†学校教育専修 学校教育専攻 指導教員:喜名信之 原 著 論 文
大正期滋賀県における手工教育の歴史的研究
―― 平木吉治郎の実践を手がかりにして ――
光
橋
正
人
†A Study of History of Handicraft Teaching at
Primary School Education in the Taishô Era in Shiga Pref.
― Yoshijiro Hirakiʼs Viewpoint of Handicraft Education ―
Masato MITSUHASHI
キーワード:手工教育,大正期,滋賀県,水口細工,平木吉治郎 1.は じ め に 滋賀大学教育学部に入学したとき,父の教え の中の一つに「地域を知ること」というのが あった。父がなぜこの項目を入れたのかわから ないが,以来ずっと私の頭の中にひっかかって いる。私は中学校で技術科 (技術・家庭科技術 分野,以下技術科と表記) を担当して 20 数年 になる。転勤するたびにその学校や校区を知る べく,保護者や地域の方と話をする,地域を散 策する,博物館などで調べるといったことを心 がけてきた。そのような中,修士論文のテーマ を検討する時もこれを生かし,滋賀県の教育に ついて調べる機会とした。滋賀で生まれ育った 人なら当然知っていることでも,滋賀県出身で はない私には知らないことが多く,また,知っ ておかなければならないことがたくさんあった。 地域を知るということは現在のことだけを学 ぶのではなく,過去のことも含まれると思う。 過去の資料を調べていくうちに,祖父母の世代 が生きた明治・大正という遠い昔のことや父母 の世代が受けた教育が現実のものとして実感を 伴うようになってきた。 戦前の教育は否定的に語られることが多いが, すべてを否定してよいのだろうか。私が担当し ている技術科は昭和 33 年に職業・家庭科を改 定して発足した教科であるが,技術教育は戦後 生まれのものなのだろうか。その課題意識が出 発点となった。実際,教科名こそ手工科であっ たが,小学校から技術教育が行われていたので ある。 では,滋賀県ではどのように行われていたの だろうか。このことを明らかにすることは,手 工教育・技術教育の連続性の中で,現在及び将 来の技術科のありかたに示唆を与えるものと考 える。 以上のような問題関心のもと,『滋賀県教育 会雑誌』(大正 8 年 1 月から『近江教育』に改 称),『手工研究』,『最新小学校手工教授の実 際』を資料として検討を行う。 『滋賀県教育会雑誌』からは,手工科に関す る投稿論文を拾い上げ,手工科に関する論文を 書いていた人物を整理した。その中で明らかに なったことは,大正期には師範学校教諭であった藤田綱八郎,平木吉治郎,女子師範学校教諭 であった北垣巳之助,女子師範学校訓導の田中 信三の論文といった師範学校・女子師範学校関 係者の文章しかなかったことである。その後は 昭和 8 年に女子師範学校教諭であった那須田茂 (東京高等師範学校図画手工専修科卒) が『近 江教育』誌に 1 度図画科に関する論文を投稿し ている。昭和 10 年代以降は,昭和 7 年に滋賀 県師範学校を卒業し,大津市内の小学校に勤務 した高谷量治をはじめ,公立の小学校訓導の文 章が掲載される。この間,附属小学校を含め師 範学校関係者の手工科に関する文章はない。国 民学校時代になると,師範学校附属小学校訓導 宮城延太郎の文章が掲載される。 一方,『手工研究』は東京高等師範学校の上 原六四郎,岡山秀吉等が中心となって組織され た手工研究会編集発行の会員制の雑誌である。 先ほどあげた藤田綱八郎,平木吉治郎,北垣巳 之助は会員となっていて,複数回論文を投稿し ている。特に,平木吉治郎については東京高等 師範学校図画手工専修科の在籍時からの会員で あり,岡山秀吉や上原六四郎の指導を直接受け ていた。高等師範学校卒業後は師範学校教諭と して手工科に関する論文を何度も投稿している。 平木吉治郎の著書『最新小学校手工教授の実 際』は平木が師範学校教諭として滋賀県の手工 教育の牽引役としての自覚と責任感を感じさせ, 上記雑誌に投稿した文章を含めて実践した内容 を整理してまとめたものである。平木の手工教 育観が表れているものと考えられる。 引用にあたっては,漢字の旧字体については 新字体にし,仮名の表記がカタカナの資料は読 みやすさの点からひらかなに改めた。 第 1 章 明治以降の日本における 手工教育の実施とその後の経過 (1) 全国的な傾向 明治維新以来日本が範としてきた欧米では, 明治 11 年にはすでに技術教育として手工教育 が行われ始めていた。