著者
Lyon David, 原 佳央理, 林 怡蓉, 雪村 まゆみ
雑誌名
先端社会研究
号
創刊号
ページ
321-355
発行年
2004-12-20
URL
http://hdl.handle.net/10236/11442
「みなさん、こんにちは。お忙しい中、集まってくださって、ありがと うございます」(日本語)。 私の話が、関西学院大学の特別なプロジェクトで研究が進められている たいへん重要な課題の関心にふれることができればと思います。「公的問 題と個人情報──現代社会におけるリスク、恐怖、安全、監視」というこ とでお話をさせていただきます。
あるカナダの歌手が 1980 年代初頭に、「The Trouble With Normal(フツ ーの中のヤバさ)」という歌を作りました。歌の一節はこのようなもので した。「街頭の人は」、これは街頭の普通の人のことですが、「『セキュリテ ィが優先されるんだ』と肩をすくめている」。さらに歌は続きます。「フツ ーの中のヤバさが、ますますヤバくなるばかりさ」。興味深いのはこの歌 詞が書かれたのは冷戦時代であるということです。というのも、これは 2004年時点で書かれた歌であってもおかしくない内容だからです。現在 多くの人々が「普通」の状況だと思うようなものは、実際には非常に異常 な状況として現れています。いわゆる「対テロ戦争」がそうです。 なぜ異常かというと、見えない敵である「テロリスト」との戦いのため に、普通でない方法が必要とされているからです。一方では普通でない方 法がとられていながらも、他方ではこの状況が「普通」だと見られている 状況があります。以下では、例のカナダのソングライター、ブルース・コ バーン(Bruce Cockburn)が言った「フツーの中のヤバさが、ますますヤ
──現代社会におけるリスク、恐怖、安全、監視
デイヴィッド・ライアン
訳:原佳央理 林怡蓉 雪村まゆみバくなるばかりさ」という問題について見ていきたいと思います。 アメリカの偉大な社会学者 C. W. ミルズ(C. Wright Mills)は、学生に 専門分野について紹介するとき、「公的問題」と「個人的問題」の違いを 強調していました。1950 年代後半当時、ミルズが念頭に置いていた問題 とは、失業など、個人的な苦痛を引き起こし、人々に無力感をもたらすよ うな諸問題でした。 今日でも、失業や貧困に関する旧来の不安の種は消え去ったわけではあ りません。それどころか、街の安全、旅行のセキュリティ、コンピュータ 通信の信頼性などといった他の不安が加わりました。情報化社会において は、不確実性と不安は減少するどころかむしろ増殖するように思えます。 しかし、ミルズの時代である 20 世紀中頃と同様、多くの人々は彼らの 「個人的問題」を個別化しています。ミルズはそうした問題を、より大き な歴史的、社会的な枠組みの中に位置づけることを唱えました。失業や貧 困は、個人的なレベルにおいて痛!烈!な!ものとして感じられます。しかしそ れらは、現代社会における構造的な問題でもあります。いわゆる情報化社 会は、ミルズの時代に存在していたのと同じ種類の個人主義を永存させる 傾向にあります。そして、それはとりわけ、社会生活のあらゆる領域にお ける個人データの収集と処理に依拠してなされています。 監視の追求は、それによって人々を追跡し、探知し、モニターすること のできる、かつてないより特有の識別子を目的としています。もちろん、 人々は常にいくつかのカテゴリーに分けられてきました。私たちは社会階 級によってカテゴリーの中に位置づけられ、それは失業のリスクを左右す ることがありました。しかし現在、カテゴリーは電子システムの内部にあ るために、より多様化し、しかもますます見えにくくなっています。 もしもミルズが今論文を書くとしたら、彼はおそらく「公的問題」── 政治経済と社会の構造的世界──と「個人情報」、あるいは個人データと
