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寧波における土地改革

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Academic year: 2021

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(1)寧波における土地改革. 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科・領域教育学専攻 社会系コース. MO9161K  山縣重宣.

(2) 目次. 序章  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・…   1 第一章 中華民国時期の中国共産党の土地政策  ・・・・・・ ・・・・・・・…   3  第一節 中国の土地改革:の概要.  第二節抗日戦時期の土地政策  第三節 抗日戦後の政策転換の兆候  第四節  「五四指示」下の土地改革.  第五節  「土地法大綱」による貧雇農路線.  第六節 直雇農路線の見直し. 第二章 中華人民共和国の土地改革方針  ・・・・・・・・・・・・・・・・・…   20  第一節  『中華人民共和国土地改革:法』について.  第二節 土地改革の流れ  第三節 階級区分  第四節 没収  第五節 分配. 第三章 寧波における土地改革  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…   33  第一節 寧波における土地改革の概要  第二節 土地改革前の農村の状況  第三節 階級教育  第四節 階級区分  第五節 没収  第六節 分配  第七節 寧波における土地改革の特徴. 第四章 寧波における階級区分の事例  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・…   44  第一節 郵県について  第二節 階級身分区分表について  第三節 郵江区「仲夏郷地主材料」の分析  第四節 郵江区「馬湖郷地主材料」の分析  第五節 郵江区「盛蚊郷地主材料」の分析. 終章  ・・・・・・・…  ’・・●’●’●’”。●’・・●・・・・・・…   74.

(3) 序章  本研究のテ・一一一一マとなる土地改革は、中国共産党(以下、中共)が行った重要な政策の1つで. ある。地主を中心とした封建勢力の支配を消滅させるための闘争の手段であり、地主から土地 などの財産を没収し、貧農や雇農に再分配を行うのである。農村での地主を中心とする封建勢 力を打倒し、太平天国から続く「耕謡曲其田」(耕作する者がその土地を所有する)という農民 の土地所有を実現するための土地政策である。.  中国は農民が全人口の8∼9割引も及ぶ典型的な農業大国である。1949年の中華人民共和国 の建国以前から、中共は東北や華北などの旧解放区では土地改革を実施していたが、華中や華 南を中心とする農村地域では、地主の大土地所有の下に農村の90%を占める雇農・貧農・中農 が、僅か20∼30%の土地しか所有していないという状況が続いていた。劉少奇を主任とする土 地改革:委員会の指導の下、県以上の各級人民政府でも土地改:革委員会が組織され、数十万人に. のぼる訓練を受けた土地改革工作員が全国の各郷村に派遣され、土地改革の直接の指導にあた ったのである。そして、1952年末にはチベット・新彊を除く中国全土で土地改革は基本的に完 成した。.  しかし、土地改革とは単に土地の分配を享受することではなく、地主を中心とするこれまで の農村の権力者や封建体制に対する闘争を意味し、地域的に不均等ではあったが、農村に基層 政権と地方民兵組織を建設し、中華人民共和国の権力基盤を固める重要な働きとなったのであ る。.  本研究の目的は、中華人民共和国の成立前後に中共によって実施された土地改革について、. 中央政府の土地改革の方針と中国の地方都市である漸江省寧波での実施状況とを比較すること によって、寧波における土地改革の特徴を明らかにすることである。.  土地改革に関する研究は、土地改革全体に関する研究や特定の地域の土地改革に関する研究 など数多く存在する。土地改革全体に関する研究としては、天野元之助氏の『中国の土地改革』. を挙げることができる。天野氏は中共の土地改革に関する政策文書を丁寧に分析している。し かし、参考史料の大部分が中共の公式史料のために、中共の土地政策の紹介のような形となっ ている。また、田中恭子氏の『土地と権力』は、近年の発表された地域実証研究を参考にして、. 1949年までの中共の土地改革について詳細にされている。しかし、1949年の解放以前の土地 改革が中心となっているために、仕方のないことではあるが、参考にしている地域実証研究は 主に東北に限られている。華中・華南・華東での土地改革の地域研究は東北と比べると数が少 なく、寧波という地域に焦点を絞った土地改革の研究はなされていない。本研究は、寧波とい う1っの地域の土地改革の実証研究である。寧波市郵州区梢案館所蔵の史料を用いることによ 1.

(4) って、寧波での土地改革の実情を明らかにしたい。.  本稿の構成は、まず第一章では、中華民国時期の中共の土地政策の変遷について述べる。第 二章では、1950年に中央政府が公布した土地改革の最も基本的な方針となる「中華人民共和国 土地改革法」を、また「中華人民共和国土地改革法」以外にも土地改革に関する文書として公 布された「急心分析農村階級」と「二五土地改革中一些問題的決定」と「政務院的若干新決定」 も同時に分析し、解放後の中央政府の土地改革の方針についてまとめる。続く第三章では、『寧. 波市隠』の記載を基にし、寧波地域で実施された土地改革についてまとめ、同時に第二章の土 地改革方針と比較することによって、寧波で実施された土地改革の特徴について明らかにする。 第四章では、寧波市鄭州区梢案館所蔵の土地改:革に関する史料を分析することによって、第三. 章で明らかにした寧波における土地改革の特徴に対して、史料的裏付けをする。以上が本稿の 構戒である。.  本稿では主に以下の文献を参考にした。.  ・劉由良 『新中国の土地改革』 中国研究所1951年  ・福地いま 『私は中国の地主だった』 岩波新書 1954年  ・天野元之助  『中国の土地改革』 アジア経済研究所 1962年.  ・山本秀夫・野間清編 『中国農村革命の展開』 アジア経済研究所 1972年.  ・秋山良照 『中国土地改革体験記』 中公新書1975年.  ・天児慧 『中華人民共和国史』 岩波新書1999年  ・田中恭子  『土地と権力』 名古屋大学出版会 1996年  ・松田吉郎編  『寧波地域の水利開発と環境』 2010年  史料は以下のものである。.  ・『富波時報』 1950年5月∼12月  ・郵州区梢案館所蔵の土地改革関係史料 1951年  ・『爾波大衆』 1952年1月∼6月  ・「中華人共和国土地改革法」 北京:中央人民政府 1952年  ・「顔様分析農村階級」 北京:中央人民政府 1952年  ・「關於土地改革中一転問題的決定」 北京:中央人民政府 1952年.  ・「政務院的若干新決定」 北京:中央人民政府1952年  ・『毛沢東選集』第1∼4巻 人民出版社 1953年  ・寧波台地方志編纂委員会編 『寧波市志』 中華書局出版 1995年  ・鄭県地方志編纂委員会編 『西面志』 中華書局出版 1996年. 2.

