〇
世
紀
の
仮
名
の
書
体
ひらがなを中心として
eji Kana in the Ninth to T
enth Centuries : A Stud
y with F ocus on Hir agana 、 ︹築島 c︺、次第に九世紀の ﹁草仮名﹂ 。そして二〇〇二年には富山県射水市 1 。 このように平安時代の草体仮名に関する資料が増大し、様々な言及が なされる一方で、仮名それ自体の概念が充分に深められず、論者によっ て﹁草仮名﹂ ﹁平仮名﹂など関連用語の理解・使用が様々であることが、 研究進展の上での障害となっている。そこで本稿では、それらの仮名に 関わる用語に主として同時代史料に基づいて検討を加え、平安前期仮名 資料の書体の整理を試みたい。 一 漢字と仮名 ・ ひらがな まず、 ﹁仮名﹂ の定義について確認しておくことにする。 ﹁仮名﹂ 字﹂とも記され、 ﹁真名﹂ ﹁真字﹂に対する語である。一般には真名は漢 字であると解されることが多く、したがって、仮名とは真名=漢字に対 する﹁仮﹂の文字であると説明されている ︹たとえば森岡二頁、石川一八 頁︺ 。これは仮名を漢字と並ぶ文字種と理解したものと言えよう に花山院長親とされる ﹃倭片仮字反切義解﹄ 序に ﹁真字対 二 仮字 仮字対 二 真字 一 権也 、﹂と見えており 、古代にも真名と仮名を対比的に使
用している事例を見出せる ︹枕草子九九段等︺ から 、当然のことのよう に思える。 しかし仮名と真名の関係についてはもう一つ別の捉え方がある 。﹃倭 片仮字反切義解﹄ 序には ﹁都不 レ 過 下 於以 レ 義為 二 真字 一、 音 為 中 仮字 上 而已、 ﹂ とも記されているが、これは、仮名の﹁仮﹂は一音表記のために漢字の 音︵訓︶を﹁仮﹂りたことに由来する文字と解する考え方である 2 。この 考え方は必ずしも特異な説ではなく、大矢透氏が﹁仮名とは我が国固有 の言語を記すに、漢字の音訓を其の意義に拘わらずに仮借せるものにし て、字音のそのまゝ用ゐらるゝ文字、若くは音尾を省きて用ゐらるゝ文 字、又は一音の訓を有する文字を選び、すべて一の漢字を我が単音に当 てたるものなり。 ﹂と述べている ︹大矢一頁︺ ように、 機能によって区分 するものである。 前者の立場をとれば 、いわゆる万葉仮名 3 は仮名ではないことになり 、 後者の立場をとれば、漢字と真名とは別であって万葉仮名も仮名に含ま れるということになる。万葉仮名を仮名から切り離し、漢字として捉え るという前者の視点では 、﹁仮名﹂であるかどうかを外見の書体や字 体 4 だけで判断するということになる 5 。それが、これまでの﹁仮名﹂研究の 曖昧さを生み出してきたのではないか。そこで本稿では後者の立場をと ることにしたい。まずは機能分類として仮名を捉えることにより、仮名 と真名の相違点を明確にすることができよう 6 。 こうして仮名は、 漢字の字体をそのまま使用する万葉仮名に始まって、 それを省画化したり草体化したりすることが進められた。省画化は主に 片仮名 7 へ発展していくもので、近年ではその源流が朝鮮半島に求められ ることが指摘されている ︹小林 a b c等 8 ︺ 。それに対し草体化が主にひら がな 9 を生み出した流れということになる 10 。真名が省画化されることもあ り、また草体はそもそも漢字の一書体でもあったが、万葉仮名の省画化 や草体化が進むことによって、漢字本来の音や字義から離れ、表意性が 払拭されることになった ︹犬飼 a、川端 、澤﨑参照︺ 。したがって省画仮 名の問題はひとまず措くとしても、万葉仮名と草体仮名との境界は、ま ずはそれを読む側が表意性を感じるか否か︵最初に漢字と認識するか否 か︶というところに置かれるべきである。草体化︵くずし︶の度合いに 線引きをすることは難しい。また、書かれた当時にそれを目にした人々 の感覚と現代の人間の感覚との間に、ずれが生じる可能性があり、そも そも個々人によって異なってもいるであろう。そうした問題点は残るも のの、それでも従来よりは判断基準をより明確にすることができるので はないか。 次に問題となるのは、草体仮名とひらがなとの関係である。従来、あ る文字をひらがなと見做すか否かという問題については、文字を続けて 記す連綿体であるか否かが判断材料として重視される傾向にあった ︹た とえば森岡一九二 ・ 一九四頁等︺ 。しかしそれは連綿体をひらがなの完成形 態と見る視点に縛られたものと言えるであろう。かといって草体仮名自 体は朝鮮半島にも見出すことが可能であり ︵註 ︵ 10︶参照︶ 、草体仮名= ひらがなとしたのでは、日本における文字文化発展の独自性が不明瞭に なってしまう。とすれば、草体仮名を補助的にではなく中心的に用いる ようになった段階をもってひらがなの成立と見るのが良いのではない か。ちなみに仮名が補助的に使用される場合にはその仮名がかなりくず れていても文脈からその音を推測することが可能であるが、続けて記さ れる場合には文字そのものから判断せざるを得ないために、ひらがなが 字種として確立する以前においてはくずしがゆるくなるのではないかと 推測される。その点からも、部分的な草体化ではなく文章全体での草体 化をもってひらがなの成立とすることは妥当であろう。 ただ、ひらがなの成立後には上述したこととは別の動きも生じた。伝 小野道風筆 ﹃秋萩帖﹄ ︵一〇世紀︶は一般に ﹁草仮名 11 ﹂の代表例として 挙げられる資料︵図 1︶であるが、早く築島裕氏が同資料における複雑
図 1 秋萩帖第 1 紙(画像提供:東京国立博物館) 図 2 続修正倉院古文書別集 48 第 11 紙 複製 な字画の多用が平安中期以降の仮名書道の産物と考えられることを指摘 され ︹築島 a三九五頁︺ 、さらに矢田勉氏が、ひらがなの完成以後により 装飾的な書記を実現するため、文字のバリエーションを増やすことを試 み、仮名字体を完全には漢字字母から乖離させず、還元可能なところま でで草体化を止めておくという方法がとられた仮名であることを明らか にされている ︹矢田九五∼九六頁︺ 。この ﹃秋萩帖﹄の仮名は 、表意性が 感じられるとしても、それ以前の万葉仮名・草体仮名とは区別すべきで ある。 以上の点に留意して八∼九世紀の仮名資料を見ると、八世紀には万葉 仮名で記された正倉院文書続修別集四八中の八世紀の万葉仮名文書︵図 2︶や木簡などがあるが、それらは基本的にはもとの漢字の字形を残し た形で記されており、万葉仮名と判断して問題はない。