『技芸教育に係る英国調 査委員報告』等により,海外の手工教育事情が 伝えられた。当時文部省にいた手島精一はフラ ンスの手工教育を手本とし,製図学習を重視し た木工,金工を中心とする基礎的技術の習得を めざした手工教育を構想していた。手島ととも に手工教育の先覚者の一人としてあげられる人 物に上原六四郎がいる。上原もフランス手工に 注目していたが,手工科設置以後に手工教育理 論を確立する際,フランス手工にスロイド手工 の考え方を取り入れ,両者の折衷論といえる我 が国独自のものを導入した。フランス手工とは, 設計,製図を重視し,雛形に基づく製作を通し て系統的な技能訓練をめざそうとする工業教育 的な手工教育である。一方,スロイド手工とは, スウェーデンのネース師範学校で行われていた 手工教育で,有用なものを作る点に特徴がある。 「スロイド」という言葉は本来「手の技術の巧 みさ,芸術的な技術」を意味する。今では手仕 事を表し,例えば,大工仕事,木彫,指物,鍛 冶,製本といった仕事を含む。これらフランス 手工とスロイド手工を折衷して作られたものが 明治 20 年からの文部省手工講習会で講習され た。 明治 19 年,手工科は高等小学校において加 設科目として誕生した。 手工科は加設科目として誕生はしたものの, その実施に際しては指導者が不足していること から,文部省も明治 20 年から 3ヵ年にわたり, 各府県の代表者を集めて講習会を実施し,各地 で手工教育を推進するための中心となる教員を 養成した。 尋常小学校においては,明治 23 (1890) 年 10 月 7 日の「小学校令改正」によって,加設 科目となった。しかし,新しい科目を積極的に 設置することに努めた石川県の例や都市部以外 では,当時の日本が農業を主たる産業にしてい たことや国民の工業に対する意識が低かったこ ともあり,農業や商業を選択する例が多かった。 石川県が先進的に実践をすすめた結果,県外か らの参観者が多く訪れ,手工科が盛んに行われ ていたと印象づける結果となった。しかし,手 工を担当していた教師が転勤すると,次の担当 者を得ることが難しく,また,手工科は設備に 費用がかかるため,財政的な問題から急速に実 施されなくなっていったという。この時期のこ とを森下氏は「手工科が設けられてから,隆盛 期がなかったわけではないが,それは,学校種
別により,あるいは,地域により異なるもの で」あったと指摘している。森下氏の調査では, 手工科が盛んであったとする記録よりもむしろ, 手工科ははじめから不振であったとする例がい くつも見つかったという1)。 明治 30 年代後半になり,再び手工科を設置 する学校が増え始めた。日露戦争の影響により, 工業教育の振興が小学校段階にまで降りてきた ことも理由の一つとして考えられる。 明治 37 年には文部省から『小学校教師用手 工教科書』が発行された。手工科には科目の性 質上,児童向けの教科書は編纂されなかった。 そのため,この『小学校教師用手工教科書』が 手工科の内容を具体的に示すものとなった。 明治 40 (1907) 年,小学校令中改正により 尋常小学校が 6 年になり,義務教育が 6 年に延 長されたが,尋常小学校では手工科は随意科目 のままであった。高等小学校においては「手工, 農業,商業の一科目又は数科目を加ふ」2) と選 択の形ではあったが必修科目となり,加設が奨 励された。 明治 44 (1911) 年小学校令及び小学校令施 行規則が改正され,高等小学校での手工科の授 業時間数が 6 時間となった。その結果,指導者 不足に加えて時間数の増加が手工科の実施は困 難であると考える学校が増え,手工科を実施す る学校が減ることとなった。 大正 8 年,小学校令施行規則が改正された。 図画教育の分野で自由画教育運動がおこり,手 工科においても一部で創作手工の流れが生まれ たが,大きな流れにはならなかった。 大正 15 年小学校令が改正され,手工科が初 めて必修科目となった。この間,実業科目と同 列に扱われたり,普通科目として扱われたりと, 文部省の方針も揺れていた。 昭和 16 年には国民学校令が出され,教科が 再編された。手工科は芸能科工作と改称され, 図画や音楽とともに芸能科の中の一科目となり, ここに明治 19 年の設置以来わずか 55 年で手工 科の名称は消えることとなった。 (2) 手工科設置にかかわった人々 手島精一 (1849〜1918) 手島は ① 明治 9 (1876) 年の米国フィラデ ル フ ィ ア の 独 立 記 念 大 博 覧 会,② 明 治 11 (1878) 年 の パ リ 世 界 大 博 覧 会,③ 明 治 17 (1884) 年のロンドンの万国衛生博覧会と 3 回 の万国博を経験し,その中で技術教育の必要性 を痛感している。