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「体ほぐしの運動」はなぜあるのか : 「 身体」の存在・活動様態とその表現性の検討から

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Academic year: 2021

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「体ほぐしの運動」はなぜあるのか

― 「身体」の存在・活動様態とその表現性の検討から ―

山 口 裕 貴

はじめに -「体ほぐしの運動」導入の背景-  情報技術(IT)の浸透、動力化、自働化に代表されるわが国の現代社会では、日常生活の あらゆる場面において機械化が進み、人々の理性や感性、精神と身体の分化が余儀なくさ れている。換言すれば、文化生活というものがますます人間の「身体」の活動を否定しつつ あるということである。自己の身体への愛着は日に日に希薄化し、単なる道具でもあるか のような存在として認識しているといっても過言ではない。こうした「無機質」というべ き身体観が蔓延している現状を踏まえ、人間存在としての「全体性」、今ここにある「私そ のもの」としての身体感覚の享受体験をどう回復するか。これは人類的課題ともいえそう である。  こうした心身の問題は、現在では大人のみならず子どもたちの生活にもその深刻さを増 してきている。家庭や地域社会の環境変化に伴う子どもたちの遊び文化の変容は、身体運 動の機会減少を多く引き起こし、他者との身体接触や大筋運動後の爽快感、仲間との一体 感の享受体験は弱体化の一途を辿っている。子どもたちの運動能力も危機的(特に投げる 運動、器械運動で顕著)で、いわゆる「運動アナロゴン」1の体験が減少したことに起因する 傾向と考えられている。めんこや石投げ、鬼ごっこなどの運動遊びの減少は、単に体力や 運動能力の低下という問題のみを生起させるわけでなく、自然環境との直接的な触れ合い、 人と人との関わり、今ここにある私の身体を自己の内側から「実感する」機会を減少させ、 同時に、自己、他者、自然への洞察力を減退させている。これらは、今日のいじめや不登校、 青少年による凶悪かつ陰湿な事件あるいは非社会的行動と相当の因果関係があるとみるこ とができる。そこで、子どもたちにとってのリアルな生活経験である運動遊びに一層の関 心を向ける必要が出てきた。運動遊びは、全身で周辺世界を体感できる活動であり、そこ では、理性と感性、思考と行為、脳と四肢の統合がみられる。子どもたちは運動遊びをとお して自己や他者の心身の様子に気づき、運動することの心地良さや身体に起こる痛感を随 時受け取ることができる。各々が自らの目標の成功や失敗を味わう。仲間との協調や対立 を経験する。これらは、子どもたちの人格的発達に大きく貢献しうる。スポーツの場面で 子どもたちは、その種目特有のルールに則って行動するが、同時に一定の社会的規範であ るマナーやエチケットにも従いながら、競争し、協働する。そこでの活動は、必然的に人間

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関係に関わる多くの問題を改善ないし解決するための有用な態度育成をもたらす。ある種 スポーツ的な運動遊びは、子どもたちがきわめてリアルな人と人との関わり方を学習する 機会と考えられる。  しかし、現代のスポーツといえば、技術や戦術が高度化し、すべての子どもが楽しめる ものではなくなってしまっている。誰もが簡単にスポーツをとおして心と体を解放し、運 動の心地良さや仲間との一体感を味わえるようにはなっていない。むしろ、技能不足のた めに失敗体験を重ねたり、仲間からの疎外を感じたりすることでスポーツに対する嫌悪感 を増幅させる子どもも少なくない。こうした経験は、子どもたちの運動参加への意欲を減 退させる要因となっている。  『小学校学習指導要領解説体育編』(1999年)をみると、「体つくり運動」の構成要素の一 つに「体ほぐしの運動」(以下「体ほぐし」という。)を設定していることの背景として、体 を動かす体験の減少、ストレスの増大、体力・運動能力の低下傾向、活発に運動する者とそ うでない者の二極化などを挙げており、これらの是正のために、すべての児童が体を動か す楽しさや心地良さを体験する機会を保障すること、体と心をほぐし、リラックスできる ような運動を行う必要性を説いている2。大局的にいえば、現代のストレス過多社会に生活 する子どもたちの心身が「固くなっている」という前提のもと、こうした問題点が浮上し、 その固い心身の「コリ」をほぐしてやらねばという意図が教育政策的に発現した形が「体 ほぐし」なのである。  従前、体育科において教えられてきたものは、主に「集団行動」と「運動スキル」、そして 「スポーツの楽しさ」であった。これらは、学習者に対して「与える」ないしは「身につけさ せる」といった理念によって取り扱われ、いずれにおいても、学習主体としての生徒らの「外 側」にあって、そこに「向かわせる」学習目標にすぎなかった。しかし、「スキル」や「楽しさ」 というものは、「与える」より、むしろ「生まれる」ものなのではないか。つまり、それらは 身体に付与させるというより、身体から発生するといったほうがより適切ではないのか。 スポーツや運動によってもたらされる楽しさや爽快感は、外部から与えられるのではなく、 身体内部から発生した感情や感覚を「味わう」ものであって、それと同様に、本稿の主題で ある「体ほぐし」の学習のあり方も、まさにその観点から論じられなければならないのだ と考えられる。  以下では、「体ほぐし」の実践に資する学習テーマの設定やその実際的手法について哲学 的に検討してみたい。 1.身体の存在様態とは

