清朝咸豊期[ミン]南における小刀会の蜂起
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(2) . 第9巻 第2 号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 昭和33年12月. 清朝成豊期間南における小刀会の蜂起について --. 洪 ト仁 「太平天国革命時期間南小刀会的反清起義」 に関して --. 藤. 次. 岡. 郎. 北海道学芸大学釧路分校史学研究室. t of Hs i i 丁 ty TIOKA : on the Revol ‐Tao 小 刀 Par ao l ro Ft ,. i f in Min‐nan 間南 during the Hs l l ‐ e eng i武豊 era of the ing dynasty, Wi ぐh, th special reference to ‘.he Revol t i i l}nan in the t I T 1e of Tai ‐Ping of Hsiao‐Tao Party in N1 Heavenly Ki i ‐ en, ngdom Revolution,“ by Hung pu. 次. 目. はしがき 1 福建省における小刀会の成立 2 小刀会成立の諸条件とその構. 3 小刀会の蜂起 むすび--小刀会蜂起の性格 とその評価--. 成. は. し. が. き. 一つの歴史事象を どのように評価するかは極めてむつかしい, その事象についての史料の有無が まず前提となるが, その史料をとおしてその奥底にひそむ歴史事実の再構成という段になると, い かに史料を重んずると いっても, 歴史研究者の史観が入ってくると考えられるからである, 現存の 社会秩序を破壊ないしは変革せんとするよ うな活動, 例えば 「暴動」 「蜂起」 あるいは 「革命」 と 1. 称せられるような歴史事象についての評価は, 特に史観に規定さオ やす い の で は な か ろ ぅ か, ) )たろ贋門を 異同安地域に旗上げ し, 遂に一時 「全省の精華」2 =ち海滋竜i 威豊初期, 福建省南部艮 占拠した小刀会の叛乱について触れたものは, 只今のところ極めて 少いようである, 同じ小刀会 にしても, ほぼ同 じ頃に 起った劉麗川 の上海占領事件については概説書にも多く触れるところが涛 ) L )註3) に記した 概説書中, 福建省の小刀会に触れた稲葉君L I氏の 「清朝全史」 には, 各地の る,3 叛乱と何等関連のない叛乱が福建省に起り, 威豊三 年四月叛徒は悼州泉州を占領し, 更に榎門の 貧民と相 呼応してその地も難なく占領, 更に十月には福州をも占拠した, とある, 増井経夫氏の 「太平天国」 では 「太平運動の成功を, わが世の到来とする天地会の識動は, 南京占領の報ととも 1 835年) 五月 には福建で黄徳美というものが樟州や腹門を騒がせ」 と述 に各地にめざま しく …… ( ら関連をもたぬとするに対し, 増井氏は太平軍の南 の小刀会の動きを他と何 べている. 稲葉氏がこ 京占領に刺戟されて蜂起したものとしているが, いずれも単なる地方的叛乱の如きものとされてい 武豊三年三月太平軍の南京入城の頃, 江西広 鑓氏の 「中国近代史」 では,J E るようである. 次に泡女i 東の天地会と共に福建の天地会 (小刀会を指すものであろう-- 筆者) も武装起義し, 太平軍に響 一 決 一.
(3) . 藤. 岡. 次. 郎. 応した, とあり, 羅繭糸 岡氏の 「太平天国史稿」 には 「列伝」 に 「黄威」 なる項を設け, 以下の如く 3年4月福建省南部海澄県で蜂起 述べている. 即ち領袖黄威に領導された福建小刀会会衆は, 185 し, 一時樟州・同安・腹門・樟浦等, 重要域鎮を次々と占領し, 贋門占拠と同時に, 「討清」 の布 告を出したが, 十月には清軍に破られて海上に退避 した, その間黄或は太平天国と連繋を保つため に使者を出したが, 東王楊秀清の返便が福建省境にて官側に補えられ, 黄威の反清勢力も空しくな った, とある, 蓬・羅両氏の観方は小刀会の活動をいわば 「革命」 の路線につながるものとされて いるようであるが, いずれにしても以上四概説書の ・記事は極めて簡に過ぎる, ところでこの蜂起或 は叛乱について, 私の手許にある論稿中 最も詳しく述べ且つ羅氏等の観方を更に強く表現してい )がある, それは黄得美・黄位に率 るものに狭 ト仁氏 「太平天国革命時期間南小刀会的反清起義」4 18 53年5月13日) 海澄県で蜂起し, 十月十一日官兵の攻撃 いられた小刀会が, 威豊三年四月六日 ( によって一度 占領した腹門を, 遂に放棄せざるを得なくなった顛末について 「同安県志」 , 沈儲「舌 壁編」 , 「王靖毅公年譜」 等によって述べている, 洪氏はこの論女でこの時の小刀会の叛乱を 「人 1 1と, 南京条約後 民革命」 と規定しようとされる, 即ち叛乱の必然性を満清封建政府の人民への制肖 福州・頃門開港による外国資本主義の福建省沿海人民に対する圧迫という点に求め, 戦闘中官兵の 怯儒無能なるに比して, 叛徒はつねに強固な 「人 民革命闘争」 の意志を堅持し, 厩門の占領は革命 政権の樹立であり, たとえこの叛乱が短期間で潰えたとしても, 一方で福建所在の満清封建政権に 痛撃を与え, 他方で太平天国時期の革命 声勢に対 して清 軍を該地に釘づけしたという点 で多大の作 用をなしたものであり, 総じてその歴史的意義は大きいと結んでいる. 私のこの小論は, 洪氏の以上の如き評価へのささや かな疑義から出発する. しかし私の手許にあ る小刀会関係の資料は微々たるものであり, 洪氏引用の史料も前 後の関連が判らぬため, そのいく つかは利用させていただいたが, 果して正しく位置づけをなL得たか極めて疑わしく, 内心紙泥た るを禁じ得ないが, 敢てこの小刀会蜂起の経過を述べ, 併せて私の意図せるその性格に触れたいと 思う, 1 ) 勿論 「暴動」 「蜂起」 「革命」 というコトバそのものが, すでにその事象への歴史的評価乃至規定を 行っているのであるが. 2) 東華続録 威豊三年七自己未 02 ▽P 403~404 及び p 3) 稲葉君山 「清朝全史」 下巻 p. ,2 , ,447~450 , 東洋経済新報 社 「世界史講座」1 社) 6 6 平凡 「 1 世界歴史事典( 参考東洋史 9 2 1 3 6 及川俵右術門 」p 及び 増井総夫 「太平天国」p p . , , . , 「太平天国」 の項, 都之誠 「中華二千年史」 巻五中冊 p . ,384 , 箱女欄 「中国近代史」 上編第一分冊 P l 6「劉麗i i 「 「 1 」 等, 尚手 太平天国史縞」p 4 93 及び p 1 2 1 中国近代史講話 羅繭綱 淫伯岩 」p .30 . , . , な に 「景林小史」 (黄本竣) 許にある資料として, 中国近代史資料叢刊 「太平天国」\ , 「小刀 会拠上海 l d 所 載のものの中国訳) があ r a 目撃記」 「小刀会首領劉鹿川訪問記」 (以上二つは Norヒh China He り, 「中西紀事」 巻之十 「五ロ血極端」 にも, 東華続録にも触れている, 4) 1956年 3月1 5日附 「光明日報」 史学所載, 尚洪 ト仁氏は洪葡仁氏の 簡化字体かどうか私にはわ か ら させていただいた, ないので, そのまま使用,. 」 1 塙建省における′ 、刀会の成立 ) 該省における天地会の起源 福建省には天地会系 の諸会派があり, 小刀会もその一派であった,1 1 4 67 ) に既に蒲田 について, 前記狭氏論稿では, 徐珂 「清稗類砂」 会党類に拠って, 廉隈十三年 ( 風俗 「 敬陳治化樟泉 建 った注志伊の 県 (興化府城) に現われていたというが, 嘉慶年間福 巡撫であ 2 1 7 61 ) に起ったとあって, )私 疏」 には樟浦県の僧侶提喜なるものの提唱によって乾隆二十六年 ( ) も と も と 「反 清 復 明」 を 政 治 的 スロ ー ガ ンと せ る 天 地 会 が, 福 の観 る 史料 か らは決 め が た い が, 3 - 85 一.