の関係を解明しようとしただろうと思います。そして、その結果がいかに 必然でないか、別の結果はいかに可能かを示そうとしたでしょう。さらに は、今日のリスク管理、セキュリティ、監視の領域において重要な役割を 演じている、将来起こるか!も!し!れ!な!い!ことへの強迫観念とでもいうべきも のに反論するため、大きな社会的コンテクストにおいて今日の情報問題の 歴史的な源を考察することに関心を持っただろうと思います。 次に、公的問題としての個人情報についていくつかコメントしたいと思 います。 個人情報は公的問題になりました。世界中の国々で、情報は知的財産と の関連、インターネットの管理、その他の文脈で政治的に議論されるよう になったことが分かります。そして、多くの国々の政府がこの 30 年の間 に、個人データに関連する法律を成立させています。それはデータ保護法 であったり、あるいはプライバシー法であったり、また日本の場合です と、2003 年の個人情報保護法があります。つまり、すでに個人情報が公 的問題になったという文脈があります。ご承知の通り、過去 30 年を振り 返ってみますと、これはコンピュータ化と大いに関連しています。 そのねらいは、データを取り扱う体制内部での濫用の機会を減らすこ と、エラーの可能性を減らすことにあります。しかし、これらの問題は依 然として大きな議論の的となっています。個人データを取り扱う様々な機 関にとって、こうしたルールや法律は不必要なもの──さらに悪い場合 は、できるだけ多くの個人データを処理することに依拠しているとされる 組織の円滑な運営における障害──と見なされます。他方、データの日常 的な使用において、個人の自由・プライバシーの喪失が起こり、そのなか で、人々の生活機会がいわゆるデータイメージによって悪影響を受けるこ とを懸念する声が多くあります。 この点を特に強調しておきたいと思います。データ保護・プライバシー
法において想定されていることの多くは犯罪や詐欺といった濫用に関する ことですが、その上さらに別の重大な問題がある領域として、個人データ を日常的に使用するという領域があることを指摘しておきたいと思いま す。個人情報が公的問題になった現状を、歴史的、社会的、比較の文脈に 位置づけ、なぜ今以上に詳しい特徴を描き出すに値するかを示すことが重 要です。 かつては、個人の ID の詳細──姓、年齢、性別、住所、仕事、所得── は、個人のほとんど手に届く範囲にありました。しかし今日、私たちが統 治と呼ぶものは、あらゆる社会領域に広まっており、個人情報はそのプロ セスの中心にあります。性別や年齢などの細かい個人的な項目は、今や社 会組織にとって、そして市民の、労働者の、消費者の、旅行者の──みな さんはおそらくさらに別のタイプの役割をリストに加えるでしょうが── 生活機会にとってきわめて重要なものになっています。さて、今私がリス トのなかに「犯罪者」や「法律違反者」を入れなかったのはなぜなのか、 疑問に思われるかもしれません。理由は、かつて犯罪の処罰に適用されて いた多くのことが、いまや旅行や市民権などのあらゆる領域に適用されて いるからです。 本人確認において、とりわけ国境において、「9. 11」テロ以後、電子機 器が使われることが増えたことは、だれしも気付いています。日本の住民 基本台帳システムのような本格的な国民 ID カードシステムがなかったと しても、先進社会のほとんどはパスポートに生体測定(バイオメトリク ス)の規格を入れる方向に向かい、その進行は「9. 11」同時多発テロ以 後ますます加速化しています。さらに、被雇用者たちも、勤務時間や位置 の確認、入館カードの使用、コンピュータのキー打ち回数の自動集計、車 や電話の位置確認装置といった新しい方法で、自分たちの仕事ぶりがモニ ターされていることに気づいています。
消費者もまた、スーパーマーケットのポイントカードからデータベース マーケティングに至るまで、商品やサービスの購入を促進するための技術 にさらされています。そのすべてが顧客情報を作成するために、個人情報 を得ることをあてにします。 かつてない移動──国内の旅行はもちろんですが、特に国境を越えての 旅行──の時代において旅行の様々な側面もまた精査されます。旅行者は 警察行動や商業目的のために、定期的に位置確認されることを予期してい るかもしれません。それらは CCTV(閉回路テレビ)やモニターテレビな どの固定技術、あるいは携帯電話やカーナビゲーション・システムなどの 可動技術によって行われます。 IDカードやその類の物が使われるようになるにつれ、地理的な領域を 囲む固定的な国境という古い観念は、さほど重要ではなくなっているとい う感覚があります。国境は仮想的なものになり、その結果、国境は至る所 に存在します。