(5) 第一章 中華民国時期の中国共産党の土地政策 第一節 中国の土地改革の概要  まず、中国の土地改革の概要について簡単にまとめることとする。.  1931年に毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時中央政府が樹立され、その頃から解放 区内で地主を中心とする当地の支配者を打倒し、土地財産を没収して貧雇農に分配するという 土地改革が実施されていた。しかし、1937年に日中戦争が勃発すると、中国国民党と合作して 抗日統一戦線をはるために、地主の土地を没収する土地改革:を一旦停止し、減租減張政策にま で引きさげた。.  しかし、日中戦争で勝利を得ると、国共は分裂し、中共は1946年5月4日半いわゆる「五 四指示」という文書を出し、再び解放区で土地改革が実施されるようになった。この文書は中 共の土地改革の再開を示すものとして有名である。この「五四指示」の方針に基づいて、各解 放区は当地の状況に応じて土地改革が行われていった。.  翌年の1947年10月10日に「土地法大綱」という文書が出された。「五四指示」から「土地 法大綱」への主な変更点は、富農の土地も没収の対象となったということである。「五四指示」. の方針では、富農の扱いは中立ということで没収の対象とはされていなかった。また、平等分 配は「五四指示」においても指示されていたが、「±地法大綱」ではこの平等分配を徹底的に実 施する絶対均分が指示されていた。.  この間に、国共内戦は中共に有利に展開し、1949年10,月1日に中華人民共和国が成立した。 そして、1950年6月30日に、「中華人民共和国土地改革法」(以下、「土地改革法」)が公布さ. れるのである。この「土地改革法」では「五四指示」の精神が復活し、富農の土地を保護する. 方針となった。この「土地改革法」の目的は、第1条で「農村の生産力を解放し、農業生産を 発展させ、新中国の工業化のための道をひらく」(1)とされている。劉少奇は「土地改革問題に 関する報告」の中で、「土地改革の基本目的は、単純に困窮している農民を救済するためにでは なく、農村の生活力を地主階級の封建土地所有制の束縛から解放して、農業生産を発展させ、. 新中国の工業化のために道を開くことにある」(2)と述べている。1950年秋からまだ土地改革 の実施されていない解放区での土地改革が実施され、1953年の春までに、チベット・新玉を除 く地区の土地改革は基本的に完了した。.  中国の土地改革の概要は以上である。第二節からは、中華民国時期の中共の土地改革:につい て、それぞれの時期の内容について述べていくこととする。. 3.

(6) 第二節抗日戦時期の土地政策  1937年の日中戦争の勃発によって、中共は国民党と合作して抗日統一戦線をはるために、地. 主の土地を没収する土地改革を一旦停止し、減租減息政策を行っていた。1937∼46年までの 間(「五四指示」が出されるまでの間)、中共は土地改革を行わずに、減租減息政策によって農. 村改革を行っていたと中共の公式政策を見る限りでは言うことができる。しかし、抗日時期の 農村改革は公式政策のみでは捉えきれない複雑な様相をもつものであったことが、近年の地域 別の実証研究によって明らかとなってきている。この第二節では、これらの地域別の実証研究 をまとめた田中恭子氏の研究(3)を中心にして、抗日戦時期の中共の土地政策についてまとめる。.  抗日戦初期に新解放区で最初から広く実施されていたのは税制改革であり、この税制改革は 税負担を富裕層である地主・富農に集中するものであった。富裕層に対する過酷な税制改革や 減租は、結果として、富裕層の蓄積を奪い、生産性の高い富農・中農の生産意欲を奪うことと なり、また貧農も裕福になれば重税を課せられる可能性があると恐れ、増産をためらうように なった。そこで、1940年に中共は富裕層との和解と生産の回復を目指して、課税対象を拡大し、. 富裕層の政治的地位を保証し、大衆闘争における暴力の回避、財産権の保障という穏健な方針 へと方向転換を図った。しかし、この政策を実施しようとする段階で、日本軍の掃討作戦と国 民党軍の攻撃の激化によって、中共は解放区の約半分の土地を失い、政策方針の再編を迫られ、. 残った解放区での増税を余儀なくされた。富裕層の負担軽減は事実上不可能となったのである (4)o.  この中共の苦境をきっかけに、富裕層が力を取り戻し農村支配を回復することを恐れた中共 の指導部は、富裕層への攻撃を緩めることは危険と考え、減租減息などの様々な社会改革の実 施によって富と権力の再分配をはかり、農民発動を促進して中共政権の基礎を強化しようとし. た。そしてそれは、1942年1月28日に中共中央政治局によって出された「抗日根拠地の土地 政策に関する決定」という文書で形となった。これは中共の抗日戦期における総合的な土地政 策を示す唯一の中央レベルの文書であり、これによって党の考える減租減益の目的が初めて明 らかにされたのである。内容は、地主を含む全階級を統一戦線の中に維持しつつ、その中で可 能な限り階級闘争を推進し、富と権力の再分配を行うというものである。つまり、政治的・社 会的に伝統的支配層の持つ権力・威信は打倒するが、経済的には「封建的搾取」は軽減するの みで、廃絶はしないということである。各解放区は、この文書に基づいて土地政策条例を制定 し施行した(5)。.  ユ942∼43年の時期の政策の最も重要なことは、解放区の人口の大半を占める農民の積極性 を引き出して革命に参加させることにより、農民の意識に変革をもたらすことであった。この 意識の変革に成功すれば、農村の権力構造を変えることができ、それは同時に中共政権の基礎 4.

(7) を固めることとなるのである(6)。.  中共は1942年2月6日付で「土地改革政策をいかに実施するかについての指示」という党 内秘密指示を出している。この指示の目的は、農民大衆を発動し、立ち上がらせることとして いる。この目的のために重要な方針は、まず押して、後で引く、ということである。この「押 し」とは、大衆闘争の段階のことである。積極的に大衆を助けて地主の反動統治を破壊し、地 主階級を中共の方針に従わせる。過激な闘争の中で極左的な行動(いきすぎ)が出てくること は避けられないこととしている。しかし、この過激な大衆闘争が長く続くと、地主を日本・国 民党側へと追いやることとなってしまうので、そうなる前に引きの段階に入る。この「引き」 とは、大衆を説得していきすぎを是正し、地主に対して小作料や利子の支払い、人権、財産権、. 参政権などを保障して、地主が中共と団結するようにしむけ、団結抗日の目的を達成するので ある。この押し引きのバランスを誤ると、地主の逃走・反撃、農民の失望を生む可能性がある ので十分に注意するように指示している(7)。.  しかし、この「押し」「引き」の政策の実践は非常に難しいものであった。特に「押し」から 「引き」へと転じるタイミングの見極めである。早すぎれば大衆の優勢が築かれずに闘争は無. 意味に終わってしまい、逆に、遅すぎれば地主階級は敵側へと行ってしまう。また、大衆が真 に立ち上がったかどうかの判断も難しかった。しかし、この「押し」「引き」の政策の最大の目 的は、農民大衆を発動することにあったため、「引き」よりも「押し」に重点を置くように指示 している。つまり、「いきすぎ」を黙認しているのである(8)。.  この農民発動のための重要な手段とされているのが、「清算闘争」である。一般原則として、 「減租」は将来支払われるべき小作料のみに適用し、「減息」は過去の債務の利息に適用し、そ. の期間の上限は抗日戦開始前後と定められていた。そこで、農民発動の手段として清算闘争が 重要になってくるのである。この清算闘争とは、「古いツケの清算」という意味であり、封建勢 力が過去に行った「搾取」や「抑圧」のツケを払わせるというものである。租息については、 減租減息法令以上に徴収した気息を違法として払い戻させる(退正論息)ということである。 この清算闘争による罰金などの額についての規定はなく、状況次第で自由に決められるので、. 相当の富の再分配が可能である。この清算闘争は農民に物質的利益をもたらすことは確実であ ったために、減租政策で利益を受けていなかった多くの農民の発動に非常に役立っこととなっ た(9)。.  しかし、後にこの1942年越工作は欠点が多かったと批判された。その欠点とは「強迫命令」 と「包葉代替」である。前者の強迫命令とは、工作幹部が上から大衆に命令し、強制的に闘争 を行わせることである。後者の包丁代替とは、工作幹部が大衆に代わって闘争をやってしまう ことである。問題とされる点は、農民大衆に改革の利益があったとしても、農民大衆が発動さ 5.