①ではロシアの工業教育,② ではフランスの手工教育,③ではスウェーデン のネース師範学校の手工教育に注目している。 手島の考える技術教育は「あらゆる手工業に通 じる基礎的な技能の陶冶を行う」というもので あった。フランスの手工教育をその手本とし, 「図学,製図学習を重視し,技能訓練との有機 的な関連を持ち,整然とした系統性の下に行わ れる技術教育」であった。その内容として,職 業教育に先立つ基礎技術習得のための普通教育 として考え,「手工教育を工業教育的な技術教 育の観点からみながらも,その目的を教育的に とらえ,図画や理科と有機的に結合させた一般 陶冶をしての位置づけも忘れなかった」のであ る3)。 上原六四郎 (1848〜1913) 明治 15 (1882) 年上原は文部省に入り,東 京商業学校附属商工徒弟講習所の主事として, 徒弟教育と兼ねて手工の研究,木工の実技を研 究し,手工の教育上の価値からその普及発達を 主張していた。明治 19 (1886) 年に手工科が 高等小学校において誕生し,文部省が明治 20 年から 22 年まで開催した手工講習会の講師を 務めた。明治 21 年 (1888) 年には,手工研究 会を組織し,手工に関する理論と実際の研究に 情熱を傾けた。明治 26 (1893) 年,上原は高 等師範学校教授となり,手工科を担当し,明治 36 (1903) 年には岡山秀吉とともに文部省の命 を受けて『小学校教師用手工教科書』の編纂に あたった4)。 後藤牧太 (1853〜1930) 明治 21 (1888) 年,イギリス留学中であっ た後藤は,スウェーデンのネース手工師範学校 でスロイド・システムについて調査する旨命を 受け,調査を行った。後藤の手工教育観は,手 工の創始者であるネースの手工師範学校長オッ ト・サルモンの説に基づくもので,小学校で課 すべき手工教育の目的として,① 手を器用に すること,② 労働を愛する気風を養うこと, ③ 自 恃 心 (自 ら 頼 む 心) を 養 う こ と,④ 秩
序・精密および清潔の習慣を養うこと,⑤ 注 意と勉強の習慣を養うこと,⑥ 眼の練習と審 美心を養うこと,⑦ 実物に接する利点がある こと,⑧ 他の学科の助けとなることを挙げて いる5)。 岡山秀吉 (1865〜1933) 明治 32 (1899) 年,高等師範学校に手工専 修科が創設されるに伴い,助教授に任ぜられ, 木工・金工・塗工の実習を指導した。 岡山は「手工教授は,物品を製作するの技能 を得しめ,同時に手と眼とを練習し,兼ねて各 種工業に関する初歩の智識を授け,社会的・審 美的感情と,実業に対する趣味とを涵養し,且 勤勉・労働・自治の習慣を得しむるを以て目的 とす」6) と述べ,手の練習を重んずるべきこと と,創作の能を養うように努めるべきことを説 いた。 阿部七五三吉 (1873〜1941) 明治 34 (1901) 年,東京高等師範学校手工 専修科を卒業した。明治 38 (1905) 年,東京 高等師範学校助教授兼訓導となり,岡山秀吉と ともに手工,図画教育の研究・教授にあたった。 阿部はオット・サルモンの手工教育の流れを上 原六四郎・後藤牧太より受け,岡山秀吉ととも に日本の普通教育にふさわしい人間形成の一環 としての手工教育の振興に尽くした7)。 森有礼 (1847〜1889) 手工科の設置は初代文部大臣の森有礼の考え で始められた。森は技術教育を近代産業発展の 底辺を支えるために勤労愛好の精神に富む労働 者を作るという道徳教育の延長として考え,技 術に対する知識や技能の習得よりも勤勉な労働 者としての態度の育成を期待していた。 第 2 章 大正期滋賀県の手工教育 (1) 滋賀県の手工教育の流れ 滋賀県尋常師範学校附属小学校では明治 23 年,県下で初めて手工科が設置された9)。 明治 30 年の資料では,農業・商業・裁縫の うち,大多数の尋常小学校では裁縫が選択加設 され,高等小学校では 4 校が農業,2 校が商業 を加設している10)。 明治 36 年,手工科を設置する高等小学校が 初めて 1 校現れた11)。『手工研究』第壱輯の記 事と合わせてみると,水口高等小学校である。 明治 42 年 3 月 22 日付で,滋賀県蒲生郡馬淵 尋常高等小学校 (筆者註:現近江八幡市立馬淵 小学校) の便せんで「お川」という教員が,濱 野鉄蔵宛に「手工科の加設の件」という書簡を 送っている12)。