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第1章 両国の民衆教育普及に果たした諸教育機関の役割

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第1章 両国の民衆教育普及に果たした諸教育機関の役割

日本の江戸時代(1603 年―1867 年)と中国の清代(1644 年―1911 年)は、それぞれの 国における最後の封建社会であり、自給自足の自然経済体制を主体としながらも、資本主 義の要素が芽生えた時期でもあった。教育においては、両国とも「公」的な教育機関をは じめ、各種の「私」的な教育機関も急速に発展し、多様な教育機関が形成された。それに よって民衆が教育を受ける機会もそれまでのどの時期よりも多くなった。本章の第1の課 題は、このような近世両国における多様な教育機関がどのような教育機能を発揮したのか、

また両国の民衆教育の普及にどのような役割を果たしたのかを明らかにすることにあるこ とであり、第2の課題は両国間における民衆教育の普及率の差が一体どのぐらいであった のかを究明することにある。

第1節 近世両国の諸教育機関

―奉化県と尾張藩の事例を中心にー

本節では、近世の中国及び日本で、経済が比較的発達していた浙江省の奉化県と尾張国 の場合を例として、両国の諸教育機関の性格にどのような相違があるかという視点から、

それぞれの設営主体(者)、教育対象、教育活動内容等について比較するとともに、さらに これらの諸教育機関が両国民衆の教育普及にどのような役割を果たしたのかを究明する。

1.近世両国の諸教育機関の概観

日本の教育の歴史における1つの大きな転換期は、19 世紀初頭である。19 世紀以降、日 本は一種の教育爆発の時代を迎えたといってもよい。この時期において幕府は、寛政改革

(1787―1793 年)を通して、公儀の権威を自覚し、昌平坂学問所をはじめ多くの直轄学校 を設置し、御家人教育の組織化をはかった1。また、諸藩によって建営されたいわゆる藩学

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は、この時期に顕著に発展し、寛政以降設立したものは全体の約 70%を占めている。一方、

この時期は民衆の学習要求が増大し、庶民階層にまで教育の機会が広がった。これまで組 織的な教育や学校とは無縁であった庶民層に、学びの場を提供する寺子屋や私塾が急速に 増加したのであった2。このように、幕末までの日本において幕府立・藩立・半官半民・私 立という多様な教育機関が形成された。

表1-1 近世中日両国の諸教育機関

中 国 日 本

王室立 〔学習院〕公家のための学校(京都)

中央

〔満 族 官 学〕宗学、覚羅学等

〔国 子 監〕六堂、八旗官学、算学、

琉球学、俄羅斯学

〔外国語学堂〕京師同文館、上海同文館等

〔軍 事 学 堂〕福州船政学堂等

〔科学技術学堂〕天津電報学堂等

幕府立

〔直 営〕昌平坂学問所

<地方>徽典館(甲府)、明新館

( 駿 府 )、 学 問 所 ( 日 光)、明倫堂(長崎)等

〔和 学〕和学講談所(江戸)

〔洋 学〕開成所(江戸)、済美館(長崎)、

英仏学伝習所(横浜)等

〔医 学〕医学館(漢法)、医学所(洋法)、

精得館(洋法)等

〔陸海軍〕陸軍所、海軍所等

〔府・州・県学〕府・州・県それぞれの官庁 所在地に設けられた学校

〔藩 校〕明倫堂(名古屋)、弘道館(水 戸)、日新館(会津)等 官立

地方

〔書 院 Ⅰ〕各省・府・県で設営された書

〔義 学 Ⅰ〕官費で設営された義学

〔社 学〕官費で設営されたもの

藩立

〔郷学Ⅰ〕藩主または領主の経営になる郷 学。閑谷学校(岡山藩)、町講 所(会津藩)等

半官 半民

〔書 院 Ⅱ〕官民の協力によって設営さ れた書院

〔義 学 Ⅱ〕官民の協力によって設営さ れた義学

〔義 学 Ⅲ〕民間有志に設営された義学 半官 半民

〔郷学Ⅱ〕領主と領民の協力による郷学。

含翠堂(摂津国原野郷)等

私立 〔書 院 Ⅲ〕個人経営の書院

〔私 塾〕啓蒙私塾(蒙館)、経館、族 塾等

私立 〔私 塾〕漢学塾、国学塾、洋学塾、その 他(諸技芸塾、武芸塾)

〔寺子屋〕

一方、日本の江戸時代と同じ時期に当たる中国の清朝の統治者は、中国歴代の伝統的な 思想を継承し、儒教など古い文化で中国人を治め、教育制度や政策においても、明代のそ

(3)

れらをほぼ踏襲した。学校系統としては、中央には官立学校である国子監などがあり、地 方には官立の府・州・県学が、また郷には義学(社学)があった。そのほか、私立あるい は半官半民のいくつか種類の教育機関が設けられていた(表1-1)。このような清朝にお ける学校制度は中国の封建社会の歴史の中で一番成熟したものといわれている3。 表1-1のように、両国の官立教育機関としては、まず中国の満洲官学と日本の学習院 を挙げることができる。満洲官学は、1644(順治元)年に皇室によって建てられた八旗の 子弟の教育機関であり、主に満州族語、モンゴル語、漢語及び武術等の教育を行ったので ある。一方日本では、孝明天皇によって 1847(弘化 4)年京都御所日ノ御門に学習院が建 てられたが、この機関は 40 歳以下の公家をはじめ、御所に勤める役人たちとその子弟に儒 学・国学などを教える教育施設であった。両者の教育対象はごく一部の貴族に限られてい たことから、本研究では考察の対象にはしない。

なお中国では、洋務運動の一環としての京師同文館と広州同文館(ともに外国語学校)、

西欧の軍事や技術を倣う軍事学堂、科学技術学堂等が清末に設置された。一方日本でも、

幕末に西欧の技術を導入し、国防力を強化するため、蕃書調所・開成所を設け、医学館・

医学所を官立に移し、講武所・海軍所を興し、また長崎・箱館・横浜に幕府直轄の諸学校 を設けた4。これらの両国の諸教育機関は、封建社会崩壊の前夜に、西欧列強の外圧に刺激 され、この外圧に対応する1つの施策として設けられたものであり、両国の伝統的な諸教 育機関の設立理念と異なっている。このため本節では、詳しく触れないことにする。

また、表1-1にあげた中国の地方官立の社学は、元代の 1286(至元 23)年から制度的 に存在していたが、清代になると、それが義学に取って代わられ、その姿は中国の多くの 地域において次第に消えてしまったので、以降の章・節では扱わないことにする。しかし、

一部の地域には、社学が義学と並存していたので、ここでは社学の性格について概説して おきたい。

社学は、元・明・清3代にわたって存在した民衆の子弟の教化のために公費で設けられ た教育機関である。1286(至元 23)年に、元朝の政府が「各県所属の村落において、五十 家をもって一社とし、農事に詳しい年寄を社長として選ぶ。(中略)社毎に一ヶ所の学校を 設立し、経書に精通している者を教師として招聘して、農閑期に農民の子弟を入学させる」