次に九世紀中葉の仮名資料を見ると、貞観九年︵八六七︶の讃岐国司 解に添えて記された藤原有年の端書 ︵円珍関係文書の内︶ ︵図 3︶は部 分的に仮名のみで記された箇所も存在するが、全体としては真名と仮名 を混用しており、またもとの漢字の字形の推測が容易な箇所が大部分で ある。そうした点からは、草体仮名ではあるが、まだひらがなと見做す 段階には至っていないと言えるであろう。 これに対し 、ほぼ同時期と見られる多賀城跡出土仮名漆紙文書 ︵図 4︶︹築島 c︺ は判読しづらい箇所が多いが 、若干真名が混じるものの 、 有年端書に比較して全体的に草体化の度合が進んでいるように見受けら れる。有年端書よりも草体化がさらに進んだ段階と言える。内容は書状 と考えられる ︹築島 c︺。次にやはり同時期の藤原良相の西三条第跡か ら出土した仮名墨書土器 ︵図 5︶︹京都市埋蔵文化財研究所︺ においては さらに全面的な草体化が指摘でき、また仮名ばかりで記されているもの が多く見られるところから、そこに記されているのはひらがなと考える べきであろう 。この仮名墨書土器については鈴木景二氏の検討があり 、 西三条第跡出土仮名墨書土器の中での書風 ・字体の多様性があること 、 そして有年端書とほぼ同時期に﹁流麗な連綿体の平仮名に近い書風が併 存していた﹂可能性が指摘されている ︹鈴木 c一八九頁︺ 。確かにそれら の仮名墨書土器には放ち書き︵文字を連続させないで一字一字離して書 く書き方︶で書かれたものから連綿体で書かれたもの︵墨六六︶まで大 きく書体の異なるものが含まれている。西三条第跡出土の仮名墨書土器 についてはその書かれた内容が必ずしも明確でなく、習書ではないかと 見られるものが大部分である 12 が、九世紀後半の射水市赤田 Ⅰ 遺跡より出 土した仮名墨書土器には難波津の歌の冒頭部分かとみられる文字が習書 図 4 多賀城跡出土仮名漆紙文書(築島 c 論考より転載) 図 3 藤原有年端書(画像提供:東京国立博物館)
され ︵図 6︶、大隅国府と推定される霧島市気色の杜遺跡からは和歌と 見られるひらがなを一部連綿体で内面に墨書した一〇世紀中頃の土師器 坏が出土し、国府における饗宴の場において寿ぎの和歌が詠まれたこと が指摘されている ︹鈴木 a b︺。 土器に和歌を書いたことは ﹃万葉集﹄ や﹃う つほ物語﹄ ﹃伊勢物語﹄などからも知られている ︹藤岡 、鈴木 a b︺ が、 私的な書状の他に和歌の贈答にも早くからひらがなが用いられたと推測 される。 そしてそのような九世紀中葉段階における仮名書体の多様性は、ひら がなが連綿性の獲得に進化していったというような発想にとらわれなけ れば、ごく自然に理解できるであろう。すなわち成立当初もしくは成立 後まもなくの段階において、既にひらがなは様々な書体を持っていたと 考えるべきである 。連綿体であるか否かは書風 ・書体の問題であって 、 ひらがなの本質とは言えないであろう 。中国唐代には狂草体が生まれ 、 漢字を連綿に記すことが行なわれており、空海の書に連綿が見られるこ とも指摘されている ︹天石、宮本など︺ 。したがってひらがなの成立後そ れほど間を置かずに連綿体が生まれたとしても不思議ではないであろ う。 ここで仏教経典の訓点として用いられた仮名について付言しておきた い。先述したように、近年、八世紀の新羅伝来経に角筆で新羅語による 省画仮名・草体仮名が書き込まれていることが判明したが、この仮名字 体と﹃成実論﹄天長五年︵八二八︶点などの平安初期に東大寺関係僧が 白点に使用した仮名字体の体系に共通するものが多いことが指摘されて いる ︹小林 b c︺。そしてそれらの仮名字体のなかには ﹁ち﹂ ﹁ぬ﹂ ﹁ゐ﹂ など現在のひらがなと同じ字体のものが見えてもいる ︵図 7︶ 。であれば、 ひらがな成立の前段階としては、訓点に使用された略体仮名の存在も無 視はできない。ただし訓点は﹁漢文の行間に国語の助詞・助動詞・活用 言の語尾を送つたり、文字の音訓を施したりするのであつて、字形のな るべく小なることを要し、かつ多くは講義を聴きつゝ記入するものであ るから、 字画の簡易なることを要する﹂ ︹春日八〇∼八一頁︺ ものであり、 さらに読み取りやすさが求められるものでもあった。これらの点で私的 な書状に用いられたり和歌を記すものとして登場したひらがなとは大き な相違点がある。ひらがなは訓点仮名では充分に果たせない機能を持つ 字体として成立したのであり、それによって、訓点仮名はその特性を純 化させて片仮名へと進んでいったのであろう。 図 6 赤田Ⅰ遺跡出土仮名墨書土器 (射水市パンフレットより転載) 図 7 九世紀前期の訓点に見える ひらがな類似字体 (築島b書より抜粋) コ 成実論天長五年点 チ 成実論天長五年点 ヌ 成実論天長五年点 レ 妙法蓮華経方便品天長五年頃点 ヰ 成実論天長五年点 ヱ 成実論天長五年点