したがって旅行者は常にチェックされる可能性のもとにあ ります。 このことは、あらゆるポイントで行われる小さなチェックやコントロー ルに依拠するにつれて、統治が全般的に脱中心化し、分散していくという ことを意味しています。このことは、いわゆる社会的な規律と秩序に寄与 するだけではなく、コントロール──私たちが日々直面する小さな「プロ トコル」──をベースにした社会を作り上げることにも寄与します。 ところで、公的問題としての個人情報、そしてコントロール社会の発達 という問題を理解するには、「リスク」という問題に言及しなければなり ません。 現代社会における「リスク」の問題については、この何十年間にわたっ
て多くの言及がなされました。ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック(Ul-rich Beck)は、リスクを産業・工業主義に対する反応──特に、ある種の 産業技術の無制約な使用が環境に与える明らかな脅威──と見なしていま す。しかし今日では、「リスク」の範疇は、原子力発電所の隣接地帯や有 毒物質のゴミ埋立地の周りをはるかに超えています。他の多くの領域、も ちろん──「9. 11」以降特に悪名高い──「テロリズム」もまた「リス ク」の範疇に含まれます。第二次世界大戦以降、政治的重要性を高めつつ あったセキュリティは、「9. 11」以降、政治的最優先事項となっていま す。これはリスクに関連しています。セキュリティはこの数週間のアメリ カの大統領選挙キャンペーンの中心となっており、そして今もそうです。 「9. 11」の調査レポートへの対応の仕方は、候補者間の政治討論において 常に議論の対象になっています。また今年のアテネオリンピックでも、セ キュリティは中心課題でした。20 億ドル以上がアテネオリンピックのセ キュリティのために支出されました。国家間の平和的協力と競争の夢が、 同時に監視技術の実験場になりました。もちろんこれは「9. 11」以降に 起こったことではなく、1972 年にミュンヘンでのオリンピックのとき、 イスラエル選手が殺害されたことに端を発しています。いずれにしても、 セキュリティはオリンピックの中心課題となりました。 次のことは、私が強調したいリスクについての非常に重要な点をよく示 しています。主催者によって認識された──そして現にアメリカによって 要求された──脅威とリスクへの対応として、オリンピックのためのセキ ュリティが整備されましたが、セキュリティの手段に異議を唱えた多くの アテネ市民が議論していたように、セキュリティの整備の方法それ自体が 新たなリスクを生み出すということです。 アテネ市民が適切にも指摘しましたが、いったん監視とセキュリティの 設備がそこに設置され、資金が使われ、インフラが整備されると、それら を取り除くことは難しくなるからです。セキュリティや監視システムが設
置される場合、後になってそのシステムは削減されるのではなく、むしろ より一層整備される傾向にあり、元々意図した目的以外にも実際に使用さ れるという傾向にあります。過去数十年間をふり返ってみれば、その経験 的な証拠はいくらでもあるのです。 それでは、このリスクの問題について何が言えるでしょうか。それは、 近代化のいわば「ダーク・サイド」です。リスクに焦点を当てるというこ とは、世界を有害で危険なものだと考えるということを意味します。リス クは外的である場合があります。自然災害──この地域では地震が典型的 ですが──だけではなく、技術的な失敗、または集団あるいは個人の脅威 を及ぼすような行動である場合もあります。リスクはまた内的である場合 があります。例えば、体内に潜むウイルス、もちろん国家内のウイルス、 つまりリスクと認識される国家の「内部の敵」という考えもそうです。こ れは近代化の「ダーク・サイド」として捉えることができるでしょう。 ウルリッヒ・ベックの研究は、グローバルな近代社会のなかで、リスク はそれ自身がいわば増殖し、繁殖するものであること、1980 年代から行 われた経済と社会規制の規制緩和がこの事態をさらに悪化させ、その影響 力を大きくしていることを示唆しています。その結果、まさにリスクが高 まりつつあるときに、リスクはますます脅威──見えない、知り得ない、 予測できないもの──となりつつあり、そのため個人の生活はより孤立し ているように思えます。個人は明らかに脅威的な世界で孤独を感じていま す。 リスクに対応する「セキュリティ」という現行の考え方は、「テロリス ト」の脅威として私たちが表す事柄に大きく関連しています。しかし注意 しなければならないのはここには連続性が存在するということです。多く のコメンテーターたちは「9. 11」以降、すべてが変わったと言います が、しかし歴史的感覚を持っている人ならば、「9. 11」の前と後とで行わ