 ドイツの哲学者ニーチェ Friedrich Wilhelm Nietzsche(1844~1900)は、古来からの機械論 的身体観を以下のような言説により克服した。

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われわれのもっとも本質的な所有物、われわれのもっとも確かな存在、要するにわれわ れの自我としての肉体の方が、精神(ないしは〈魂〉、ないしは今日専門用語として魂の 代わりに使われている〈主観〉)よりもずっと信じられてきた。」3 「本質的なことは、肉体から出発し、肉体を手引きとして利用することである。」「肉体を 信ずることには、精神を信ずることよりもずっとしっかりした根拠がある。」4 「肉体という現象は、より豊かな、より見透しのきく、よりとらえやすい現象である。だ から、肉体に方法的な優先権を与えるべきである。」5  「手引き」および「方法」という語は、「世界解釈の手引き・方法」を意味している。世界 を精神によって認識される相の下にではなく、肉体によって生きられる相の下にみるべき とニーチェは主張する。また、「認識」に関する精神の所行を指摘し、精神的な認識とは、 それ自体では真に存在しているものをあるがままに引き写す作業とはならない、としてい る。  同様のテーマについて、フランスの哲学者ベルクソンHenri Bergson(1859~1941)はこう いう。 「私の視界がひろがるにつれて、私をめぐるイマージュはますます一様な背景の上にあ らわれ、私と没交渉なものになっていく。この視界を狭めれば狭めるほど、その範囲内 の諸対象は、私の身体がさわったり動かしたりすることの難易によって、はっきりと段 階づけられるようになる。それらは、だから、私の身体にたいして、鏡のように、生ずる かもしれない身体の影響を反射するのだ。それらは増減する私の身体の能力に応じて排 列される。私の身体をとりまく諸対象は、それらにたいする私の身体の可能な行動を反0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 射するのである0 0 0 0 0 0 0。」6  「知覚」とは事物の単なる視察ではない。フランスの哲学者メルロ=ポンティ Maurice Merleau-Ponty(1908~1961)のいうように、知覚とは、身体が「物の特性よりもむしろ物を 処理する自分なりのやり方を表現するのであり、言いかえれば物と世界とが自分にとって 何であるかを表現する」7ものとして理解されうる。ベルクソン著『物質と記憶』にみる身体 観は、それ自身が一個の「物」として物たちのあいだに身を据えながらも、自らの可能的行 為をそこへ投射している、いわば「世界と討議している身体」8である。このベルクソンの見 解は、先にみたニーチェのものと近似している。  こうした身体性哲学の見地から、体育科に代表される体験を伴う学習の意義について考 えてみる。著名な教育言説者ジャン・ジャック・ルソーJean-Jacques Rousseau(1712~1778)は、 幼少期における知育の原則を「現実動機」においていることは周知のとおりである。それ は単なる言葉や抽象的観念といったものからのアプローチではなく、子どもがその生活の なかで直に接し、利用し、あるいはそれをコントロールしなければならない現実の事物に ついての必要な知識をもたせようとすることにほかならない。換言すればそれは「自分の 身体を通して実地に経験する活動教育」であって、感覚を重視する教育のあり方を示唆し ている。ルソーはこの感覚教育について、単に感覚を使用させるのみならず、感覚器官に

