企業就労者の就労意欲を支える認知的要因について
――同一企業で長期就労を継続してきた企業人は
困難をどのように乗り越えたのか――
中島健介
桜美林大学大学院国際学研究科
The cognitive factors of employee’
s work motivation
-How did employees survive their career for
a long time in the same company?
-Kensuke NAKAJIMA
Graduate School of International Studies, J.F. Oberlin University
キーワード:就労継続・就労意欲・動機づけ 抄録:現代社会では働くことは生活の糧を得ること以上の意味を持つ。本研究では働く意欲を 支える認知的要因と動機づけプロセスについて,長期に渡り就労を継続した60∼70歳の対象 者5名に質問紙調査及び半構造化面接を実施し,グラウンデッド・セオリー・アプローチを用 いた分析を行った。その結果,①「個人的価値観の認識」として「自分自身の大切なことの認 識」「重要な他者の認識」,②「自分自身の立場の客観視」,③「評価の調整」として「自己の 不完全さ」「他者の不完全さ / 違いの受容」「選択肢の幅の拡大」「時間展望の伸長」「小さなこ との評価」,④「行動化」として「努力」「気晴らし」の4カテゴリ10ラベルの要因を抽出し, 動機づけのストーリーラインを作成した。認知のあり方を捉え直すことで動機づけの落ち込み を和らげ,再び上昇させてきた対象者のあり方は,現代社会で働く者にも有効な示唆を含んで いると考えられる。
【問題】
現代社会において,「働く」ことは生活の糧を得ること以上の意味を持っている。働くこと は社会に生産力をもたらすだけでなく,社会的な絆を創出し,さらには人々に生きがいや自己 実現の機会を与える。働くことによる社会的地位を失った個人には,もはや頼るべき社会的関 係がなく,あらゆる関係性を喪失した状態に陥りやすい(宇野,2011)。しかし,「働き続ける」ことは容易ではない。企業で働く者にとってもそれは同様である。 厚生労働省(2009)によれば,企業における離職理由には倒産や本人の健康,家族の介護等本 人ではコントロールできない変化によるものに加え,労働時間,報酬,評価,人間関係等の職 場に関する不満や,やりがいがない,希望の仕事でない,等の仕事に関する不満によるものが ある。近年は心理的ストレスによるメンタルヘルス不調による離職も問題となっている。 一方,離職理由には独立や開業,転職など個人目標への挑戦や,結婚,出産等によるライフ ステージの変化により就労環境を変えようとするものもある。こうした離職理由は,働くこと への意欲を失ったためではなく,新たなステージで働くことを前向きに選択した結果である, と言える。また,仕事に関する不満があっても,その企業で働くことを継続する者もいる。生 活の糧を得るため,との理由もあると思われるが,上述の通り,働くことはそれ以外にも多様 な意味を持っている。筆者は同一企業において17年間働いているが,現在の労働環境よりも さらにストレスの多い環境で意欲的に働き,現在でもその意欲を失わず60歳を越えてなお働き 続ける諸先輩が周囲には大勢いる。本研究の目的は,このように同一企業において継続して働 くことに高い意欲を有してきた者が,その意欲を維持してきた動機づけ要因について検討し, 働くことの動機づけ要因を検討する一端とすることである。 代表的な動機づけ理論である期待理論では,動機づけの大きさを決定する要因は,努力で得 られる結果の内面的な価値と,それらが得られると思う期待の認知の程度である(Latham, 2009)。誘因ないし刺激(昇進,昇給等の外的報酬と達成感等の内的報酬を含む)は個人にとっ て価値があり,魅力を持っていることが前提となっている(占部,1980)。