職業 に従事す る為 に,女 子 の負担すべ き所謂良妻賢母 の天職 を疎 にすることがあったらそれ こそ虻蜂 とらずに終 るものであ ります 86。 か ら,殊 更 に女子 の職業 を奨励す る必 要 はあるまい と思ひます」. 「爾来漸 を逐 うて向上 しつ ヽある女子 の地位 を急進せ しめん とし,男 子 を 凌が んとした一部 の人々の態度 は,果 して女子 の幸福 であったか,社 会を利 したか,よ く考へ て 自然 の命ず る女子 の本分 を尽 し,そ こに人間の幸福 ,即 ち国家の幸福 を見出 して頂 きたいのであ ります」. 87。. 最後 の語録 にも見 られるとお り,嘉 悦 の女子職業論 は,女 性解放運動家 の 考 えるような女性 自立論 とは趣 を異に していた。主婦 の職任 は家庭 にあると い う彼女の大前提 は,女 子商業学校創設 のころよ りも,後 年 に至るにつれて その語調 を強めてい く。下田 もそ うであ ったが,そ の理由はなぜか とい う問 題 は さらなる考察 を必要 とす る。 1919(大 正 8)年 の著書 『家庭生活 の改 造』 の中の一節 「教師保栂 で も,医 術助産看護 で も,著 作記述筆写で も,裁 縫手芸 で も,製 造売買で も,外 交勧誘 で も,事 務員書記で も,行 商耕作職工 で も宜 しいのですが,只 婦人の立場 ともいふべ き妻母 の天職 を妨げない程度. 88,彼. に致 したい思 ひます」 とい うのが. 女 にとつて ぎりぎりの女子職業論 で. あ った。. (3)女 子商業学校 の経営. 祖母 と父,そ して彼女 自身 も傾倒 していた横井小楠 の実学思想 を,商 業教.

(25) 三 好 信. 浩. 育 の場 にお い て生かすべ く,彼 女 自身 の女子商業学校 を開い たのは,1903 (明 治 36)年. のことであ り,市 郁芳樹が名古屋 において同種 の学校 を開 くよ. り4年 先行 してい た。やが て勃発 した 日露戦争 さ中の 1904(明 治 37)年 の 論説 では,女 子 の職業的自立 を果 たさせ ようとする彼女 の意気込みが語 られ てい る。「私等 も,今 回の 日露 の戦争 を機会 として,予 ねて熱望 し居 る虎 の 女子が一般 の生産思想 の発揮 と普及 とを図 り,兼 ねて社会上及 び家庭上の男 子 の業務 と収入 とに依 って生活せんとするの習慣 を改め じめんが為 の女子商 業学校 を新設せ しが,世 間一般 の女子 は未 だ其 の必要を認 めぬ為 めにや,或 は開校勿 々の折柄 なれば其趣意のある所 を一般 に知 られぬ為 めにや,生 徒 も 極 く少数 であ りますが,私 等 は我が国刻下の境遇 と将来の進運 とに察 して. ,. これ等設備 の必要にして又漸次 に発達すべ く信 じて居 ります」 とい うのであ る8"。 ちなみに,開 校時 は,定 員 150人 の ところ入 学生 はわず か 11人 に過 ぎなか った。 彼女 の 目ざした職業的自立は,世 間一般 の女子 にはその必 要が認 められな かった ものの,商 業界 はその挙 を歓迎 した よ うで,1906(明 治 39)年 の論 説 では,「 女子商業学校 の卒業生二十余名 は,正 金銀行 ・勧業銀行 。白木屋 ・三越 ・村井な ど云ふ各商店 に傭 はれて居 りますが,相 当の好成績 であるも の と見 え,各 所 か ら新 しい註文が続 々あ ります」 と報告 して い る 。 しか 9°. し,商 業 とい う校名 に侮蔑感 を抱 く,親 やその子女 の固定観念 を破 ることは むずか しく,の ちに大阪で開かれた講演会 では,当 時 を回顧 し,商 業 とい う 文字 を除 くよう周囲か ら忠告 を受けたけれ ども,「 私 は感ず る所 があって ど こ まで も商業 と云ふ文字 を附けて置 きました」 と労),そ の苦労 を語 ってい る。. 1907(明 治 40)年 に『女学世界』 に発 表 された「女子 と商業教育」 は. ,. その苦労 の中か ら出た若干 の軌道修正 がなされたことを示 してい る。「女子 をして穏健 なる経済思想 ,円 満なる常識 を啓発発達せ しむる為 めに,適 切な る商業教育 を施 し,家 庭 の整理者 ・慰藉者 として其本分 を完 うせ しむると云 ふのが本校 の 目的です。生徒 は皆なが所謂前掛主義 ですか ら,卒 業 の暁には.

