ロバート・ウォーレスと「『ダグラス』論争」 :
演劇とスコットランド教会
著者
中野 力
雑誌名
経済学研究
号
41
ページ
35-60
発行年
2010-12-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/7259
ロバート・ウォーレスと
「『ダグラス』論争」
―演劇とスコットランド教会―
Robert Wallace on Stage-Plays:
‘Douglas Controversy’
and the Church of Scotland
中 野 力
When John Home wrote the tragedy Douglas and had it performed in Edinburgh (1756), he was criticized by the ministers of the Evangelical Party of the Church of Scotland. They assumed ministers should not write the stage-plays. Robert Wallace, together with the ministers of the Moderate Party, defended the tragedy Douglas and its author John Home. Some recent studies on Wallace, however, argue that Wallace, in his address to the Reverend Clergy , agreed with the Evangelical Party while supporting John Home in some respects. They stressed that Wallace disapproved of the ministers who attended the play, imagined plays did more ill than good, and in some respects opposed luxury.
In this paper, the following points are made clear. Wallace approved of the plays per se. The reason he disapproved of the plays in Edinburgh was that they were illegal in that city. The opinion in which he saw the plays as detrimental to society was not the main point of his arguments. As for luxury, Wallace, unlike the ministers of the Evangelical Party, pointed out many good aspects which it contributed to the prosperity of the society. And last of all, although Wallace s address was written carefully not to displease the conservative ministers, we can identify many sentences which severely ridiculed the Evangelical Party of the Church of Scotland.
Tsutomu Nakano
JEL:B31
キーワード: ロバート・ウォーレス、演劇、「『ダグラス』論争」、穏健派、 福音派
Key words: Robert Wallace, Stage-plays, Douglas Controversy , The Moderate Party, The Evangelical Party, The Church of Scotland 1. はじめに 16 世紀に行われたノックス(John Knox, 1514-1572)の宗教改革以来、ス コットランドはカトリックからプロテスタントの支配する国となった。それ により、カルヴァン主義がスコットランド教会で確立されるが、この教会は 後には、福音派と穏健派とに二分されることになる。 穏健派が正式に成立するきっかけとなったのが、牧師任命権(Patronage) をめぐる問題であった。福音派は牧師任命権に反対するのに対して、穏健 派はそれを肯定的に考える。そして牧師任命権をめぐる問題を契機として、 1752年に穏健派が正式に成立することになった。シャーは、エディンバラの 穏健派知識人として、ヒュー・ブレア(Hugh Blair, 1718-1800)、アレグザンダ・ カーライル(Alexander Carlyle, 1722-1805)、アダム・ファーガスン(Adam Ferguson, 1723-1816)、ジョン・ヒューム(John Home, 1722-1808)、ウィリ アム・ロバートスン(William Robertson, 1721-1793)の五人を挙げている1)。
この二派は、ディヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の無神 論をめぐる問題や、ケイムズ卿(Henry Home, Lord Kames, 1696-1782)の 必然論など、さまざまな点で対立してきた。ロバート・ウォーレス(Robert Wallace, 1697-1771)は牧師任命権には反対しているので、重要な問題で は穏健派とは異なる見解を持っているものの、一般に、初期穏健派(Old Moderates, Early Moderates, First Moderates)の一人として考えられてお
り2)、穏健派の正式な一員ではなかったが、穏健派知識人との関係が深かった ので、穏健派と福音派との対立が生じたときは、穏健派に味方している。 このような穏健派と福音派の対立を明らかにするのに重要なものとして、 1) Sher(1985)を参照。 2) 初期穏健派は、穏健派の先駆的な人々という意味で、その当時に初期穏健派という派があっ たわけではない。