れる戦略と戦術には実は連続性があるということが分かると思います。 「9. 11」は、セキュリティと監視の強化と拡充のための説明と口実を与え たに過ぎません。「9. 11」が初めてこの発明品を導き出したのではないの です。 リスク社会においては、リスクは統治と関係があり、統治はセキュリテ ィの供給に関連があります。ここで私は「統治」という言葉で、生活の多 くの分野における権力の領域において起こることを意味しています──も ちろん国家は依然として統治において非常に重要な役割を果たしていると 言えますが、それは国家による統治だけではありません。むろん、私は国 家が 21 世紀に衰えていくとは思っていませんが。 国民国家は現在、主にセキュリティの提供について関心を持っていま す。これは経済的カテゴリーの一つになりつつあります。OECD には現 在、「セキュリティ産業」と呼ばれる新しい産業のカテゴリーがありま す。そして、新たな監視技術はどれもこの種のリスク社会分析を参照して います。 リスクは 20 世紀を通じて、犯罪学の形式を発達させるキーポイントで した。しかし、かつては犯罪者、法律違反者に適応された多くのカテゴリ ーは、現在では国家のセキュリティに移されつつあります。フランスのジ ャック・エリュール(Jacques Ellul)という思想家はかつて、犯罪者を逮 捕するのであれば、すべての人々を管理しなければならないと言いまし た。彼はこのことを 1964 年に言っています。2004 年においては、単に一 語だけを変えてこう言うことができるでしょう。「テ!ロ!リ!ス!ト!を逮捕する のであれば、すべての人々を管理しなければならない」。 セキュリティの追求は、監視の必要性を高めます。私たちに必要なの は、リスクが何であるかを知るための知識、情報です。これによって議論 が行われるのです。そのためにはもっとも高度な種類の監視方法を知るこ
とが必要になります。そこでこのことについて議論しましょう。すでに言 及した一つ重要な例は、住民基本台帳ネットワーク・システムのような国 民 ID カードというものです。これは、マレーシア、香港、タイ、シンガ ポールで、すでにより高度に実施されています。そして、すでに試験段階 に入っているのはインド、中国といった国々です。それから英国でも現 在、この秋の英国議会を前に、国民 ID カードシステムを作り出す提案が なされています。英国はここでの議論のよい具体的な例になるでしょう。 英国では、ID カードは生体測定学的識別子、おそらくは目の虹彩スキ ャンを使ったものが提案されています。ここまで議論してきた観点からい いますと、これらの ID カードはセキュリティに寄与するかどうかにかか わらず、それ自体のリスクを持つことになります。 一方、ID カードそのものは、実はゲリラやテロリストの活動によるセ キュリティ上の脅威を最小にすることがほとんどできません。なぜでしょ うか。それにはいろいろな理由があります。例えば、生体測定学的手法に は限界がありますし、出生証明書のような別の種類の記録を元にした書類 の信頼性の問題もあります。そして、適切に機能するためにはデータベー スの中にテロの容疑者の個人情報を持っていなければならないという事実 もあります。そうでなければ、ID カードに基づいて、テロリズムへの対 処に役立つシステムを作ることは、実際にはできません。 他方、ただカードが機能しないだけではなく、他の目的のために機能す! る ! よ ! う ! に ! な ! る ! という他の種類のリスクもあります。多くの著者が議論して いるように、結局 ID カードが一般住民の管理ツールになるため、ID カ ードが提案され設置され始めている所では、しばしば「マージナル」で 「脆弱」なポジションに置かれている人が、カードシステムの実現によっ て悪影響をこうむることになります。 したがって、私に言わせれば、国民登録を基本に生体測定学的手法を用
