日本における女子高等教育論の歴史的展開:関係語録50選 :女子大学論考(第1報)
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(2) 72. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. い抵抗運動 に よって 女子 大学 と して踏 み止 ま った。全般 的 に見 る と,60年 代 に 300校 を数 えた女子 大学 (2年 制 を含 む)は ,9o年 代 に入 る と 60数 校 に減少 した。 しか し,注 目す べ きことは,生 き残 りに成功 した女子大学 にお い て ,新 しい ジ ェ ンダー論 が 構築 され ,共 学化 の流 れ に歯止 め をかけつつ あ る こ とであ る。 アメ リカ女 性大学連 合 (Women's College Coalidon)で は. ,. 横 の連携 を強め ,女 性 の心理 や生理 ,道 徳観 や認識法 な どに立 脚 した ,女 性 特有 の教育課程 や教授 法 をア ピール して い る。 この 間 の経緯 は,坂 本辰朗氏 の 『アメ リカの女性大学 ・危機 の構造』 (東 信堂,1999年 )に 詳 しい。 日本 の場 合 は ど うか。考 え られ る選 択肢 は 3つ あ る。そ の 1は. ,平 等 の原. 則 に立 って共学化 に踏み切 るか ,そ の 2は ,受 験生 の選択 に まかせ て この ま ま流 れて い くか ,そ の 3は. ,新 しい女子大学像 を模索 して共 学大学 に見 られ. ない特色 を発揮 す るか ,で ある。 「女子大学論 考」 と銘打 った本研 究 で は,そ の 3の 途 につ いて ,ど こ まで 理論構築がで きるか を考 えてみ た い。 さ しあた り本稿 で は ,日 本女子 高等教 育 100年 の 歴史 の 中で ,そ れ を推進 した先 覚者 たちは何 を考 え,そ してその 考 えは今 日どの域 に まで到達 して い るか につ い て ,関 係 者 の 語録 50件 を掲 出 してみ る。 い ずれ も,何 らか の形 で これか らの女 子大学論 に参考 となる も ので あ る。配 列 は 当該語録 を発 した人物 の生 年順 に して い る。 本来 な らば ,今 日盛況 を見 せ て い る高等教育研究者 たちの語録 を引用す べ きであ るが ,多 くの論者 は この 問題 か ら目をそ らそ う と して い るためその語 録 は見 当 らず ,わ ず か に女性学研 究者 の批判 的言辞 ,つ ま りそ の 1の 共学化 を支 持 す る意 見 が 目立 つ 程度 である。 そ の 3の 方 向 での教育学 的 な理論 づ け が どこまで 可能 なのか ,筆 者 の これか らの研 究課題 となる。. ①広瀬宰平 (1828∼ 1914) (略 歴)近 江国野洲 に生 まれ,別 子銅山 に奉公。明治維新 の とき住友 の危機. を救 い,関 西財界の実力者 となる。成瀬仁蔵が最初の女子大学 を大 阪に設けることを企 図 した ことに対 して支援 をしたが,実 現 に至 ら.
(3) 三 好 信. 浩. なか った。 1897年 一―「女子教育 の必要 と云ふ者 は,是 非男女が共 に学問に進み,双 方相並 んで鳥居 の両柱 の如 くに相立て, しつか り鳥居 を支へ て居 る様 になら ねばならぬ といふ次第で ある」「此 の鳥居 を両人が しつ か り支へ て居 ると ,. 一方 では男子が外交 や ら金儲けの事 は皆 して くれ る。又一方では学問のあ る 女子が家内の経済や子供 の躾方や,凡 て家政 を纏めて,安 心 の出来る様 にや つて行 く道理がある。況んや,此 の学問のある両人の間 に出来 る子供 に於て をや」 (青 木恒三郎編 『女子教育演説』青木嵩山堂 ,1897年. )。. ②大限重信 (1838∼ 1922) (略 歴)佐 賀藩出身の明治維新 の元勲。新政府 の要職 を歴任. して,明 治 14. 年 の政変で下野。小野梓 らと東京専 門学校 (現 早稲 田大学)を 創 立。その後政界 に復帰 して,外 相 ,総 理大臣 となる。成瀬仁蔵 の女 子大学計画を支援。191o年 早稲田大学総長。 1902年 一―「 日本婦人の優美なる点 は只今お話 した通 りですが,益 々其優 美なる所 を発揮す ると同時に,科 学的智識 を与へ る事 が極 めて必 要である と 考へ て,私 も前 後数年 間力 を尽 くし,女 子大学 を昨年 4月 に設立致 したの で,其 設立 の主意は女子 も男子 と同様 に充分学問 を学ぶ事 が必要である,け れ共男子 の学校 に女子 を加へ るのは如何 であ らうか と思つ て,別 に女子大学 を興 した訳であ ります」 (『 をんな』2巻 3号 ,1902年 2月. )。. ③渋沢栄一 (1840∼ 1931) (略 歴)武 蔵国 に生 まれる。幕末維新期 を,百 姓 ,志 士 ,幕 臣,大 蔵官僚 と. して生 きる。1873年 か ら実業界 に入 り日本資本主義 の最高指導者 となる。商業教育の支援者 として活動す るとともに,東 京女学館. ,. 日本女子大学校など女子教育 の振興 にも寄与 した。 1912年 一―「余が理想 とする女子教育 の本領 は,男 子 と略 々同様 なる学問 をさせて智識 を錬磨せ しむると同時に,古 来女子 として尊敬 されて来た所 の.
(4) 74. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 三関係語録 50選. 女子 の特性 を益 々発揮せ しむる点にあると考へ る。故 に女子 にも高等 の学府 を設けて,男 子同様 に最高 の学術 を研究すべ き機関をつ くる必要があ るので あ る。而 して余が従来虎 の間の女学館 の事 を世話 をするの も,又 成瀬仁蔵氏 の校長 たる日本女子大学校 の経営 に一腎 の労 を惜 まぬの も,其 の趣旨は全 く 其処 にあるのである」 (渋 沢栄 一著 ・井上正之編 『青淵百話』 同文館 ,1912 年)。. ④外山正一 (1848∼ 1900) (略 歴)江 戸 に生 まれ,1866年. 幕府留 学生 として イギ リス に留学。 アメ リ. カ駐在外交官を経 て ミシガン大学 に留学。帰国後 ,開 成学校 ,東 京 大学教授 とな り,東 京帝国大学総長 ,文 部大臣な どを歴任。 スペ ン サ ー学説 の紹介で知 られる。 1888年 一―「余 ノ考 ニテハ,我 国女子 ノ高等教育ハ,此 レヲ宣教師社会 ニ 托 スルノ外上手段 ハ アラザ ルナラ ン」「女子 ノ教育 ニ シテ家事経済 卜家内衛 生 ノニ科 ヲ欠 クモ ノハ決 シテ完全 ナル教育 トハ云 フベ カラズ」 (辻 岡文助編 刊 『高名大家女子教育纂論』 1888年 )。 1897年 一―「女子 は何処迄 も女子 の性理上の特性 ,女 子 の精神上 の特性. ,. 女子 の社会上の職分 に能 く応 じた流儀 の教育 を授 けて行かねばならぬ。女子 の本分 を充分尽 させる様 に女子 の本性 を充分発達せ しむる様 に教育 して行か ねばならぬ」 (吉 本竹次郎編 『教育大家女子教育論纂』普及社 ,1897年. )。. ⑤広岡浅子 (1849∼ 1919) (略 歴 )京 都 の三井家 に生 まれ,17歳 で大阪 の富豪加賀屋 に嫁 ぐ。維新 の. 動乱期 に家業 の挽回のため実業界 に入る。成瀬仁 蔵 の 『女子教育』 に感動 し,日 本女子大学校 の発起人に加 わる。 19H年 大阪教会 で 受洗 し, 日本 YWCA中 央委員な どをつ とめた。 1908年 一―「今 日の 日本 の女子 は,高 等教育が普及 して居 らぬ結果,人 格 が低 くして未だ動物性が放れない。思慮が浅 くして分別が無 い。 これは女子.
(5) 三 好 信. 浩. 75. の 欠点 であ つ て ,漸 次 に直 して行 かねばな らぬ 。之 を直す には高等教育 が必 要 で あ るが ,如 斯 薄弱 なる意思 を持 つ て居 る女子 を放 つ て男女共学 の 制 を採 り,男 子 の群 の 中に立 た しむる と云ふ事 は,恰 も餓虎 の許 に群 羊 を送 るが 如 く危 険千万 の事 で あ つ て,折 角勃興 しかけた女子教育 の前途 の為 め に反 つ て 災が生 じはせ ぬ か と云 ふ 事 を深 く憂 ふ るので あ ります」「私 の考 へ で は男女 共高等教育 の設備 は私 立 に一任す るが 宜 しい と思 ふ」(『 新婦 人』143号 ,1908 年 4月. )。. 玄 (1849∼ 1925). ⑥ 山脇. (略 歴)福 井藩医 の家 に生 まれ,1870年. ドイツ留学。ベ ル リン大学 な どで. 法律 を修 める。77年 に帰国後司法省 に出仕 ,91年 法制局部長。貴 族院議員 として,壇 上 よ り女子 に対す る大学開放 を説 く。妻ふ さは 山脇高等女学校長。 1919年 一一「教育 の 自由,職 業 の 自由,並 に政治的活動 の 自由が解決 され るなら,或 る意味 に於 て婦人問題 も亦解決 されたもの と云つ て大過 ないであ らうと思ふ。之 を要す るに男子大学 の開放 は,如 何 なる方面か ら考へ て も喫 緊な問題 である」 (『 婦女新聞』989号 ,1919年 5月. )。. 1920年 一―「今 日までの実験心理学 の研究 に依 りまする と,女 子 は智能 に 於 て男子 に劣 つ て居 りませぬ。此 の方面 か ら申 します と,所 謂良妻賢母主義 を強要 しまして,其 職業選択 の 自由を剥奪すべ き理由は認 め得 ないのであ り ます。女子 も男子 の如 く其稟賦 と趣味 とに応 じて家庭外 の職業 に就 く自由を 有 し,之 が為 に男子 と同 じく高等教育 を受 くる権利 を持つ と云ふ論結 をなす に至 つ たのであ ります」 (「 貴族院議事速記録抄」『教育時論』 1051号 ,1920 年 7月. )。. ⑦湯本武比古 (1857∼ 1925) (略 歴)長 野県 に生 まれ高等 師範学校 を卒業。1884年 文部省編輯 局 に入. り,89年 ドイツ留学。帰国後学習院教授。96年 開発社 に入 り『教.