ディヴィッド・ヒュームやケイムズ卿を巻き込んだ論争に加えて、穏健派知 識人であるジョン・ヒュームが書いた、悲劇『ダグラス』をめぐる論争がある。 穏健派が古代のギリシアやローマの思想・哲学を読み解くことで、聖書理 解に幅を持たせることを意図しつつ、演劇もキリスト教の理解に役立つと考 えたのに対して、福音派は、牧師はもっぱら聖書を研究すべきとして、演劇 を支持する穏健派の批判を行ったのは、ある意味当然といえよう。 18 世紀当時では、娯楽に対する規制が厳しく、演劇もその一つの対象であっ た。エディンバラで最初に演劇の公演が行われたのは、1554 年と考えられ、 さらに約 40 年後には劇をめぐって議論が行われることとなった3)。牧師たち は安息日(Sabbath)が汚されるとして演劇を批判するものの、当時のスコッ トランド国王であった、ジェイムズ 6 世(James VI, イングランド国王とし ては、ジェイムズ 1 世 , James I, 1566-1625)が、擁護に回ることで、牧師の 訴えは退けられることになった。 さらにエディンバラで劇についての重要な問題が、1727 年に生じる。ア ンソニ・アストン(Anthony Aston, 1682-1753?) がエディンバラに来て、劇 を行ったが、それが国民の生活様式を害するなど、さまざまな理由から批判 されることになり、長老会は劇に反対する法令を説教壇から読み上げること になった。それに対して、アストンに味方する人たちから、劇が人々を堕落 させるということに何の根拠もないこと、ギリシアやローマでも劇は認めら れていたこと、などを論じて、劇を擁護する見解が出されることになる。最 終的にアストンはエディンバラを去ることになる。エディンバラでのアスト ンの公演は、エディンバラを去る直前の不定期の数回にとどまることになっ た4)。 劇をめぐる同様の問題は、ジョン・ヒュームが悲劇『ダグラス』を作成し、 エディンバラのキャノンゲート(Canongate)で公演が行われたときにも生 じた。初演は 1756 年 12 月 14 日に行われ、大成功を収める。しかしながら、 3) それ以前に、スコットランド国王ジェイムズ 2 世(James II, 1430-1460)によって、エディ ンバラでの公演場が認められている。 4) 1500 年代の事件は、Compton(1975)の pp.12-14 を、1727 年の事件は、pp.18-64 を参照。
大々的に行われた劇を作成したのが、現職の牧師であったという問題に加え て、当時の福音派と穏健派の対立がこの問題に拍車をかけることになった。 福音派の人たち、特に、パトリック・カミング(Patrick Cuming, d. 1776)、 アレグザンダ・ウェブスター(Alexander Webster, 1707-1784)などがヒュー ムを批判して、長老会をまとめあげ、「あらゆる区域内へのエディンバラの 長老会による警告と訓戒。エディンバラ、1757 年 1 月 5 日」5)を布告すること になる6)。それは『スコッツ・マガジン』にも掲載された。さらにこれは同月 30日に彼らの領内のすべての説教壇から読み上げられるように命じられて いる。このことに影響されたグラスゴーの長老会が、この布告では生温いと して、さらに過激な文書を発表することになった7)。 このような動きに対して、穏健派もアダム・ファーガスンなどが『ダグラス』 を擁護する主張を展開する8)。ウォーレスは表面上では目立った行動を取って いないものの、このときも穏健派の側に立ち、『ダグラス』の擁護に回って いる。このときに、カーライルは自伝でウォーレスについて次のように述べ ている。 「ここでは、以下のことに言及するのが適切である。それは、一連の審 理の間に、私は、学識、能力、そして、寛大さによって、教会で正当に 名声を博している、一人の人物からいくらかの匿名の手紙を受け取った。 その人物は、故ロバート・ウォーレス博士であり、彼はそれらの手紙で 私の決意を助けてくれ、私の主張についての最もしっかりした助言を与 えてくれた、ということである」(Carlyle 1910, p.333)。 カーライルへの助言に加えて、ウォーレスは『ダグラス』を擁護する草稿
5) Admonition and Exhortation by the Reverend Presbytery of Edinburgh to all within their Bounds. Dated, Edinburgh, January 5, 1757 , 以下「警告」と略す。
6) Compton(1975), pp.82-83 を参照。
7) 2 月 2 日には『スコッツ・マガジン』に「グラスゴー長老会の議決」( Resolutions of the
Presbytery of Glasgow)を掲載している。
を執筆している。ウォーレスはその草稿を出版するつもりでいたのだが、結 局出版されることがなく終わっている。 このウォーレスの『ダグラス』についての草稿、「ダグラスと呼ばれる悲 劇が作成され、上演され、出版された際の、スコットランド教会の牧師たち に対する、彼らの宗派に属す一人の平信徒9)による訴え」10)が最初に紹介され たのは、モスナーの『ヒューム伝』においてである11)。モスナーは、『ダグラス』 をめぐる穏健派対福音派の構図を示しているとして「訴え」を紹介している が、「訴え」のごく僅かしか紹介が行われていない。 ウォーレス研究として、最初に「訴え」を取り上げたのは、セフトンであ る12)。セフトンはウォーレスが穏健派の立場に立ってはいるものの、福音派 への同調が見られることに鑑み、次のように述べている。 「『訴え』の論調は、両方の長老会[エディンバラの長老会とグラスゴー の長老会]に敵対的な傾向にあるので、ウォーレスが、主として、彼が 両方の長老会の味方であると述べるのは、驚くべきことのように思われ る。彼はエディンバラの劇場が、非合法であることを認め、そして、い ずれにせよ、その町は劇場を支援するのには充分な大きさではないと述 べている」(Sefton 1969, p.22)。 ウォーレスの立場は穏健派に近いものの、「訴え」には、福音派へ味方す る言葉が見られるという点に、セフトンは注目している。 この見解をノーラ・スミスも受け継ぐ13)。スミスもウォーレスは全体とし ては福音派批判であるものの、福音派に近い見解も見られると述べる。 9) この平信徒はウォーレスをさす。おそらくウォーレスが著したということを伏せる意図が あってのことであろう。