(8) れたわけではないために、意識に変革はなかったということである。そこで、1943年には減租 が上からの恩恵として行われ、大衆の積極性が引き出されていないことを前提として、各解放. 区は大衆工作会議を開き、減租の徹底度などの再調査を開始した。1942∼43年の減租減息・ 清算闘争によって、中共は統一戦線下における農村革命の推進の基礎を確立した(10)。.  1944年秋冬になると、減租のより徹底的な実施・旧支配層の権力の徹底排除・農民権力の確 立を目指して、大衆運動は急進化した。この時期に特に強調されていたのは、幹部の「右傾思 想」の克服と農民の自覚の強化であった。幹部の右傾思想を克服するために、整風運動と絡め て再訓練を行い、農民の自覚の強化のためには、階級闘争の段階で「誰活誰養」(誰が誰を養う か)というテーマで討論をさせ、農民の階級意識を高めさせた(11)。.  この1944年秋冬の運動は、査減運動と呼ばれ、中共はめざましい成果を挙げたと誇ってい る。この運動によって、村政府から旧支配層が一掃され、発動された農民による農会・民兵隊 が組織され、村内の権力構造が変化した。これは、中共権力が村レベルにまで深く浸透し、農 民を掌握したことを意味した。つまり、農民発動が達成されたのである。この冬の激しい運動 によって、少なくとも古い解放区(老心)では、統一戦線下での農村革命の目標は達成された のである(12)。. 第三節抗日戦後の政策転換の兆候  抗日戦争が終わり、国共の統一戦線は共通の敵を失ったが、中共が土地政策の変更を考えて. いた様子は見られない。1945年4月の中共第七回全国代表大会で、毛沢東は「特別の障害が なければ、われわれは戦後もこの政策(減租顛動)を実行していくつもりであり…段取りを追 って『耕す者に土地を』を達成するのである」(13)と述べている。減租減息政策下で土地分配. を行ってきていたため、特に土地改革に固執する必要はなく、また、国民党との関係がどう変 化するのか不透明であったため、慎重を期した結果と田中氏は見ている。公式政策においては 今まで通りの政策を維持しつつ、現場では極左現象を許容し可能な限り大衆発動を目指したの であった(14)。.  1945年秋冬の新区における農村工作では、「反魂清算」による土地分配が広く行われていた。. 抗日戦争中には、清算闘争が反好を対象とすることはそれほど多くなかった。しかし、抗目戦 争が終わると最も重要な闘争対象は反妊となる。その主な要因は、終戦によって急激に新区が 拡大したことや愛国的なイメージを売り込むのに都合が良かったことと田中氏は見ている。し かし、多くの現場では清算闘争が土地改:革へと発展しつつあった(15)。.  1945年末、中共は正式に方針を転換し、農村革命における御好清算闘争の重要性を認めるに 至った。この方針転換は、清算闘争によって富と権力の大規模な再分配を行うように命じたこ 6.

(9) とと同じことであった。国民党との内戦において農民の支持を得るには、急いで物質的利益を. 与えることが必要であると考えたのである。1945年12月末頃に出されたものと思われる党内 の秘密指示では、清算と減租を結合して行い、減租鳴すぐに軽減を行い、続いて広く階級教育 を実施し、大規模な生産運動を起こすよう指示している。これらはできるだけ短期間に広い地 域で農民発動を進めようとするものであり、従来の大衆運動とは異なっている。中共が新語に おける農民動員を急いだのは、事実上の内戦が始まり、歯並が国民党軍の攻撃にさらされるこ とが確実となったからである(16)。.  1945年末から46年初頭の大衆運動は、新区に重点が置かれていた。運動の中では、「打」 が強調され、いきすぎをおそれないように幹部に指示が出された。闘争の目的は、封建勢力に 政治的にも経済的にも打撃をあたえ、農民に物質的な利益と政治権力を与えることとされた。. そして、この目的を達成する方法は清算闘争であった。清算闘争のいきすぎは前年よりも過激 化し、富農・中農・貧農が闘争対象とされることは多々あり、貧農の不満を買った村幹部が闘 争にかけられることすらあった。富の再分配が闘争の主な目的となってしまい、その実現のた めには手段を選ばず、闘争は無差別になりかけていた。幹部たちは、大衆工作の次の段階であ る減租と大衆教育に無関心となり、農民の要求に応じて物質的利益を与えることばかりに気を 取られていた。過激な清算闘争の後で、さらに減租を行うことは、実質的にあまり意味がなく、. 幹部にも農民にも魅力がなかったからである。1946年初頭には、暴力を伴う清算闘争は当たり 前となり、減租の重要性は大幅に低下した。秘密にされてはいたが、党中央の指導部は土地の. 再分配を行うことを認めていた。1946年4月、華中のある地方党委の指示は、地主の所有地 を没収する際のルールを規定している。. 「地主が現金や穀物を持っていないために、ツケの清算に土地を提供する場合、次の規定. に従うものとする。大地主の場合はその所有地の半分を、中地主の場合は3分の1を没収 し、小地主の場合は原則として土地の没収は行わない」(17)。. これは事実上の土地改革が進んだために、何らかの規定をしなければならない状態で出された 命令であったと思われる。また、軍事力において劣勢な中共は、ゲリラ戦を戦うために、農村 をしっかりと掌握しておく必要があった。特に国民党地区に隣接する新解放区の多くが戦場と. なるため、新解放区の旧体制を一挙に覆さなければならなかった。このような理由から1946 年5月に、中共は土地改革への移行に踏み切るのであった(18)。.  この1946年5月までの土地政策は、中共の公式政策を見る限りでは、国民党との抗日統一 戦線をはるために減租減息政策によって農村改革を行っていたように思われがちである。天野 7.

(10) 元之助氏の研究(19)では、主に中共の公式文書が参考史料となっているために、この1946年忌. での中共の土地政策は減租減息政策を行っていたとしか認識されていない。農民協会によって 統一的に没収・分配を行うという土地改革とは少し異なるが、実際は清算闘争によって事実上 の土地改革が行われていたことが近年の地域的実証研究(20)によって明らかにされてきている。. 第四節  「五四指示」下の土地改革.  1946年5,月4日、中共中央が「清算、減租および土地問題に関する指示」、いわゆる「五四 指示」が出された。この五四指示は中共の土地改革政策への復帰を示す文書として知られてい る。五四指示は内部指示として出され、県以上のレベルの党指導者・幹部にのみ知らされた。. 五四指示によって、中共の政策は公式に減租から土地改革へと転換したことになっている。し かし、前述したように、事実上の土地改革は五四指示以前にも、非公式ではあったが行われて いた(21)。.  五四指示は、「中農と団結し、富農を中立化し、地主を分断させて、農村人口の9割を味方 につける」という原則をもっている。1947年12月に、毛沢東は五四指示に若干の不徹底さが あったとして「富農の土地・財産は原則として動かさないこと」としている。しかし、これに 続く部分は「広範な農民の要求により、侵犯せざるをえない場合も、打撃は大きすぎてはなら ない」となっており、事実k「侵犯」を許している(22)。1946年にも富農はすでに地主と同様 に闘争対象にされており、党指導部がこれを中止させようとした形跡は見られない。また、1946. ∼47年の土地改革では、清算闘争が本来の意味とは変わってしまっている。地主に清算を要求 するか否かは、本来は地主の悪行の有無によって行われたが、この時期には地主が所有する土 地の量によって決まっていた。これは、公式には「左傾偏向」として非難されていたものであ る(23)。.  五四指示は、土地分配に関して、「運動の中で獲得した果実は、公平かつ合理的に、困窮して. いる烈士の遺族、抗日戦士、抗日幹部とその家族、そして、無地量地の農民に分配しなければ ならない」と規定しているのみで、五四指示の土地分配は、均分思想よりも革命に対する報奨 に傾いているように思われる。そして、事実、五四指示の土地分配の目的は、土地均分ではな く、封建的搾取の廃絶であると、毛沢東も劉少奇も明言している(24)。.  1946年7,月になると、国共の全面的な内戦が始まり、中共は統一戦線協定に配慮する必要 がなくなった。その上、軍事情勢が不利に展開したために、農村人口の7割を占める貧農の支 持を確立する方針へと転換した。そして、1946年夏に、「封建搾取の廃絶」から「すべての農 民の翻身」が強調されるようになった。この意味は、すべての農民が中農程度の土地を得て自 作農になることである。これまでの小作農関係の廃絶から、すべての農民が独立自営農になる 8.