(26) 94. 女性教育家の女子職業教育論. 独立 の商業 に従事 して先 づ 小商 ひか らや る と云 って今 か ら夫 れ を楽 しみ に し て居 る者 もあれば ,差 当 り会社其他大商店 の店員 となって 尚 ほ一層商業 上 の 智識 を得 た い と云ふ 希望 の 者 もあ ります し,ま た 自家 の 商業 の手助 け をす る と云ふ 者 もあ ります」 とい う92。 この 引用 の 前半部分 は,前 年 に制定 した学 則 の 第 1条 と合致す る。 「家庭 ノ整理 者 ・慰藉者 トシテ其本 分 ヲ完 フスル婦 人 ヲ養成 スル」 とい う そ の学則第 1条 か らすれば,独 立 の商業従事者 とか商店 の被傭者 となるこ と だけで な く,一 般 家庭 にお いて妻 とな り母 となって家事経 済 を掌 る婦 人 とな ろ う とす る者 に も,入 学 の機 会 を拡大 させ るこ とになる。彼女 の 目ざ したの は,特 に商家 の 内助者 となる婦 人 の養成 であ って ,そ の こ とは上 掲論 説 の 中 に も,「 愁 じ教 育 を受 けた為 め に気位 が 高 くな って ,商 家 の娘 で あ りなが ら 商売 を嫌 って商 ひは厭 だな ど云ふ様 にな られては大 きに困 る訳 です。私共 の 見 る虎 で も今 の女学生 中に は実際然 う云 ふ傾 向 が確 か にあ るや うに思 はれ ま す」「弦 に憂 ふ べ きは,所 謂 虚栄心 に駆 られ て徒 らに贅沢 な生活 を望 み ,自 ら大 い に働 くと云 ふ 考 へ が 甚 だ欠乏 して居 る と云ふ 風が見 える事 で ,前 掛姿 になる ことを嫌 った り店頭 に出てお客 に応 待す るこ とを厭 が った りす る と云 ふ は,約 り今 申す様 な虎 か ら起 る こ とで あ らう と思 ひ ます 」 とあ る こ とか ら93,首 肯 され る と思 う。 大正期 の語録 になる と,彼 女 の女子職業論 の後退 と軌 を一 に して ,一 般婦 人 の 家事 経 済 に力 点 を置 く よ う に な る。例 え ば,1915(大 正 4)年 の 著 書 『花 よ り実 を とれ』 では,「 女子 と商業教育 と申 しま して も,商 店 を出す女子 を養成す る とか 店員 となる者 を養成す る とかのみが 目的 で は ご ざい ませ ん。 女子 と して経 済思想 を有 せ しめて ,能 く家事 を整理せ しめて ,其 の 良人 を し て 内顧 の憂 ひなか ら しめん とす るのが ,此 の教育 の主 なる 目的 で あ るので ご 94。 ざい ます」 と記 して い る. 下 田 と鳩 山 の 女 学校 は,1925(大 正 14)年 に 「専 門学校 令」 に よる専 門 学部 の設置 を認可 されたが ,嘉 悦 の学校 はそれ よ り遅 れて 1929(昭 和 4)年 にその認可 が下 り日本女子高等商業学校 となった。 これは 同校 の商業科 が 昇.

(27) 三. 好. 信. 浩. 格 した もので,普 通科 は女子商業学校 として継続 した。その女子商業学校 は 「各種学校規程」 に準拠す るものであ ったため,1938(昭 和 13)年 に「商業 学校規程」 による正規の商業学校 に組織変更す ることにな り,嘉 悦 か らの 申 請書が文部大臣 に提出された。その文書 の中には文部省 の係官が記 したと考 えられる長文 の朱書 の「備考」 がつ けられていて,家 事整理 の内助者 として の良妻賢母 の教育実績が評価 されてい る。同校 の沿革誌な どにあ らわれない 文書 であ るため,以 下にその一部 を引用 してみ よう。 「日本女子商業学校 ハ ,現 学校長嘉悦孝子 ガ明治三十六年神 田錦町東京商 業学校 内二私立女子商業学校 ヲ創立 シ,女 子 二高等普通教育 ヲ授 クル ト共 二,商 業及経済 二関スル思想 ヲ涵養 シ,実 務 二対 スル趣味 ヲ感得 セシメ,良 妻賢母 ノ実 ヲ挙 ゲ,夫 ノ家事 ヲ整理 スルニ当 り其 ノ内助 二於テ遺憾 ナカラシ メンコ トヲ期 セシニ始 マ リ,女 子 ノ商業教育 トシテハ最 モ古 キ歴史 ヲ有 スル モノナ リ」. 95)。. お. わ. り. に. 教育職 や医療 ・看護職 な どを除 き,産 業 に関係 す る職業教 育 に貢献 した 3 人 の女性教育家 を取 り上 げ て ,女 子職業教育 の考 え方 と学校経営 の状況 につ い て分析 してみた。 3人 には多 くの共通点 が あ る こ とが 判 明 したが ,そ の こ とは,戦 前期 日本 の女子教育 の思想 お よび構造 と無 関係 で はない 。特 に次 の. 3点 の共通点 は重 要 で あ る。 そ の 1は ,3人 とも女性 の天職 を家庭 に置 くこ とに共通す る。家政 (特 に 育児養育 と家事経済 )の 統轄者 としての女性 が ,男 性 に伍 して職業婦 人 とし て 自立す ることには消 極 的 で あ る。女性 の一生の 中に生ず る運 命 によって. ,. 万や む を得ず職業 に就 くことを余儀 な くされ る状 況 を想 定 して職業 へ の準備 教育 をなす もので あ って ,そ の職業 は主 婦 と しての女性 の役割 と背馳す る質 の もので はない 。 そ の 2は ,「 は じめ は 脱 兎 の 如 くあ とに は処 女 の 如 し」 とい う諺 の よ う.

参照

関連したドキュメント

1着馬の父 2着馬の父 3着馬の父 1着馬の母父 2着馬の母父 3着馬の母父.. 7/2

大学は職能人の育成と知の創成を責務とし ている。即ち,教育と研究が大学の両輪であ

教育・保育における合理的配慮

Q3-3 父母と一緒に生活していますが、祖母と養子縁組をしています(祖父は既に死 亡) 。しかし、祖母は認知症のため意思の疎通が困難な状況です。

女子の STEM 教育参加に否定的に影響し、女子は、継続して STEM

 英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき

また自分で育てようとした母親達にとっても、女性が働く職場が限られていた当時の

1着馬の父 2着馬の父 3着馬の父 1着馬の母父 2着馬の母父