と定めた5。明代における社学設立の布令は 1375(洪武8)年である。太祖が発した詔勅 には「京師及び県城には皆学校があるが、郷社の民が未だ教化をみていない」とされ、従 って「有司をして社学を置かせ、師儒を招聘して民間の子弟を教えさせる」と記されてい

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6。また、「毎年十月開学、至腊月終罷」7とあるように、課業の時期は 10 月から 12 月(腊 月)までとし、農閑期に子弟を集めて教育する元代の宗と一致しているといえる。明代の 社学はほとんど地方官吏によって設けられたものである。王蘭陰の統計によれば、1,438 校の社学のうち、知県(県知事)が設立したものは約 61%であり、知州(州知事)と知府

(府知事)が設立したものは約 15%、提学官(教育行政の官吏)が設けたものは約 21%で あった8。この点から、社学が官立の学校であるという性格が明らかである。

清代になると、清朝が入関9してまもなくの 1652(順治9)年に、世祖順治帝が、「毎郷 社学一校を置かしむ」10と社学の設置を全国各地方に指令した。また、朝廷が西南辺境の 少数民族の住民の懐柔と強化のため、1658(順治 15)年に社学の設立を命じ、その費用は 地方官吏により毎年銀 28 両を支給された11

清代の初期には、中央政府が社学設立を推進するとともに、義学の推進にも指示を与え た。義学の設営などについては第2章で詳しく考察するが、結論から言えば、社学と義学 には類似点が多くみられる。社学と義学とも政府が勧奨して設けられた庶民子弟のための 初等教育機関であり、その設立と運営の責務を地方官吏にもたせた点に特徴があった。し かし、社学と義学の設立や運営の費用の出所において、両者の間には違いがある。すなわ ち、社学はほとんど官費をもって設営されたのに対して、義学は官民の義捐によって設け られたものが多かった。また、社学の教育対象は一般の庶民であるのに対して、義学の場 合はその教育対象を貧しい家庭の子弟に限定し、富貴の家の子弟は意図的に対象から外そ うとしていたのである。

清代初期には、社学が義学と並存していたが、その後、社学の設立が次第に停滞し、清 末になるとほとんどの地域では義学に取って代わられた。例えば、河南省では、1869(同 治8)年には義学校数 185 校に対して 30 校の社学があったが、湖南省では義学の校数 293 校に対して社学はゼロ(光緒 11 年現在)12であり、広西省13と雲南省14でも清末になると 義学はそれぞれ 213 校、683 校設けられたが、社学の校数は皆無となった。社学の設立時 代をみると、例えば広西省では、明代通して 232 校が設けられたが、清代に設立された社 学は 65 校にとどまり、その大部分は 1723-1732(雍正年間)までに建てられたものであ り、1738(乾隆3)年以降新設された社学はゼロとなった15。また、1827(道光7)年刊 行の安徽省『桐城続修県志』によれば、「明洪武八年詔天下立社学、(中略)凡二十四所今 倶廃」16とされているように、明代桐城県には 24 か所の社学があったが、道光年間になる とまるで考察の手がかりがなくなった。江西省の『清江県志』にも、明代初年より社学が

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あわせて7校建てられたが、この県志を刊行したときの 1870(同治9)年にはすべて廃校 されたと記されている17。このように、首都に近くの河南省にはまだ社学の存在がみられ るが、ほかの大部分の地域には社学は1校も存在しなかった。

清代中期以降にほとんどすべての社学が廃校となった1つの原因は、中央政府の政策転 換によるものと考えられる。1686(康煕 25)年に、朝廷が「社学近多冒濫、令提学厳行査 革」18とし、社学は乱立されたので、厳しく調査して処罰することを提学(教育行政官)

に命じた。それと同時に、「京城崇門外に義学を設立すること」19など義学の設立を奨励す る詔書を次々と発布した。このような政策転換の意図や背景は史料の制約から知ることが できないが、五十嵐正一の研究によれば、社学を設け、教員を招聘するのは地方官の責務 であったが州・県の知事にはその責務を果たす力がなかった。また地方官がすべての官俸 を捐出しても、わずかに1、2の社学しか設置できなかったのであり、一郷一学の設立責 務を地方官に負わせようとする点に無理があった。これに対して、義学は地方官と民間有 志の義捐によって建てられたものであり、設置の校数も実情に応じられるという現実性が あった20。これは社学から義学への傾斜の1つの大きな原因であるといえよう。

このように、清代半ば以降、社学は義学に取って代わられたので、社学については本研 究の対象から外すことにする。

以下、中国最高学府である国子監と日本の公儀学校の昌平坂学問所について、両者の設 営や教育対象、学習内容などを概観する。なお、両国の地方官立、半官半民及び私立教育 機関の性格については、第2項以降で奉化県と尾張国の両地域の例を通して考察すること にする。

2.両国の中央官立学校―日本の昌平坂学問所と中国の国子監を中心に―

(1)昌平坂学問所の設営と教育対象

昌平坂学問所の前身は、林羅山が 1630(寛永7)年に上野忍岡に創設した弘文館である。

その運営や教育活動で幕府の意向を受け始めたのは、5代将軍の徳川綱吉の頃からであり、

綱吉は儒学に大いに関心を持ち、1691(元禄4)年には忍岡の孔子廟を塾舎とともに湯島 に移転した。その後、それが幕府の文教施設としての威容を整え、林家当主に主宰させた。

そして、寛政改革によって、幕臣の文武奨励や風紀粛正に関して数多くの施策が打ち出さ れ、幕府が幕臣教育への関与を強めたのに伴って、「公儀」の教育が形成されるようになっ

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た。このような背景で、1797(寛政9)年の大改革によって林家塾の幕府直轄化が一挙に 進められた。また、「昌平坂学問所」の名称もこの頃から用いられ始めた21

幕末になると、西欧各国の外圧は、幕府の内外に大きな衝撃を与えた。これに対抗する ため、幕府は急ぎ海防を固めるとともに、国内各種の改革の一環として教育改革にも取り 掛かった。安政・文久・慶応の学政改革を通して、昌平坂学問所は幕府教育の中核として、

教官陳容、教育内容、学制などの多方面にわたって改革が行われた22。しかし、長年の体 制は急には改められず、新時代への対応を成し遂げることができなかった。昌平坂学問所 は幕府の終焉とともにその幕を閉じることになった。

昌平坂学問所のほかに、その支校としての直轄教授所が3校あった。また幕府は異なる 時期においてほかの 11 校の直轄学校を設けている。それぞれの名称や成立時期などをまと めると、表1-2のようになる。

表1-2 幕府の直轄学校

校名 設立時期 規模(門人数) 入学年齢 退学年

庶民入学の許否

昌平坂学問所 寛政9(1797)年 48 人(寄宿) 認めない

深川教授所 享保8(1723)年 許可

麴町教授所 寛政3(1791)年 許可

麻布教授所 天保4(1833)年 許可

甲府徽典館 寛政年間(1789-1800 年) 8、9歳 許可 駿府明新館 安政5(1858)年 17~19 歳 許可 横浜修文館 文久元(1861)年 認めない 長崎明倫堂 正保4(1647)年 50~100 人 6、7歳 許可 日光学問所 17 歳 19 歳 許可 和学講談所 寛政5(1793)年