(11) ことが目標となったのである。しかし、翻身の強調は、土地不足の問題を顕在化させることと なった。現実的には、すべての地主の財産を没収しても貧農の消滅には不十分であった。その ために、地方党委員は村幹部に「封建のしっぽを切れ」と命じた。それは、地主、富農、悪覇 (悪徳地主)等の子孫にまで清算闘争を展開するということであった。この指示により、地主・. 富農の全てと中農の大多数が闘争対象となり、五四指示の統一戦線は破壊された。五四指示が 出されてから2∼3ヶ月の間で、「すべての農民の翻身」が、地主・富農の保護だけでなく、中 農との団結にすら優先するようになったのである。公式に闘争の対象となるのは、漢画と悪道 であったが、その定義は曖昧であったため、富農・中農も場合によって闘争の対象とされた。 しかも、階級分析の基準は地方の裁量:に任されていた(25)。.  1946年10月、この時から党の公式文書は土地改革という名称を用い始め、この秋に一般的 な土地改革が党の公式政策となった。.  1946年秋、中共は過去3カ月の運動を総括した。総括の結論は、土地改革は未完であると いうものであった。土地改革が進めば進むほど、すべての農民の翻身には果実が足りないこと が明らかになり、そこで注目されたのが村幹部の資産であった。総体的に村幹部たちは中農に 上昇しており、地主・富農の財産がなくなった段階で、幹部たちは村内で資産家になっていた。. したがって、すべての農民の翻身が目的であれば、幹部たちが闘争対象となるのは時間の問題 であった。しかし、軍事情勢が不利に展開したために、中共は解放区内の混乱を恐れて、幹部 を闘争にかけることを許さなかった。末端幹部は党と大衆を結ぶ絆であり、彼らが大衆から孤 立してしまうと、党にとって命取りになりかねなかったのである(26)。.  1946年10∼12月の期間に、7つの地区の行政機関が土地改革条例を制定・公布している。 五四指示と違い、明解な土地改革の条例である。この条例の最大の特徴は、分配規定が詳細に されていることである。分配の基本原則は、頭割り均等で、そのために標準的土地所有および 政府と農会による「統一分配」という概念が導入され、標準的土地所有はその地区op中農の土 地所有量とされていた。つまり、土地改革の目的は、統一分配によって村民一人一人の土地所 有量を、その地区の中農一人あたり土地所有量とほぼ等しくすることである。したがって、過 去の悪行に対する賠償および闘争における積極性に対する報酬という原則に基づく個別的な清 算は、事実上は禁止となった(27)。.  また、階級分析を重視するようになったのは、この冬の運動の特徴といえる。例えば、新富 農・新中農は旧富農・旧中農と区別され、中農は上層中農と下層中農とに区分された。均分主 義への傾斜と果実不足によって富農は地主と一体化され、階級敵とされるようになっていた。. 1947年末に、毛沢東は富農資産の部分的没収を正当化している。その理由として、富農は一般 的に封建的な性質を持っていること、富農資産を没収しなければ貧農の要求を満たせないこと 9.

(12) を挙げている。中共指導部は、富農の保護が全農民の翻身と両立しないことを認め、富農の保 護を断念した。しかし、中農との団結はまだ諦めてはいなかった。諦めてはいなかったが、党 指導部の最大の関心事は、最大多数の農民の発動であったために、中農利益の侵害も避けられ ない情勢であった(28)。.  果実不足の原因の一つは、果実が村幹部や積極分子に集中していたことにあった。しかし、. 実際には平均的な中農になれる程度のものを獲得したにすぎなかった。問題は、幹部や積極分 子は翻身しているにもかかわらず、一部の貧困者がなお貧困のままということであった。幹部 たちが取り過ぎた果実を返還し、貧困層に再分配する運動のことを「顔を洗う」運動と呼んだ。. この運動は、元来、果実の分配を調整するために始められたが、まもなく、基層幹部を対象と する一般的な整風運動となっていった(29)。.  1946年5月に五四指示が出され、1947年夏には、一般的に土地改革は五四指示の目指した ものを完了していたと田中氏は五四指示下の土地改革を評価している。旧支配層は、土地から 日用品に至るまでほぼ全ての資産を失い、権力と威信は打倒され、闘争の果実はほぼ公平に分 配され、ほとんどの農民が闘争に参加した。中共が土地改革:で達成可能なものはほぼ全て達成 していたのである。しかし、中共はユ947年半ばに、土地改革は未完であると判断したために、. 冬から春にかけてさらに均分化政策を進めた。この時には、すでにできる限りの均分を達成し ていたので、党が新たに均分政策を実施するとすれば、もはや絶対均分しかなかったのである (30).. 第五節  「土地法大綱」による貧雇農路線.  第四節で前述したように、1946年末頃に中共の指導部は、一部の者が土地改革の果実をより 多く取ったという認識を持つようになっていた。この一部の者とは、村幹部のことである。党 指導部は、平等主義への傾斜が強まるにつれて、新中農・新富農を単なる富裕層としてみなす. ようになっていた。まして、1947年2月までには、指導部は下級幹部を土地改革前進の障害 とみなすようにまでなっていた(31)。.  分配における「大衆路線」を強調し、幹部と積極分子に他の者よりも多く分配することを禁 止した。事実上の分配のやり直しを命じているのである。その方法として、新たな積極分子を 村政権に入れ、階級教育を強化し、「蜆化分子」(堕落して敵にまわった者)を洗い出し、「大衆. 路線」を徹底するのである。この大衆路線は「なんでも大衆の言う通りにやる」というスロー ガンを唱えているが、これは後に「追随主義」として批判されているものである。党指導部は、. 過半数の基層幹部は、土地改革に対して無意識的に緩やかな態度をとっていると考えていた。 富農である幹部は、貧農から上昇した者、地主から下降した者を含めて、「富農思想」を持ち、 10.