(4) . 清朝成豊期間南における小刀 会の蜂起について. 建東南沿海地帯, 特に台湾を拠点としてその経済的優位に支えられながら, 長期にわたり反清復明 運動をつづけた鄭氏一門の動きと何らかの関連があったのではなかろうか, も しそうだとすると, 福建省に於ける天地会の政治史的伝統も恐らく清初に遡りうるものと思う, では次に小刀会はどのようにして生れたのであろうか. 洪氏引くところの 「同安県志」 巻三大事 記, 附録 「小刀会匪紀略」 に拠れば, 海澄県民 の江源なるものが, 外洋より西洋の小刀数百フリを 購入して一族のものに贈り, 小刀会を結成し, その轡力人に過 ぐる者は二刀をあわせもったがため )ところが福建出身の 御史陳慶鮪の 「請査弁間省会匪疏」 では, に別名髪刀会ともいったとある,4 樟州府属の竜渓・海澄等の県の人々は. , 多く外洋との貿易に携わり, 外地で妻帯し子を生み, 子の 成長後帰国したが, 俗にその子を土生子と言った, ところで, さきに外洋に於て銭をあっめ会をと り結んだが, その風習が本国の樟州各属から贋門にまで及び, 本国でのそれを小刀会とも天地会と もいった, そして この会に入ろうとするものは, 根基銭として六百ブ”-三文を出すべき義務を負 」 、印口号を有した, そ い, 交完すれば八卦印一順及び紅白布各二方を給せられてそれを織となし,ノ の各グループの頭目は各々小旗一面を製し, 盟約の しるしに血をすすった. この風習ははじめ販洋 のいわゆる土生子がたまたま やっていたものだが, それがやがて拡がり, 妖言をまき散らし, 狂詞 )前者の史料では 無頼6 1なる江源という具体的な個人 を城郷に満貼するようになった, とある,5 , く の創始にかかり, しかもその後暫ら して威豊三年の小刀会蜂起の首領黄得美・黄位が入会してい J その起源はさして古くはないということになる 後者の例では 元来販洋に携われる福 る か ら, 7 , ,. 建省浜海の人々の間に, 古くから外地に於てとり結んだ結社が基礎となって, 故郷 に於てそのよう な結社に小刀会と名附けたようにうけとれる, 小刀会結成の事情や時期についてもいま決めがたい がそれは 「小刀会匪紀略」 でいうような江源の創始によるというようなものではなく, 時期ももっ ) 恐らく台湾をも含む海外との貿易に従うものの中 で 9 ) と古く遡り8 き策とからんで, そ , 清朝の海穿 の生活乃至′ ば利益擁護のために結ばれ育ったものと見るべきであろう, 註 1) 東華続錬成豊三年五月壬子の条の間断総督王認徳の奏文中 華罰省会匪名目不一」 とあり, 続録中日に ふれるもののみを列挙してみても, 汀州の紅会, 連城等の江湖会, 光沢等の花会 (以上成豊元年十二月 板会・草鞍会・過江龍 (以上′ 武 丁亥) , 岡安等の小刀会, 郡武・建陽・順昌等の焼紙坐台・大小会・鉄. 豊三年七自己未) 等がある. 50 このうち花会については, 波多野善大氏 「太平天国に関する二三の問題について」 (歴史学研究第1 が もそうしたものかどうかに 3 5 如 号) の註記中 (同上 p 広東地方の賭博とされている ) 上の花会 つ . , , いては, 只今の私には不勉強のため判然としない. : 2) 皇朝経世女編巻二十三更政, 「査閲省天地会, 起於乾隆二十六年. 偉滴県個堤富 日立. 暗中主 . 首先f 便, 謀為不刺 」 L , 3) 酒 井忠夫氏はその起源について廉熊十三年説と新 た界歴史事典」 た正十二年説があるといわれるが (ni 会党) , その論拠についてはわからぬ. -澱羊小刀数百柄. 遍贈同類, 結為小刀会, 4) 初. 海澄県民江源与其弟発. 以無頼武断郷曲, 源帰ド ト洋.- ータ 共欝力絶人者. 倍; 婁刀, 故名墜刀会. 5 ) 皇朝達成同光義議巻五十三下兵政類纂艇E , 「穣椎, 福建挿州府属之龍渓海澄等県民人. 多往蘇緑息ゴJ } モ 国来 貿易. 毎就彼国票妻生子. 長或型回, 共 人俗謂之土生子, 向在外洋鰍銭票会, 成風乃挟. 其故習デ く日天地会, 凡入会者, 需銭六百九十三女, 名日根基銭. 交完日 ”給 及樟州各扇以至厩門, 結為小刀会, 湧 八卦印一類紅白布各 ニ方為織. 内右小印有ロ号. 其}没頭各製小旗一面. 誓盟献血, 初不過版洋之所謂土 司城郷,」 呉ヨニ者解為之. 積而き 1 所引漸多, 散布妖言. 速敢満貼狂言 8 にも触れて屠 られるが, 結社がその活動 尚, 根慈銭については鈴木中正氏 「清朝中期史研究」 p .9 を遂行するためには経済的基盤 の!醤常的な確立は どうしても必要であり, その為に会首は会衆に金額を ′……入会者納銭五百於会首 」 (皇朝経世女続 出さしめたのであって, 例えば 「金銭会匪起於成豊八年, . 「 会匪紀略 ) とあるによっ てわかる。 」 編巻八十二兵政二十一勘匪中, 孫広言 6) 前記 「以無頼武! 新郷曲」 のうち, 「郷曲に武断す」 というのを, 洪氏はこれは地主階級が農民起義の 二発が郷中にあって群衆に擁護されていた証左で 領袖を謎蔑する慣用句であり, このことは却って江源デ 〕 - 86 -.