二 一〇世紀の仮名の諸形態 ︵一︶ ﹃宇津保物語﹄ 国譲上の記述 前節で見たようにひらがなが誕生したのは九世紀のことと考えられる が、それはどのような書体を持ち、どのように展開していったのか、残 念ながら、同時代的にひらがなについて語られた資料は今のところ出現 していない 。そこでまずは一〇世紀後半の成立とされる ﹃宇津保物語﹄ 国譲上における記述を掲げ検討してみることとする。同史料は古写本が なく諸本に誤写・脱落・錯簡が多いことで知られているが、本稿では新 編日本古典文学全集を参照しつつ最善本とされる尊経閣文庫本を底本と した宇津保物語研究会翻刻︵古典文庫本覆刻︶によることとする。 かゝるほどに 、﹁右大将どのより﹂とて 、て本四くわん 、いろ〳 〵 のしきしにかきて 、花のえだにつけて 、そんわうのきみのもとに 、 御文してあり、 身づからもてまいるべきを、 おほせごと侍し宮の御てほん、 もて まいるとてなん、 これは、 わか宮の御れうにとての給はせしかば、 ならはせ給ひつべくも侍らねど、 めし侍りしかばなんいそぎまい らする、ときこえさせ給へ、さて御わたくしには、なにのほ 本 か御 えうある、こゝには、よのためしになん、 とてたてまつれ給へり、御ぜんにもてまいりたり、み給へば、きば みたるしきしにかきて、 やまぶきにつけたるは、 し 真 のひ 衍 て、 はるのし、 あをきしきしにかきて、松につけたるはさうにてなつのし、あかき しきしにかきて、うのはなにつけたるはかな、はじめにはおとこに てもあらず、をんなにてもあらず、あめつちぞ、そのつぎにをとこ で、 はなちがきにかきて、 おなじもじをさま〴〵にかへき 衍 てかけり、 わがゝきて はるにつたふる みづせき も すみかはりてや み えんとすらん 女でにて、 まだしらぬ もみぢとまどふ う と ふうし ちどりのあとも まらざりけり さしつぎに、 とぶとりに あとあるものと しらすれば 雲ぢはふかく かよひけん つぎにかたかな、 いにしへも いまゆくさきも みち〳〵に 思ひ 心ある なよきみ あしで、 そこきよく すむともみえで 行水の 袖にもめにも たえずも ある哉 と、いとおほきにかきて、ひとまきにしたり、 藤壺︵あて宮︶より若宮︵東宮と藤壺との間に生まれた王子︶のため の書の手本を所望された仲忠 ︵右大将︶ は、 手本四巻を色々の色紙に書き、 花の枝につけて贈る。それは﹁し︵真︶のて︵手︶ ﹂﹁さう︵草︶ ﹂﹁かな ︵仮名︶ ﹂で記されたものであったという。四巻とありながら、三種しか 記されていない 13 が、その三種について整理すると、次のようになる。 色 紙 つけた枝 書 体 内 容 黄ばみたる色紙 山吹 し ︵真︶ のて ︵手︶ 春の詩 青き色紙 松 さう︵草︶ 夏の詩 赤き色紙 卯の花 かな︵仮名︶ ︵和歌など︶ 対応から考えれば、三番目が﹁仮名﹂であること、かつ詩が記された という点から考えて、一番目の﹁真の手﹂と二番目の﹁草﹂は真名とい うことになり、 ﹁真の手﹂ が ︵真名の︶ 楷書体もしくは行書体、 ﹁草﹂
名の︶草書体と見做せるであろう。なお﹁真の手﹂の﹁手﹂とは字の書 き方や書風 ・ 筆跡の意であり、ここでは書体を指していると考えられる。 そして赤い色紙に記された仮名についてはさらに様々な書体で記され た。これについて言及した先行研究は、伴信友﹃仮字本末﹄以来、数多 く存するが 、充分な論拠を示さずに論じたものが少なくないため 、本 稿では通説として新編日本古典文学全集本の現代語訳、また当該史料を 深く読み込んだ原田芳起氏および山田健三氏の説 ︹原田 、山田健三 a d︺ を中心に検討を加え、その他の諸説は必要に応じて言及することにとど めておくことをお断りしておく。 初めが① ﹁男にてもあらず、 女にてもあらず﹂ という書体で ﹁あめつち﹂ を、 次が②﹁男手、 放ち書き﹂にて﹁同じ文字をさまざまに変へて﹂ ﹁わ がかきて春に伝ふる水茎もすみかはりてや見えんとすらん﹂ という歌を、 三番目が③ ﹁女手にて﹂ ﹁まだ知らぬ紅葉とまどふう とふうし千鳥の跡 もとまらざりけり﹂という歌を 、四番目が④ ﹁さしつぎに﹂ ﹁飛ぶ鳥に 跡あるものと知らすれば雲路は深くふみ通ひけむ﹂という歌を、五番目 が⑤﹁片仮名﹂にて﹁いにしへもいま行くさきも道々に思ふ心あり忘る なよ君﹂という歌を、六番目が⑥﹁葦手﹂で﹁底清くすむとも見えで行 く水の袖にも目にも絶えずもあるかな﹂という歌を、順に大きく書いて 一巻としたという。 ⑤片仮名は現在と同じようにその大部分が漢字の字形の一部分を用い た省画の仮名書体であり ︵なお註 ︵ 7︶も参照︶ 、⑥葦手は文字を一部葦 などの絵に似せて絵画化して記したものである 。﹃延喜廿一年京極御息 所褒子歌合﹄十巻本に﹁青鈍の裾濃の裳に雌黄して葦手かけり﹂と見え る ︹平安朝歌合大成新訂増補版一︱二二七頁︺ のが史料上の初見で 、書体 として用いられたのが明確な事例としては、天禄四年︵九七三︶の﹃天 禄四年円融院 ・資子内親王乱碁歌合﹄に ﹁七月七日 、 ︵○中略︶ さまざま に蒔絵したる蓋に書きたる葦手の歌﹂と見える ︹平安朝歌合大成新訂増 補版一︱五五〇頁︺ ことが指摘されている 。歌の内容より推して 、おそ らくは水辺に葦手が描かれたものであったろう︵葦手の例は図 8参照︶ 。 ④﹁さしつぎに﹂は、 ﹁連綿体のことか﹂とする解釈もある ︹新編日本古 典文学全集等︺ が、 ﹁さしつぎ﹂は﹁そのすぐ次に続くもの。また、次の 位置 。﹂といった意味である ︹小学館日本国語大辞典︺ から 、③と同じ女 手で続けて 、といった意味 ︹古典文学大系等︺ に解すべきであると考え られる 14 。 次に① ﹁男にてもあらず 、女にてもあらず﹂ 、② ﹁男手﹂ 、③ ﹁女手﹂ についての検討に移りたい。①は﹁男手﹂でも﹁女手﹂でもない仮名の 書体であり、仮名の書体の中で一番最初に記されていること︵それは仮 名における最初の手本であることを意味する︶ 、その内容が﹁あめつち﹂ すなわち﹁あめつちの詞﹂ ︵﹁あめつち﹂で始まる仮名の字母表︶であっ た 15 という点から考えれば 、初心者向けのごくありふれた書体で記した と考えられる 。山田健三氏は 、﹁論理的には 、男手 ・女手 ・ Xを鼎立さ 図 8 葦手の例(本館蔵 H-743-361『あしで考』より)