10) An Address to the Reverend the Clergy of the Church of Scotland by a Layman of their Communion on Occasion of Composing, Acting & Publishing the Tragedy called Douglass [sic], 1757, La. II. 620/2, 以下 An adress 、「訴え」と略す。
11) Mossner (1954), Chapter 26 The Bard And The Church , pp.356-369 を参照。 12) Sefton (1969), pp.16-22 を参照。
「セフトンが指摘するように、この著作[「訴え」]は、ウォーレスのカー ライルへの共感という点と、オホタタイア(Ochtertyre)のラムジーが 主張したところのものであるが、ウォーレスは劇に行った聖職者の人た ちを非難したという点において、明らかな矛盾を示している」(Smith 1973, p.47)。 「ウォーレスは美徳を促進し、悪徳を弱めることを意図された劇が、有 害と考えられるのは奇妙なパラドックスであると考えるが、それにも関 わらず、劇場の廃止を歓迎することを認めている。なぜなら、概して、『わ れわれのほとんどの公共の娯楽と同様に、演劇は良い影響よりも悪い影 響を与えるように思われる』(p.30)、と彼は考えるからである。しかし ながら、彼は『劇が世間の堕落の主要な要因とは決して考えず』、事実、 時として有益な結果をもたらすと信じている(p.32)」(Smith 1973, p.50)。 このように、スミスもセフトンと同様に、ウォーレスは穏健派の立場には 立っているものの、福音派に近い見解も見られると述べている。セフトンは ウォーレスが、エディンバラの劇場が非合法であると主張していると述べ、 スミスはラムジーの主張を参考にしながら、劇を見に行った聖職者をウォー レスが批判していること、そして、劇は有害なものであるというウォーレス の文章を引用して、ウォーレスは劇が有益な結果をもたらすと考えてはいる ものの、それを全面的には賛成していなかったと述べている。 このセフトンとスミスの見解をさらに推し進めて、コクランもウォーレス の「訴え」の議論を追究する14)。コクランが注目するのはウォーレスの奢侈 論である。長老会が、奢侈が増大している原因として、劇などの娯楽を挙げ、 それを批判するのに対して、ウォーレスは、奢侈は悪いものではない、とい う議論を展開するが、ウォーレスのその反論は、適切ではないとコクランは 考える。 14) Cochran (1997), pp.252-257 を参照。
「ウォーレスは、『奢侈と呼ばれるものは、……社会にとって真の改良で あり、利益である』と述べている。……。しかしながら、ウォーレスは 決してこの『改良のイデオロギー』を理解していなかった。同じ章句で、 彼は読者の注意を、過度な洗練と過小な洗練の繊細なバランスにもどし ている」(Cochran 1997, p.255)。 そして、コクランはスミスと同様に、ウォーレスは公共の娯楽は良いとい うよりも、悪いものであるというウォーレスの見解に注目している。セフト ンやスミスは、ウォーレスが劇に必ずしも全面的に賛同していなくても、全 体的にはウォーレスの思想は穏健派に近いという見解であるが、コクランは セフトンやスミスに比べて、ウォーレスの思想は穏健派よりも、福音派にいっ そう近いと考えているようである。 「彼[ウォーレス]の反論は、カルヴァン主義的なものというよりも、 シヴィック的なものから生じている。それにもかかわらず、彼の立場は 劇を推進した穏健派の少数党に比べて、教会のそれのほうに近かったの である」(Cochran 1997, p.256)。 本稿では、ウォーレスの「訴え」とウォーレスが反論することを意図した 「警告」に焦点を当てて、『ダグラス』をめぐる論争を吟味することによって、 ウォーレスの思想を明確にすることを意図している。具体的には次のような 先行研究、すなわち、ウォーレスがエディンバラでの劇場は非合法と認めて いたということ、劇を見に行った牧師を批判したということ、そして、福音 派の奢侈批判に十全な反論を行わなかったということから、ウォーレスは穏 健派に立ちながら、福音派に近い見解を抱いていたという先行研究に対して、 確かにウォーレスは若干の劇批判を展開しているものの、それでもウォーレ スの意図は穏健派の立場から福音派の批判を行うことにあったのだというこ とを示したいと思う。
2. 演劇の影響についての四つの問題 エディンバラの長老会は 1757 年 1 月 5 日に「警告」を布告して、ジョン・ ヒュームの『ダグラス』を批判し、それに次いで、同年の 2 月 2 日にグラス ゴーの長老会が同様に『ダグラス』を批判する文章を提出している。 ウォーレスは『ダグラス』が福音派から批判されたのを受けて、『ダグラ ス』を擁護するパンフレットである「訴え」を完成させる。ウォーレスは「訴 え」を出版しようとするが、最終的に出版されることなく終わった。ウォー レスはこの草稿を 1764 年 9 月 15 日に見直したことを記している。ウォーレ スが出版を意図したのは、もちろん、『ダグラス』が福音派から批判された 1757年のことであるが、この草稿の冒頭には、1751 年 10 月 27 日から 52 年 11月2日の間に作成されたとある15)。ウォーレスは以下の文章をタイトルペー ジに付している。 「このとじ込み帳はさまざまな評論や思索について多くの断編を含んで いる。私はそれらを異なった気質、状況、そして見解で記した。疑いも なくそれらの中には、そのような主題についての私の評論を出版する価 値があるとすれば、正したいと思ういくらかの過ちを含んでいるけれど も、これらの評論のどれも日の目を見ることはないであろう。それでも、 異なった時代の生活や異なった状況において、異なった気質、精神の移 り変わりや感情や性向や見解を確認することは有益なことである。ここ に書かれたあらゆる評論は 1751 年 10 月 27 日から 1752 年 11 月 2 日の 間に書かれたものである。 これらの小品集はいくらかの過ちとともに多くの正当な思索を含んで いる」(Wallace 1757, p.1)。 15) この時期にすでにウォーレスがまとめあげていたものを、『ダグラス』事件が契機となる ことで、この「訴え」の完成に至ったのかもしれないが、この「訴え」は長老会の「警告」 に対する批判が主なために、その論調は 1757 年当時に執筆されたところが多いように思 われる。このタイトルページは、ほかのとじ込み帳について書かれたものが、誤ってここ に挿入された可能性もあるかもしれない。