倉敷明倫館 天保年間(1830-1843 年) 不明 山田温故堂 弘化4(1847)年 不明 佐渡修教館 文政年間(1818-1829)年 講義のみ可

伏見旧組邸内学校 安政元(1854)年 許可

大聖寺学問所 文化年間(1804-1815 年) 8歳 16 歳 不明

『東京都教育史』通史編一 pp.17-35、『長崎県教育史』上巻 pp.67-80、山下武

『江戸時代庶民教化政策の研究』pp.168-169 より作成

昌平坂学問所以下の各直轄学校は、幕府に認可・保護され、監督・交渉をくわえられ、

その公的性格が濃厚である。この点について、昌平坂学問所を例に考察してみよう。

昌平坂学問所の前身である林家塾は、3代将軍家光や家康の第9子である徳川義直の援 助によって建てられたが、教育の方針や内容などは塾主の林家が定め、入門者も幕臣に限

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らず諸藩の家中の者や浪士、庶民などの広い階層にわたっており、本質的には林家が私的 に営む塾であった23。しかし、享保改革(1716―45 年)をはじめとする一連の改革、とり わけ寛政改革(1787―93 年)によって、林家塾を収公し、昌平坂学問所と改称した。幕府 はそれに積極的に関与することにした。

教育制度においては、1799(寛政 12)年2月に、「今度聖堂御主法被相改、御目見以上 以下之子弟御教育可有之ため、学問所夫々御取建被仰付候間、寄宿候とも又は通候て学候 とも勝手次第可有修行候」24との達が出され、昌平坂学問所は幕臣の教育機関であること が明示された。これにより、それまでの林家塾門人については、「変更黌制、乃放生徒」と して、退去させたようである。また同年の 12 月に、事務職の改正により、学問所勤番組頭、

学問所勤番、学問上勤番下番などの諸職職員は、林家の使用人から幕府の役人へと切り替 えられた。同時に、財政面でも公私の領域が明確に区分され、聖堂付属の学田一千石は、

幕府勘定奉行の手に移管され25、幕府は昌平坂学問所の財政権を握ることとなった。

また、幕府は家中教育の学習内容にも強く関与した。寛政改革において、老中松平定信 は「異学の禁」政策を打ち出し、大学頭林錦峯に「慶長以来御代々御信用」の朱子学によ って門人教育を行うことの徹底を求め、昌平坂学問所から朱子学以外の学問の教授及び研 究を排除させた。それと同時に、幕府は「正学」の徒を新たに起用することとし、即ち官 吏登用の途は朱子学の徒に限られることとなった26。その後の安政・文久・慶応期の学問 所に対する一連の改革においても、幕府は常に主導権を握って、昌平坂学問所の運営に深 く関わったのであった27

(2)国子監の設営と教育対象

次に中国の国子監の設営と教育対象について考察する。国子監は、晋の武帝が 276(咸 寧 2)年に官吏養成のため国子学を設け、学校制度を整備して貴族の子弟を教育したこと に起源をもつ。隋及び唐は北斉、隋初の国子寺を国子監と改め、国子学・太学・四門学・

律学・書学・算学の六学及び広文館などの国立学校を管轄した。つまり国子監とは直接教 育を担当する学校ではなく、これを統轄する教育行政機関であった。明代になると、国子 学・太学・四門学を国子監へ一本化して、最高学府を兼ねさせた。清代には、明代の国子 監に関連する制度を基本的に継承し、中央政府が年間に銀 6,000 両を国子監の維持費とし て支給した28。しかし、道光年間(1821-1850 年)になると、科挙制の盛行に伴って、国 子監の教育機関としての機能は次第に失い、政治機関・試験機関としての性格を強めた。

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そのため、1903(光緒 29)年の京師大学堂の成立とともに廃止された。

国子監の入学者は、選抜方法によって二種類に分けられる。1つは、地方官学の府学・

州学・県学に在学している学生の中から秀才を選抜し、貢ぎ物として朝廷に捧げる「貢生」

と呼ばれる学生であり、もう1つは、国士監が自ら官位の高い官僚・貴族や普通庶民の子 弟から選んだ「監生」と呼ばれる学生である29 。国士監の学生の募集は、身分制によらな いように見えるが、実際には官僚や豪農の子弟が大半を占めていた。

(3)昌平坂学問所と国子監についての比較

日本の昌平坂学問所と中国の国子監の設営、教育対象、学習内容などについて比較する と、次の点を指摘できる。

第1に、両者とも官立の中央教育機関であった。昌平坂学問所の場合は、幕府が 1797(寛 政9)年に林家の家塾を収公し、聖堂や学問所の経常費の収支を幕府の経理当局の手によ って直接に賄うことにして、林家から切り離した。これだけではなく、学問所の儒官の任 命から入学者の身分、学習内容まですべて幕府が決めていた。一方、中国の国子監は、昌 平坂学問所と同様に、国子監の経営と維持、教官の任命、定員数、学生募集方法なども、

皇帝あるいは中央政府の手によって直接に決定されていた。

第2に、教育対象については、昌平坂学問所は、「御目見以上・以下」幕府の直臣の子弟 を対象とし、旗下・御家人の子弟に限って入学させていた。これに対して、中国の国子監 の生徒は、地方が推薦して中央政府に奉る者と選抜試験によって選ばれた者がいた。した がって、国子監の入学資格は生徒の身分より能力が重視されていたのである。

第3に、学習内容については、昌平坂学問所では、寄宿生は御目見以上ならば四書五経 の素読を終え、御目見以下ならばその上にさらに四書の講義を終えなければ入学を認めな い30という入学条件があったのであり、この点からみれば、その学習内容は相当高度なも のであったと考えられる。一方、中国の国子監では、官僚の育成のため、生徒に経書や史 書などについての専門的な研究をさせ、中国の最高学府と呼ばれるように、極めて高度な 教育が行われた。

以上のように、昌平坂学問所は御家人限りの学校であり、また国子監は高等教育に相当 する教育機関であるので、両者は両国の民衆教育普及に直接に貢献するものではなかった といえよう。しかし、前者は後に書生寮を建て、諸藩の俊秀を集めて藩校の教官を養成す るようになった31。また後者では、生徒が学習を終え、地方の官吏になったほか、数多く

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の者が府・州・県学の教官となった。この点からみれば、両者とも地方の教育に一定の影 響を与えたものとみることもできる。

3.両国の地方における諸教育機関とその民衆教育普及に果たした役割

―尾張藩と奉化県の事例を中心に―

それでは、両国の地方においてどのような教育機関が設立され、普及してきたのか、こ れらの諸教育機関の性格にどのような相違があるかについて、近世中国浙江省の奉化県と 日本の尾張藩の事例を通して、比較・考察してみる。

(1)尾張藩と奉化県における諸教育機関とその設営

①尾張藩と奉化県における諸教育機関

現在の名古屋市を中心とする尾張の国は、美濃、伊勢、三河に亙る大平原の中央を占め、

南は伊勢、三河両湾に臨んでいるため、海陸の物産が豊かで、江戸と京畿を結ぶ交通の枢 要の地でもあった。関ヶ原の戦いの後、徳川家康は9男の義直に名古屋城を与え、その後 美濃、信濃、三河、摂津、近江のうちにも増封し、尾張藩を 60 万石を越える親藩として、