せた内の一つの頂点 Xと見るか、男手と女手を二項対立させた上で、両 者を連続しているそれぞれの極として理解した時の、そのスケール上の 中間点を Xとするか 、そのどちらかである﹂が 、﹁ Xが三項対立点の一 つであるとしたら、 ﹁男手にもあらず、女手にもあらず﹂というように、 そこに特別な呼称がないことに極めて不自然さが残る。よって、これは 第二の解釈を採るべきである﹂とされている ︹山田健三 a四八一頁︺ が、 それに従うべきであろう 16 。 その次には②﹁男手、放ち書き﹂と③﹁女手﹂によって書かれた。男 手・女手については近年刊行された古語辞典である﹃古語大鑑﹄におい ても男手が﹁男文字、即ち漢字﹂であり、女手が﹁漢字︵男手︶に対し て平仮名の称 。女文字 。﹂と説明される ︹築島 d︺ など過去の研究成果 が一般に広く共有されるにいたっていないが、男手・女手ともに仮名の 一書体であることは、今、検討している国譲上の記述から明らかである ︹原田二〇二頁、 山田健三 a四八七頁︺ 。男手と ﹁放ち書き﹂ の関係について、 国譲上がわざわざ﹁放ち書き﹂と断っているのは﹁多少字と字との間で 筆を続けた草がなの書風も男手と呼んでいた﹂ ︹原田二〇一頁︺ からであ る可能性もあるが、放ち書きという男手の特性を強調して述べた可能性 も考えられる。ここでは取り敢えず男手には放ち書きで書かれたものが あったことを確認しておきたい。なお、続いて﹁同じ文字をさまざまに 変へて﹂書いたと記されることについて、これは男手だけでなく、以下 に記される女手や片仮名・葦手を含んで﹁さまざま﹂と記した挿入的表 現であるとの解釈も提出されている ︹山田健三 a四八六∼四八七頁︺ が、 文の乱れを想定しない限りその解釈にはやはり無理がある。山田健三氏 は、異体仮名利用が通常である時代においてわざわざ多くの異体仮名を 駆使したことに言及するほどの意義を見出せないとされたが、実際には 成立期の草体仮名・ひらがなの字種が限られたものであったことが明ら かにされている ︹春日七九頁 、築島 c三九九頁等︺ 。であれば 、通説通り 男手の歌において多くの異体仮名を駆使したことを意味すると解して問 題はなかろう。 男手の語については、 国譲上の記述の他、 ﹃蜻蛉日記﹄ 上 ︵三四段︶ 手 にかき給へり 、おとこの手 にてこそくるしけれ 、﹂と見出せる は章明親王と兼家との消息のやりとりの中で、章明親王が女手で消息を 送ってきたのに対し、兼家側からは、兼家が自分で消息︵返歌︶を書い たことを強調するため︵あるいは実際は道綱母が書いていたのだが、男 性である兼家が書いたかのように装おうとしたということなのかもしれ ない︶に男手で書いたことを言っているのであろう。返歌として﹃蜻蛉 日記﹄に記されるのは﹁うらがくれ みることかたき あとならば ほひをまたん からきわざかな﹂という和歌である。これを異体仮名を 多用して書いた可能性が考えられる。 このように異体仮名を多用して書かれた資料の実例としては 、これ まで ﹁草仮名﹂の実例とされてきた ︹古谷五三頁 、吉澤 a一九〇頁 八五 ・ 八八頁、 築島 a三九五頁等︺ 伝小野道風筆﹃秋萩帖﹄ ︵一〇世紀︶ 1、前掲︶が思い浮かぶ。先にも述べたが、矢田勉氏は、ひらがな成立 後に文字のバリエーションを増やすことを試みたものとして ﹃秋萩帖﹄ を評価した ︹矢田九六頁︺ 。この﹃秋萩帖﹄の特徴は男手に一致する。男 手の語は﹃宇津保物語﹄と﹃蜻蛉日記﹄に見えるだけで以後は見えなく なる 。一方 、﹃秋萩帖﹄的な仮名書体は 、装飾性ということ以外にひら がなを越える利点がなかったために、すぐにひらがなに包摂され短命に 終わったことが指摘されている ︹矢田九七頁︺ 。だとすれば、男手とはま さに﹃秋萩帖﹄的な書体のことであったのではなかろうか。 最後に残った③ ﹁女手﹂ もまた論者によって概念が異なる語である 本参照︺ 。史料に即して解釈すれば、 この女手は男性︵仲忠︶が男性︵孫 王︶のために書いた仮名の手本であり、また少なくとも放ち書きが含ま れる男手と対極的な書体であることが推測される。とすれば、通説通り
連綿体であることは認めて良いであろう。そしてその使用者は女性に限 られていなかった。 以上 、﹃宇津保物語﹄国譲上に記された仲忠作成の書の手本について 検討を加えてきた 。一つ興味深いことは 、その手本が真名ついで仮名 、 仮名のなかでは ﹁男にてもあらず 、女にてもあらず﹂ 、男手 、女手 、片 仮名、葦手といった順に記されていたことである。このことにどこまで 重きを置いてよいかどうかは難しいが、 しかし男手↓﹁男にてもあらず、 女にてもあらず﹂↓女手という順序ではないことを考えれば、やはり学 習過程を踏まえたものであったのではないかと推測されよう 。﹃堤中納 言物語﹄の虫めづる姫君に﹁かなハまたかき給ハさりけれハ、かたかん なに﹂て和歌を記したと見えることや後世の感覚から 、︵まず片仮名を 学び、 ついで︶ひらがなから学習を始め漢字に進むように思いがちだが、 ひらがなは漢字を踏まえて成立した字体であるから、ひらがな成立当初 の段階では、漢字を学んだ者がひらがなの使用を始めたはずである。ひ らがな・片仮名を最初に学ぶようになるのは、それらが完全に社会に定 着して以後のことであろう。 三 一 〇 世紀 の 仮名の諸形態 ︵二︶ ﹃宇津保物語﹄ 蔵開中と ﹃源氏物語﹄ 本節では﹃宇津保物語﹄国譲上以外の史料を取り上げて検討の幅を広 げてみたい 。﹃宇津保物語﹄蔵開中には仮名に関して次のような記載が 見えている。 ゐの時ばかりよりは、 これ ︵○俊蔭の詩集︶ はしばしとゞめさせ給て、 こからびつあけさせて御らんずれば、からのしきしを、なかよりを しおりて、大のさうしにつくりて。あつさ三寸ばかりにて一にはれ いの女のて、ふたくだりにひとか たかき、一にはさう、くだりおな じごと、一にはかたかんな、ひとつにはあしで。まづれいのてをよ ませ給、 天皇と東宮 、五の宮 ︵東宮の弟︶ 、仲忠の四人で 、仲忠の曾祖母にあ たる俊蔭母︵天皇の父嵯峨院の姉でもある︶の歌集を見るという筋であ るが、その俊蔭母歌集は﹁れい︵例︶の女のて︵手︶ ﹂﹁さう︵草︶ ﹂﹁か たかんな ︵片仮名︶ ﹂﹁あしで ︵葦手︶ ﹂ の四種からなっていたという。 ﹁例 の女の手﹂とは一般的な女手の意であろう か 17 、﹁れい ︵例︶のて ︵手︶ ﹂ とも記されている。この女手と﹁草﹂とは一つの歌を二行で記す形式で 書き表わされていた。