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和平運動と注政権の成立 一献政権の日本への抵抗と限界一 第1節 盧溝橋事件から和平運動へ

重.日本の華北分離工作による反日運動と蒋介石のソ連への接近

 1935年になると、賛本の華北分離工作は本格化した。それに伴い中国側の反貝感奮は一

層エスカレートすることになった。下記が一連の事件である。

193§ノ06/27 1935/韮1/25

1935/12/{)§

1935/12/18 1935/06/1◎

1936/◎8/霊4

1936〆◎9ノ{}3

1936/09/18

1936/(}9/玉9 1936/◎9/23

±肥原・秦徳純協定(1)が締結される。

翼東防共自治委員会(2>が成立する。(主席:股汝耕/12隠5糞東防

共自治敵:鰐と改:称)

一二・九運動(3)が勃発する。

翼察政務委員会ぶ成立(4)する。(委員長;宋哲元)

梅津・侮応欽協定㈲締結される。

轟本政府の成都総領事館再開強行に対し、反目暴動がおこり日本人

籍闘記者2名殺害される。(成都事件)

広東省北海で、§本人商人ぶ殺害される。(北海事件)

石原莞爾、都薪聞記者に、満州国は楽土になっていないと語る。

山西省太原で犠牲救国同盟会が成立する。(閻鯉山が会長となる)

漢日で日本領事館附警官射殺事件が起きる。(頭隠事件〉

上海で日本海軍陸戦隊員3名、黒身され、1名死亡する。

 これに対して蒋涯連合政権時代、対艮提携政策をとってきた蒋介石も、これに代わる籍 政策を模索しはじめた。蒋介石は、自著『中国のなかのソ連』(高木桂蔵訳 世界の情勢 研究会 1981.1①では、ソ連が国民政府に接近してきたと述べているが、ソ連崩壊後、

ロシア公照文書をもとに研究してるa熱Slaviほssky、 D. V. SlaviHssRyは窪中国革命とソ連嚢 で、蒋分石が対臼戦略一環としてソ連に接近してきた事実を述べている。

蒋介石自身は1934年から、もっと緊密な中ソ協力ができないかと模索し始めていた.

しかし、自ら20年代末に反ソ主義を掲げていたためにクレムリンの反応は否定的か もしれないと思っていた。そこで蒋介石は、藍934年秋、ソ連指導部の態度を探るた めに、密使として北京大学の教授で歴史学者の蒋廷献(のちのソ連駐在大甘)をモス

クワに派遣した(6)。

以後罫中濁革命とソ連曇に従うと次のような経過で蒋介石は対ソ戦略を構築していった。

滋謎年鴻月16舞、モスクワに蒋廷繊を派遣し、中ソ関係の改善を図れないか打診して

いる。このことは注兆銘には内緒であったという(7)。翌年には陳立夫に圭935年、南

京駐在ソ連大使DVボモロフに沖臼戦争が始まった場合、ソ連が中国を援助できる

かどうか」打診させた。ソ連はヂ非常に危険だ」ということで拒否している。なおも 1935年10月9臼には孔鮮煕がソ連政治代表に「中国が日本に軍事的抵抗を行う場合、

ソ連から軍用資材を受け取ることをあてにできるか」と打診したという⑧。さらに 蒋介石は瞭立夫を1936年2月モスクワに派遣して、M・M・リトヴィノブ外務人民委

員との会談で、再度同じ問題で話し合った。ソ連は、慎重な態度を崩さなかったぶ、

一定の進捗があったという(g)。

さらに蒋介石は下記のように交渉を継続した。(前掲『中国のなかのソ連』より〉

1≦タ35/11/2◎

1935/11/2§

1936/O董/22

ソ連は中国に軍事資材を提供することに同意することを二二煕に伝

えた(鋤。

日本の侵略に対抗するための協力・相互援助に関する蒋介石の提案に心 意するが、蒋介石が反ソで合意する可能性を排除できない

ことを表明(ω。(ストモニャコフ外務人民委員代理)

ボモごロブ・蒋介石会談。(蒋介石談)

ぜいかなる国家においても、政党が自らの軍を持つことは許されない諺 ヂ紅軍が中央政府と司令部の権威を認め、現在の構成を維持しながら、

抗一戦に参蔀するという条件なら、共産党との合意は可能である。墨

 さらには、1936年11月1眼には、国民覚代表として陳立夫を派遣し、共産党代表播漢年

と上海で会談させた(吻。

2.西安三韓

 19錨年逡月12鐸、西安事件が勃発した。これは張温良・楊虎城軍が西安で蒋介石を監禁

し、張学良・楊弓城淋連名で内戦停詮・抗日を要求した事件である。決着したのは、蒋介 石が、周恩来に対して共同抗穣こ同意した1936年12月2媚であるとされている。

 ガ二二賛報国1337年2月26員版の一面のタイトルには、次のように書かれてあった。

疇委員長昨抵洛陽 睾國閣訊漱聲雷同 爆竹聲與歎呼七二二不二」

『大阪二心1937年硯5日号では、次のように書かれてあった。

蒋氏『抗命を承認し全支の二二戦線なる(上海本社特電)

西安で揚虎城氏豪語

 ギわれわれが山分石氏を監禁したのは抗日政策の採用、内戦の二品といふ民衆の希

 望を容認せしめるためであった。われわれの蹴起は国際的な反ファッショ、平撫

 戦線と離れないものであり、われわれの唱える抗印ま西南派の抗艮とは異なり、た

 とへば致治犯の釈放、言論集會の自由、共産黛との提携等があり、かつ民衆運動に

もとづいている。われわれの反餓を匪賊のような暴動だとか、日本と露孫淋あると か、また注兆銘と關係があるとかの報道はすべて嘘で、また張學良は八千万元を要 求をしたといふような説も中傷にすぎない。またわれわれがモスクワの指令を受け ているといふのも全く事実無根である。」

