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一九二〇年代の関西学院文学的環境の眺望

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全文

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一九二〇年代の関西学院文学的環境の眺望

著者

大橋 毅彦

雑誌名

関西学院史紀要

16

ページ

65-92

発行年

2010-03-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/4149

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一九二〇年代の

関西学院文学的環境の

眺望

大橋毅彦

はじめに   日本近代文学史上にあって関西学院の名がそれなりの意味を持ち始めてくるのは、学院中学部 出身の稲垣足穂、あるいは文学部英文科出身の竹中郁の作品が、中央の文壇、詩壇で紹介されて い く 一 九 二 〇 年 代 に 入 っ て か ら で あ ろ う。 短 編 集﹃ 一 千 一 秒 物 語 ﹄︵ 一 九 二 三 年 ︶ や、 詩 集﹃ 黄 蜂 と 花 粉 ﹄︵ 一 九 二 六 年 ︶ を 上 梓 し た 両 者 は、 大 正 後 期 か ら 昭 和 初 期 に か け て の 文 学 概 念 の 変 革 期の最中にあって独自の小説世界や詩風を開拓していったし、その達成の証についての検証も進 められてきている。   だが、そうした文学者個々に即した研究の推進とはうらはらに、彼らの始動期を支えたであろ う関西学院の文学的環境に ついての調査は、一部の発言を除け ば 、まだ積極的な展開を見せてい るとは言いがたい。そこで、この小論では、そうした関西学院の文学的環境を、彼等も含めてそ の将来が未知の領域に属していた多くの青年も巻き込んで推移していく運動体、組織体として見

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ていった時に、どういったポテンシャルエネルギーがそこに蓄積されていったのかという問題に ついて考えていきたい。おそらくこの試みは、一九二〇年代の関西学院に生じていたさまざまな 文学的な現われを、如上の人物の足跡を色付けするための脇役的位置から、当時の学院が位置し ていた神戸という場所で成立していた文化的状況や、それよりもさらに外部に存在している同時 代の文学的潮流と交渉する場に引き上げていくのではないかと思う。 1  多層的な内部 ― ﹁関西文学﹂ ・﹁想苑﹂ ・海港詩人倶楽部   関西学院一九二〇年代の文学的環境を照らし出すものとして、一九三一 ︵ 昭和六︶ 年一月一日 に関西学院文学会から刊行された﹃文学部回顧﹄を活用することにしたい。序文を書いた田中利 一をはじめとする六人の編集部員の努力を中心として編まれたこの書は、関西学院文学部が高等 部の文科として発足してからの十八年の歴史を﹁商学部旧館時代︵一九一二 ― 一九二〇︶ ﹂﹁ハミ ル館時代 ︵一九二〇 ― 一九二二︶ ﹂﹁文学部校舎時代 ︵一九二二 ― 一九二九︶ ﹂﹁仁川時代 ︵一九二九 ― ︶﹂の四期に分けて叙述するとともに、 C ・ J ・ L ・ ベーツ以下三七名の学院関係者に よる﹁回 顧 録 ﹂、 ﹁ 文 学 部 出 版 雑 誌 一 覧 表 ﹂ や﹁ 劇 研 究 会 上 演 表 ﹂ な ど 計 七 項 よ り な る﹁ 附 録 ﹂、 さ ら に は 四〇点の挿入写真も登載しており、上記の目標を達成する上での格好の資料となっている。   す な わ ち、 回 顧 の 対 象 が 高 等 部 文 科・ 文 学 部 で あ る た め、 中 学 部 よ り 上 に は 進 ま な か っ た 稲 垣 足 穂 や 同 級 の 衣 巻 省 三、 あ る い は﹃ 貧 民 窟 詩 集   日 輪 は 再 び 上 る ﹄︵ 一 九 二 六 年 ︶ の 作 者 井 上 増 吉 ら の 動 き を 伝 え る 叙 述 が な い と い う 難 点 が あ る と は い え、 そ れ を 補 っ て 余 り あ る く ら い に 、

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一九二〇年代の学院を舞台として繰り広げられた文学運動とその周囲に立ち上っていた文化的な 雰囲気を、ついいましがた経験したものとして生き生きと伝えてくる語りがそこにはある。さら にもう一つ注目したいのは、たとえ ば 学院内で発行された各種雑誌の消長を問題にする時に顕著 なのだが、その説明の仕方が必要に応じて、それらの雑誌や文学運動の弱みや矛盾、あるいは没 落過程だとかを指摘していくことも辞さない態度を貫いていること。筆者が示す、こうした身贔 屓に終始してしまうことなく外へ開いていこうとする姿勢は、同時代の思想的潮流と関西学院内 で生まれた各種の文化活動との間に、どんな繋がりがあったのかについて言及していこうとする スタンスとも通じていて、読んでいて小気味好い。   さ て、 ﹃ 文 学 部 回 顧 ﹄ の 語 り の 基 調 に つ い て の 説 明 は こ の く ら い に し て、 な ら ば こ う し た 語 り の中から関西学院の文学的環境の内実が、一九二〇年代にあってはどんな形で迫ってくるかを一 言で言い当ててみよう。それは、立ち位置の異なる文学雑誌・文芸運動の混在により、多層的な ︿ 内 ﹀ 部 が 関 学 の 文 学 環 境 の 中 に 出 来 上 が っ た 時 代、 い わ ば 〝 関 西 学 院 文 学 連 峰 〟 の 姿 が 立 ち 現 れた時代だった。そして、このように重畳する山々に喩えられる雑誌群の中から、それぞれが他 のものとは異なる植生や地味を持つ峰を形作っているものを展望しようとするなら、 ﹁関西文学﹂ 、 ﹁ 想 苑 ﹂、 ﹁ 横 顔 ﹂、 ﹁ 羅 針 ﹂、 さ ら に は﹁ 木 曜 嶋 ﹂ や﹁ 文 芸 直 線 ﹂ と い っ た 雑 誌 の 存 在 が た ち ど こ ろ に浮かび上がってくるのだ。   こ れ ら の 雑 誌 の う ち 、ま ず は 創 刊 の 時 期 が も っ と も 早 く 、か つ 刊 行 期 間 も い ち ば ん 長 か っ た﹁ 関 西文学﹂と、その次に創刊の時期が早かった﹁想苑﹂とを比較してみよう。そのポイントはそれ ぞれの雑誌に集ったメンバーの層の相違である。

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  誌名は同じだが当初は︿リーフレット型六頁位﹀ ︵﹃文学部回顧﹄より引用。この後、同書中の 表 現 を 借 り た も の に は︿   ﹀ を 付 す。 ︶ で、 そ の 性 格 も い わ ゆ る︿ 関 西 学 院 高 等 学 部 の 部 報 式 ﹀ の も の だ っ た﹁ 関 西 文 学 ﹂ が、 文 学 運 動 機 関 誌 と し て の 傾 向 を は っ き り と 持 ち 始 め る の は、 そ れ 以 前 の も の か ら の 更 新、 刷 新 の 意 味 合 い も 持 た せ て の こ と で あ ろ う か、 ﹁ 第 一 号 ﹂ と 銘 打 た れ て 一 九 二 〇 年 九 月 に 刊 行 さ れ た 時 か ら で あ る。 こ の 時、 奥 付 に 記 載 さ れ た 編 輯 兼 発 行 人 は、 当 時 文 科 の 英 文 科 教 授 で あ っ た 佐 藤 清 で あ り、 岡 田 春 草︵ 貢 三 ︶、 西 木 草 笛︵ 栗 秋 ︶ を は じ め と す る 文 科 学 生 の 詩 や 小 説 が 誌 面 を 賑 わ し た。 そ し て、 執 筆 者 の 大 半 が 文 科 の 学 生 で 占 め ら れ る 傾 向 は、 二 号︵ 一 九 二 一 ・ 一 ︶ 以 降 も 鮫 島 麟 太 郎、 大 崎 治 郎、 葉 健 二、 江 原 深 青︵ 隆 治 ︶ と い っ た メ ンバーが加わって継続していくのだが、その中でも中核的な役割を果たしていったのは英文学科 の学生たちであった。   こ の 雑 誌 の 奥 付 や 表 紙 を 順 に 追 っ て い く と、 そ の こ と を 端 的 に 示 す 変 化 を い く つ か 拾 う こ と ができる。つまり、一九二四年六月刊行の同誌の奥付を見ると、そこに記されている発行所名は、 それまでの関西学院高等部学生会から﹁関西学院文学部英文科﹂へと変更されている。ちなみに、 同 誌 の 表 紙 の 意 匠 と し て メ ル ヘ ン を 感 じ さ せ る 鳩 時 計 の 絵 を 描 い た の は、 英 文 科 二 年 の 竹 中 郁 だった。 ︻図版①︼さらに、一九二五年七月発行の﹁関西文学﹂に至ると、 ﹁関西学院英文学会刊 行﹂という文字が表紙に刷り込まれ、扉にもそれと歩調を合わせるかのように﹁一千九百二十五 年  第一輯﹂という文字が、たしかにその年に限っていえ ば 第一号なのだが、通算では第十一号 にあたることについての情報は伏せるかたちで記されていったのである。 ︻図版②︼   こ の よ う に し て 発 行 を 続 け て い く 過 程 で、 ﹁ 関 西 文 学 ﹂ が 文 学 部 の 機 関 雑 誌、 さ ら に は 英 文 学