蔵開中の冒頭には俊蔭と俊蔭父の詩集を講書する ことも記されているが、そこではそれぞれが﹁そのてにてこ 文字 ぶみにかけ り 、﹂ ﹁さうにかけり 、﹂と形容されており 、前者が自筆の古文 ︵古様の 漢字体を意味するか︶ 、後者が﹁さう︵草︶ ﹂であったと形容される。詩 集であるからこの ﹁草﹂ は真名が草書体で書かれていることを意味する。 すなわち ﹁草﹂ には仮名の草と真名の草とが存在したということになる。 仮名の草と真名の草が同じものであったとは言えないが、少なくとも仮 名の草は女手とは明瞭に区別された書体であり、真名の草に近似する存 在であった可能性が考えられる。 次にやや時代が下るが 、﹃源氏物語﹄梅枝には仮名についての議論が 記されている。 ﹁よろづのこと 、むかしには 劣 りざまに 、浅 くなりゆく世 の末 なれ ど、仮 名のみなん、いまの世 はいと際 なくなりたる、古 き跡 は定 ま れるやうにはあれど、広 き心ゆたかならず、一 筋に通 ひてなんあり ける、妙 におかしきことは、とよりてこそ書 き出 づる人々ありけれ ど、女手 を心に入 れて習 ひし盛 りに、こともなき手 本おほく集 へた りしなかに、中宮の母 御 息所の、心にも入 れず走 り書 い給へりし一 くだりばかり 、わざとならぬを得 て、 際 ことにおぼえしはや 、 ︵○ 中略︶ ﹂とうちさゝめきて聞 こえ給ふ、 ﹁故 入道の宮の御手 は、いと気色深 うなまめきたる筋 はありしかど、 よはき所ありて 、にほひぞ少 なかりし 、院の 内 侍 こそいまの世の
上手 におはすれど、 あまりそぼれて癖 ぞ添 ひためる、 さはありとも、 かの君と、前斎院と、こゝにとこそは書 き給はめ﹂とゆるし聞 こえ 給へば、 ﹁この数 にはまばゆくや﹂と聞 こえ給へば、 ﹁いたうな過 ぐ し給そ、 にこやかなる方のなつかしさはことなるものを、 真 名のすゝ みたるほどに、仮 名 はしどけなき文 字こそまじるめれ﹂とて、まだ 書 かぬ草 子どもつくり加 へて、 表 紙 ・ 紐 などいみしうせさせ給ふ、 ﹁兵 部 ཀ の宮、さへもんの督などにものせん、みづから一 よろひは書 く べし、けしきばみいますがりとも、え書 きならべじや﹂と我ぼめを したまふ、 墨 、筆 ならびなく選 り出 でて 、例 の 、所〳 〵に 、たゞならぬ御 消 息あれば 、人 びと難 きことにおぼして 、かへさひ申給もあれば 、 まめやかに聞 こえ給ふ、高 麗の紙 の薄 様だちたるが、せめてなまめ かしきを、 ﹁このもの好 みする若 き人々心みん﹂とて、宰相の中将、 式部 ཀ の宮の兵衛督、 内 の大 殿の 頭 の中将などに、 ﹁葦 手、 歌 絵を、 思くに書 け﹂との給へば、みな心〳〵にいどむべかめり、 例 の寝 殿に離 れおはしまして書 き給ふ 、花さかり過て 、 浅 緑な る空うらゝかなるに、古 き言 どもなど思 ひすまし給ひて、御心のゆ くかぎり、 草 のもたゞのも女手 も、 いみじう書 き尽 くし給ふ、 御前 に、 人しげからず、女房二三人ばかり、墨 などすらせ給て、ゆへある古 きし 集 うの歌など、いかにぞやなど選 り出 で給ふに、くちおしからぬ かぎりさぶらふ、 ︵○中略︶ ﹁兵部 ཀ の宮渡 り給﹂ と聞こゆれば、 おどろきて御なをしたてまつり、 御 褥 まいり添 へさせ給て、 やがて待 ちとり入 れたてまつり給ふ、 ︵○ 中略︶ やがて御覧ずれば 、すぐれてしもあらぬ御手 を、 た ゞ 片 かどに 、 いといたう筆 澄 み た る け し き あ り て、 書 きなし給へり 、歌 もこと さらめき 、そばめたる古 言どもを選 りて 、たゞ三 くだりばかりに 、 文 字少 なに、好 ましくぞ書 き給へる、 ︵○中略︶ 書 き給へる草 子どもも、隠 し給べきならねば、取 う出 給て、かた みに御覧ず、唐 の紙 のいとすくみたるに、草 書 き給へる、すぐれて みでたしと見 給に、高 麗の紙 の、肌 こまかに和 うなつかしきが、色 などははなやかならでなまめきたるに、おほどかなる女手 の、うる はしう心とゞめて書 き給へる、たとうべき方 なし、見 給ふ人の涙 へ水茎 に流 れ添 ふ心地して、飽 く世 あるまじきに、またこゝの紙 の色 紙の色あひはなやかなるに、乱 れたるさうの歌 を、筆 にまかせ て乱 れ書 き給へる、見 どころ限 りなし、 源氏が、明石姫君の輿入れの料として選ばれた草子を前にして仮名に ついて語り、諸人の筆跡を論評した後、兵部 ཀ 宮や左衛門督らに草子の 執筆を依頼し、 自らも執筆するという場面である。 万事が昔に比べて劣っ ていくなかで仮名だけは今の世の方が優れているとして、かつて女手を 熱心に習っていたときには手本を多く集めたこと、そのなかでも六条御 息所︵中宮の母御息所︶の筆跡が優れていたこと、さらに藤壺宮や朧月 夜、紫の上らの筆跡を褒め、真名が上達しても仮名に整わない文字が混 じるものであることが述べられ、それから兵部 ཀ 宮や左衛門督らに草子 の執筆を依頼し、自らも書くこととする。源氏は古歌など思い起こして 満足のいくまで 、﹁草のもたゞのも女手も﹂書き尽くした 。そこに兵部 ཀ 宮が出来上がった草子を持参してやって来たが、それは変わった古歌 を選んで一首三行に字数少な め 18 に記したものであった。これに対し、源 氏が記した草子は、固い唐紙に﹁草﹂を書いたものや、きめ細かい高麗 紙におっとりした女手を麗しく記したもの、また国産の紙屋紙の色紙に ﹁さうの歌﹂を筆にまかせて書き散らしたものであったりした。 ここでは源氏が書いたという﹁草﹂ ﹁ただ﹂ ﹁女手﹂という三種の書体 が示されている 19 が 、それは ﹁唐の紙のいとすくみたるに﹂書いた や﹁高麗の紙の、肌こまかに和うなつかしき﹂に麗しく書いた﹁おほど