(6) 76. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選 育時論』 の主 幹 となる。 ヘ ルバ ル ト派教育学説 を紹 介す る著作物多 数。. 1897年 一―「女子 大学 の 如 きは,無 論 国家 の 猶 ほ設 立 す べ き もの にあ ら ず。男子 の大学校 さへ 不足す る有様 なるに,国 家が何 の余裕 あ りてか 之 を設 くべ き。但 し之 を私設 し学 問的職業 の為 め に 自 ら高等教育 を受 けん とす る女 子 の 為 め 充分 なる月謝 を取 りて 教 育 す と日は ば,固 よ り不 可 な きのみ な ら ず ,私 は女子大学校又高等女子専 門学校 の如 きものの続 々私設 せ られん こ と を望 む もの な り」 (吉 本 竹 次 郎 編 『教 育 大 家 女 子 教 育 論 纂』普 及 舎 ,1897 年 )。. ③鎌 田栄吉 (1857∼ 1934) (略 歴 )和 歌 山藩 に生 まれ ,慶 應義塾 卒 業。母校 お よび地 方 で 教 職 に従事. し,1894年 衆議 院議 員。97∼ 99年 欧米視 察後 ,慶 應義塾 塾 長 とな り,福 沢諭吉 の教育方針 を継承発展 させ た。 1906年 貴族 院議 員 ,22 年文部大 臣 となる。. 1908年 一一「学 問 を研 究す る方面 か ら云ふ て も,男 性 の見 たる方面 と女性 の 見 たる方面 とは 自か ら其趣 が異 な り,男 性 の観察力 の届 か ぬ処 を女性 の力 に依 つ て発見す るこ とが あ るか も知れ ない 。 そ こで益 々女性 の学術研 究が必 要 になる」 (手 島益 雄編 『女子 の新職業』新公論社 0新 婦 入社 ,1908年. )。. 1919年 一―「故成瀬仁蔵君が今 の女子大学 を設立す る頃 ,私 に も賛成 を求 めた事 が あ つ たが ,其 頃私 は 同君 に対 し,“ 女子 大学 を創 設す る事 には勿論 異存 はないが ,何 故 一 歩進 んで男女共 学 の大学 を創設 しない か ,今 日の社 会 状態 が 其処 まで進 んでゐない な らば致 し方 もな いが ,私 は大学教育 に就 ては 男女平等 で ,混 合教育 をなす べ きが至 当 で あ る と思 つ てゐる。故 に今 日の社 会状態 が之 を許 さない な らば ,其 の意味 に於 て女子 のみ を入れる大学 の設立 に賛成す るが ,併 しそれ も永久 の賛成 で はな く,将 来 は どう して も男女共学 であ らね ば な らな い"と 言 つ た事 を今 で も記憶 してゐ る」 (『 婦女新 聞』 986 号 ,1919年 4月. )。.
(7) 三. 好. 信. 浩. ⑨ 中山整爾 (1858∼ 1926) (略 歴 )東 京専 門学校 (現 早稲 田大学 )卒 。 1888年 には,『 社 会改 良女子教. 育新論』『 日本将来 の婦 女』 を出版 し,女 子教 育 の必 要性 を説 く。 そ の 後 ,博 文館 編集長 ,『 芸備 日日新 聞』 主 筆 な どを経 て ,政 界 に 入 り,農 相 ,蔵 相 をつ とめた。. 1888年 一一「余輩 は,婦 女 の現状 を改 良す るは女子 を して完全 なる高等 の 教 育 を受 け しむるに在 りと考 ふ る もの に して ,婦 女 に して完全 なる教育 を受 くるに於 ては 自然 に従 来 の弊風 を一 掃 し得可 しと論 ず る もの な り」「婦女現 時 の状態 を改 良せ ん とす るの 要 旨は,実 に婦女 の地位 を高 めて男子 と同等 な ら しむるに在 るが 故 に,婦 女改 良 を理 由 として女子 の教育 を主 張す るには. ,. 男女 の教 育須 ら く同 一 なる可 しと論ぜ ざる を得 ざる もの あ るな り」 (中 山整 爾 『社会改 良女子教育新論』伊藤整之堂 ,1888年. )。. ⑩ 成瀬仁 蔵 (1858∼ 1919) (略 歴 )周 防国 に生 まれ ,山 口師範学校 卒業後小 学校教員 となる。 キ リス ト. 教 に入 信 し,1878年 梅花 女学校教 員 とな り,90∼ 94年 にア メ リ カ 留学後 ,同 校校長 をつ とめた。大阪 にお いて女子大学校 設立 を計画 す る も成功 せ ず ,1901年 に東 京 で 日本 女子 大 学校 を創 設 した。女 子教育 に関す る著書多数。女子高等教 育論 のパ イオニ アである。. 1896年 一―「本 邦 の 高等 女子教 育 は,米 国 の 高等 女子教 育 に模 倣 す べ き や。否 ,不 可 な り」「本邦 の高等 女子教 育 は,国 情 ・国勢 に適応 す べ き もの な らざる可 か らず 」 (成 瀬仁蔵 『女子教育』青木恒 三郎 ,1896年. )。. 1897年 一―「第一 ,女 子 を人 間 と して教育す る こ と,第 二 ,女 子 を日本婦 人 と して教 育す る こ と,第 三 ,女 子 を 日本 国民 と して教 育す る こ と」 (青 木 恒 三郎編 『女子教育談』青木嵩 山堂 ,1897年. )。. 1897年 一―「之 を創設す るの順序 は,通 常 の場合 よ り之 を云 はば,先 づ 東 京 よ り着手 し順次 関西九州 に及 ぼす べ きを以 て当 を得 たる もの な りと信ず。 然 るに 日本 の教育 は殆 ん ど東京 に吸集 せ らるるの観 あ り。是 れ 日本教化 の為.
(8) 78. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. め に決 して賀す べ きの 慶事 にあ らざるな り。教化 の 中心 は成べ く之 を地 方 に 分 配 せ ざるべ か らず」 (青 木恒 三 郎 編 『女 子 教 育 演 説』青 木 嵩 山堂 ,1897 年 )。. 1905年 一―「本校 は何所 まで も教 へ る所 は 日本 の女子 に必 要 な物 で無 くて はな らぬか ら,他 の男子 の大学 と学科 の程度 を同 じうせ ん ともせ ず ,元 よ り 帝 国大学 とも異 へ ば,英 米 の女子大学 とも大 に異 つ て居 る次 第 で あ る」 (『 女 学世界』 5巻 9号 ,1905年 7月. )。. 1914年 一一「共学 の殊 に盛 なる米 国 に在 りて も,家 庭 の多数 は之 を希望 せ ず といへ り。殊 に欧 米 と風俗習慣 を異 にす る我 が 国 に於 て は,共 学制 を以 て 本体 と為す べ きに非ず。而 も亦全然分 離主義 を取 る こ とも事情 上 不可能 に し て且 つ 其 の必 要 なか らん」 (成 瀬仁蔵 『新時代 の教育』博文館 ,1914年. )。. 1918年 一―「今後我 国 の女子高等教育 は,一 方 に於 ては特立 の女子大学制 度 を設 けて徹底 せ る女性教育 の途 を開 き,他 方 に於 ては一 定 の制 限 の 下 に男 子大学 の 問戸 を開放 して ,女 子 の為 め に研 究 の便利 を与 ふ る ことを以 て ,最 も有効適切 なる方策 と信 ず るのであ る」 (成 瀬仁蔵 『女子教 育改 善意見』 パ ンフ レッ ト,1918年. )。. ⑪久津美息忠 (1860∼ 1925) (略 歴)江 戸 に生 まれ,独 学 で代言人開業試験 に合格。 ジャーナ リズムの世. 界 に入 り,『 東洋新報』『万朝報』『長野 日日新聞』『函館毎 日新聞』 『東京毎 日新聞』 などを渡 り歩 く。直言的な教育論説 で有名。 1897年 一―「女子教育 に於 て も,男 子教育に於けるが如 き系統的組織 の備 はらん事 を希望す」「余 の希望す る系統的女子教育 の組織 は,男 子教育 の系 統的組織 の如 く尋常小学 よ り起 りて大学 に至 る まで を云ふ」「余 は女子 と 雖,家 外的事業即 ち公共の事 に当ることを得べ きものあるを信ず。故 に女子 の為めに設 くる大学 の設備 の如 き最 も必要 とする所な り。但 し,特 に独立 し て女子大学 を設 くべ きや否や,此 等 は一の問題 な り。外国にあつ ては特 に女 子大学 を設けず して男子 と共に女子 に高等教育 を施す所あ り。然れ ども我邦.
