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寧波における土地改革

ドキュメント内 寧波における土地改革 (ページ 35-46)

第一節 寧波における土地改革の概要

 この章では主に『寧波市志』(1)の中の土地改革の記事に基づいて述べ、中央政府の土地改:革 方針と寧波で行われた土地改革を比較し、寧波での土地改革の特徴を明らかにする。

 1949年5月25日に寧波は解放された。同年6月に郵県城区と近郊を区分し、省が管轄する 寧波市を設け、24日に寧波人民政府が成立した。

 1950年4月、中国共産党寧波市委員会は「中華人民共和国土地改革:法」(草案)によって、

土地改革指導部を立ち上げ、小さな郷に区分し、田を調査して登録し、土地台帳を整理し、郷 村農民協会(略称、農会)を立ち上げた。同年9月、中国共産党寧波地委は「中華人民共和国 土地改革法」と霊園省の「関於土地改革若干具体政策的規定」に基づき、寧波の状況に合わせ て、階級区分、土地の没収徴収、土地の分配に関しての具体的な規定を作った。9月差ら12 月、慈漢県の洪塘、洋¥の2郷を試験地として選択し、市、県、区の指導者が参加している土 地改革工作隊を組織し、総勢4900人で1年以上かけて、時期と組を何回かに分けて630郷(塩、

漁区を含む)で土地改革を展開した。宣伝教育、指導者の育成、階級身分の評定、土地の没収 徴収、郷村組織の整理を強固にし、土地改革:の成果を五段階の総括を経て、再検査を通して、

1952年初頭に土地証を出した(2)。

 当時の寧波の新聞である「爾波時報」で、この『寧波市志』で見た土地改革の流れを追って みることとする。「爾波時報」の中では、「土地改革」という単語は1950年6月頃から徐々に 見られるようになってくる。1950年6月30日に中央政府から公布された「中華人民共和国土 地改:革法」と附則の「念様分析農村階級」「關於土地改革中一疑問題的決定」「政務院的若干新 決定」は、「富波時報」の8.月26日の記事に全文が掲載されている。『寧波市志』によると、9 月から12月に慈漢県で土地改革の実験をするとしている。「爾波時報」では、9A2日の記事 に「華東各地は土地改革の準備に一段と力を入れ、幹部を訓練し、試験地を選択し、実験を進 め、12,月初頭には正式に土地改革を展開する」という記述がある(3)。「華東」は、山東・江蘇・

安徽・漸江・福建の省のことであり、寧波市のある漸江省も華東に含まれている。さらに、9 月16日には、「土地改革は原耕の上に抽補調整を行い、慈漢県有壁郷で草粁の栽培の準備をす

る」とあり(4)、「土地改革法」の唱える原耕農民の土地への配慮と、『寧波市志』の洋壁郷を試 験地として9月から土地改革を実施したということが、「庸波時報」からうかがえる。11,月27 日には、華東軍政委員会が「土地改革実施方法」という文書を公布しており(5)、12月から全 面的に土地改革を実施していく様子がうかがえる。ここまでは『寧波市志』の内容と「爾波時 報」との間に異なる点は見受けられない。しかし、残念ながら1951年の「爾波時報」は入手

できていないため、寧波での詳しい土地改革の過程について新聞で見ていくことはできない。

 天野元之助氏の研究では、1950年7月から10月までを新解放区の土地改革の準備期間とし ており、幹部の訓練、諸組織の整頓、土地改革の宣伝等の準備に当て、11月から12月にはそ の典型試験を進め、翌年の1951年から広範に実施するとされている(6)。寧波はこの天野氏の 研究とは若干のズレがあるが、新解放区は広大なため、地域によって少しぐらい差があっても おかしくはない。

第二節 土地改革前の農村状況

 解放前の土地の所有関係は、永続的な小作権(永佃権)が存在していた。太平天国が首都の 南京を建てた後、寧波でも「天朝田畝制度」が発布され、土地を平等に耕作農民に与えた。当 時、地主は外へ逃亡し、土地は荒廃し、農民によって開墾耕作されていた。しかし、太平天国 の革命は失敗に終わり、すぐに地権紛糾が発生し、その結果、土地所有権は太平天国前と同様 に再び地主のものとなった。永佃権は、「到底」と「田面」とに分けられ、「田底」は土地所有 権を意味し、地代のとりたて・土地の売却・抵当の権利を有し、地租を負担した。これを「大 業」と称する。「田面」は土地使用権を意味し、譲渡・又貸しの権利を有し、「田底」所有者に 小作料を払わなければならない。これを「小業」と称する。

 地主階級は土地を貸す、雇用する、高利貸しなどによって農民から搾取し、農民は重い小作 料、過酷な労働、高利貸しの搾取の苦しみを受けた。小作料は地主が農民から搾取する主要な 手段であり、中華民国の時、一般の小作料率は農産物総産量の半分で、高い者で60〜70%であ

った。抗日戦争時期、余銚・慈渓・鎮海の北部と郵県西部などの抗日ゲリラ戦の根拠地では、

地租制の二五減租を定め、つまり小作料を25%減らし(一般の小作料率であれば収穫物の 37.5%)、さらに作柄の良し悪しに応じて差引し、小作料が農作物収穫量の3分の1を超えては ならないと規定し、最高収穫量は1畝毎にもみ400斤(1斤=500g)と規定した(7)。

 小作料形式は数多く存在し、乗組(8)・定租(9)・銭租(10)・甘口(11)・標租(12)・転租(13)な どがあった。一般的な小作料形式は、分租と定租である。山間地帯と塩田地帯では、稲作地帯 とはまた違った小作料形式が存在したようである(14)。