 この事件について、沖央日醐では、「国共合作」に全くふれていなかった。『中央日

報選は一般新欄であると同時に中国国民党の情宣二二性格も待っていた。つまり蒋介石は、

公式的には、「扇共合作」を認めていなかったことになる。(臼本の新聞では、揚虎城を して「国共合作i淋成立したかのような書き方がされている。ちなみに二二銘は、この期

においても共産党との関連を疑われるような書き方がされている。)

 蒋介石は、強い反共イデオロギーの持ち主であったことは言うまでもない。先に述べ た蒋分石の対ソ接近は、反共国の昌本・米國・英国との外交関係に配慮しな誤らの政策で

あった.霧中国革命とソ連』によれば、蒋介石の対ソ接近は当初、貝本・米国・英国には

内密に進められたという。そして蒋介石がより中ソ接近をするための、ソ連側への「踏み 絵」は申国共産党との協力関係であった。一般的には茜安事件は、蒋介石の困共合作に踏

み溺るきっかけとされているが、これは蒋介石の独裁を脅かしかねない大事件であった。

実際に国共合作が成立したきっかけは、盧溝橋事件以後であり、西安事件よりも、むしろ 蒋介石の戦略上の必然から生まれた国共合作と考えるべきであろう。以下が国共合作への

歩みである。

1937〆{}7/15

}937/《}§/22 1937/{)9/22

1937〆09〆23

共産党中央、国民党に「国共合作公布に際しての宣言」を送付。

共産党、国民党政擢転覆のための政策停豊を宣言。

国民党中央通訊祉、共産党との国共合作宣言(7.i5)を発表。

蒋介石、共産党の合法的地位を承認する談話を発表。第2三国共合柞

が成立した。

3.帰国後の政治活勲

 注三二は猛撃を受けて以来、治療に専念するためにヨーロッパに出国していたぶ、治療

を終えて帰国し、香港で資本人記者に次のように語ったα3)。(1937年1月1銀〉

西安事攣はまことに遺憾であるが、和平解決の艮近きを確信する、自分は蘇郷早々蒋 介石氏と會見する豫定であるが蒋氏が依然二化で静養申であれば奉化に見舞い方々訪 問するつもりである。自分飼人の繋日外交方針は昨年の二申全會の決議を遵守して進 むのが至當だと考へる。環下の鋒支關係から冷静に見て日支爾國の和平解決は決して

絶望ではない。

 また圏民記念週では政治委員主席の資格で「死中に生を求め、亡中に存を求むるは、…

…精神的懸結の……真誠に基く。……中国当面の急務は、ただ救亡にある。救亡は郎ち民

力に頼る。民力の増進は、即ち救亡力足の増進である。 ……これが救国の道である.(松 本重治琉醤想)」の談話を発表するα4)。さらに島島で静養中の蒋介石の自宅を訪れ、今 後の証言の封内外方針につき最終的協議をした。(1937.1.14)これは涯の復権の第1歩で あった、 江島銘・蒋介石会談は次の通りであったα5)。

  藍■二海特電28 爲葦蔓】

奉化における蒋介石、江兆銘爾残の現南京政府の雨巨頭の會見の結果は各方面から今 後の政府の雪内外方針につき最後的協議をなしたものとして注員してみるが、支那翻

消息通談によると大計次の如き決定を見た。

・三申全會は二三どおり2月1硲より南京で開催、蒋介石は帰郷のうへ會議を主催

する。

・國民大會旧記期を三中全山にて決定する

・外交政策および内政尉新の方針については全國代表大会及び二中金會にて決定の 方針を邊回して政策の進行を計る。

・陵西事件(西安事件)の解決は政治的に二二解決を計り三中全會にて前後辮法を 決定する。

さらに江兆銘は上海で、「反共・反人罠戦線演説」をしている(16)。 (1937憩圭/18)要点 は次の通弩である.

最重要条件は、各党力勤、ずれも武装せぬということである。フランス大統領は共産 党その勉の団体に武装を許さない。フランスにはただ1個の民主政府があるのみで、

そのほかにソヴェート七二はないし、フランス国防軍があるだけで、その外に謬赤

軍藩なるものは:ない。

 注兆銘は、コミンテルンを、ソビエト帝国主義の工作機闘とみなしていた。また申霞共 産党はソ連・コミンテルンの尖兵であると考えていた。第1次国共合作では最後まで陣 国共産党iの擁護に回っていた注兆銘としては、南昌の武装蜂起や広弼コミューン事件、

その後のソビエト地区の拡大は、許されざる裏蜀りとして映っていたのであろう。注兆銘

のダ合作圭条件は紅軍の解散であった。

 涯兆銘は、国民党第五期第三次申央執行委員会全体会議(三中全会)の開会の言葉で次

のように述べている留)。

 全国の平和統一は二中全会の宣言に基き顕著なる進歩を示し西北共匪は自滅に垂ん

とし、又紐遠の役に於ける奮溺は守旧禦窟の成績を挙げ同胞に一線の希望と無限の勇

気とを与へたり西安事変の発生は救亡図心の基礎に異常の動揺を与へんとしたるも幸

ひに蒋分石の説出を見秩序を同復し和平解決を告げたり。

また阪共演説」と同時にギ未喪失の領土を保つには、今後の努力が必要であり、教亡