手工科を加設するにあたり, 教授細目などの準備に関わる内容から考えると, これから手工科を設置する学校のようである。 桐原小学校 (現近江八幡市立桐原小学校) の名 前も書かれていて,桐原小学校は一足先に手工 科を設置し,教授細目を作っていたようである。 その後,手工科を加設する小学校は徐々に増 加し,明治 43 年には約 130 校となり,ピーク を迎える。 明治 44 年の小学校令改正で手工科は農業, 商業とともに必修科目となり,そのうちの 1 科 目を加設することになったことになったが,全 国的な傾向と同様に,手工科を実施する学校が 激減する。 明治 45 年には,手工科を設置する高等小学 校が 11 校,農業 90 校,商業 4 校,手工と農業 の 2 科を課す 37 校となっている13)。 (2) 大正期の手工教育 「本県 (筆者註:滋賀県) 下に於ける手工科 は,都市の小学校に於ては高等科に至るまで是 を課し,村落の小学校は尋常科のみに是を課せ り。然りと云へ雖も真に本科の主眼点を悉知し て,教育上に実用上に適用せんとする基礎的教 授を施せる所は甚だ少くして,如何に声を大に するも一時に発展せしむべき機運に至らず,熱 心持久漸進的に覚醒するの覚悟を要す」14) (3) 講習会 「各府県に於ける手工科の講習会展覧会並び に手工科研究会の状況 (二)」15) には滋賀県の 講習会の記事が掲載されている。報告者は滋賀 県師範学校教諭の平木吉治郎である。以下に引 用する。 「本県 (筆者註:滋賀県) 男女両師範学校手 工科主任教員の主唱にかかる図画手工研究会な るものありて,凡 1 学期に 1 回是を開き,主と して県下小学校教員の斯道に熱心なるものを集
め,(本会は有志の会合として別に会費を徴収 せず師範学校教員の自弁とす) 現今本科の教育 上に於ける新傾向の講演及教材の新研究を発表 し,時としては会員相互の研究問題を討議する ことありて,既に 21 回を重ね,将に 22 回を開 催せんとす。」 この研究会は明治 45 年 1 月,女子師範学校 教諭北垣巳之助氏と師範学校教諭藤田綱八郎氏 が発起し,師範学校内に創設したものであ る16)。 第 3 章 平木吉治郎の実践 (1) 平木吉治郎の略歴17) 明治 17 年 1 月 10 日生まれ 明治 38 年 3 月 27 日 滋賀県師範学校卒業 (21 歳) 明治 38 年 4 月〜蒲生郡鏡山村立尋常高等 小学校 (筆者註:現竜王町立竜王西小学 校) 訓導 明治 39 年 12 月 19 日 蒲生郡八幡町立尋 常高等小学校 (筆者註:現近江八幡市立八 幡小学校) 訓導 明治 41 年 4 月 東京高等師範学校図画手 工専修科入学 (24 歳) 明治 44 年 3 月 31 日 同校卒業 (27 歳) 明治 44 (1911) 年4月5日〜大正 4 (1915) 年 11 月 17 日 山口県師範学校教諭兼訓導 (27〜31 歳) 大 正 4 (1915) 年 11 月 23 日 〜7 (1918) 年 10 月 15 日 滋賀県師範学校教諭 (31〜 34 歳) 大正 6 年 4 月 23 日〜大正 7 年 11 月 30 日 大津市立実科高等女学校 (筆者註:現滋賀 県立大津高等学校) 教諭 兼任,滋賀県属 (大正 7 年 10 月 16 日〜大正 9 年 7 月 6 日 内務部教育課・勧業課農業 技手) 大正 9 (1920) 年 7 月 8 日〜11 年度 広島 県深安郡立高等実業補習学校長 (現広島県 立神辺高等学校) (36〜38 歳) 大正 12 (1922)〜13 (1924) 年度,京都府 社会課民力涵養主任 (38〜40 歳) 大正 14 (1925)〜昭和 3 (1928) 年度 愛 媛県立伊予実業学校長 (現愛媛県立伊予農 業高等学校) (41〜44 歳) 大正 15 年 高等官六等 昭和 3 年 高等官五等従六位 昭和 4 (1929)〜7 (1932) 年度 愛媛県南 宇和農業学校長 (現愛媛県立南宇和高等学 校) (45〜48 歳) 昭和 7 年度末で退職 (48 歳〜 ) 以後,膳所中之庄に居住 山路一遊 (1857〜1932) 平木が滋賀県師範学校生徒時代,校長であっ たのは山路一遊である。明治 35 (1902) 年か ら大正 2 (1913) 年までの 12 年間にわたる在 任期間中,多くの生徒や教師がその薫陶を受け たことが知られている18)。平木が愛媛県の学 校長として赴任していた時期には,故郷の愛媛 県にいた山路との間で行き来があった19)。師 範学校教諭平木の人格形成に山路の影響が強く あったことは想像に難くない。 