(9) 三. 好. 信. 79. 浩. の事情 として,或 は此 の如 く為す を非難す るものなきにあらざるべ し。余 の 思考す る所 に依 れば,男 女同席 の教授 は尋常小学 と最 も高等 の学校等 に於 て は敢 て差支なかるべ し。故 に或人の発意 に依 りて特 に女子大学 を設 くるは別 問題 な り。現存 の帝国大学 の如 き,若 し女子 にして之に入る事 を得べ き者あ るに於 ては,之 に入学せ しむる も可 なならん」 (吉 本竹次郎編 『教育大家女 子教育論纂』普及社 ,1897年. )。. ⑫横 田秀雄 (1862∼ 1938) (略 歴 )信 州松本 に生 まれ,帝 国大学卒業。大審 院判事 ,大 審院長 をつ と. め,法 の前 の平等 の原則 か ら女性 の権利 を認める判決 を下す。 1924 ∼1934年 明治大学学長 をつ とめ,法 学部 と商学部 に女子学生 の入 学 の道 を開 く。 1929年 一―「女子 が人格 に目覚 めたる今 日に於 て,又 生存競争が 日に月に 激甚 を加へつつあ る現代社会 に於 きましては,女 子がその百世 の苦楽 を男子 の手 に委 し,家 庭 に籠居 して安逸 を貪 ることを許 されないのであ ります。時 と場合 とに依 りましては,女 子 自か ら社会に活動 して自か らその運命 を開拓 し,一 身一家 の為 ,又 国家の為 に尽す といふ ことが な くてはならぬ。併 し是 はどう して も教育 の力 に侯たな くてはならぬ。而 も高等 の教育 に依 つて始 め てこの 目的 を貫徹す ることが出来 るのであ ります」 (明 治大学専 門部女子部 開講式 の挨拶 ,『 明治大学百年史』第 4巻 通史編 Ⅱ,1994年. )。. ⑬麻 生正蔵 (1864∼ 1949) (略 歴 )豊 後国 に生 まれ,同 志社 を卒業 して帝国大学 を中退 ,教 職 に従事す. る。成瀬仁蔵 に協力 して 日本女子大学校 の創設 に寄与 し,1904年 同校学監 となる。同校 を昇格 させ て女子総合大学 を設立する計画 を 立てたが,文 部省 に認 め られなか った。 1923年 一―「私共 の将 に設立せん とす る女子 の綜合大学 なるものは,余 り に広言なや うではあるが,実 に古今無双 ,東 西絶無な創始的 な燦然たる特色.
(10) 80. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. を具 へ たる大学 なる こ とを確信 す る もので あ る。それ は婦 人 の本 質的特徴 を 中心 として大学 を編成 し,学 課 を案排 し,そ の本質的特徴 を発揮 せ しむる学 風 を起 し,共 に精神 教 育 ,人 格教 育 に重 きを置 くといふ 処 にその主意 が あ. る」「女子綜合大学 は,女 子 の本質的特徴 に適合 し,そ れを発揮 せ しめて女 子 の天分 を伸 ば し,そ の天職 を全ふ し,社 会国家人類世界 に貢献す る と共 に,一 方 には女子教育改善 の資 に供せ しめや うとするものである」 (『 婦女新 聞』 1210号 ,1923年 7月. )。. ⑭津 田梅子 (1864∼ 1929) (略 歴)江 戸 に生 まれ,6歳 の とき開拓使か ら派遣 されてア メ リカに渡 る。. チ ャールズ・ ラ ンマ ン宅 に寄寓 し,14歳 でステ イブ ンソン・セ ミ ナ リー,18歳 でアーチ ャー・ イ ンス テ ィチュー トを卒業。帰国後 教職 に従事 し,1889年 再渡米。1900年 に女子英学塾 (現 津 田塾 大 学)を 創設 し,女 子高等教育 の草分け となる。 1893年 一―「偶欧米女子高等教育の進歩 に付左一稿 を見 て大に感ず る処 な きに非ず。そ も此一篇 は,ペ ンセルバニ アの大学校 にて此度更 に女子 の入学 を許 さんとするに際 し,其 開校式場 に於 てプレンマー女子大学 の教幹博士 ト ーマス女史が演説せ られたものの抜率 に過 ぎざれども,此 を見 て以て欧米女 「窺ふ を得べ く,又 これ を我国女子教育 の程度 に比較 して大 に 学 の進歩に付耶 学ぶべ きところなきにあ らず」 (『 女学雑誌』351号 ,1893年 8月. )。. 1900年 一―「専門の学問 を学 びます と兎角考へが狭 くなるやうな傾があ り ます。一つの事 に熱中す ると,他 の事柄 を忘 れがちになるものです。英語 を 専門に研究 して,英 語 の専門家 にならうと骨折 るにつ けて も,完 たい婦人 と なるに必要な他の事柄 を忽せ に してはな りませ ん」「此 の塾 は女子 に専門教 育 を与へ る最初 の学校 であ ります」 (開 校式 の式辞,『 津田梅子文書』)。. ⑮沢柳政太郎 (1865∼ 1927) (略 歴)信 州松本 に生 まれ,帝 国大学卒業。高等師範学校長 ,文 部次官な ど.
(11) 三 好 信. 浩. を歴 任 。 19H年 に東北帝 国大 学総 長 とな り,例 外 的 なが らも女 子 学生 の入学 の途 を開 く。京都帝 国大学総長 の とき沢 柳事件 で辞職。 晩年 ,成 城学 園 を創設 し,新 教育 の実践 をなす。. 1908年 一―「高 尚な る学問 を修 め る ものの 目的 は,多 く上流 の家庭 に嫁入 らんが 為 の予備 に過 ぎない が ,嫁 入 して後職業 を執 る必 要 はないので あるか ら,高 等 なる職 業教育 を一般 の婦 人 に施す必 要 は無 い であ らうと思 ふ 。若 し 女子 に高等 なる専 門教育 を施す必 要 あ りとす れば ,夫 れは不幸 なる女子 か. ,. 又 は学 問 を道 楽 に修 め る少数 の 女子 に必 要 な ので あ る」「欧州 で は,今 よ り 四十年前大学 を開放 して女子 に も聴講 を許すや うに との議論 が盛 ん に行 はれ たる結果 ,今 日で は何 れの大学 で も女子 の共学 を許 して居 るが , 日本 で は何 故 に此 論 が起 らぬ ので あ ら うか」 (手 島益 雄編 『女子 の新 職業』新公論社 新婦 入社 ,1908年. 0. )。. ⑩ 安井哲子 (1870∼ 1945) (略 歴 )東 京 に生 まれ ,女 子 高等 師範 学校 卒 業。 1897∼. 1900年 イギ リス留. 学 ,帰 国後母校 の教授 となる。海老名弾 正 か ら受洗後 ,バ ンコ クの 女学校 に転 出。東京女子大学 の創 立 に参加 し,新 渡戸稲造 の後 を受 け ,第 2代 学長 をつ とめた。. 1919年 一―「 日本 の様 に青年男女 が美 しく交際す るの機 会少 き国 に在 つ て は,共 学 が 齋す弊害 や不都合 は種 々起 らうと思 はれ ます。此 の 頃 の男子 は最 も元 気 があ つ て意気激涼Jた る もの あるに反 して ,女 子 は至 極 女性 的 に優 しく あ ります か ら,此 の両極端 の男女 の共学 は教 育 上決 して効果 あ る もの とは思 はれ ませ ぬ」 (『 婦女新 聞』990号 ,1919年 5月. )。. 1924年 一―「 この学校 は職業教育 を行 はず ,LiberJ Collegeと して一 方 に 偏 しない広 い教養 をさず ける学校 に した い」 (学 長就任 の辞 ,『 東京女子大学 五十 年 史』研文社 ,1986年. )。.
(12) 82. 日本 にお ける女子高等教育論 の歴 史的展 開 :関 係語録 50選. ⑫幣原 坦. (1870∼ 1953). (略 歴)大 阪府に生まれ,帝 国大学卒業。1913年. より広島高等師範学校第 2. 代校長 ,28年 台北帝 国大学総長 となる。植民地教育論 で有名。. 1898年 一一「従来欧米諸 国 の経験 に よれば……女子 は男子 と甚 しき差異 を 見 ざるが故 に,漸 次大学 の 門戸 を女 子 に開 き,現 今独逸 を除 きては,欧 米 の 諸大 国 は皆女子 の大学教育 を許す まで にな りた るな り。然 りと雖 ,其 可否 に つ きては猶議論 の全 く統 一 に帰 せ しにはあ らず と知 るべ し。 今我邦 の状況 に 照 ら して之 を考 ふ る時 は,女 子 の大学 は設置す る も可 な りと雖 ,到 底未 だ完 全 隆盛 の もの は望 むべ か らざるな り」「 た とひ又女子 の 大学教 育 を行 ふ 時 と な りて も,余 は是 を男子 の大学 と合併 して所謂共 同教育. (コ. エ デ ュケ ー シ ヨ. ン)を なす は不可 な りと思惟 す る もの な り。本来性 を異 にせ る者 を集 めて. ,. 之 に同 一 の 高等 教 育 を施 す は已 に妥 当 な らず」 (幣 原 坦 『女 子 教 育』集 英 堂 ,1898年. )。. ⑬ 田所美治 (1871∼ ?) (略 歴 )帝 国大学卒業後 ,文 部官僚 と して ,参 事官 ,普 通学務局長 ,文 部次. 官 な どをつ とめ た。教育審議 会 の特 別委員長 と して 1940年 に女子 大学設置 の答 申 を まとめたが ,戦 時体制下 にお いて実現す るに至 ら なか った。. 1940年 一―「今 ヤ世運 ノ進歩 ハ 著 シク,殊 二東 亜 乃世界 二於 ケ ル歴史的重 大時局 二 当面 シテ ,男 子 二対 スル ト等 シク女子 二対 シテ 国家 ノ期待 スル所亦 極 メテ大 ナ ルモ ノガアル ノデア リマス。即 チ 国家社会 ノ各方面 二亘 リテ指導 的女性 ヲ必 要 トスル ノ ミナ ラ ズ,学 術 ・文化 二 関 シテモ女性 ノ協カ ニ侯 ツベ キ部面 ハ 決 シテ少 クナ イ ノデア リマス。此 ノ秋 二 当 り大学令 二依 ル女子大学 ヲ特設 シ,篤 学 ノ女性 二対 シテ大学教育 ヲ受 クルノ途 ヲ開 キ ,時 代 ノ要望 ニ 応 ズル指導的女性 ノ育成 卜我 ガ国女性文化 ノ発揚 トニ貢献 セ シムル コ トハ. ,. 蓋 シ喫緊 ノ要務 ナ リ ト謂 ハ ネバ ナ リマセ ヌ。 固 ヨ リ等 シク大学令 二依 ル ト申 シマ シテモ ,其 ノ学 部 ・学 科 ハ 文 学部 ・理 学 部 ・医学 部 ノ如 キモ ノ ヲ主 ト.
