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汪兆銘の対日政策の変遷について -1930年代を中心にして-

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(1)修士論文. 注兆銘の対日政策の変遷について 一1930年代を中心にして一. 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科・領域教育学専攻. MO6213K. 社会系コース. 新地 比呂志.

(2) 次. 目. 目 次. 茎. 序 論. 4. 第1章 第1簾. 江兆銘の生い立ちと国民革命論の形成. 重. 生い立ち(艮本留学前). 2. ヨ本留学時代. 3. 孫文との出会いとその影響. 第2節 1. 8. 江兆銘の生い立ちと思想形成. 孫文の三民主義・対舜観とその影響. 孫文の前期三民主義. 2. 辛亥革命以後の孫文グループの革命運動と中華革命党の結成. 3. パリ講和会議当時の対日観. 4. ソビエト連邦の成立と第1次国共合作. 5. 後期「三民主義」の解釈. 6. 孫文の対翅鞘・対日致策の推移と注兆銘への影響(孫文死去まで). 第3節 1. 重1. 容共左派から分筆・反共へ(国民革命論の形成と変化). 22. 容共左派としての政策. 2. 国共合作期の対潟全. 3. 中全艦事件の勃発. 4. 分共・反共への経緯. 5. 分共以後の国家像. 6. 分与以後の動向. 29. 小結. 第2章 ヨ本の軍事行動と注兆銘の対臼観・対日政策の変化 第1籔 1. 中国ナショナリズムの高揚と日本の軍事行動(北伐から満州事変まで). 広州コミューン事件による注兆銘の失脚と蒋介石による北伐完成. 2. 調政独裁批判. 3. 申国ナショナリズムと反英闘争. 4. 申国ナショナジズムの先鋭化と資中関係(1927年∼1931年). 5. 舞申関係の悪化の漂因、済南事件. 一1一. 31.

(3) 6 満州事変直前の中国ナシ繋ナリズムの昂揚(1929年∼1931年). 7 広州政府期の対肩政策 第2節 1. 満州事変と「一面抵抗一面交渉」から「全面交渉」政策に至る経過. 38. 満州事変の勃発. 2. 満州事変直後の蒋介石批料. 3. 満州事変後の中国の情勢と「一面抵抗一面交渉三論の提起. 4. 困際連盟・ジットンへの封応. 5. 「一面抵抗1の破綻. 6. f一面抵抗、一面交渉」から∫全面交渉」へ. 第3簾塘沽協定以後の江蒋による対幽日協調外交. 5◎. 1 列国の中旨問題かかわ馳注兆銘の対臼政策 2 涯兆銘・蒋介石による封舞協調外交 3 蒋介石の「中霞提携論」. 4 二二銘の辞任表明と蒋介石の権威 5 舞本の華北分離工作とコミンテルン・中国共産党・中国国民党の方針転換. 55. 小結. 第3章 和平運動と注政権の成立 一注政権の日本への抵抗と限界一 第1簸. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2簸. 1 2 3 4. 盧溝二二:件から漁平運動へ. 5$. 員本の華北分離工作く1935年忌)による反日運動と蒋介石のソ連への接近 西安:事件. 帰困後の政治活動 盧溝橋事件・第2次国共合作 霧平論の形成 :難平工作の展開 トラウトマンー作と国際環境. 称平運動と蒋介石批鞠 英米・国際連盟へのはたらきかけ. 漏出工作の本絡化と疇介石政権からの離脱墨. 江政権樹立. 7δ. 宿雨銘の離脱に対する罫重慶政権」の反応. 麹平運動から政権樹立へ 三民主義の解釈 高宗武・晦希聖の離騰. 一2一.

(4) 5. 霞本側の注政権の評極と江自身のジレンマ. 6. 注派の抵抗と中月同盟の締結. 7. 江兆銘の死去∼日本の敗戦. 8. 第2飾 註. 86. 小結. 結 論 第1簾. 1 2 3 第2節. 87. 注兆銘の基本的対旨政策 共存共栄の可能性 193◎年代の「申冒提携」の本質. 江政権の塊繍性. 88. 注兆銘の対日政策の誤算. 83. 第3節 研究成果と課題 註. 9圭. 先行研究. 163. 参考資料. 165. 一3一.

(5) 序 論 20世紀勧頭、β本は中国民族革:命のモデルであった。孫文も清朝打倒のため、19G5年の. 8月、東京で中国嗣盟会を結成している。当時、東京は、申国人留学生を中心とした民族 革命運動の拠点であった。官費留学生として来日していた江兆銘も孫文から認められ、中. 国同盟会発禰の『異報』ωの主筆として活躍していた。江は後に、臼露戦争での日本の 勝纏ま、革命派在留中国人にとって、大いに剃激になったと述懐している。 しかし潤本の大陸への野心は二塁一箇条の要求をはじめ、北伐の妨害、権益確保のため の軍閥の支援、軍事侵攻など、中露ナショナリズムと激しく対立し、最終的に昌申戦争を 引き起こすにいたった。そして対日鶏題の渦申にあり、難しい判断を下さねばならない立. 場にあったのが、蒋介石と注兆銘であった。江兆銘は、一時期は、孫文の国民革命の後継 者と潤されていた。その後、注は鳥総石にポストを奪われ、政権傍流となった。しかし満 州事変鶉発を機に成立した涯・蒋連合政権(1932年1舜に成立)では、国晟党の対臼外交 交渉の要となった.この当時蒋介石・江兆銘ともに共通する政策は、「中日提携」であっ た。. 実質上の最高権力者は、軍事責任者の蒋介石であったが、外交上の責任を負ったのは、 行政院長兼外交部長の和詩銘であった。当時の注吉富は、民衆団体や国民党内部からも、. 売国奴として酷評されていた。1935年11月には、毒悪され、重傷を負っている〈江兆銘暗 殺未遂毒心〉。. その後西安事件・盧溝橋事件が起こり、、注兆銘と蒋介石の外交政策の距離馬宿が撃姶 めた。さらにドイツを棒介にしたトラウトマン工作が失敗し、旨本政府は1938年1月ギ第. 1次近衛声明」を発した。さらに輪差1窮には「第2次近衛声明」といわれる噺東亜秩 序」を登表した.注兆銘はこれに呼.亡し、ついに重慶政権を脱し、後に門歯派南京政権ま を樹立するに至った。. 注兆銘は、賛本が敗戦する前年の1§亡魂に病死したが、涯兆銘政権を支えた幹部の多く は、費本誌戦後、多漢妊」として処飛されている。. ヂ江派南京政建」樹立に封るまでの縫、注兆銘の言行・政策は、中国困内・困外の情勢に. 応じて、大きく変転している。その敢治思想・外交政策は、非常に理解しにくいが、涯兆 銘自身も、次のように述べている轡.. 自分はこれまで沢由の論文を書き、その時々に行った演説も論述として残されている. が、こんなものはさして意味はない。というのも論文も演説も、時流の中で臨機応変 に説いたものであ穆、いずれは色あせていくからだ。中には人々の喝采もあびた論述 もあるが、どれもこれも時がたてば忘れられるだろう。. 本論文では、1%O年代を中心とした旺兆銘の対旨政策の変趣について検討する.19 3台年代は輯申聡鈴緬突と交渉」磯時代である。注兆銘が霞中戦争回避・収束のために、 具体的にどのような「対内政策i「外交活動1「和平運動を行ったかを明らかにし、特に. 一4一.