徳川宗家、幕府の支柱とした。以降、尾張の徳川家は御三家の筆頭としての位置を保ち続 けた。

一方、奉化県は、清代に浙江省の東部に位置する寧波府に属し、長江デルタ南域経済セ ンターといわれるほど豊な地域である。全県の陸地総面積は約 1,300 平方キロメートルで あり、総人口は 265,996 人(1908<光緒 34>年現在)であった。

表1-3 近世尾張藩(尾張国のみ)と奉化県における諸教育機関

奉化県 尾張国

県学 1 藩学 1

義学 26

社学 3 郷学 5

書院 3 私塾 43

族塾 30

啓蒙私塾 399

寺子屋 1,661

『愛知県教育史』(第一巻、第二巻)、『奉化県誌』巻八・巻九(光 緒 34 年刊行)、『奉化市志』より作成

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このように、経済的にも文化的にも比較的豊かである両地域では、近世においてどのよ うな教育機関が発達したのであろうか。『奉化県志』や『愛知県教育史』、『日本教育史資料』

などに基づいて、教育機関別にその数をまとめてみた(表1-3)。

奉化県の諸教育機関の中の啓蒙私塾は清代末期(1911 年)までに設立されたものであり、

そのほかの諸教育機関は 1908(光緒 34)年以前のものとされている。また、尾張国の諸教 育機関は、すべて 1867(慶応3)年以前に設置されたものである。

以下、尾張藩と奉化県の諸教育機関について、それぞれの設営主体、経営方式を考察す る。

②尾張藩と奉化県における諸教育機関の設営主体 (a)藩学と県学の設営

藩学あるいは藩校については、『日本語大辞典』(1995 年第二版)で「江戸時代、諸藩が 藩の子弟の教育のために設立した学校」と比較的簡単に説明されるが、藩学についての先 行研究によれば、実はこれに対する見解が2つに分かれている。

1つは、藩校と藩学を同一にみる見解である。和島芳雄は、「藩学は藩校ともいい、漢学 を中心として藩士およびその子弟の教育を行う藩立学校を指すのが普通であり、その多く は武芸道場をも併置した」32と述べているように、藩校と藩学を同じ意味に用いている。

このような捉え方は、近世の諸学校を、武士の教育と庶民の教育という教育対象に注目し ながら説明しようとする文部省の『学制百年史』の中にもみられる33

もう1つは、藩校と藩学を区別して用いる場合である。石川謙は、藩学・藩校が江戸時 代またはそれにつづく藩制時代(明治4年まで)において藩の設立し直営した学校である と捉えている。石川によれば、藩校・藩学の称呼が普及したのは明治維新以降、府県に設 置された学校と区別する必要が生じてからのことであり、それ以前はたいてい学校・学館 とか、それらの施設に冠せられた名称が普通の呼び方であったという。さらに、藩学とい うことばの適用範囲に広狭二種があると指摘し、広義には、医学校・洋学校・皇学校(ま たは国学校)・女学校・郷学校(または小学校・啓蒙所など)・武学校など、およそ藩の直 営にかかるすべての学校を含めて、藩学と呼ぶ。これに対して、狭義には、主として漢学 科を中心にして、文字教授と人間教養とを与えるのがねらいの学校、藩士の子弟をすべて 入学させるたてまえの学校、江戸時代初期からの伝統的な教育を担当する学校といった意 味合いをもつ藩学である。したがって、石川は「広義の場合を藩立学校と呼び、狭義のほ

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うを藩学という」ように区別して用いると説明する34

また、千原勝美は、「藩が設置した教育機関や施設のことを、広く藩校」と呼び、藩学は

「文の教育すなわち儒学やその多くは漢詩文などの教育を主とする狭義の藩校」であると 限定する。これは、石川の見解と類似しているといえるが、千原の特色は、これに加えて、

藩学は「藩校の有無にもかかわらず藩の儒者や学者たちの学問や学説・学風の意味」とし ていることである35

藩学と藩校を同じ意味に用いる立場と、それらを意識的に区別して用いる立場の間には、

相違が明らかであり、今日の日本教育史研究においてもこの用語は統一されていない。し かし、両者の藩学に関する説明には、そのいくつかの共通点もみられる。すなわち、①藩 学は「藩立学校」あるいは「藩が設置した教育機関や施設」であり、②その教育対象は「藩 士およびその子弟」であり、③その教育内容は漢学を中心として行なわれるなどの点であ る。すなわち、藩学とはおおよそ漢学科を中心とした、主に藩士及びその子弟の教育のた め、諸藩が直接設立・経営した教育機関であると定義することができ、武芸道場・武館・

武学校などもしばしばこの範囲に編入される。

尾張藩の明倫堂は、藩学の中で創設が古くまた規模が大きいものである。初代藩主徳川 義直は、1629(寛永6)年に名古屋城下大津町に学問所を設立し、その運営に一定の保護 を加え、藩士の教育を行った。これがその後の巾下学問所や明倫堂の起源とされている36。 義直が聖廟や学問所を設けた動機は単に「好学」であったのか、それともほかの理由で あったのかは、史料的制約のため明らかではないが、当時の武士がおかれた状況を考えれ ば、そのねらいを推察できよう。すなわち、徳川幕府の成立以降、平和な状態が続き、戦 士としての武士階層の存在意義が弱くなり、この新しい状況に対応する武士のあり方を模 索しなければならなかった。そこで、専ら武技を練り、武芸を身につけるというそれまで の武士教育のあり方から学問奨励や文武兼備の教育に転換する必要があった。この文武兼 備の中の「文」とは、社会秩序を説く儒学の教典を学ぶことであり、それを統治原理とし て武士を教化することと考えられる。そのため、より効果的な藩立の教育機関を設ける必 要に迫られたのであろう。

一方、中国の地方官学すなわち府・州・県学についてみると、『辞海』(1979 年出版)に よれば、府・州・県学は「元代・明代・清代、府・州・県において生員の勉強のため設置 された学校」であると解釈している。これに対して、多くの中国教育史研究者は、府・州・

県学を論じるとき、それを古代中国教育制度に位置づけようとする37。 つまり、唐代から

(12)

図1-1 中国清代における行政組織図

清末までの約 1500 年の間に、中国古代教育制度は王朝によって若干異なっているが、中央 に最高学府といわれる国子監(太学)がおかれ、地方の府・州・県に儒学が設けられたと いう、中央官立学校と地方官立学校の学校系統はおおよそ同じである。『大清会典』によれ ば、清代には、「いわゆる学校制度は、京師に国子監を設け、または太学とも呼び、直省府 県衛の官庁所在地に学校を設立し、先師を祀り、規範を学び、学舎を設け、生徒を集まる」

と説明され、その活動内容は「先師を祀ること」、「生員を指導すること」、「月課を行なう こと」と指摘されており38、府・州・県学は地方官立学校として位置づけられている。言 い換えれば、清代の中国の行政組織は、省・道・府及び州・県からなっていたが、省と道 には学校を設けず、府以下すなわち府・