(13) 三. 好. 信. 浩. シ,総 ベ テ之 ヲ男子 ノ大学 卜同様 タラシメル趣 旨デハ ア リマセ ヌ。要 ハ ,我 ガ国女子 ノ特性 ヲ顧慮 シテ女子 二適切 ナ ルモ ノ タラシムル コ トガ肝 要 デア リ マ ス 。特 二 家庭経 済 ・育児 ・栄養 等 家 政 二 関 ス ル 学術研 究 ノ 国家 的重 要性 愈 々加 ハ リ来 リタル ニ鑑 ミ,家 政 二 関 スル学科 ヲ加 フル ヲ得 シメマ シタ コ ト ノ如 キ モ其 ノ精神 ノ発露 二外 ナ ラヌ ノデア リマ ス。 尚女子大学 ノ特設 ヲ認 ム ル所 以 ハ ,原 則 トシテ女子 ノ大学教育 ハ 女子大学 二於 テナサ ルベ キ コ トヲ期 待 スル ノデ ア リマ ス」 (教 育審議 会 の特別委員長 と して ま とめた 「女子大学 創 設 二 関 ス ル 報 告 要 領」,桜 井 役 『女 子 教 育 史』増 進 堂 ,1943年 よ り引 用 )。. ⑩吉岡弥生 (1871∼ 1959) (略 歴 )静 岡県 に生 まれ,男. 女共学 の済生学 舎 に学 ぶ。 1892年 に医術 開業. 試験 に合格 し,夫 荒太 と至誠病院を経営。済生学舎 の女子生徒入学 停止 に対処す るため,190o年 に東京女医学校 (現 東京女子医科大 学)を 創立 し,女 子医学専門教育 の先駆者 となる。 1927年 一―「男女 の協力 に依 らず して成就 した現在の文明は,人 類本然 の 道 よ り云ふ も変態的現象 であ らねばならぬ。此れを本態 に呼戻す には,女 性 文化 を飽 くまで高唱 しな くてはな らないの は,私 見 のみではあるまい と思 ふ。斯 く如何 なる方面 よ り考究す るも,女 子高等教育 の向上は,実 に緊急中 の緊急事 である。殊 に大学教育 を女子 に堅 く門戸 を閉 して居 るが如 きは,実 に何 と批評すべ き言葉 もない」 (『 教育時論』 1520号 ,1927年 9月. )。. ⑩下 田次郎 (1872∼ 1938) (略 歴)広. 島県 に生 まれ,帝 国大学卒業後 ,文 部省 に入 り,1899∼ 1902年. 欧米留学。生涯 を東京女子高等師範学校教授 として過 ご し,女 子教 育 に関す る著書多数。 1904年 一―「女子 の高等教育 に至ては,我 国の教育中最 も後れて居るもの で,大 学程度 の 自由. (リ. ベ ラル)な る女子 の教育 は絶無 である。此点に於 て.
(14) 84. 11本. における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. 最 も日本 は他 の 文 明国 に後 れ て居 る」「女子 の 高等教 育 が 今 日まだ我 国 には ないのみ な らず ,其 必要 を唱 方、る者す ら少 く,あ の 多 い言論 の機 関 が 嘗 て之 を論 じた こ とは な い」「女子 の 側 か らの 自発 的積極 的努 力 の な いの は不本 意 なが ら先 づ 当 り前 と して ,女 子教育家 が塁 も之 に就 て何 たる意見 も発 表 せ ず 尽力 もせ ぬの は不思議 で あ る」 (下 田次郎 『女子教育』金港堂 ,1904年. )。. 1918年 一一「今 日の女子 に して高等教育 を受 けん と欲す る者 は,基 督教信 者 たるか ,然 らざればその傾 向 にある学校 に入る よ り外途が無 い。即 ち どの 宗教 に も依 らず ,単 に高等教育 を受 けん とす る女子 は ,就 い て学 ぶ べ き機 関 が 殆 ん ど無 いの で あ る。 これ果 して国家 の 為 に喜 ぶべ きこ とで あるか。然 ら ば此 の 欠点 を補 涛、 捷径 は如何 といふ に,私 見 によれば現 在 の東京女子高等 師 範学校 附属高等女学校 の専攻科 を独立せ しめて一 個 の直轄学校 と為 し,専 任 教 授 を 置 きて女 子 に 高 等 教 育 を施 す が 可 い の で あ る」 (『 教 育 時 論』 H93 号 ,1918年 6月. ④羽仁もと子. )。. (1873∼ 1952). (略 歴 )青 森 県 に生 まれ ,巌 本善治 の 明治女学校 を中退 して ,郷 里 で教職 に. 従事す る。そ の後報知新 聞社 に入 り日本 の婦 人記者第 1号 となる。. 1903年 出産 の ため 家庭 に入 り,『 家庭 之 友』 (『 婦 人之友 』 と改 題. ). を創刊 。娘 の理想 的教育 を目ざ して 自由学 園 を創設 した。. 1919年 一一「女子 に して大学教育 を望 む者 が 多数 あ ります な らば,新 ら し く学校 を建 て る事 が或 は問題 になるか も知 れ ませ ぬ が ,今 の処 ではそれ に も 及 び ませず ,男 子大学 を開放す れば よい と存 じます。又それが 刑功 な遣 り方 で ,共 学 か ら起 る風紀 問題等 は左 程心 配す る程 の事 は あ る まい と存 じます 」 (『. 教育時論』 1226号 ,1919年 8月. )。. 1919年 一一「私 はすべ ての婦 人が女学校丈 け に満足 しない で ,モ ッ トモ ッ ト高等 の教育 を受 けな くてはな らない と思 ひ ます。 菅 に 自分 の子供 の 母 で あ るばか りで な く,社 会 の母 ,次 の 時代 の母 で あるべ き使命 の こ とを考 へ て見 る と,女 性 ほ ど高等 の教育 を必 要 とす る もの はない でせ う。死 ぬ まで学問 し.
(15) 三 好 信. 浩. 85. たい と思 ひます」「それ故私は自由大学 とで も称 し得べ き,本 当に立派な秩 序あ る講習会 を,差 し当つ ては何 よ りも欲 しいので ご ざい ます」 (『 婦女新 聞』994号 ,1919年 6月. )。. ②井上秀子 (1875∼ 1963) (略 歴 )兵 庫県 に生 まれる。 日本女子大学校卒業 ,家 政学部第 1回. 生。 19o8. ∼1910年 アメ リカ留学。帰国後母校 の教授 とな り,31年 学長 に就 任 し同学の発展 に寄与 した。56年 小 田原女子短期大学学長。終 生 女子教育 に力 を尽 くし,関 係す る著書 も多数。 1926年 一―「男 を知る者は男であ り,女 を知 る者 は女であ り,同 様 に真 に 女子 を教育するものは矢張 り女 でな くてはならない筈 です。女子が男子 の教 育 まで しや うとは思 ひませんけれ ども,女 子 を教育する任は女子 にあると私 は思 ひます。 日本女子大学では近 く大学令 による大学 として認可 を得 るため に,内 容制度 を新 たに して計画 をたてすでに着手 して居 ります」 (『 婦女新 聞』 1341号 ,1926年 2月. )。. 1926年 一―「女子 の高等教育無視 は,単 に女子 の不利益 ,不 幸 たるに止 ら ないで,実 はそれ以上 に,男 子及 び国家社会 は,直 接間接 に莫大な損失 を蒙 つ てゐるのであつ て,男 女が相並 んで進 んでこそ真 の幸福 が得 られ,真 に幸 福 なる社会 ,健 全 なる文化が作 らるべ きであるか らであ ります」 (『 教育時 論』 1474号 ,1926年 5月. )。. 1927年 一―「今春 か ら開か う としてゐる私共 の学校 は,男 子 の綜合大学 (各 帝国大学)に 相当すべ き女子最高 の教育機関 たるべ きは勿論 で あ ります. が,そ れか と云つて男子 と対抗 して女子 の独立 を保たうと云ふやうな単 なる 女権拡張 か ら出発 してゐるものではな くして,む しろ男子 と並 び立つて真 の 意味 での協 同をなす為 に,女 子 の持 つ特殊な心理心性 を基準 として女子 にふ さは しい文化 を開拓 してゆ こ うとす るのであ ります」 (『 教 育時論』 1499 号 ,1927年 2月. )。. 1946年 一―「最 も意 を用 いた点 は,女 子 の使命,特 性 を十分考慮 のなかに.