(6) 下記の2点を視点として、注兆銘の対日政策を検討したい。. ①注二三の日本留学以降から職鐸政罐」樹立までの、中国国内外の情勢・対潟関係と 藩主銘の対露政策はどのように闘連しているのか。 ②注兆銘の「和乎運動」には、どのような背景があり、注鳥沢自身は「絹平運動」の「対. 旨戦略」を中國国家・中国民衆にとってどのような緬値があると醤話していたのか。 そしてその戦賂上の欠縮は穂であったのか。. 研究にあたって. 中二選現代史は従来中国大陸でも、台湾でも、ナショナリズムと政権の正当姓による解 釈が主流であったといってよい。二二二二も『涯精衛・國民蕪・南京政乱読13)で指摘し ている渉、イデオ寡ギー先行の歴史観を排し、冷静・客観的に中国近現代史を検討したい。 先行研究について. 本論文搾成にあた箏参考にした先行研究は巻末に示した。先行研究として特に土屋光芳 氏の著書窪江精衛と蒋注合作政権譲と島山俊氏のガ中國困民政府の対目政策鍛31−193躍 が参考になり、啓発を受けた。. ①郵注精衛と蒋江合作政権坦こついて. 土屋氏藤奮江精義と山江合作政権選は中国国内の蒋介石の「権力まとの関連で、注兆銘の 外交政策を分析約に捉えている。. ・二三合作は蒋優位の下で、品分石が注兆銘の庇護者的、利用者的な立場での外交政策 であった。. ・f和平運勤」においても「一颪抵抗・一面交幽においても、蒋介石に実旛を求める 立場であ杉、鳥山での遂行は不可能であった。蒋介石に推否された段階で、江兆銘は 薪たな理念ギ濡鼠:洲主義まをうちたてた。. ・蒋江合作によ参、注が蒋の代わ穆として、ナショナジズムの攻撃を受けていた。 ※ギ大慈灘主義まの検討 ギ大壷洲主義ま多ま圭屋銑独特の用語である。ガ注精衛と蒋注合作政権露の圭屋氏の定義. は、乱淫と§本旧穀等の立場に立って「アジア人のアジアiを実現することを訴える主義 とした.〈孫文の多大アジア主義3とほぼ瞬義語と考えられるが、孫文のギ大アジア主義ま は、さらに「西欧帝国主義まを打倒することも含まれている。). 注兆銘縁孫文属様に、罫対日連携達を模索していたのは事実である。広い意壕でとらえ ると、積極的か否かは別であるが「大亜洲主義」者で有り続けたといえる。しかし1930年. 代に、鋒本の侵賂ぶ激しくなると、沖§提携」は昌本による申国への被害を最小限に留 めるための便宣的な政策であった。しかも江は、「対冒直接交渉」のみを欝臼政策として いたわ1すではない.ギ英米・濁際連盟3との交渉も注兆銘の規外政策に包含されていた。. 盧溝橋島島以後は特に、眠生の安定ま「国家の建設」のための一時的な妥協策であり、 全面的に罫大霜灘主義まに転換したわけではない。一般書や中国近代史の研究で、f注派. 南京敢樹を畷員政権」と称することが多いが、江兆銘の冒本に対する交渉姿勢は決し てξ親犠とは言えない函がある、盧溝橋事件以後、涯のギ大亜沸主義」は理念としては. 一5一.

(7) 後退し、戦略としての「大山洲主義まが残ったと理解するの那妥当である。. ②『中国函畏政癒の対日政策1931−1933』について 鹿氏が申国国民政府の対目政策1§31−1933』は1931年∼1933年の国民党内部の外交施. 策を畠山し、中選のr臼中共存共栄」論者と「ヨ中不倶戴天」論者の浮沈を左右する鍵 は、申言の手にあるのではなく、噺本の手にあったと結論づけている。明解で合理的な説 である.鹿氏はf1§31年から1933年の中国国民政府の外交政策の変遷」について次のよう に分析している.. ・性急な夢革命外交」(192?.護∼1931.9)の模索…主導者:蒋介石・王正廷. ・ギ不抵抗・濁際連盟三三jf直接交渉全面拒否」(1931.9唾31.12)…主導者:蒋介石. ・直接交渉の試行から国交断絶計画へ(1931.12∼1932.1>…主導者:孫科 尋非妥協jf国際的解決」ギ自力抵抗・対日交渉」三線並行外交(1932.1−1932.ii). …主導者:蒋介石・涯兆銘 ・徹底抗§(1932.12−1933.2) ギ安内」ギ嬢外」を同時に実行…主導者:宋子文〈蒋分石). ・局部釣妥協《欝33.3−1933、5> 繭激的でない対日政策…主導者:蒋介石・注兆銘. また鹿氏はその著書の申で、1932年当時の「連ソ論まにも言及し、次のように分析して いる。. 懲舘年婿の時点で、資本への穀抗上、孫科を申心とした漣ソ論」が台頭したにも 関わらず、ギ連ソ論」が挫折し、版共国家β本との提携論」がとってかわった。ギソ 連」との鍵携は中困濁民党翻の片思いであり、ヂソ連」と沖函共産党」は掴民党 を打託することは反帝国主義民族革命戦争勝利の先決条件であるまとしたことは、 大きな障害になっていた。}932年の時点では漣ソ」には至らなかった。 鹿氏の主張は、鐸民党がギ連ソ」を実施できなかったのは、実はソ連・申属共産党が「躍. 民党打鰐まを最優先項員に掲げていたからであるということである。ゼ連ソまかギ連則 かは繕講豹な事であ参、ギよ参ましな三家」の選択溝国民覚内部方針であったという主張 は明解で説得力をもつ.. ※ギ三縁二二」について. 鹿氏の論文鐸中蟹国民政癒の対員政策欝31−193鑓から、当時の国民党の政策の変転の 申で、海兆銘の琳交政策を相封的に撹置づける槻点を学び、本論文作成上、大きな成果を 得た。. 鹿氏慧、蒋・注合作数権の三線淫行(1932年1月∼H摺)を罫国際的解決を主軸とする3 「軍事上は自衛抵抗を可能な眼り実癒するま「外交上日本と直接交渉を試みる匪と規定し. た。鹿勢見解濾卓論である.そして鹿氏は交渉路線を先とすることであった淋、上海事変 の勃発でその再鼠紙が消え余儀なく軍事抵抗を優先したと論じている。. 蒋介石の方銘こ鰻定すれば、鹿子の論は合理的である。しかし疇’涯合作激櫓の観 点で考察すると、鹿氏の論には無理渉あるように思われる。蒋介石と江兆銘のジ三線並行 論圭の穣違に検討を痴える必要淋ある.江兆銘にとっての外交致策はr軍事的抵抗垂と事直. _6一.

(8) 接交渉凄は同等に重きをおき、F国際的解決」は蒋介石と較べるとウェートカミ低かった。. 注兆銘は掴際的解決」を模索したことは事実であるが、実際に有効な手だてを取らなか った国際連盟・米英に対して懐疑的であった。また注兆銘の「抵抗」の考え方も、蒋介石 とはかな導違っており、蒋注合作期においても、なおも蒋介石は「不抵撫を弓1きずって いたといえる。. 一九路軍が忠誠を誓っていたのは蒋介石ではなく、注精衛に対してであった。内陸に 配置されていた蒋介石軍からは、ほんの申し訳程度にしか援助を受けられなかった。 だがその頽強な抵抗は、見る者すべてから賞賛を得、満弼での敗北後の申霞軍の士気 の回復におおいに貢献した。しかもこの抵抗は揖本軍のほぼ完全な剃空権下で、そし. て西側武官や薪開記者たちの見守る中で展開された仮借ない爆撃の下で行われたので あった繰。. 『満彌事変とは何だったのか(下)』(クリストファー=ソーン著). 一7一.

(9) 第壌章涯兆銘の細い立ちと国民革命論の形成 第壌節 涯兆銘の生い立ちと思想形成 遷.生い立ち(ヨ本留学前). 幽暗銘は、1883年朗4βに生まれた。本名兆銘、筆号精衛、字経始である。先祖の原籍 は安徽賓であり、元朝末に漸江省に移り住み、父の代に、広東省番禺県に移り潜んだ。父. は商人であり、注意銘は10人の子どもの末子であった。江の実母は後妻であり、被が13 歳の時、病没している。. 注は5歳の時、書塾に入塾し、四書五経を学んでいる。最も勉強になったのは、父から 教えを受けた王揚明ωのギ傳習録」と詩文(陶淵明⑦のギ帰去来」や陸游く3)のギ示晃鐸 など)の素読であったという。涯は書塾から帰宅後、毎6、この業を父の死(兆銘14歳) の直前まで受けたという。. 珍4玉年に編纂されたf注精衛自叙{靹には、繰り返し王陽明の説が引用されている. 父の死後も、終生王陽明の思想に惹かれていたと考えられる。清朝摂致暗殺団を結成し、. 逮捕されたり、第董次国共合作での急進的言論や後の和平運動など、江の直情的行動傾向 は、勢少時学んだ王陽明の機良知韓)」説に感化を受けたものと考えられる。. 父の死後、家計は長兄がやりくりしたが、長兄の収入だけでは足珍ず、注自身が17歳 の時、広東水師総督李准⑤の家庭教師となり、毎年憩元の収入を得ていた。 涯兆銘の受けた学問は、書塾の罎書五経と父親から受けた「詩文」と「陽闘学」であっ たが、叔父カミ博学で、書物も蔵書数万巻を有していたので、涯はここで経名子集廼部の書 を垣間見ることはできたという。. 清朝時代は知識雲級は功名と禄を求めて科挙の試験㈲を受けるのは当然のことであっ たが、出家の兄弟も例にもれず、2兄とともに自盛に合格している。 2.臼本留学時代. 舞清戦争敗北の後、1896年頃から、清朝は国家改革のステップとして日本に留学生を送 るようになっていた。涯兆銘は190護年駄、広東省政癌派遣の官費留学生として、法致大学 速成科《7}に留学した。当時、東京は中国民族革命運動の拠点であった。ここで注はヂ憲. 法学」曝家学3ジ民権思想」を学んだ。由緒銘はこれらの思想を級嚇し、民族思想に舞 覚め、革命思想を形成するに至った。江銘銘の親しい友人に朱執信(8)、胡漢民⑨がいた が、賃夜被等と論議する申で、清朝の官吏となるのを良しとせず、さらに臼本で学ばねば ならないと考え、官費支給や長兄の仕送りを断り、翻訳の仕事をしながら法政大学専門部 にすすんでいる。この頃、江兆銘は、もっとも尊敬する資本人は西郷隆盛と勝海舟であっ たと述懐しているく鱒。. 舞露戦争ぶ勃発した時期、まだ日中欄は極端に緊迫した対立関係になかった.申掻は濤 本が取蓼入れた熱奴からの文物などを吸収し、国家改革の人材を育成しようとしていた。. 一8一.