また,期待理論を ベースに組織と個人の関係の視点から動機づけを検討した組織均衡理論(Barnard,1968)で は,組織が人々に対して提供する誘因が人々が組織へ貢献する量と同じかそれ以上である場合, 個人は動機や目標が満たされ,組織への参加を続ける,とされる(桜井,2003)。 期待理論では,ある事象に対し個人がそれを誘因と捉え,それらが得られるという期待を持ち, 自分の提供する貢献に見合うことの認知の枠組みが就労を継続するために重要である,と言える。 長期的な就労継続を動機付けの視点から検証した研究はいまだ少ない。齋藤(2013)は企業 での長期的な動機づけは絶えず上下動を繰り返す波型であるとし,影響を与える要因として役 割内容,タテヨコの人間関係,自己効力感,業務強度に関する経験を上げている。しかし,経 験は本人が選択できることもあるができないことの方が多いため,個人ではコントロールの及 ばない部分が多いという点で不十分である。 本研究では,長期にわたり同一企業で「働くこと」への意欲を継続してきた者が,仕事や環 境に対してどのような認知プロセスによりその意欲を維持してきたのか検討し,長期就労を支 えた動機づけ要因を個人の認知の視点から明らかにしていく。
【方法】
・調査対象者 長期に就労を継続し,現在もなお満足感を持ちながら働く60∼70歳の対象者とした。具体的には,企業において就労を30年以上継続し,上級管理職(部長クラス及び役員)のポスト を得て,さらに一般的な企業において定年とされる60歳を越えてなお就労し続けている,就 労に関する満足度の高い60歳∼70歳の男性を機縁法で選定した。男性に限定した理由は,こ れまでの終身雇用制度は男性を中心とした雇用を前提とした制度であり,男女で就労に対する とらえ方が異なると考えられたためである。 なお研究者は単体で従業員1,000名以上の企業の管理部門に所属しており,所属会社の従業員, 役員,及び所属会社の業務を通じて知己を得た社外の者を機縁法による対象者としている。 ・手続き (1)質問紙調査 質問紙は質問に対しての自由記述形式を基本とし,以下の3つの質問を記載した。なお,質 問3のみ「十分満足している」∼「全く満足していない」の5件法による回答となっている。 質問内容は,心理的側面に大きな影響を与える「挫折経験」に焦点をあてて訊くことで,対 象者の心理的側面の変化をよりダイナミックに回顧できるようにした。神原(2009)は,挫折 を経験することで精神的に成長できると捉えている者ほど挫折によって自分が成長したと感じ る,としており,単に回顧してもらうよりダイナミックな内的変化を訊き出しやすいと考えた。 (2)面接調査 質問紙回収後に,個別に半構造化面接を行った。各対象者が質問紙に記入された内容を中心 に,具体的なエピソードを交え,そのように考えるに至った背景プロセス等の話を聞いた。面 接は筆者と1対1で,一人1時間∼2時間ほど,質問紙の質問内容に基づく半構造化面接法に より実施した。実施場所は喫茶店や,対象者の働く会社の会議室である。ボイスレコーダー等 の記録メディアは使用せず,筆者が対象者の発言に対し,その都度内容を確認しつつ,ノート に記録していく方法を取った。 3)依頼手続き 初めに,対象者に口頭により趣旨と倫理的配慮について説明した上で質問紙を送付し,回答 を求めた。回答期間は10日間とし,回収は電子メールまたは手わたしにて行った。 質問紙回収後,改めて面接を依頼し,日時,場所を設定の上,実施した。 質問1:仕事をする中での挫折や葛藤を乗り越えるために大切なことは,何だと思いますか。 思いつくことを何でもご自由にご記述ください。 質問2:それはなぜ「大切」と思われるのですか。その理由をご記述ください。また,「大切」 と思うに至った具体的なエピソードがありましたら,あわせてご記述ください。 質問3:ご自身のこれまでの職業生活に,どれくらい満足されていますか。