(5) . 藤. 次. 岡. 郎. あると言うが, この解釈はどうであろうか, 例えば, 「此れ等;無官は乃ち一方の意なり……蓋 し……亡 「鰹余美 嚢集」 巻2閲視海 を招き, 叛を納め, 広く爪牙を布いて郷曲に武断し, 官府を把持す, ……」 ( 64号 p 歴史学研究第1 防事, 片山誠二郎氏 「明代海上密貿易と沿海地方郷紳層」 ,28 より借用) と =」はどうか, 一方は起義の首領なるために郷村の人民に擁護されていることをあらわし, ある「武断郷= 一方は郷紳なるため武力を 以て横恋したとでも解するか, 7 ) これについては原文をそのま 挙げてないが, 洪氏はそのように述べているので, それに拠った。 1802 ) 白啓 8) 郡之誠 「中華二千年史」 巻五中冊 p.260 の 「康願以後台民起兵簡表」 に, 嘉慶七年春 ( なる小刀会首領が台湾にて起兵を謀り殺されたとあるが, その出典は不明である, 9 ) 台湾沿海地域に, 福建偉州府属県民の居住の多かった事実は, 「按全台大勢, 樟泉之民居十分之六七, ト論, 則近海属樽泉之土著, 広民在三四之間, 以南北論, 則北淡水南鳳山多広民, 諸彰二邑多間戸, 以内タ ) 近山多広東之客荘, (皇朝経世女編巻八十四兵政 鄭光策 「上福節相論台事書」 こなったものが該地で番女を要り, 騒 叉自由に渡航を禁ぜられたがために, 春属のものと離れを なれ} 擾を起す懸念のあったことについて, 「如台湾府属ー庁四県, 今帰隷版図, 将及百年. 久成業土. 居其 地者, 倶係間嬰浜海州県之民, 倶於春時往緋, 西成回籍. 道後海禁漸厳, 一帰不能復往, 共主業在台湾 者, 既不棄其田園, 叉不能J般移春属. 別嬰番女, 恐滋擾害, (皇朝経文編巻八十四兵政, 福建巡撫呉士 功 「請耳 目台民禍巻之禁疏」 乾隆二十五年). 2 小刀会成立の諸条件とその構成 前節で私は小刀会の成立が, 中国東南沿海民の販洋に携わるものたちによって結成されたところ の生活乃至は利益擁護のための結社であろうと推測したが, これまた憶測を遇しくすると, それは 1 7 57 乾隆二十二年 ( ) 以後の海禁策によって醸成されたのではなかろぅか, 福建省では康無五十六 1 72 7 年に, 康無二十二年以来許可されていた出洋貿易が禁ぜられたが, 薙正五年 ( ) に高其伸の奏 請によって南海貿易が開かれ, ここに厩門には じめて版洋の船が見られるようになり, 乾隆初年に )ところが前記の如く乾隆二十二年には広東を除く港は一切交易を禁ぜられた 頗る盛んになった, 1 ノ一挙に して生活の責を失い, 勢 い 無 頼 ので, 大半が海に偽って生業を支えている沿海人民は,2 .海賊とならざるを得ず 遊民 土匪 洋盗は三位一体のものであった 3 盗匪 (遊民) , , )当時の , , , , L i わ j らい. 海盗の性格について, 乾隆期の人曽縞は 「答秦観察間防海事宜」 で,「いまの海盗の忠は, 倭 (庵) トれ .. や. i カを 忌 め な い」 と い っ て そ の 規模 の か な り 大 き い こ と H ミ には 逮 ば ない け れ ども, 糠 を 十 首 も 連 ね, 粟. を示し, その性格からいえば, 彼らは方国珍が州郡を親翻して起ったものとは異り, また明代の海 も ものと’ 趨が島夷番舶 の人であったのとも異って, すべて 「膳 罰広及び各海浜の失業無頼の徒でないものはな い, 或は善 行魚に託し, 或は水手と称し, 或は隠れて耳目となって海辺に於て偵探する. 地方官はそ )といって, 当時の海盗が従来のものと異って, れを察らないので, 遂に成群衆覚するに至った」4 現存の社会秩序から脱落したと ころの沿海地方の失業無頼の徒の集団であったとしている, この曽 毎盗が賊んになったから, 海禁を厳にすべきであるという 錆の上奏の主旨は, 海禁が弛緩 したため? にあったが, これは恐らく時代錯誤的見解であったろう, 即ち福建省南海浜地帯, 特に樟州泉州府 属の地帯の如き地理的経済的条件のもとでは, 単なる海禁 蛮行 策 が 無 理 で ある こ と は, か り に そ の Jだから藍 糟 元はさきに 海禁策を被る勢力に階層的違いがあったにしても, 理の当然であった.5 6 (雄正?) )海禁を解いて南洋との交易を開くべきを論じ, また嘉慶四年に福建巡撫注志伊は,「清 盗の源は, 海船を禁ずることにあるのではない.」 といい, 福建の沿海では耕地が全くなく, 海に 頼って生業を保っている, とくに商船の場合には, その舵水は傭い入れた貧民であり, その数は莫 ごて生活手段を奪ったなら, 勢い海盗のみならず陸盗をも戯ん 大である, そこで彼らを全部陸に上げ ) と い って 開 洋 論 を 主 張 した の で あ っ た. にす る, 7. ところで小刀会の叛乱は, 周知のように南京条約によって, 贋門福州を開いてから約十年をけみ している, その間, 女 g 1上の福建浜海の民, 即ち従来時に海盗となり時に土匪となりたる人々の社会 - 87 一‐.
(6) . 清朝成農期間南における小刀会の蜂起について. 経済的生活が, 外国資本主義との接触によって, どのような影響をうけ, どのように変化 したかに ついては, 只今の私には全く判らない, しか し, 贋門福州の開港直後, 例えばイ ギリス領事が福州 域内の名勝の地に洋楼を起造せんと したとき, 土着の紳士許有年等が連名票請 してこれを阻止 せん と した が如 き, 叉 腹 門 に 房 屋 を 建 造 して 居 住 せ ん と した と き, 居 民 こ れ を 阻 ま ん と した が如 き 8 ,). そのような一時の政治的トラブルがあったにしても, かかる短期間に外国資本主義の沿海居民の経 済 生活 へ の影 響 を 大 きく 見 る こ と は で き な い の で は な い か, も しそ う い う こ と が 許 さ れ る な らば,. 1 84 2年, 清政府因鵜片戦争惨敗, 而与英国答訂南京条約, 把福州厩門闇畔為通商ロ岸, 洪 ト仁氏の「 9 ) 議外国資本主義的勢力伸フ \福建, 従此以後, 福建人民在愛重圧迫下,過着水深火熱的日子,……」 というのは余りにも妄りな表現であろう. , ところで中国史上遊民無頼の発生及び存在は, その発生の仕方や存在の仕方に違いはあれ, 常に 見られるところである, しかし前述したように清朝中期までの福建東南沿海地帯に於ては, 朝廷の 海禁策という政治的な原 因が大いに働いていたと思われる, 勿論このような済民無頼の発生及びそ れを根幹とした暴動については, 単に海禁策というような政治的側面からのみ 説 明さるべきでな ・ける経済構造, 即ち封建的生産関係の変質解体過程の解明を通じて説明されなけれ く, 当時期に於 ば, 重大な手落といわねばな らぬ. しかしこれについては手許に拠るべき充分な史料がないのと, 現段階では私の能力を遥かに越えるものであるから, 他日を期したい. 中国人民大学中国歴史教研 3個の言 室編 「中国資本主義萌芽問題討論集」 上下二冊に収められている3 論女中数個の論女や, 中国 科学院経済研究所編 「中国近代農業史資料」 第 一輯には, 明未満初の福建省における封建的土地所 有制の内部矛盾, 即ち地主対直接生産者の間の矛盾や王朝の専制支配と農民との間の矛盾, 或は農 熟・畑草・甘薦栽培等) や商業資本高利貸資本 の 農 村への 浸 村に於ける商品生産の発達 (例えば不 o )こ 透, 叉それによる農民の生産手段からの遊離, 即ち遊民の増大をあらわす資料も散見するが, i れをこのテエマたる小刀会の叛乱にひっかけて, どのように評価したらよいかについて は 只 今 の 私には不可能である. 鱒衣凌氏 「福建佃農経済史叢考」 には, 明満時代の福建農民暴動の史料が網 1 )これも見る機をもたなかったので 小刀会という一種の農 羅的に蒐集されているそうであるが,1 , 民 叛 乱に つ いて の 資 料 も そ の 中 に 含 ま れ て い る の か, どう か 知 る こ と が で き な か っ た. と こ ろ で 小. 刀会はたしかに一種の農民叛乱ではあろうが, 純 農民的だとい うには あまりにも雑多な要素が入っ ているように思われる, 尚鉄氏は天地会の構成員を述べて, およそ富貴人・学問家・官吏・農人・ 商人・兵士・流涙・盗賊・乞鴇等あらゆる階層を含んでいるとし, 元来秘密結社の基本群衆のうち 2 J叉郭毅生氏も太平天国革命中の新興市民 主要なものは都市の市民であって農民ではないといい,1 1 3 ) 階級の存在を説明した論女で, 同じ様に天 地会が決して農民組織でなく流民無産者を包括せる, 4 )であるとする, 天地会の一派である小刀会を以上のような一 エンゲルスの所謂 「平民的反対派」1 般的規定の中にそのまま含めて考えてよいかわからぬし, また小刀会の階層上の性格をあらわす史 料も手許には少いのであるが, ともかくその中に雑多な要素が入り込んでいると 考え られること は, 前述の如く小刀会そのものが, 販洋に携わるものたちによって結成されたらしいことや, 例え ば後述のように威豊元年に, 小刀会蜂起の前駆と考えられる 「会医」 の暴動が, 樟州府属で陳霧な る頭目を中心として起っているが, このi 繁馨はもともと龍悩 も唱戯を業と し, 近郷の版洋者がみなそ の鰯惑をうけて入会している こと, また各処の行商人を強 引に入会せしめ, 更に大姓強宗股戸をそ 5 iその階層構成は極めて複雑多岐であったようである, 叉鄭振図が泉 の中に包含していること等,1 州樟州二府属の械闘を述べた中で, 往昔の城闘は豪強の徒によって行われたのに, 近年は無頼の輩 に よ っ て 行 わ れ る も の で, そ れ は も とも と 尋 仇 の 意 に よ る の で は なく 渉 奪 の 謀 に よ る も の で あ る.. 6 )と いって, 嘉慶年間では減 かれらは少 しも農工に従事せず, 食に困れば楽んで間根の挙に困る,1 - 88 -.