州・県のそれぞれの官庁所在地に官費を もって学校が設けられ、それらは府学・

州学・県学と呼ばれた。

中央 国子監

省 清代には、それまで府・州・県学が

普及してきた江南・中原の地方において、

府・州・県学の修繕・拡張などの校舎を 整備することに力が入れられ、そして広 西省・雲南省・東北などの府・州・県学 の普及が遅れた地方においては、新たな 府・州・県学の設置が進められた。1803

( 嘉 慶 8 ) 年 に 全 国 の 府 ・ 州 ・ 県 学 は 1,700 校に達し、ほぼ各府・州・県に一 校ずつ学校が建てられたのであった39

奉化県の県学は、宋代景祐年間(1034-1037)に県令于房が石夫人廟を改築させ、1066

(治平3)年、県令裴士尭が県庁の隣に移建した。その後、県庁により何回も修繕や建て 替えが行われたが、清代になると、1673(康煕 12)年に寧波府知事邱業、奉化県知事鄭愫 が、県学生徒たちから援助を得て再び校舎を修繕した。県学の経営については、歴代の県 知事が学田を設け、その収入を県学の維持に充てた40。奉化県の県学も、官費をもって建 てられ、経営されていることがわかる。

朝廷にとって、さらには地方政府にとっても、府・州・県学の設立あるいは再興のねら いは、儒教思想による教化と人材育成にあった。元来儒教は「己れを修めて人を治める」、

府 直隷属州(庁)

州・庁・

県(州・庁)学 州(庁)学

府学

(13)

「徳才兼備」といわるように、「忠」「孝」を中心とする教化を人材育成よりも重視するも のであった。しかし実際には県学では官僚養成や人材育成に重点が置かれた。これは清代 における県学と科挙の関係をみると明らかになる。清代の教育は明代の教育をおおよそ踏 襲し、科挙の仕組みや方法もほぼ同一であった41。明代や清代には、「科挙は必ず学校を経 由する」と定められている。すなわち、科挙を受けるための必須条件はまず県学の学生で なければならず、このため県学は科挙試験に合格し官界に入るための教育機関となった。

これはまさに「国家は人材を蓄え人材を養うために学校を設ける。郷試・会試・殿試でそ の中から優秀な人材は選抜され、官吏として用いられる」42といわれたように、朝廷にと っては、官僚制の持続と発展のためには安定的な官僚の補給を欠くことができなかった。

その結果、県学の教育目標や内容も科挙制度と試験内容に左右され、人材の育成が優先さ れるものとなった。

(b) 郷学と義学の設営

石川謙の研究によれば、近世日本の郷学とされる機関には、実は性質のまったく異なる 二種類の郷学が混在しているという43。1つは、藩侯の支族又は家老などの采地に建てら れた陪臣学問所に対して郷学の名が附せられ、家来たちの学問武芸を磨くための「小さな 藩校」である。もう1つは、領内各地の庶民を教育するために、藩主又は領主が建立した り、または設立を補助したり、成立を嘉納したりした学校である。前者の郷学は、藩校を 本校に見たてて、郷学を支校・分校と呼んだ例もあって、後者の郷学は、郷学校、郷校、

郷学所・市学所・教授所・啓蒙所などと名づけた例もある。しかも、いずれの郷学におい ても、「官庁の許可もいったし保護もあった」44ので、郷学は「公機関」的な性格をもって いると石川は主張している45

近世における尾張領内の郷学の設営について検討すると、表1-4のように、「小さな藩 校」とみられる郷学としては、時習館、敬道館、忠孝堂、牛刀舎が設立され、また町人に よって創設され維持された郷学としては、名古屋の修学所が挙げられる。

前者の設営については、例えば、時習館は 1796(寛政8)年、家老甲斐守志水忠喬が別 邸付近の家中の屋敷内に創設し、その経営費は「校主家ニ於テ支給シ」46たとされる。ま た、後者の設営は、名古屋の修学所のように、本屋茶屋宗斎、熊野屋喜平治の二人が、藩 庁の許可を得た上で、「町人童蒙之為め」、修学所の設立に打ち込み、七ツ寺一乗院の空坊 を借りて、修学所を設けた47。この修学所は、名古屋町人の経営になる町人のための郷学 として注目すべきものである。

(14)

表1-4 近世尾張国における郷学の設営一覧

郷学名 設立年代 設立者 所在地 経営状況

時習館 寛政8-明治初年 家老:志水忠喬 家老志水忠喬の屋敷内 志水氏が支出する 敬道館 天保 11-明治初年 家老:成瀬正住 犬山上丸の内 成瀬氏が支出する

忠孝堂 嘉永元年~ 藩医:野間琳庵 上祝泥町 藩主が忠孝堂の扁

額を下賜した

牛刀舎 安政5年~ 代官:深沢新平 葉栗郡北方村

修学所 嘉永6年~ 本屋茶屋宗斎、熊

野屋喜平治 名古屋七ツ寺の空坊 主に町人経営

『愛知県教育史』第二巻、pp.447-471 より作成

一方、中国では、義学を建てることはかなり古くからあったようであり、唐末五代(10 世紀末)にもその例がみられる。しかし、清朝以前には義学は主に「族塾」、すなわち同族 集団によって創られた一族のための教育機関が存在していたのであり、これに対して国家 により提唱され、地方行政官あるいは民間有志によって設営された義学は、清代に入って から本格的に発展し、普及したのであった。

奉化県で、清末に設立された義学は、表1-5のとおりである。そのうち、元代や明代 に地方の官吏が郷村の子弟の教育ために設立した社学は3カ所あったが、清代に入ってす べて廃校となった。その代わりに、義学は次第に発達してきた。設営者が不明の6校を除 いて、残りの 20 校義学は、その設営形態によって二種に分けられる。すなわち、1つは、

一県の最高行政長官である県令(知事)」によって設営された義学であり(例えば養正堂)、

もう1つは、郷村の有志によって設営された義学である(例えは、聚文堂や篆山書院など)。

(c) 中国の書院、族塾と啓蒙私塾の設営

【書院の開設】

書院は元来純然たる私立の機関で、一世の碩学が独自の方針に従って教育を行う場であ ったが、朝廷批判の根拠地とみなされてその多くは破壊的な運命を辿った。残された書院 は、清代になると、その本質を失って官学化し、官学の府・州・県学と比べて何ら変わる ところなく、一種の学問奨励の機関として存在するにすぎなかった48

奉化県における3か所の書院の設営を検討すると、まず龍津書院は、宋代乾道 年 間 (1165-1173 年)、朱熹(朱子)が奉化県を通りかかる際に、地元の儒学者たちが朱熹を引 表1-5 浙江省奉化県における義学一覧(清末までに)

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名称 設立年代 創建者 所在地 経営 備考 社学 元代至正2(1342)年 儒 学 者 : 余 伯