4)倫理的配慮 質問紙送付時の依頼文に質問内容が答えづらい場合,また,答えたくない場合は答えなくて もよい旨,途中でやめてもよい旨,回答内容は研究以外の用途には使用しない旨,筆者の指導 教授及び共同研究者に対し内容を開示することや修士論文等に内容を引用することがある旨, その場合は個人情報が特定できないよう配慮する旨を明記し,また直接説明した上で実施した。 さらに,面接実施前に再度同様の内容を説明した。 5)分析 戈木クレイグヒル(2008)と坂口(2013)を参考に,語られた内容を研究担当者と指導教授 の2名でグランデッド・セオリー・アプローチ(GTA)を用いて,次のように分析した。①対 象者が面接の中で強い語調や繰り返して語った言葉を中心に,個人の特徴や考えをよく表して いると筆者が感じた言葉等を抽出し,切片化する。②切片を同じ意図をもって語られていたと 思われる言葉をラベルにまとめる。③ラベルを元に,再度面接での語りに立ち戻り,語られた 順番,その時の語調,繰り返し,言葉と言葉の相互の関連,といった面接の「流れ」と,普段 の対象者の行動の特徴等を考慮し,カテゴリを作成する。④さらに,カテゴリーを洗練させ, カテゴリー間の関連を特定する。①∼④を行ったり来たり繰り返しながらステップを重ね,焦 点を定めていき,抽象度を上げていった。 6)調査時期 2011年11月∼2014年12月
【結果】
対象者5名の協力を得た(表1)。対象者は全員,一つの企業に30年以上にわたり就労した 男性である。調査時において,A,B,C 氏は同一企業にそのまま継続して就労しており,D 氏 は独立,E 氏はグループ会社の役員に就任している。 表1.対象者一覧(年齢,就労年数,職歴はすべて調査時) 職歴 満足度 就労年数 年齢 性別 対象者 転職経験なし 定年後同一企業で再雇用 5 38年 62歳 男性 A 氏 転職経験なし 定年後同一企業で再雇用 4 39年 61歳 男性 B 氏 転職経験なし 同一企業の役員就任 -46年 70歳 男性 C 氏 転職経験あり(20代) 定年後独立 4 41年 63歳 男性 D 氏 転職経験なし 同一企業及びグループ会社の役員就任 5 49年 67歳 男性 E 氏質問3における満足度は,C 氏より回答がなかったが,他5名は全員4点以上と高かった。 C 氏は面接中,「自分のこれまでの仕事に満足している」との発言があり,満足度は高いと思わ れたため,分析対象に含めた。 面接結果についてGTAを用いて分析し,ラベル及びカテゴリを抽出した。その結果,「自 分自身の大切なことの認識」「重要な他者の認識」「自分自身の立場の客観視」「自己の不完全 さの受容」「他者の不完全さ/違いの受容」「時間展望の伸長」「選択肢の幅の拡大」「小さなこ との評価」「努力」「気晴らし」の10個のラベルを抽出した。さらにラベルを関連する内容ご とに整理し,「個人的価値観の認識」「自分自身の立場の客観視」「評価の調整」「行動化」の4 つのカテゴリを抽出した(表2)。 各ラベル及び各カテゴリを抽出した視点と代表的な対象者の発言は次の通りである。 1)カテゴリ1:個人的価値観の認識 対象者は思うような評価が得られない時や思い通りにいかないような時は,自分自身の内面 にある成し遂げたいこと,大切にしたいこと,等,自分自身の内面に意識を向け,考え,決め ていた。こうした認知を「自分自身の大切なことの認識」と名付け,ラベル化した。 表2.企業就労者の就労意欲を支える要因 ラベル カテゴリ 自分自身の大切なことの認識 個人的価値観の認識 重要な他者の認識 自分自身の立場の客観視 自分自身の立場の客観視 自己の不完全さの受容 評価の調整 他者の不完全さ/違いの受容 時間展望の伸長 選択肢の幅の拡大 小さなことの評価 努力 行動化 気晴らし 【自分自身の大切なことの認識】 自分の人生,何かを最後に決めるのは自分自身なので,何を信じるかは自分で決めること。 