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よって知覚させることを学ばせねばならないという。一つの感覚を使って他の感覚によっ て得られた印象の真偽を確かめさせるべきだということである9  現代の子どもを取り巻く「学び」の世界は自然体験、社会体験、生活体験ともに不足傾向 にあり、人間や事物にかかわる力が低下しているといわれて久しい。この問題意識は社会 的一般性をもつまでになっている。体験学習は感覚を駆使して行われるもので、知的学習 に対する帰納・演繹の双方の効果を有している学習活動である。デューイJohn Dewey (1859~1952)の教育哲学が「這い回る経験主義」と揶揄された時代もあったが、やはりこの 「体験」は学びの根源とみなすべき事象である。問題を解決する力(いわゆる「生きる力」)は、 知的なものに止まった経験ばかりでは十分に醸成されえない。実際的に五感をもって触れ 合った知覚こそが、知識の裏づけを成すほどに備わっていなければ、学習そのものが「深 化した」とはいえない(つまり「深い学び」とはならない)ことをわれわれは直観している。 この認識のうえで、「どういった種類の体験が必要で、それをどのように体験させていくか」 が体験学習論の基軸となってくることは明らかである。  しかし、「体験させておけば子どもは何かを学んでくれるだろう」という茫漠的な考え方 に拠っていては教育の本質を見誤ってしまう。将来、教員となる学生は、上述の体験学習 論を自身の内に適切に構築するため、自らも体験することの意義をより深く自覚していな くてならない。子どもは身体を通して知覚したことから次なる発想を生み出していくので あるなら、教員が「知覚させるべきもの」を自分の経験から分かっているということは、何 よりも重要な学習経験となることはいうまでもない。  屋外で、活発盛んな全身運動を行うことは、屋内で行うテレビゲームやカードゲーム、 スマホのアプリゲームとは決定的に何かが異なっている。それは、いうまでもなく「自然」 と「身体」の交流の有無である。自然から受け取る「爽快感」や、全身運動後の心地良い「疲 労感」、土や草と触れ合った「手触りや匂い」といった感覚は「自然感覚」ともいえるもの である。  身体性哲学を介した「感覚教育」の必要性を説くのは、やはりルソーである。彼はこのよ うにいう。「人間の悟性にはいってくるすべてのものは、感覚を通ってはいってくるのだか ら、人間の最初の理性は感覚的な理性だ。それが知的な理性の基礎になっているのだ。わ たしたちがついて学ぶ最初の哲学の先生は、わたしたちの足、わたしたちの手、わたした ちの目なのだ」10。この言からも明らかなように、われわれ人間は、自らの身体性を活動さ せながら自然を理解していかなければならず、またそうでなければ、そもそも自然を理解 できないのだと考えられる。 2.表現媒体としての身体  われわれはスポーツ観戦をする際、勝敗の行方に関心を払いつつも、敵味方に関係なく 選手たちの洗練された見事な運動動作に魅了される。このとき、多彩な運動形態で現出す