このように、ウォーレスは 64 年になって見直したものを最初に付した後、 本論を展開させている。それは、長老会の「警告」批判から始まる。 ウォーレスが批判をする「警告」は以下の文章で始まっている。 「長老会は以下のことを重要なことだと考えている。それは、現在の、 宗教が衰退している状況、主の日(Lord s Day)[日曜日]の公然の冒涜、 礼拝式の軽蔑、増大している奢侈と軽挙(levity)において、あまりに も多くの人が、神を愛しているというよりも、快楽を愛しているように 思われるので、そしてこの点でいうと、近年の劇場に対して与えられる 前例のない支持4 4 4 4 4 4 4 に特に影響を受けていることで、この国家の状態と貧民 の状況が、そのような有害な娯楽をいっそう悪質なものにしているゆえ に、最も公明で厳粛なやり方で、このときに自分たちが感じる深い懸念 を表わすことが自分たちの不可欠な義務と判断することになった、とい うことである」(Craig16) 1757, p.18, 傍点は原文のイタリック)。 このようにエディンバラの長老会が問題とするのは、「宗教の衰退」、「主 の日の公然の冒涜」、「礼拝式の軽蔑」、「増大している奢侈と軽挙」である。 これらについてウォーレスは反論を行うが、その前に、ウォーレスは次のよ うに述べている。 「最近あなた方の何人かは舞台上演に対して過度に熱狂的に反対してい たように思われる。その気分は最初にエディンバラの長老会で始まった。 ……しかし私が思い始めていることは、彼らはこの事柄を全国的な事 件(Business)にしようとし、かつ教会総会(General Assembly of the Church)に権威を割り込まそうと、しかも、それを好ましからざる方 法で行おうと、意図しているのではないかということである」(Wallace
16) 『スコッツ・マガジン』では著者の名は明らかにされていないが、Compton(1975)の参
考文献(p.173)では、著者がクレイグ(Craig)となっているので、ここでも著者をクレ イグにしておく。
1757, p.6)。 ウォーレスがここで危惧するのが、福音派がこの事件を利用して、総会内 での立場を強固なものにしようとする行為である。劇をめぐる論争は『ダグ ラス』事件が初めてではなく、以前から存在するものであるが、1757 年の 演劇論争は、以前に見られたような劇が良いものなのか、悪いものなのか、 という論争を中心にしつつも、ウォーレスは福音派がそれを自分たちに有利 になるように利用し、つまり、演劇論争を道具にして、福音派が教会内で力 を伸ばすことに利用していると考えている。 福音派が『ダグラス』を批判するために『スコッツ・マガジン』に掲載し たもの、それが「警告」である。ウォーレスによると、これはもともと手紙 であり、裁判権を持つ幾人かの長老会の人たちに送られたものであった。こ の手紙は説教壇から読み上げられ、出版されることによって広められた。さ らにそれを採用し、推奨したのがグラスゴーの長老会である。これによって、 『ダグラス』を見に行った牧師のなかに、そのことを悔いる人も現れた。 グラスゴーの長老会は次の総会にこの事件を持ち出し、さらに教会の裁判 にも提出されたことで、このことは大事件になった。これに留まらず、『ダ グラス』を批判するさまざまなパンフレットが出版されることになる。その ため、当初は『ダグラス』を擁護する牧師たちは耐え忍んできたが、ここに いたって反論するパンフレットを作成することになった。 ウォーレスは福音派がこのようにして事件を大きなものにしたことに不満 を抱き、福音派がこれほど騒ぎ立てなければ、福音派はもっと賢明に行動で きたこと、そして、福音派は自分たちの期待していることは捨ててしまうべ きである、と述べて、福音派のとった行動を強く批判している。 次にウォーレスの「警告」の四つの問題に対する批判を考察する。 ウォーレスは「宗教の衰退」と「主の日の公然の冒涜」とを関連づけており、 「主の日の公然の冒涜」が「宗教の衰退」といわれるゆえんであると考える。 そして、確かに以前と比べると「主の日」が守られてはいないが、それでも、 教会にはそれなりの数の人々が出席しており、あまりにも主の日の遵守を求
めるのは、キリスト教というよりもユダヤ教であると批判してから、次のよ うに述べている。 「私は今まさにこの瞬間宗教は衰えているのだというあなた方の見解に は決して賛成しない。50 年前に比べたなら、ある場所ではいくらかの 教会で人々の数が減っているということを私は認めるが、エディンバラ の牧師たちがこの数に多大なる不満を漏らす理由が私には理解できな い。大概にして彼らの教会はかなりの数の陪餐者(communicants)が 出席しているし、減少してもいない。私はまたイングランドとの連合以 前に比べて日曜日がそれほど厳密に守られていないということ、そして 様々な階層において規則的には教会に行かないという人たちがいる、と いうことを認める。このことで、彼らは同じ階層の人々が以前に行って いたよりも、礼拝式を軽蔑しているといわれるかもしれない。そのこと で、私は世界があまり良くならずに悪くなることに悲しむけれども、私 は主の日(the Lords day)を遵守するという昔ながらの方法を認めてい る。このことが厳しく命じられているかどうか、私は現在決めることは しないけれども、しかしながら、そうであろうとなかろうと、私はその ことがとても有益であると思う。私は日曜日には訪問をしたり、訪問を 受けることもせず、そのほとんどを教会ですごすか、私自身の心を癒し、 宗教と道徳のより活発な感覚をいっそう慈しんでいる。……この別な方 法での日曜礼拝の順守は、一般的に宗教が衰えているということの証明 ではないだろう」(Wallace 1757, pp.12-13)。 次に「礼拝式の軽蔑」に移る。「主の日の公然の冒涜」と同様に、以前に 比べて人々は教会を訪れなくなったということに、ウォーレスは反論する。 確かに教会へ行かない人がいるが、しかしながら必ずしもそういう人々が、 放蕩者ではなく、たとえ礼拝式を行わなくても、家庭内で礼拝を行うことも あり、このような批判は適切ではないとウォーレスは考える。
