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研究成果と課題 重.本論文の趣旨と戒果

第2条 第3条

第3節  研究成果と課題 重.本論文の趣旨と戒果

 本論文では、先行研究を踏まえ、罫1930年代を中心にした江兆銘の孤虫政策の変遷につ

いて三検討してきた。検討の観点は、晒外の情勢に対して涯兆銘はどのような対員政策

の策定してきたかのゼ江丸心の一貫した頬日政策は侮か。3「注兆銘は自らの隷高運繭や

その後の政権樹立を中寺国家や中国民衆にとって、どのようなものとして価値づけていた

か沼である.

 検討する申で、1930年代の注兆銘の政策や政治的発言・著述は、1940年のr注派南京政

権」発足以後の政治活動の原点と言えることが明らかになった。具体的な主張は本文で示

したように大きく変化している。しかし資料を検討する過程で、江兆銘の対霞政策の変遷 と共に、外交政策の一貫性も浮き彫りにされてきた。それは基本的に「抵抗を含んだ対舞 直:接交渉」であった。塘:沽協定(1933年5月)以後は、ゼー面抵抗、一面交渉まからジ全

面交渉」に戦略を換え、f対日提携」路線を採るようになった。国際環境・国内環境に応

じた具体的政策の変化であり、対止山策の根幹にあたる部分「対日直接交渉」は一貫して いた。そして旧藩協定以後、武力による抵抗を断念したが、「直接交渉」による抵抗は放 棄していないことが明らかになった。

 涯兆銘の194◎年8月のギ注派南京政府」樹立は、193◎年代の「建国」f民生の安定」の

為の「対舜交渉(抵抗を含むMF対旨提携」論を基本とした延長線上の外交致策であっ

たといえる。

2.今後の課題

 三二銘の外交政策は、隣国で乱れて発達してきた帝国主義国家、艮本」と、どのよう

に折り合いをつけていくかが、最も大きな外交政策上の難題であった。一方で直接国境が

接している隣国ソ連との外交政策もまた大きな難題であった。江は「中ソ連携(第1次三 共合作)達から高山連携く塘沽協定以後)」に大きくシフトを移した。なぜ蒼連携まの パートナーは、β本でなければならなかったか検討を要する課題である。幸い1991年ソビ エト連邦崩壊以後、薪事実が公開されている。ソ連側とりわけコミンテルンの資料を検討 することで、「二二銘政権の対外政策」を、より分析的に捉えることができるのではない

かと考える。また、国際連盟、英米諸国の動向も、注記銘の政策決定に大きな影響然あっ

たのではないかと思われる。今後は、海ソ連時代の資料とともに、英米、国際連盟と涯兆

銘との関わりも検討しなければならない。

 さらに沖国ナショナ夢ズム」についての検討が、江兆銘研究には不可欠だと考えられ る.アヘン戦争以来、半植民地化されてきた中国が目覚めたのは、紛れもなく五四運動で あった。以後、板旨運動」から阪英運動」そして山東出兵により、再度の仮肩運動」

が開始され、以後一貫して阪賃運動が続いた。国民政府、行政当局は内部で議論する 時とメディアや民衆団体に発言する時は、大きなギャップがあった。「国民政府」内部で

はより環実的な選択を論議していた、盧溝橋事件以後、その傾向はより顕著になった渉、

注兆銘及び注一派の沖肩提携発言まは異例であった。江兆銘の外交政策を検討する上で 沖撰ナショナジズム玉が、中国知識人の内発的なものか、それともコミンテルンの戦略 による外発的なものなのか、メディアによる影響なのか、中国共産党による革命戦賂なの

か、十分に検討する必要があると思われる。そこから注三二の外交政策を再検討できる。

本論文では、上記の視点での検討が希薄であるので、今後調査検討を加えていきたい。

【序論愚蒙

(1)擢民報遡:革命宣伝のための孫文主催の中国同盟会く1905年発会)の機関誌。以下は狂乱銘の   執筆による。

第1號G9◎5年葺月26日)

第2號《1905年11月26鋤 第3號(19◎6年4月 5日〉

第4號(1906年5月 蝦〉

第5號(19㈱年§月26日〉

第§號〈1906年マ月25舞)

第7號(19旧年9月5日〉

第8號(190§年io月8舞〉

第9號〈19G6年11月1腿〉

第10號(19総年ユ2月2韻)

第11號(19奪?年1月25ヨ〉

第鴛號(19解年3月6貫〉

第鰺號(19醒年5月5印 第25点く玉9沁年2月1艮)

民族的國民

民族的島民  績第一號 希望二三立憲者蓋聴諸 駁薪民叢報最:近之非革命論 希望痛州立憲者蓋聴諸 績第三號          附二二三二報

駁革命可以召瓜分論

再駁新三二報之政治革命論(績第三號〉

二三立憲與國民革命 駁革命二言生内蹴説 雑駁乱民匠気(績第十二號)

