は じ め に
本稿は,1910年代の裁判外紛争解決制度導入をめぐる議論及び1922(大 正11)年の借地借家調停法の制定時の議論を検討することを通じて,調停 制度成立過程における制度目的の変化を明らかにした上で,その施行状況 を本格的に検討するために必要な視角を提示することを目的とする。 1910年代に入ると,日本では第二次産業が興隆し,それに伴って社会関 係が複雑化し階級対立も激化した。さらに,民法などの西洋近代法が社会 へ浸透していったことも俟って,日常言語による裁判・「裁判の民衆化」を 求める言説が見られるようになり,社会の現実に即応した法や裁判を求め る声が強くなっていた。当時の日本の裁判所には,1891(明治24)年に勧 解が廃止された後に調停手続などの裁判外紛争解決制度の設けはなかっ た。こうした状況の中で,弁護士出身の国会議員である高木益太郎(1869 1929)と卜部喜太郎(18681942)は,1911(明治44)年に民事争訟勧解法 案を,1912(明治45)年に紛議仲裁法案を帝国議会に提出した。両法案はと もに上程されたものの,成立に至ることはなかったが,本稿ではこれまで 殆ど研究されたことがなかった両法案をめぐる議論を検討の対象とする。 ─ ─17借地借家調停法の成立と施行地区限定の意味
林
真 貴 子
伊藤孝夫『大正デモクラシー期の法と社会』(京都大学学術出版会,2000年) 83114頁。両法案が廃案となった後,1922年に借地借家調停法は成立するが,同法 についての研究はその成立時に出版されたコンメンタール等を除くと, 実は数えるほどしかない。借地法借家法についての研究が盛んにおこなわ れてきたこととは対照的である。主たる研究は, 茶谷勇吉『借地借家の 現行法規に關する若干の考察[司法研究第17輯 報告書集5]』(司法省調 査課,1933年),山田卓生「借地借家紛争と調停制度」『法学新報』第74 巻第9・10号(1967年)59~97頁,高橋裕「借地借家調停と法律家」(早川 吉尚=山田文=濱野亮編著『ADR の基本的視座』不磨書房,2004年)93 134頁等である。本稿ではこれらの先行研究に依拠しつつ,同法の起草・ 成立時の議論を整理する。これまでの借地借家調停法成立過程の研究の分 析対象が草案の起草段階での議論に限定されていたのに対して,本稿では 1910年代初頭から政府・司法省・法律家が裁判外紛争解決手続をどのよう に捉えていたのか及びその捉え方の変遷を明らかにしたい。これらのこと を通じて本稿では,借地借家調停法の施行状況 を分析するための視角を ─ ─18 金子淡堂=高橋北堂『誰れにも分る新破産法,和議法,借地借家調停法 註 解』(下出書店,1922年),平川松太郎=児玉正五郎『借地法 借家法 借地借家 調停法 示解』(酒井書店,1922年)など。池田寅二郎『仲裁と調停』(岩波書 店,1932年)。 戒能通孝『借地借家法』(新法学全集 第12巻民法,1932年),鈴木禄也「借 地借家法」(鵜飼信成=福島正夫=川島武宜=辻清明編『講座日本近代法発達 史 第11巻』勁草書房,1967年)5478頁,瀬川信久『日本の借地』(有斐閣, 1995年)。稲本洋之助=小柳春一郎=周藤利一『日本の土地法 歴史と現状』 (成文堂,2004年),小柳春一郎『震災と借地借家:都市災害における賃借人の 地位』(成文堂,2003年)など。 調停制度の研究のなかで,借地借家調停法についても言及をしている研究は 多い。馬淵健三『調停制度の研究(司法研究第19輯報告書集9)』(司法省調査 課,1935年),最高裁判所事務総局編『わが国における調停制度の沿革』(最高 裁判所事務総局,1951年),小野木常『調停法概説』(有斐閣,1934年)。 石川 明『民事調停と訴訟上の和解』(一粒社,1979年)。 同法の施行についての研究はほとんどないが,たとえば,瀬川信久『日本の 借地』(有斐閣,1995年)50頁は札幌を含む北海道に借地法・借家法・借地借
示すことを目的とする。
1.民事争訟勧解法案及び紛議仲裁法案の意義
1911(明治44)年の民事争訟勧解法案および1912(明治45)年の紛議仲 裁法案は,大正11(1922)年の借地借家調停法制定に対して,影響を与え たのであろうか。影響があったとするなら,どのような影響であったのだ ろうか。両法案は制度の呼び名を民事争訟勧解から紛議仲裁へと替えただ けで,実質的内容には大差がない。さらに,紛議仲裁法案の方が前年の民 事争訟法案の廃案の後に上程されているので,提案理由などは洗練されて いる。ここでは紛議仲裁法案に対する議論を中心に検討し,必要に応じて 民事争訟勧解法案についての議論にも言及する。 帝国議会に上程された紛議仲裁法案の内容は次の通りである。「民事上 の紛議を調和するため」に各市町村に公選の仲裁人をおく(第1条)。 