「私は礼拝式の軽蔑を正当化しないが、だからといってそれほど教会へ 行かない全ての人々が、優れた性質を欠いているとか、誠実でないとか、 まじめではないとか述べることはしないし、また彼らは全て放蕩者で、 堕落しており、無頼の徒であるとも述べることはない。これとは逆に、 私はこれら紳士たちの何人かは、あなた方を称賛し、追随する人々、す なわち、優れた性質や節制や誠実さによってよりも、教会に行くことで 目立っているような人々に比べて、仕事や交友関係において、より確実 に必要とされている。私はこの点で、彼らを公正に評価したいと思う」 (Wallace 1757, p.16)。 次にウォーレスは「奢侈と軽率」の問題を考察する。上記で見たように、 コクランはこのウォーレスの奢侈論を考察し、ウォーレスは奢侈に対して肯 定的に述べた後に批判的な文章を述べているから、ウォーレスは奢侈を「改 良のイデオロギー」とは見ていなかったと述べている17)。 ウォーレスは奢侈について次のように述べている。 「私が紳士である皆様方に簡潔に述べたいことは、奢侈(この意味する ところは、より優雅でより豪華な生活習慣ということだが)は、常によ り大きな富や勤労や商業と結びついてきたし、結びついていくだろうと いうことである。その結びつきはあまりにも自然なものなので、それは 他の方法で存在することができるとはまず考えられないし、奢侈が富と 常に結びつけられることはないだろうということもまず考えられない。 もし獰猛で野蛮な生活様式と行き過ぎた洗練との間に、中庸が発見さ れ維持されるなら、幸せなことであろう。しかしこのことは人間本性の 現状ではほとんど不可能なことである。奢侈と呼ばれる多くのものは、 疑いもなくそうではなくて、社会にとって真の改良であり、利益である。 それらは誠実で賞賛に値する勤労を促進し、貧しい人を扶養するのにし 17) 本稿 40-41 ページ参照。
ばしば必要である。しかしながら、美しく、正当で、有益な真の簡素な 生活が存在することがあり、不道徳で有害な洗練された豪華な生活も存 在することがあるけれども」(Wallace 1757, pp.21-22)。 コクランは、ウォーレスの奢侈論を、『人口論』に見られるような、奢侈、 商業社会批判という観点から考察することを主としており、この「訴え」も 同様に、ウォーレスの奢侈批判という観点から考察しようとしている。 確かにウォーレスは奢侈を全面的に肯定することはしないが、『人口論』 でもブリテンが商業で繁栄していると述べ、その経済論は、45 年の「忠告」 や 58 年の『諸特徴』では強く見られることになる18)。 ウォーレスが説くのは奢侈の中庸であり、行き過ぎなければ経済発展を導 くことができるということである。ウォーレスは『諸特徴』では次のように 述べている。 「過度の奢侈は多大な富の結果であるが、それは時としてこの[人口 を減少させる]影響を与える。しかし奢侈は北部ブリテンにおいてそん なに致命的なところにまで来ていない。奢侈があまりにも破壊的となる のは、奢侈が人々の結婚を妨げ、彼らの健康を害し、結婚を不毛なもの にするときのみである」(Wallace 1758, p.120)。 「多大な不満が奢侈に向けられているということは、なるほどもっとも なことである。しかし事実、ある国家での奢侈の増加は富の増加の過ち のない証明なのである」(Wallace 1758, p.133)。 ウォーレスは「訴え」だけでなく、『諸特徴』でも、奢侈が行き過ぎること を批判しているが、奢侈を全面的に批判しているわけではない。奢侈が豊か さと結びつくということをウォーレスは認めているのである。 18) 中野(2007)を参照。
以上の四点に対して、ウォーレスは長老会の「警告」に対して批判を行っ てきた。次はそれ以外の論点と劇の合法性の問題に移る。 3. 劇の合法性 3 - 1 劇の影響 長老会は『ダグラス』を批判しているが、その根本的な問題はあらゆる劇 に求められる。なぜなら『ダグラス』だけではなく、全ての劇が宗教と道徳 にとって悪い影響を与えると考えられているからである。ウォーレスはこの ようなすべての劇を批判する福音派に反論を行う。ウォーレスによると、必 ずしも全ての劇がいいものではなく、確かに人々に害を与える劇が存在する が、そうだとするとそのような劇だけを取り締まればいいのであり、『ダグ ラス』は宗教や道徳に悪しき影響を与えるとは考えられないものであった。 そもそも劇とは人間の愚かさや気取りを正すために作成されたものであり、 社会の利益や改良に繋がることもあるのに、それが有害や危険なものと見な されるのは正当ではないとウォーレスは考える。 そしてウォーレスは『大教理問答』と 1574 年の総会の文章を用いながら、 次のように述べている。 「我々の『大教理問答』に従えば、[十戒]の第七戒が禁じているのは、 あらゆる演劇ではなくて、あらゆるみだらな演劇なのである。それはつ まり他の種類の演劇は禁じられていないということである19)。またペト 19) 『ウェストミンスター大教理問答』では「十戒」の第七戒について次のように解説されて いる。 「問 137 第七戒は何であるか。 答 第七戒は「あなたは姦淫してはならない」である。 問 138 第七戒で求められている義務は、何であるか。 答 第七戒で求められている義務は、次の通りである。……。 問 139 第七戒で禁じられている罪は、何であるか。 答 第七戒で禁じられている罪は、求められている義務を無視することの他には、次の 通りである。……逸楽・暴食・泥酔・不貞な交際、みだらな歌・本・絵・踊り・演劇・ その他自分自身や他人に汚れを挑発したり行ったりするすべてのことである。」