岡山秀吉・上原六四郎・阿部七五三吉 平木が第 3 期の図画手工専修科生として在籍 していたときの学科主任は岡山である20)。当 時の手工科の中心的位置にいた人物であり,多 くの影響を受けていると考えられる。 (2) 手工教育の実践 「普通教育上に於ける一般的陶冶に重きをお き,是に学年の進むに従ひ,実利的要求を加味 すべきなり。」21) とあるように,平木は手工教 育を普通教育と見ている。「手工は自発的教科 として価値ある所以は,唯に模倣作業たるのみ ならず教授者の指定せる教授題目の下に,児童 の意匠工夫を実地に発表せしめ,或は児童自ら をして各自の希望せる製品を選定せしめて,心 的作用の発展を喚起せなかればならない」22) として課題を限定した中で「意匠工夫」23) を させることを説いている。 また,女児の手工については,男児に比べて 「実用的方面に重きを置く」24) べきであるとし て,「家政手工」を提案している。「一家の和楽 を握るものが主婦の如何にあること」を思うと,
将来この「大任務を負ふべき子女に家庭の日常 に於ける手工的作業の練習を授けて」,刃物研 ぎなどを含め,「手軽な修繕手入が眼の前にで きるよう」に教育しておくと,彼らが「何等の 気兼なしに自分で自分の家の器具を十分に取り 扱ふこと」25) ができて楽しくその日を送れる だろうとしている。 (3) 水口細工 ① 水口細工とは 水口細工とは水口で作られていた細工物の総 称で,「藤細工」や「檜細工」,「経木細工」が 含まれる。水口地域では江戸時代頃から土産物 としてつくられ,また,20 年に 1 度の伊勢神 宮ご遷宮には神宝として献納されていた26)。 昭和 40 年代に最後の後継者平井たつ氏の死去 により水口細工は途絶えた27)。 ② 学校教育の中の水口細工 平木はこの水口細工を滋賀県師範学校生徒時 代,東京高等師範学校生徒時代を通じて,実地 調査研究を行い,東京高等師範学校卒業後は山 口県師範学校,滋賀県師範学校での手工教育の 題材に取り入れている。明治 36 年頃より,水 口尋常高等小学校 (筆者注:現甲賀市立水口小 学校) では高学年において水口細工を授業に取 り入れていたようである28)。その後,いつ頃 まで取り入れられていたかは現在のところ定か ではない。 ③ 教材としての水口細工 地方細工である水口細工を教材としての視点 でみた場合,「竹細工を応用し,厚紙細工の変 形したるものにして,是に縫取細工を加へ,更 に簡易なる木金工の一部,及針金細工を加味し たるもの見倣すことを得るもの」で,「応用総 合的」な教材で,「地方的手工細工の重要な位 置を占めるもの」29) として捉えることができ る。これは現在の技術教育から見ても 1 つの題 材でさまざまな技能を学べ,工夫創造の余地も あり,発展的な要素を含み,優れた教材である といえる。 (4) 郷土への着目 以上見てきたように,堅実に実践を積み重ね, 県下の手工科のリーダとして改善点を明確にし, 講習会を実施し,手工科の普及に努めた。一方 では地域題材を教材化して実践したり,当時は まだ明確になっていなかった女児に対する手工 教材のあり方を「家政手工」として提案したり していた。後に「女子手工科」として定着して いく内容とは異なっているが30),比較的初期 の段階での提案であり,そのたたき台となった のではないかと考えられる。 しかし,平木の実践の中で注目すべきは,水 口細工の教材化ではないだろうか。平木が水口 細工に着目した時代には,郷土教育の流れはま だない。昭和初期に郷土教育が実践されるよう になり,各教科で取り組まれるようになる。そ こで行われた郷土教育としての手工科の内容は 地域工芸品や物産品の製作であった。その意味 では平木の実践は郷土教育とは一線を画すが, 郷土の題材を教科の学習に取り入れ,具体的に 実践していた。手工教材に含まれる厚紙細工や 針金細工,竹細工,木工などの複数の要素を一 つの教材で実現できてしまう発想は,教材を探 す目と日頃の研究心の賜ではないかと思うので ある。現代の技術科の教材においても,一つの 教材で複数の要素を持つものは多くはない。県 内はもとより,県外までどのくらい普及したか は定かでないが,現在の視点から見ても,水口 細工の教材化は,教材を開発するための視点を 与えてくれる。 お わ り に 『滋賀県教育会雑誌』に手工科に関する論文 を主に発表していたのは,大正期にあっては藤 田綱八郎,北垣巳之助,平木吉治郎であった。 師範学校,女子師範学校という県下の教育の牽 引する立場にあった人たちで,特に平木にあっ ては東京高等師範学校図画手工専修科の卒業で あり,その誇りが手工科の定着への熱意となっ て,突き動かされていたと考えられる。県下で 行われていた手工教育の現状の改善を思い,講 演会や講習会,投稿論文,著書を通して精力的 に根気強く働きかけていた。師範学校・女子師 範学校の教師による講習会は,指導者の裾野を 広げるために一定の役割を果たしたといえる。 また,平木は,手工科を担当する教員にとって,