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る感性的存在としての身体が媒体となり、何らかの意味がそこで「表現」11され、それをわ れわれが自身の感性に即して享受していると理解でき、こうしたある種の構造がスポーツ の文化的存在としての根拠の一つになっていると考えられる。ただし、ここでいう「意味」 とは、必ずしも言語化できるものではない。竹田青嗣が指摘しているとおり、「たしかに人 間の意味の世界は『言語』によって編まれている。しかしわれわれは生の経験の中でつねに、 決して言葉によって表現できない(前言述的な)豊かな『意味』の世界が存在することを知っ ている」のである。言語において音声がさまざまな音程やリズムで現出し、芸術において 色彩や形象が多様に扱われているように、スポーツ・体育の場面においては身体が多彩な 運動形態として現れる。これらの感性的な存在のそれぞれが意味の表現媒体として機能し ているのである。  これらを踏まえ、以下では、「プレー中の身体」の存在様態を探ることを念頭に、運動表 現媒体としての身体のもつ意味を検討する。そして、体育教育において目指されるべき「プ レー中の身体」のあり方について若干考えてみようと思う。 (1)意味と表現媒体の関係性  ドイツの哲学者カッシーラー Ernst Cassirer(1874~1945)は、言語における表現媒体の一 つである音声の存在様態についてこう述べる。「物理的な音は、それ自体としては高低や強 度、音色などによってしか区別されないが、これが言語音声に形成されると、それによっ て限定され、きわめて微妙な思想的・感情的な差異を表現するものとなる。直接的なかた ちでの音は、それが間接的に遂行し、『意味する』ものの前で、完全に背後に退いてしまう わけである」12。では、「プレー中の身体」の姿(ヴィジュアル)も言語における音声と同様に、 意味の背後へと退いてしまうものなのだろうか。  われわれは、フィギュア・スケートやアーティスティック・スイミング(シンクロナイズ ド・スイミングから名称変更)などの種目で、演技の構想から選択された音楽とともに展 開される運動主体の動きに意図的な表現を見出している。これは芸術分野にみられる「表 現的意味」として把握しうる。しかし、野球やサッカーなどの種目においてこのような表 現はみられない。そこで、「目的的スポーツ」(過程の評価は結果に影響しない種目)と「美 的スポーツ」(過程自体が結果になる種目)という分類から、スポーツにおける表現性の特 質を以下、検討してみたい。 (2)スポーツにおける表現性の特質  目的的スポーツにおける勝敗は、当該ゲームの終了時に、ルールに則った形で現出した、 何らかの結果によって判断される。そこでは、結果に至る過程は評価対象にならない。目 的的スポーツにおいては、ゲームの最中にプレーヤーの運動する身体によって何らかの意 味が意図的に表現されることはない。プレーヤーは、得点に結びつけることを主たる目的 としてパスやシュートを実行するが、それらの動作に何らかの意図的な表現性を加味させ

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ようとは考えていない。  これに対し体操競技やフィギュア・スケートなどの美的スポーツは、演技の過程自体が 評価対象となる。むしろ、動作における優美さや躍動感といった感情的な表現性が評価の 主たる対象となっている。しかし、これらの種目で見出される表現は、芸術における表現 の有り様と同等には捉えられない。樋口聡は、「体操競技やフィギュア・スケートにおいて、 どのように演技を構成していくかというような、あたかも芸術創作と似たような要素があ るとしても、そこには実践者の感情を表現していく芸術的構想などはありはしない。彼ら のめざすのは、個々の技をより完璧に遂行し、演技全体としてもより高い得点が与えられ るようなパフォーマンスを提示することだけである」と指摘する。スポーツ場面において プレーヤーは、その場面に固有のさまざまな規制に身を置くため、人生や世界の問題に対 して何らかの見解を表現するといったことはほぼできない。これはいかなるスポーツにお いても本質的な価値的要素とはなりえない。つまり、美的スポーツであっても、芸術その ものにみられるようなテーマをもつことはないとするのが妥当で、芸術のような意図的な 表現というものは本質的にはあり得ないといえる。 (3)スポーツにおける意味と表現媒体の関係性  スポーツのもつ意味とその表現媒体である「プレー中の身体」との関係性はどのように 理解すべきか。目的的スポーツでは、意図的な表現の機会は想起しにくく、プレースタイ ルだけが現出する。これは日常言語における意味と異なり、「プレー中の身体」に恣意的に 付与されるものではない。野球のピッチャーの投球動作から表出されるダイナミックさは、 運動主体(プレーヤー)の意図とは関係なく、「プレー中の身体」とともにナチュラルに現 出するだけである13。フィギュア・スケートなどの美的スポーツでは、「演技」という観念か ら、常により豊かな表現性をめざしている。つまり、プレー中のすべてに優美さや躍動感 が備わった動きが提示されることになる。よって、「プレー中の身体」は日常言語の音声の ように意味を間接的に表現するという道具性を帯びず、意味そのものの直接表現となるの である。換言すれば、ここでの「プレー中の身体」に対する意味付与は、恣意的なものでは なく感性的な性質を保ったままになされているということになる。  広くスポーツにおいては、それが目的的か美的かを問わず、表現媒体である「プレー中 の身体」には、意味が恣意的に付与されるのではなく、間接的に意味を表現する道具性を 帯びないのであるから、「プレー中の身体」は意味の背後に退くことなく、感性的な性質の まま顕在化しているといえる。感性的な存在というものは、ある対象が視覚、聴覚、触覚な どの感覚器官によって把握しうる様態にあることを意味しており、それは実在性を有する ものということができよう。