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科生の文芸作品発表機関としての︿純粋﹀性を形作っていったことは、それ以前には稀薄だった、 文芸創作に対するアンビショナルな情熱の発露を連想させる現象であったと捉えることもできよ う。だが、その一面、この︿アンビション﹀は同誌に集うメンバーの層や人数を限定する方向に も 働 い た と も 思 わ れ る。 そ し て、 そ う い う 状 態 に あ っ て、 仮 に こ の 集 団 の 求 心 力 と な っ て い た 存在が失われたり、彼らのそれとは異なる新たな︿アンビション﹀を有する集団が出現すること があれ ば 、その活力は、外部からの補充を元から排除しているがゆえに一気に弱体化してしまわ ないだろうか。 ﹁文学部回顧﹂の筆者が言うように、竹中郁が同誌への寄稿を続けていたにせよ、 それ以上に学院の外にあって海港詩人倶楽部での活動に力を傾注していき、そしてまた、関西学 院文学部木曜倶楽部を発行所とする詩誌﹁木曜嶋﹂が創刊後またたく間に左翼文芸誌的な旗幟を 鮮明にしていく状況と対応して、 ﹁関西文学﹂は終息に向っていった。   以上見てきた﹁関西文学﹂の性格と比べた時、一九二二年六月に創刊された﹁想苑﹂は、より ゆるやかな同人の結合に基づいて作品を提供していくのを、その基本的な性格としている。なる ほど、 創刊号巻頭の﹁巻頭隻語﹂や最後の頁に 掲載されている﹁ ﹃想苑﹄規定﹂に明らかなように、 この雑誌もまた関西学院文学部文科研究会機関誌という性格も具えて出発しているのだが、第二 号にあたる第一年秋季号︵一九二二 ・ 一〇︶掲載の﹁ ﹃想苑﹄清規﹂ではそうした趣旨を明文化し た 一 文 が 早 く も 姿 を 消 し 、 奥 付 に あ る 発 行 所 も 前 号 の﹁ 関 西 学 院 文 学 部 文 科 研 究 会 ﹂ か ら、 彼 自 身 は た し か に 当 時 文 科 の 一 年 生 で は あ っ た が、 兵 庫 県 武 庫 郡 鳴 尾 西 畑 の 小 松 一 朗 方 の﹁ 想 苑 社 ﹂ に移っている。   次いで第三号の奥付を見ると、そこには新たに大阪市北区梅田町三二一︵阪神電車梅田停留場

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南︶にある上田長文堂の名が発売所として出てくる。この書店が、第二号に﹁詩四編﹂を載せて 以 降、 し ば し ば 同 誌 に 作 品 を 寄 せ た 佐 藤 清 の 第 一 詩 集﹃ 西 灘 よ り ﹄︵ 一 九 一 四 年 ︶ 及 び 第 二 詩 集 ﹃愛と音楽﹄ ︵一九一九年︶の発兌元であった点に注意したい。英文科教授の佐藤清は、すでに触 れたように﹁関西文学﹂出発期における実質的指導者としての役割を果していったが、それに続 いて出された﹁想苑﹂においても、この一事をとってみるかぎり、やはり同誌の要の位置に立っ ていることが想像できる。やがて﹁想苑﹂には彼の第三詩集﹃海の詩集﹄もこの書店から発兌さ れ る こ と を 知 ら せ る 広 告 や 、 同 誌 の 発 行 所 も ま た 小 松 一 朗 方 の ﹁ 想 苑 社 ﹂ か ら ﹁ 上 田 長 文 堂 内 ﹂ の ﹁ 大阪想苑社﹂に移ったことを告げる奥付が現れることにな ろ う 。   と は い え、 ﹁ 関 西 文 学 ﹂ が 出 発 当 初、 佐 藤 清 の も と に 集 っ た 文 科 に 籍 を 置 く︿ 文 学 青 年 派 ﹀ の 牙 城 と な っ て い た の と は 異 な り、 ﹁ 想 苑 ﹂ の 方 は、 年 齢 的 に 見 て も、 ま た そ の 職 業 か ら し て も、 より幅広い層に渡る書き手たちの参加する場となっている。一九二三年四月刊行の第二巻第二号 には、佐藤清、小松一朗も含む六人の﹁編輯同人﹂の名がはじめて掲げられているが、そこに名 を連ねた竹内勝太郎と喜志麦雨は、ともに当時大阪時事新報の記者であり、佐藤とのつながりで この雑誌に参加した人たちだった。三木露風の影響下で詩作を開始していた彼らは、第一年第三 号︵ 一 九 二 二 ・ 一 二 ︶ に そ れ ぞ れ﹁ 詩﹃ 湖 心 ﹄ そ の 他 ﹂、 ﹁ 詩﹃ 路 な き 林 ﹄ そ の 他 ﹂ を 寄 せ た の を 皮切りとして、同誌が 終 刊 を 迎えるまで数多くの詩、時評、論説、書評、翻訳詩、戯曲を発表し ていった。   こうした外部からの寄稿者には、この二人以外にも第二巻第一号︵一九二三 ・ 二︶に詩﹁奇蹟﹂ を寄せた大阪朝日新聞神戸支局長 の藤木九三や、富田砕花、土井晩翠といった詩壇的にはそれま

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でに充分注目を浴びていた詩人たちもいて、 彼らのようなパトロン的存在の作品も含めると、 ﹁想 苑﹂という雑誌は、毎号そこに掲載される、ロマンチックな風合いや、イマジステイックな傾向 を示す詩編を軸として、中央詩壇や出版界に向けてその存在をアピールする性格を多分に有して い る と み な す こ と が で き よ う。 竹 内 と 喜 志 の コ ン ビ に よ っ て、 ﹁ 日 本 詩 人 ﹂﹁ 詩 聖 ﹂﹁ 詩 と 音 楽 ﹂ のような名うての詩誌から﹁青騎士﹂といった新進の詩誌までを取り上げる﹁詩壇月評﹂が第三 巻 第 二 号︵ 一 九 二 三 ・ 七 ︶ か ら 始 ま り、 三 号 連 続 し て 掲 載 さ れ た の も、 こ の よ う な﹁ 想 苑 ﹂ の 性 格 を 物 語 っ て い る。 す で に 見 た よ う に、 ﹁ 想 苑 ﹂ の 発 行 所 が 関 西 学 院 文 学 部 文 科 研 究 会 ↓ 小 松 一朗方﹁想苑社﹂↓上田長文堂内﹁大阪想苑社﹂ という変遷を辿るのも、同誌が採った、より広 汎な流通経路を獲得するための出版戦略であったとも言える。   学院外からの寄稿者の中には詩人的出発を遂げた ば かりの若者もいた。その中の一人が、すな わち草野心平。第三巻第五号︵一九二三 ・ 一〇︶の﹁想苑雑記﹂中で竹内勝太郎は、 当時広東︵広 州︶の嶺南大学に籍を置いていた心平から、亡兄民平との合著詩集﹃廃園の喇叭﹄を直接手渡さ れた折の感動を語っているが、 同号の巻頭に置かれた竹内の詩の すぐ後には、 この青年詩人の﹁赤 い夕月とまつてゐる﹂と題する詩が﹁想苑﹂に初お目見えのかたちをとって掲載されているのだ。 ついで第四巻第一号︵一九二四 ・ 一︶が出たが、心平の詩はここにも﹁虫よ﹂ 、﹁まんだらな風景﹂ ―― 前号の作と合わせてこういう野放図なタイトルのつけかたがいかにも心平らしくないか ―― の二編が掲載された。一方、竹内の﹃廃園の喇叭﹄評を介して心平と知り合い、やがて心平が広 州で創刊する詩誌﹁銅鑼﹂の同人に なっていく原理充雄こと岡田政 二 郎 も 、 心平より一足早く第 三 巻 第 三 号︵ 一 九 二 三 ・ 八 ︶ に 詩﹁ 星 の 匂 ひ ﹂ を 発 表、 大 阪 郵 便 局 に 勤 務 し な が ら 文 学 活 動 を 開