瑀兄弟 大部頭 私宅と敷地 すでに廃校

東社学 明代正徳 14(1519)年 県令:朱豹 連山 すでに廃校 南社学 明代嘉靖9(1530)年 県令:陳縞 山川壇 すでに廃校

養正堂 元代至元 29(1308)年 県令:丁済 県治 捐田 16 畝

1308 年 県 令 丁 済 が 創 建 し、清代康煕年間、再建さ れた。

登瀛書院 咸淳年間(1265-74) 郷人共建 松林郷 すでに廃校 養正書塾 光緒 23 (1898)年 胡銓等 松林郷 捐建

杏林書塾 不詳 宋省忠 松林郷 捐建

松渓書院 元代初年(1279 年-) 李栖筠兄弟 忠義郷 出資、捐田数十畝 元代創建され、明代、落雷によ り破壊され,乾隆年間再建。

上林書院 康煕年間(1662-1722) 林 鐶 弋 、 林 和

忠義郷 捐田二十畝 光緒年間、半分破壊状態と

なった 千秋書院 光緒7(1881)年 張為霖 忠義郷 捐田 40 数畝

東山書院 嘉慶初年(1796-) 裘必堅等 忠義郷 捐建 光緒 30 年,忠義学堂とに 改組された。

叢桂文社 不詳 呉氏 忠義郷 捐建

聚文堂 道光 23(1843)年 (村 民 )孫 芝 雲

等 93 人 長寿郷 捐田 80 数畝 崇文書塾 光緒 18(1892)年 孫悌徳等 長寿郷 捐田、出資

仰山書塾 不詳 楊学聖 長寿郷 捐田

槐陰居義塾 咸豊年間(1851-61) 王士升等 長寿郷 捐建 敘浦書塾 光緒 27(1901)年 王華琳等 長寿郷 捐建、捐田 錦江書塾 不詳 (挙人)周永年 長寿郷 捐田 40 余畝

三餘書屋 不詳 (貢生)周炬煇 長寿郷

鳳山書塾 嘉慶 20(1815)年 張氏 長寿郷 三育義塾 光緒 29(1903)年 (挙 人 )江 迥 、

江起鯤など 長寿郷 捐建、捐田 20 余畝

恕屋家塾 不詳 不詳 金溪郷

岫雲書塾 光緒 15(1889)年 不詳 禽孝郷

溪西書塾 不詳 不詳 禽孝郷

廣文堂義塾 道光8(1828)年 有志者 連山郷

横山書屋 不詳 不詳 連山郷

狐山書院 乾隆年間(1736-95) 不詳 連山郷 光緒 13 年建て直した 篆山書院 光緒 15(1889)年 王禹堂等 13 人 連山郷 捐建、捐田 30 余畝

知新義学 不詳 不詳 連山郷 捐田 20 余畝

『奉化県志』巻九学校下、光緒 34 年刊行より作成 き留め、彼の講義を聞くべく、共同出資して書院を建てたのである。次に、広平書院は、

(16)

元々家塾であり、1560(明代嘉靖 39)年に県知事蕭万斛が建て直したが、後廃校された。

1822(道光2)年に至り、知事楊国翰が官費で再興した。3つ目の錦溪書院は、元々義学 であり、康煕 30(1691)年書院へと改築し、学田 40 余畝を設け、その収入で書院を維持 し、さらに乾隆 21(1756)年に知事陳滋が増築した49。以上のように、書院の設営は、公 的権力が強く関わっているといえる。

【族塾と啓蒙私塾の開設】

族塾と啓蒙私塾は古くからの中国の私設の初等教育機関である。清代に入ると、同じ初 等教育機関である社学や義学が、「社学は郷村の公費をもって経営し、義学は所在官民の義 捐をもって設立するもの」50と規定されているのに対して、族塾や私設の啓蒙私塾について は自由放任という政策をとっていたのである。

奉化県では、清末までに 30 か所の族塾が設立された。<付録>資料二にみられるように、

経済的に豊かな人が「善行」という慈善的な立場から設立し、あるいは宗族集団が共同出 資や捐田などによって設けたのである。第3章で考察するように、族塾は原則として無月 謝制としたことから、族塾を経営するために、その財源を確保することは重要な問題とさ れていた。ほかの『地方志』や族譜をみると、多くの宗族が学田を設け、その収入が塾師

(教師)の給料を賄うほかに、子どもの食事や学習用品の費用に充てられていた。

清末において、奉化県の私設の啓蒙私塾が諸教育機関の中で最も多く、399 校に達して いる。奉化県の啓蒙私塾の設営形態については資料的制約から知ることができないが、第 3章第2節で考察するように、ほかの地域の私塾では、私塾教員が、束脩や謝儀の収入で 啓蒙私塾を維持するだけではなく、一家の生計を支えなければならなかった。啓蒙私塾の 束脩は形式的なものが多いが、謝儀は米や金銭により納められるのが普通である。その金 額は、地方間の格差が大きく、教員の学位によってもかなり異なっている51。また、児童 の家庭がそれぞれの経済状況を応じて分担する場合もある52。しかし、啓蒙私塾の教員は 教えることを生業とするものがほとんどであるため、謝儀を納めない子どもの入学を拒ま ざるを得なかったと推察される。

(d)日本の私塾と寺子屋の設営

次に尾張藩における私塾と寺子屋の設立主体と経営形態について検討する。『日本教育史 資料』によれば、近世尾張領内における私塾の開業数は、26 校であるが、「尾張名家誌」

の儒林に記録されている人物の中に、ほぼ確実に私塾を開いていたと考えられる者が 17

(17)

人にのぼり53、両者をあわせると 43 校となる。また、『日本教育史資料』(八)によって、

尾張領内の私塾の塾主の身分を調べると、26 校のうち、士分の経営者が 18 人、藩医が1 人、平民が4人、神官が2人である54。つまり、尾張領内の私塾の約 70%が士分の経営に よるものである。

私塾の経営形態は、一様ではないが、無償制を原則とする藩学や郷学と違って、経費の すべてを自給自足しなければならなかったことから、束脩や謝儀、すなわち生徒側の負担 に頼ることが多かった。例えば、山本忠佐の私塾では、1850(嘉永3)年の歳暮の礼金だ けをみると、銭 150 文から金1分まで納めさせていた55

尾張地区の寺子屋の開業数は、『日本教育史資料』によれば、519 校挙げられている。し かし、愛知県教育委員会の調査で報告された数は、1,836 校であり、明治初年に開業され た 175 校を除くと、江戸時代に設立された寺子屋は 1,661 校である56。寺子屋の経営形態 については、第3章第3節で詳しく考察するが、結論から言えば、その経営者・師匠で、

寺子屋を本業としている者は少なく、多くの者は家業の傍ら余暇に郷村の子弟を集め読み 書きを教えていたのであった。また規模が比較的小さい寺子屋の場合、束脩・謝儀による 大部分の収入がその維持に回され、師匠の生活費に当てられることは少なかった。つまり、