(16) 86. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. い れ ,3段 階 の完全教育 をな しつつ そ の 間一 貫教 育 を確 立 した点 で あ りま し て ,こ の こ とは将来女子 の高等教育 の主 流 となるべ きもので ある と確信す る もので あ ります」「新 日本建設 の 要求 に も順応 し,将 来 の 日本女性 の使 命. ,. 特性 に もつ と もよ く適 合す る女 子 大学 の 制 度 で あ る と思 うの で あ ります」 (日. 本 女 子 大 学 設 立 案 に つ い て の 説 明 ,『 日本 女 子 大 学 学 園 史』 二 ,1968. 年 )。. ④下中弥三郎. (1879∼ 1961). (略 歴 )兵 庫 県 に生 まれ ,検 定 試験 に合格 し教 職 につ く。 1919年 教 員 組 合. 啓 明会 を結成。野 口援 太郎 らと教 育 の世紀社 を起 こ し,新 教育運動 に従事。 1914年 の 平 凡社 の 創 設 者 と して も知 られ る。第 2次 大 戦 後 は平和運動 で活躍 した。. 1921年 一一「若 し教育 の機会 が 男女均等 に保障せ られ るな らば. (男 女 同程. 度 の学校が十分 に供給 せ られ ,修 学 の生活 費 が保 障せ られ ,社 会 が女 子 の修 学 を習 慣 的 に妨 げ る こ とが な い な らば),原 則 と して男女 を分 離す る こ とを 至 当 と考 へ ます。共学 に よる両性相互 の理解 と親和 を大 に利 あ りとは考 へ な が らも,又 一 面 に於 て ,性 の特性 (主 として心理 的生理的 に考 へ たる)に 基 く学修上 の諸傾 向 を無視 す る こ とは出 来 ぬ か らで あ ります。 1つ つ ,芸 術 ,1つ. ,科 学 ,1. ,哲 学 を学 ぶ に して も,そ の学 び方 に従 つ て ,こ れの提 示 の. 方法 ,指 導 の方法 に於 て ,性 別 に考 へ ,扱 ひ,整 へ るこ とが 教育上可 な り重 要 な こ とだ と考 へ るか らであ ります」 (『 教育時論』 H00号 ,1921年 6月. ②下村寿一. )。. (1884∼ 1965). (略 歴)京 都府に生まれ,東 京帝国大学卒業後文部省に入り,参 事官,社 会. 教 育局長 ,普 通学務 局 長 な どを歴 任 。 1935年 東 京 女子 高等 師範 学 校長 ,45年 女子 学 習 院長 ,戦 後 は大 日本女子 社 会教 育 会理事 長 な どをつ とめ た。. 1944年 一―「在来 の女子専 門学校 には大 き く 2つ の類型 が あつ たc第 1は. ,.
(17) 三 好 信. 浩. 主 として家庭 の主 婦 たるため ,高 等 の一般 的教養 を与 へ よ う とす る もので あ る。家事系統 の もの ,裁 縫系統 の もの ,国 文科 ・英文科 な ど文科系統 の もの が これ で あ つ て ,こ れが女 子 専 門学校 の主 流 をな して ゐ たの で あ る。第 2 は ,主 と して一 定 の職能 をめ ざ し,職 業人 と して立 ち働 く専 門的技 能 を授 け よ う とす る もので あ る。医学 ・歯科医学 ・薬学 な どの医薬系統 の もの ,商 業 系統 の もの ,理 科系統 の もの等 が これであつ て ,そ の数 は現在 む しろ極 めて 砂 いの で あ る。第 1類 の女子専 門学校 は,名 は専 門学校 であるが ,実 は高等 普通教育 を施 してゐ たので あ る」「 しか し聖戦完遂 の ため には,女 子専 門学 校 は この や うな花嫁教 育式性格 を一 椰 し,刻 下緊急 の職域 をめ ざ して ,実 務 に関す る指導的女性 の錬成 に立 ち向 ふべ きである。何等 の職域 とも結 ばず. ,. ただ漠然 と主 婦 と しての一般 的教養 を高め る といふ や うな こ とは,決 して軍 国 の 要請 に応 へ る所 以 で は な い」 (下 村寿 一 『聖戦完遂 と女子教 育』 日本経 国社 ・東 亜政経社 ,1944年. )。. ④平塚らいてう (1886∼ 1971) (略 歴 )東 京 に生 まれ,. 日本女子大学校卒業。その教育方針 に反発 して成瀬. 仁蔵 や井上 秀子 を批 判す る。 19H年 に 5人 の仲 間. (う. ち 4人 は 日. 本女子大学校卒)と 青踏社 を結成 し,雑 誌 『青踏』 を刊行。女性 の 解放 と母性 の保護 を訴 えた。 1927年 一一「文部省 は,人 も知る通 り,殆 ど伝統的 に女子教育 を無視 し ,. 蔑視 し,継 子扱 して きました」「現 にある男子 のための各種 の高等教育機関 を一一専門学校 の多 くと高等学校 と大学 とを,女 子 に開放 し,高 等教育 にお ける男女共学制 をとる ことが,今 日最 も実現 し易 い賢明な解決策ではないで せ うか」「今 日知識階級 の婦人 として多少 も社会的に働 いてゐる人たちをご 覧なさい。彼女達 の多 くは,欧 米 で教育 されたもので なければ,日 白女大. ,. 津 田英学塾 ,東 京女大 ,女 子医学な どの私立女子専門学校出ではないでせ う か」「 もし今 日存在する十余 の私 立女子専門学校 が何等 かの方法 でその経済 難 か ら来 る事業上の制限を緩和 し得 るなら,そ こに必ず 目醒 しい発展が見 ら.
(18) 88. 日本における女子高等教育論 の歴史的展開 :関 係語録 50選. れ るで あ ら う こ とをわ た く しは 疑 ひ ませ ん」 (『 教 育 時 論 』 1521号 ,1927年. 9月. )。. ④森戸辰男 (略 歴)福. (1888∼ 1984). 山市に生まれ,東 京帝国大学卒業。同助教授のとき森戸事件で退. 職 し,大 原社会問題研究所 に入る。戦後 ,衆 議院議員,文 部大臣を 経 て,広 島大学初代学長 をつ とめるとともに,政 府委員 として教育 政策 の立案 に寄与 した。 1948年 一―「わが国の戦後 の経済事情その他 を考 えまして,従 来あ った専 門学校程度の ものが,国 民 の多数 の教育水準 ・教養水準 を上げるのに実際役 立 つのではないか と思われるのであ ります」「こ とに女子 の一般教養な らび に家政科等 では,4年 は長過 ぎるのではない だろ うか。 ことにわが 国 と事情 を異 にするアメリカにおいてす ら,大 学 の うちの半数近 くはジュニ ア・ カレ ッジであると聞 き及んでおるのであ ります」「このことはわが 国の現状 では. 2年 あるいは 3年 制 の短期大学あるい はジュニ ア 0カ レッジといわれておる ものが,正 常 な 4年 制ではないが,例 外的 に, しか し当分ではな く認 め られ るような制度が適当なのではないか と思 っておるのであ ります」 (衆 議院文 教委員会 での発言 ,『 短期大学教育第 26号 ――倉1立 20周 年記念特集』 1969 年. H月. )。. ④鯵坂二夫. (1909∼. ). (略 歴 )鹿 児 島県 に生 まれ る。 京都帝 国大学卒業。京都大学教育学部教授. ,. 学部長 な どを経 て ,1972年 甲南 大学 学 長 と して ,同 学 の 発 展 に寄 与。教育哲学専攻。. 1981年 一―「子 ど もた ち の 自由 な倉1造 的 な成長 ,そ れ は変化 の 連 続 で あ り,経 験 の 再構成 と言 うにふ さわ しい 。そ れ に加 えて ,個 性 や個 人的能力 の 多様 さに思 い をい たせ ば ,教 育 の ことは 当然画 一 的 で あ っては な らない 。 こ の 原理 は,小 に して は個 人 の成長 か ら,大 に しては国民教育 の全体構造 に至.
(19) 三 好 信. 浩. るまで相通ずるものである。女子大学の存在理由についても,こ のことは有 力な示唆となるであろう。さまざまな大学があってよい,私 はそう思う。男 だけの,そ して女だけの,ま た共学の。その存在は,そ こに憧れ,そ こに志 向す る学生 たちの願望 に よって支 え られ ,ま たその大学が生 んだ歴 史 の重み が そ の 基 礎 を形 造 る」「私 は 男 性 の 根 底 は “ 男 性 "で あ り,女 性 の 根 底 は “母性 "で あ る と 自分 に言 い 聞 かせ て い る。女子 大学 の学 生 はやが て “ 母に なる学生 "で ある。教育 の方針 を問 われて ,私 は いつ も “良 き母 をつ くりま す "と お答 え して い る。 それは共 学 の 大学 で ,良 き母がで きない とい うので はない 。女子大学 の教育 の基礎 には,共 学 の大学 と違 った この切実 な課題 が あ る こ と を提 言 した い の で あ る」 (民 主 教 育 協 会 『現 代 の 高 等 教 育』 225 号 ,1981年. H月. )。. ④ 越原公 明 (1909∼. ). (略 歴 )中 央大学経済学部 卒業。名古屋女子大学短期大学部学長お よび理 事. 長 をつ とめた。. 1969年 一―「短期大学教育 にお い ては,職 能人 と して も,家 庭人 ・母 と し て も,将 来 に展 く広 く深 い教養 の基礎 づ けをわす れてはな らない。単 なる花 嫁学校 と異 なる この一 点 にこそ大 きな使 命 が あ る。短期大学 は技芸修得 の専 門学校 や各種 学校 で はない とい う こ とで あ る」「女子 を主 とす る短期 大学 に あ っては,女 性 の特 質 の発揮 につ とめ るべ きであ る。戦後実施 された普通教 育 にお け る男女共学 は,良 い面 も多方 にあるが ,男 子 に重 点 を置 い た徳性欠 如 の エ リー ト教育 は,人 をか きわけて切 符 を もとめ る よ うな功利 人種 を生 ん で い る。 この なか に巻 き込 まれて ,女 子 が よい意味 の女性 ら しさを失 って き た こ と,日 に見 る とお りだ。女子短 期 大学 のキ ャ ンパ スは, しず か に未来 の 母 たる 自己 をみ つ め ,確 固たる人生観 を打立 て る,そ のオアシスで な くては な らな い」 (『 短 期 大 学 教 育 第 26号 ―― 創 立 20周 年 記 念 特 集』 1969年 月 )。. H.