指導する細工の種類が多いため教材研究が十分 に行われにくい現状があると認識していたので, 内容の精選や図画科との連絡を提案し,また地 域の状況に合わせた教材例として水口細工を取 り上げ,教授細目を提示した。自らも師範学校 において水口細工を教授した。こうした優れた 実践家であり指導者を滋賀県の手工科は持って いたのである。 殊に,水口細工の教材化にあっては,手工科 の学習内容を郷土教材のなかに見出し,工夫創 造の能力育成にも利点があるとのことから,こ の教材の利用を奨め,一方では,郷土教育の流 れではないが,大正期の後期から昭和初期にか けて各教科において郷土教育が取り組まれる以 前から,郷土に題材を求めた教材で実践を行っ ていた点で,加えて,実際に行われていた水口 細工をそのままの教材としたのではなく,その 特性を生かして取り入れた点で,優れた実践で あったといえる。 芸事や技能を身に付けることに関しては「序 破急」という言葉がある。型を学び,型を離れ ることから創造的になれることを意味している。 平木の実践は,工夫創造の能力育成には全く 自由にという発想よりも,基礎技術を教えつつ, 限定された場面で工夫創造する機会を作ること が重要であるということを伝えている。 戦前の教育は否定的に語られがちだが,この 工夫創造の能力の育成に限ってみても,戦前の 教育にまだまだ学ぶべきことが多いことがわか る。 ◎主な資料と参考文献 (1) 引用文献 1 ) 森下一期「導入期の手工科に関する一考察―手 工教育 100 年によせて―」『名古屋大学 教育 学部紀要 (教育学科)』第 33 巻 (1986 年度) 2 ) 小学校令 (明治 40 年) 3 ) 宮崎擴道『創始期の手工教育実践史』風間書房 2003 年 1 月 31 日 4 ) 唐澤富太郎『図説教育人物事典 日本教育史の なかの教育者群像』ぎょうせい 1984 年 5 ) 同上 6 ) 岡山秀吉『手工科教材及教授法』寶文社 明治 42 年 6 月 10 日発行 7 ) 前掲 4) 8 ) 菅生均「森有礼の教育施策にみられる手工科創 設の背景」『芸術教育学』3 筑波大学 1990 9 ) 『教育評論』第 23 号 (明治 23 年 7 月 1 日) 10) 文部省『文部省年報』第 25 (明治 30 年) 11) 文部省『文部省年報』第 31 (明治 36 年) 12) 濱野鉄蔵『他校長其他往復ニ係ル書類編冊 (親 展の分) 明治 41 年度起』びわこ学院大学宮坂 朋幸氏に閲覧させていただいた資料で,その 中の手工科に関する書簡。 13) 文部省『文部省年報』第 40 (大正 2 年) 14)「各府県に於ける手工科の講習会展覧会並びに 手工科研究会の状況 (二)」『手工研究』 第 34 輯 大正 6 (1917) 年 1 月 30 日において平木 吉治郎が述べている滋賀県の部分 15) 同上 16) 『手工研究』第 18 輯 大正 3 年 5 月 17) 滋賀県庁歴史的文書『大正八年官吏任免録』, 『手工研究』会員名簿,滋賀大学教育学部同窓 会『会報』掲載の卒業生名簿を参考に作成し た。 18) 小原國芳編『日本新教育百年史 第六巻 近 畿』玉川大学出版部 昭和 44 年 10 月 25 日 19) 鶴濱同窓会編『恩師山路一遊先生』昭和 16 年 1 月 19 日 非売品 20) 『東京高等師範学校一覧』明治 41 年 4 月〜42 年 3 月 21) 平木吉治郎「小学校に於ける手工教授の基礎は 如何にすべきか」『滋賀県教育会雑誌』245 号 大正 5 年 3 月 20 日 22) 平木吉治郎「手工教授所見 (其二)」『滋賀県教 育会雑誌』210 号 明治 44 年 6 月 23) 同上 24) 平木吉治郎「手工図画教授所見」『防長教育』 144 号 明治 44 年 11 月 25) 平木吉治郎「女子と家政手工 (其六)」『滋賀県 教育会雑誌』252 号 大正 5 年 10 月 20 日 26) 水口細工復興研究会『水口藤細工の出来るまで 〜私達の十年間の研究活動の記録 (あらすじ) 〜』 平成 22 年 7 月 13 日作成 27) 水口中央公民館練心大学『先達のわざと心』平 成 12 年度,他に前掲 26) 28) 岡山秀吉「視察録」『手工研究』第壱輯 明治 40 年 7 月 20 日,『水口小学校百年のあゆみ』, 『水口町郷土読本』 29) 平木吉治郎『最新小学校手工教授の実際』木村 三五堂 大正 5 年 6 月 29 日 30) 坂口謙一「1926 年高等小学校教育改革におけ る『女子手工科』の成立」『名古屋大学教育学 部紀要 (教育学科)』第 39 巻第 1 号 1992 年 (2) 資料 ・『滋賀県教育会雑誌』210 号 明治 44 年 6 月 ・『手工研究』第 34 輯 大正 6 (1917) 年 1 月 30 日 ・平木吉治郎『最新小学校手工教授の実際』木村三