人生の中で目標をどこに置くか,どういう価値観を持つか,ということが重要。誰も見ていな いところでもやることが,自分にとって大切なこと。 今までの仕事は,自分が面白い,と思ったからやった。そういう,自分のセンス,感覚を大事 にすることが重要だ。 「これができればいい」という,ベースをしっかりと持つこと。自分なりの人生訓というか, 生き方の原点,幸せの原点のようなところを持つことが大事。 自分の人生としっかり向き合い,「こういう風になりたい」という思いに,しっかりと向き合う こと。これだけは一生懸命やった,という経験を残したい。
また,自分にとって大切な人,自分を大切に思ってくれる人のことを思うことで挫折を乗り 越えられるという内容も聴かれた。こうした認知を「重要な他者の認識」と名付け,ラベル化 した。 自分自身の大切なことの認識と,重要な他者の認識は,両方とも自分自身が会社や他者と関 係なく,個人的に価値を置くことに対する認識であることから,一つのカテゴリとし,「個人 的価値観の認識」と名付けた。 2)カテゴリ2:自分自身の立場の客観視 次に,周囲の人々と自分自身との関係性やつながりを考え,認識することで,そうした関係 性の中での自分自身の立ち位置を客観視し,自分が何をすべきかを考えていた。こうした認知 を「自分自身の立場の客観視」と名付け,ラベル化した。このラベルは独立しており,他に同 様のラベルもないことから,そのままカテゴリとして採用した。 たとえば宇宙とか,生命とか,宗教,哲学等,自分の判断とはかけ離れたもの,人間をはる かに超えたものの中で自分たちは生きている。一人ではない。 3)カテゴリ3:評価の調整 次に,「自己の不完全さの受容」「他者の不完全さ/違いの受容」「時間展望の伸長」「選択肢 の幅の拡大」「小さなことの評価」の各ラベルから構成される,自分自身や周囲に対する評価 の調整を行ってきたことについての発言があった。こうした認知を「評価の調整」と名付け, カテゴリ化した。 【自分自身の立場の客観視】 会社というものをよく見ると,自分の立ち位置のようなものが見えてくる。会社の一員,とい う感覚を持って,与えられた環境の中で自分が何をできるか,考える。 自分とのかかわりのある人はたくさんいる。相手には相手の事情があり,自分には自分の事情 がある。そうした中で,周りの人のために自分に何ができるか考える。 たとえば宇宙とか,生命とか,宗教,哲学等,自分の判断とはかけ離れたもの,人間をはるか に超えたものの中で自分たちは生きている。一人ではない。 【重要な他者の認識】 自分を大事にしてくれている誰かが必ずいる。自分とのかかわりのある人はたくさんいる。そ ういう人のためにがんばること。 人と人とのつながり,また,神,運命,なんでもいいが,人知を超えたものの存在を感じ,そ うした中でみんな生きているんだ,というつながりを感じる。 自分のためでなく,周りの人のため,と思うと,責任感というか,力が湧いてくる。自分はひ とりで生きているわけではない。
4)カテゴリ4:行動化 次に,対象者は努力することの大切さと必要性を強く認識していた。これを「努力」と名付 け,ラベル化した。 【自己の不完全さの受容】 まあまあ自分なりにはよくやった,と思うようにするといい。努力ですべてうまくいくとは限 らず,思い通りにいかないことはたくさんある。 自分には出来ないことがある,ということは,認めなくてはならない。人の努力で対応できる ことには限りがある。努力してもどうにもならないことがある。 【他者の不完全さ/違いの受容】 人間,間違いはある。 みんな,よく見たら意外とたいしたことない。完璧な人間等いない。お互い,気にしてもしょ うがない。 【選択肢の幅の拡大】 会社がすべてではない,と思えるかどうか。 目標・計画に,「それ以外にない」と思わないこと。選択肢を持つ。解決策は一つではない。今 の状況に合わせて選べばよい。 