いた国民のカードである ID カードのアイディアは、リスクを再生産し、 さらには新たなリスクを生み出す恐れのある方法だということになりま す。そして、こうしたリスクは、セキュリティシステムの設置に関わるす! べ!て!の!人!が考えるべき問題なのです。 情報を求めるにあたり、リスクがその中心的な要点となります。リスク 管理は、より多くの監視データを必要とします。そうすることで、リスク を評価したり、その恐怖のレベルを設定したりすることなどができるわけ です。これが監視情報の需要の側面であるとするなら、供給の側面はいく ぶんかは恐怖に由来しています。 すなわち、人々、そして高いレベルで恐怖を示す一部の人々は、監視デ ータを喜んで提供するでしょう。監視データ──この場合は個人データと いうことになりますが──の供給は「恐怖の文化」によって促進されま す。リスクは私たちが需要の側面を理解するのに役立ち、恐怖は私たちが 供給の側面を理解するのに役立つのです。 もちろん、今日の午後、私たちが話せることはいろいろあり、供給の側 面に役立つのは恐怖以外にもあるだろうと思います。例えば、一部には監 視に自己満足を感じたり、監視を歓迎したりする人々もいるでしょう。そ れは現代の大衆文化と大きく関係していると考えられます。つまり、マス メディアの役割の大きさ、現代社会の「マクドナルド化」や「ディズニー 化」と関係しています。 ここでは、これらすべてについて論じることはせず、恐怖について述べ たいと思います。21 世紀には「恐怖の文化」がたくさん存在していま す。私はただ一つの「恐怖の文化」が世界中に蔓延しているというふうに は考えていません。そうではなくて、この 10∼15 年の間により深刻にな ってきたたくさんの恐怖の文化があると考えています。──そして、「9.
11」以降、さらにそれは増幅してきました。 例えば親たちは、いわゆる「通り魔」を恐れているので、子どもを歩い て学校に行かせることはせず、車で送り迎えをしようとします。恐怖はこ のようなたいへん地域的なものから、先ほどお話ししたような恐怖、つま り「すぐそこ」にあるかもしれない未知の脅威に関わる予測不能の恐怖ま で、多岐に渡っています。テロリズムだけではありません。例えば、気候 変動、地球温暖化、天災の可能性などもあり、すべて恐怖の文化として重 要なものです。そのため、恐怖はすべてのレベルで起きると言えるので す。 特に「9. 11」以降、社会的レベルでは、特定のグループ、つまり「内 部の敵」──それは中東、アラブ人、ムスリムといったステレオタイプ的 な特徴を持っていますが──が、恐怖を生み出すものとして見られてきま した。このような人種的な特徴付け方はきわめて一般的になっていて、そ の結果、「9. 11」以降、彼らは多くの市民権を停止されています。そし て、その中には、新たな疑念を生み出している新しい監視技術の発展によ る権利の停止も含まれています。 アメリカのように、保安部や国土安全保障省の設立によって、そしてま た、安全について一般市民自身が保安部隊の「目となり耳となる」ように と継続的に勧告されることで、恐怖はあおられてきました。このような 「目と耳」は、本格的な諜報と監視のシステムと結合して機能するように 意図されており、今日では予算がますます拡大する傾向にあります。 そして、武装衛兵の存在、監視の徴候、監視の可能性の警告によって、 恐怖は強化され再生産されていく傾向にあります。恐怖は恐怖をあおりま す。安全のサインは、安全ではないという感覚を増幅するのです。 しかし、もちろん、第三のポイントとして、恐怖は不規則に分布してお り、実際、多くの場合、恐怖は安全性のレベルについての統計的事実と無