かなる女手﹂ 、﹁こゝの紙屋の色紙﹂に筆にまかせて乱れ書いた﹁さうの 歌﹂でもあった 20 。共に三種であるからといって単純に一対一対応するか どうかは断言できないものの、まず両者に見える﹁女手﹂は同じと見做 して問題なかろう。 ﹁おほどかなる ︵おっとりしている、 おおらかである︶ ﹂ とあるところからも連綿体と考えられる。次に﹁唐の紙のいとすくみた るに ︵こわばっているものに︶ ﹂書かれた ﹁草﹂であるが 、これはそも そもが明石姫君に贈られる草子であり、物語の展開も仮名の話として進 められているので、仮名の一書体と考えられる 21 。それは固い唐紙に記す にふさわしい書体であったのだから、女手と対極的な位置にある書体で あったと見られる。 ﹃源氏物語﹄ 常夏では ﹁いと草 がちに、 いかれる手 の、 その筋 とも見 えず 漂 ひたる書 きざま﹂という表現が見える 。近江君の 筆跡が流麗なものでなかったことを表わしているのであるが、ここでは 草が女手と対立的なものとして描かれている。 男手の書体が消えた後は、 草がその代わりを果たすこととなったのであろう。以上のことを考え合 わせれば、草とは、草体ではあるといっても連綿性の弱い書体でなけれ ばならない。残念ながら、 ﹁草﹂ ﹁ただ﹂が現存する遺例の中に存在する のか、またどこまでが女手なのかを見極めるのは現状では難しく、今後 の課題としたい。 むすび 平安中期までの資料を中心に、ひらがな成立期の仮名書体について検 討を加えてきた。従来の研究は必ずしも史料上の用語と概念上の用語と が充分に区別せずに論じられる傾向にあり、また連綿体をひらがなの完 成形態ととらえる観点に立ち、万葉仮名から﹁草仮名﹂を経て女手に至 るものとして語られてきた。しかし実際には九世紀中葉段階で早くも連 綿体が確認されることからすれば、連綿体はひらがな誕生後、それほど 間を置かずに生まれた可能性が高い。一方、一〇世紀段階で﹁男にもあ らず、女にてもあらず﹂と表現された書体は、仮名の最初の手習いの手 本とされた書体でもあったから、初心者向けの仮名の書体であったと言 えよう。そしてそれは﹃源氏物語﹄梅枝において﹁ただ﹂と表現されて いる書体でもあったと推測される。一〇世紀段階では、続いて男手・女 手の学習が行なわれた。男手は﹃秋萩帖﹄のような異体仮名を多用した 草体の書体であったと見られるが 、まもなく衰え 、一一世紀の段階で は草と呼ばれる書体がそれに代わるようになった。なおひらがなの成立 後、省画を主体とする片仮名もその形を整えていく。ひらがなは、基本 的に個人間のやりとりに用いられるものとして生まれ 22 、受け取った側が 筆者を特定できるまでに書体や書風までも含めて様々な個人の情報や心 情を込めることが可能な伝達手段として発達した 23 。それが成立後まもな く様々な書体が発達したことの理由でもあろう。そこにおいては必ずし も伝達の正確性は重視されない。これに対し、片仮名は文字情報そのも のの正確な伝達という点に主眼が置かれ 24 、発達していくことになったの である。 ︵ 1︶ 二〇一三年六月二七日発表。なお、九世紀後半から一〇世紀にかけての仮名資 料については鈴木 a b c論文で整理紹介されている。 ︵ 2︶ 与謝野寛氏は ﹁漢字の音を仮用して国語の音を写す文字を総称して ﹁カナ﹂ ︵仮 名︶ と云ふ。 ﹂﹁漢字を仮用したる文字の義である﹂ とする ︹与謝野一三九頁︺ 。 なお、 ﹃続日本後紀﹄嘉祥二年︵八四九︶三月庚辰条には﹁此国 乃 本詞 尓 逐倚 天 、唐 乃 詞 乎 不 レ 仮 良須 書記 須 、﹂ という表現が見える。そこでは語そのものを ﹁仮りる﹂ と言っ ているので意味が異なるが、参考にすることができよう。 ︵ 3︶ ﹁万葉仮名﹂という学術用語の成立に問題があることは山田健三 c論考で論じ られているが 、現在 、一般的に使用されている ﹁万葉集に用いられている仮名﹂ との理解で混乱は生じないため、本稿ではこの語を使用することとする。 ︵ 4︶ 書体・字体については、二〇〇〇年一二月答申の第二二期国語審議会表外漢字 字体表 Ⅰ 前文三 ︵ 1︶ で示されている ﹁字体については 、常用漢字表に示されて いる ﹁字体は文字の骨組みである﹂ という考え方を踏襲する。文字の骨組みとは、 註
︵ 9︶ ﹁平仮名﹂の語は連綿体で記された場合に限って使用するなど論者によってそ の定義が異なる。しかも ﹁平仮名﹂ の語が出現するのは一四七〇年頃であり 内︺ 、古代での使用例は確認されていないため 、古代に ﹁平仮名﹂の語を使用す べきではないという見解もある ︹名児耶等︺ 。名児耶明氏は 、あくまでも 名﹂は 、現在使用している四十八文字に限定して使用すべきで 、﹁草仮名﹂をさ らに簡略化した ﹁仮名﹂ いわゆる ﹁変体仮名﹂ を含むときを狭義の ﹁仮名﹂ べきだとされる ︹名児耶三八頁︺が 、﹁狭義の ﹁仮名﹂ ﹂という語の使用は煩雑 となる恐れがある ︵﹁草仮名﹂については註 ︵ 11︶ 参 照︶ので 、本稿では 、近世以 降現代にいたるまで一般的に使用されている、 連綿体に限定されない意味で﹁ひ らがな﹂と表記して使用することとする。 ︵ 10︶ 新羅で記された角筆による訓には省画のみならず草書で記されたものもあり ︹小林 a九四∼九五 ・ 九七頁等︺ 、草体仮名そのものが日本で発明されたというわ けではない。 ︵ 11︶ ﹁草仮名﹂も論者によって概念が異なる学術用語である︹鈴木 c参照︺ 。史料上 の語としては 、平安期には ﹃宇津保物語﹄ ﹃枕草子﹄ ﹃栄花物語﹄に一例ずつ見 えるのみであり 、そこから具体的姿をうかがうことが難しいため 、本稿では検 討の対象外とし、 学術用語として﹁草仮名﹂の語の使用を避けた。史料上の﹁草 仮名﹂については取り敢えず山田健三 b論考参照。 ︵ 12︶ 墨一五の ﹁かつらきへ﹂ については、 催馬楽の一句と見る説がある ︹鈴木 常住の名などと考える説などもある︹乾︺ 。 ︵ 13︶ 行書の手本の脱落を推測する説︹吉澤 b四一頁︺もある。 ︵ 14︶ 山田健三氏は、 ﹁女手をさしつぎで﹂という意味であり、 ﹁﹁さしつぎ﹂とは﹁書 きさし﹂などの ﹁さし﹂ 、差声などの ﹁さす﹂であり 、連綿の連続性に対して 差しては継ぎ 、差しては継ぎ 、ということで 、ポツポツと断続的に書くという 様子であろう﹂と解釈する ︹山田健三 a四九二頁︺ 。