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おわりに  人類の文化形態の一つとしてのスポーツは、その独自性として、表現媒体である「プレー 中の身体」の感性的な顕在化という身体の存在様態が考えられる。身体はそもそも「感覚 する」存在であり、この感覚を情緒的ないし芸術的な域で語るときに、感性的という言い 方になるのであろう。  スポーツには、言語とは異なる視点が認められる。つまり、スポーツの場面というものは、 言語では言い尽くせない感性が発現する時空間なのである。絵画や彫刻のような芸術作品 もスポーツもともに表現媒体が顕在化しているのだが、その差異は、それぞれの媒体と表 現される意味との近接性に注目することで認識できる。つまり、芸術作品では、作者がそ の作品によってこれを表現するという意図が明確であるのに対し、スポーツでは、「プレー 中の身体」は何かを表現しようとはしていない。ただ、勝利のためにプレーしているだけ である。  また、芸術作品とスポーツはともに見る者の感性に働きかけてくる表現ではあるものの、 芸術作品は人間の「身体」そのものによる表現ではない。対してスポーツは、まさに人間が 行為するものであって、「プレー中の身体」は人間の身体なのであるから、見る者はこの「生 きた身体」から、各々が何らかの意味や価値を受容しているのだと考えられる。  さて、「体ほぐし」では、他者とともに運動することのほかに、他者の運動を観察する学 習も想定される。スポーツにおける「プレー中の身体」に類似する、他者の運動中の身体か ら、感性的に優美さなどを受け取ることで、技能の向上・洗練を行うことができるのである。 また、自分の運動(つまり身体)を他者に見てもらい、その感想を聞くことで、技術の修正 を行うこともできよう。そして、「体ほぐし」の授業は、生徒が、身体の運動をとおして精 神的開発を行う場でもある。身体による感覚の効力と、精神による分析の効力が融合し、 より深い学びが構築されていくという性質をもつ単元が体つくり運動であり、体ほぐしの 運動なのである。 注 1 運動創造力に基づいて、まだやったことのない新しい運動を表象したり、運動投企したりしよう とするとき、そのための素材として役立てられる運動の類似例。新しい運動を習得しようとする 場合には、運動経験として蓄積された「感覚運動的アナロゴン」が素材として利用される。(岡沢 祥訓,高橋健夫「体育の立場からみた子ども」宇土正彦他編著『体育科教育法講義』大修館書店, 1992. p.23.) 2 文部省『小学校学習指導要領解説 体育編』1999,p.21.参照。 3 ニーチェ著,麻生建訳『ニーチェ全集 第2期 第8巻』白水社,1983,pp.376-377. 4 同上書,p.457. 5 ニーチェ著,三島憲一訳『ニーチェ全集 第2期 第9巻』白水社,1984,p.269.

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Presses Universitaires de France, 1896.

7 メルロ=ポンティ著,滝浦静雄,中村文郎,砂原陽一訳『心身の合一 マールブランシュとビランと ベルクソンにおける』筑摩書房,2007,p.140.

8 同上書,p.139.

9 梅根悟『ルソー「エミール」入門』明治図書出版,1971,p.83.参照。

10 ルソー著,今野一雄訳『エミール』岩波書店,1962,p.203. Jean-Jacques Rousseau, ÉMILE OU DE

ĽÉDUCATION, GF Flammarion, 1966(1762),p.157.

11 「表現」という語は多義的であり曖昧であるが、本稿では、外界に事物を描写する原理的作用とし ての「再現」と、内的なものを外化する原理的作用としての「表出」を念頭において論じる。(渡辺 護『芸術学[改訂版]』東京大学出版会,1988,pp.83-97.参照)

12 カッシーラー著,生松敬三,木田元訳『シンボルの形式の哲学〔一〕第1巻 言語』岩波書店,1989,p.57. Ernst Cassirer, Die Philosophie der Symbolishen Formen. Bd.1.Die Spreche Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt, S.27(1988).

13 プレーヤーはスイングしたり、パスしたり、シュートしたりするときに、これらの動きを媒体とし て躍動感や力動感などを表現しようとは意図していないはずである。(高松昌宏「スポーツにおけ る身体の存在様態に関する一考察」『体育・スポーツ哲学研究』Vol.26 No.2,2004,pp.23-33.参照)

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