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始していった。   ところで、こうした人たちの参加によって﹁想苑﹂が遠心的な広がりを見せていくことは、学 院関係者、とりわけ草野心平や岡田政二郎と同世代の学生たちの文芸動向に対してどのような作 用を及ぼしていったか。折しも一九二三年三月、佐藤清は学院を退職し東京女子師範学校に転任、 ﹃ 文 学 部 回 顧 ﹄ の 語 り 手 は、 そ う い う 精 神 的 支 柱 が 外 さ れ て い っ た 状 況 下 に お い て も、 こ の 雑 誌 は、後身誌の﹁智恵樹﹂の段階でも小松一朗が終始編輯の任にあたったことも含めて、学院らし さを示していたと述べている。   だが、同じ文章の中では、そうした学院のカラー、関学の学生が中心となる傾向が強かったの はその出発期であったことも確認されているとおり、これまで見てきたような外部からの さまざ まな 才能の流入が繁くなっていくにしたがい、それらを束ねていき、雑誌全体の舵取りをする役 割を彼らが果たしていけたかというと、その点については疑問視せざるを得ない。つまり、竹内 や 喜 志 ら の 活 動 が 前 面 に 出 て く る に 及 ん で、 関 学 の︿ 文 学 青 年 派 ﹀ が そ こ で の 主 流 と は な り に くい環境が﹁想苑﹂とその周囲においては形成されていた。そしてまた、その一方では﹁関西文 学﹂のように、それ自体は関学の︿文学青年派﹀を結集する形をとってはいたが、出発当初のア ンビシャスな魅力を徐々に失っていく雑誌が存続していた。そんな状況の中、学院生による関西 学 院 の 内 と 外 と を 巻 き 込 ん で の、 ま た 新 た な 文 芸 誌 発 行 の 動 き が 生 じ て く る。 ﹃ 文 学 部 回 顧 ﹄ の 言 葉 を 借 り れ ば 、︿ 然 し 此 処 に 注 意 す べ き は こ の 時 代 か ら 徐 々 に﹁ 関 西 文 学 ﹂ を 離 れ て の 文 学 運 動が別に興り来つ﹀たのであるが、その事例として、ここではとくに、竹中郁の活動に触れてみ ようと思う。

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  すでに 兵庫県立第二神戸中学校に 通う頃から、画家今井 朝 路 のア トリエに 出入りするなどして 神 戸 在 住 の 芸 術 家 と の 交 遊 圏 を 広 げ る 動 き を と っ て い た 竹 中 は、 ﹁ 関 西 文 学 ﹂ へ の 詩 の 投 稿 と 並 行して、一九二四年一一月に創刊された﹁横顔﹂にも同人として参加、第四号まで毎号詩を寄せ て い く が、 さ ら に そ の 一 月 後 の 一 九 二 四 年 一 二 月 に は、 神 戸 市 西 須 磨 中 池 下 八 ― 三 に あ っ た 自 宅を﹁海港詩人倶楽部﹂と称する発行所として詩誌﹁羅針﹂を創刊した。 ﹁横顔﹂という雑誌が、 その頃竹中が親しく交際していた岡本唐貴・浅野孟府といった在野の画家、彫刻家も同人に加え て外部への通路を持つ一方で、その発行所が﹁関西学院文学部内   横顔社﹂に置かれていた点で は 文 学 部 の 雑 誌 と し て の 輪 郭 を と ど め て い る の に 対 し、 ﹁ 羅 針 ﹂ が﹁ 海 港 詩 人 倶 楽 部 ﹂ と 名 づ け られた竹中の自宅を発行所とした︻図版③・④︼ことは、それだけこの雑誌の立ち位置を、学院 内で出される機関誌がともすれ ば 纏いつかせていきがちな同人間の濃密すぎる関係やマンネリズ ムの 傾 向 から離脱させ、よりシンプルで軽快な精神に 満ちた文学運動を始動させようとする意欲 の現われであったと見なせよう。こうした目的に賛同する者であれ ば 、その帰属は問わずともよ し、この〝海港 〟 都市で〝詩 〟 を介した出会いさえあれ ば よい。竹中郁が﹁羅針﹂の刊行につい て諮り、彼と二人三脚のかたちをとって始めていった相手は、雑誌刊行の一ヶ月前に神戸三宮神 社境内にあった﹁カフェー ・ ガス﹂で、ギョーム ・ アポリネールの六年忌を記念する詩の展覧会を、 二人きりで開いていた福原清だった。竹中と同じ神戸二中から明治大学に進み、一九二一年には すでに詩集﹃不思議な影像﹄を世に問い、その後同大学を退学して帰神していた若き詩人である。   こ の よ う に し て 滑 り 出 し て い っ た ﹁ 海 港 詩 人 倶 楽 部 ﹂ の 文 学 運 動 は 、 そ れ か ら 約 一 年 の 間 に ﹁ 羅 針 ﹂ の 同 人 の 拡 大 、 第 六 号 ︵ 一 九 二 五 ・ 五 ︶ を も っ て の 一 時 廃 刊 、 そ れ ぞ れ ﹁ 射 手 ﹂、 ﹁ 豹 ﹂、 ﹁ 骰 子 ﹂

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と い う 誌 名 を 持 つ 詩誌の立て続けの 創 刊 、﹁復活第七号﹂ と記した ﹁羅針﹂ の復刊 ︵一九二五 ・ 一一︶ というように、 めまぐるしい動きを見せている。 こうした動きを必然とさせていくものが何であっ たか、とりあえずは、それほどまでにひとところに停滞してはいられない詩的情熱の存在があっ たという想像は許されるにせよ、それ以上の説明を加えられる用意がないので、快走といえ ば 快 走、気まぐれといえ ば 気まぐれにも見えるというような言い廻しを用いるしかないのだが、そう した動きと並行して進められた同人たちの詩集刊行の動きは、このグループの活動の独自性を引 き立てていくものとして、いっそうの注目を引く出来事であったと考えられる。   す な わ ち、 一 九 二 六 年 二 月 に 海 港 詩 人 倶 楽 部 よ り 刊 行 さ れ た 竹 中 郁 の 第 一 詩 集﹃ 黄 蜂 と 花 粉 ﹄ は、彼をエスプリ・ヌーヴォーの詩人として周囲に認めさせていくに足るものだったが、さらに それに加えて海港詩人倶楽部からは、同じ年の八月までに﹁羅針﹂同人の詩集が四冊世に送り出 されることに なったので あ る 。その中の一冊、関西学院を中途退学してセリストを目指してパリ に 渡 っ て い た 一 柳 信 二 の﹃ 樹 木 ﹄︵ 一 九 二 六 ・ 四 ︶に 収 録 さ れ た 作 品 を、 同 時 期 の 竹 中 の 作 品 を 念 頭 に 置 き な が ら 読 ん で い く と 、 た と え ば ﹁ 網 を 引 く ﹂ と い う 題 名 の 詩 は ﹁ 海 の 色 調 ﹂︵ ﹁ 横 顔 ﹂ 一 号  一 九 二 四 ・ 一 一 ︶、 そ し て ま た ﹁ 五 月 の お 嬢 さ ん ﹂ の 方 は ﹁ と ん と 気 ま ぐ れ な お 嬢 さ ん ﹂︵ ﹁ 横 顔 ﹂ 二 号  一 九 二 四 ・ 一 二 ︶ と そ れ ぞ れ 詩 想 や 表 現 を 通 い 合 わ せ て い て 、 二 人 が ほ ぼ 似 た よ う な 詩 的 精 神 圏 を行き来していることが確かめら れ る 。   一柳も竹中や福原と同じく神戸二中の出身で、 ﹃樹木﹄ の ﹁上梓ノ言﹂ で竹中が述べているように 、 二人の交友はその頃から続いていたものだった。だが、出身校を一にしていることは彼らの場合、 あくまでも彼らの出会いの場を用意していただけにすぎず、そういうこととは別のレベルにある

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文学的な環境や城砦を彼らがどうやって築き上げていったかということの方が問われね ば ならな い。 こ う し た 見 地 か ら す れ ば 、 い ま 着 目 し た 竹 中・ 一 柳 の 作 品 上 で の 近 接 感 や、 ﹁ 海 港 詩 人 倶 楽 部叢書﹂と銘打ってもよい同人たちの矢継ぎ早の詩集刊行の動きは、竹中・福原を楕円の中心と して集った青年詩人たちが、自分たちが創造する文学運動の旗幟として﹁関西学院﹂の名をあえ て被せなくてもよい、自律したモ ダ ニズムの詩人集団として、この海港都市神戸で自己成長を遂 げていく証であると言い切ることができよう。 2  外部との交通 ― 同人誌間ネットワーク・梁山泊としてのカフェ   こ こ ら で 少 し 視 点 を 変 え て み よ う。 ﹁ 羅 針 ﹂ 創 刊 前 後 の、 和 暦 で 言 う な ら 大 正 後 期 か ら 昭 和 初 頭に かけては、日本近代文学史上に おけるいわゆる同人雑誌全盛時代であ っ た 。 大正文学の残照 と 入 れ 替 わ る か の よ う に、 既 成 の 文 学 概 念 を 打 破 し よ う と す る 若 き 詩 人 や 小 説 家 た ち の エ ネ ル ギーを溢れかえらせた同人雑誌が、彼らの主義や思潮の多様性に応じて全国的に氾濫していった 旋 風 時 代 で あ っ た。 こ う し た 動 向 は、 ﹁ 羅 針 ﹂ の 巻 末︵ 編 輯 後 記 ︶ に 掲 げ て あ る 受 贈 雑 誌 あ る い は書目一覧を見るだけでも確かめられる。今回目にしたのは、関西学院学院史編纂室所蔵の同誌 三 号︵ 一 九 二 五 ・ 一 ︶、 六 号︵ 一 九 二 五 ・ 五 ︶、 八 号 ︵ 一 九 二 六 ・ 一 ︶ の 三 冊 だ け で あ る が、 そ の ど れもが十点から二十点近くの詩誌を件の頁で挙げており、その中には﹁亜﹂ 、﹁ゲエ ・ ギムギガム ・ プ ル ル ル ・ ギ ム ゲ ム ﹂、 ﹁ 銅 鑼 ﹂ の よ う な 近 代 詩 か ら 現 代 詩 へ の 転 換 を 告 げ る 詩 誌 の 名 も 出 て く るのだ。