(7) . 藤. 岡. 次. 郎. 岡の性格が変って, 「不農不工」 の無頼による掠奪暴動的なものになったと述 べている, そしてそ のような無頼の集団が天地会と結んで陸洋の盗となって各地を劫掠し, 淳良股実の家もその騒擾を 7 )かかる暴力的 4 握れて己むを得ずそれに従うものも少くないと, 注志伊はその奏女で言っている,1 行為に対して地方官員が1 共手傍観L ,てなすところを知らざる有機は, しばしば史料ャこ見られるとこ ろであるが, 元来取締りの責にあるこれら地方官 庁の官員, 水師の富弁兵丁や, 或は沓吏街役など がこれら無頼の集団と結んでいる場合があった, 即ち福建省では武臣は水陸の提督から各鎮台に及 8 )また水師の官弁兵丁も多くは泉州樟州出身の人であって ぶまで, 多く本地に属する人であり,1 , 9 海浜に生長し操駕に習熟し,1 ノ 従って洋盗と出目に於て異ならぬ性質のものであった, 従って両 0 Jまた多 者は同郷の誼をもって上下通運 し, 彼此1 謄庇し, 公直挙察を肯んじなかった,2 蕉正年間泉樟 二府の無頼の親分李衷は, 原任の参将李若駿の実兄であり, 一切の争闘を主持し, 一切の訟盗を護 1 1叉腎吏術役は概ね本地の出身であるだけに これまたこれら無頼の徒や会衆と勾通 し易 庇した,2 , i 2 3 ) 「本 処 の 地 梶 土豪」 2 ) 「市 井 の かっ た, 即ち 吏 腎 の 出 身 は そ の類 み な 「郷 里 築黒 iな る 者 の流」, 2 T ,. 4 )であり, 「富者には百般勤索し 貧者には任意に留難し 或は 好珊, 巨家の奴僕及び犯罪の人」2 , , 5 )不断に 「横行無忌 百姓の… 訟梶と勾通し, 事に借りて波を興し」 脂膏を弾くし, 以て自ら其の家 ,2 , 6 )たのであ り, 稲紳士大夫も首を侮れ志を屈して彼等の欲する所に順従し 2 )時に 「不肖 を肥し」2 ,7 8 ’も 彼 らと 交 っ て そ の 立 場を 利 用 せ ん と した 尚 常 に 会 衆 が 街 役 と 結 ん で い た さ ま は の 紳 衿」2 , , , 欧L し ・まま. 9 )とあり 「街憲 「会匪, 憲役と句結して税を油し, 畔に槍して地方を擾害す」2 , , 匪類と固結す 0 ること益々堅く, 転じて地方官をして孤立の勢と成さず ノ とあり, また各街門の書役の中に 吏む」3 1 )も のが あ っ た は 「会 盟. して 匪と 為 る に 至 る」 3 ,. 以上のように福建省の天地会--恐らくその南部沿海地帯で蜂起 した小刀会も 精紳・股戸から , 2 ノ・土梶無頼・健傷師等の賎業者 更に地方の女武官から術門に巣喰 獣人・販夫・密貿易者・塩桑3 , う沓吏・街窓等を含む極めて複雑雑多な階層の寄せ集めから成っていたと思われる, 以上述べ来っ た様に福建省という地理的立地条件と, 明代以来の海禁策という政治的歴史的条件の下で, その様 な制 約に対する抵抗と反織の中から, 乾隆後期に販洋貿易乃至は私貿易を行うものたちによって生 活・利益擁護の目的を以て, 小刀会という秘密結社が生れたと考えられる, そしてそれを中核とし て, その後上記 した様に, 上は紳士から下は多数の無頼に至るまで極めて雑多な階層を含むに至っ た, とこにまた吾々は小刀会の反清蜂起における団結力の限界を垣間見ることができる の で あ る が, これについては後に少しく触れるであろう, 行論の運びが大分前後したが, 次にリ ・刀会蜂起そ のものについて, 手許にある束華続録を主な手がかりとして述べたいと思う, 註 i 1 ) 闇凱票 「道光贋テ V 所収) より引用. 弓志」 船政略巻五洋船 (中国近代史資料叢刊 「鴫片 戦争」I 2) これに関する史料は枚挙にいとまないほ どであるが, 例えば, 間広人桐地狭. 田園不足於緋. 望海謀生, 十居五六,」 (皇朝経世女編巻八十三兵政, 藍↓ 需元 「論南洋 事宜書」 ) 樟泉之民多阪海. (皇朝経世女編巻二十三吏政, 鄭板図 「治械闘議」 ) 鵡寧泉樟五府, 地当海浜. 土堵民質. 織泉尤甚, (皇朝 経世女編巻八 問省負山環海. 地狭人郡. ……福身 十五兵政, 注志・伊 「議海ロ情形硫」 嘉慶四年) 3 巳属近海間民, 及行商轡従者, 此輩誼生前昨日益心哉. (皇朝世女編巻七十五兵政, ) 夫大洋劫奪之徒.≧ ) また, 皇朝経世女編巻七十五兵政難延啓 「」:鎖察論嬰俗書」 には広東省, 特に福 顔g 誌漢 「諭息盗書」 1 建省に最も近い広東省沿海の覆 り 1郡の民情について論 じた中に, 「……以懲地辺海, 民素 ,食於洋, ……夫 土匪者非他, 即前日之洋縦也, 昔之忠在外者. 今悉近内,」 とあり, この民情はそのま 福建東南浜海 地帯にも通ずると思う, 4 ) 早朝育 …樽比女編巻八十五兵政 5) 明代のそれについて, 佐久間重男 「明代海タト私貿易の歴史的背景-福建省を中心として-」 史学雑誌 - 89 -.