その背景には 、女手による 和歌と ﹁さしつぎ﹂ による和歌とが対比的な内容であることがあるようであるが、 ﹁さしつぎ﹂そのものの一般的な意味によって解釈すれば 、対になる和歌である ことも問題なく解釈できると考える。 ︵ 15︶ なお、 ﹃千字文﹄も﹁天地玄黄﹂で始まることから、 ﹁あめつち﹂とは漢字学習 書である ﹃千字文﹄ を指す可能性も考えられなくはないが、 ここではその前に な﹂であることが明記されているので、その可能性は除外してよいであろう。 ︵ 16︶ た だし山田健三氏は ﹁男手﹂ ﹁女手﹂を書体と正しく認識する ︹山田健三 四八二頁︺一方で 、文字概念であるとも述べられ ︹山田健三 a四八三頁︺ から四八文字からなる ﹁﹁あめつち﹂を記すに相応しい仮名セット 、もしくは仮 名書体の存在﹂が確認されるとしており ︹山田健三 a四八六頁︺ 、記述に混乱が 見られる。私見では、 ﹁男手﹂ ﹁女手﹂は文字種 ・ 文字概念ではなく書体と考える。 ある文字をある文字たらしめている点画の抽象的な構成の在り方のことで、 他の 文字との弁別にかかわるものである 。字体は抽象的な形態上の観念であるから 、 これを可視的に示そうとすれば 、一定のスタイルを持つ具体的な文字として出 現させる必要がある 。この字体の具体化に際し 、視覚的な特徴となって現れる 一定のスタイルの体系が書体である。 例えば、 書体の一つである明朝体の場合は、 縦画を太く横画を細くして横画の終筆部にウロコという三角形の装飾を付けた スタイルで統一されている。すなわち、 現実の文字は、 例外なく、 骨組みとして の字体を具体的に出現 させた書体として存在しているものである 。書体には 、 印刷文字で言えば、 明朝体、 ゴシック体、 正楷書体、 教科書体等がある。 ﹂に従う。 ︵ 5︶ ただし山田俊雄氏が文字を﹁素材としての文字﹂と﹁用法における文字﹂との 二面からとらえることを提言し 、池上禎造氏が ﹁材料としての﹂文字と ﹁用法 として見た﹂文字を区別されたこと ︹山田俊雄 、池上︺を参照して 、犬飼隆氏 が 、万葉仮名が ﹁用法上 、日本語をあらわす表音文字として用いられながらも 、 system の上では漢字に所属し 、表語文字としての性質を失っていないという特 殊な存在である﹂ことを指摘されておられる︹犬飼 b一五∼一六頁︺ように、 万 葉仮名が ﹁仮名﹂以外の用法を持つことも事実であり 、この点にも留意してお きたい。 ︵ 6︶ 山田健三氏は﹁万葉仮名﹂という用語に検討を加え、視覚的な漢字と機能的な 漢字を区別し 、﹁ ﹁万葉集は漢字で書かれている﹂という言説は 、歴史主義に立 つ限り誤り﹂とされる ︹山田健三 c二九頁 。山田健三 d五四∼五五頁も参照︺ 。 その趣旨は理解できるが 、かえって混乱を招くのではないか 。機能的な ﹁漢字﹂ については﹁真名﹂の語を用いた方が良いと思う。 ︵ 7︶ ﹃倭片仮字反切義解﹄に﹁省 二 偏旁点画 一 作 二 片仮字 一 ﹂と見え、また全長﹃伊呂 波字考録﹄ 上に ﹁片仮字とは全字に音をかり其字の片傍を略書する故に片仮字と 云﹂とある ︹全長九頁︺ 。﹁ 片﹂は不完全という意味であって 、﹁ 不正確に書かれ た平仮名﹂も指し得たという説もある ︹坪井 a六九頁︺が 、﹃宇津保物語﹄国譲 上において ﹁片仮名﹂ が一書体として挙げられていることから考えても従えない。 なお 、﹃ 堤中納言物語﹄虫めづる姫君に ﹁かなハまたかき給ハさりけれハ 、かた かんなに﹂ と見えるように、 片仮名とそれ以外の ﹁かな﹂ とを区別する用法もあっ た︵ 坪 井 a論考はこの記述をもとに先の論を展開するが 、﹁かなハまたかき給ハ さりけれハ﹂を ﹁きちんとした仮名はまだお書きにならなかったので﹂と解す るのは無理がある︶ 。これは片仮名が他の仮名の書体とは異なり 、原則的に草体 化の方向へ進まなかったためであろう 。片仮名についてはそのすべてを省画と 考えてよいかどうかなどといった問題も残されているが 、本稿ではそこまで踏 み込んでは論じないこととする。 ︵ 8︶ 真名の省画化自体は中国にさかのぼる︹築島 a三六三頁︺ 。
参考文献 ︵ 17︶ これ以前に俊蔭母の筆跡についての記述は見えない。 ︵ 18︶ ﹁文字﹂を真名と限定解釈して仮名を多用したことを指すとする説もあるが 、 そうではなく漢字を多用して字数を少なめにしたと解釈する説 ︹新日本古典文 学大系等︺に従いたい。 ︵ 19︶ ﹁草のも 、ただの仮名も 、すなわち女手も﹂と解釈する説もある ︹日本古典文 学大系 、小松八一頁 、古谷五五頁︺が 、三種の書体を並べたものと解釈すべき である︹原田二〇五頁︺ 。 ︵ 20︶ 唐紙に書いた﹁草﹂も紙屋紙に書いた﹁さう﹂も底本は﹁さう﹂であって、漢 字とひらがなに使い分けたのは本稿で底本とした新日本古典文学大系校注者の 判断である。 ﹁さうの歌﹂ も注では ﹁草仮名の歌﹂ と説明しており、 なぜ ﹁草の歌﹂ としなかったのかは不詳。 ︵ 21︶ 原田氏は漢詩などを草書風に書いた真名であったと解釈される ︹原田二〇六頁︺ が、本文で述べたように考えるので従えない。 ︵ 22︶ 別府節子氏は 、﹁表側の文化でどんなに技巧的な漢詩文が盛んであろうと 、私 の思いを微妙なニュアンスや言葉のひびきもそのままに伝えるという用に足る のは和歌であり 、それを忠実に表わす文字が仮名であったといえるのではない か 。﹂と述べられている ︹別府一九六頁︺ 。補足すれば 、和歌だけでなく書状も 含めて言えることであろう。 ︵ 23︶ ﹃宇津保物語﹄ では筆跡を見て筆者を判断している場面が多く記されている ︵た とえば国譲上で 、実忠は筆跡から藤壺の手紙であることを判断している︶ 。また 大坪併治氏は ﹃源氏物語﹄ に見える仮名書道の考え方について述べられている ︹大 坪二九四∼二九七頁︺ 。