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  しかし、重要なのはそれだけではない。今度はためしに﹁亜﹂や﹁銅鑼﹂の側での受贈雑誌一 覧を通覧してみる、するとそのいずれにも﹁羅針﹂の名が見出されること、そのことがいまから の 話 題 に 関 連 し て い っ そ う 注 目 す べ き こ と な の だ。 つ ま り、 こ の 一 連 の 現 象 か ら は、 ﹁ 海 港 詩 人 倶楽部﹂の文学運動と、そこからは地理的に遠く隔たった大連や広州といった外地で興った新詩 運動との間に 相互の交流が生じていることがたちどころに 想起できるのであ る 。 そうした交流の 内 実 や そ れ が 彼 ら に も た ら す 刺 激 の 一 斑 を 示 す も の と し て、 ﹁ 亜 ﹂ の 廃 刊 を 前 に 竹 中 郁 が﹁ ﹁ 亜 ﹂ はわれわれヤンガアゼ ネレーシヨンにとつては、 誇脹してでなく、 ﹁支那海の真珠﹂だつたのです﹂ という言葉を贈ったこ と や 、その竹中の﹃黄蜂と花粉﹄を﹁亜﹂の中心に いた安西冬衛が取り上 げて、 ﹁著者ハ新興詩場ノ新精神トシテ仏蘭西騒壇ノ Esprit Nouveau ト多ク軒輊ヲ見ズ﹂と評し て い た こ とを挙げることもできよう。   ﹁ 羅 針 ﹂、 ﹁ 亜 ﹂、 ﹁ 銅 鑼 ﹂ の 同 人 雑 誌 間 ネ ッ ト ワ ー ク に 端 的 に 示 さ れ て い る、 内 向 き の 閉 じ た 関 係ではなく、その目的や向うところを共有するがゆえに外部の人間とも積極的に交通していくこ と、こうした志向と選択が関西学院文学山脈に連なるひとつの雑誌のうちで積極的に働いたもの として、 ﹁横顔﹂についてもやや詳しく見ておこう。   と は 言 っ て も、 こ の 雑 誌 に 学 院 外 か ら 参 加 し た 浅 野 孟 府 と 岡 本 唐 貴 の 二 人 が、 竹 中 を は じ め と す る 学 生 た ち と ど の よ う に 交 わ り、 彼 ら に ど ん な 刺 激 を 与 え た か に つ い て は、 足 立 巻 一﹃ 評 伝 竹 中 郁  そ の 青 春 と 詩 の 出 発 ﹄︵ 理 論 社  一 九 八 六 ・ 九 ︶ 中 に そ れ に 関 す る 叙 述 が あ る ほ か、 当 時 の 新 聞・ 雑 誌 記 事 を 用 い て こ の 問 題 を 仔 細 に 検 討 し た 平 井 章 一 の 論 考﹁ 岡 本 唐 貴、 浅 野 孟 府 と 神 戸 に お け る 大 正 期 新 興 美 術 運 動 ﹂︵ ﹁ 兵 庫 県 立 近 代 美 術 館 研 究 紀 要 ﹂ 第 五 ・ 六 号 

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一 九 九 六 ・ 三、 一 九 九 七 ・ 三 ︶ も あ っ て、 格 別 新 し い 資 料 を 提 示 す る に は 至 ら な い。 そ の 表 紙 や 本 文中に浅野 ・ 岡本の木版画が掲げられた ︻図版⑤ ・ ⑥︼ ことをはじめとして、 創刊号の ﹁編輯雑記﹂ ︵執 筆は関学生犬飼武︶中に、雑誌発行資金調達のために浅野・岡本の彫刻や絵画の頒布を行う旨が 記されていたり、その浅野の書いた﹁私のグルウプ D V L に送るコンストラクシヨン﹂と題する 前衛的な詩が第三号︵一九二五 ・ 一︶に載っていることを確認するにとどまる。   た だ、 そ う い う 確 認 作 業 を 経 る 中 で、 関 西 学 院 の 学 生 が 外 部 と の 交 流 を さ か ん に し、 そ れ に よって関西学院の文学的環境もまた推移していく問題を考察していくためには、より仔細に調査、 検討していかね ば ならない課題があることも見えてきた。それはたとえ ば 、両者に出会いと交流 の機会を提供していく場所の問題、具体的に言うと当時原田の森にあった学院と近接する地域や、 三 宮・ 元 町 界 隈 に 群 立 し て い た、 〝 カ フ ェ 〟 の 実 態 を 探 っ て い く こ と で あ る。 同 じ 頃、 東 京 の 白 山 に あ っ た 南 天 堂 書 店 二 階 の 喫 茶 室 は、 ﹁ 赤 と 黒 ﹂ に 拠 っ た ア ナ ー キ ー な 詩 人 連 中 が、 連 日 連 夜 の饗宴や乱闘をそこで繰り広げることによってその名をとどろかせていたが、そのような若き詩 人たちにとっての〝梁山泊 〟 が関西学院周辺ではどんなふうにできあがっていたのかを追うこと によって見えてくるものはいろいろとあるはずである。   むろん、この点に関しても、三宮神社境内の勧商場近くにあった神戸瓦斯株式会社直営の﹁カ フ ェ ー・ ガ ス ﹂ の 場 合 の よ う に 、 そ こ に 集 っ た 学 生、 詩 人、 画 家 た ち の 交 流 の 様 子 が、 ﹃ 岡 本 唐 貴自伝的回想画集﹄ ︵東峰書房   一九八三 ・ 六︶ に載った ﹁或る日のカフェー ・ ガス﹂ ︵一九八〇年作︶ と題する回想画や﹁自伝   走りがき﹂によって生き生きと描き出されかつ語られていて、そうし てそれらを紹介する前出平井論文などもあって、そう目新しい材料が見出せるわけでも な い 。

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  しかし、 それでも、 第二 、第 三 の﹁カフェー ・ ガス﹂を尋ねる余地はまだ残されていよう。そして、 そこに集う顔ぶれやそこで行われる編集会議、 合評会、 展覧会を単独のものとしてではなく、 ﹁カ フェー ・ ガス﹂ をはじめとする他の場所における動きと対応させていくような方法を繰り返しとっ て 見 て い く な ら ば 、〝 カ フ ェ を 通 し て 見 た 関 西 学 院 を 含 む 一 九 二 〇 年 代 神 戸 の 文 芸 グ ル ー プ 交 流 図ないし勢力地図 〟 なるものが描き出せるようになるのではないか。   今 回 は﹁ 横 顔 ﹂ と 関 西 学 院 文 学 部 木 曜 倶 楽 部 発 行 の 同 人 詩 誌﹁ 木 曜 嶋 ﹂、 そ れ に 関 西 学 院 文 学 部内関西学院文芸聯盟発行の﹁文芸直線﹂のうちの何冊かに載っている、喫茶店やカフェの広告 をチェックしてみた。すると、たちどころに十指に余る店の名前が拾えた。その中でも頻繁に出 て く る の が 喫 茶 寮﹁ 銀 ﹂ の 広 告 で あ る。 ﹁ 横 顔 ﹂ で は ほ ぼ 毎 号 に わ た っ て 出 て き て お り、 そ こ に は﹁ あ る 夜 の メ エ ゾ ン 銀 に す ゝ る 茶 の 香 り よ ろ し く 秋 た つ ら し も ﹂ や、 ﹁ メ エ ゾ ン 銀 の P が 六 疋 のかあいゝ仔を産んでそろ/スヰートピーが香うてそろ﹂といった気の利いた文句も添えられて いる。店のあった場所が原田神社の鳥居を出た水道路際だから、学生たちは当然集りやすかった。 ﹁横顔﹂二号の会が開かれたのも﹁銀﹂の二階だっ た し 、﹃文学部回顧﹄に は、東大新人会の俊英 として文学部社会学科教授として赴任してきた新明正道を中心とする﹁傾斜地﹂なる短歌会もこ こで開催されたという記述も出てくる。   一方、こういうホームグラウンド的な溜まり場でなく、さまざまな個性がぶつかり合う他流試 合 に ふ さ わ し い 実 質 を 備 え て い た カ フ ェ で、 ﹁ カ フ ェ ー・ ガ ス ﹂ に 次 ぐ も の と し て は、 元 町 通 三 丁 目 山 側 に あ っ た エ ス ペ ロ 喫 茶 室 が 挙 げ ら れ る 。﹁ エ ス ペ ロ を ま だ 訪 れ て 見 な い 方 が 神 戸 に あ り ま せ う か ?﹂ といった広告を ﹁横顔﹂ 五号 ︵一九二五 ・ 三︶ に掲げた、 外国航路の船長がマスター