五堂 大正 5 年 6 月 29 日 ・平木吉治郎 (山口県師範学校教諭)「山口県師範 学校の研究 家庭に於ける副業的手工としての水 口細工」『防長教育』162 号 大正 2 (1913) 年 5 月 1 日 ・平木吉治郎 (山口県師範学校教諭)「山口県師範 学校の研究 家庭に於ける副業的手工としての水 口細工 (二)」『防長教育』163 号 大正 2 (1913) 年 6 月 1 日 ・平木吉治郎 (滋賀県師範学校教諭)「地方的細工 としての水口細工 (第一稿)」『手工研究』第 40 輯 大正 7 (1918) 4 月 25 日 ・平木吉治郎 (滋賀県師範学校教諭)「地方的細工 としての水口細工 (前の続き)」『手工研究』第 41 輯 大正 7 (1918) 7 月 25 日 ・文 部 省『小 学 校 教 師 用 手 工 教 科 書』(甲・乙・ 丙・丁) 明治 37 年 7 月 24 日 ・山路一遊「滋賀の初等教育」『帝国教育』第 339 号 明治 43 年 10 月 10 日 ・滋賀県師範学校附属小学校『国定小学教科書各科 教授細目 前期』『同 後期』文泉堂 明治 37 年 ・滋賀県師範学校附属小学校『手工科教授細目』澤 五車堂 明治 41 年 7 月 25 日 ・文部省『文部省年報』第 17 (明治 22 年),第 23 (明治 28 年)〜第 54 (大正 15 年) ・滋賀県師範学校編集発行『滋賀師範学校六十年 史』昭和 10 年 5 月 非売品 ・岡山秀吉『手工科教材及教授法』寶文社 明治 42 年 6 月 10 日発行 ・水口小學校編『水口町郷土読本』1924 (大正 13) 年 P173〜184 ・水口小学校創立百周年を祝う会・水口町立水口小 学校『水口小学校百年誌』昭和 49 年 1 月 25 日 (3) 参考文献 ・奥田真丈監修『教科教育百年史』 建帛社 昭和 60 年 9 月 10 日 ・木全清博『滋賀の学校史』文理閣 2004 年 2 月 ・細谷俊夫『技術教育概論』東京大学出版会 1978 年 2 月 25 日 ・鈴木寿雄『技術科教育史戦後技術科教育の展開 と課題』開隆堂 平成 21 年 1 月 ・文部省『学制百年史』帝国地方行政学会 昭和 56 年 9 月 5 日 ・磯野昌蔵「高等小学校論―その歴史と性格―」 『人文学報』22 1960-03-31 ・冨岡卓博「岐阜県における手工教育黎明期に関す る史的研究 (一)」岐阜大学教育学部 研究報告. 人文科学 43(2),1995-03 ・高橋敏之「愛媛県と東京都における法令と手工科 加設校の変遷との関連性―愛媛県手工教育史(第 一報)―」美術科教育学会誌 (14) 1993-03-10 ・疋田祥人・田中喜美・坂口謙一「東京高等師範学 校図画手工専修科における教員養成の営み―学科 課程の特徴から―」『東京学芸大学紀要』第 6 部 門第 54 集 2002 年 ・山田敏雄「創作手工教育」『広島文教大学 研究 紀要ⅩⅠ』1976 年
0 0 0 3 3 0 0 0 110 10 72 346 18 98 14 9 12 20 7 18 9 19 07 明治 40年 0. 49 0. 49 98 35 3 2 2 28 8 12 5 2 加設 割 合 備 考:大正 9 年の デ ー タ は デ ー タ を 見 つけられなかったた め集計 できていない。 は手工科以 外 に3 〜4 教科 加設 している学校の 合 計 は 商 業 = 英 語を課しているものを 商 業に含 め たのでここには現れなくなった学校がある。 滋賀県における手工科 加設 に関する 状況 68 34 9 18 97 明治 30 年 0 0 0 1 1 1 1 8 11 77 15 28 18 8 12 5 2 288 2 26 1 88 19 16 大正 5 年 0. 13 0. 88 市 町村 立 ・ 本 校及び 分教 場 尋常 小学校 加設 科目 高等 小学校 加設 科目 0 0 0 2 4 0 0 0 93 10 5 7 6 16 3 18 19 6 208 19 06 明治 39 年 加設 ・ 農 と 商 の 併 修 不 可 。