(10) 注兆銘によれば、在爵中国人留学生は、艮露戦争での録本の勝利を願っていたという。 中国困民のこぞって願ったのは旨本の勝利であった。肩露戦争前よりロシアは続々と. 大軍を三二に送って東3省を匿に占領していたが、艮本の朝腎畢って暴露繕懲の世論 は津々浦々に濠っていた(融。. ご注精衛評傳選の著者である察徳金氏は、「目露戦争は、日本帝国主義の侵略戦争の過 程であ疹、中国三民はみな臼露戦争に反対した」と述べているが縫)、中国人の中には、 冒本の山科を願っていた中国人もいたことも事実である。なお中国共産党が三二としてい る孫文も、貝露戦争でのβ本の勝利を支持していた(獅。. 注二二は、この中困民族革命運動の高揚期に、孫文と出会い、孫文に心酔し、革命運動 に挺身することになった。孫文は注と出会った頃は、1895年の広州蜂起(勘に失敗して、 β本に亡命していた。孫文はすでに革命家として、その名をなし、員本の有志の支援を受 けていた.. 以.と江兆銘の生い立ち・員本留学時代は、信徳金氏の『江精衛評湯島二俣力生平臣事曇、. 安藤徳器点訳『注精衛自叙傳露の3著に典湿した。 3.孫文との出会いと影響. 孫文が東京で申言同盟会を結成したのは、1905年8月2◎冒であった。この時、ギ三民主. 義まと上露連携」が提起された。注兆銘はこの結成大会で中国同盟会評議部議長に選出 され、後1こは執行部書記長に選出された。また、『民報君の主筆としても論陣をはり、江 の論文に対しては、孫文からも激賞を受けているq5)。 窪江精衛自叙伝雲(16)では、中国同盟会結成のいきさつを次のように述べている。. 富士見棲における孫先生歓運會の大成功は、次いで錦輝館の演説會とな箏、申國革命 の母体となった同盟會の結成に畿展した。即ち孫先生一派の興中會(廣東系)、黄興、 七教仁先生等の華興會く湖南系)、章嫡麟先生等の光復會(漸江系)が大覇団結して 中国嗣二会を組織したのであった.加盟考はゼ駆除 虜、恢復中華、創立民国、平均 地権選の尋つをスローガンとし、次の二二六箇条を定めたのである。 〈1)満清政府を打倒すべし。 (2)共和國を建設すべし。. (3)世界の真正平和を維持すべし。 (4>旧地蟹有を主張す。 〈§〉中貝両國の國民的提携を主張す。. (6)世界列国に中国革命事業の賛助を要求すべし。. 一9一.

(11) わたくしは同盟會評議部の議長に挙げられ、後に執行部の書記長を兼ねたが、白面の 青年を抜擢された孫:先生の知己恩愛を一生忘れることは出来ない留)。. 孫文は全ての満州人を憎むのではなく、その支配踏級から権力を取り戻すことを戸山と したが、中羅同盟会に参湿した知識人は強烈な漢族中心主義をかかえており、辛亥革命後 に唱えられた「五族共和まのスローガンも少数民族への蔑複にもとつく同化政策という面 が強かっだと言われているく18)。さらに当時の中国革命運動家においては、孫文のギ旧地. 国有論沖国が灘強と結んだ条約を全て有効とし、外国人の既得権を保護する外交政策達 は、必ずしも人々の理解を得られなかったようである(鋤。. その後、よりあい所帯の申国革命同盟会(興中山、光復会、華興会などの結縫が母体) は、出身地方、革命方法において鯨立が深まり、派閥抗争を繰り返し、運動の崩壊という 危機に記していた。さらに1907年になると、日本政府は清国学生の取締令を麟定した。こ れは品品からの要請であった。臼本態府は清朝との外交関係から在臼申国人留学生を取り 締まる致策に方向転換していた。. 注兆銘は孫文に髄行して、海外華矯から革命のための資金集め(鋤に奔走する一方、清 朝要人暗殺のテ葎を画策した。注兆銘は、当時ロシアから肩本に流入したアナーキズムの 影響を受雛た人士との交流があったがく鱒、それとともに二二銘が幼少期以来学んだ王陽 明の思想もバック二一ンにあったと考えられる。19◎7年に発表されたゼ革命之決心まく22) においては、王購覇の文の引用を繰り返している。 與其蓋於天下.不義急信於一人.道固自在.學亦自在.天下信之不最多.一入信之不爲少. 者.. 『王文成公全書く一)傳習録〈申殖. 天下全棒から信ぜられるよりも真に一入から信ぜられる方がましです。道は本来自然に存在 するものであ沿、二二もまた自然に存在するものである。天下の全てが信鴛ても多いわけで 添なく、ただ一入ぶ信じても少ないというわけではあ疹ません(23>。. (訳 薪線漢文大系「伝習録ま朗治書院). 外綴仁義之名.湿気以行其自私自利之實.誰僻以嗣俗.矯行以干讐.鎗人之善.颪襲 以爲己長.評入之私.山霧以己直.念毒忌勝。面猶謂之殉義.鍮以相傾.瀟猶信託丸 払。妬賢忌能.而猶自以爲公是舞.恣情義欲.而猶旧法爲同好悪。相陵相賊.自其一 家骨肉之親已不能無爾我勝負之意。彼此忌詞品形。砺二品天下之大.撮物之衆.又何 能一膿乙丸之.魚雷無怪於紛紛籍籍,而禍鼠島尻於無窮突. 天王文成公全書(一)傳習録(中隅 外藩には仁義の名鷺を掲げな恭ら、内実は自己の私利私欲の実際を図るもの、言葉だけは尤 もらしく飾って量閣に迎合した蓼、表面的な行動だけを立派にして評判をよくしようとする もの、入の善はかくしておき、後から自分がそのままやって、自分の長所とするもの、人の 私事をあばくことによって、自分が正直であるかの如く振舞うもの、私穰によって相手に勝 ちなぶら、正義によったと言い、陰験な手段で敵を倒しな麟ら、不正を憎んでしたことだと 言うもの、人の賢絹をねたみ才能を嫉みながら、自分では公平な批評をすると魯し、感精雛 望のままに振舞いながら、自分では一般大衆と好悪を論じくすると称するものなど、偽善麗 悪の輩に満ち、互いに人を臨れ傷けあっていますが、その傾向は一家肉親の間にもあって、. 一1◎一.