時評賀希望三訂立憲者之失望 雑駁薪民叢報(績第十號)

雑駁新民叢報(績第十一號)

斥誌上淫心護者之無恥 三二民族輿政治閣繋之資料 総編集入 江精衛

革命之趨勢 載澄之私其誌 上之漏死

Pρ.ユー3 ρP.豆一24

PP.23一嘆O P塗、茎一44 蓼)P.23−40

P峯}.17−4(}

PP.33−62

P峯}.33−54

PP.27−50 ρP.43−56 陣.5?一65 P嚢.2§一38 茎}P.2蓉一44

PP.玉55−186

PP.茎「『一38

PP.5−24 PP. S2一§5 P茎}.67−7()

   第齢號〈191C年2月1巳〉   三編塩入 江精衛

      論革命之趨勢(績第二十五號)      勢。1遺O       革命之決心      pp.21−P28

(2>窪我多ま苦難の道を行く<下雇沿.123

  上坂冬子氏は江の長男江文嬰氏にインタビューしている。江島銘が死の10冒前に息子狂文嬰   氏に語った言葉である。

   ※窪我は苦難の道を行く(上・下)』上坂冬子 講談杜 1999.10.15

     二二銘の二目政権樹立に至る経過を娘や私設秘書感文二二のインタビューをもとに執      筆している。

13)ガ注精衛・國畏窯・南京政擢藪王克高著 中央研究院近代史研究癬集刊43期器縫。3   心惑紀來・海絞雨岸野民國乃至近代人物的評領・往往立場相反・褒疑互見・唯獲封注氏灘毫   無異議一一語以蔽之・「漢好」而巳・

       (申略〉

  史學界内外部有山鼠的疑問・但是温浴底抗戦的記憶二二・民族主義諒解繹空山勢然有富山大   環境下・這檬的疑問至今未能受封正親・也未能轄化為嚴顯冷静的學衛研究・這本論文集・希    望再以作一懸起歩・

   ※王心添著國史館(民訴史學叢書)200L12

    溺書名 翻繍gJing聡i,施e酷tionalist Part¥, a面the晦ngin認

    著者は環在、アメリカセントミカエル大学(Sai藍磁chaer s College>教授。

    注温湯の生涯を通じての思想・外交政策を民族主義的三二によらずに資料に基づき実     素的に検認している。

(4)『満山事:変とは何だったのか(下)』pほ5

   ※窪満州事変とは何だったのかく下〉』一国際連盟と外交政策の限界

     [原書名:盟ELI搬TS OF F◎REIGN POLICY;The恥s宅, the League a磁Far髭s総箆      Cris孟s o£  1931−1≦}33 〈Thorne, ChristQPher>  ]

     ソーン=クリストファー著  市川洋一訳  草山社1994.11

     太平洋戦争の起点と言われる満山事変の意味を問い直す。欧米列強の権益争いと、西      測の論理による国際機構の弱点を衝いて、新たな解釈を提示する。

【第1章註】

(1>王陽瞬

   1472(成化8>〜1528(嘉靖7)明代の哲学者、政治家。号は陽明、字はイ白山。余挑(三江)の人。

   官は二二兵部尚書・北都察院左都二二にいたった。軍略に富み、江西福建の賊乱、寧王震濠    の反乱、広西の三族の乱などを平定、文臣としては明代を通じて武功第一と称され伯爵を    授1うられた.また二二の実旛など行政家としても成績をあげた。はじめは朱子学を修めた溝    三山翔瑛に反対して流された貴州考山上の由中で、それに対決すべき心三三という根本的立    場を確立した(37歳)。この原理のうえに、知行合一・万物一体・致良知が主張され、かつ    講学二三力漢って研究切瑳すること)の風を鼓吹した。その説は解放的・平等主義的・熱梼    的三二を有し、しばしば資本主義萌芽時代とよばれる当時の人心を捉え、種々の社会問題を    惹起した。最近の学者は二七理を説く朱子学の客観唯心論に対し、陽明学を主観唯心論とよ    ぶ。清朝の考証学溝おこると陽明は否定されてしまっただ、清末になって改革・革命蓮蛾と    ともに、再評懸された。主著にギ王文成公全書」38巻、「伝習録」3巻がある。

       窪東洋吏辞典灘 京都大学東洋史辞典編纂会 東京翻元社  1§§e.3

〈2>陶淵霧 365〈二二3>〜427〈元嘉4>

   隠逸詩人。湊鶴柴桑(江西〉の人。淵明は本名ともいい、字ともいう。あるいは名は潜、字は    元亮ともいう。生年についても諸説赫ある。東晋の元勲二二の曾孫。彼は裾の祭酒(教育長)