【時間展望の伸長】 いい時はいいときなりに,悪い時は悪い時なりに。失敗したとしても長い人生の中の1つであ り,時間はたっぷりある。 状況はすぐに変わる。今が悪いからといって,ずっと悪いわけではない。今は永遠に続かない。 今に左右されず,5年後,10年後を考えてやったほうがいい。 【小さなことの評価】 少しずつの積み重ね。当たり前のことを当たり前にやることが難しい。目標とつながっている 基本動作をしっかりやっていくこと。 小さな仕事でも,自分のやり方で成功に結びついた結果を得ることが大事。それを自分の自信 につなげること。今より少しプラスに持っていく。 【努力】 なんだかんだ言っても努力は大事。報われないこともあるけれど,失敗したところでやめたら 失敗だし,成功するまで続ける。努力することで,自分に自信を持てる。 必ず成し遂げよう,という意志を持って努力していくこと。与えられた環境の中で,自分なり にがんばることが大切。
また,対象者は気晴らしの重要性についても認識していた。これを「気晴らし」と名付け, カテゴリ化した。 努力と気晴らしは,いずれも行動を起こすことの大切さに関する認知であることから,合わ せて「行動化」と名付け,カテゴリ化した。 5)ストーリーラインの検討 抽出したカテゴリ及び対象者の語りをもとに,対象者が仕事や環境に対してどのような認 知プロセスにより対処してきたのか,そのストーリーラインを検討し,作成した(図1)。 挫折経験等の仕事におけるストレスフルな出来事があった際,対象者は自分自身の大切なこ との認識や重要な他者の認識を行うことで個人的価値観の認識を明確化する。同時に周囲との 関係性の中で自分の立場を客観視し,理解している。2つのプロセスは互いに影響しあい,同 時に検討している。そして,明確に認識した価値観に従って,自分自身や周囲の能力,時間軸, 選択肢,得られる結果に対する評価や捉え方を現実的なものに修正し,努力や気晴らしの重要 性を十分に意識しながら,能力開発や努力といった乗り越え行動を継続している。 図1.乗り越え行動のストーリーライン 【気晴らし】 ダメなときは,お酒を飲んで忘れて,また明日からがんばる。 あまり根詰めすぎないようにすることも大事。
【考察】
本研究では,終身雇用制度の下,同一企業で長期に就労を継続し,上級管理職という結果を 実現し,かつ現在の就労に関する満足感も高い者を対象に動機づけ要因となる認知についての 調査を行った。対象者は自らの能力を開発し,困難を乗り越える努力を継続することで,就労 に関する高い満足感と長期雇用の双方を実現させてきた。その過程において仕事におけるさま ざまなストレスフルな出来事の経験しながら,自らの価値観を明確化し,周囲との関係性の中 で自分の立ち位置を客観的に理解していた。その上で自分自身や周囲の能力,時間軸,選択肢, 得られる結果に対する評価や捉え方を現実的なものに修正し,努力や気晴らしの重要性を十分 に意識しながら,困難を乗り越えるための行動を継続していた。特に「個人的価値観の明確化」 は対象者が最も強く,また何度も強調したことであり,重要視してきたことであると考えられ る。 期待理論によれば,動機づけの大きさを決定する要因は,努力で得られる結果の内面的な価 値と,それらが得られると思う期待の認知の程度である(Latham,2009)。対象者は,自らの 価値観を明確化することで,得られる結果の内面的な価値を適切に判断し,昇進や他者による 評価等外部からの価値判断によらない,自分自身の価値基準を持っていた。一方,期待につい ては,自分自身の能力,周囲に対する評価基準を調整し,そもそもの期待値を現実的なレベル に下げることで,その大きさを適切に保っていた。同時に業務遂行能力を高め,結果を得られ る可能性を高くすることによって,期待の大きさを維持し,高めていた。 