(12) すでにそこに人と義、彼と此と、対立や差別の感情形勢がないわけではないのですから、ま して広い天下と多数の民衆に婚し、どうしてこれを一体と見ることができましょうか伽)。. (訳 i新釈漢文大系「伝習録」弱言書駐}. 王陽明は明代の思想家であり、科挙に合格するための学問に堕した朱子学に封して、「致 良知」を謡本とし、ゼ人間に生まれなぶらに備わっている良知こそ、行動の鰻雛とし、孔 子の思想や礼でさえも、心に納得しなければ、是としない」と主張していた。また孔子の 言う磯身成仁く身を殺して仁を成す)」という行動を重要視していた。. 注兆銘が敬愛した西郷隆盛も賜明学を学んでいた。勉にも幕末には大塩平入郎、吉田松 陰を初め多数の志士淋を王陽闘の影響を受けていた。明治期の自由民権運動の論客申江兆 浸、ギ不敬事件塗を起こした内村鑑三、哲学者であり、言論人であある三宅雪嶺も王腸覇 の影響を受けていた。なお幸徳秋水は中江:兆民の弟子であり、三宅雪嶺とも交流があった とを、う競5}。. 王陽瞬自身は蟹家権力に対して、対決をした人物ではないぶ、しばしば誹諺申傷によっ. て苦境に鶏つた.二二嗅知」のみを行動の根麺とする、王陽明の思想は、場合によって は、国家建力と二二衝突することも避けられない思想であった。当時の在昌清函留学生の 閥では、清朝二二の革命運動は高揚期をむかえていた。. この鯖朝要人暗殺まは、王陽明の思想をもとに人格形成をした江兆銘が、アナーキス トの二士と交流し、その影響を受けて計画されたものと考えられる。注兆銘嘩命之決心」 において、最後にド革命家は死を恐れず、『飯を炊く時の、薪・釜』でなければならない。」 と締めくくっている.. 清朝要人の暗殺計画については、孫文・鳥山民らは、強く反対しておりく謝、暗殺計画 実施は珍年遅れたという。江兆銘は孫文の影響を受けな淋らも、この暗殺計画は注グルー プが猿自で進めていた。. 三9欝年忌、江兆銘は詰問とともに北京に潜伏し、摂政醇親王暗殺の機会を窺っていた が、事ぶ露見し、逮捕されてしまったく27)。しかし時代は注兆銘に味方し、四二省の鉄道 三二化溺題に蠕を発して、辛亥革命渉勃肇した。その混乱の中、江は革命党員の大赦(節 という形で釈放されている.. 第2節 孫文の三民主義・封巳観とその影響 1、孫文の前期三民主義. 江兆銘の対内政策・対外政策は中国困内外情勢により大きく変化していたが、終生「三 富主義茎{狂兆銘の解綴によるが)をその政治思想の中核と位置づけていたく鋤. 「三民主義」は、孫文が提唱したものであるが、第1次国共合作以前と以後では、その 内容に柔きな変麹温品られる。. 孫文の前期三民主義く中国同盟会当時)は「羅除難虜、恢復中華、創立民國、平均地権三. の言葉に集約される。革命運動の主体は、知識階級が一心であり、武装二二ミ鋤路線をと っていた。. 「駆除難虜、嶽復中華」は民族主義であり、f翻立民國」は民擢主義はであり、ギ平均. 窒1一.

(13) 地罐」は民生主義である。中国同盟会結成大会で採択されたスローガンにはそれぞれを次 のように定義している(31)。. ①民族主義…もともと満乱人は長城より以北に住んでいたが、中品を侵記し、中. 躍で暴虐な政治を行ってきた.中国は中国人の中国であり、民族国家を再興す る。これに反する者は討伐する。. ②民権主義…共山国政府をつくり、総統や議会は選挙で選び、中華民霞憲法を凝 回する。これに反対し、帝致を実施しようとするものは、討伐する。. ③入民は、文闘の福祉、国民平等を享受する権利ぶある。政府は地価を査定し、 地無の上昇分は政府に帰属するようにする。そして政府はどの家も生活を保 湿し、失業者のない社会をつくる。専翻的な社会は廃止する。. 以後、申国同盟会は孫文のギ三民主義まをスローガンに団結し、清朝打倒運動に遊進ず ることになった。. 2.辛亥革命以後の孫文グループの革動運動と中華革命党の結成. 中国局三会成立琢後、内部分裂・清朝の弾圧を経ながらも、1911年婚月の辛亥革命によ 馨、孫文は臨時大総統の地位に就いた。孫文は、注兆銘を清朝の実権者二世凱に派遣し、. 二二族の駿権を実環し、清朝の専翻支配を許さないように説得(謝を試みた.さらに注兆 銘は革命麟崩壊しないように、南三二議(南京の中華民国臨時政府と裳世二二癒〉に奔走. した偽}。その結果、1912年2月1娼、清朝皇帝薄儀が退位の詔を宣布し、2鶏1鋸、孫文 に代わって三世凱淋臨時大総統となった。江兆銘はこの南北隷議の趣意を次のように述べ ている糊}Q. 我々が革命運勲に従事したとき、康有為と梁啓超は革命に命をかけて反鰐した。革命 運動は三内の分裂を招くだけであると主張していた。結果は列強が中国を分裂させる ことを捉進してしまった。我々は明治維薪の情勢と西郷・勝の両偉人の事績を醗究し て、決して内乱外患の憂慮淋ないうようにしなければならない。. しかし衰世凱は、国会で優位を占めた国民党(理:事長孫文、理事長代理宋二二、実質上. は宋教仁の影響力瀞強かったといわれている。)を弾圧し、帝政を企図した哀毯雛に繋し て、孫文は、武装蜂起を試みるが失敗した。孫文は旨本の革命支援者をたより、員本に亡 命して反乱運動を実癒した。さらに第口次世界大戦力弐始まる直前の19纏年7月絹、棄京で 中華革命同盟会(35}を結成した。この時、追払銘はこの中華革命同盟会には二二しなかっ. た。孫文の独裁麟を忌避したからという13§〉。また第1次世界大戦終了後のバ1,講霧会議 につき、孫文から広東政府代表に任命されたが、注は拒否している㈱。. 上屋大陸、台湾では、一般的に言えば、前期注兆銘は孫文の忠実な弟子であったぶ、溝 弼事変以後、反革命的にな参、果ては「漢心」となったという評価が定着している。しか し辛亥革命期の孫文に対する動き、私平運動以後の対鐸交渉を具体的に検討すると、事実. 一12一.

(14) は単純な二者択一的な極論で括ることはできない。まさに江一派を「漢好」と断じている のは、後の申国二二党・中国共産党の勝者の論理である。 3.パリ講稲会議当時の対日観. 1918年のパ夢二二会議に関して、江三三は外交評論を残している。『巴黎麹會輿中費問. 題選㈱である.当時の注兆銘の対員観を知ることができる貴重な資料である.以下は注 兆銘の灘丑黎和會輿中目問題』の要約である。(この評論は中華革:命党機関誌『建設雲に. 掲載されたものである。ただこの時点で、江兆銘が正式に中華革命党に入党していたかど うかは、不明である。). ①第1次挺界大戦前の中資関係について ・資本を軍国主義国家とし、ロシアとともに国家生存の為に、中困侵略を正当化してお. 穆、員本を二二」と葬難している。 ・舞本は小役人を遣わし、申国国内の各勢力に挑発・離闘政策をとり、目申提携の可能 性はあるのに対して霞本が潰している。 ・中国を欝淫することの禍は昌本の福とはならない。 ・旧記は自国の生存のため二二を併呑しないですむ方法がある。. ・霞本の報二二カミ主張しているf中国の発展が、臼本との提携につながるまという方針 は自分の考えに近い。. ・人類は麟害が相反するから、争うのであり、利害が同じであれば、共存できる、. ・浅識者は言う二本と中国では面積に於いて、大小大きな格差淋があり、申国は自ら 癸展できるが、舞本はごく狭い土地しかないので、艮本は発展できない。玉と。この. 持論は共存できることはないという大田違いの意見である。というのは第1に申濁は 飽困を侵心したことがなく、二二的に良友となりうる。第二に、ここ4,§◎年、員本 は申轡に先んじて発展してお替、中国はギ地大物博」であり、いやしくも両國が提携 すれば、国民経済において双方の利益となる。. ②第藍次雛界大戦勃発後、中国が中立政策を採っていた頃の中日関係. ・興国淋二二にそれぞれが勢力をもっているので、β本は、中国を俳呑する野心を逞し くすることができなかった。. ・第1孜大戦が趣こり申国と員本はその様相が一変した。ヨ本には、2つの案があった。 (日本の第1策〉. 昌本は直ちに舞英同盟を敏棄して、ドイツと同盟を締結する。 琶本の海軍は出航して南洋群島を平定し、印度を襲い、これによって地中海に進み、. ドイツ海軍を支援する。大戦勃発時、アメジカは軍事上の準備はまだ十分でない.英 国はド’イツが暮に臼に勢いを増して追撃してくることに困惑し、ドイツの勢いに耐え. られない。このような状況になれば、艮本はドイツと天下を2分し、西をドイツが凝 諭し、東は霞本が制覇する。. 幅本の第2策). 一13一.