(13) 富農の生活水準を維持しようと利己的に行動しているというのである。もし村の党支部の中心 メンバーがこのような状態であれば、党は末端レベルで「蜆化分子」に支配されているという こととなるのである。これを「党組織の不純」と呼んでいる(32)。.  1947年7月17日から9E13日まで、河北省平山県西柏披歴において、中国共産党全国土 地会議が開かれた。この全国土地会議の開催責任者は、中央土地改革委員会主席の劉少奇であ る。この会議の目的は、党組織の不純という深刻な状況を確認させること、そしてこの問題を 解決して土地改革を完成させるための新政策を発表することであった。土地改革徹底のための 鍵は、ます党の隊伍を整えることにあり、土地改革は必ず整党と結合して推進することとした。 そして、頭割り均分原則を承認し、中国土地法大綱を起草し、9,月13日に閉幕した(33)。.  「中国土地法大綱」(以下、「土地法大綱」)は、1947年10月10日に公布された。この土地. 法大綱は、五四指示と違い最初から公開されていた。また土地法大綱は、1950年6月30日の 「中華人民共和国土地改革法」の公布までの期間、最も重要な土地政策文書であった。この土. 地法大綱の二大原則は、土地の頭割り均分と村の「民主」である。第一条から第三条には、封 建的・反封建的土地制度の廃止、耕す者が土地をもつ制度の実施、地主・寺院・学校・機関・. 団体の土地所有権の廃止、の3つを掲げている。つまり、地主などの土地を全て没収し、農民 に均分するのである。均分原則の下では、地主も富農も幹部も平均的な農民より多くの土地を 所有することは許されないのである。しかし、従来通りに村幹部が実施すれば、同じ結果とな るので、そのために「民主」が必要であった。この民主とは、村の権力を幹部から取り上げて 貧農の手に移すことである。農会に代わって権力を与えられたのは、貧農団などの新たに組織 された機関であった。この「民主」の下で実施される政策は、土地法大綱六条に規定されてい る。均分の方法は「乱打平分」ではなく、部分的な調整の「抽多補少(多いところがら取って 少ないところを補う)、抽頭嚢痩(肥えたところがら取って痩せたところを補う)」である。分. 配対象は、ほぼ全ての村民に同じ分配量を与えることで、そこには地主も国民党の軍人や国民 政府の官僚なども含まれていた。例外は、漢好(34)・売国奴本人と内戦の戦犯本人だけである。. しかし、全国土地会議において強調されたのは、地主・富農との闘争であった。土地法大綱八 条で、「土地以外の財産(家屋・農具・家畜・食料・家具・その他)は、地主からはその全てを 『接収』し、富農からはその『余分』を『徴収』する」という規定があるが、「余分」について の定義はされていない。また富農の多くはすでに地主とともに「闘争対象」となっていたため、. 富農に平均以上の保有を許す理由はなかった。規定の中で、「接収」と「徴収」と言葉は区別さ. れているが、この2つの言葉に違いは全くなかった。この「土地法大綱」下での土地改革の最 大の特徴は、富農の土地・財産の「抽多補少」が遂行されている点である(35)。.  土地法大綱の精神は、貧雇農に依拠し、地主を打倒し、土地を均分し、貧雇農の要求を十分 11.

(14) に満足させ、彼等を徹底的に発動することにある。これまで強調されてきた「中農と団結する」 は言及されず、従来これとセットになっていた「貧福農に依拠する」が強調されるようになり、 これが第一原則で、中農の利益保護は第二原則となった(36)。.  しかし、この指導部の正そうとした「党組織の不純」という認識は、非現実的であり、また 中共の目指した農村革命と矛盾するものであったと、田中氏は指摘している。貧農出身の積極 分子が、革命を通じていくらかの資産と権力を獲得したために、階級敵に変質するのであれば、. 農村革命は無意味なものである。権力を持つと幹部は必ず変質するのであれば、定期的に革命 を繰り返して幹部を交代させる必要が出てくる。これでは、幹部の権威と士気は崩壊し、農民 は生産意欲を失い、党の権力基盤が危うくなるからである(37)。.  中共は、土地法大綱に続いて「農民に告ぐる書」を公布した。内容は、中国の旧社会制度と 土地制度の不合理を指摘し、農民の手で開墾された土地や作られた果実は農民の手に帰すべき ものとして、その徹底を呼び掛けている。「農民に告ぐる書」の中で、農村の政治機構を改革す. る方法は以下のように規定されている。工作隊が村に到着すると、党支部の全メンバーの会議 を開催し、土地改革およびその関連の政策を説明し、党員・幹部に貧農団の支持を命じ、無地 心地の農民の集会を準備して、無地画地の農民のリストを作成する。無地面谷の農民のリスト ができると、リストに基づいて貧幽幽会議を招集し、貧農団と新農会を村の最高権力機関とす る。村政権の純化過程として、村幹部の審査を行い、大衆の不満の的となっている者を罷免す る。この運動の最も重要な点は、幹部の中から階級異分子や蜆化分子を一掃し、貧農に権力を 握らせることである。しかし、階級異分子や蜆化分子に握られている党支部がこの指示に素直 に協力するとは考えにくいが、工作隊に対して村の党支部が抵抗することはほとんどなかった。 村幹部による土地改革の妨害は、指導者たちの幻想にすぎなかったのである(38)。.  農民による幹部の審査について「農民に告ぐる書」は、全幹部が農民の「監督・審査・批判・ 処罰・表彰・教育」を受けるよう要求している。そして、農民が望めば、幹部を「批判・闘争・. 処分・罷免」できるとしている。幹部のよしあしを判断する基準は、幹部と農民との関係であ るから、大衆のみが判断できることである。これは、事実上、基層幹部に過酷な審査・処罰を 課すものである。そして、批判や告発に対して、幹部に釈明のチャンスはなかった(39)。.  1947年秋から冬にかけて、中共機関・団体は、すべて整党を行った。この整党は「三査」運 動(査階級・査思想・査作風)と呼ばれた。闘争のターゲットとされるのは、3種類であった。 ①階級異分子(地主・富農)、蜆化分子、党内の投機分子、②悪い思想、③悪い作風、である。 これらは三査運動(査階級、査思想、査作風)の対象であった。悪い思想とは、地主富農思想、. 敗北主義、自由主義、プチブル急燥病、流眠破壊思想、派閥主義、地方本位主義、軍閥主義、 独尊主義、自盛思想、などである。悪い作風とは、主観主義、官僚主義、命令主義、国民党作 12.

(15) 風である。悪い思想・作風は、明確に定義されたものではないため、どんな模範的な幹部であ っても、誤りを犯したことがないとは言い切れなかった。この定義の不明確さは、全ての幹部 に過去の誤りを認めさせて公式見解を受け入れさせるのには便利であった。誤りを繰り返さな いために、幹部たちは極端に走らざるを得なかった。しかし、厳しいチェックの結果、幹部た ちのほとんどが農民出身と認められ、指導部の信じた「組織の不純」は存在しないことが判明 した(40)。.  三曹運動が行われる一方で、犯罪を厳しく罰する法令を制定した。犯罪とは、土地改革の破 壊、幹部の腐敗、階級敵の保護、敵のスパイとなる、などである。法令違反の者を裁く人民法 廷は、死刑宣告の権限を与えられた。天野氏は、この人民法廷の手順について東北解放区を例 として、詳細にされている。東北解放区では、村人民法廷と区人民法廷に分かれていたようで. ある。村人民法廷は審判委員7名がおり、その内訳は6名が村農民大会から選出され、1名は 区政府が派遣して、審判委員会を組織し、主席1名、審判員2名、検察員3名、書記1名から 構成されていた。区人民政府は審判委員5名がおり、その内訳は4名が区農民代表大会によっ. て選出し、1名は県政府が派遣して、審判委員会を組織し、主席1名、審判員1名、検察員2 名、書記1名から構成されていた。任期は半年であった。審判委員会の会議は、主席によって 招集し、会議の決定および案件の判決は、討論を経て、多数決で通過し、主席がこれを公布執 行するというものであった。審判委員会は、犯罪の質によって次のような判決をしたようであ る。大衆の前で自己批判をする、賠償、罰金、労役、公民権の剥奪、監禁、死刑あるいは無罪 の宣告である。これは村における大衆裁判であり、事実上、霊媒農による「乱打乱殺」が合法 化された。村幹部は、さまざまな罪で告発され、しかも救済も期待できなかった。この時期に、 多くの幹部が自殺した(41)。.  1947年末から48年初頭にかけての急進的な土地改革の時にはすでに、中農は農村人口の5 ∼8割にまで増えており、児型農は1∼4割にまで減少していた。この直雇農の中には、怠け者 や流町(42)が多く存在し、村の指導者としては不適格であった。逆に、中農こそ最も信用でき. る者であったと、田中氏は強調している。女早農はすでに農民の少数派にすぎず、その中には 村の鼻つまみ者も含まれていたのである。貧農路線の下で、階級区分の誤りの問題が悪化した。. それは、貧雇農が土地改革の実施権を自己利益のために使ったからである。貧雇農は自分への 分配を最大化するために、本来は中農である者を地主・富農として果実の分配量を増やそうと したりした。基本的に教師と学生を指す「知識人」も、誤って闘争の対象とされた。彼等の多 くは地主・富農出身であり、肉体労働をしなかったからである。個人的な恨みや嫉妬も、階級 区分の誤りの原因となった。貧農路線になったことで、貧農の主張が明らかに間違いであって も、異議を唱えることが難しく、異議を唱えれば、階級敵を保護し、貧農の指導権に反対した 13.