た だし,市町村が小さい場合には他の市町村と合同で1名の公選仲裁人をお くことができる。公選仲裁人は名誉職であり,満40歳以上で,懲役または 禁錮以上の刑罰に処されたことがなく,任命される仲裁区に居住している 者が公選仲裁人となり得る(第2条)。裁判所の命令により自己の財産の 処分を制限されたものは公選仲裁人となることができない。公選仲裁人は 市町村会または市の区会で選挙し,その任期は3年で(第3条), 選任さ れたものは司法大臣の認可を受けることを要し(第4条),職務遂行にあ ─ ─19 家調停法が施行されたのが1941(昭和16)年3月10日であることを示している。 民事争訟勧解法案については,第27回帝国議会衆議院(1911(明治44)年3 月19日本会議)に上程されたが,3 月20日に委員会は開かれたものの審議未了 で廃案となった。紛議仲裁法案についても,第28回帝国議会衆議院(1912(明 治45)年2月1日本会議)に上程され,同年2月7日及び2月27日に紛議仲裁 法外一件委員会が開かれたが,審議未了廃案となった。たっては控訴院長,地方裁判所長の監督を受ける。公選仲裁人は市町村会 で一名が選任されるが,代理人をおくことができる。公選仲裁人はその職 務執行にあたっては公務員の権利を有する(第6条)。公選仲裁人は指定 の期日に連絡なく出頭しなかった当事者に対して5銭以上100円未満の過 料を科すことができる(第22条)。 公選仲裁人の面前において成立した仲 裁により,裁判上の強制執行を為すことができる(第32条1項)。 前項の 場合には公正証書による強制執行の手続を準用する(第32条2項)。公選 仲裁人の職務執行に要する費用は市町村の負担である。当事者は「委任代 理人」を用いることができないが(第18条), 弁護士又はその他親族の者 を補佐人とすることができる(第19条)。 市町村ほか法人はその職員を代 理人とすることができる(第18条)。 これらの規定から明らかなように,紛議仲裁法案は当事者が無断で欠席 した場合には過料を科すことができ,成立した仲裁(和解)内容について は公正証書による強制執行の手続が準用できるなど,一定の強制力を保持 できるようになっている。また,当事者が「委任代理人」を用いることは できないが,補佐人として弁護士その他親族の者を依頼することはできる。 しかし他方で,仲裁人を市町村会で公選することや仲裁の場所(裁判所の 外)については,借地借家調停法をはじめとするその後の日本で実施され た司法調停とは全く異なっている。さらに,日本の司法調停は調停が成立 した場合にその調停条項に対しては「裁判上の和解と同一の効力」,すな わち確定判決と同一の効力を与えることとなったのに対して,紛議仲裁法 案では公正証書による強制執行の手続の準用を規定している。こうした仲 裁人の市町村会での公選,調停の場所,成立した調停条項の法的効力など の諸特徴はむしろ,制定されることのなかった「勧解委員規則」案やその 母法であるプロイセンの勧解人条例と共通している。 ─ ─20 「勧解委員規則」の全条文は,林真貴子「勧解制度消滅の経緯とその論理」
1912年2月2日の衆議院本会議において高木益太郎は紛議仲裁法案の提 案理由を次のように説明した。文明社会の発達に伴って,産業・商業・ 工業が勃興し,社会的組織がますます複雑になって,個人と個人の関係, 団体と団体,階級と階級の関係において利害が衝突することはますます頻 繁となる。経済上の不均衡が人心を危機に陥れており,あちこちでストラ イキが続発している。こうした状況の中で,世間でたびたび非難されてい る世間知らずの若い裁判官が,権利義務を基礎として人情道徳を加味せず, 「単純なる法律の一面のみ」によって裁判を行なっており,他方で「三百 代言若くは潜り代言」というようなものが「下方紛議ノ仲裁」に働いたり している現状を高木は憂いて,「穏健なる市町村の長老」らが公然と仲裁 に立つことができないのはおかしい,と述べる。また,江戸時代には裁判 の前に五人組なり大家なり,村内の長老なりが示談を整える努力をしたし, 彼らの付添がなければ白洲へは行かれなかった。明治初期には裁判の前に 勧解が行なわれ,成果を上げていた。こうした日本の伝統から「情実裁判 ─ ─21 (『阪大法学』181号(1996年)141180頁に掲載されている。また,松本尚子 「ドイツ・プロイセン勧解人制度とフェッヒュルデの運用例」(川口由彦編著 『調停の近代』勁草書房,2011年)参照。 高木益太郎によれば,紛議仲裁法案は第一に,民事上の紛争,即ち財産権親 族相続に関すること並びに刑事事件のうち告訴を俟って訴追するべき事件,た とえば単純なる殴打事件,名誉棄損事件,特許権商標権の侵害等の紛議の仲裁 を試みるものであり,第二に,仲裁人は自治団体が公選をして,名誉徳望の高 い長老が公選仲裁人に選ばれることが予定されている。