(20) 90. 日本における女子高等教育論 の歴 史的展開 :関 係語録 50選. ⑩相良惟一. (1910∼. ). (略 歴)福 岡県に生まれる。東京帝国大学卒業。京都大学教育学部教授,パ. ヽ 亡 女子 大 学 学 長 を リ大学都 市 日本館 長 な どを経 て ,1975年 か ら聖 ′ つ とめた。専攻 は教育行 政学。. 1981年 一―「お よそ,わ が国ほど女子大学が数多 く設立 されてい る国は他 には見 られない といって よい」「なぜ わが 国 においてこの よ うな女子大 の花 盛 り的現 象が今なお見 られ るのであろうか。それはい うまで もない。女子大 学 には,そ れな りのメリッ トが存在するか らであるといって過言 ではなかろ う」「たとえ女子大 の存在意義 が主観的であったとして も,そ のことは,客 観的 に肯定 されな くもない とい うことであ り,両 者 は必ず しも両立不可能 相矛盾す るとい うわけではない」「た とえば,こ れ もある共学 の名門私立大 ,. 学 の学長が私 にいわれたことばであるが,共 学 の場合, どうして も男女双方 に重点を注 ぐとい うわけにはいか ないのであ って,女 子大学 はその点女子 だ けのことを考 えればよいのであ り,重 点 の指向 に大変便宜がある。 このよう な ことは,女 子大学 の一般的存在意義 とい えるのではないか とい うわけであ る。なお,私 見 によれば,い わゆる教養大学 とい うい きかたは,女 子 の大学 として最 も適 しているとい えようし,こ のことは,女 子大 の一つの一般的な 存在理由である といつて よかろ う」 (民 主教育協会 『現代 の高等教育』225 号 ,1981年. H月. )。. ⑩ 岡本道雄 (1929∼. ). (略 歴)熊 本県 に生 まれ,京 都大学大学 院博士過程修了。1972∼. 1977年 ,1983. ∼1986年 神戸女学 院大学学長 をつ とめた。その後松 山東雲女子大 学学長 となる。 1976年 一―「私 は今 日の全 ての大学が共学 の大学 であ らねばならない理由 もない と思 う。共学大学 を志向す る女子学生 はこれか らもます ます増加する であろうが, しか し女子大学 の存在理由が全 くな くなって しまうとも思 われ ない。共学大学 には共学 としての特色 を生か した行 き方があろうし,ま た女.
(21) 三. 好. 信. 浩. 子大学 にも女子大学 として も特色 を生か した行 き方があると思 うのであ る。 現実 の女子大学 には克服 されるべ き問題点 はあるが, しか し女性 の高等教育 とい う点 からみると共学 の大学 のデメ リッ ト,ま たこれ とは逆 に女子大学 の メリッ トとい うもの もあるのである。その第 1は ,共 学 の大学 とい うのは. ,. 本来男性 のために創 られた大学 であ り,そ こではタテマエ上の教育研究の機 会均等 は存在す るが,そ れが本来女性 を意識 して創 られた ものでない だけ に,教 育 の姿勢,施 設設備 ,課 外活動等 において女性 のための配慮 を欠 くこ とが多 い面があ る」「そ して第 2に ,女 子大学 のメリッ トとしては研究教育 面 での “ 女性研究"に 力 を入れ,ま た女性 の特性 や個性 を生かす ようなカ リ キュラムが工夫で きる ことであろ う。 これらは未 だわが国の女子大学では十 分 に展開されてい るとは言 い難 いが,こ れは,女 子大なれば こそ可能なプロ グラムであ り,今 後 の大 きな課題であろ う。女性研究 はそれぞれの専門の中 で,ま た学際的な角度か ら展開で きるであろう。そ してまた特性教育 とい う 場合 ,特 に女性 に適 した学問分野があるか否 かについては議論が分 かれると ころであるが,ア メリカの女子大学 の中には,人 類学 ,心 理学 ,美 術工芸等 を女性 にふ さわ しい もの として,こ れ らに特 に力点 をお い ている大学 もあ る」「女子大学 の場合 は,そ れに伴 な う “ 甘 え"や 花嫁学校的性格 を出来 る だけ排除す ることが必要である。そ して ここで学生は比較的小規模 な教育環 境や きめ こまやかな指導 の下で,自 己の選んだ学問分野や問題 にじつ くり取 り組み,ま た女性研究 を通 して,真 の女性 の特性 や 自己の個性 にふ さわ しい 仕事や生 き方 を見出す ことが望 まれるのである」 (民 主教育協会 『現代 の高 等教育』 168号 ,1976年 5月. ⑪今堀誠二. )。. (1914∼ 1992). (略 歴 )大 阪府 に生 まれ ,広 島文理科大学卒業。広 島大学総合科学部 の創設. にあ た り初代 学部 長 とな る。 1952∼ 1962年 広 島女子 大 学 学 長。専 門 の 中国近代 史研 究 で学士 院賞受賞。. 1983年 一―「 もしも共学大 学 が ,真 に共学 とよべ る内容 を持 つ に至 ったな.
(22) 92. 日本 における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. らば ,女 子 大 もまた共学 へ の移行 を真剣 に検 討 す べ きだ と思 われ る。 しか し,共 学 が部分 的形式 的 な もので ある以上 ,女 子大 の存在 はやは り必 要 で あ る。 なか には男女平等論 を逆手 に とつて ,国 公立 の女子大 は憲法 に違 反す る とい う者 さえい るが ,こ れは女性差別 の現実 ,お よび共学大学 の実態 を無視 した暴論 であ つて ,例 えば家政学部や社 会福祉学科 に進 学 しようと考 えて い る女子 に と り,女 子 大 が な くな れ ば ,国 公 立大学 には入 れ な くな って しま う」「女性 の 意欲 や能力 を考 えた場 合 ,女 子 大 に文 学部 を置 く必 要 はな く ,. 国文 の代 わ りに文芸学 ,英 文 の代 わ りに外 国語学 ,社 会福祉 の代 わ りに家族 学 (主 と して法学 ),児 童 の代 わ りに乳幼 児学 ,基 礎 理学 の代 わ りに応用理 学 を設置 し,音 楽 ・美術 ・工 芸 ・体育 な どの学科 を も加 えて ,そ の全体 を リ ベ ラル ・ ア ー ツ ・ ア ン ド・サ イエ ンセ ズの学部 とす るのが ,の ぞ ま しい姿 で はな いか と考 え られ る」 (内 田穣 吉 ・佐野豊 編著 『公立大学―一 そ の現状 と 展望』 日本評論社 ,1983年. )。. ⑫隅谷三喜男 (1916∼ ) (略 歴 )東 京 に生 まれ ,東 京帝 国大学卒業。東京大学経済学部 教授 な どを経 て ,1980年 か ら東京女子大 学 学 長 をつ とめ た。専 門 の 日本労働 史 のほか ,思 想 や教育 に関す る著 作物 がある。学士 院会員。. 1981年 一一「昨年 4月. ,東 京 女子 大 学 の 責任 を負 う よ うにな って 間 もな. く,私 は女子大学 の直面 して い る問題 の深刻 さに大 きな シ ョックを うけ た。 そ の 問題 とは,一 言 で い えば ,今 日女子大学 の存在 の意義 は どこにあるか と い う問 いで あ る。 それ は世 間一般 は問題 に して い ない か ら,い わば隠 された 問 いで あ る」「 日本 の女子大学 当事者 の 間 で も,多 少 この議論 が戦 わ されて こなか ったわけで はない。 そ こで主 張 された女子大学存在 の根拠 は ,大 まか に云 って 2つ あ る よ うに思 われ る。第 1の 議論 は,本 来大学 に男女 の 区別 が あ るべ きではない が ,女 性 が社会的 に差 別 されて い る現在 の状況 の 中 では. ,. 女子大学 はなお存在 の意義が あ る, とい うので ある。大学 も社会 の一 部 とし て男女差別 を大 き く残 して い るので ,今 直 ちに女子大学 を解消す る こ とは こ.