関係なのです。人々は、コントロールの範囲を越えているものを最も恐れ ているようにみえます。「9. 11」以降、多くの人が飛行機よりも自動車に 乗ることを選択しましたが、統計的には、飛行機に乗るよりも高速道路で 運転する方がより危険なのです。女性は男性よりもテロリストの攻撃に遭 う可能性が非常に高いと考えていますが、女性と男性のリスクはまったく 同じように見えます。人はリスクを多く見積もりすぎたり、最悪のケース のシナリオに傾いたりしやすく、また論拠よりも印象に反応しがちです。 世界貿易センターのツインタワーが炎上・倒壊した破滅的な映像が、こ の 4 年間で世界的に最も影響の大きかったイメージと言えるでしょう。リ スクの観念が強化され、同時に恐怖が強化されています。そして、それが さらなる問題を引き起こすように見えたとしても、人々は恐怖心を持って いるため新しい対策に賛成しているのです。例えば、飛行場で長時間並ん で待たされることを考えてください。私たちは、そうすることでより安全 だと思っているため、不便も受け入れています。 恐怖は不規則に分布しており、安全のレベルの統計的事実とは関係あり ません。ただし、恐怖はリスクを最小化するための政治的な対応を刺激す るのにも役立ちますが、それは抑圧的でもあるということを述べておきた いと思います。 いわゆるリスク社会では、安全を保障する対策がこれまでにも増して広 がっています。工業生産の「よいもの」に対して「悪いもの」には、抑制 し対抗しなければなりません。つまり、原子力発電所によって出される放 射能や、埋立地から浸出する毒素から、人は保護される必要があります。 交通事故で怪我を軽減するためにシートベルトをつけなくてはなりませ ん。建物は耐震性を保証する規約を満たし、また呼吸ができる空気を循環 させなくてはいけません。
したがって、目を見張るような見せ物、鮮烈で致命的な突然の攻撃のあ と、「テロリズム」へのセキュリティに対してメディアが脅威を増幅する ことで、セキュリティや安全性に対する要求がこれまで以上に急激に高ま っていることはほとんど驚くに値しません。これが政治的に最優先課題と なり、最近まで、高度な民主主義社会では顕著な特質であった市民権や自 由といったものは、重要度を下げられています。 ところで、この部分で私は「安全 safety」と言いましたが、その理由の 一つとして「セキュリティ security」の概念が他の意味合いをもっている ことがあります。福祉国家の時代において、「セキュリティ」は、普通、 国家や軍事の用語というよりも、福祉、社会的用語と考えられていまし た。そのために、国家福祉に関するものを今日私たちの話題にするものと 同じであるかのようにとると、しばしば「セキュリティ」という用語につ いて考えるときに混乱を招くでしょう。 今日言う「セキュリティ」は、道、空港、都市を、事故やテロリストと 考えられる悪意のある人から守ることです。けれども、当然のことながら テロリストのカテゴリーは広がってきました。アテネオリンピックの例を あげると、セキュリティ部隊は、グローバル化反対のグループ、中東の 「テロリスト」、レンズを通した映像を不鮮明にするために CCTV(閉回路 テレビ)カメラにスプレーをかけるような地元市民などの、脅威の一 ! 群 ! を 想定していたことが判明しました。 安全性を達成するためのよい方法は、技術的なものだと考えられるよう になり、これが過去数年間で徐々に明らかになってきました。言ってみれ ば、それは技術的に「解決」しようとする考え方です。そして、これはセ キュリティの政治経済的議論を巻き起こし、また文化の技術への依存に関 わる議論も招いています。 私たちは政治的社会的な問題に対して、なぜ技術的な解決を求めようと
するのでしょうか。これはとてもよい論点です。先ほども言ったように、 現在の政府においては、セキュリティ産業によって提供された新しいセキ ュリティシステムが探索されてきました。けれども同時に、公的に提供さ れているセキュリティを補完するため、通常の商業活動が参入してきてい ます。 アメリカにおいて進行している事態は非常に顕著で、米国自由人権協会 によれば、その状況は「セキュリティ産業複合」と言われています。「民 営化された監視」が、公的な監視と共に奨励されています。 けれども、このような動きはどの程度正当化できるのでしょうか。「安 全」といっても本当に安全なのでしょうか。過剰なセキュリティとはいえ ないでしょうか。私たちが 21 世紀におけるセキュリティやリスクの意義 について議論することになっている時に、おかしな問いであるとみなさん は思うかもしれません。確かに、セキュリティは何にもまして私たちが必 要としているものです。セキュリティは「よいもの」ですが、よいものが 過剰にあるということがありうるでしょうか。 