または範囲の広い困難 な事件については,仲裁人は商業会議所および農会の会頭,工業組合及び漁業 組合の頭取,府県知事,郡区長,警察署長,学校長,神官,僧侶などの援助を 得ることができるという利点がある。第三に,仲裁はなるべく裁判所ではなく て,村役場や当事者の私宅にて,円満に任意的な方法で行なう。当事者の言う ことをよく聞いて,その間を円満にまとめるのであって仲裁人が強制的に仲裁 するのではない,という(「紛議仲裁法案(高木益太郎君外一名提出)第一読 会」明治45年2月2日「第28回帝国議会衆議院議事速記録第5号」2831頁)。 本稿では,帝国議会の会議録に関しては国立国会図書館の帝国議会会議録検索 システム(http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/)を利用した。
所」の必要性を説明する。さらに,紛議仲裁の制度は,日本の古来の慣習 であるだけではなくて,欧米諸国も同様の制度を有しているという点を詳 しく述べる。同時代の欧米諸国の立法状況に基づいて, 日本でも同様の 法制定を行なうべきであると主張した点が,民事争訟勧解法案には見られ ない紛議仲裁法案提案理由の特徴である。 紛議仲裁法外一件委員会では弁護士出身の衆議院議員である花井卓蔵が 同法案について政府委員に質問し,政府委員の斎藤十郎,同平沼騏一郎が 応答した。花井卓蔵は紛議仲裁法案には懐疑的立場であった。花井卓蔵は 政府委員に対して,第一に, 民事訴訟法(明治23年法律第29号)第381条 ─ ─22 高木益太郎は,紛議仲裁制度が欧米諸国でも立法されていることを強調する。 資料中の漢数字はすべて算用数字に改めた。「先進ノ外国ノ例ニ依リマシテモ、 英国ニ於テハ古代ノ羅馬法時代カラ踏襲シテ仲裁ノ制アリマス、此等ノ法律ハ 1889年ニ仲裁法ヲ以テ統一セラレテ(以下略)」と始まり、「英吉利ニ於テハ 1896年ヲ以テ産業調停法ト云フモノヲ拵ヘテ主トシテ商業上、工業上、即チ産 業上ノ紛争ヲ調停スル目的ヲ以テ法律ガ作ラレテ、サウシテ、此法律ニ依ッテ 各種ノ産業組合ガ組織シタル仲裁委員ト云フモノガ1906年ノ統計ヲ調ベテ見マ スト、其数ガ英国ノ中ノ商業上、工業上ノ利益ヲ保護スルタメノ仲裁機関ト云 フモノガ197箇所アル、而シテ1897年カラ1906年マデノ統計ニ依レバ此十年間 ニ於テ此等ノ197箇所ノ調停機関ガ和解ヲ試ミテ解決ヲ得タ困難ナルトコロノ 紛争事件ト云フモノハ、7248件ニシテ、ドノ位ノ人ニ関係ヲ生ジテ居ルカト云 フト、125万人以上ニ及ンデ居ル、サウシテ7248件ノ紛争ノ中デ「ストライキ」 ニナッタモノガ92件ニ止マルト云フヤウナ状態デ、其「ストライキ」ニナッタ 後ニ適当ニ解決シタノハ、ヤハリ調停機関ノ働キダト云フヤウナ次第デアリマ ス」と述べて,調停がストライキの発生を防止する効果があるということを強 調する。さらに,スコットランド,フランス,ベルギーにおいても仲裁が行わ れていることや,「独逸、普漏西ニ於テハドウデアルカト云ヘバ、1870年ニ仲 裁ヲ発布シテ」と述べてドイツ・プロイセンにおける勧解人条例に言及し,同 法が1896年にブランズウィックとバーデンにも施行されたことを述べる。さら に,スイス,スペイン,スウェーデン,ノルウェーも法律で仲裁法を定めてい ること,また,ニューヨークとマサチューセッツの両州には仲裁院があること, ニュージーランドにも調停類似の制度があるという紹介がなされた(「紛議仲 裁法案(高木益太郎君外一名提出)第一読会」明治45年2月2日「第28回帝国 議会衆議院議事速記録第5号」31頁)。
に規定してある起訴前の和解の実際の状況及び効果の如何,第二に同第786 条以下に規定してある仲裁手続に関する実際の状況及び効果の如何,第三 に事実裁判官に授けてある訴訟上における和解の実際上の状況及び効果の 如何を質問した。政府委員斎藤十郎は, 第一の起訴前の和解手続が利用 されているか否かについて,「誠ニ稀」であり,第一審に係属する訴訟事 件が毎年約12万件あるがそのうちの700件か800件しか和解の申立がなく, しかもその和解の成立率もよくない,と答えている。明治40年,41年,42 年の3カ年で和解が整った件数が160件から170件, 不調が470件以上, そ の他は取下げか却下であり,和解の申立てがあっても整うのは3分の1と の見方を示した。第二,第三の質問への回答は調査中とのことであった。 花井卓蔵の意見裁判官が親族相続財産などの紛議について,訴訟上の和 解の成立に努力していないことが問題であり,平和的に解決する努力をま ずはするべきではないかに対して,政府委員の平沼騎一郎も同意した (平沼は, すべての事件とはいえないが,親族間や町村内部の問題などは できるだけ円満に解決するべきだと思うと述べている)。 