(23) 三. 好. 信. 浩. の差別 の中に呑み こまれて しまう, とい う見解 である。 もう 1つ の意見は. ,. 共学 の大学 ではどうして も男子学生が リー ダー シップをにぎ り,女 子 はその 固性や能力 を伸 ばす機会 に乏 しい。 ところが女子大学 であれば,女 子 は 自立 イ せ ざるをえないの で,そ の能力 をきたえ られることになる,と い うのであ る。 こうい う 2つ の意見は,そ れ としては現実 をふ まえた議論 であ るが,女 子大学 の積極的な存在理由 を示す ことにはなってい ない」「積極的な解答 へ の糸日は,大 学 の個性 に目を向けることにあるように思われる。人に個性 が あ り,そ こに各人の存在 の根拠 があるように,大 学 にも個性があ って然 るべ きであ り,大 学 の 中に女子大学があ って然 るべ きだとい うわけである。 しか し,人 間の個性 と異 って,女 子大学 の場合 には,そ の個性 は女子 の類型 とい 理性"に うもの と結 びつ くことになるのではなかろうか。そのタイプとは “ 対す る “ 感性 "の 重視 とい うことになるのではないか,と い うのが私 の現在 の考 え方である」 (『 文芸春秋』 1981年 4月 ,隅 谷 三喜男 『女子大学 は どこ に立つか』新地書房 ,1988年 に再録 )。. ⑩幸田三郎. (1919∼. ). (略 歴)北 海道 に生 まれ,東 京帝国大学卒業。 1960年 青山学院女子短期大. 学学長,80年 フェリス女学院長,81年 フェリス女学院大学学長,90 年共立女子大学学長 と,女 子大学経営 に従事。その間文部省 の各種 の委員 をつ とめた。 1981年 一一「大学教育 の領域 には一般教育 と専門教育 とが あ りますが,女 子大学 と共学大学 を比較するとき,女 子大学 としての特色 は一般教育 におい てよ り多 く発揮す ることができます。人間 として,ま た社会人 として,望 ま しい高度 の教養 と人生観 ・世界観 の形成 を目ざす一般教育 を,女 性 としての 立場 か ら学習す る機会 を積極的 に作 り出す可能性 は,共 学大学 よ りも女子大 学 の方が大 きいか らです」「 ところで,一 般教育 を女性 としての立場 か ら学 習す るとい う場合 には, どのような女性観 に立つかが問題 とな ります。いわ ゆる良妻賢母 を理想 とするものから,女 性 の 自立 を重視するもの,あ るいは.
(24) 94. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. 女性 の優位 を主張するもの等 ,さ まざまの立場が考 えられます。国公立女子 大学 には,公 費 によって維持 されてい ることか らくる,あ る種 の制約がおの ずか らあ ります。 これに対 して,私 立女子大学 には,こ の点 について幅広 い 選択 の可能性があ ることはい うまで もあ りません」 (民 主教育協会 『現代 の 高等教育』225号 ,1981年. 〇大束百合子. (1919∼. H月. )。. ). (略 歴)東 京都生まれ,津 田塾専門学校から東京大学に学ぶ。東京理科大. 学 ,津 田塾大学 で教鞭 を と り 1980∼ 1988年 津 田塾 大学 学 長 をつ と めた。専 門 は言語学。. 1981年 一―「結論 をい うな ら,大 学 の本質 か ら考 えて究極 的 には女子大学 の積極的 な存在理 由 はない 。 しか し歴 史 の 中の過渡 的段 階 にお い て女 子大学 の果 た して きた役割 は重 要 であ る。今 日,多 様 化 した価値観 の 中で ,ま た大 学 の定義 の拡大解釈 の 下 に, さらに特定 の宗教 や世 界観 に立 って ,女 子大学 の存在理 由 を論 ず るこ とはで きるであろ う。 ただ “ 女 の 園 "の 限 られた視野 や有益 な刺激 の 欠如 は,何 とい って も女 子大学 の不利 な点 で あ る。明 日突然 共学校 に転ず るの は非現実 的 だが ,女 子大学 も徐 々 に “開 かれた大学 "の 形 を導入 しなが ら,本 当 の教育 の機会均等 を実現す るこ とを考 える時 に来 て い るのではな い か」 (民 主教育協 会 『現代 の 高等教育』225号 ,1981年. ⑩天満美智子. (1922∼. H月. )。. ). (略 歴 )ウ ラジオ ス トクに生 まれ ,津 田塾専 門学校卒業。南 カ リフ ォル ニ ア. 大学大学 院 , ミシガ ン大学大 学 院修 了。 1968年 津 田塾 大 学教授 と ヽ 理言語学 c 亡 な り,88∼ 96年 同大学学長 をつ とめた。専 門 は′. 1997年 一―「 ひ とつ には, リベ ラル ・ ア ー ツ 0カ レッジだ とい うこ とだ と 思 うんです 。 うち は小 さなキ ャ ンパ スの なか に,英 文 。国際 関係 ・数学 の 3 学科 が あ り,そ れぞれが 専 門性 を高 く持 ち なが ら門戸 を開 い て 交流 して い る。 これが 津 田塾 の 昔 か らの伝統 です。 オ ー ル ラウ ン ドとい う言葉 で表現 し.
(25) 三 好 信. 浩. て い るんで すが ,広 い視野 を もって 自分 の頭 で考 え,自 分 で納得 で きる公 正 な判 断力 を養 うわ けで す。 それか らも うひ とつ の特徴 は語学力 です ね。英語 な り他 の言語 で正確 に書 くとか ,正 確 に読 む とか ,そ う した きわめて ベー シ. ックな部分 をしっか り教育す るように努 めてい ます。それが リベ ラルアー ツ のひとつの特色 だ と思 い ます」「私 は女子大 とい うのは,や は りこの まま存 続 してい くのが一番 いいん じゃないか と思 つてお ります。そ こで女子大 を堅 持 しなが ら,ク ロス レジス トレーシ ョンをもっと活発 にして,い わゆる共学 の大学 との単位互換 などを密 にしていかなければいけない とい うことを考 え てお ります」 (天 野郁夫編 『大学 を語 る一-22人 の学長』玉川大学出版部. ,. 1997年 )。. ①青木生子. (1920∼. ). (略 歴 )東 京 に生 まれ る。 日本 女子 大 学校 を経 て 東 北 帝 国大 学 卒 業。 1958. 年 日本女子大学文学 部教授 ,81年 よ り 3期 12年 間同学学長 をつ と めた。専 門 は国文学 (万 葉集 )。. 1985年 一一「大学教育 は,社 会が要請す る一一 就職 のための一一 人間 を輩 出す るだ け で果 た して よいの か , とい う疑 間が あ る。 あ ま り目先 の ことに と らわれ ず ,人 間 ら しい生 き方 ,人 間 ら しく生 きるにふ さわ しい社会 を,学 習 を通 して形成 してゆ く力 を一 人 ひ と りの女性 が もつ よ うになる こ とに,女 子 大 の教育 の意義 と役割 が あ るのではない か。女子大 こそ ,女 性 の生 涯学習 プ ラ ンの基礎作 りとして ,学 部 の カ リキ ュ ラム な どに工 夫 ・改善 を加 え,卒 業 生の再教育 のための大学 院 の 開発 ・発展 を目ざす使命が あ る と思 う」 (『 大学 時報』 182号 ,1985年 5月. ,青 木生子 『明 日の女子教育 を考 える』講談社. ,. 1990年 に再録 )。 1987年 一―「第 2次 大戦後 の男女平等主義 の教育理念 に基 づ く教育改革 は,大 学教育 における共学制 と,専 門学校 か ら昇格 した女子大学 の設置 を実 施 した。男子 の大学 のほとんどが共学 とな り女子へ の門戸が開かれなが ら ,. なお別学 を必要 として “ 女子大学"で 発足 した ところには,占 領軍側 の指導.
(26) 96. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選. が あ ったにせ よ,女 性解放 の ため には,女 子大 を通 して これ まで のキ ャ リア を もって女性 の 人材 を養成 し,個 性 の 開発 を目ざす 積極 的 な意義が あ ったの で あ る。 この 新 しい教 育理念 は,昭 和 30年 代 の 高度成長期 に,女 子 短 大. ,. 或 い は 4年 制 の女子大 の大幅 な急増 な どによって,次 第 に風化 して い った と. い えるのでは ない だろ うか」「戦後,婦 人解放 を推進す る一つ として設置 さ れた女子大学 の発足の原点 を, もう一度 自覚 しなおす必要があるのではない か。少な くとも女性史の歩みの前向 きの線 に立 って,女 子大学 の呆 たす役割 は,い まで も必ず しも終わ った とは思えない。 む しろいっそ う必要があると さえ いい た い」 (民 主教育協 会 『現代 の高等教 育』288号 ,1987年 12月 F明. ,. 日の女子教育 を考 える』 に再録)。. ⑦山本 信. (1924∼. ). (略 歴)大 阪府生まれ,1947年. 東京帝国大学卒業後,同 大学院文学研究科. 博 士課程修 了。東 京大 学教授 ,新 潟 大学教授 な どを経 て ,88年 よ り東 京女子大学教授 ,92年 よ り同大 学学 長 をつ とめ た。専 門 は哲 学。. 1997年 一―「た しか に,経 営 的危機が増大 して い って,女 子大 の存立 が危 う くなるか も しれ ませ ん。 しか し私 と しては最 後 の一 校 になる まで抵抗 しよ う と思 ってい ます。女子大 の存在理 由 ,存 在意義 は十分 ある と思 うんで す。 これ は私 の個 人的 な考 え方 で ,本 学 を代 表す る もので はない か もしれ ませ ん が ,人 間 と して の生 長 の過程 で ,男 女がそれぞれ別 々 に鍛 え られて い くとい う時期が あ って もいい と思 うのです」「ア メ リカで も,一 時女子大 の 危機 が 言 われ共学 に転 換 した ところ も少 な くなか った よ うですが ,最 近 は また女 子 大 の意義が見直 されて きて い ます。共学 にす る と,現 に存在す る社 会 のい ろ んな関係 や構造 を,た だ学 内 に もち込 むだけ になって しまって ,そ れ はいか に も男女 間 の平等 を重 んず る よ うにみ えて ,そ の実既存 の社会的惰性 をその まま移 し変 えた にす ぎな い。本来 の女性 と して の視点 がかえって養 い に くい ともい え ます 」 (天 野郁夫 『大学 を語 る一 -22人 の 学長』玉 川大学 出版 部. ,.