手工科 を 設置 すれ ば 必 修 加設 科目。 設置 すれ ば 児童 には 必 修 小学校 令 0. 11 0. 12 25 0. 13 0. 83 35 3 3 2 28 1 6 1 7 1 19 3 31 7 1 300 32 19 25 大正 14 年 0 79 10 58 36 5 18 96 明治 29 年 0 0 0 0. 03 6 6 0 1 0 1 17 78 2 3 27 7 11 9 4 30 7 2 26 0 91 19 15 大正 4 年 39 19 24 大正 13 年 0. 09 0. 95 27 12 1 2 0 0 0 0 2 6 0 0 1 10 63 3 1 5 14 0 16 181 22 5 19 05 明治 38 年 0. 03 大 正3年 0. 14 0. 87 37 3 1 1 5 0 7 1 26 1 302 1 29 4 5 0 0 0 74 10 50 不 明 18 95 明治 28 年 0 0 0 0. 02 0. 01 4 5 0 1 0 3 3 3 30 6 113 3 299 4 255 98 19 14 1 295 39 19 23 大正 12 年 0. 08 0. 91 24 15 0 0 0 0 0 1 0 2 0 1 9 65 1 0 0 157 14 17 6 232 19 04 明治 37 年 25 3 102 19 13 大 正2年 0. 15 0. 85 39 0 5 1 8 1 25 1 30 9 手 商 手 農 商 業 農 業 手 工 手 工 裁 手 裁 縫 高 等 小 尋 常 高 等 小 尋 常 小 西 暦 年 度 19 03 明治 36 年 0. 01 0 2 2 0 5 5 4 33 7 103 4 28 5 4 2 312 1 282 55 19 22 大正 11 年 0. 08 0. 93 24 14 高等 科 尋常 科 法 令 高 等 科 尋 常 科 手 工 計 手 農 商 英 手 商 英 手 農 英 農 商 英 商 英 農 英 手 英 英 語 手 農 商 農 商 13 0 0 0 0 4 23 1 0 0 157 13 16 7 24 1 4 24 7 111 19 12 明治 45 年 0. 18 0. 8 46 0. 93 32 23 4 1 6 1 23 18 14 8 259 19 02 明治 35 年 加設 ・ 随 意科目 加設 ・ 随 意科目 小学校 令 0. 01 0 1 0 4 2 3 37 4 90 11 302 5 0 22 2 308 1 277 63 19 21 大正 10 年 0. 11 14 0 0 4 4 0 0 0 146 13 18 302 4 244 11 9 19 11 明治 44 年 0. 22 0. 84 55 0. 09 0. 91 26 18 0 5 1 0 0 131 18 108 28 7 19 01 明治 34 年 0 0 0 0. 55 0. 83 13 6 4 5 13 0 0 4 1 0 3 1 4 88 0 19 20 大正 9 年 0 15 0 0 3 5 0 3 78 0 12 22 30 7 4 233 13 7 19 10 明治 43年 手工 ・農 業 ・商 業か ら 1科 目 選択 。男 子 週 6時 間 ,女子 週 2時 間 小学校 令 19 19 大 正8年 1 4 0 0 0 12 5 18 79 338 19 00 明治 33 年 0 0 0. 55 0. 83 130 4 5 14 0 2 3 2 0 2 0 1 2 5 4 12 1 77 0 27 6 1 27 4 69 小学校 令 0 0 0 11 0 3 0 2 4 6 62 3 17 44 20 6 7 20 9 16 9 19 09 明治 42年 2 26 3 82 19 18 大正 7 年 女 児 にあ り て は 手 芸 を 簡 易 なる 程 度 に 於 いて 併 せ授 くべ し 施 行 規則 0. 08 0. 8 21 3 3 0 0 0 2 5 0 0 0 113 15 80 33 9 18 99 明治 32 年 加設 ・ 随 意科目 手工科は 加設 ・ 随 意科目 尋常 科 4年 19 4 19 08 明治 41年 0. 53 0. 54 11 4 3 5 5 25 7 12 7 2 33 7 明治 31 年 0 0 0 0 0 1 4 4 54 4 27 39 18 9 8 19 1 30 4 2 259 86 19 17 大正 6 年 0. 13 0. 98 35