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で、 ﹁深夜の太陽﹂と呼 ば れる美しい女給もいたこの店は、そんなふうに店の雰囲気を回想する、 当時元町通りにあった紙文具店の印刷部で少年勤労者として働いていた林喜芳が、竹中郁が花嫁 役で登場する未来派驚愕 劇 を観て度肝を抜かれた帰途に、友人の板倉栄三と立ち寄って以来、休 みの度に 足を運んでは文学への夢を膨らませた場所で あ り 、築地小劇場の吉田謙吉 ―― 彼は関西 学院劇研 究 会 が 第二回学院創立記念祭︵一九二七年一一月︶で前田河広一郎作﹁手﹂を上演した 折に舞台装置を手がけた ―― が、 一九二五年四月に来神した際、 個展を開いた会場でもあ っ た 。﹁ 横 顔﹂の広告でこの店の存在を知り、一ヶ月後にそこへ出かけた学生は、大正期新興美術運動の一 翼として東京で活躍していた、吉田の﹁構成派﹂風の作品を目の当たりにすることになるだろう。   三星堂ソー ダ ファンテンも注目していい店だ。一九二三年に組織の改変を経て株式会社となっ た三星堂︵前身は三星堂薬舗︶は、利用客の便宜を兼ねた喫茶部を元町六丁目にあった店舗の一 階に設けたが好評を得て、翌年の大改築の際に二階に移り、革のソファーも据えた七十名収容の どっしりとしたたたずまいになった。それが、ここで話題にするソー ダ ファンテンである。前出 の 林 喜 芳 が こ こ に も 赴 き、 ﹁ 画 廊 喫 茶 の 皮 切 り ﹂ だ っ た 店 内 に 飾 ら れ た 湊 弘 夫 の 絵 に 見 入 っ て 空 想 に ふ け っ た こ と も 含 め て、 こ の 店 に 集 っ た 何 人 か の 画 家 た ち の こ と を た か と う 匡 子 は 紹 介 し て い る が 、さらに それらの情報に、 ﹁木曜嶋﹂第一号︵一九二七 ・ 六︶の﹁同人﹂欄の中で、関西 学院の哲学科に当時在籍していた米澤哲の住所︵連絡先︶が﹁神戸市元町三星堂喫茶店気付﹂と なっていた事実を付け加えておこ う 。米澤のこの住所は、 同誌第二号 ︵一九二七 ・ 一〇︶ の ﹁同人﹂ 欄では早くも ﹁神戸市上筒井通四丁目三番地ノ一愚聖庵方﹂ に 移っていて、 彼が三星堂ソー ダ ファ ンテンを連絡先としていた期間はそう長くはなかったと推測されるのだが、しかしこのことには

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興 味 を 惹 か さ れ る。 彼 を 中 継 点 と し て、 ﹁ 木 曜 嶋 ﹂ 同 人 た ち と 三 星 堂 ソ ー ダ フ ァ ン テ ン に 集 ま っ た学院外の詩人たちとの間にはどんな関係が生じていたのだろうか。   さ ら に、 時 代 は そ れ よ り も や や 下 る が、 当 時 関 西 学 院 中 学 部 五 年 生 だ っ た 足 立 巻 一 も、 一九三一年の年の瀬の一日、 中学に は進学しなかった幼馴染の川崎藤吉、 吉田一鶴︵本名=鶴夫︶ と連れ立ってこの店に入り、 その年の六月に 歌誌﹁あさなぎ﹂を萩沢紫影、 月井奈津夫︵亜騎保︶ らと創刊した余勢を買って、自分たちより創作歴の長い長谷川伝次と竹村英郎の﹁元ブラ﹂する 姿を、二階の窓ぎわから見下ろす挙に出て い た 。   ややくだくだしい叙述になったが、ほかにも今井朝路が元町五丁目にある実家の今井度量衡器 店横の小路に開店した﹁欧風茶寮ランクル・ブルウ︵青い錨︶ ﹂、学院在学当時は︿オカツパにし て断然たるシイクボ ー イ ﹀ ぶりを発揮して築地小劇場に進んだ青山順三が、その解散後帰神して 神戸女学院出身の妻と元町に開いた喫茶店など、関学系の文学青年が自分たちとは異なる世界の 空気を吸っている詩人や芸術家たちと接触する機会をもったと想像されるカフェが、まだまだあ る。青山の店のように、その店名も所在地もわからない場合もあり、その掘り起こしには困難が 伴うだろうが、これまで掲げてきた﹁カフェー・ガス﹂以下の場合も含めて、これらのカフェを 舞台として、関学系の動きも含めてどういった文学、演劇、美術に関する交渉や衝突のドラマが、 どのような重層性を帯びて形成されていったかを精査することを後日の課題としたい。

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3  ﹁木曜島﹂の中を走った力線   ところで、これまでの叙述中に登場させた林喜芳や足立巻一は、前者の場合は未来派驚愕劇に 足を運んだり、後者の場合は自宅が西灘村にあったため学院の仁川移転後も上筒井にあった白雲 堂やエスペロ書店に 足繁く 通 う な どしたというように、その点では関西学院の文学的環境の周辺 に位置づけられる動きをとっていたとは言えるにせよ、その精神の向うところや交友圏、そして また選び取った文学的針路は、学院のそれと同調するものではなかった。   つ ま り、 林 喜 芳 の そ の 直 後 の 動 向 を﹃ 神 戸 文 芸 雑 兵 物 語 ﹄︵ 冬 鵲 房  一 九 八 六 ・ 四 ︶ を も と に 整 理 し て み る と 、﹁ カ フ ェ ー ・ ガ ス ﹂ を め ぐ る 噂 話 に 刺 激 を 受 け た 友 人 板 倉 の 発 案 に 応 じ て 同 人 雑 誌 ﹁ 戦 線 詩 人 ﹂ を 創 刊 し た 林 は、 そ れ を 携 え て﹁ 無 名 詩 人 の 会 ﹂ の 能 登 秀 夫 宅 を 訪 問、 そ こ で彼や及川英雄と知り合う。さらに能登宅を辞した彼は、柳原本通りにあった﹁兵庫ミルクホー ル﹂なる店で﹁無風帯社主催の座談会﹂のビラに目をとめ、板倉を誘って﹁柳原文壇﹂を自称す る連中の溜まり場に乗り込んでいくのだ。このようにして林が身を投じていく文学環境の中心に は、 ﹁ 先 き 手 ﹂という労働者用語を日常会話の中でごく自然に用いる連中や、 ﹁ W C 文学﹂を宣揚 す る アナーキーな活力 に 満ちた街頭詩人らがいて、そこに 渦巻く空気は学院生が味わっていたモ ダ ニズムや団欒的な匂いがするものとは自ずから異なっていた。   そして大事なのは、時代のテンポが、そうした異質なものの存立を並行状態にとどめておくの ではなく、それらを出会わせ、交わらせる方向に進んでいったことである。これは、関西学院文 学 部 内 関 西 学 院 文 芸 聯 盟 発 行 の﹁ 文 芸 直 線 ﹂ の 第 五 号︵ 一 九 二 八 ・ 一 ︶ に 、 県 庁 の 衛 生 課 に 勤 め

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る一方でプロレタリア文学の傾向を多分にもつ作品を書き出していた及川英雄の創作 ﹁都会の眼﹂ が 載 り、 そ し て ま た 第 九 号︵ 一 九 二 八 ・ 八 ︶ に 能 登 秀 夫 の 詩﹁ 向 ひ あ つ た 鮮 人 ﹂ が 掲 載 さ れ た こ とからも確かめられる。   ひるがえってみれ ば 、一九二〇年代の関西学院文学部は、そこからさまざまな文学的潮流を生 み出しただけでなく、河上丈太郎、新明正道、松澤兼人を軸とする社会学会も全盛期を迎え、学 外での学術講演会開催や政治研究会神戸支部創設︵一九二五︶などを通じて、外部運動を活発化 さ せ て い く 時 期 に あ た っ て い た。 ﹃ 文 学 部 回 顧 ﹄ が 当 時 の 学 院 新 聞 か ら 抜 粋 し て 載 せ た、 社 会 学 会の分会にあたる社会思想研究会の発足を告げる文章の中に、こういった言葉がある。   遂 に 社 会 学 会 は 広 く な り、 深 め ら れ た。 私 は 歓 喜 に た へ な い。 い よ い よ だ と の 感 じ が す る。 痛 切 に す る。 ︵ 中 略 ︶ 私 達 は、 太 く 荒 く や つ て み た い。 何 処 迄 も 進 ま う。 私 の 力 を 信 ず る が 故 に 、 が そ れ と 共 に 私 達 は 同 志 の 来 り 投 ぜ ん 事 を 最 も 望 む 。 文 学 部 に 限 ら ず 商 科 、 神 学 部 、 い や 校外からも押しよせて来る事を 、人数の多数は問題ではない。 ︵傍点引用者︶   ﹁ 同 志 ﹂ の 意 味 を 広 い ス タ ン ス で 受 け 止 め る な ら ば 、 こ れ ら の 言 葉 は、 い ま か ら 話 題 に し て い くことに向けて、ある種の示唆を与えてくれる。すなわち、関西学院への対抗体との接触やその 積極的な取り込みは、学院の文学的環境を自家中毒の弊から解放し、それを活性化させていくと ともに、その勢いが臨界点を超えると、それまでの学院の文学的環境に自壊作用をもたらし、そ の結果をどう見るかは別として、その質や次元をこれまでとは全く異ならせた目的や機能を持つ 運動体や組織体を立ち上げる要因にもなっていかないだろうか。そして、そのような力となって 現れてくるものは、同時代思潮の急激な転換、外部からの闖入者といった存在、さらにはそれら