(8) . 清朝成豊期間南における小刀会の蜂起について 1 第六十二篇第一号, 及び同氏 「中国の或る貿易商」 歴史家創刊号, 尚前項註 6) 掲片1 1氏論文参照. ) 掲) を斑 6) 藍鼎元は薙正の時貢生にな ったの で (商務院書館 「中国人名大辞典」) 一応その論策 (註2 正中のものと した, 7) (福建) 沿海無地可緋, 全頼補魚醜販, 以為仰事僻育之資. 況商船更大, 其舵水悉係雇用 貧民, 更不 発 -其幾千万億衆也, 若一樹令其舎舟登陸, 謀 生之術, 追於飢寒, 勢必艇而 走険. 将恐海盗未緒, 而陸盗 転織突, (註2) と同) 8 ) 前掲中西紀事巻六十一五□畔端. 9 ). 前掲同氏論文. lo ) 尚, 田中正俊 「中国歴史学界における資本主議の萌 芽研究」 及び佐伯有一 「日本の明滝時代研究にお ける商品生産評価をめぐって」 (以上, 東大出版会刊 「中国史の時代区分」 所収) 参照 ”) 田中正俊 「戦時中の福建郷土史研究」 輪 (歴史学研究161号) より .218 及び p . 12) 「渚代前期中国社会的停滞, 変化和発展」 (本女掲 「中国資本主義萌芽問題討論集」 p 229 参照). 13 ) 14 ). 「歴史研究」 ) 「論新興市民等級在太平天国革命中的作用」 ( 「ドイ ツ農民戦争」 , 大内力訳, 岩波文庫版 p.53. 1 5 ) 皇朝遺戒同光奏議, 前掲陳慶鋳奏.. ~王泉イ 8 昌造話言惑 雪黄允家, 与岡安県属白礁募 近有履門人陳群. 素以惚傷唱戯為業. 逃蔵龍撲県石美郷南F 衆, 謂伊有神術目可通天, 能入会者免罪. 於是石美白礁各郷版洋者, 威受其煽惑. 兼以句建広東土匪。 ……不数日間. 入会者己近数万人. 其賊股則有同安県属之白藤郷王小, 長園郷劉四 ……皆奉陳馨, 王泉 為大頭目, 千百成群, 強派各処股戸. 誠槍各処版夫. 或入会或 助糧, 従者平安無事, 不従者災禍立室, 其有大姓強宗股戸. 未易嚇索者, 該匪声言於起事時即先問罪, 故始而柴瞬者為之, 今雨謹患者訪零さ之,. 始而無頼者為之, 今而般富者亦従之.. 結連数百郷, 横行郡県. 勢莫誰何, 16) 「治械闘議」 皇朝経世女編巻二十三吏政 尚械闘の風気が元来偉泉に起ったことについて, 「夢東風俗之嬢, 誠莫過千城闘突. 此風起千福建之樟 ) 泉, 流伝至千潮州.」 (皇朝 経世女編巻二十三更政, 程含章 「諭息闘書」 17 ) 査問省偉泉二府. ……自明季倭鹿内犯, 練郷兵以衛村壁, 募其勇豪, 授以軍器, 尚勇尚気, 習慣成 ‐… 査問省天地会, …… 風. ……始結天地会匪. 継陸洋之溢. 結党成群. 難行剤掠, 実為地方之害, ‐ 1 蓋因滋蔓日久, 即ラ 菖良股実之家. 擢其騒擾, 不得己而脅従者. 亦復不少. 譲匪等特其人衆, 或出洋強 3 . ) 或在睦槍奪. 或漉人勤蹟, (皇朝経世女編巻二十三更政, 「敬陳治化樟泉風俗硫」 18 ) 皇朝経世女編巻八十三兵政, 福建巡撫毛女錐 「福建建水師積週疏」 班正四年 19 ) 皇朝経世女編巻八十三兵政, 福建総督高其 悼 「陳兵弁知有懲勤疏」 2 0 ) 同上 21 ) 皇朝経世父編巻七十五兵政, 高其悼 「請 慾搬闘主持之人疏」多佳正六年 22 ) 皇朝経世女編巻二十四吏政, 儲方慶 「駁吏論」 ) と同 23 ) 註 17 24 ) 皇朝経世女 編巻二十四吏政, 牟頭相 「説吏胃」 2 5 ) 皇朝経世女編巻 二十回吏政, 周鏑 「上玉撫軍条議」 26) 註 22 ) と同 27 ) 同上 28 た ) 皇朝経世女編巻二十四吏政, 張”E赤 「訪懲街感之法断 」 29 ) これは主として福建省西北部から中部にかけての天地会の会匪についての べたものであるが, 東華続 録成豊元年十二月丁亥の条にある. 0) 註 23 3 ) と同 ミ言札子」 31 ) 皇朝経世女編巻二十三更政, 嫌壁 「機方本府ガ 32) 癖臣向聞閥省樟ラ 良一帯, 民俗標伴, 選 兇械脚, 水陸盗匪. 結形成群, 最称難治, ……乃目塩為商弁之 だ す且縄之以法. 沿海赤子. 既無資本. 不能 後. 遂自民地為私場, 指潮水為私塩. 尽其所有雨帰之千商.′ 別貿易. 安得不入海為盗, ……致私具充斥洋滞日多也, (皇朝経世女編巻四十九戸政, 福建布政便英行 ) 簡 白濁塩諸政収税疏」 嘉慶九年」. 3 小 刀 会 の 蜂 起 目はしがき」 で触れた黄威・黄億美を首領とする反清蜂起は, 威豊三年四月六日にはじまり, 同 年十月十一日に, それまで占領していた彼我の天目山たる榎門を清軍に奪還されるまでの僅か六カ 0- ー9.
(9) . 藤. 岡・ 次. 郎. ば決して単なる突発事件ではなくて, 上記した複雑な事情 月 の短期間の出来事である, しかしそれと の下で長い間の歴史的背景の中から生起した事件と考えられる, 前記陳馨・王泉らによる成豊元年 陳馨は一種の呪術的スローガンと相互扶助 正月の蜂起もその先駆的なものと考えてよいであろう,ー ) 「入会する者数万人」3 )その規模は 「鴨票すること数万人」2 )と 的言辞を以て大衆を煽惑し,1 , いわれるほどのものであり, 樟泉各処の道途は梗塞し, 白昼堂々と旗を豊て, 地方の女武は査弁す )そのため賊勢は竜渓・海澄・同安より漸 ることもできず, また敵て過問しようともしなかった,4 ) しかもこ く長泰・南靖にまで蔓延すること四五県に至り, 叉夏門・台湾も動揺したのであった,5 れは前記 したように, 従来の会匪が内地士著のものの滋事であったが, ここではじめて外洋より伝 J嫁に小刀会が天地会の一派でありながら それにはそれとして 染して入って来たものであった,6 , の独自 生の あっ た こと を 観 販 しう る の で ある が, そ れ が ど の よ うな 組 織 を も ち, ど の よ う な 原 因 と 目的を以て蜂起したかについては皆目わからない, またこれ に対して富側がどのように対処したか )東華続録威豊元年三自己酉の条には 間断総督格泰の上奏として 「偉 についても不明であるが,7 , 泉の会匪巳に要犯を獲すること多名」 とあるのを見オ滅ば 極めて短時日の間に鎮圧されたものと思 , われ, そこにこの蜂起軍の内部的脆弱性を暴露 しているようである, しかしまた恐らくこの様な先 駆的活動が威豊三年の蜂起にもつらなってゆくのではなかろぅか, 更にそのような樟泉二府中心の 小刀会の蜂起とは別に, 殆 ど時を同じぅして西北の江西省寄りの山織地帯から、 中央部の渓谷地帯 にかけて, 腹岸如なるものを大覇とし, もと連城県の術憲たる周勇を二覇とする会党の広範な姦 動 ノこれが何らか小刀会の蜂起に刺戟されて起ったようにも推測されるが 具体的に説明 が見られ,8 , す る 史 料{ まな い, ′. さて, 洪 ト仁氏引くところの前記 「小刀会匪紀略」 には 小刀会創始者江源・江発の両人が蜂起 , 準備をすすめていたが, たまたまその消息カマ官側に偵知せ られ 源,発等五人は海澄県令注世清に , 補えられ, 福州に送られそこで殺されたので 会徒はあらためて黄位・黄得美9 J二人を蜂起の指導 , 者とした, 彼等は先ず成豊三年四月六日夜半を期 して会徒約二千人をもつて海澄県域をのっとり , 七 鰍には石百 亘 ; , 十日には樟州府城を破って, ここで兵備道兼摂知府事女秀と総兵曹三祝を殺 し, 別 のm -隊は同日長泰をも奪取 した, その間 「 r 附近の好民, 風を聞きて蜂起」 したために蜂起軍の勢力 も拡大し, 十一日には数千人の部下をもって一 挙に夏門攻略を企図した 時に頂門水師提督施得高 , は海上を巡℃していたが, 蜂起軍の来攻を恐れて, そのまま劉五店に逃往したため 済撃鄭振腰は , 清兵二百を率いて要匡 益鎮南関に拠って防守せんとするも, 蜂起軍に圧倒され 遂に戦死するに至っ , た, 黄位・黄徳美は一方で同日夜半黄覇業・繁茂昭らをして同安県を攻撃せしめ, 同安知県李湘洲 と参将雅嗣頗阿の県域放棄によって, 翌朝黄覇業らは群衆に迎えられて入城した 更に十三・四日 , 両日中に他の一隊は迅速果敢に進撃を続行し, 樟浦・雲零・詔安の銅 山及び平和の館撲らの城鏡を o )と い う そ して 同月 二 十 六 日贋 門 に 於 て 「討 清」 の 布告 を 出 し n}こ の 新 政権 の 尽く 攻 略 した, l , , よ って 来 る べ さ旨 を 寛 布 した の で あ る.. ところでこの蜂起軍の腹門占領の 報は, 支配者たる清朝に対し如何に映じたであろラか. 同年五 月 壬子の上論には 「本日奏 (王瀧徳の) に拠れば, 同安履門は均しく己に失守し, 安渓も亦賊に進 城燦槍せらる, ……若し地方官が随時に訪査し, 言 忍真峯弁せば, 何ぞ票集すること一万余人に至ら すで こ攻槍を行い, 連に城池を陥れ, 並に股官剤犯する有り, 重情見る可し, 因循廃弛養癌巳に ん, 套 と 撃 1 2 1といい 上海の延平や下済の樟州等の府へ蔓延することを極度に警 久しく, 実に痛恨に堪えん.」 , 戒した, ところがそのような成豊帝の憂慮もものかわ, 間もなく叛徒による樟州鎮道の殺害が上闇 に達すると共に, 恰もこの小刀会の動きと相呼応すをが如く, 中部渓谷地帯の要衝, 永安及び沙県 に於て会党の叛乱が見られた, これに対しても帝は地方官の無為無能を叱責すると共に, 一面樟州 1- -9.