提案者の高木益太郎は花井の質問に対して,大審院長横田國臣も自らと 同意見であることに言及しながら,現在の裁判所では「民事の紛議につい て当事者に満足を与えることはできないのであるから情実の裁判所を設け なければ国家の治安を維持することはできない」ので,この法案を提出し た,と応えた。1890(明治23)年に勧解を廃止したときでさえも39万件を ─ ─23 「第28回帝国議会衆議院 紛議仲裁法案外一件委員会議録 第2回」明治45年 2月7日,5 6頁。 「第28回帝国議会衆議院 紛議仲裁法案外一件委員会議録 第3回」明治45年 2月27日,9 頁。この数値は司法省統計年報に基づいており,林屋礼二=菅原 郁夫=林真貴子編著『統計からみた明治期の民事裁判』(信山社,2005年) 80,81頁でも確認できる。 「第28回帝国議会衆議院 紛議仲裁法案外一件委員会議録 第3回」明治45年 2月27日,12頁。
超える申立て件数があり,そのうちの21万件は和解が成立していた。こう した制度をもう一度,行なうべきである,という。そして,高木は,自身 の提案はいわば民間和解法であって,官僚和解法ではないが,それら両方 とも必要であるという立場を示した。 政府委員は,2 月27日の委員会で議員の求めに応じて訴訟件数を調べ, 1910(明治43)年の終局は,判決を十とすると和解は一の割合であったこ とを述べた。 具体的には同年の第一審と第二審の判決数合計は60,010件 (欠席判決含む)であったのに対して,和解件数は5,919件であった。しか し,たとえば横浜区裁判所は和解に努力していて,欠席判決を含まない件 数の判決と和解とを比較するとほぼ同数となる,と述べている。さらに, ─ ─24 「第28回帝国議会衆議院 紛議仲裁法案外一件委員会議録 第3回」明治45年 2月27日,5 6頁。 「第28回帝国議会衆議院 紛議仲裁法案外一件委員会議録 第3回」明治45年 2月27日,1011頁。 政府答弁通りに実験が行われたのか否かを司法省民事統計年報に基づいて検 証し図表にした。横浜区裁判所における「和解」による終局は,1907年時点で は欠席判決を含まない「判決」の3分の1程度であったが,その後は「判決」 と同数,そして1913年には「判決」の2倍に増加している。なお,全国的にも, 和解による終局および起訴前の和解件数は1910年代末から増加している(林屋 礼二=菅原郁夫=林真貴子=田中亜紀子編著『統計から見た大正・昭和戦前期 の民事裁判』(慈学社,2011年)71,75,78頁)。 横浜区裁判所裁判の訴訟件数と結果:19071918 1916 1915 1914 1913 1912 1911 1910 1909 1908 1907 2,967 3,408 3,588 3,079 2,808 2,887 2,513 2,396 2,204 1,770 新受件数 186 156 255 264 251 222 270 208 175 122 旧受件数 3,153 3,564 3,843 3,343 3,059 3,109 2,783 2,604 2,379 1,892 総数* 2,287 2,475 2,469 2,057 1,476 1,379 通常訴訟 656 710 778 553 505 519 450 400 326 271 終局(欠席判決 260 256 323 289 260 325 289 326 336 289 終局(判決**) 465 412 501 462 410 404 399 373 346 297 終局(取下) 915 1,069 860 519 342 229 198 115 135 76 終局(和解) 0 0 0 0 0 3 1 0 0 4 訴訟差戻 694 931 1,225 1,265 1,278 1,378 1,224 1,120 1,028 780 その他 2,990 3,378 3,687 3,088 2,795 2,858 2,561 2,334 2,171 1,717 終局合計 163 186 156 255 264 251 222 270 208 175 未決 *総数(新受・旧受件数の合算)には通常訴訟のほか,証書訴訟,仮差押仮処分,禁治産準禁治産, **判決の件数は放棄認諾に基づく判決とその他の判決とを合算している。