無条件に「よいもの」とされるセキュリティと安全性、そこに実は本当 の問題があると考えてよいでしょう。何が中に入っているか見るために開 けなくてはいけない「ブラックボックス」です。私たちはまたしても「普 通」であると思いこんでいて、「普通」が「悪くなっていく」ことを忘れ ていないでしょうか。イギリスのオックスフォード大学のルシア・ゼドゥ ナー(Lucia Zedner)は、多くの「セキュリティ」は矛盾を抱えていると 言います。例えばリスクを減少させようとする一方で、脅威は存続するで しょう。「セキュリティ」は、安心を約束してくれると同時に、私が先ほ どから言っているように、不安を高めるのです。 セキュリティとは、普遍的によいものとされています。「セキュリティ はだれにとってもよいものだ」と。けれども実際、私たちが求めているセ
キュリティの手段は、特に監視という手段をとった場合、排除というもの がベースになっています。それが普遍的によいものになりうるでしょう か。セキュリティは自由を約束するものであると同時に、市民の自由を侵 すものです。 これらすべてを考えあわせると、よいものがあり過ぎるという可能性も あるわけです。セキュリティと安全性の矛盾は、探究し、問い、詳しく調 べる必要があります。そして、公の場で議論される必要があります。これ が 21 世紀の民主的参画の中心的な課題であります。 先ほど司会者の方から、私が監視について何か話すでしょうと言われて いました。遠回しにですが、ここまででも監視についてお話ししてきまし た。私の発言はもう終わりに近いので、監視についていくつかのコメント を述べたいと思います。 監視は昔からある技術であり、歴史と同じように古いものです。今日で は、それを技術的に強化しています。近代の初期には監視は官僚的に強化 され、現在ではコンピュータに支援されています。ですから監視とは、新 しい技術が生み出したものでも、「9. 11」を受けてできたものでもありま せん。それは私たちが見てきている通り、長期間の過程です。 スライドの 2 番目に書いている点ですが、私は監視というものを管理、 コントロール、支配をする目的で、個人の詳細に焦点をあてるものと考え ています。したがって、それは常に両義的であると思われます。この言葉 の由来するフランス語の動詞 surveillier(訳注:監視する、見張る、見守 る、監督する、気を配る、注意するなどの意)も両義的なので、私はすべ ての監視は両義的だと思います。 先ほど言及した福祉国家について、少し思いおこしてください。福祉国 家では、その社会のメンバーの誰もが除外されてはならないし、貧困、病
気、失業しているからという理由で端に追いやられてはなりません。その ような実効的な福祉国家を創造するため、システムは個人的データの収集 と処理に依拠しています。──最も弱い人が必要とするベネフィットを確 実に受けられるように。そのような状況で監視が必要となります。社会の 中で最も弱いメンバーを保護するシステムに誰が異論を唱えるでしょう か。 私の言っていることがご理解いただけるでしょうか。監視は常に両義的 です。フランス語における両義性の中には、誰かをケアするための「見守 り watching over」──例えば子どもを見ている時──と、誰かが何かをし たとかしなかったとかをチェックするための「見張り watching over」と があります。会社の経営者は、私が決まったペースで働き、やるべきこと をやっているかチェックするために「見張り」をする人です。これはコン トロールや管理のための監視ということです。一方、前者はケアのための 監視です。 したがって、そこには常に両義性がともないますし、よく論じられてい るように、監視を単に現代社会のネガティブな特徴として論じるのは危険 だと思います。 だからといって、今日の監視の中に大きな危機がないという意味ではな く、特に「9. 11」以降、監視は現代社会が直面している危機的な問題で す。──なぜなら、振り子がふれたのです。ケアのための監視からコント ロールのための監視へと大きく振り子がふれたのです。以上が、監視につ いての一つの理解の仕方です。 先ほど、監視が犯罪や乱用の場面よりも日常で行われるということにつ いて述べました。日常において行われる監視は、人々を異なったカテゴリ ーに分類したり、分類したそれぞれの集団に異なった対処や結果をもたら したりすることを意図しています。例えば保険はその明らかな例です。