(10) . 清朝成豊期間南における小刀会の蜂起について. 屑物 にの陥落と該管の鎮道の夕戊害について尚半信半疑であり, また永安沙県の各女武の在所について は迅速に査明して具奏すべきことを厳命 した. 次いで現地地方官からの官 兵 救援の奏請に対して は, 「閥省, 水師を除くの外, 陸路の兵額四万有余, 数たる少なからず, 泉州の駐兵尤も多し, 何 ぞ一たび警 報を聞くや, 即ちまさに兵を隣省に調すべきに至らん, 現在, 江西漸江みな防堵の際に 1 3 )といい, 万一にも坐して援兵を待つが如き安逸な態度ではい して, 兵力恐らく赤分ち難からん. 」 4 )前記したように同年二月には太平軍 が南京を占拠 して居り, その直後清 かん, と戒しめている,1 朝はこれに対 し江北大営, 江南大営を設けて反撃体制を固めたものの, この時期 は最も清朝にとっ て苦しい時期であった, しかしもともと福建省の官 兵が無能劣弱であったことは, 既に太平軍の長 江東下を防 ぐ一翼として該地方に派せられた福建官兵が 「既に博益無く」 これを遣散せんとした上 5 )従って小刀会の扉門占領対策として清朝は陸兵に頼るよりも洋上を制圧せんとした 論に見られ,1 6 7 )即ち同月戊午の上 )を当地に派したのであった,1 工単船」1 らしく, 当時最も優秀な舟艇である 「緬 反し, 落掌黄開広をして管領せし 諭には広東巡撫葉名探らをして紅単船を雇募して該船を南漢鎮にi め, もし腹門の海面に賊船の滴駁することあらば, 福建の水師と協力攻則すべきこと, 並びに署潮 仏岡同知呉均と, 彼と面識を有し且つ頗る強幹にして能く臭柴を駁する前在澄海舵浦司巡 州府う そ ”府′ 検章] 申らをして, 得力ある兵勇を帯領し, すみやかに頂門に馳往して会則すべきことを述べ, 更に . 「現在の樟泉会匪初めて起るや, 其の不意に出ず, 迅速掩補せば尚早に撲滅に及ぶ可く, 否なれば 則ち滋蔓図り難し.」 とも言って, 事態の急なるを告げ, 全力をつくして早急に拾収すべきことを 8 )以上の如き紅単船の派遣や陸兵による攻撃が, 具体的にどのように功を奏したか 厳諭している,1 については不詳であるが, 極めて短時日のうちに樟州泉州らの府属が官側に奪還されているのを見 れば, 官側 が叛徒に比してかなり優勢であったことは間違いあるまい. 即ち東華続録同年六月 乙亥 まれ = の条には, 先ず樟州・永春の改復が報ぜられ, 「該処の紳民, 公憤に激し, 逆かずして集まる, # 々実に海澄県注世清等の 出放 して紳民と遊結 し, 密かに克復を図りたるに由る.」 とあり, 叉洪 ト 仁氏引くところの 「王靖教公年譜」 には, 「代理竜渓令蕨宗勤, 海滋令注世清, 民団を率い, 並び 9 )と見え, 更に 」1 .に府慕李生瑛等と密約して, 濠郡紳士と合して内応を為し, 岸州府城収復せり. 東華続録同年六月甲申の条にも 「福建岸泉等の府, 及び上済の延平, 及び各属の郷民義勇, 奮力則 も. 」 とあるのによってわかる. 前述のように, 樟州府城 殺 し, 優せられし城池を将って陸続収復す. が叛徒の手に陥ちたのは四月 十日であり, それが再び官側に奪還されたのは少くとも四月二 十八日 0 )その間僅か十数日の短いものであった, しかし同安贋門は尚叛徒 以前であったようであるから,2 1 )この収復こそ清朝にとって緊喫の事柄であったが, 厩門の収復はこれよりさき十 の手中にあり,2 月十一日まで僕たねばな らなかった, 榎門攻略について, 紅単船による海上よりの攻撃や叛徒の連 絡 遮断という ことも考えう るが, 清朝側としてはできるだけ正面攻撃を避け, むしろさきに叛徒が . 厩門攻犯の際, 愛好たの素と小刀会に預かったものの内応を利用 したが如き論策を, 逆に利用 し, 叉 2 )更にその鋭鋒を 速善) らをして 「義民」 を召募して小刀会内部の分裂を 策し,2 該地地主 (紳士・音 3 )を用いたのであった, かかる詑計手段によると共に, 前記映西道御史 そらすために 珠妥兵の策」2 4 )広東銀二十万両を推して福建省に 凍慶鋪をしてその原籍地たる福建に戻して団練を弁理せしめ,2 - 6 ノかき 5 )更に数日後には, 広東兵一千五百名を該地に赴き聾 朝敗に当らしめ,2 解赴して軍需に備え,2 2 7 ねて広東司庫銀十万を解柱せしめ, )着々反撃体制を固めたのであった. 全省の精華たる腹門を重 \刀会 」 視 し総力を当地区に集中 したろ事情は, 同年八月より榎門東北方の仙遊県域を占拠していた′ 生しいま生 1 i蹄する の余派と目される材 接が, 同地に於て球に鴎張を極めていたが, 「前に匪徒の榎門岡安を一 2 8 ) に因り, 我兵未だ兼顧する能わず」 とあるのを見ればわかり, 仙遊県収復は厩門奪還後, 大兵を 9 ) 以 て な され た の で あ つ た, 2 - 92 -.