 個人所有の土地は、人口の少ない地主が大量の土地を占有し、貧雇農は人口の大多数を占め ているが土地をほとんど所有していなかった。1949年、寧波市の総面積は1313.14万畝であ り、耕作に適した土地は418.60万畝、これは総面積の31.9%を占めており、そのうち水田が 321.5万畝で、畑地が97.10万畝であった(15)。各階層の土地占有状況は以下の通りである(後

掲表2)。

 地主には、地主が主で商工業が副業という者と商工業が主で地主が副業という者もおり、全 34

部で16853戸あり、総戸数の2.390/・を占め、土地を86.08万畝占有しており、これは土地全体 の21.73%を占めており、1戸平均は55.22畝占有していた。その上、勝田・杷田・義家田な ど124.82万畝をおさえており、これは土地全体の31.90%を占めており、合計すると農村の土 地の54%を掌握していた。

 富農は、8154戸で、総戸数の1.15%を占め、土地は17.10万畝を所有しており、土地全体 の4.32%を占め、1戸平均は22畝占有していた。

 大佃農は、豊かな小作人のことであり、6320戸で、総戸数の0.89%を占め、3.91万畝の土 地を所有し、土地全体の0.99%を占め、1戸平均は6畝占有していた。寧波特有の階層であり、

「アヘン戦争後の5港開港」後、一部の農民は土地を離れ商売を始め、別の農民が農業を経営

した。

 中農は、145707戸で、総戸数の20.62%を占め、73.39万畝の土地を占有し、土地全体の 18.53%を占め、1戸平均は5畝占有していた。

 貧農は、222520戸で、総戸数の31.49%を占め、30.66万畝の土地を占有し、土地全体の7.74%

を占め、1戸平均は1.5畝である。

 雇農は、66107戸で、総戸数の9.36%を占め、1.49万畝の土地を占有し、土地全体の0.38%

を占め、1戸平均はわずか0.23畝である。

 小土地出盲者は、9970戸で、総戸数の1.38%を占め、5.47万畝の土地を占有し、全土地の 1.4%を占め、1戸平均は5.49畝である。

 これらの数値は全て『寧波市志』を参考にしたものである(16)。そして、これらの数値を表 にしたものが以下の表である。

表2 土地改革前の各階層の土地所有状況 戸数

i戸)

戸数割合

@(%)

土地所有

i自適)

土地所有割合

@ (%)

土地所有一戸平均

@  (畝)

地主 16853 2.39 86.08 21.73 55.2一

富農 8154 1.15 17.10 4.32 22.〇一

大膚寒 6320 0.89 3.91 0.99

中農 145707 20.62 73.39 18.53

貧農 222520 31.49 30.66 7.74

雇農 66107 9.36 1.49 0.38

小土地単球

9770 1.38 5.47 1.38 5.5

商工業 5626 0.80 5.92 1.49 10.5

その他 225556 31.92 43.48 10.98 1.9 出典:『寧波市志』上巻 寧波市地方志編纂;委員会編 中華書局出版 1995年 p.336〜343から筆者が作成

 表2の土地所有1戸平均を見ると、地主や富農と判断されるための土地所有数が、大体では あるが見えてくる。まず、地主の土地所有1戸平均は55.2畝と、他の階級と比べて明らかに多 いことがわかる。富農も地主ほどではないが、1戸平均が22.0畝あり、大平農や中農は1戸平 均が10畝以下であることから、土地所有面積が多いことがわかる。

第三節 階級教育

 土地改革の時、「貧雇農に頼り、中農を団結させ、富農を中立とし、地主を孤立させ、徹底的 に封建的搾取制度を消滅させ、農業生産を発展させる」という路線を貫徹して執行し、黒板新 聞、宣伝隊、政治的な夜間学校などの形式を利用して階級教育を進めた。郷の農民代表会を開 き、土地改革の正義性と必要性と政策方針を宣伝し、「誰養活誰」という大討論と憶苦界甜を展 開した。多数の農民は農民協会に加入し、次から次へと立ち上がって地主階級に対して闘争を 展開し、地主階級の政治圧迫と経済上の重い小作料搾取をあばき出した。人民裁判は不法地主 と反革命分子を公開裁判し、農民を支持した。郵県横単寧の12人を殺害した悪徳地主を公開 裁判にかけ、1万人以上の農民が参加し、102人の被害者が壇:上にあがり控訴した。寧波市は 法によって不法地主、土匪およびその他の反動分子を処罰し、階級区分を評定し、土地改革:を 行うための障害を取り除いた(17)。

 この寧波での階級教育は、第二章第二節で筆者がまとめた土地改革の流れの中の階級区分ま での段階と比較してみても、大きな違いは見られない。土地を没収し分配するという本格的な 土地改革に入る前に、まず階級教育によって貧雇農の革命意識を高め、当地の悪徳地主を見せ しめとして逮捕・処刑することによって地主階級に打撃を与え、土地改革の下地をつくる。唯 一違うところと言えば、寧波ではこの本格的な土地改革に入る前に減租を行っていないことで ある。本章第二節で、抗日戦争時期に一部の抗日ゲリラ戦の根拠地で、二五減租を行ったとい うことは述べたが、解放後に寧波全体で改めて減租を行ったかどうかについては不明である。

『鄭縣志』には、解放初期に県人民政府によって減租減息が行われた(18)とされているが、こ れは鄭県のみの話で、寧波全体では行われていなかったかもしれない。とにかく『寧波市志』

には土地改革を行う前に減租を行ったという記述は見られない。田中恭子氏の言うとおり、退 押(=清算闘争)を行った後に減租を行ってもあまり効果がないことは確かである(19)。まし て、土地改革によって封建体制を打破することが目的であれば尚更である。そのために、寧波        36

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