寺子屋の設営の主体は、私塾と同様に、塾主であり、師匠であるといえる。

それでは、尾張藩主や領主は私塾や寺子屋の設立や経営に対してどのような姿勢をとっ ていたのであろうか。『日本教育史資料』中の旧名古屋藩学制によれば、「家塾寺子屋設置 ノ制度」について、「家塾寺子屋ヲ開設スルハ他ノ検束ヲ受クルノ制ナク何人タリトモ開設 スルコトヲ得タリ」57とし、藩は私塾や寺子屋の教育に関心をほとんど示さず、ほぼ自由 放任であったといえる。

(2)尾張藩と奉化県における諸教育機関の教育対象

次に、両地域の諸教育機関が庶民の子弟に門戸を開放した否か、またどの程度までに開 放したかについて、比較検討する。

①尾張藩における諸教育機関の教育対象 (a)藩学の教育対象

周知のとおり、江戸時代の日本社会は、士・農・工・商の身分制が確立しており、特に

(18)

武士と庶民は厳格に区別され、大きく2つの階層に区分されていた。教育においても、武 家の学校と庶民の学校が別々に設けられ、2つの系統の学校が並立し、それぞれの独自の 性格を持って発展してきた。ここでは、

教育対象について、全国の藩校の一般 状況と個別藩学の歴史的な変遷という 両面から、藩学が庶民に門戸を全く閉 ざしていたのかどうかを探ってみる。

尾張藩学明倫堂の前身「巾下学問所」

は、正式の藩学になる以前は家塾であ り、この段階では、「入門之儀も貴賎に 不依望次第」58というように、原則と して士庶の別なく出席を許した。しか し、藩学明倫堂が開校された 1783(天 明3)年以降は、「御家中之輩末々子弟 等に至迄罷出文学可令修行」59という 趣旨から、家中一統の子弟を教育対象 にし、庶民は「藩立学校ニ入ルコトヲ 許サス」60とあるように、入学が認め られなかった。

では、尾張藩以外の藩学は、庶民の 入学についてどのように規定していた のであろうか。『日本教育史資料』(一、

二、三)を分析すると、藩学の教育対

象について、およそ次のようなことが明らかになる(表1-6)。すなわち、243 藩の中で 庶民の入学を禁止していた藩学は 89 校であり、全体の 36.6%を占めている。そのうち、

教育対象を武士に限定した藩学は 37 校、士卒の子弟に限られた藩学は 52 校である。これ に対して、庶民の入学を認めた(あるいは禁止していない)藩学はあわせて 131 校であり、

全体の 53.9%を占め、半分を超えていた。その他、不明あるいは規定なしの藩学が 23 校、

9.5%となる。以上の数字だけをみれば、少なくとも約半分の藩学は原則として庶民の入学 を認めていたと推察できる。さらに藩学の教育対象とその創設年代の関係をみると、庶民

備考

藩学数 対象

15.2% 37 武士

21.4% 52 士卒 二十七

藩は明、庶

民の入学を認めるよ

36.6% 89 合計

士卒の

12.8% 31 庶民の 志者

2.5% 6 庶民の 秀者

1.6% 4 庶民の 要審

1 - 6

藩学 育対象

0.8% 2 僧侶等

36.2% 88

その

この

民の 明し 二校

十五 校は庶民

の入学者は僅少

あり、七

校は庶民

の入学 者はい かった。

53.9% 131 合計

士庶共

9.5% 23 不明

100.0% 243 合計

(19)

の入学を認めた割合は、寛永-寛延期(1624-1750 年)に開設された藩学では 35.5%、宝 暦-享和期(1751-1803 年)に開設された藩学では 49.4%、文化-慶応期(1804-1867 年) に開設された藩学では 59.3%、明治初頭(1868-1871 年)に開設された藩学では 51.7%と なっている(表1-7)。また 27 の藩は藩学創立当初は、庶民に門戸をまったく閉ざして いたが、明治初年から庶民の入学を認めるようになった。このように、時代の進行につれ て庶民の入学を認める藩の割合が増えてきたといえる。しかしこのような藩学は

実際にどの程度まで庶民の子弟を受け 入れたのであろうか。

第 1 に、庶民の入学者数が判明した

「庶民の入学を許す藩学」22 校のうち、

庶 民 入 学 者 数 が 極 め て 少 な い 藩 学 は 15 校で、庶民入学者がいない藩学は 7 校であった。つまり、「庶民に門戸を開 放した藩学」といっても、実際に庶民 の就学者数は極めて少なく、庶民の入 学は名目化していたといえる。

表1-7 藩学の教育対象の時代変化

年代

士族 のみ

士庶

共学 不明 合計

校数 17 11 3 31

1624-1750

54.8% 35.5% 9.7% 100.0%

校数 38 42 5 85

1751-1803

44.7% 49.4% 5.9% 100.0%

校数 25 54 12 91

1804-1867

27.5% 59.3% 13.2% 100.0%

校数 10 15 4 29

1868-1871

34.5% 51.7% 13.8% 100.0%

『日本教育史史料』(一、二、三)より作成 例えば、神戸藩の藩学では、「平民ノ

子弟モ亦之ヲ藩立学校ニ入ルヲ許セシ」としていたが、しかし「当時士民ノ別頗ル厳ナル ヲ以テ自ラ之ヲ憚ルノ弊」あることから、藩立学校に「入学業ヲ修メシ者磯部元恒(菓子 屋ヲ業トスルモノ)田中維徳(商人)ノ外前後数人ニ過キス」という状況であった61。ま た、小幡藩でも「藩立学校ヘ藩士平民モ素ヨリ入学スルヲ許ス」が、しかし「農工商ノ三 民中ニハ医師神職等ノ外ハ抜群ノ有志者ニ非レハ入校スルノ志願者ナク又之ヲ督責セス只 職業専ラ注意スルコトヲ示セリ」、ゆえに「平民子弟ニシテ入学スルモノ僅少」となった62。 このように、『日本教育史資料』だけをみても、いくつかの藩では、庶民の入学を「禁止」

していなかったものの、実際には庶民の入学者は極めて少ないという実態が明らかになる。

また、原則として士庶の別なく入学を許した藩でも、実際の入学者はほとんどいなかっ た。例えば、挙母藩では、「明治二年三月始テ士民普ク入校ヲ許スモ古来沿襲ノ久シキ平民 ノ子弟ハ大ニ就学ヲ厭ヒテ入校ノ徒ナシ」63という状況であった。豊橋藩でも、「藩立学校 ヘ入学ヲ禁スルノ制ナシト雖モ自然ノ習慣ニヨルモノカ藩立学校ヘ入ルヲ希望セス」64と いうように、結局「庶民に門戸を開放した藩学」においても、実際に入学した庶民の子弟

(20)

は極めて少なかった。

第 2 に、庶民といっても、実際に藩学に入学できたのは、ほとんど僧侶医師あるいは村 の役人や富豪など上層庶民の子弟に限られていた。例えば壬生藩では、平民の子弟は「藩 立学校ニ入学スルヲ敢テ禁セシコトナシ然レモ多クハ豪農富商ノ子弟ニシテ其他ハ稀ニ入 学スルモノアリ」としており65、普通の庶民は藩学とほぼ無縁であった場合が多かったの である。