(11) . 藤. 岡. 次. 郎. さて贋門を練る彼我の攻防については私の手許には拠るべき史料がなく,? 共氏の論文に少 しくそ の点に触れているのでそれに譲りたいが, 束華続錬成豊三年十一月乙巳の条には 王謙徳が泉州に , おた. 0 馳赴し, 施得高・李 廷銭らと会同し, 護金門鎮総兵孫; )・副将呂大陸饗び候選知府王朝論 らを 糟竃3 督率して, 法を設けて険に拠りて進攻し, 路を分ちて爽撃 したので, 十月十一日には全島を克復す るに至ったとありこの時を以てこの小論の主題たる小 刀会蜂起は一応のピリオ ドを打つ ただ領袖 , 黄位は厩門脱出後, 海洋より東南沿海地方を荒らし, その活動は成豊八年まで続いたというが 3 ) ,1 3 2 同年以後史料の上では見られない, ) 以上が約半年にわたる福建東南沿海に起った小刀会の反清蜂起の顛末である これからして吾々 , 1) この蜂起は既に数年前から継続であって決して突発事件ではな は次のごとく言える, 即ち, ( 2 ) 内陸部の会匪の動きと常に何等かの関連をもつ, ( い, ( 3) その急激な膨脹の模様から見て , 民衆の支持を受けたと考えられる反面もあるが, 雑多な要素が混在していたと見られ 内部の脆弱 , 性を遺憾なく暴露し, いわば 「烏合の衆」 的な反面が強かった, ( 4 ) 一時的爆発力を有し, 該地 区の官憲並びに清廷を震憾し, 時が時だけに皇帝をしていたく 困却せしめたと考えうるが 結局そ , の力を持続し得ず官兵の前に屈せざるを得なかった, ( 5) 以上の如くその内部的弱点を多分に有 していたことは否定できないが, 洪 ト仁氏もいえるよ 鋤こ, ともかく太平軍の長江制圧の時期に , 当該地区に或る程度の清軍を釘づけ したことは多大 の歴史的意義を 有したと申して差 支 え あ る ま い, しか しこれ を 以 て直 ち に こ の 蜂 起 を 「人 民 革 命」 の 路 線 に つ な が る 性 格 のも の と 言 えよ う か ,. 註 1 ) 前掲隊慶鏑奏 (皇朝道成同光奏議巻五十三下兵政類則匪) 2) 東華続録成豊元年正月壬子 3) 註1 ) と同 4 ) 註1及び2) と同 5 ) 6 ) 註1 ) と同 7 ) 格泰は保甲制の強化によって再び蜂起のおこることを防がんと 上奏しているが, この時の蜂起鎮定に 官側がどんな手を打ったかは不明, 現在樟泉会匪. 南経. 懲治, 尤宜力行係甲, 以消好究 」 (東華続録成豊元年七月戊子) , 8 ) 東華続録威儀元年十二月丁亥 9 ) 小刀会首領者中, 黄位は黄威と同 じ, 黄徳美は黄得美と同一人であるが 書物によって異なり 本文 , , ではそれを尊重 したが, その熟れが正しいかについては, 供 ト仁氏の論交註に詳細な考証があるのでそ れを参照せられたい. lo ) 前掲 「同安県志」 巻三 「大事記」 附録 11) この布告は羅爾綱氏 「太平天国史縞」 ( ) に載せられ, 洪 ト仁氏もそれを引用しているが, 中 p .309 国近代史資料叢刊 「太平天国」 且 「天地会文書」 集録の該布告は 「太平天国詔諭」 に拠る とある , . 1 2 4 ) 東華続録同年同条 )1 3 )1 ー 5 ) 成豊三年正月 二十日上諭, 向栄秦稿巻一 「道散福建官兵片」 (中国近代史資料叢刊 「太平天国」 皿) 16 ) プ 寺師之鏡, 莫如紅単船. (東華続録成豊三年九月 壬成) 査紅単各船. 大者可安砲三十余位. 小者亦可安砲二十位, (上掲向栄秦臨巻六 「粛清東端収復高津摺」) 紅単船者. 広東商船也, 故事商人造船寮海関給紅単, 以備椿査, 前綴大憲雇募防海. 水師中之最票 - ~捷 者, ( 「江浦坪素」 巻十四記紅1 漁船-- 「歴史研究」19 56年第7期, 羅雨綱 「波山艇与紅単船」 より引. 用 -). 17 )18 ) 東華続録成農三年五月戊午 19 ) 前掲洪氏論稿より再引 用 20 ) 揮州収復之後, 復於四月二十八等日, 殺廃攻域逆- 波多名, (東華続録成豊三年六月甲申) 21 ) 東華続録武豊三年七月戊申 22 ) 同上同年同自 己末 に記 「紀兵篇」 (洪氏前掲論文註記より) 23 ) 「金門県志」 巻三十五旧事 , それには, 「金門は兵単鋼直に して, 人心↑豊麗 をたり, 好民許疑葉行等, 賊に通じて来攻を導かんと欲す, 総兵孫繋県丞郭学興, 謀 生ォ 水 草鞭に謀り, 議して先ず緩兵の策を用 ぅ. ……草鞭乃ち署中書弁黄求と膜 (門) に赴いて (黄) 得美に 3- -9.
(12) . 清朝成豊期間南における小刀会の蜂起について 生み. 見え, これに説いて日く, 金門は民窮 し地塔せ, 家に百金の蓄 え無く, 人に十日の糧なしと, ……得美 凌守を霧議す. 是に手いて紳士林可 遠, 資を損 して勇を募り, 急 遂に来意無し. 草糠帰り, 即ち文武とi いで戦具を傭う,」 とあり, 洪氏はこれを以て, 地 主側が 「起義軍の貧苦の 人民に対する同情という特 点を利用した」 といっているが, その解釈は無理であろう, むしろ叛徒側が来便 の甘言に乗 ぜ ら れ た か, また金門速攻の準備を欠いていたか, また金門を戦略的に重視しなかった誤 算かによるものであっ て, 「窮民に同情 した」 がためというが如 き単純なものではなかろう, 4 5) 東華続録成豊三年九自己末 2)2 26)27 ) 同上同年同月壬戊 28)29 ) 東華続録成豊三年十一月乙巳 尚, 林俊が小刀会と関係を有 していたかどうかについては私の手許の資料からはわからないが, 決氏引 用の 「舌撃編」 には, 「(威豊四年三月) 官兵攻破帽頂山素. 林俊匿南安各郷, 並鼠氷春都撰地方, 未 知下落, ……或云, 欲園下海附会黄位.」 とある. 30 ) 註23) 引用の 「金門県志」 中の孫繋のことであろう. 3 1) 洪氏論稿掲載資料の再引用に拠れば 」 「(同五年三 「(成豊四年三月) 逆匪滋事. 其全力在慶樟延平, ……腹門逆匪黄 位済文海岸. 往来窺同, 等処 ( 馨広東燈海九龍砲台 」 順 擾贋門淡水庁鶏龍頭 外砂郷巨匪黄興 逸敗黄位勾海燈 月) . 以上 「王靖毅 , 公年譜」) 「武豊四年. 小刀会黄位畔擾台北, 類鶏龍.」 「八年, 黄位余党涙来窺同, 亦済千鶏龍,」 (以上 「淡水 ) 庁志」 巻七 「武備篇」 32) 尤も手許の東華続録のみによる.. むすび--小刀会蜂起の性格とその評価-- 3年5月即ち太平天国軍の南京占領 直後, 福建省南部沿海地域に起った小刀会蜂起は, その潰 185 滅に至るまでの期間の短かさと局部的範囲とから見て, さきの白蓮数の反乱や, 当期の太平天国革 命や, のちの捻党の蜂起に, くらぷ べくもない小 さな規模のものであった. 前掲決 ト仁氏論女は, その経緯についてかなり詳細に述べ, その 「革命的」 性格を極めて高く評価するところがあった, 私のこの小論は, 決氏の評価への疑問から出発し, この蜂起の性格の再評価を行わんとしたもので あ る,. さて, 福建省の小刀会は, 福建省沿海地帯の特殊地理的条件と, 反清復明運動 の歴史的伝統と, 更に清朝前期の海禁策という政治的状況のも とで, 恐らく乾隆後期に於て, 阪洋に携わる一部のも のによって結 成され, 嘉慶・道光という清朝の衰運の過程で次第に成長をとげ, それと同時に次第 に雑多な階層を含む一種の政治的秘密結社に変貌したものと思われる, 即ち初期には少くとも生活 乃至利益擁護的意図によって結ばれていたものが (尤も生活乃至利益擁護といっても, それは海禁 コ的反社会秩序的なものになるが), その後特に闇洋後には反清的 日標を 策のもとでは, 常に反権ブ もつ反社会的色彩の強いものとなつた, といえよう, そのことは, 小刀会が榎門占領直後, 黄位の 出した 「満清討伐」 の轍に明瞭にあらわれている, そこでは否々人民 の塗炭の苦 しみは清朝の久し 二政 によ る と い っ て い る, い苛 ,. ところで私は前節 末尾で, この小刀会蜂起が 「人民革命」 の路線につながる性格のものであるか どう か に つ い て, 疑 問 符 を つ け て お い た が, 果 して ど う で あ ろ う か,. いま 「革命性」 ということについての厳密な概念規定はしばらく措き, 舷では洪氏と共に 「社会 革命」 性という ・点からこれを評価したい, 蜂起・叛乱がその時々に於て革命性を有するためには“ まず第一に, 現存の政治権力・社会秩序 に対する批判及びそれの打破を通じて, 新しい社会秩序と政治権力樹立のための積極的意図がなけ ればならない, その点小刀会蜂起は一面 ではたしかに 「盗匪」 「流賊」 の類と異って, そこに現存 政治権力に対するかなりの破壊力と, 一応の組織力をもっていたようである. しかし新しい秩序の - 94 -.