(27) 三. 好. 信. 浩. 1997年 )。. ⑩白石浩一. (1924∼. ). (略 歴)東 北大学卒業。昭和女子大学助教授 の とき,中 屋健 一 (当 時東京大. 学助教授 )の 発表 した女子大学無用論 に反対 して,女 子大学有用論 を唱えた。1965年 同大学教授 となる。専門は教育心理学。 1959年 一一「男女 は平等なのだか ら男女 は同 じ大学 に収容 して教育せねば ならぬ とい う画一 的形式論 は,女 性 の本質か らも社会 の現実 か らも目をそむ けるものである。女性 は生理的にも心理的にもあ くまで女性 なのであって. ,. 男性 に及 ばない面 もあるが男性 の及 ばない面 もある。だか ら男女が相補 い相 協力す るところに人類 の発展が期待 される。女性 の特性発揮 こそ人類 の悲願 であ り,ま た女性 に幸福 をもたらす所以 で もある。優美 ・明朗 ・円満 ・謙虚 などの美徳 に裏づ けられた輝 く聡明さは,世 人の等 しく讃仰 を惜 しまぬ とこ ろ,そ のような人格形成 の場 として,女 子大 は社会的責務 と存在意義 とを担 うものである。女子大 は女子 の本質的特性 を自由に十分に発揮 させるための 人格育成機 関 として存在 して然 るべ きであ り,極 めて有用 で あ る と思 う」 (『. 婦人公論』 1959年 3月 号)。. ⑩宮本美沙子. (1928∼. ). (略 歴 )日 本女子大学卒業後 ,ブ ラ ン ダイス大学 院修 了。 日本女子大学教授. とな り,1993年 か ら同大学 学 長 をつ とめ た。専 門 は児 童発 達心 理 学。. 2000年 一―「今 の 日本 の社会 は,ま だ男性 中心 の社会 で あ る。共学 の大学 で も企業 で も性役割意識 が働 き,女 子 は男子 に先 を譲 る傾 向 があ る。 女子大 学 の 中で は,そ うい う性役割意識 に こだわ らず に,本 当 に学 びた い学問 を目 的 に沿 って主体 的 に学ぶチ ヤ ンスが 多 くな る。 そ の意味 で ,女 性 には女子大 学 が適 して い る と思 われ る」 (民 主教育協 会 『現代 の高等教育』415号 ,2000 年 2月. )。.
(28) 98. 日本における女子高等教育論 の歴史的展開 :関 係語録 50選. ⑩池木 清. (1928∼. ). (略 歴)大 阪市に生まれる。東京大学卒業後文部省に入り,国 立社会教育研. 修所主幹 ,文 部省高等教 育局視学官 な どを歴 任。退官後 日本橋 女学 館短期大学教授 となる。. 1991年 一一「女子 の高等教育 の一層 の拡大発展 のため には,今 後 とも女子 高等教育機 関 の果す べ き役割 は大 きい 。 なぜ な ら専 ら女子 の ニー ズの動 向 に 応 じて 自己改革 を行 なえるの は女子大学 のみで あ って ,共 学大学 にその よ う な こ とは期待 で きな い」「著者 は,既 婚女性 を中心 に した全 く新構想 の 女子 大学 の設立 を関係者 に求 めた い。 この新構想大学 の持 つべ き諸特 質 は ,以 下 の(1)∼ (5)で 明 らか にす るが ,こ の よ うな女子大学が各地 に出現す れば ,既 存 の女子高等教育機 関 の在 り方 に も大 きなイ ンパ ク トを与 える ことになろ う。 (1)既 婚女性 中心 の 女子 大学 (三 好注,説 明省略,以 下同 じ),(2)正 規 の 卒業 を. 目指 す パ ー トタイ ム学 生 を制度 的 に受 け入 れ る女子 大 学 ,(3)学 部 ・学科 は 社会変化 に対処 した実学 中心 の女子大学 ,(4)3年 次編入定員 を大量 に設定 し て短期大学卒業生 を受 け入 れ る女子大学 ,(5)確 固 たる職 業観 の 育 成 と企 業 集団 との連係 に よ り卒業 が就職 に直結 す る女子大学」 (池 木清 『女性 の 職業 と教育』北樹 出版 ,1991年. ④赤塚行雄 (1930∼. )。. ). (略 歴)横 浜市 に生 まれ,. 日本大学大学院修了。 日本大学助教授 ,中 部大学. 教授 などを経て,中 部大学女子短期大学副学長 をつ とめた。文芸評 論 ,社 会評論 で知 られる。 1994年 一一「共学大学がつ まらないのは,男 性 を意識 して,女 子学生の多 くが中性的な存在 になって しまうことだ。女性 たちの少なか らざる部分は. ,. 儀礼 か ら日常 の些事 に至るまで,た とえば正 月の迎え方か ら,花 の生 け方. ,. ちょっとした料理 の作 り方 まで,祖 母や母親 か ら受け継 いだ文化伝統 を守 ろ うとす る。 しか し,若 い男性 の多 くは,そ うしたことには無頓着 で,産 業社 会 に出て うまくや ることばか り考 えてい る。女子大 には,地 方 の素封家 の娘.
(29) 三 好 信. 浩. たちも混 ざっていて,文 化的優位 に立つ者が劣位 の者 に影響 を与 える。 これ は無視 で きない女子大 の よさのひとつ だ と思 う」「大学生 になって,服 装や 日の きき方か ら顔 つ きまで急 に大人 びて しっか りして くる学生がい る。先生 との個人的な付 き合 いだけでな く,友 人,先 輩 ,ク ラブなどの大学が持 って いる “ 潜在的な文化"総 体 か らの影響 も無視する ことがで きない力 なのであ る」 (赤 塚行雄 ・島田裕 巳編著 『女子大学 の御利益―一 賢 い女性 は女子大 ヘ 行 こう』KKベ ス トセラーズ,1994年. ⑫村 田鈴子 (1930∼. )。. ). (略 歴 )京 都市 に生 まれる。奈良女子大学卒業 ,京 都大学大学院博 士課程修. 了。ア メ リカ州立 イ ンデ ィアナ大学. Ph.D。. 取得。群馬県 立女子大. 学教授。専門は教育行政学。 1980年 一―「問題 にすべ きは,戦 後すべ ての大学が門戸 を開放 して女子 の 入学が可能になったけれ ども,一 方伝統ある女子 の教育機関が単独 で,そ れ と同等 の レベ ルの大学 となることを希望 した ことで あ る」 (村 田鈴子 『わが 国女子高等教育成立過程の研究』風 間書房 ,1980年. )。. 1890年 一―「戦前 においては,女 子高等教育発展 のために女子高等教育機 関の果 した役割 は顕著なものが あ った とい えるが,戦 後多 くの共学大学が存 在 してい る中で,女 子大学 の存在 はつねに検討 されている。共学 に移行 した 女子大学 も若干あ って,一 般的な傾 向 として,両 親 の希望 は依然 あ る もの の,女 子高校生の間で も女子大学 の魅力 は うす れつつ あるように思 う。法的 に明確 な位置づ けがな くても,多 くはそれぞれの建学精神 にもとづ く伝統 と い う既得権 を根拠 に,ア メリカの場合 と同様 ,現 に存在 してい るとい う事実 を肯定 せ ざるを得 ないの で あ る」 (村 田鈴子 『教育女性学入 門』信 山社 出 版 ,1990年. )。. ⑬片桐洋一 (1931∼. ). (略 歴)大 阪市生まれ。京都大学大学院博士課程修了。1987∼. 1991年 大阪.
(30) 100. 日本における女子高等教育論の歴史的展開 :関 係語録 50選 女子大学学長 をつ とめ ,関 西大学文学部教授 となる。専 門 は 国語 国. 文学. (平 安文学)。. 「大阪女子大学の将来計画」 (1991年 )を まとめ. た。. 1988年 一―「64年 前 “女性 に高等教 育 を"と い う こ とで 大 阪府 女専 が 出 発 したのは,ま さ しく新 しい 時代 を目指 しての挑戦 であ ったはず である。 そ して今 ,そ の志 を最 も重 ん じて ,“ 女性 の 時代 "に ふ さわ しい 新 しい 大 阪女 子大学 の 21世 紀計 画 を立 て なければ な らな い 時期 が来 て い るので は な い か と思 う」 (片 桐 洋 一 『 もとのね ざ し―一 大 阪女子 大学学長 の 四年 間』和 泉 書 院 ,1991年. )。. 1990年 一― 「 まだ私案 の域 を出 ませ んが ,た とえば,社 会 人 と して働 い て い る女性 や主婦 と して家庭 にあ る女性 が ,い つ で も大学 に来 て いつで も学 べ る とい う フ リー・ タイムの課程 の設置 を考 えるな ど,時 代 を先 取 りした新 しい女子大学 を目指 して行 か なけれ ばな らな いの で は な い か と思 うので す」 (同 上 )。. ④樋 口恵子 (1932∼. ). (略 歴)東 京都 に生まれる。東京大学卒業。夫 の死後学習研 究社 の再就職 し. て 評 論 活 動 に入 る。 1993年 よ り東 京 家 政 大 学 教 授 。専 門 は 女 性 学 ,家 族 関係学。. 1982年 一―「現在 ,女 子大学 の意味 を積極的に求 めるとしたら,つ ぎの 3 点 ではないか と思 う」「これ までの学問 はほ とんど男性 の発想 でつ くられて きた……女性 を対象 とするだけでな く,女 性 の視点 を中心 に学問 に取 り組 む とき,情 報 ・資料 の整備 を含めて新たな分野や展望が生 まれるのではないだ ろ うか」「現在 の性役割分業 をい くら理念 の上で否定 して も,女 性 の出産育 児期 の働 きに くさ,学 びに くさは変 わらない……その人たちが学び直 し,学 びつづ ける再教育 の場 を提供する ことは,女 子大 の使命 の一つ だろ う」「女 子 だけの中で,実 行力, リー ダー シップをあ くまで も当事者 として養 い うる とい う利点があ る。女 ばか りの社会では,“ 女"は 楽 チ ンのか くれみのにな.
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