つまり、それは未来志向型なのです。過去の記録よりも、未来に何が起 こるかということと関係しています。人々が実際に言ったことや彼ら自身 の物語よりも、抽象的なデータに基づいているのです。そして、次第に脅 威の実現を予防していきます。それは、柔軟で流動的な管理のツールで す。 結論を述べましょう。「対テロ戦争」は、私たちが今日議論をしたコン テクストに大きく関わってきますが、しかし敵はいないのです。「テロリ ズム」とは何でしょうか。「テロリスト」とは何でしょうか。「対テロ戦 争」を宣言することは、大工仕事やヨガに戦いを宣告するようなもので す。つまり、それは戦術であり、技術です。運動でも物でもありません。 そして終わりがありません。いわゆる「テロリストの脅威」は終わった と、いつか誰かが言うことができるでしょうか。 私が述べたリスクと恐怖というのは、共生的ならせん状のものです。そ こにはメタファが含められていますが、みなさんはその意味がお分かりだ と思います。つまり、常にらせん状になって上にむかって動いており、恐 怖、リスク、恐怖、リスクというように、一緒になってどんどん大きくな っていくものです。これが、私が主張してきたことです。 私はまた、監視することはセキュリティ問題の解決にはならないことも 主張してきました。部分的な解決には寄与するかもしれませんが。──誤 解してほしくないのですが、私はそれを否定するつもりはまったくありま せん。ただ、監視がセキュリティ問題を解決するわけではなく、決してで きるものではありません。一方、監視は他の問題を生み出す可能性もある わけです。したがって、既に存在しているリスクを軽減しようとすること によって生まれる他のリスクをあらかじめ認識し、考えることなしに、誰 も監視とセキュリティのシステムを確実に作ることはできません。そうす
ることは反社会的であり、21 世紀の民主的な統治の基本認識を一部否定 することだと私は考えています。 つまり、私が言いたいことは、リスクに対応しセキュリティを確保する ために作った技術的システムをチェックしなければならないということで す。これが、私が主張してきたことの一つです。 さらに一歩すすんで、私たちはこのシステムをそ!も!そ!も!必要としている のかどうかを時々問うことも必要です。──こちらの問いの方がより根本 的な問題だと思います。もし私たちが問うとするならば、こう言えるでし ょう。「例えば、中東の国々の一部の人々から発しているテロリズム、不 満、暴力の源を理解しようとするなど、私たちが展開させるべき他の優先 事項はないだろうか?」。そしてまた「9. 11 以降、技術的に世界中の豊か な国々の市民を守るために要塞が作られてきたが、その一方で、テロの源 を理解するためいったいどれほどの努力がなされてきただろうか?」。 冒頭で、カナダのソングライターの「フツーの中のヤバさが、ますます ヤバくなるばかりさ」という言葉を紹介することから始めました。明らか に危険なのです。つまり、もし新しいセキュリティと監視のシステムをす べて「普通」のこととして受け入れてしまったら、事態は必ず悪くなり、 「普通」のままでいられようはずがないということは念頭に置いておきま しょう。また、監視技術と矛盾をはらんだセキュリティに取り憑かれるよ り、代替案をあげる方法があるだろうということも、私が冒頭に示唆しま した。 私がはじめにお話ししたミルズだったら、代替案について考えることを 望んだことでしょう。ここではそれについて詳しくお話ししませんが、今 日のシンポジウムの機会を私たちに与えてくれたこの研究プロジェクトの 核心である、人類の幸福の探究というフレームワークと大きく関わってく
ることです。 私が今までお話ししてきた状況とは正反対の概念を考えてこそ、もう一 つの道が開けてくるきっかけとなるでしょう。リスクは、信頼や相互の信 頼がなければほとんど意味をもちません。恐怖が起きるのは、ケアや愛が ない時です。安全やセキュリティは、自由、公正、人類の繁栄の手段なく しては、ほとんど意味をもちません。要するに本当に大事なことは、これ らの手がかりが指し示していることです。 「ありがとうございます」(日本語)。