さらに組織均衡理論(Barnard,1968)では,組織が人々に対して提供する「誘因」が,人々 が組織へ「貢献」する量と同じか,それ以上である場合,個人は動機や目標が満たされ,組織 への参加を続ける,とされる(桜井,2003)。対象者は組織側が提供する昇進や評価等の誘因 が不十分な場合でも,自らの価値観を明確化することによって仕事を通じた個人的な誘因を見 つけ出し,また誘因に対するそもそもの期待値を現実的なレベルに下げることによって維持し ていた。同時に,自分自身の貢献に対する評価を周囲との関係性の中で自分の立ち位置を客観 的に理解する中で現実的なものへと修正し,誘因と貢献のバランスを適切に保っていた。 期待理論及び組織均衡理論によれば,対象者は努力によって得られる結果の内面的な価値を 自らつくりだし,企業等他者の価値基準によらずに自らの価値基準に従い,自分の立場,能力, 貢献の度合等を客観的に見ることで現実に対する認知を調整していた,と見ることができ,こ うした認知の調整により動機づけを維持していた,と言える。 また齋藤(2013)は,長期的な動機づけは右肩上がりに上昇していくものではなく,絶えず 上下動を繰り返す波形をしているとしている。対象者の動機づけにかかわる認知は,波形が下 に落ち込んだ時にも就労を辞めてしまわない程度に動機づけを維持し,また再び上昇させてい く時の個人の内面的な様相であると言える。 対象者は,動機づけに影響を与える役割内容,タテヨコの人間関係,自己効力感,業務強度 について望まない経験をしたとき,それらに対する認知のあり方をとらえ直し,動機づけの落 ち込みを和らげ,行動化を通じて再び上昇させていくのである。対象者が働いてきた時代は安定志向と言われる終身雇用制度の時代だが,制度が定着した 1970年∼1980年代は石油ショック以降,産業移行,急速な円高とバブル経済,というように, 日本経済は大きく変化してきた。以降も1990年代のバブル崩壊,2000年代のデフレ経済と, やはり大きく変化している。経済環境に合わせ,労働市場も急激に変化した(渡辺・佐藤, 1999)時代であった。若林・Gallagher・Graen(1988)によれば,終身雇用制度下での従業員 の満足度は諸外国に比べて低かった。市場変化の激しさ,従業員満足度の低さは,現代の日本 企業においても通じるものがある。そのため,対象者が過去の経験から導き出した認知のあり 方は,就労を継続しつつ充実した職業人生を送る上でも有効な示唆を含んでいる,と考えられ る。 一方,現在の市場はグローバル化により複雑さを増し,その変化のスピードも速くなってい ると言われる。企業の成長余地は高度経済成長期に比較すれば海外市場等に限られている。終 身雇用制度で安定していた雇用も,長期にわたるデフレを経て非正規雇用が増加し,不安定と なってきている。また,正社員で雇用されたとしても企業の倒産やリストラにより職を失うな ど,個人の雇用は不安定化している。こうした中, 企業は個人に対し自ら自律的にキャリアデ ザインを行うことを求めており,個人もまた自らの自律的なキャリアデザインを重視するよう になっている(宮城,2013)。また, 経済的豊かさよりも日々充実して働くことができるか, という点を重視する傾向が強まっている(厚生労働省,2014)等,働くことへの価値観も変化 してきている。本研究は終身雇用制度下の同一企業で,企業の成長が予測でき,雇用の不安が あまりない中で働いてきた60歳以上の者を対象としているため,こうした環境変化は考慮され ていない可能性がある。本研究結果を現在の働き手にも適用できるものとするためには,こう した環境変化を考慮に入れる必要がある。 また,本研究は対象者5名に対する質的調査に基づいている。対象者数を増やし,量的調査 を行う必要がある。対象者は男性のみであるため,女性の就労継続の動機づけ要因は別途検討 が必要である。 以上
【引用文献】
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