(15) 舞英同盟を名目として、ドイツに宣戦を布告し、中国に於けるドイツの旛益を二二す る。. ・臼本は後者の策をとった。その結果最も被害を受けたのは、中国であった. 膠二二と山東半島。潟本は膠弼湾に進軍する際、中国の中立を侵犯し、しかも通過し た地域の郵便、電報機関を接収し、政治・軍事・警察擢を奪った。. ③中国ぶ第1次二二大戦に参戦したときの中ヨ関係. ・艮本は当初中国の参戦を拒んでいた。その理由は凍亜において資本以外の独立霞を 認めない」f中国に独自の外交を行わせない」沖国に講和会議の発言権を与え由東 問題に火をつけさせないiである. ・ではなぜ中国は参戦したか。もしドイツが勝ったら、中立国の三国の滅亡は免れ得な い。参戦して回申に活路を開くためである。そして三二会議で山東問題に触れると、 目本の怒りを買うことになるが、公理を説いて失ったものの画復ができるからである.. ・北京政府は宣戦布告した相手とは戦わず、呂本政府と軍事同盟を締結して、霞本から 得た武器で南方政麿(孫文派広東政府)と内戦で戦った。 ・北京敢癒は欝本からの武器援助と引き替えに国を売り渡そうとした。. ※当時の注二二の発言から察すると、武器援助と売蟹は、下記の事項と考えられる. 二二半島の利権(二三湾の租借・膠濟鉄道) 武器借款く参戦借款 第7団西原借款20◎◎万円)→計1億45§◎万円 睦海軍の軍事協定く茎駁8.4.忌中共同防敵公文交換). ④第霊二選界大戦終了後の申蒲§係. ・第茎次大戦でロシアの専二二瞬が倒れ、ドイツが二二し、聴国主義」は朽ち果て ギ軍記主義」がその死臭を放っている。. ・毯界大戦の終了とともに山国における南北の対立は諏解にいたり、一致して講稲会 議に賄み、員本に中国政策の放棄を追った。. ・二二は二二会議で2つのことを要求した。1っは忌事裁上権の廃止まであり、1 つは欄税自主権の二二」である。 ・二二問題垂におけるドイツとの租借契約は1917年の対独宣戦で消滅したから、舞 本がその権利を継承する論理は成り立たない。(中気樹の主張). ・露本は中国参戦以前に、英仏と密約をかわしており、大国は9本側の主張を認めた.. ・二二会議は功」が支配する無道徳なものであるという考えから抜け鵡すきっか1ナ となったものであり、中国は肋」で負けても道義では勝利した。 江二三は、底本留学時、親§的であったが、第1次世界大戦を通じて、賛本を厳しく葬 難ずるようになった。注兆銘が反臣に転じた原因はギニ十一箇条の要求」ギ出東悶題」魔. 閥への借款」と考えられる。月忌は暉国主義国家まであり、中国を併呑しようとしてる と主張しているのである。. しかし一方で陣舜連携」の可能姓にも言及している。ヂ中β連携は利害が同じであれ ば連携できる」という主張は、盧溝橋事:件以後のr諏平運動」を推進した時とほぼ同じ’主. 張である.涯兆銘の麹平運動の対臼観の原型は、すでにこのパリ講和条約期に見ることが できる.. 一14一.

(16) 4.ソビエト連邦の成立と第葦次国共合作. 孫文の革命戦略鑓一変する大きな事件が起きた。ロシアでは、1917年の2月革命・10 月革命を経て、鐙22年12月にソビエト連邦溺成立した。. 1910年代∼192§年代初期の孫文は、苦境に立たされていた。1913年の第2革命の失敗、 1§17年の護法戦争の失敗(39)、1922年の二二明の反乱幽)などである。強い軍事力・統舗. 力と広範な人々の支持がなければ、辛亥革命後の申華民謡の国家統一事業はあり得なかっ た。. 一方ソ連は、中国に対して次々と関係強化の方針を打ち出してきた轍)。欝欝年7月2§ 段に、まず第1次カラハン宣言く42)において申国人民、南北両政府縫3)に次のアピールを 行った。. ①中国との聞の二等な国交樹立 ②治外法権、闘税協定の撤廃 ③二三団事変の賠償金などの権利の放棄 さらに欝2◎年§月27昌には第2次カラハン宣言を発表し、中国人民、南北雨二二に呼び かけ、治外法旛の二二など、申ソ問の外交関係樹立の具体的提案を行った。. ・1嘘1年コミンテルン、マジーン144)を中国に派遣し、マジーンの指導のもとに上海 で中国共産党結成される。. ・1922年中国共産党第2嗣二二代表大会で、二二秀(45)が委員長に選出される。 ・1923年孫文・ヨッフェ〈46}共購宣言。多ソ連の援助で中国の統一と独立を達成する。」 が発表された。. さらに中国国民党は、1924年、漣ソ・容共・扶勤労農」路線に改組した。敬治体隷ま ボルシェビズムの二二(47)の影響のもと民主集中劇を採用し、中央集権的な組織をとった。. 孫文は建躍当初のソ蓮にあま琴二心を示していなかったが、革命の頓挫期にカラハン宣 言が出され、さらにネップ新経済致策(1921年∼1928年)〈48)の方針に共感した孫文は、蟹. 昆党内の反回を揮し劔ってく翻、急速にソ連に接近していった。. 三二銘は当時の連ソ・容共政策に踏み切った時期の中国国民党について下記のように述 懐しているく硲、. それは孫先生が聯ソ容共の考へを持たれたことである。一九ニー年く大正十年)、. 孫先生が北伐のため、桂林にあった時、レーニンの二二マーリンに逢ってみる。マー ジンの説によって、先生は、ソ聯の共産主義瀞執った新経済政策が、三生主義と一致 してみると考へられた。. そして、翌年、ソ聯の代表、ヨツフェが、員本へ赴く途次、摩仲凱(硲と討論させ.. 上海において、孫先生が會見されるや、共同宣言を回して、ゼ共産二二はソヴイエー ト謝度は、實際上、中國に掩行ずることは出來ない。しかし、中國の最高にして癖追 した問題は、統一を完成し國家を濁立することである。これがため、申國はロシア人 民の暖い扇惰を持つこと、、壷にその後援を期待することについて保談ずる爵(52)と. 一15一.

(17) いったことを表明されたが、不遇であった孫先生は、これによって張縫く§3)等の紹介. で李大釧{26)等の共産蕪と共同戦線を結成された。後舞、禍の種となった國共の合作 は、實にこ、に胚胎したのだ。面白いことには目下同志である旧劇高く55}、陳公博《鱒. は二時毛澤東等と共産蕪の牛耳を執ってみたことである。民國十二年(大正十二年) 二月、孫先生は廣東に隔り、ソ聯からは顧問としてボロゲイン〈57)、ガロン(プ写ユ ツヘル)将軍く58)等がやって来た。. そして、十月、國民芸を改組して、容共、聯ソ、勢農の三大政策を採用した、淋、 これに雪しては蕪内に於ても、賛否の島々たるものがあった。 かつて申国共産党は、「孫文」を罵劔していた(5g>。一方困民党も党員は、反共意識淋強. かったので、当初は国共両党ともに合作に反対が多かった。しかもその合作指令を出した コミンテルンでさえ、中国革命についての方針は、3つの選択肢があった(鋤。. ①ギソ連」縣文」との鍵携. ②fソ連∬呉羅孚」との提携 ③「ソ連」ヂ孫文戸呉撮記」との提携. 結局ソ連・コミンテルンが孫文を選んだのは、品品孚が外モンゴルへのソ連軍の駐屯を 認めなかったのに対して、孫文はそれを認めたからである。この国共合作は反対論が大き かった上、ソ連・コミンテルン欄のパートナー選択も流動的であった。. 注二三は、この國共合作に当初は反対であった纏)。しかし涯は孫文から、二品党改組 委員(欝23.婚.圭韓、臨時執行委員会中央執行委員候補に任命されている(1923。圭{).2δ).工. 作が進むにつれて、容共左派路線を雄進していくことになった。(涯兆銘は中濁国民党敵: 治顧問ボ鐸ディンと路線論争(磯をおこしつつも、国共合作を推進していた。〉. この二二政蜘は、改組中国国民党に個人の資格で中國共産党員が入党できるシステ ムであるぶ、後に二二銘は、孫文死後、困決党の内紛の火種となったことを指摘している. 5.後期『三民主義」の解釈. 19器年絹に囎かれた中国国民党第1翻全国代表大会は、孫文の薪路線ギ連ソ・容共・労 農扶鞠をうちだす画期的大会となった。この第1回全困代表者大会では、正式に困民党 を酸継し、三民主義を党是としたく§3)。沖国国民党第1囹全国代表者大会宣言嚢では、「三 筏主義」を次のように規定した1闘。. 民絞主義. ギ濁民党の民族主義は、両面の意昧がある。1つは中国民族自らの解放を求めるこ. とであ琴、2つめは中国領内の各民族一律平等である。」倣に民族解放闘争は、 多数の民衆に対して、その翼標は反帝困主義に外ならない戸国民党員は不断に努 力して、中国民族の解放を求めなければならない。ま. 民権主義 「躍畏党の民権主義は問接民権の外に、直接民権も実施する。」. 韮6一.