(13) . 藤. 岡. 次. 郎. -の拠 り所である ・の上からは見ることはできない, 唯‐ 建設への意図や綱領については, 少くも史料 「 決し でなく 「 満清討伐 の布告も 冒頭に 漢大明統兵大元帥黄 (位)」と 前記 」 て新味のあるもの , , 書き出しているように, その意図するところはむ しろ旧来の為政者と同じく, 旧守主義によって貫 かれ てし・る と考 え る べ き で あ っ て, そ こ か ら 「革 命 性」 を 見 出 す こ と は で き な い,. 第二に, 革命性の存否についての一つの手掛りは, その蜂起の指導者の人物評価が考えられる が, これについては何もわからない, 陳馨がもと億傷師であったり, 江源が販洋者であったらしい ところを見れば, 小刀会の基本的集団としての当該社会の下層部分たる所謂 「民衆」 に対 し, これ ら指導者がもともとイ ンティミ トな関係にあったとも想像されるが, だ か らといって小刀会その も の が 革命的 集 団 で あ る と い う こ と に はな ら な い の で あっ て, こ の 点 か ら は 評 価 す る こ と が で き な し、 ,. 第三に, 最も関鍵と考ぅべきものは, その集団の基本的本質的な性格についてであろう, それに ついては, 前述のように, 当該社会における下層部分, 特に密貿易者や失業無頼 (ルンペ ン・ プロ レタリアート) をその中核としていたようであり, その点で客観的には現存秩序に対 して最も敵対 性 と破 壊性 とを 有 す る 素 質 を備 え て い た と い う べ き で あろ う. し か し, エ ン ゲ ル ス が 上 シ ュ ヴア ー ペ ン の農 民 叛乱 に つ いて い み じく も 「農 民 団 に は 浮 浪 的 ル ンペ ン・ プ ロ レタ リ ア ー トが 多 数 加 わ , って い て, これ ら が軍 紀 を乱 し, 農 民 を 堕 落 さ せ, 自 分 た ち も ま た し ば しば 出 た り は いっ た り し i と いっ て い る よ う に 小 刀 会 に 於 て も 亦 た.」 l , , 多 数 の 無 頼 の存 在 が, その 集団そ の も のに 多大. )を与え, それが一時的に大きな爆発力を有したとしても結 局◆持続性をもち得 の 「頗廃的影響」2. ず, 極めて離合集散的・不安定な性質の濃いものがあったといえよう, 即ちこれら失業無頼・済民 の徒が真の革命的意識を持たず, 日前の利害にのみ左右されて, 時に蜂起側につくと思えば, 直ち に官側に寝返りを打つという変転常なき有様は, 燐坐の 「(台湾の祷民) ‐ ‐…ただただ業無きを以て 蕩済す, 賊之を招けば貝 I ”ち乱民と為り, 富之を用ぅればH Iち義勇と為る, 此れみな良とす可く賊と くら )とし・う言によって大体を察知し得る 1ち之に従うのみ.」3 す可し, 能く之を食わす者を視れば, 即 . 更にまた, 前にいくたびか触れたように, 小刀会はその蜂起途上に極めて雑多な要素を包容したの であって, その点からしてもその革命生は極く薄弱なものであった, それは元来 「革命の敵」 たる べき郷紳層や地方官・腎吏などを含む性格不明の混合体であった, 従って宵側に巧みにその虚を衝 かれたのであって, その 「内応」 策はしばしば成功を収め, 紳士をして 叛徒の集団を 「到る処. 法 ) せ しむ る こ と が 可 能 で あっ た エ ン ゲル ス の 「全 農 民 戦 争 を っ う じて 貴 族 や 諸 侯 を設 けてf解散」 4 ,. は組織的裏切, 徹底的な食言や好計の点においてとくにすくれており, それは分散的で組織化の困 5 )というのは, 純農民的でない小刀会 の場合にもそ 難な農民に対しては彼等の最強武器であった.」 のま ま あて はま る の で あ る が, 畢 覚 そ れ は 小 刀 会 内 部 の 条 件 の しか ら しむ る と こ ろ が, か く あ ら し めた の であろ う,. 小刀会も叛乱途上, 漸くその階級性をあらわにしていったと思われる, 具体的史料すまないが, 従 来「脅従」によって入会を強いられた郷紳層 の中には, 恐らく次第に機を見て脱離して行ったものが 多かったのではないか. 彼我の勝敗が決定的になった時期, 即ち叛徒の厩門放棄の数日前に福建巡 白蔭等の 「紅単船」 を福建省に留めて, 則賊に資せんとする要請を上奏して居 撫王謙徳は, 紳士郭ヰ :が との申出を拒否し 速かに江南にそれらを回航して太平軍に対処すべき り, それに対して威豊 者 , )尚暫らく当地に留め置きたる事実は,7 )当該地地方官憲が郷荊 -層の を厳節したのにも拘わらず,6 圧力によって大きな制肘を受けていたことを物語るとともに, 叛乱末期には, 叛徒側の 「階級性」 を少しく明瞭にしたものと受け取れる. しかしそのことも, むしろもともと矛盾を感ずる支配者的 階層の小刀会からの離脱という立場からのみ言えることであって, 小刀会自体が 「明瞭な階級的 -9 5-.
(14) . 清朝威豊期間南における小刀会の蜂起について. 意図」 に基いて, 主体的にそれらを排除したものではなく, その点でそれ自体は階級的に尚暖昧模 糊としたものであったであろう, 要するに生活・利益擁護という面から発足し, 次第に反清的政治結社に変貌 したと考えられる小 刀会も, 仮に一二の指導者が主観的に革命を意図したとしても, 更にその蜂起が単なる勃発事件で はないにしても全体としては自己の革命的な主義主張の為に 抗争叛乱をなしたというよりは, むL る目前の利を逐うための, 或は明瞭な目的を持たぬ単なる支配権力に敵対するだけの一地方的暴動 と ぐらい に しか解 し得 ぬ,. 第四に, 各地に於ける蜂起 との連関性を見なければならぬ. これについては 第三節で見たよう , に, 小刀会 蜂起の前後を通じて, 内陸部に於ける会匪, 台湾に於ける土匪の姦動が見られ 朝廷が , 常にその響応を懸念しているところから見ると, それらに何等かの関連性を窺同しうる また仙済 , 県占拠の賊目林俊が黄位と連繋を欲 したことが前節註2 9 ) の資料にも見られ, 更に羅爾綱・決 ト仁 両氏は 「王靖毅公年譜巻下」 に拠って, 黄位が太平軍に使者を遣わしたことを述べている, 太平軍 への使者派遣についての原女は遺憾ながらわからぬが, も しそれが事実であったとしても それを , 以て小刀会が太平天国の如き革命性を有するという証左にはならぬであろう, ただこの点は 「王靖 毅公年譜」 を僕って, あらためて考究すべき余地があろう. 以上, 小刀会蜂起の性格について, 極めて雑駁な分析を試み, 論理にモタつきが見られると思う が, 要するにそ れは, 洪 ト仁氏の言えるが如き所謂 「革命性」 を具有するものではなく, ま して 「人民革命闘争の葦固な意志を表明する蜂起」 というような誇大な表現は凡そ当らぬ性質のものと 考える, いわば洪氏の見解は, 既に 「森」 を一様なものとして概見し, そこに含まれる 「一木一 木」 の実相を見誤ったようにうけとれる, 私は太平天国革命が 「点と線」 という境域にとどまり, 結局瓦解 してしまった理由の中に, 当時 期に各地に起った地方的叛乱を, そのもとに糾合し得な かった こと, そしてそれはむ しろ, それら 地方的叛乱がそもそももとから真の革命性を有せざる点をつけ加えたく思う, 註. a. i ) 「ドイツ農民戦争」 岩波文庫版 p.146 2) 同上 p,53 3 ) 「東複文後葉」 巻三 「上督撫諸収養僻民謡状」 道光十八年 (前掲「中国近代農業史資料」 第一輯 p .1lo より引用) 4 ) 東華続録成豊三年七自己未 5 ) 前掲訳書 p.140 6) 東華続録成豊三年十自己リ P 7 ) 同上同年同月丙申 (附記) この小論は, 本学辻村正吾教授及び松井秀一助教授の懇切な閲読を賜わった, 厚く御礼申上げま す.. 【 96 -.
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