リ(Petrie)の『教会史』に従うと、総会は 1574 年の会合で次の法を制 定した。 『聖書中の物語を土台にしたような悲劇や喜劇、もしくはそれに類し たような劇は安息日に行ってはいけない。もし牧師がそのような劇の執 筆者となるのなら、彼は自分の職を取り上げられるだろう。他の主題の 劇に関しても、公共に提出される前に調べられるべきである。』このこ とは明白に次のように考えられる。それは優れた劇は聖職者(Clergy) や平信徒(laity)によって書かれてもよく、舞台で演じられてもよいと いうものである。今日においては誰一人として、全ての劇が非合法で あり、また、いかなる聖職者(Clergyman)も悲劇を書いたり、それを 舞台で表現したりしないとは夢にも思わないように思われる」(Wallace 1757, pp.29-30)。 このようにして、ウォーレスは聖職者(Clergy)や平信徒(laity)が劇を 作成するのは合法的であると考えている。 しかしながら、このようにしてウォーレスが劇について考察した後、次の ように述べている。 「しかしながら私が率直に言って、もしあなた方が劇場での劇の上演を やめさせることができたとしても、私は悲しむことはないし、概して、 ほとんどの公共の娯楽と同様に、演劇は良い影響よりも悪い影響を与え るように思われる」(Wallace 1757, p.30)。 ノーラ・スミスがこのウォーレスの文章を引用し、ウォーレスは劇場の廃 止を歓迎していたと主張している20)。確かにこの一文では、ウォーレスは劇 や公共の娯楽を否定的にとらえているように思われる。しかしながら、この 日本基督改革派教会大会出版委員会編『ウェストミンスター信仰基準』、新教出版社、 1994年、104-105 ページ。 20) 本稿 39-40 ページ参照。
文章は、法律から見た劇を論じる文章間に挟まれたものでしかなく、この文 章が積極的に展開されることはない。ウォーレスは批判をするときでも、全 面的に批判することはほとんどなく、譲歩をしながら批判するスタイルをと ることが多いので、確かにこの文章だけを見れば演劇批判と理解できるが、 「訴え」を全体的に捉えるならば、ウォーレスは演劇を肯定していると考え てよいだろう。 そして、「警告」の次の批判に移る。それは、舞台が若者たちに与える悪 影響についてである。 「宗教と道徳の利点に害を与えるような劇と役者について、キリスト教 会が常に抱いてきた見解は、とてもよく知られている。それらが通例人 類のより多くの人々、とくに若者層に与えてきた致命的な影響は、あま りにも明白なので問うまでもない」(Craig 1757, p.18)。 この問題、すなわち、「警告」の見解に対して、ウォーレスは次のような 反論を行う。 「私が思うに、彼らは人類のより多くの人々が舞台を見に行くと考え、 またもし人類のさらにより多くの人々、彼らが意図するところの、人類 の最も多くの人々、世界中で、もしくは、ある国家のより多くの人々が 舞台を見に行くと考えているが、しかしながら、この大げさな理解でも、 それを上回る数の人類が舞台については何も知らないので、舞台は人類 の多くの人々に優れた影響も悪い影響も与えないゆえに、彼らの主張は 真実ではない。またもしそれが劇を勉強し、劇を見に行くあらゆる人々 という、より限定された意味で理解されても、彼らの主張は正確な推定 を行うことは難しいゆえに、少なくとも彼らの主張が正しいかは疑わし いであろう。しかしたとえ舞台の影響が現実にそうあるよりもはるかに 悪かったとしても、彼らが舞台を完全に廃止してしまうことは、私は現 在の世界の気質から不可能と思う。このことは道徳的な劇や優れた劇、
もしくは、尊敬すべき特質の人々に対して決して妥当な議論ではないし、 またそのような道徳的な劇を支持することは、彼らとは逆の側にとって 力強い議論となるのである。 私は劇が世間を堕落させる主要な要因だとは決して考えない。あると きは、それが世間を堕落させる影響を与えたかもしれないということを 私は認める。しかしまた他の諸事例で私が確認できることは、それは美 徳にとって役立ってきたのであり、人類を洗練することに役立ってきた ということである」(Wallace 1757, pp.31-32)。 確かに劇場を訪れる人は多いために、その影響は多大なものであるが、し かし若者層や人類全体を見れば、舞台を見に行く人は全国民の僅かでしかな いので、その影響は僅かでしかない。またもし対象を、舞台を見に行った人々 という限定した意味で用いても、長老会が述べるように、劇の与える影響が 大きいかどうかは、必ずしも正しいかどうか証明できないとウォーレスは論 じる。ここでもウォーレスは劇が有害なものではなく、人々に好影響を与え るものであると繰り返し論じる。 長老会が劇を批判するのは、劇が宗教と道徳にとって悪影響を与えるから であると論じているが、ウォーレスはこの事を逆手にとって、宗教と道徳に 悪影響を与えるのは劇よりも酒であるとし、長老会の批判を嘲笑している。 「なぜあなた方の何人かは、一部の女性たちや紳士たちに敬意を表して、 彼らの健康を祝して乾杯し、酒を満たした杯を飲み干すのだろうか。健 康や気分転換のため以外の目的で飲むことほど、本質的により馬鹿げて より不自然なことはない。ある人にあなた方の敬意を示すためにより多 くのワインを注ぐこと─これがどの程度節制の規則を遵守する傾向が あるとしても─を慣習として確立することが、どれほど理性に反する ことだろうか。ああ、ほとんどの世界に広がっており今や慣習となって いる、この愚かでばかげたことが、かくも恒常的で普遍的なものとなっ ていなければ、事態がどのようになっているかは明らかである。この慣