(18) ゼ民権運動の方法は憲法に孫先生が創造した五憲分立を原鋼とする。即ち立法・司 法・行政・考試・監査である。」. 民生主義. 「三民党の民生主義の最重要源貝二次の2つに他ならない。1つは平均地権であり、. 資本の簾制である。」「経済組織が平均でないのは、土地権が少数の人々に操縦さ. れているに外ならない。だから国家が土地法・土地使用法・土地徴税法・三二税 法を二二しなければならない。個人所有の土地については、地主が二二して政府 に報告し、それに基づいて政府は、徴税し、必要があるときは買収する。これが 即ち平均地権の要旨である。凡そ申国人、外国人の企業は独占的性質のものであ れ、大規模で武人では処理できないものであれ、国家がこれを経済管理し、私有 資本凝度によって国民の生計を操縦できないようにすることであり、これが資本 の法嗣である。」. 民族主義については、従来の漢族中心主義から、各民族の平等(65>、民権主義について. は、國民は選挙権、官吏罷免権、法令制定及び再審権、五権分立を原則とした。また民生. 主義は、地権の乎均と資本の節舗㈱があげられた。孫文は、第1回全国代表者大会開催 期閣中の1月27員から8月2娼にかけて、広州の高等師範学校講堂で「三民主義垂について 連続講演をおこなっている。. 前期ζ三民主義まと後期ヂ三民主義まとの大きな相違点は下記の通りである(G7>。 ①民族主義. 前期事三民主義」は、漢族中心で、駆除 虜」版復申華」がス導一ガンであり、漢践 族の二二民族に対する復興革命である。前期ヂ三民主義まに対して、後期ヂ三民主義} は醸族平等」を基本に、被圧追民族の連帯した主張と言える。後期ギ三民主義」は、 反帝国主義的、民族解放闘争がスローガンであったと言える。そして後期「三民主義圭 では、二二では罫家族主義」や罫宗族主義」はあるがギ民族主義」はないので、ギ民族主. 義まこそ鼓吹しなければないないとしている。その根底にあるのは道徳論であり、まず 大事にしなければならないのが儒教道徳の「忠孝」としている。. インターナショナル的な民族主義と当時新文化運動で{日道徳と二二されていた儒教の 徳孝」の概念の関係については、孫文の著作からは明確ではない168)。 ②民権主義. 前期ξ三民主義ユでは、二二平等革命で共和国政府を作る」三三を国民の選挙によっ て選び、議会は国民の選挙で議員を選び構成する。」とあるように、欧米流議会舗民主主 義を員ざしていたと言える。ただ具体的な目標とした政体は明らかではない。. 後期ギ三民主義」になると、二二と政府の関係をギ政権」と「治権」という形で提示さ れた。眠確=政権、と、政府権聯治権、つまり政府をコントロールするカと政府そのも ののカ」、具体的にはギ政権」はギ複決権」「創凝権」ギ罷免権」「選挙権」であ磐、ギ治縫」. はr監察権jr考試権」「行政掬f立法権」「司法権」である。しかし一方では、ギこの違 億の人たちは全て嗣斗に桜ている.中国にはいま4億の阿斗がいて、ひと雛ひとり権を. 17一.

(19) もっているのである。われわれ4億のものはその政府を諸葛亮とみなして、国家の全権 をわたせばいい。」と言い、犠会嗣民主主義」は堕落していると考えてお参、ソヴィエ トの政治二度やドイツのビスマルクの政治手法を評価している(69)。. ③民生主義. 前期三民主義では「平均地権」を主張しており、政府は富裕者の地価上昇分を徴税し、. 失業者のない社会にすることを言っている。ここでは社会権的な発想はあるが、社会主 義的な発想は見あたらない。しかし後期r三民主義」では、民生主義は社会主義であり、. 共産主義であるとしている。施策も呼均地権」に加えて「節凝資本」がある。具体鯵 には呼野による大地主の±地の買い上げ、大企業を國営化する政策である。ただ亭号 主義まにおいて、マルクス主義者の運動面について高い評価を与えているが、マルクス 主義の賠級閣争については、否定的にとらえ、瑛産主義」を儒教の古典に求めているの も特徴的である。. 孫文は露ラハン宣言を評配し、国民党改組に踏み濁った。国民党綱領の用語はマルクスレー. ニン主義豹である。罫帝国主義」撫産物級」野洲階級」鞍圧迫民族」ギ共産主義」などぶ繰 り返し使われている.しかし孫文の基本理念は:、古典的な儒教のギ大同思想」であり、ギ新文. 化運動(鋤「マルクス;レーニン主義」とは明らかに違っていた。また組織された民衆に舷 弔する革命を目指した淋、1924年の「三民主義」の講演では、民衆に実罐を持たせる事は考え ていなかった。また大学生・労働組合の散発的な過激な闘争には批料的であったく搬。孫文の 革命の門下は先知先覚の者{72)であり、坤国人民は阿斗(73)」と評するように、議会翻民主主 義を志平したわけで慧なかった{憩。. さらに特筆すべきは、孫文は局盟国ソ連よりもドイツのビスマルクの政治思想を称揚してい. る。また孫文は下生主義」とは喚産主義」としているが、しかし孫文のいう瑛産主義3 はマルクスの喚産主義」と異なっており、唯物史観を否定している(7§)。孫文はかつての政 敵康有為と属じく理想社会を古典(儒教)の大同に求めて、共産主義と大同思想を肩じものと. 主張している。鍾礼記礼運編(新釈漢文体系頑㈹は、「大同」を次のように説窮している。. 大平の行われる世には、天下の人々は、万人のものとされる。人々は賢者・能者を 選挙して官職に当たらせ、手段を尽くして、相互の信頼親睦を深める。だから人々絃 それぞれの父母のみを父母とせず、それぞれの子のみを子とせず、老人は安んじて身 を終えさせ、壮者には、十分野仕事をさせ、幼少には紳び伸びと仕事をさせ、やもめ ・みなしご・かたわの人々に苦労なく生活させ、(一人前の)男には職分を待たせ、. 女にはふさわしい夫を持たせる。財貨は、それが無駄にうち捨てられることを、人々 は憎むが、しかし財貨を独り占めにはしない。労力を出し惜しみされることを人々は 憎むが、しかし自分のためのみに労力を用いない。皆こうした心がけであるから、(私. 利私歓に基づく)計謀は外に用いられる機会がなく、窃盗や暴力のさたもなく、たれ も家の戸をしめない、これを大門の世という(77)。. 一方で孫文は共産党員を賞賛し、連携すべき対象であるを説いているく了8)。また党の基. 一}8一.

(20) 礎を留置なものにするために、ソビエト共産党のように、組織あり力量ある一つの毒血に しなければならない事を説き国訴党大会の目的もそこにあることを強調している備)。 孫文は:、革命の理念には、儒教的な思想を内包しながらも、戦略的には反帝国主義的民 族主義にもとつく、ボルシェビズム的革命を目ざしたといえる。 涯感銘の革命思想にも孫文の後期ギ三民主義」の革命思想が反映されている。注兆銘は、 この辛亥革命期を評して次のように言っている。. 民困元年には、確かに一種の朝気《活気》があったが、この朝気を軍閥と帝霞主 義の結託によって掩われてしまった。アヘン戦争以来、帝国主義勢力は、中国に侵入 して、中国の手工業は機械工業に破壊され、不平等条約により、中国の機械工業は発. 展する機会を失ってしまった。ここにおいて、輸入品が門々多くなり、外貨も脈々多 くなってしまった。軍閥の横行によ警、政治は破綻し、民衆は安定して暮らせなくな った。しかも奢移を極めた舶来晶が、命脈尽きようとしている、民衆に向かって絶え ず誘惑となっていることは、肺病出藍淫楽を偏重するのと同じである。 以上を見ると、革命は頓挫期に入った。この頓挫期に革命の旗幟を堅持したのは、. 孫先生と少数の信徒に過ぎなかった。真性の敵は軍閥でなく帝国主義である。軍閥は 帝濁主義の工具である。. 先生は民国8年《1919年》以後は中国国民党を結成した。茎2年《1923年》以降も名 称は変更されなかったが、組織を大変革した。この変革は内部を厳密にし、同時に拡 充をしたのである。粛正にあたっては、先生は一切の反革命分子を淘汰し、内部を純 粋な革命分子で固め、拡充については、昆衆と世界の革命的先進分子に接近し、被圧 迫民族・被圧迫階級と戦線を連合することにしたのである(80)。《 》内は筆者油島. 涯兆銘はギ帝国主義勢力によ箏、申困の伝統的な手工業は破壊され、出国には、高緬な 輸入晶のみ淋蔓延し、中国経済は瀕琵の状態となった」としている。また軍閣は帝濁主義 勢力の綴鶴であるとしている。江兆銘は、孫文が申困国民党を結成したのは、内部を純粋 な革命分子で固め、外部は民衆・申撰共産党やコミンテルンと連携し被圧迫民族・被圧迫 階級との連合戦線を組むに至ったと考えていたことが分かる。 注兆銘は孫文の後纒者として、ギ三民主義」を次のように継承している。. ①漣ソ・容共」を旨に、職圧追民蜘との連帯も含めて、中国民族の狸立を達成 する。. ②当面は沖魚国民党」が人民のかわ腕こ、政治の全権を掌握する。. ③呼均地旛」櫛翻資本まを推進する。 これは、ギ第1露全国国民党代表者大会宣言」の中心的起草者(8Dである注兆銘が、函艮. 党の主義は孫文の三民主義であると規定していることからも分かる。ただ江兆銘の嗣時代 の著作・演説の中には、孫文が主張している「道徳の基本を儒教におき、共産主義は儒教 の大同である。雲と説く考えは、見あたらない。またf第1回全国国民党代表者大会宣言妻. 一19一.