平沼騏一郎は,高木益太郎からの質問司法省は近年,各裁判所に対して なるべく事件を和解で終了させるよう訓令を出しているのかに対して, 判決手続内での和解の推奨は訓令を出すような事柄には馴染まないので, 個々の監督官的立場にある裁判官に対して懇談的に話をするような方法が 良い,と回答した。続けて平沼は,一面ではなるべく和解を奨励するとい う方針を取るようにはするが,他面で,かつての勧解のような強制和解主 義は,訴訟提起前に必ず「一遍勧解を経なければ」ならなくなっており, それがために「随分引っ張られ」て,なかなか訴訟を起こすことが出来な かった,すなわち「権利伸長の妨に」なっていたという非難があった,と 述べた。そして,和解を奨励する制度が必要であるとは認識しているが, 民事争訟勧解法案の提案を受けてからまだ1年であり,1 年では熟慮の上 での制度を考えることはできていない,とした。その中で,平沼はフラン スやかつての日本で行なっていたような強制和解主義でいくのか,プロイ センのような任意和解主義(訴訟提起の前に当事者が望むのであれば和解 手続を選択することもできる)か,はたまた現行の日本のように,訴訟上 の和解でいくのかは慎重に検討したい,と述べている。第28回帝国議会 は3月25日に閉会しているので,2 月27日の紛議仲裁法外一件委員会開催 からさらに3週間程度の時間はあったが,再び委員会が開かれることはな く,廃案となっている。その理由を,政府は,横浜区裁判所において,訴 訟をできる限り和解で終結させる実験を始めたが,なおすぐには結論が 出ない,と述べた。この間,国民から「争議調停法」制定の請願があり, ─ ─25 「第28回帝国議会衆議院 紛議仲裁法案外一件委員会議録 第3回」明治45年 2月27日,10頁。 注の表をみると,和解による終局件数は人為的に増加しているように窺え る。なお,2月27日の委員会議録には全国の訴訟件数,特に人事訴訟について の詳しい統計が掲載されている。
貴族院でもその請願を採択していた。 このように弁護士で衆議院議員と なった人物たちの法案提出や貴族院で請願が採択されたにもかかわらず, 平沼騏一郎をはじめとする政府委員・司法省は,紛議仲裁法案などの裁判 外紛争解決制度の制定にもそして裁判官が和解による訴訟の終結を目指す ことに対しても,慎重な態度を崩すことはなかった。 なお,両法案(民事争訟勧解法案と紛議仲裁法案)の名称にはともに調 停という語が入っていないが,紛議仲裁法案の趣旨説明においては調停と いう語が用いられており,かつ,前年に上程された民事争訟勧解法案の審 議においては政府委員から「台湾における民事争訟調停」件数が参考とし て供されている。 政府委員たちは台湾においてすでに調停という名称で 裁判外紛争解決制度が実施されていたことを知っていたが,日本の裁判所 における調停等の制度導入については慎重な態度であった。 また,紛議仲裁法案に対しては一部の弁護士からも強い反対意見が出さ れた。その反対意見は,村の名望ある人(市町村長,神官・僧侶,教師 ─ ─26 明治45年2月29日,特別報告第68号(争議調停法制定の請願),貴族院にお ける請願の採択。 「第27回衆議院議事速記録第24号 民事争訟勧解法案第一読会」明治44年3 月19日,1518頁。民事争訟勧解法案の参考資料「台湾ニ於ケル民事争訟調停 件数」を示す。 岩切覚治「仲裁法案反對論」『法律日日』164号(1912年)34頁。 日本統治時代の台湾の調停については王泰升 「再訪日治台灣的地方行政官調解制度:對東亞法 律傳統的現代化轉譯」『法律與 史的交匯:台灣 法律史二十年国際シンポジウム報告集』(2017年 11月30日12月1日於中央学院法学研究所)参 照。 台湾ニ於ケル民事争訟調停件数 処理 受理 年 3922 5522 1899 2905 3363 1900 2051 2518 1901 1572 2325 1902 2619 3128 1903 2893 3034 1904 3200 3345 1905 4710 4889 1906 4829 4964 1907 4556 4758 1908 5128 5306 1909
等)はあまりにも権利思想が無く,そういった人々が争議を仲裁すると, 情実に基づきすぎて,かえって当事者双方を心服するものにならないとい う懸念があり,こうした法案を一般国民に施行するということは「漸次発 展しつつある権利思想を阻害するものにて威厳ある司法権を信頼せざる悪 風を生む」 ことになる,という。1906(明治39)年7月から1921(大正 10)年6月まで大審院長であった横田國臣が同法案への賛意を表明したも のの,前述の通り,結局この紛議仲裁法案は成立に至らなかった。 司法省はしかし,こうした弁護士議員らの法案提出や貴族院において争 議調停法制定の請願が採択されたことを承けて,裁判外紛争解決制度を研 究し始めることになった。ここまでみてきたように,裁判外紛争解決制度 の導入については政府・司法省は「権利伸長の妨に」なることのないよう に,非常に慎重であったことが窺える。要するに,民事争訟勧解法案およ び紛議仲裁法案は1922年の借地借家調停法との条文内容における共通性は ほとんどないが,両法案が帝国議会に上程されたことによって,司法省が 本格的に調停制度等を研究しその導入を検討する契機となったと考えられ るのである。 こうして日本政府・司法省は,欧米各国の仲裁・調停制度等を本格的に 研究し始めた。