(16) として、糾弾される恐れがあったのである(43)。.  貧道農路線によって「乱打乱殺」がピークに達し、地域によってはおそろしい状況となって いた。「封建の消滅」とは地主・富農とその家族の肉体を消滅させることだと誤解していたので. ある。地主との闘争が地主の処刑に変わってしまっていたのである。また、悪質な貧雇農が指 導権を握り、区や村の幹部が逃走・自殺したという報告も多数あるようである(44)。.  貧雇農路線によって起こる中農攻撃は、経済的損失を生じさせた。農民たちは、土地に肥料 や労力を投下することをやめたのである。耕している土地が没収され他人に分配されるのであ れば、これに投資するのは馬鹿げたことである。この貧雇農路線が中共に損害を与えたことは 間違いなかった。このために、この急進政策は数カ月で放棄されることとなった(45)。.  晋察翼辺区のリーダー鼻聾は、左傾の危険性について1941年の時点ですでに報告書を提出 している。この報告によると、闘争が急進化したのは、農民がすでに発動されていたからであ り、農民が立ち上がった後の最大の危機は左傾であると断言している。左傾の一つに、富農を 闘争対象とすることが挙げられている。闘争が繰り返され、富農が地主と同じように扱われれ ば、中農は富農に上昇することを恐れて増産に熱を入れず、解放区の経済発展に障害となる。. 階級区分の基準が曖昧なために、中農自身も安全の保証はなく、そのため貧農も中農への上昇 をためらった。また生活の改善を富の再分配にのみ頼るのは社会的な投資を消費にまわすこと となった。富裕層は没収を恐れて蓄積を消費にまわすので、投資は停滞し、経済は衰退した。. 乱打乱殺などの暴力の多用は、社会不安を引き起こし、全般的な経済活動の意欲を減退させた のである(46)。. 第六節 貧大農路線の見直し.  1947年11月に毛沢東は、任弼時に土地改革問題を研究するように指示した。任適時が極左 現象は普遍的発生という結論を出し、毛沢東がこれに対する緊急的な対策が必要と認めたのは、. 12月のことであった。1948年1月12日に、任弼時は西北野戦軍前線委員会拡大会議で、講話 「土地改革におけるいくつかの画題」(47)を行った。この講話のテーマは極左現象の是正一本 であった。注目すべきは、中農の誤った階級区分問題が最も重視されていることである(48)。.  過去の階級区分の誤りを指摘し、1933年の2文書「急様分析農村階級」と「關於土地改革 中一越問題的決定」に基づいた正しい区分の方法を示し、1948年5,月24日に「急様分析農村 階級」と「關魚座地改革中心漏斗題的決定」の2文書を公式文書として再公布した。その中心 は、中農を地主・富農とする誤りの是正であり、特に中農と富農との境界に気をつけている。. 1933年の規定が搾取による収入が連続3年以上総収入の15%を超えている者を富農としてい たのを、25%に引き上げ、それ以下を中農としている(これは第二章で説明する「政務院補充 14.

(17) 決定」のことである)(49)。.  中農保護の理由は、中農の支持を得なければ内戦に勝利できないという政治的意味と、土地 改革後は中農の生産力が頼りという経済的意味の2つであった。任弼時は、経済の観点から、 地主は階級として消滅した後は農民と同等の土地を分配し生産に役立てるべき、勤労によって 富農となった「新式富農」は中農として扱い土地に手をつけてはいけないなど、中農以外の左 傾是正も行っている。また経済的理由から、商工業と知識人の保護にも触れている。任弼時の 講話は、左傾による政治的・経済的損害の重大さを初めて認めたものであるが、極左現象と均 分政策が一体であることを把握し、稼策を手直しすることにはまだ到達していなかった(50)。.  毛沢東は1948年2H3目に「異なった地区で土地法を実施するうえでの異なった戦術」(51). を出した。この中では、老区(1945年8月以前に解放)、半磁区(1945年8月∼1947年8月 の間に解放)、新区(1947年9月以降に解放)の3種に分けて実施方法を示している。老区は、 土地改革:が進み、中農が大多数を占めるに至っているので土地法大綱に基づく改革をやり直す 必要がないとしている。半老区は、土地改:革がまだ不徹底なため、土地法大綱通りに実施する. ようにしている。新喪は、地主・富農の勢力が強いので、これを一挙に打倒するのは難しいと して、大綱の実施を2殺階に分け、まず地主だけを対象とし、貧農団を組織してから、富農の 余分の土地・財産の分配に移るように指示している。またどの地区でも土地改革に約3年かけ るべきとしている。この地区の分類によって中共は初めて土地改革がほぼ完了している地区が 多く存在していること、そしてこのような地区で「乱打平分」は必要ないことを認めた(52)。.  1948年2月11日に出された「土地改革の宣伝における左傾の誤りを是正せよ」(53)では、 「貧雇農路線」を批判している。「貧雇農路線」を推進したために、左傾に陥り、中農との団結. を無視したと批判している。また「追随主義」は誤りとし、党の正しい政策に反するとして非 難している。.  1948年2月22日に出された「磁区と半挿区において土地改革工作と整党工作をおこなうこ とについての指示」(54)によって、中共は一般政策としての絶対均分を放棄した。この指示は、. 老区・半幅区を土地改革の進展の程度に応じて第一、二、三位地区に分け、それぞれ異なった 土地改革の方法を指示している。.  第一類地区とは、中農が5∼8割を占め、そのうちの半数以上が新中農であり、貧雇農は地 主富農から下降した者も含めて全人口の1∼4割に減少し、地主・旧富農はごく少数となり、 新富農の数は旧富農をしのぎ、中農と貧血農の平均所有地の差が3対2程度である地区である。 これらの条件を満たしていれば、土地均分は終わったとみなすべきであり、再均分の必要はな く、部分的な調整だけでよいというものである。.  第二類地区とは、中農が人口の2∼4割程度で、そのうち新中農が半数以上であり、貧雇農 15.