(21) には、F被圧追民族の解放と連帯」という視点で、民族主義を民族解放闘争・反帝国主義 闘争としての面を強く打ち出している。また民権主義では、天賦人権を否定し、民権剃度 は「資産階級の独占」から平民が共有するものにし、「売国主義者」「帝国主義者∫「軍瞬」. には権利ぶないと述べている.孫文ぶソ連の「人民独裁」を晶晶していることを二三化し. たものといえる.この当時の注兆銘は孫文の思想を継承しつつも、さらに急進的に国民革 命を遂行しようとしていたと考えられる。 6.孫文の蒲日観・薄日政策の推移と涯艶銘(孫文死去まで)への影響. 孫文の革命戦賂は日本とソ連(ロシア)両国抜きには考えられなかった。20世紀初頭、 中国にとっては、隣国の目本もソ連(ロシア〉も超大国であった。国家統一1こ外部勢力の 支援を必要としていた孫文はソ連、日本抜きには政策を策定できなかったといえる。. 孫文にとって、ソ連成立までは、革命の支援を期待していた国は資本であ鞍、中国嗣盟 会、中華革命党も舜本で結成されている。ただ革命支援については、日本政窮の支援は得 られず、在野の志士の支援で活動していたく82)。. 孫文は中華革命党を結成していた19婚年2月5員に陳其美・犬塚信太郎・山田二三郎とと. もに、瞬中盟約」に署名している。さらに外務省政務局長小池張造に「日申盟約」を提 示しいる。3月憩舞に外務省に対してヂニ十一箇条の要求」と同じような密紬、「満弼租. 簡の密約をしているく83)。孫文はこの時、欝本政府の革命支援を正式に要請していた ことになる.二二についても、戦略上、必ずしも統一国家三国」の範囲としては考えて いないことになる.ともかく孫文はβ本に対して、上記のような大胆な譲歩の提示をして いた(繍。. 董㌶e年代初頭、江兆銘は、揖本も侵略国の1つであると考えていた。そのことは前述 の杷黎二二與申臼問題垂において明確である。そして肩本をギ兄弟国」とした上で、次 のように論じている〈85>。. ・濤本は山東省での侵略行為を、二十一箇条要求で、正当化しようとしている。 ・二十一箇条の要求は申国人民にとって、減りがたい損.害があり、5月7舞を国恥記念 揖とし、忘れてはならない。. 「二十一箇条の要求」に対しては、対舜密約を提起していた孫文よりも、注兆銘の対舞 批戦は、澱しいものとなっている。. 孫文も、ソ連が戚回して以後、反帝困主義を掲げて、対貝批判を強めていった。1つは 員本の中国への帝国主義的な国策が露骨になったことであり、また1つはソ連がカラハン. 宣言で④中言との問の対等な濁交樹立、②治外法権、関税協定の撤廃、③義麹団事変謬 賠償金などの確秘の放棄まを発表したことである。このカラハン宣言で同じ隣国であるに も闘わちず、ソ連は友好親善・革命支援、録本は侵略・革命干渉と対比的な構図が出来上 がってしまった。. しかし孫文は舞本を全面否定したのではなく、なおも員本の歴吏的役割については、高. 一2◎一.

(22) く評緬している。孫文は1924年の三民主義の講演の中で、貝本を評して次のように述べて いる。. こんにちアジアに強大なヨ本ぶあるがために、世界の白色人は舞本人を軽規しないば かサか、アジア人を軽規しなくなっている。だから、日本が強大になってからは、大 麹民族溺第1級民族としての光栄を享受できるだけでなく、他のアジア入も國際的地 位を高めることができるようになったのである(86)。. 対臼観について孫文の思想ぶ端的に表れているのが、かっての辛亥革命の盟友犬養毅に 送った書翰(1923年片月絡印である(87>。なお圭924年の神戸での講演「大亜細亜主義」. は有名であるが、員本人の聴衆向けということで、山本の侵略批判はソフトに表現してい る。後に注兆銘が対財嚢平を説くときに、神戸での講演ギ大亜細亜主義(中揖が提携して 西欧帝匿主義に対抗する〉」を引用している。. ・当時《§露戦争》中国四億の人民とアジアの諸民族は、ひとしく和本をアジアの. 救澄主と考えたものであ穆ます。あにはからんや、員本は偉大な志も高尚な謀もも たず、ひたすらヨーロッパの侵略政策をまねることを知るのみで、はては朝鮮を併 呑するという暴挙までもあえてし、アジア全域にわたって人心を失ってしまったの は、なんとしても惜しむべきことであります。. ・日本が翻然としてめざめ、イギジスがアイルランドを遇するように朝鮮を遇し、あ. やまちをふたたびせぬように心がけるならば、アジアの人心を収拾することはなお 可能であ警ます.さもなければ、アジアの人心はかならずことごとくソヴィエト・ 律シアに向かっていくでありましょう。これは、けっして臼本にとって幸いなこと ではあ移ません。. ・その一.そのときには、脚本政晦は毅然として断固、中沢革命の成功を支持し、内. に統一、外に狸立を達成せしめ、いっきょにして興強の束縛を打破せしむべきであ ります。そうなれば、艮中の親善は期待することができ、アジアの平勲も長く保証 されましょう。さもなければ、列強はかならずもろもろの手段を弄して、中毒をも. って賢本を牽翻し、その結果、直中の親善は永遠に期待できず、溝本経溝発展の道 がもはや闘ざされるのは必定であります。. ・その二。欝本は率先してソヴィエト・ロシア政廣を承認し、即時それを実行すべき であ琴、けっして魂強と共同行動をとられぬように。. ・ある人は、旨本の立国の根本がソヴィエト主義とは異なるから承認しない、といっ. てお参ますが、それはまことに井戸の底から天をのぞく議論であります。そもそも ソヴィエト主義なるものは、孔子がいうところの「大同」であります。. ・以上の二策は、まことにヨ本病嘱託を発揚し、世界を左右する大方針であります。. 興廃存亡は、ここにかかっております。日本はヨーロッパ大戦のはじめに、すでに 方斜を誤磐、盤界の盟主となる絶好の機会をの淋しました。二度のあやまちがどう して諮されましょう。. 一21一.