   となり、二恩の乱が起ったときには二軍二軍となって出征し、一時桓玄の幕下にもいたよう    である。その後郷里に帰っただ、鱒5年儀煕元)二二の令となり、わずか舖韓ばか鞍で帰    去来の辞を賦して帰点した。かっては彼と同輩であった劉裕が420年(永初元)東晋を滅ぼし    て宋国を建ててから、8年目に没した。淵明は国園詩人・自然詩人といわれ、また隠逸詩入    の宗といわれる。その詩は平淡の申に真情を吐露し,儒家的な気節と老荘的な超越を有し,

   気韻の高きこと古今第一である。文には「桃花源温湯五櫛先生伝」「自祭文2など瀞ある。

       註(D前掲霧東洋史辞典塞

(3)陸游 1125(宣融7)〜1209(嘉定2

   南海の詩人。字は務観、号は放翁凸越州山陰(漸江〉の人。幼時より文才があったが、官途に    ついてはあま撃ふるわなかった。46議のとき、はじめて王炎の推挙によって通趨として轡翅

   におもむいた。このときの紀行が「人蜀記」である。その後宰相周必大に認められてからしだ   いに要職につき、晩年は修史事業に関係して二二・光宗の実録を完成した。11ge年〈紹二元)

  以後は故山に家居した。詩は1万首を越え、著書に「沼南文集」50巻、「剣術詩稿郊5巻、聴   乱書jr老学庵筆記」等心ある       註G)前掲謬東洋史辞典』

(4>『王購明集選p.275 魚偏二次 朝霞薪聞社:1975.9

   f良知」は孟子のいわ織る、偏人もが先天的に所有している是葬の心、つま沿道徳的籾断力   である。その是非の心は先天的なものであるから、これまた孟子の言うように濾らずして   知沿、学ばずして能くする」ものである。孟子では慮らずして知るのが嗅鋤、学ばずし   てよくするのが「良能」とされているが、陽明はこの両者を合わせて良知とする。それは劉   の言葉で言えば、中庸の「天命の性」であり、自然にr霊昭引見」なる「心の本体」に勉な    らない。

(5) 李准〈ユ871−1936)

  囲二二濃水県生まれ。清末及び民国の軍人。清朝では工員に補された後は、 順調に出記し、

  19◎9年8月には広東水師提督に任命される。辛亥革命当初は、反革命派であった溺、後に革   二二に帰順した。      甑B『フリー百科事典 ウイキペディア澄

(6)二二とは、耕挙の受験資格である国立学校の学生になるための試験である。童試の一段贈で   ある。童試を受ける者は、その年齢にかかわりなく、一律に童生(どうせい〉、あるいは儒   童(じゅどう1と呼ばれた.なお、童試は本来科挙ではないが、科挙の受験資擦を得る試験   として、これをも含めて科挙を論じるのが一般的である。童試は3年に一回、霞潜2月に行わ   れ、順に県試・晶晶・院試の3つの試験を受ける。二二は、各県の地方官によって行われる.

県試に合格したものは、その県を管轄している府の二二を受ける。昌昌は、各癬の地方官に よって行われる。さらに癒試に合格したものは、皇帝によって中央から派遣された学酸によ   る院試を受ける。この院試に受かったものは、晴れて秀才と呼ばれ、国立学校への入学資格   を得る。       照B『フジー百科事典 ウィキペディア選

17>清国留学生法政速成科

  董彌〈明治37>年には清国留学生法政速成科が開設されます。この卒業生の中から、中国   の近代化、癒中国建設に重要な役割を担う人物が輩出されています。法致大学の大きな二色   の一つである国際交流の源をここに見いだすことぶできます。

  以下の記事は、雑誌響法政遍2◎◎2年5月号一法政大学の歴史〈その5◎〉一よ鞍籔粋です。

  法駿大学および法政二成科には、辛亥革命の指導者や、中華民国の中心的存在となった入々   が留学生として多く在学していた.

  弼えば、辛亥革命の撲論を準備するのに、最も大きな影響を与えたパンフレットとして都容    二二軍」と董び称せられる「猛回頭」二世鋤の著者であり、19◎5年公布された、いわ   φる購国留学生二二規期に抗議して入水自殺を遂げた陳天華や、のちに南豪政府を山立   し、舞本のいわゆる塊縄政権を担った江島銘をはじめ、宋教仁・胡漢民などがその代表であ   る、 また、沈鈎儒のように中華人民共稲国最高人民法院長となった人物もいた。1913年に   開会した参議院・衆議院の議員や、各省諮議局(地方議会)議員に数多くの法致出身者麟い   ること(特に諮議局議員は法政出身者が多数を占めており、謡本留学・視察経験のある二目   名中、法政出身者は48名にのぼる)、立法業の中心となった人物や、各地法政学堂などの議   育機§§の設立者や責任者となって法律・政治教育に携わった法政留学生は、枚挙にいとま渉