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が複合したものであろう。一九二〇年代後半にあって、同人誌﹁木曜嶋﹂と﹁文芸直線﹂の中を 走った亀裂ないし力線は、こうした問題を提起しているように見える。   そもそも ﹁木曜嶋﹂ は、 竹中郁の命名によってスタートした文学部最初の詩専門の同人誌であっ た。彼の友人小磯良平の画を表紙に掲げた創刊号︻図版⑦︼の巻頭を飾ったのは、竹中と英文科 同級でこの年詩集﹃たんぽぽ﹄を刊行する坂本遼が書いた﹁春﹂と﹁おかん腹おさえてくれ﹂二 編の詩、次いで竹中の詩﹁午後三時﹂が載っていて、同人中にあってこの二人の先輩詩人が上座 に据えられているのを見てとることができる。 そして、 掲載作品全体を通じての一定の傾向といっ たものはなく、各自が好きなものを好きなように書いているといった感じ、むしろ岩崎悦治や池 田 昌 夫 の 詩 な ど は、 ﹁ お ら ﹂ と い う 方 言 を 取 り 込 ん だ り、 透 徹 し た リ リ ッ ク な 詩 精 神 の 発 露 に 努 めたりしていて、それぞれ坂本や竹中の影響下にあることも感じられる。   だ が、 こ の 第 一 号 が 出 た 時、 す で に 英 文 科 を 卒 業 し て い た 竹 中 は 上 京 し て お り、 や が て 翌 一九二八年の早春に はフランスに 向けて旅立つので あ る 。また、坂本の方も郷里の兵庫県加東郡 に戻っていて、同年の冬からは姫路砲兵連隊に入営することになる。そして、それと入れ替わる かのように投げ込まれた外部からの爆裂弾が鱶十治という存在だった。   鱶十治こと原理充雄が関西学院の文学山脈に近づいたきっかけについては、先に﹁想苑﹂を話 題にしたところで触れておいた。しかし、その時の彼は本名の岡田政二郎で、ロマンチックな暗 愁に 満ちた抒情詩の作者として登場していたのだ。高橋夏男の 調 査 に よれば 、彼が﹁思想上の一 転機に際して名を原理充雄と改め﹂たことを竹内勝太郎に向けて告げたのは﹁想苑﹂に登場した 翌一九二四年暮れのことだったが、このペンネームをさらに鱶十治に代えて関学系同人誌に再登

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場してきたこと自体が、彼の立ち位置を象徴的に物語っていると思う。すなわち、あえて事態を 単純化して言え ば 、一九二五年創刊の﹁銅鑼﹂同人として詩的アナーキストの時期を経由した彼 は、いまやそこからも袂を分かち、明確な階級意識に裏打ちされた革命運動の闘士、実践家に変 貌して、関西学院の学生層に対する左翼オルガナイザーとして言説を揮っていくのである。   ﹁ 木 曜 嶋 ﹂ 第 三 号︵ 一 九 二 七 ・ 一 二 ︶ に 寄 せ た﹁ ﹁ ア ナ ア キ ス ト ﹂ へ の ノ ー ト ﹂ で、 理 論 と 実 践 の統一を志向しないアナーキストの闘争過程を批判したのを皮切りとして、 ﹁木曜島の緊急問題﹂ ︵第二巻第三号、一九二八 ・ 三︶ 、﹁木曜島の更に緊急なる問題﹂ ︵第二巻第六号、一九二八 ・ 七︶に おいて、鱶十治が自身の言説をさらに先鋭化していく様子については、高橋氏の労作がすでに詳 しく記しているので、それらを逐一取り上げることは控える。そして、その代わりに彼の主張や そ の 背 後 に あ る マ ル キ シ ズ ム の 台 頭 に 接 し て、 山 田 初 男 の 詩﹁ 或 る 左 翼 芸 聯 へ ﹂︵ 第 三 号 ︶ が 硬 直化した政治性の優先に対して抵抗のそぶりをみせていったり、 西村欣二の詩が第一号掲載の ﹁薄 暮の祈り﹂と第二巻第六号掲載の﹁戦に抗して立て﹂との間に甚だしい作風の変貌を示していっ た り す る な ど の か た ち を と っ て、 ﹁ 木 曜 島 ﹂ 同 人 の 中 に は さ ま ざ ま な 衝 撃 が 走 っ て い っ た こ と を 指摘しておこう。いや、事態はそこにとどまるものではなく、さらに、そうした思想的攻勢に対 する陣立てが整うか整わぬかのうちに、第二、第三の爆裂弾として、草野心平を中軸とする詩的 アナーキストの 群 れ も流入を開始、このように して学生同人たちは、多極化し、しかもそのいず れもが一学院、一都市、一地方の中だけでは収まらない流域と伝播作用を持っている同時代文学 の思想的奔流と、じかに向き合う地点にまで突き動かされていくのである。   この急な流れを渡りきるのに、どれだけの細心の注意と体力とが必要とされたか。ある者は足

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をすくわれて押し流され、ある者はその中に突き出た岩端にぶつかり五体を挫かれていく ―― と、 そ ん な 情 景 が﹁ 木 曜 島 ﹂、 さ ら に は こ ち ら で も 一 九 二 八 年 か ら 二 九 年 に か け て ナ ッ プ 本 部 の オ ル グとして大阪、神戸で活動していた 久板栄二郎の参加の動きがあっ た ﹁文芸直線﹂に 集っていた 何人かの学生たちの、その直後に辿った人生を知ると、浮かんできてしまう。   一方、これとは逆に、この奔湍の底に根を張り、自らの文学の幹を肥らせることにある程度の 成 果 を 示 し て い く 者 も 出 て く る。 た と え ば 、﹁ 木 曜 島 ﹂﹁ 文 芸 直 線 ﹂ 両 誌 に 自 作 の 詩 を 発 表 す る のと並行して、カール・サンドバーグに関する評論や彼の詩の翻訳を載せていった池田昌夫。池 田が﹃シカゴ詩集﹄ ︵一九一六年︶に代表されるこの社会主義的詩人の作品に格別の関心を示し、 そ の 紹 介 を 精 力 的 に 行 っ て い く こ と は、 そ れ よ り も 数 年 前 の 広 州 嶺 南 大 学 在 籍 中 に、 や は り こ の詩人に惹かれて相当数の翻訳を試みた草野心平の詩的閲歴とも通じ合いながら、彼にとって文 学の営みというものが、政治的立場の優劣を論じ合うことだけではうかがい知ることのできない、 精神活動の一環として定位されていったことを想像させるのである。   し か し、 両 誌 の 行 く 末 を 見 た 時、 ﹁ 木 曜 島 ﹂ と﹁ 文 芸 直 線 ﹂ の 前 に は、 そ う い う 個 人 的 な 文 学 の深まりや発酵などを忖度する余地のない局面が開かれていく。すなわち、前者の場合は、この 雑誌を発展させるために同人は全日本無産者芸術聯盟︵ナップ︶との結びつきを強める必要のあ ることを述べた、鱶十治の﹁木曜島の更に緊急なる問題﹂が巻頭に載った第二巻第六号が発禁処 分を受けたことによってそれ以降の発行の道が閉され、後者の方も、この雑誌が果たすべき役割 は、それがナップの全国的機関誌﹁戦旗﹂の地域誌となっていく点に存すると規定した、楠本定 の ﹁同人雑誌の問題﹂ が載った第十一号 ︵一九二八 ・ 一二︶ を、 同人雑誌としての幕引きの号とした。