このような裁判外の紛争解決手続に関する関心は,同時代 ─ ─27 岩切前掲「仲裁法案反對論」4頁。 「仲裁法案に就て:反対論と提出者」『法律日日』164号(1912年)6頁は, 岩切弁護士の反対論に対しての反論である。その要点は,紛議仲裁法案が権利 思想の発達を阻害するというが,欧米各国で仲裁法が制定されているというも のであり,帝国議会での議論と同様,その有用性を主張するものとなっている。 横田國臣「是乎非乎紛議仲裁法案」『法律日日』165号(1912年)1頁。横田 もまた,「議を好むもの或は其の権利思想の発達を圧迫し, 沮碍するの甚だし きもの,宜しく紛議紛紜は是非曲直を法廷に争ふべきなりと做す者」がいない わけではないが,それは「泰西先進国の立法趨勢に通暁せざるの致す所」とし, さらに横田自身は「情実裁判所」なるものをむしろ控訴院に設置すべしという 持論を展開している。
のアメリカにも見られた。1906年にミネソタ州セントポールにおけるロス コ―・パウンドの講演「裁判に対する一般的不満の諸原因」 は,エクイ ティの衰退を嘆き,機械的な法の適用を戒め,司法改革の必要性を訴える ものであった。産業化した19世紀末のアメリカでは労使間紛争解決の方 途として調停への関心が高まっていった,という。頻発するストライキへ の対策として工場調停と仲裁が検討され,1886年には労使間紛争解決のた めの調停・仲裁法がニューヨーク州(1886年5月18日)とマサチューセッ ツ州(同年6月2日)で成立した。この時期にアメリカにおいて,調停の ノルウェーモデルとデンマークモデルが注目を集めていた, という。前 述した高木益太郎の紛議仲裁法案等はこうした調停制度を推奨する動向の 影響を受けていたと考えられるのであり,今後の検討課題の一つである。
2.借地借家調停法の成立
借地借家調停法の立法過程についての先行研究は前述した三つが主たる ものである。茶谷勇吉は,第一次世界大戦開始後におけるドイツの借家調 停制度(調停局 Mieteingungsamt ,1917年12月導入)とフランスの1918 ─ ─28 久保秀雄「司法政策と社会調査」(鈴木秀光=高谷知佳=林真貴子=屋敷二 郎編著『法の流通』慈学社,2009年)538頁,Roscoe Pound, “The Causes of Popular Dissatisfaction with the Administration of Justice”, 29American Bar Association Report I(1906), pp.395417. 和田安弘「多元的紛 争処理の試み」『東京都立大学法学雑誌』22巻1号(1981年)612頁参照。 Dongsheng Zang, “Asian Model and the Transformation of Mediation
in America: 19761983”(2017), p.13. 2017年12月1日の台湾法律史学会20周 年国際シンポジウムにおいて Zang 教授が報告のために用意されたペーパーを 閲読させて頂いた。記して謝意を表する。 Ibid, p.12. 川口由彦編著『調停の近代』(勁草書房,2011年)は19世紀末欧州における 調停類似の制度の多用を明らかにしたが,今後はアメリカ・北欧へと検討地域 を拡げるとともに,相互の影響関係をも明らかにすることが必要であろう。
年2月の家屋賃貸借に関する争訟を扱う仲裁委員会(Commission arbitale des Loyers)とに関する条文の一部を紹介した 後に,借地法借家法につ いての第44回帝国議会での審議過程および借地借家調停法の審議過程(貴 族院及び衆議院の本会議・特別委員会)での議論を分析している。 高橋 裕は茶谷が示したドイツ及びフランスの制度について精査した上で,借地 借家調停法立法過程での議論を分析し,併せて「調停制度と法律家の在り 方についてどのような議論が行なわれたのか」を問うて,代理人許可制度 創設との関係および実際の運用過程での弁護士の役割(司法省及び各裁判 所は弁護士が当事者の代理人として調停に出席することには消極的であっ たが,調停委員会に弁護士が参加することには積極的であったこと等)を 明らかにした。 司法省はヨーロッパの労働裁判所, 仲裁裁判所, 家庭審 判所を検討して,次第に既存の裁判組織において手続を簡単にした調停制 度を創設し, 調停委員を用いることを構想していった, という。1919年 7月の臨時法制審議会では訴訟手続以外による家事紛争処理制度(家事審 判所)の構想が示され,そこでは借地借家・小作・労働の三つの関係をも 包括するような制度が考えらており,1920年夏の時点でも司法省はなお民 事紛争全般を調停するための裁判外紛争解決手続を検討していた。 