習は不節制、泥酔、放蕩の多くの原因となってきた。どれほど頻繁にそ れは極めて激しい口論や殺人を引き起こしてきたことだろうか。どれほ ど頻繁にそれは、謙虚で真面目な人々を彼らの性向に反して誘惑し、さ らには泥酔に強いてきたことだろうか。私はあえて述べるのだが、この 愚かな慣習のほうが、今まで作成や上演されてきたあらゆる劇よりも、 有害だったのである」(Wallace 1757, pp.34-35)。 以上までが、劇が宗教と道徳に与える悪影響に対してウォーレスが反論を 行ったものである。「警告」は次に 1727 年に発表された「警告」を例に出し て劇を批判する。 3 - 2 1727 年と 1757 年の「警告」 1727 年にも同様の議論が起き、その結果として長老会は劇の批判を行った。 それゆえ 57 年の「警告」も 27 年のものを修正したものに過ぎず、長老会の 意見は昔から劇に対して否定的なものであったという展開を行う。それに対 してウォーレスは 27 年と 57 年21)のものは詳細に見ると異なっていると考え る。27 年のものは 57 年のものに比べて慎重に議論が展開されており、必ず しも全ての劇を禁じたものではないとウォーレスは考える。当時にはみだら な劇が数多くあり、そのようなものは宗教と道徳を向上するための変革を期 待することは出来ず、禁止するしかなかったのであり、決して全ての劇を批 判したのではないとウォーレスは考える。このような 27 年の「警告」の論 理展開はウォーレス自身のものとも一致するものである。 「彼らが一様に『これらの劇を奨励も訪れもしないこと』、『これらの舞 台を止めさせること』という表現を用いている場合、彼らの文書のはじ めに言及されたみだらな劇のことを念頭においているようだということ は、注目に値するし、適切な警戒であるように思われる。この限りでは、 21) ウォーレスは 56 年と記しているが、正式に布告されたのは、1757 年 1 月 5 日である。
彼らは賢明で善良な人々のように振舞ってきた。しかしながら最も賢明 な人々でさえ、そうであったように、彼らは自分たちの推測に過ちを犯 してきたのである。その時代以前に、そしてもっと顕著に、演劇は相当 な変革を成し遂げていたのである。キリスト教徒の生活と完全に合致す る多くの劇があるし、道徳的美徳や簡素な生活様式を強く奨励するだけ でなく、我々の救世主への最も大きな敬意や聖なる宗教への不可侵の愛 情を強く奨励する多くの劇もある。もし 1727 年に演じられた劇がこの 種のものであったならば、長老会がその法令を布告していたか少なくと も定かではないであろう」(Wallace 1757, pp.40-41)。 27 年には宗教と道徳を改善するような劇がほとんどなかったにもかかわ らず、それから 30 年が過ぎるに当たって、数多くの優れた劇が生まれるこ ととなった。それゆえ、27 年には正当だった議論も、57 年には整合しなくなっ ており、もし、『ダグラス』を始めとする優れた劇が 27 年当時に存在してい たなら、長老会はそのような「警告」を発しなかったかもしれないとウォー レスは考える。さらに 27 年の「警告」に比べると 57 年の「警告」は劣って いるとウォーレスは述べている。 「30 年前、エディンバラの長老会は悪しき劇を阻止するのに熱中してい たので、その後継者たちは優れたものをも阻止することが必要と思い、 先行者たちが悪しき劇に適用したのと同様の理由を優れた劇にも適用し たのである。人々と時代の思潮はかくも異なっているのだ。事実、古い 文章はそれ自体において充分に見事なものであるが、最近の警告はそれ とは異なった思潮を好んでおり、30 年前のものに比べても劣っている。 [30 年前の]長老会は宗教は衰えているということを決定しなかったこ とだけでも充分に賢明であったし、少なくとも彼らの文章で舞台に反対 する決定も行っていなかった」(Wallace 1757, pp.41-42)。 エディンバラの長老会は 27 年の「警告」を例に挙げ、57 年の「警告」の
正当性を例証しようとしたが、ウォーレスは、それら両者は異なっており、 27年の「警告」は全ての劇を否定したものではないと論じたのであった。 3 - 3 劇の有用性 次に「警告」は、劇とは時間とお金の浪費であるという論理展開を行う。 「数多くの貧民の要望と叫びがあまりにも多くの補給物資を要求してい るとき、そのような無駄でつまらない目的[観劇]のために、多額の お金を浪費してしまうことはどれほど不合理なことだろうか」(Craig 1757, p.19)。 これについてウォーレスは反論を行う。劇というのは頻繁に訪れるもので はなく、たまにしか訪れないものであり、『ダグラス』の劇を見ることは、人々 の改善と気晴らしに繋がるにもかかわらず、それを時間とお金の浪費という のは的を外しているとウォーレスは考える。そしてお金の浪費という言葉を 使い、ウォーレスは次の反論を行う。 「膨大な金額がくだらない目的のためにいつでも浪費されるのは、疑い もなく大いに罪であるけれども、貧しい人々が大いに困窮しているとき にそうするのは、より大きな罪なのである。もしある紳士が双方を行い えないときに、これまでに作成された最も優れた劇や歌の入場券に、ま してや何であれかなりこぎれいな装飾品や備品のために、半クラウンを 使う代わりに、貧しくて飢えている家族を救済するために半クラウンを 与えるのなら、確かにそちらのほうがはるかに合理的で賞賛に値する」 (Wallace 1757, pp.52-53)。 このようにして、劇にお金を使うことが浪費というのなら、装飾品を購入 することも浪費になるから、装飾品にお金を費やすことも同様に批判される べきと考えられる。それゆえに、お金の浪費として劇だけが批判されるのは
おかしいとウォーレスは論じる。 また、時間の浪費については次のように述べている。 「しかしながら、一般に劇を見ること、さらに特別に、ダグラスの悲劇 を見ること、そして、私たちの改善と気晴らしのために、上演されたそ れを一度や二度見ることを、愚かな楽しみのために、私たちの時間を浪 費しているというのはいかがなものだろうか」(Wallace, 1757, p.48)。 劇を見るといっても、一度や二度といった、ごく僅かな回数でしかなく、 それなのに、それを時間の浪費と呼ぶことはできないとウォーレスは批判す る。 3 - 4 劇の合法性 かくして劇を擁護するウォーレスではあるが、セフトンが考察したように、 エディンバラでの劇に対して、ウォーレスは批判的に次のように述べる22)。 「しかし法律について述べると、私はエディンバラの劇場には一度とし て行ったことがない。なぜならそれは公共の権威によって禁じられてい たからである。私は、エディンバラは劇場を支援するにはあまりにも小 さすぎると考えている」(Wallace, 1757, p.61-62)。 しかしながら、エディンバラが公共の権威によって劇が禁じられていると いうのは、法律上の問題であり、法律によって禁じられているから、エディ ンバラでの劇に反対するという議論なので、劇そのものや、『ダグラス』を 批判することにはならない。さらに、エディンバラでは支援するには小さす ぎるという議論は、ロンドンのような大都市では問題が無いということにな り、劇を批判する福音派に同調するような文章ではないであろう。 22) 本稿 39 ページ参照。