概して言えば、藩学は、本来は儒学専修という目的に規定された藩士子弟のための教育 機関として設けられていた。藩学教育は、支配者のための教育であり、それゆえ藩士とそ の子弟が受けるものとする伝統的な観念が強かった。時代の推移とともに身分制社会の退 潮傾向が強まり、藩学の教育対象が拡大し、藩学は庶民子弟も含む教育の場へと変化した といっても、それは名目的なものであり、武士教育を本領とする藩学の性格は少しも変わ らなかったといえよう。

(b)郷学の教育対象

郷学は本来藩士や陪臣を対象としたもの、すなわち藩学の延長線としての郷学(小さな 藩校)と、庶民を教育(教化)するための郷学とに大別できる。尾張藩領では江戸時代に 設立された時習館、敬道館、忠孝堂、牛刀舎、修学所等の5校の郷学のうち、時習館、敬 道館、忠孝堂と牛刀舎が前者に属し、修学所は後者に属している。

時習館は、1796(寛政8)年家老甲斐守志水忠喬が別邸付近の家中の屋敷内に創設し、

その教育対象については、「其家中一般の子弟を教育す」66とあるように、庶民の入学を認 めていなかったと考えられる。また、敬道館の入学資格は、家中の手代格以上の子弟に限 られていたので、庶民を対象とした郷学ではなかった。また、藩医野間琳庵が 1848(嘉永 元)年上宿泥町に創設した忠孝堂に学ぶことができたのは、「軽き御扶助の者」であり、お そらく一般の庶民には入学を許されなかったと考えられる67

一方、名古屋の修学所の場合をみると、本屋茶屋宗斎、熊野屋喜平治の二人は藩庁の許 可を得た上で、七ツ寺一乗院の空坊を借りて修学所を設立したが、設立の動機は「町人共 風儀之一助にも相成」とあるように68、町人の風儀矯正の一助となること、つまり庶民を 対象にして教育を行ったのである。

ほかの地域における郷学の教育対象については、第2章第3節で詳しく考察するので、

ここでは省略するが、結論を言えば、設立の確認された 164 校の郷学のうち、教育対象が

(21)

不明の 47 校を除くと、士族卒のための郷学は合計 50 校、42.7%、士庶のための郷学は 34 校、29.1%、郷村の子弟のための郷学は 33 校、28.2%となる。全体的にみれば、庶民に門 戸を開放した郷学は全体の 57.3%を占め、半分を超えている。

(c)私塾の教育対象

近世尾張領内に開業された 43 カ所の私塾の教育対象については、資料の制約で統計的に 明らかにすることができないが、『愛知県教育史』に掲載された幾つかの私塾をみる限り69、 私塾は身分とは関係なく、広く士庶一般に門戸を開放していた。また、入門者が近隣の郷 村だけではなく、広く郡内あるいは他の郡から学びにくる者もあった。有名な私塾になる と、一国はおろか、全国からの来学者があった。

両村塾は、愛知郡に 1830(天保元)年に開業され、1859(安政6)年に廃業された漢学 塾である。弟子の中には刈谷藩老浜田与四郎が藩内から有為の人材を選んで送ってきた者 があり、僧侶や社家・医者が多くみられる。

また、山本忠佐の家塾では、山本忠佐が学頭就任以前(1850 年)の 46 人の門人の内訳 は、神官の子1人、医師の子1人、町人2人であり、そのほかの 42 人はすべて庶民以外の 者であった。そして、1856(安政3)年7月から 1866(慶応2)年 10 月まで間の家塾入 門者名簿をみれば、町人をはじめとする庶民の子弟が多くなり、しかも兄弟で通学する例 が多いようである。

国学塾の例をみると、吉見幸和の塾では、1695(元禄8)年から約 60 年間に、合計 380 余人の門弟が確認できる。そのうち、京都の貴族・官人・家司・医師など 18 人を除くと、

藩主と藩士約 170 人、神職約 109 人、医師・学者など 16 人となる。

ほかの地域の私塾をみると、例えば、現在の埼玉県域における私塾の就学者の身分は、

主に庶民層の医者・農民・商民や僧侶・神官の子弟であり、また農民の階層の中でも、名 主・組頭などの村役人、中流以上の高持百姓などの経済的に余裕のあるものの子弟が就学 していた70

さらに同県高麗郡新堀村の高麗塾の就学者の階層について考察してみる。この塾は、高 麗米具美・大記の父子が、文政年間から明治6年まで(1818-1875 年)開設した、寺子屋 を並存させた塾である。同家に現存する門人帳によれば、塾主である遅言斎(米具美)と 桜蔭(大記)の門人は別々に記載されている。まず遅言斎についてみれば、「門弟」は文政 年間から天保中期を通して 11 人である。その中1人は隣村笠縫村の名主の子弟で、1人は

(22)

僧侶であり、ほかの9人はすべて豪農または豪農に近い層である。次に、桜蔭の門弟とし ては、弘化年間(1844-1847 年)から明治5(1872)年にかけて 31 人が確認できる。門 弟はいずれも高持であり、酒造業・地主・村役人の子弟であった。例えば、楡木村の新井 新三郎は、酒造業・質屋を兼ねた武左衛門の弟である。清流村の和田良助は、父伊助が名 主であり、村内でも有力な高持ちである71

また、門弟の身分が判明したほかの埼玉郡の大野塾(1852-1873 年)、幡宜郡の両宜塾

(1840-1872)などの私塾は、高麗塾と同様に、門弟はいずれもその地方の富裕階層に属す る人々であった72

現在の埼玉県域の私塾と比べて、尾張藩の私塾の就学者は、身分が明らかに高いことが 分かる。これは、同じ私塾といっても、埼玉の私塾は寺子屋並存塾のようなものであるの に対して、現愛知県内の私塾はハイ・レベルの教養を教授するものであり、身分の相違は 両者の形態が違ったためではないかと考えられる。

私塾の就学者の身分は、時代によってもかなりの相違がある。早い時期の私塾は、庶民 教育の未成熟、すなわち教育対象がせいぜい豪農、豪商などの一部に限られていたことも あり、多くは武士、医者、神官、僧侶などで占められ、これに若干の豪農・商民を含めた 程度であった。時代が下るに伴い、教育対象は一般庶民に拡大されていくが、幕末期には、

水呑百姓の子弟で入門する者も珍しくなくなった73

(d)寺子屋の教育対象

寺子屋は庶民の教育機関であるといわれる。しかし、どのような階層までが入学できた のかを検討するとき、寺子屋に就学した子どもを記す門弟帳と、子どもの家族の階層を記 す宗門人別帳が必要な資料となる。このような理由から、尾張藩領全体の寺子屋の教育対 象を究明するのは不可能である。寺子屋の教育対象についての具体的な考察は第3章第3 節に譲るが、ここでは三河南設楽郡千郷村の寺子屋就学者の家の階層を検討してみる。

三河南設楽郡千郷村にあった今泉忠左衛門経営の寺子屋の 10 人の寺子の家の階層(持

表1-8 東杉山村の階層と寺子の家の持高

階層(持高) 1石未満 1石~5石 6石~10 石 11 石~15 石 16 石以上

総戸数 7 18 12 2 1

寺子数 1 4 4 1

『愛知県教育史』第二巻より作成

参照

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