この ように,借地借家調停制度は,借地法借家法の成立過程においてその紛争 解決制度への言及があるものの,それら実体法とは全く別個に構想されて ─ ─29 茶谷勇吉『借地借家の現行法規に關する若干の考察[司法研究第十七輯 報 告書五]』(司法省調査課,1933年)172178頁。ドイツ・フランスの調停制度 の条文内容が紹介され日本への影響が示唆されてはいるものの,継受関係の有 無は明確にされてはいない。 茶谷前掲『借地借家の現行法規に關する若干の考察』178223頁。 高橋裕「借地借家調停と法律家」(早川吉尚=山田文=濱野亮編著『ADR の 基本的視座』不磨書房,2004年)93134頁。 茶谷前掲『借地借家の現行法規に關する若干の考察』178223頁,高橋前掲 「借地借家調停と法律家」9596頁。 高橋前掲「借地借家調停と法律家」9697頁。
いたことがすでに明らかにされている。第44回帝国議会における借地法借 家法の審議段階において,鈴木喜三郎政府委員(司法次官)は,欧州には 設置されている労働裁判所や仲裁裁判所, 家庭審判所などについて,「司 法省としては一切を網羅して調査研究し,案を具して議会に提出したい」 と考えていると述べた。続けて「一切民法に関する事件について調停法を 設けて簡易にその争いを解決することが出来る途を,裁判組織において手 続を簡単にするか,あるいは(調停)委員を組織して」 行ないたい,とい う。こうした点からも,司法省は1920年2月初旬の時点ではなお,広く民 事一般についての調停制度の創設を考えながらも,同月末の貴族院本会議 における司法次官答弁などの影響により,結果としてまず借地借家調停法 のみが成立した,と考えられよう。 借地借家調停法は本格的な起草段階に入ってもなお,「土地家屋争議調 停」という名称のもとで作成がなされていた。このことは,同法制定当時 に司法省民事局長であった池田寅二郎 の文書から明らかとなる。まず, ─ ─30 「第44回帝国議会衆議院借地法案外一件委員会議録」大正10年2月3日,7頁。 同年2月25日の貴族院本会議(第一読会)において鈴木喜三郎が,「簡易ナル 此ノ争議調停法ヲ拵ヘヤウト」考えており,「次ノ議会マデニハサウ云フ法案 ヲ提出シタイ」(「第44回帝国議会貴族院議事速記録第14号」401頁)と述べた ことにより,借地借家調停法の起草が一気に進んだと考えられる。 池田寅二郎(18791939)は大正期から昭和初期に活躍した司法官僚である。 1903年に東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し,1903年司法官試補 (東京地方裁判所詰),1905年東京地方裁判所判事,1908年東京地方裁判所部長, その後司法省参事官兼検事,1913年5月から欧米各国へ出張,1914年4月司法 省参事官,1918年大審院検事等を歴任し,1921(大正10)年10月5日から1928 (昭和3)年12月24日まで司法省民事局長,1928年から大審院部長,1936年3 月13日から1939年2月9日まで大審院長。1918年法学博士。秦郁彦編『日本近 現代人物履歴事典第2版』(東京大学出版会,2013年)4041頁,秦郁彦編『日 本官僚制総合事典18682000』(東京大学出版会,2001年)7475頁を参照した。 東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター原資料部所 蔵,池田寅二郎文書(一三 借地借家調停法関係書類 13―1 借地借家調停 法案152枚(リール NO.9)。閲覧に際しては同センター佐藤悠子助教に大変お
同文書に残されている借地借家調停法立法過程の最初の文書は,1921(大 正10)年7月14日付けのものであり,その名称は「土地家屋争議調停ニ関 スル調査要目」であった。 土地家屋争議調停ニ関スル調査要目 大正10年7月14日 一、土地家屋ノ占有使用及収益ニ関スル争議ニ付キ其調停及仲裁ヲ為サシムル為 メ土地家屋争議調停所ヲ設クルコト 二、土地家屋争議調停所ハ司法大臣ノ所管トシ全國ノ區裁判所ニ附置ス 三、調停所ハ訴訟價額ノ如何ニ係ラス土地、家屋ヲ目的トスル賃貸借契約ニ基ク 権利関係及之ヨリ生スル争竝ニ賃貸借以外ノ契約又ハ法律ノ規定ニ基ク土地家屋ノ 明渡ノ請求ニ関スル争ニ付調停ヲ為ス 四、争議ハ當該土地家屋ノ所在地ヲ管轄スル區裁判所ニ附置スル調停所ノ管轄ニ 専屬ス 五、争議ノ當事者ハ普通裁判所ニ訴ヲ提起スルニ先チ先ツ調停所ニ對シ其調停ヲ 求ムヘキモノトス 六、調停所ニ調停主任官一名補助調停員二名及書記一名ヲ以テ構成ス 七、調停主任官ハ區裁判所判事又ハ地方裁判所長ノ選任スル十年以上其職ニ在ル 辯護士ヲ以テ之ニ充ツ 八、補助調停員ハ土地家屋ノ占有使用収益ニ付(特別ノ知識ヲ有スル者又ハ之ニ 付)一般的ノ利害干係ヲ有スル者ノ中ヨリ地方裁判所長豫メ選任シタル表ニ就キ各 事件ニ付調停主任官之ヲ選定ス利害干係ヲ有スル者ヲ選定スルニ當リテハ其利害ヲ 適宜ニ考量按配スルコトヲ要ス 九、補助調停員ハ調停主任官ト共ニ和解及審理ニ列席シ合議ニ参與シテ其意見ヲ 述フルコトヲ得但シ表決権ノミハ之ヲ有セス 十、調停所ハ繋争争議ニ付公平ナル和解ニ到達セシムル様調停ヲ為ス其結果為サ シメル和解ハ裁判上ノ和解ト同一ノ効力ヲ有シ當事者ハ和解調書ニ基キ相手方ニ對 シ強制執行ヲ為スコトヲ得 調停所ハ當事者双方カ仲裁判断ヲ為スヘキコトヲ調停所ニ委任シタル争議 ニ付審理判断ヲ為ス ─ ─31 世話になった。