(23) 孫文は犬養毅に臼本の誤った西欧流帝国主義の国策を批判し、被圧迫国解放に尽力し、. 孔子の大台と周じ考え方のソ連と手を結ばなければいけないと勧告しているのである.し かしこれは公式の理念であり、孫文はこの時期においてもなお日本に革命支援を期待して いる。婦蟄年11.月、孫文が神戸に立ち寄った真意は、孫文致権が貝本宮麿に、飼らかの見. 返りを与えるかわ瞬に、革命の支援を期待したものであったという。また孫文の広東致府 を支援していたコミンテルンは、広東政府に冒本軍事顧問の派遣さえ検討されていたとい う(88>。また当時孫文は、反直隷派グループの形成を企図し、注兆銘をソ連との交渉だけ でなく、段祓瑞・張作森・孫文の同盟の締結交渉にも当たらせていた。つまり戦略的には、. 申国国民党は反帝蟹主義・反軍閣の理念のみで動いていたわけではなかったといえる。 孫文は緯23年11月12日、中国国晟党を改組し、「聯ソ、容共、扶助労農」を確定した。. しかし聯ソ、容共、扶助労農」は反対論も強く、中国国民党は、国家統一と反帝国主義 を標榜する連合戦縁であったと言える.孫文自身は、ソ連の政治理念に全面的に賛成して いたわけではなかったが、運動論になるとボルシェヴィズムの政治棒鰯を取鞍入れ、民主 集申髄、軍政一致で、国家統一を図ろうとした。外交面では、ソ連の支援を得ながら、租 界の渥駿など含め、西欧及び舞本との不平等な関係を改善しようとしたと考えられるく8§}。. 以後、江兆銘は、ヂ温言」に至るまで(9◎)、孫文よりもさらにギ反帝国主義」を全面に. 鐵すことになる。演説、書翰なども、マルクス=レーニン主義的な用語が多く使われるよ うになる。国共合作期の注兆銘の政治思想は次簾で述べる。. 第3節 容共左派から分共・反共へ 壌.容共二一としての涯兆銘の政策. 孫文は、1925年3月i胴、革命未完のまま肝臓癌で死去した。この時の遺言の草稿は注 兆銘の作であった。遺言は次のとおりであるく9D。. 現在革命未だ成功せず。凡そ我が同志は、務めて須らく余が著すところの建國方略醜)、. 建國大綱繍}、三民主義、及び第一次全國代表大凡宣言に照らして、努力を忌忌し、 以て貫徹を求めよ。最近の主張たる國民思議開催及び不平等條約誌面は、須らく最短 期問に終いて、その實環を期すべし。これ遺民する所な移. これは、孫文の意を解した江兆銘の政治思想でもあった。「三民主義jf第1次全国代 表者大会宣言iは、「連ソ・容共」と板帝国主義i宣言であり、具体的急務は山国民政 蔚」の区立とギ不平等条約」の撤廃であった。. 1925年7月1冒広据で国民政府が成立し、涯兆銘は国民政府主席、ついで軍事委員会虚血 に就任した。しかし中母国昆党は一枚岩とならず派閥抗争が本格化していった。. まず留出銘とともに左派の論客であった疹仲凱の暗殺事件が8月に起きた。この時国民 党の有力者で右濠州心素民が暗殺に関する閣係者として、江兆銘・区分石によ誓、モスク ワに追放されている。さらに1明、最右翼反共派は、ボロジンの解雇、共産党員の国民党 籍の識奪を求めて、西山会議派繕)を結成した。. _22一.

(24) 涯兆銘は、当時は「容共左派」として国共合作の推進者であった。江兆銘の容共左派時 代は、1923年11月の中濁国民党敗親宣言の頃から武漢政府(95)が、国民党中央常務委員 会でF公共」を決定(1927.7.重5)するまでである。. 国共合作の進行に伴い、第2回中国国民党全国代表者大会(1926.1.Dでは、中央執行 委員では、左派と乱国共産党が主流をしめ、中央執行委員36人のうち8名は共産党員であ った。さらに同大会で、対外政策は帝国主義の打倒、国内政策は軍閥・腐敗宮療・土豪劣 紳の打倒を打ち擁した(g6)。涯兆銘は毛沢東を非常に高く評価し、国民党中央宣伝部長代. 理、国民党が創刊した『政治週報遍の編集長、翌年1月に開催される国民党第2回全撰代 表大会に向けての代表資格審査委員会の委員5名の1人に任命している(97)。 涯兆銘多まこの容共左派時代、どんな主張をしていたのだろうか。. 黄聴軍官学校における演説「国民革命的意義」(g8>で、 r縫績彦蕪代表工作! 打倒帝. 国主義1 完成中國國民革命! 中國自由平等萬歳! 世界上一切民族自由車等萬歳。3 と主張しておりく鮒)、疹仲凱淋暗殺されたおりには、これは帝国主義の陰謀であり、申蟹 人を使って中国入を殺させるのは、帝国主義の常套手段だとしている〈100>。. しかし当時の注兆銘は、マルクス主義の影響を受けてはいたが、階級闘争については否 定していた。ボ獄ディンが革命主体を労農・大衆においているのに対して、注兆銘は革命 主体を国民・入民と表現していたく縦)。また民衆を農民・労働者・商人・知識人とし、 それぞれの利害閣係が反帝国主義で繋がっているとしている{1⑪2)。そして申国国民党は 民衆を連合して蟹民革命を行う党であって、無産階級の党ではないと断言していた(茎㈱。. 一方、コミンテルン、共産党の影響下にある労働運動・学生運動がしだいに頻発化・灘 化していった。以下1925年6月に趨きた事件である(麟)。 1嚢2§薄6憩1. 上海で2愈万人の労働者スト、5万人の学生スト、商人の閉店スト麟決行され た。. 1§飾ノ照/1警. 二二・香港の労働者掛上海の支援ストを開始した。(∼1926.12.韓〉. 圭§%ノ総ノ蟄. 丸山二面穣雰で、労働者がストを開始した。. 1925/{}6/22. 香港政庁は戒厳令を施行した。. 1925ノミ}§/23. 広鰯二二で労饒者・農民・学生らが沁万入デモを挙行し、対岸沙薗の穏雰 より英仏軍が二二して52名が死亡した。. さらに毛沢東の監督下の農民協会く豆e5)の激しい階級闘争のため、国民革命軍の中に共. 産党・灘ミンテルンの考え方に反感を抱く者が輩出してきたことを陳独秀がコミンテルン に報告しているく1㈹.. 2.蟹共合作期の涯兆銘の対日観. 国共晶昨期の晶晶銘は西欧そして舜本の対中国政策を非難していた。肩本が中国を南北 に分断する敵策を実掩し、西獣帝国主義、日本帝国主義勢力が軍閥と結託していることを 指摘しているqa7)。. 一23一.

(25) 霞本の政客はまず、中国を二分して南方を共和、北方を帝政にすることを主張した。. 英国は、舞本が東方で台頭することを許したが、英国国会では、中華民国が東方に台 頭することは許さないことが提起された。このとき上海租界内の外人歓逓信で、帝国. 主義者たちは縣先生の致策は帝国主義者は中国革命が単に満点駆除ではなく、帝覆 主義に対抗することにあること」を知った。そこで帝国主義者は、共同することにな り、その轟的は、中華民国の山山を制することであった。六二国銀行団を設立し、残 酷な借款条件と担保品を出させて、中国の経済権力を、その手に収め、借款を利淫し て、軍記を助け、革命勢力を阻んだのである。民困以来の外交現象は、一言でいうな ら、帝国主義と軍閥の結合である。. 衰世凱く鐙8)は、帝国主義の援助を借り、艮一βと勢力を拡充し、北洋軍閥1至㈱を. 作曲上げてしまった。哀盤凱死後は、董卓撫。)死後、他の者溺蜂起したのと同様、. 今潟にいたるまで、連合したことがない。南方は、当初革命の根心地であったが、帝 国主義と軍閥の二重圧迫から、屈強な者は死に、柔若なものは降伏するしがなかった.. これよ鞍以後、北方は反革命的な大軍閥をつくり、南方は変縞した革命党人が三軍薦 をつくるに至った。大軍閥は統一を唱え、小軍閥は地方に翻槌し、連省自治を唱えた、. しかし、1920年当時の論調と比較すると、涯は対臼非難よりも、帝国主義国一般及びイ ギジス二二主義を葬難していたことが分かる。下記資料は、香港の帝困主義者への旧記と 反英ストライキ団への支持表瞬である留D。 ・民国以来の変醜は、乙鳥主義者と軍閥が結託した結果である。. ・ここ2,3年間、五二銀行団淋哀世凱に行ったこと、ここ6,7年間.賛本の段二 二に行ったこと、ここ8,9年英米が二二、呉倣孚におこなったこと、みなこれ極 めて顕著な事実である。. ・孫先生は北上して、不平等条約廃止を国の内外に呼びかけたところ、香港の帝国主 義者1ま練蝿瞬を扇動して、東江で乱を起こさせ、楊希関、魏震簑をして香港に跳梁 せしめた。. ・國民政病は青島・三江・山開・上海・広州の惨殺事件に対して反封を堅持し、香港 と広蝿の海員ストライキー団を支援してきた。. ・香港の帝国主義者はくだらない政客や失意の軍人を誘って、国民三山の重要人物を. 狙撃して政瘤に危害を撫えるような挙動に出た。また東江残余の敵人グループを誘 って、国を売警、民に災いをなし、私腹を罷やす復興運動を行った。 ・帝国主義勢力は、国民が政治的に無自覚である事につけ込んでしたいほうだいのこ と淋できたが、ひとたび国民渉政治的に覚醒すれば、帝国主義者の策謀は失敗する. だけである。陳燗明らは東江で敗北し、6月には楊希聞・劉震簑は広弼で敗北し、 8月、§月には、広鰯の内外の反革命派は次々に破れ、革命派に粛正されてしまった。. このように国民が政治的に覚醒した後は、決して帝国主義の走狗の存在を許さなく なった.. ・総じてこれを言うと、政治的に覚醒した国民は失敗することはあり得ない。国民の 政治飽覚醒は牽国主義力坤蟹に害を為していると同時に国民革命の必要牲に気づく. 一24一.

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