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︻図版⑧︼   こ の よ う に し て 同 人 雑 誌 と い う 運 動 体 と 決 別 し て い っ た 彼 ら 学 生 同 人 は、 ︿ 各 自 の 世 界 観 の 把 握﹀に努めていくために、より大きな運動体の渦の中に進んでその身を挺していくかどうかを自 身に問いかけていかざるを得なくなる。巨大な渦巻の前でめまいを起こしそうになったり、慄然 とした感に襲われたりする彼の脳裏に、つい一年か二年前の文科祭の折に、同人みんなで準備し て 演 じ た 合 作 劇 の 情 景 が 楽 し い 団 居 の 一 時 と な っ て 浮 か ん で き た か も し れ な い。 ﹃ 文 学 部 回 顧 ﹄ の書き手は、そんなふうにして彼らの苦衷に寄り添おうとしている。が、退路は断たれてしまっ た。そして、さらにそこに新たな試練を課してくるものとして、関西学院の文学的環境にとって の転換点、学舎の原田の森から仁川への移転という事態も生じてくるのである。 ︻注︼ ︵ 1 ︶ 平 井 章 一﹁ 岡 本 唐 貴、 浅 野 孟 府 と 神 戸 に お け る 大 正 期 新 興 美 術 運 動 ﹂︵ ﹁ 兵 庫 県 立 近 代 美 術 館 研 究 紀 要 ﹂ 第 五、 六 号︵ 一 九 九 六 ・ 三、 一 九 九 七 ・ 三 ︶ に お け る 発 言 や、 季 村 敏 夫﹃ 山 上 の 蜘 蛛 ― 神 戸 モ ダ ニ ズ ム と 海 港 都 市ノート﹄ ︵みずのわ出版   二〇〇九 ・ 九︶など。 ︵ 2 ︶ こ の 雑 誌 の 誌 名 は 創 刊 号︵ 一 九 二 七 ・ 六 ︶ か ら 第 三 号︵ 一 九 二 七 ・ 一 二 ︶ ま で が﹁ 木 曜 嶋 ﹂ と 表 記、 第 二 巻 第 一 号︵ 通 算 四 号、 一 九 二 八 ・ 一 ︶ 以 降 が﹁ 木 曜 島 ﹂ 表 記 と な っ て い る。 本 文 で は こ の 雑 誌 名 を 出 す 前 後 の文脈に合わせて両方の表記を用いた。 ︵ 3 ︶ こ の 雑 誌 の 読 み 方 は﹁ カ ン︵ ク ァ ン ︶ セ イ ﹂ だ ろ う か、 ﹁ カ ン サ イ ﹂ だ ろ う か? 校 名 に 従 っ て 考 え れ ば 前 者 の よ う に 思 わ れ る が、 第 七 号︵ 一 九 二 三 ・ 三 ︶ 表 紙 で は、 誌 名 が﹁ Kansai   Bungaku ﹂ と ロ ー マ 字 表 記 されている。 ︵ 4 ︶ す な わ ち、 創 刊 号 の﹁ ﹃ 想 苑 ﹄ 規 定 ﹂ に あ っ た﹁ ﹃ 想 苑 ﹄ は 関 西 学 院 文 学 部 文 科 研 究 会 の 機 関 雑 誌 と し て、

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発刊されたので、 将来は文学部の有に 帰したいと思つて居ます﹂という一文が第二号ではなくなっている。 ま た、 投 稿 資 格 に 関 す る 部 分 を み て も、 前 者 で は﹁ 関 西 学 院 文 学 部 の 方 な れ ば 何 方 で も 自 由 ﹂ と な っ て い たものが、後者ではより枠を広げて﹁ ﹃想苑﹄への投稿は何方でも自由です﹂という表現となっている。 ︵ 5 ︶﹃ 海 の 詩 集 ﹄ の 広 告 が 載 っ た の が 第 二 巻 第 二 号︵ 一 九 二 三 ・ 四 ︶、 発 行 所 の 変 更 が 奥 付 で 告 げ ら れ た の が 第 三巻第一号︵一九二三 ・ 六︶ 。 ︵ 6 ︶ 一九二四年一月発行の第四巻第一号をもって終刊。なお、 一九二四年七月には ﹁想苑﹂ の後継誌として ﹁智 恵樹﹂が刊行されたが、今回はそこまで調査の範囲を広げられなかった。 ︵ 7 ︶同じ一九二三年の発行であっても、 月刊のかたちをとった六月号から、 巻数は第二巻から第三巻へと変わっ ている。 ︵ 8 ︶﹁ 想 苑 ﹂ で は﹁ 岡 田 政 二 郎 ﹂ と 表 記 さ れ る こ の 人 物 の 本 名 に つ い て は、 高 橋 夏 男 が﹃ 流 星 群 の 詩 人 た ち ― 草 野 心 平 と 坂 本 遼・ 原 理 充 雄・ 木 山 捷 平・ 猪 狩 満 直 ﹄︵ 林 道 舎  一 九 九 九 ・ 一 二 ︶ の 中 で、 小 学 校 の 卒 業 者 台 帳 と、 彼 が 後 に 思 想 犯 と し て 検 挙 さ れ た と き の﹁ 特 高 月 報 ﹂ に 拠 っ て、 そ れ を﹁ 岡 田 政 治 郎 ﹂ だ と す る 意見を提出している。 ︵ 9 ︶ 一 八 九 六 年 神 戸 元 町 生 ま れ。 当 初 日 本 画 を 志 し た が、 一 九 一 五 年に 神 戸 駅 前に あ っ た 珈 琲 店﹁ ブ ラ ジ レ イ ロ ﹂ で 個 展 を 開 催、 川 西 英 と 知 己 を 得 た 頃 か ら 西 洋 画 に 転 じ た。 須 磨 に あ っ た ア ト リ エ を 芸 術 家 の 卵 た ち の集いの場として開放したり、 一九二〇年代に入ると﹁コルボー﹂と名づけた画家たちのグループも結成、 元居留地 大阪商船ビルを会場として展覧会を開催するなどして、 神戸のモ ダ ニズムの旗頭となっていった。 青 木 重 雄﹃ 青 春 と 冒 険 ― 神 戸 の 生 ん だ モ ダ ニ ス ト た ち ﹄︵ 中 外 書 房  一 九 五 九 ・ 四 ︶ に 彼 に つ い て の 詳 し い 記述がある。 ︵ 10︶ た と えば 、 編 輯 の 中 心 的 役 割 を 果 す メ ン バ ー が ど う し て も 学 年 の 順に 回 っ て い っ た り す る と い っ た 現 象 な ど、その一つに数え上げられないか。 ︵ 11︶﹁ こ の 号 は だ い ぶ 顔 ぶ れ が 賑 や か で あ る ﹂ と﹁ 編 輯 後 記 ﹂ に 竹 中 郁 が 記 し た 第 三 号︵ 一 九 二 五 ・ 二 ︶ に は、

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竹中と福原に加えて、一柳信二、富田彰、山村順、橋本実俊の作品が載った。 ︵ 12︶ 足 立 巻 一﹃ 評 伝 竹 中 郁  そ の 青 春 と 詩 の 出 発 ﹄︵ 理 論 社  一 九 八 六 ・ 九 ︶に そ れ ぞ れ 写 真 版 で 紹 介 さ れ て い る﹁射手﹂ 、﹁豹﹂ 、﹁骰子﹂の創刊は、 一九二五年七月、 八月、 十月で、 いずれも第一号のみで終っている。 また、 それぞれの表紙には﹁神戸 ・ 海港詩人倶楽部刊行﹂ 、﹁海港詩人倶楽部刊行﹂ 、﹁神戸 海港詩人倶楽部版﹂ という表記がある。 ︵ 13︶一柳信二﹃樹木﹄ ︵一九二六 ・ 四︶ 、山村順﹃おそはる﹄ ︵同 ・ 六︶ 、橋本実俊﹃街頭の春﹄ ︵同 ・ 七︶ 、福原清﹃ボ ヘミヤ歌﹄ ︵同・八︶ 。 ︵ 14︶ こ こ で は た め し に 、﹁ 五 月 の お 嬢 さ ん ﹂ と﹁ と ん と 気 ま ぐ れ な お 嬢 さ ん ﹂ の 本 文 を 引 い て み よ う。 ま ず、 前 者 の 出 だ し は﹁ お 起 き な さ い  お 嬢 さ ん / も う 陽 が 上 り ま し た / は や く 朝 の お 化 粧 を す ま し て / 今 日 は ど な た を 御 訪 問 ﹂ と い う も の。 こ れ に 対 し て 後 者 の 出 だ し は﹁ と ん と  気 ま ぐ れ な お 嬢 さ ん!/ じ つ さ い わ た し は 途 方 に く れ て ゐ る の で す / 季 節 の 移 り か は り よ り は や く / 猫 の 眼 の や う に く る り く る り と / か は つ て ゆ く あ な た の こ こ ろ / お 嬢 さ ん!﹂ と な っ て い る。 両 者 の 親 近 性 は 明 ら か だ ろ う。 た だ、 そ の 一 方、 両者の作品傾向の相違もあるのであって、 その点については足立巻一﹃評伝竹中郁   その青春と詩の出発﹄ が、 一 柳 の 詩 集 に 現 れ て い る﹁ 懐 疑 的 憂 鬱 的 ﹂ 傾 向 と﹁ 楽 天 的 進 取 的 ﹂ 傾 向 の う ち、 後 者 の 方 を 竹 中 郁 が 推奨する発言を行っていることを取り上げて注目している。 ︵ 15︶高見順﹃昭和文学盛衰史﹄ ︵文芸春秋新社   一九五八 ・ 三、 一一︶参照。 ︵ 16︶八号に関しては、表紙に﹁第八輯﹂と表記。 ︵ 17︶﹁ 亜 ﹂ は 一 九 二 四 年 一 一 月 に 大 連 で 創 刊 さ れ、 そ こ で 展 開 さ れ た 安 西 冬 衛 の 短 詩 運 動 は、 新 詩 運 動 の 地 平 を押し広げる役割を果していくこととなる。一方の﹁ゲエ ・ ギムギガム ・ プルルル ・ ギムゲム﹂の創刊も、 同 年 の 六 月。 関 西 学 院 関 係 者 で は 稲 垣 足 穂、 石 野 重 道 も 参 加 し た こ の 雑 誌 は、 未 来 派、 立 体 派 を は じ め と する前衛芸術の動向を視野に入れて言語の方法的実験を多彩に繰り広げて見せたところに 特徴がある。 ﹁銅 鑼 ﹂ は、 こ れ ら 二 誌 に や や 遅 れ て 一 九 二 五 年 四 月 に 、 草 野 心 平 を 編 集 発 行 人 と し て、 当 時 彼 が 留 学 し て い