別の箇所では、ウォーレスは次のように述べている。 「立法者が 1737 年にエディンバラでの舞台は認めないと、とても賢明に 制定したのだが、──少なくとも私は決して積極的に反対しているわ けではないけれども──私は舞台の優れた役者の一行を支援するため にはエディンバラではあまりにも小さすぎるのだという風に信じたい」 (Wallace 1757, pp.58-59)。 この文章は上記のものに比べると、エディンバラで劇を禁じることに賛同 するというウォーレスの劇批判は弱いものである。この文章では、役者の一 行を支援したいのだが、支援をするにはエディンバラでは小さすぎてできな いというように、むしろ肯定的に考えているようにも解釈できる。 また次の問題として、ノーラ・スミスが、ウォーレスが劇を見に行った聖 職者を批判したことを、ウォーレスが劇を批判していたと解釈し、ラムジー の次の文章を引用している23)。 「彼[ウォーレス]は、『ダグラス』が上演されたときに、公に劇場へ 行った聖職者たちの行動を批判したのである」(Ramsay 1888, I. p.240, footnote 1)。 しかしながら、ウォーレスが反対したのは、劇を見に行ったというより も、エディンバラの劇を見に行ったということであろう。エディンバラでの 劇は禁じられていたので、その禁じられていた劇を見に行ったことに対して、 ウォーレスは批判したと考えられ、そのことは、必ずしも劇を見に行ったこ との批判と同じ議論ではないであろう。なぜなら、劇そのものについては、 ウォーレス自身が、若きころ、劇を見に行ったと述べているからである。 23) Smith (1973), P.47, footnote 4.
「私が若かったころ、私は時々舞台に行ったけれども、それからなんら 有害な影響を受けなかった。私は今では歳をとりすぎているので、行く ことはしないけれども」(Wallace 1757, p.60)。 ウォーレスが、『ダグラス』がエディンバラで公演されたときに、『ダグラス』 の劇を批判したのは、法律上で禁止されているエディンバラで公演を行った からであり、『ダグラス』の劇や劇そのものを批判することはなかったと考 えられる。少なくとも、ウォーレス自身が出版する意図のあった「訴え」の 中で、若いときに劇を見に行ったことを述べているのだから、劇を見に行く ことを批判したという議論にはならないだろう。 ウォーレスは、喜劇は気取りや愚かな習慣を破壊し、また、悲劇は人生の 不確実性を示すことで、人々に有益な影響を与えると考える。そのため、歳 をとって経験をつんだ人には劇はそれほど有用ではないかもしれないが、経 験の浅い若者には有益であると、ウォーレスは考える。 それゆえに、エディンバラでの『ダグラス』の公演にウォーレスが反対し たからといって、それが、ウォーレスが福音派の立場に近かったとか、『ダ グラス』や劇に反対した、という見解をとるのは、飛躍しすぎのように思わ れる。 4.最後に ジョン・ヒュームが悲劇『ダグラス』をスコットランドで公演したとき、 福音派は、牧師のヒュームが劇を作成したことを批判した。それに対して穏 健派はヒュームの擁護に回る。ウォーレスもカーライルへの手紙にあるよう に、穏健派に味方している。 しかしながら、一部のウォーレス研究者によって、穏健派に味方する立場 と共に、福音派への同調が見られるとして、ウォーレスの『ダグラス』につ いての「訴え」が論じられてきた。その論点としては、ウォーレスが、エディ ンバラでの劇は非合法であることを認めているということ、劇を見に行った 牧師を批判しているということ、劇を有害なものと見なしているということ、
そして、福音派が奢侈の増大の一つ原因として劇を批判したのに対して、そ の批判を十全に行っていないこと、が挙げられている。 確かにウォーレスはエディンバラの劇を非合法であると認めているが、そ れは法律の問題であり、エディンバラ以外では非合法ではないので、認めら れるべきものになる。劇そのものについては、ウォーレス自身が若きときに 見に行ったことを述べている。それゆえ、エディンバラでの劇には批判的で あったが、劇そのものや、『ダグラス』には批判的であったわけではない。また、 劇を有害と見なしている文章は、一文くらいのもので、そのほかは劇が有益 な結果を生むと述べているので、その一文をもって、ウォーレスの思想とみ なすことはできないように思われる。そして、奢侈については、確かに奢侈 批判をする福音派に対してウォーレスは奢侈を全面的に擁護することはしな いが、むしろここでは、全面否定する福音派に対して、中庸ではあれ、奢侈 を肯定的に捉える側面を出すことで、福音派への反論としたように思われる。 ウォーレスの「訴え」の文章は穏やかであり、長老会を激高させないよう に書かれているようにみえるが、その実は「警告」を批判すると同時に、「警告」 の言葉を逆手に取り、嘲笑しているように取られてもおかしくない文章が若 干見られる。確かに穏健派に全面的に賛成しているわけではないかもしれな いが、福音派の立場に近いとは考えられないであろう。また、ウォーレスが カーライルに手紙を送り、助言をしていることからしても、立場上もウォー レスは穏健派に味方していたと考えられる24)。 24) ノーラ・スミスによると、ウォーレスと、ウォーレスと親交のあったアーニストン (Arniston)との関係は、ダグラス事件を契機に悪化することになる。アーニストンはウォー レスが総会の議長になるときに、推薦してくれた人物であったが、アーニストンは『ダグ ラス』の劇に反対していたため、二人の関係に亀裂が入ることとなった(Smith(1973), pp.101-102)。
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