(18) は人口の5∼7割を占め、しかも、その大多数が未翻身である。中農と貧雇農の平均所有地は 大体2対1の差があり、地主・旧富農が比較的多く残っており、新富農が少なく、工作幹部の 多くが比較的良質の土地・財産を比較的大量にもっている。これらの条件を満たしていれば、. 全面的再均分の必要はなく、比較的広範囲の調整を行えばよい。しかし、一部の特殊な地方で は、大多数の農民の要求と中農の同意があれば再分配すべきである。.  第三類地区とは、過去に改革がなされていない、あるいは、なされていても失敗に終わって いる地区で、ここでは均分政策を完全に適用し、地主の土地・財産を没収、富農の余分の土地・. 財産を徴収、一部の中農の余分の土地は同意を得て抽出し、均分する。しかし、中農所有地で 一般農民の平均所有地より1割多い程度のものは手をつけるべきではない。.  この2月22日の中央指示で、初めて現象的是正から、部分的ではあるが、基本政策の修正 へ飛躍した。土地改革が完成に近づいている地区がかなりあることを認め、均分政策の適用地 区を大幅に縮小した。これは事実上の土地法大綱の放棄であった(55)。.  1948年初頭頃から、土地改革そのものよりも左傾の是正を優先させる文書が出てくる。偏向 是正の焦点は中農の保護にあり、これを貫徹する姿勢が見られる。注目すべき点は、貧雇農の 要求満足にまったく言及していないところである。明らかに、力点は貧雇農の要求満足より中 農保護に傾いているのである。しかし、土地法大綱の均分政策が全面的に放棄されたというわ けではなかった。1950年の「中華人民共和国土地改革法」が制定されるまでは、土地法大綱が 公式の基本法であったからである。左傾偏向は、あくまで実施面での誤りとして処理された(56)。.  1948年初頭の毛沢東の党内指示によって絶対均分の放棄を明らかにされているが、基本原則 は依然として頭割り均分である。大衆審査による整党も、多くの場合、以前の幹部が承認され た。結局、灘区・半漁区では、1947年秋までに土地改革はほぼ完了しており、内戦期の土地改. 革は48年夏秋の左傾是正をもって事実上終わっていたと、田中氏は解放前の中共の土地改革 について結論付けている(57)。.  天野氏の中共の土地改革の評価は、土地の均分は経営がなりたたない規模の零細農家を創出 するもので、経済的にはあまり意味がなく、それよりも土地改革の最も重要な意味は政治にあ るとしている。中共は土地改革によって農民の政治意識を高め、農村の従来の封建制社会をひ つくり返し、農村の中にまで権力を広げたのである。ここに従来の農村にはなかった新しい相 貌が見られると結論付けている(58)。. 註. (1)「中華人民共和国土地改革法」 第1条1950年 16.

(19) (2)劉少敵 『新中国の土地改革』  「土地改:革問題に関する報告」 中国研究所 1951年 (3)田中恭子  『土地と権力』 名古屋大学出版会 1996年 (4)同上 pp.80−82 (5)同上 pp.82−83 (6)同上 p.84 (7)同上 pp.85−88 (8)同上 pp.89−91. (9)同上 pp.91−100. (10)同上 pp.100−105 (11)同上 pp.105−108 (12)同上 pp.108−111. (13)『毛沢東選集』第3巻 「連合政府を論ずる」(1945年4月25日) (14)田中氏 前掲書 pp.128−134 (15)同上 pp.134−138 (16)同上 pp.138−143 (17)同上 p.148.   田中氏は「陰地委関於目前群衆運動的指示」から引用している。 (18)同上 pp.143−148. (19)天野元之助  『中国の土地改革』 アジア経済研究所 1962年 (20)田中氏は『土地と権力』の中で近年の実証研究として以下のものを挙げられている。   ’ Tetsuya Kataoka, Resistallee and Re volution in China :The Comm unists and the  Second United Front (Berkeley :University of California Press, 1974).   ’ Mark Selden, The Yenan Way in Re volu tionary China (Cambridge, Mass.:Harvard.  University Press, 1971)   . Yung−fa Chen, Making Revolution :The Communist Movement in Eastern and Central  China, 1937−1945 (Berkeley : University of California Press, 1986).   ・ Carl E Dorris, “Peasant Mobilization in North China and the Origins of Yenan  Communism” The China euarterly, 68 (December 1976), pp.697−719   . David Mark Paulsen, “War and Revolution in North China :The Shandong Base Area,  1937−1945,” Ph. D. dissertation, Stanford University, 1982.. (21)田中氏 前掲書 pp.165−167.   天野氏 前掲書 pp.23−26. 17.

(20) (22)『毛沢東選集』第4巻  「目前の形勢と我らの任務」(1947年12.月25日) (23)田中氏 前掲書 pp.170−177 (24)同上 pp.178−180 (25)同上 pp.183−193. (26)同上pp.193−198 (27)同上 pp.198−199 (28)同上 pp.207−212. (29)同上 pp212−216 (30)同上 p.216. (31)同上 pp.236−241 (32)同上 pp.241−250 (33)同上 pp,253−261. (34)漢土…民族の裏切り者の意。日中戦争で日本に協力した中国人を指す。 (35)田中氏 前掲書 pp.262−267.   天野氏 前掲書 pp.46−54 (36)田中氏 前掲書 pp.269−272 (37)同上 pp.250−253 (38)同上 pp.286−292.   天野氏 前掲書 pp。55−57 (39)田中氏 前掲書 pp.292−295 (40)同上 pp.302−305. (41)天野氏 前掲書 pp,54−55.   田中氏 前掲書 pp.307−311. (42)流下…無頼漢およびその無謀な行動の意。歴史的には、土地を失った農民などが流民とな  り、社会秩序を乱し、一般人を脅かすことを指す。 (43)田中氏 前掲書 pp.311−323 (44)同上 pp.326−329.   田中氏は、大行『新華日報』(1948年3,月5日・3月21日)などを参考にしている。 (45)同上 pp.323・326 (46)同上 pp.118・120.   田中氏は、彰真『電炉晋察翼辺区党的工作和具体政策報告』北京、中共中央党校出版 1981.  年、当振銀「対発動群衆中個別地区的厳重偏向的意見」山冠翼辺区工・農・婦・青・回各団.                     18.

(21)  体合編『群衆』新2巻第11期、頼若愚『四四年冬期以来減租運動総括』出版地不明 太行  区党委 1945年を参考にされている。 (47)田中氏は、「中央梢案館 一〇三」を参考にしている。 (48)田中氏 前掲書 pp.353−356. (49)同上pp.343−346 (50)同上 pp.353−361. (51)『毛沢東選集』第4巻 「異なった地区で土地法を実施するうえでの異なった戦術」(1948.  年2月3日) (52)田中氏 前掲書 pp.365−369. (53)『毛沢東選集』第4巻  「土地改革の宣伝における左傾の誤りを是正せよ」(1948年2月  11日). (54)『周恩来選集』上巻 pp288−296 (55)田中氏 前掲書 pp.372−376 (56)同上 pp.383−387 (57)同上 pp.400−402. (58)天野氏 前掲書 pp.107−109. 19.