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た 広 州 で 創 刊 さ れ た が、 草 野 の 有 す る 詩 的 ネ ッ ト ワ ー ク の 広 が り に 対 応 し て、 発 行 地 が 日 本 に 移 っ て か ら も、宮沢賢治をはじめとするさまざまな強烈な個性が集う場へとなっていった。 ︵ 18︶ つ い でに 言 えば 、﹁ 亜 ﹂ と﹁ 銅 鑼 ﹂ の 間 で も 相 互 の 受 贈 は 行 わ れ て い た と 思 わ れ る。 ﹁ 亜 ﹂ の 後 記 は 今 回 全 部 手 元 に お い て 見 て い な い の で 断 定 は で き な い が、 と り あ え ず﹁ 銅 鑼 ﹂ の 後 記 の 方 で は、 受 贈 雑 誌 と し て ﹁亜﹂ が載っていることの確認はできた。さらに ﹁海港詩人倶楽部﹂ から出ていた ﹁射手﹂ は ﹁亜﹂ ﹁銅鑼﹂ 双方の受贈雑誌一覧に、 ﹁豹﹂と﹁骰子﹂は﹁銅鑼﹂の受贈雑誌一覧に 挙げられていることも確認できた。 ︵ 19︶﹁亜﹂ 35号︵一九二七 ・ 一二︶ 。 ︵ 20︶﹁安西覚書﹂ ︵﹁亜﹂ 18号、一九二六 ・ 四︶ 。 ︵ 21︶ちなみに﹁カフェー・ガス﹂を撮った写真でもあるとよいのだが、今もって紹介されていない。 ︵ 22︶﹁横顔﹂三号︵一九二五 ・ 一︶の﹁編輯後記﹂ 。 ︵ 23︶一九二六年二月に開かれた関西学院文科祭のプログラムの一つ。 ︵ 24︶林喜芳﹃神戸文芸雑兵物語﹄ ︵冬鵲房   一九八六 ・ 四︶ 。 ︵ 25︶一九二四年四月創設。 ︵ 26︶前出平井章一﹁岡本唐貴、浅野孟府と神戸における大正期新興美術運動﹂参照。 ︵ 27︶﹁神戸 ・ 三星堂ソー ダ ファウンテン﹂ ︵﹃行きかう詩人たちの系譜﹄ ︵編集工房ノア   二〇〇二 ・ 一二︶ 所収 ︶。 ︵ 28︶ 季村敏夫も ﹃山上の蜘蛛﹄ に載せた ﹁補註 1 ﹃兵庫文学雑誌事典 ― 詩誌及関連雑誌﹄ ︵仮称︶ 作成のために ﹂ の中で、このことについて触れている。 ︵ 29︶足立巻一﹃親友記﹄ ︵新潮社   一九八四 ・ 二︶ 。 ︵ 30︶﹃ 親 友 記 ﹄ に は、 朝 鮮 人 と お ぼ し き﹁ ぼ ん さ ん ﹂ が、 発 禁 と な る﹁ 戦 旗 ﹂ を そ っ と﹁ わ た し ﹂ に 渡 し て く れ る 白 雲 堂、 店 の 主 人 が﹁ エ ス ペ ラ ン ト お や り な さ い よ ﹂ と 薦 め て く る エ ス ペ ロ 書 店、 高 畠 素 之 訳﹃ 資 本 論 ﹄ や 河 上 肇 の﹃ 貧 乏 物 語 ﹄ な ど を 買 っ た 宇 仁 菅 書 店 と い っ た、 一 九 二 〇 年 代 後 半 に 上 筒 井 周 辺 で 営 業 し て い た 古 本 屋 に つ い て 触 れ た 文 章 が し ば し ば 出 て く る。 の ち に 彼 と と も に﹁ 青 騎 士 ﹂ の 同 人 と な っ た 冬 木

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渉︵ 丘 本 冬 哉 ︶ が や は り 上 筒 井 に 開 い た 店 で 同 人 の 巣 と も な っ て い く 博 行 堂 書 店 も 含 め て、 こ れ ら の 古 本 屋の存在も当時の文化的ネットワークの実態を探っていく上で重要な位置を占めている。 ︵ 31︶ 無 風 帯 社 の 座 談 会 で 林 が 出 会 っ た 沖 志 摩 平 な る 人 物 が 口に し た 言 葉 は、 次 の よ う な も の だ っ た ― ﹁ 僕 は 以 前 か ら W C 文 学 を 提 唱 し て い る ん だ が、 雪 隠、 つ ま り 糞 壺 を 彩 ど る 数 多 色 彩 の 美 を 見 逃 が す よ う で は 芸 術 家ではないと 思う︵後略︶ ﹂。 ︵ 32︶ 中 を 乗 せ た 鹿 島 丸 が 神 戸 を 出 航 し た の は 、 あ の 共 産 党 員 の 大 量 検 挙 が あ っ た ﹁ 三 ・ 一 五 事 件 ﹂ 当 日 で あ っ た 。 ︵ 33︶﹃西灘村の青春 ― 原理充雄   人と作品﹄ ︵風来舎   二〇〇六 ・ 一︶ 。 ︵ 34︶西村の詩風の転換については﹃文学部回顧﹄でも言及されている。 ︵ 35︶ たとえ ば 、第二巻第一号 ︵一九二八 ・ 一︶ に ﹁吹雪の夜﹂ を寄せた猪狩満直や、 第二巻第五号 ︵一九二八 ・ 四︶ に﹁高原﹂を寄せた三野混沌らの名を挙げることができる。 ︵ 36︶﹁文芸直線﹂第十号︵一九二八 ・ 九︶に は久板の評論﹁芸術を武器として﹂が掲載されている。      ︻ 付記︼   本 稿 の 執 筆 を 開 始 し て ま も な く、 季 村 敏 夫﹃ 山 上 の 蜘 蛛  神 戸 モ ダ ニ ズ ム と 海 港 都 市 ノ ー ト ﹄︵ み ず の わ 出 版  二 〇 〇 九 年 九 月 二 五 日 発 行 ︶ を 目 に す る 機 会 を 得 た が、 戦 前 か ら 戦 後 に か け て 神 戸 モ ダ ニ ズ ム が 紡 い だ 歴 史 を 膨 大 な 資 料 を 駆 使 し て 複 眼 的、 横 断 的 に 考 察 し て い く 叙 述 に 大 い に 刺 激 さ れ た。 二 〇 〇 九 年 七 月 の 関 西 学 院 歴 史 サ ロ ン で の 話 題 提 供 の 任 に あ た っ た こ と が 発 端 と な っ て 私 が こ の 半 年 ほ ど の 間 に 目 に し た 資 料 の 大 半 は、 長 年 の 調 査 に 基 づ い て 氏 が 同 書 に お い て 提 示 し て お ら れ る も の の 一 部 に 過 ぎ な い。 関 西 学 院 を 取 り 巻 く 文 学 的 環 境 は、 学 院 の 内 に い た 人 た ち の 活 動 そ れ 自 体 を 掘 り 下 げ て い く と と も に、 彼 ら の 外 部 で 展 開 さ れ て い た 文 学 運 動 と の 交 通 の 多 様 性 を 見 て い く こ と に よ っ て、 よ う や く ま と ま っ た 相 貌 を 表 す の で は な い か と い う 思 い を 抱 き な が ら こ の 拙 稿 を 書 き 終 え、 今 後 も そ う し た 姿 勢 で こ の テ ー マ と 向 か い 合 っ て い こ う と し て い る 私 に と っ て、 氏 の こ の 書 は、 同 様 の モ チ ー フ に 貫 か れ た 労 作 と し て、 多 く の 宿 題 や 課 題 を 与 え て く れたことを記しておく。

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【図版① 竹中郁の意匠になる1924年6月 刊行の「関西文学」表紙】

【図版② 「関西学院英文学会刊行」の文字 も印刷された1925年7月刊行の「関西 文学」表紙 

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【図版⑤ 1925年1月刊行「横顔」第三輯 の本文中に挿入された浅野孟府の木版 「無題」】 【図版⑥岡本唐貴がデザインした 1925年3月刊行の「横顔」表紙】     * 今 回 図 版 と し て 使 用 し た 資 料 は す べ て 関 西 学 院 学 院 史 編 纂 室 所 蔵 の も の 。  

参照