﹃古今和歌集﹄ 仮名序には難波津の歌と浅香山の歌の二首 について ﹁歌 の父 母の様 にてぞ、 手 習 ふ人の、 初 めにもしける﹂ と記されているが、 そのことは 、この仮名序が作られた一〇世紀初頭の段階では 、和歌が書かれる ものとして認識されていたことを意味する ︵だから ﹁歌の父母﹂が手習いの初 めの歌でもある︶ 。 ︵ 24︶ したがって片仮名には草書体は生まれなかった。 天石東村 ﹁風信帖 、灌頂記の技法について﹂空海の書刊行委員会編 ﹃空海の書 弘 法大師書蹟大成﹄鑑賞篇 東京美術 一九七九年 池上禎造 ﹁文字論の位置﹂ ﹃国語・国文﹄一五三・四 一九四六年 石川九楊 ﹃ひらがなの美学﹄新潮社 二〇〇七年 初出二〇〇六年 乾 善彦 ﹁仮名の用途からみた万葉仮名とひらがな﹂ ﹃日本語学﹄三二一一 二〇 一三年 犬飼 隆 a﹁万葉仮名に内含されていた片仮名 ・平仮名への連続面﹂ ﹃上代文字言語 の研究﹄笠間書院 一九九二年 ︵増補版二〇〇五年︶ もとになった論考 一九七三年 b﹁文字表語機能観﹂同書所収 大坪併治 ﹁片仮名・平仮名﹂ ﹃岩波講座日本語﹄八文字 岩波書店 一九七七年 大矢 透 ﹁仮名の研究﹂ ﹃音図及手習詞歌考﹄勉誠社出版部 一九六九年 初出一九 二六年 春日政治 ﹁仮名発達史序説﹂ ﹃春日政治著作集﹄一 勉誠社 一九八二年 初出一九 三三年 川端善明 ﹁万葉仮名の成立と展開﹂上田正昭編 ﹃日本古代文字文化の探求 文字﹄ 社会思想社 一九七五年 京都市埋蔵文化財研究所編・発行 ﹃︵京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告二〇一一 九︶平安京右京三条一坊六・七町跡西三条第︵百花亭︶跡﹄二〇一 三年 小林芳規 a﹁文字の交流片仮名の起源﹂青山学院大学文学部日本文学科編・発行 ﹃文字とことば古代東アジアの文化交流﹄二〇〇五年 b﹁角筆による新羅語加点の華厳経﹂ ﹃南都仏教﹄九一 二〇〇八年 c﹁角筆で書いた新羅語の発見﹂ ﹃角筆のひらく文化史﹄岩波書店 二〇一 四年 小松茂美 ﹃かな﹄岩波新書 一九六八年 澤﨑 文 ﹁万葉仮名の字義を意識させない字母選択﹂ ﹃日本語の研究﹄八一 二〇 一二年 鈴木景二 a﹁平安前期の草仮名墨書土器と地方文化﹂ ﹃木簡研究﹄三一 二〇〇九年 b﹁気色の杜遺跡出土の仮名墨書土器﹂霧島市埋蔵文化財発掘調査報告書一 二﹃気色の杜遺跡﹄霧島市教委 二〇一一年 c﹁平安京右京三条一坊六町︵藤原良相西三条第︶出土の仮名墨書土器﹂京 都市埋蔵文化財研究所編 ・発行 ﹃︵京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 二〇一一九︶平安京右京三条一坊六 ・ 七町跡西三条第︵百花亭︶跡﹄ 二〇一三年 d﹁平安時代の仮名の出土資料﹂ ﹃歴史と地理﹄六六五 二〇一三年 全長 ﹃伊呂波字考録﹄福井久蔵編 ﹃国語学大系﹄文字一 厚生閣 一九三九年 初刊元文二年︵一七三七︶ 築島 裕 a﹁古代の文字﹂中田祝夫編﹃講座国語史﹄二 大修館書店 一九七二年 b﹃平安時代訓点本論考﹄ヲコト点図仮名字体表 汲古書院 一九八六年 c﹁多賀城跡漆紙仮名文書について﹂ ﹃宮城県多賀城跡調査研究所年報﹄一 九九一 宮城県多賀城跡調査研究所 一九九二年
編 d﹃古語大鑑﹄一 東京大学出版会 二〇一一年 坪井美樹 a﹁︿片仮名﹀で書かれた和歌﹂ ﹃文芸言語研究﹄言語篇二九 一九九六年 b﹁男手・女手﹂ ﹃筑波日本語研究﹄八 二〇〇三年 名児耶明 ﹁書に親しむ﹂ 14﹃茶道の研究﹄六八七 二〇一三年 原田芳起 ﹁男手女手名義考﹂ ﹃平安時代文学語彙の研究﹄続編 風間書房 一九七三 年 初出一九七一年 伴 信友 ﹁仮字本末﹂ ﹃伴信友全集﹄ 三 国書刊行会 一九〇七年 初刊嘉永三年 ︵一 八五〇︶ 藤岡忠美 ﹁平安京跡出土墨書土器和歌を読む﹂ ﹃王朝文学の基層﹄和泉書院 二〇一 一年 初出二〇〇五年 藤本憲信 ﹁女手考﹂ ﹃国語国文学研究﹄三二 一九九七年 古谷 稔 ﹃日本の美術﹄五 平安時代の書 至文堂 一九八一年 別府節子 ﹁書と書物﹂院政期文化研究会編 ﹃院政期文化論集﹄四宗教と表象 森話 社 二〇〇四年 宮本竹逕 ﹁仮名の根源となる空海の連綿体﹂空海の書刊行委員会編 ﹃空海の書﹄弘 法大師書蹟大成 鑑賞篇 東京美術 一九七九年 森岡 隆 ﹃図説 かなの成り立ち事典﹄教育出版 二〇〇六年 矢田 勉 ﹁文字史研究における ﹁片仮名﹂ ﹁平仮名﹂ ﹁草仮名﹂ ﹂﹃白百合女子大学研 究紀要﹄三六 二〇〇〇年 山内洋一郎 ﹁ことば ﹁平仮名﹂の出現と仮名手本﹂ ﹃国語国文﹄八〇二 二〇一一 年 山田健三 a﹁﹁男手﹂考﹂田島毓堂編﹃日本語学最前線﹄和泉書院 二〇一〇年 b﹁ ﹁草仮名﹂名義考﹂国語語彙史研究会編 ﹃国語語彙史の研究﹄三二 二 〇一三年 c﹁書記用語﹁万葉仮名﹂をめぐって﹂ ﹃︵信州大学︶人文科学論集﹄文化コ ミュニケーション学科編四七 二〇一三年 d﹁仮名をめぐる歴史上の書記用語 ・再考﹂ ﹃日本語学﹄三二 一一 二〇 一三年 山田俊雄 ﹁国語学における文字の研究について﹂ ﹃国語学﹄二〇 一九五五年 与謝野寛 ﹁日本語原考﹂ ︵其十一︶ ﹃明星﹄五二 一九二四年 吉澤義則 a﹁平仮名の研究﹂ ﹃国語科学講座﹄八 明治書院 一九三四年 b﹁平仮名の発達﹂ ﹃日本書道随攷﹄白水社 一九四三年 初出一九三七年 ﹃宇津保物語﹄ 宇津保物語研究会編﹃宇津保物語 本文と索引﹄笠間書院 一九七三年 資料依拠テキスト ︵国立歴史民俗博物館研究部︶ ︵二〇一四年一月七日受付、二〇一四年一一月七日審査終了︶ ︵底本尊経閣文庫本︶ ﹃延喜廿一年京極御息所褒子歌合﹄十巻本 平安朝歌合大成新訂増補版 ︵底本陽明文 庫本︶ ﹃蜻蛉日記﹄ 新日本古典文学大系︵底本宮内庁書陵部御所本︶ ﹃源氏物語﹄ 新日本古典文学大系︵底本大島本︶ ﹃古今和歌集﹄ 新日本古典文学大系︵底本今治市河野美術館本︶ ﹃続日本後紀﹄ 新訂増補国史大系 ﹃堤中納言物語﹄ 国立歴史民俗博物館貴重典籍叢書︵高松宮家伝来禁裏本︶ ﹃天禄四年円融院 ・ 資子内親王乱碁歌合﹄ 平安朝歌合大成新訂増補版 ︵底本陽明文庫本︶ ﹃倭片仮字反切義解﹄ 群書類従︵続群書類従完成会訂正三版︶