(22) 第二章 中華人民共和国の土地改革方針 第一節  「中華人民共和国土地改革法」について.  第一章では、中華民国時期の土地改革について述べたが、本稿の取り扱う「寧波」は1949 年に解放された地域である。そして、土地改革が実施されるのは郷によって異なるが、1950. 年末から1951年初頭に開始されている。そのため、寧波における土地改革は、1950年4月に 公布された「中華人民共和国土地改革法」に基づいて実施されている。そこで、第二章では、 「中華人民共和国土地改革法」について分析することにする。.  1933年に瑞金民主政府は、土地政策の基本方針として「急様分析農村階級」(以下、「農村階 級」)と「關於土地改革:中一些問題的決定」(以下、「問題的決定」)という2つの文書を作成し、. 解放区での土地政策の方針としていた。「農村階級」の文書の中では、「地主」「富農」「中農」. 「貧農」「労働者(雇農)」という主に5つの階級の区分について規定されている。「問題的解. 決」の文書の中では、土地政策の進行中に発生した多くの問題について規定している。多くの 問題とは、「農村階級」の中では規定されていなかった「遊民」や「宗教職業者」などの少し特 殊な身分の者に関する規定や、「地主・富農・資本家と労働者・農民・貧民の相互の結婚後の階. 級身分」という複雑な問題なども規定している。そして、中央人民政府は1948年5月25日の 中共中央会議で改めてこの2つの文書を公布することを決定した。これは、第一章で前述した 「土地法大綱」下の貧雇農路線による階級区分の誤りを是正することが目的である。.  中華人民共和国が建国されてからの土地改革の基本となる文書である「中華人民共和国土地 改革法」(以下「土地改革法」)は、土地改革を正確に実施するために決定されたものであり、. 1950年6月28日に中央人民政府委員会第8次会議を通過し、1950年6.月30日に正式に公布 された。そこには、土地改革中の土地の没収や分配方法などが定められている。.  その後、中央人民政府は1948年に改めて公布した「農村階級」と「問題的決定」の2っの 文書に「政務院補充決定」という補足となる文書を追加し、また同時期にこの2つの文書以外 に「政務富士若干新決定」(以下、「新決定」)という新しい文書を作成し、1950年8月4日に. 政務院第44次政務会議を通過させ公布した。この新しく公布した「新決定」の中では、農業 ではなく工業・商業に関する者の身分の規定や複雑な状況の者の身分の規定がされている。.  この「政務院補充決定」という項目と「新決定」という新しい文書の補足が行われたという ことは、逆に補足をしなければならないような状況が起こっていたということである。「政務院. 補充決定」の中で最も多いものは、階級区分についての補足決定である。つまり、第一章で前 述したように、中央の考える階級区分と各地方で土地改革を実行する者との問ではズレが生じ ていることが多々あったのである。. 20.

(23)  中央政府は1952年に改めて「土地改革法」を公布し、同時に、その附則として「政務院補 充決定」を加えた「農村階級」と「問題的決定」の2つの文書と「新決定」の計3っの文書を まとめた「中央人民政府政務院關於鍋分農村階級成扮的決定」という文書を公布した。もし再 公布した「農村階級」、「問題的決定」、「新決定」という3つの文書の解釈が「土地改革法」と. 異なるようなことがあれば、「土地改革法」に基づいて執行するように定められている。.  「土地改革法」は全40条からなっており、土地の没収・土地の分配・特殊な土地問題の処 理・土地改革の執行機関と執行方法が規定されている。第1条には、「地主階級の封建搾取の 土地所有制を排除し、農民の土地所有制を実行し、それによって農村生産力を解放し、農業生 産を発展させ、新中国の工業化のための道筋を開拓する」(1)とある。つまり、当時の中国の目. 的は工業化であり、そのために土地改革を行うことによって農業生産力を発展させたかったの である。.  1950年6H30日に公布された「土地改革法」と1947年10月10日に公布された「土地法 大綱」との最大政策変更点は、富農の土地・財産を動かさないとしたことである。中共は国共 内戦に勝利したために、農村での激烈な闘争をする必要がなくなり、むしろ富農経済を保存す ることによって、生産の回復を図ったのである。もう1つの変更点は、「土地改革法」では、 喜平農民(元から耕作している農民)の耕作権の尊重とともに、その分配地は無地・墨書の農 民よりもいくらか多くなるように配慮されている。これは、「土地法大綱」の絶対均分を完全に 否定するものである。つまり、「土地改革法」はこれらの変更点を前面に押し出すことによって、. 「土地法大綱」の下で農村中に生じた混乱現象をできるだけ避けながら、農民的土地所有制の 確立を目指したのである(2)。. 表1−1 土地政策文書の公布年. 1933. 「農村階級」「問題的決定」公布. 1948.5. 「農村階級」「問題的決定」再公布. 1950.6. 「土地改革法」公布. 1950.8. 「農村階級」「問題的決定」にそれぞれ「政務院補充決定」を追加して公布 u新決定」公布. 1952. 「土地改革法」再公布. ッ時に、「農村階級」「問題的決定」「新決定」の3つをまとめた「中央人民政府. ュ務院關於華分農村階級成扮的決定」を公布. 21.

(24) 第二節 土地改革:の流れ.  1949年以降の新解放区における土地改革の流れを天野元之助氏の研究(3)を基にまとめるこ とにする。.  1950年7月から10月までを新解放区の土地改革の準備期間とし、各省でそれぞれ「土地改 革実施細目」というものを定め、幹部の訓練、軟組織の整頓、土地改革の宣伝等の準備に当て、. 11月から12月にはその典型試験を進め、翌年の1951年から広範に土地改革を実施する計画 が立てられた(4)。.  新解放区の土地改革の流れは、まず土地改革の準備段階として、国民党の残党や匪賊を掃討 し、減租退押を行う。そして、更々に数人1組の工作隊が送り込まれ、工作隊は村に入ると、 農民に対して土地改革の政策を説明する。この説明によって地主階級の欺隔を暴きだし、農民 の階級意識を高める。そして、貧雇農の中から積極分子を見つけ出し、彼らを中核として貧雇 農を組織し、その後に中農も吸収して農民協会を設立する(農民協会の指導機構は、貧雇農出. 身者が3分の2を占め、残りの3分の1が中農から選ばれた)。農民協会ができると、様々な 農民会議を開き、農民の口から地主階級に属する人物の罪悪行為を暴きだす。そして、人民政 府は土地改革の期間中、人民法廷を組織して農民の闘争を支持する。この実際の闘争を通じて、. 農民大衆の政治的自覚は必然的に高まり、これを土台にして階級区分を行う。つまり、農民協 会を中心に大衆が討論して、農村の階級身分を決定する。階級区分が終わると、地主の土地や その他の財産を没収して、公平かつ合理的に分配する。最後に、農民に土地所有証を与えて、. 農民の土地所有権と財産権を法律ではっきりと決める。これではじめて土地改革は終了するの. である。これが土地改革の進め方であり、1つの村で土地改革が終わるには約2カ月がかかる と天野氏はされている(5)。.  この天野氏の研究の土地改革の流れを簡単にまとめると以下のようにまとめることができる。 ①残敵匪を掃討し、減租麻裏を行う。. ②数人1組で工作隊が農村に入る。 ③工作隊が貧雇農の階級教育を行う。 ④貧雇農を中心とした農民協会を設立する。 ⑤農民協会が中心となって階級区分を行う。. ⑥地主の土地や財産を没収して、公平に分配する。 ⑦土地所有証を発行する。  次に、秋山良照氏の『中国土地改革体験記』(6)と福地いま氏の『私は中国の地主だった』(7). を参考にして、天野氏の土地改革の流れと合致するか見てみることとする。.  土地改革工作員として広東省恵陽県新田哺郷新田哺村に入って土地改革を指導した秋山良照. 22.

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