記して謝意を表したい。なお,池田寅二郎文書目録には坂井雄 吉教授による解説も付されている。「池田寅二郎関係文書目録:近代立法 過程研究会収集資料紹介」国家学会雑誌84巻1=2号(1971年),4398頁 /同84巻3=4号(1971年),76139頁。 なお,本史料が,茶谷前掲注『借地借家の現行法規に關する若干の考察』 180185頁の史料と内容的には同一のものであることを確認した。池田寅二郎 文書に残っている借地借家調停法関係の立法資料からも,本史料が借地借家調 停法の直接の「母胎」となったという茶谷の評価は正しいと思われる。
十一、調 査 所ハ申立ニ依リ又ハ職権ヲ以テ和解又ハ仲裁判断ノ為メ必要ナリト認(ママ) ムル証據調ヲ為ス 證人鑑定人ニハ出頭ヲ強制シ宣誓ヲ為サシムルコトヲ得 十二、調停所ハ必要ト認メタル場合假処分ヲ命スルコトヲ得 十三、 當事者カ和解ニ到達セス又仲裁判断ヲ求メサルトキハ調停所ハ決定ヲ以テ 調停不調ノ旨ヲ宣言ス此場合ニハ調停カ不調トナリタル理由ヲ示スコトヲ要ス 調停所ハ必要ト認メタルトキハ其決定書ヲ公示ス 十四、 調停所ニ於テ為シタル仲裁判断ニ對シテハ民事訴訟法第八百一條第一乃至 第三、第六ノ場合ニ取消ノ訴ヲ提起スルコトヲ得 参考案(十ノ二、十三、十四ニ付) 調停所ハ當事者ヨリ仲裁ノ申立ナキ場合ト雖モ其自由ナル心證ニ基キ争議ニ 付審理判断ヲ為ス 調停所ノ為シタル判断ニ對シテ當事者カ一定ノ期間内ニ訴ノ提起セサルトキ ハ右判断ハ確定判決ト同一ノ効力ヲ有ス 十五、 普通裁判所ニ訴カ提起セラレタルトキハ當該裁判所ハ申立ニ依リ又ハ職権 ヲ以テ調停所ノ記録ノ取寄ヲ為シ又ハ調停主任官ノ意見ヲ求ムルコトヲ得 十六、 調停所ノ手續ハ公開セス但シ仲裁手続ニ就キテハ裁判所ハ必要ト認ムル場 合其審理ノ公開ヲ命スルコトヲ得 十七、 調停所ハ當事者自身ノ出頭ヲ命ス但シ調停主任官ノ許可アルトキハ當事者 ニアラサル者ヲ其代理人トシテ出頭セシムルコトヲ得右ノ代理人ニハ宣誓ヲ為サシム 附 一、手續ニ干スル詳細ナル規定ハナルヘク省令ニ譲ルコト 二、手續ニ干スル手数料ハ一件五圓トスルコト さて,この史料から,成立した借地借家調停法との異同が明らかになる。 1921年7月14日の時点では,土地家屋争議調停のための制度として,借 地借家よりもより広い紛争を調停の対象と考えていたこと,調停ととも に仲裁の手続をも併せて定める予定であったこと,「七 調停主任ハ区 裁判所判事又ハ地方裁判所長ノ選任スル十年以上其職ニ在ル辯護士ヲ以テ 之ニ充ツ」とあるように調停主任には判事とともに弁護士をも予定してい たこと,調停前置を考えていたこと,全国の区裁判所での施行を予定 していたこと等が,実際に成立した借地借家調停法と異なる諸点である。 ─ ─32 同種の指摘は,茶谷の資料を用いた高橋前掲「借地借家調停と法律家」97 101頁によってすでになされている。
この段階から成案まで変化していない点は,成立した和解に裁判上の和解 と同様の効力を認める点,調停補助員という名称ではあるがのちの調停委 員につながる,素人の関与を予定していた点である。 この「土地家屋争議調停ニ関スル調査要目」は同年7月16日の会議で徹 底的に修正され,朱筆訂正によって,名称も「借地借家調停」となり,調 停補助員に代えて「調停委員」という名称が用いられるようになり,調停 主任への弁護士の任用が削除された。調停前置の強制はなくなり,「調停 ハ当事者ノ一方ヨリ申立ツルコトヲ得」との規定が見受けられる。これは 日本の調停が一方当事者からの申立てによって手続が開始するという点を 明確にしたという意味で重要である。さらに,「(欄外)四、調停事件ノ繋 属中ハ訴ヲ提起スル ヲ得ス既ニ提起シタル訴ノ弁論ハ之ヲ中止スルコト」 という文言の挿入が草案条文の欄外に示されており,訴訟提起後であって も,調停申立てによって訴訟手続を中止することができるという点を規定 した。なお,7 月16日の会議後に作成された手書き謄写版の条文では「調 停及仲裁」との文言があったが,その後の朱筆修正によって,「及仲裁」 の文言は削除されている。この調査要目の内容は1921年9月13日付謄写 版「借地借家調停手続法」において条文形式に整理されている。したがっ て,1921年7月16日の会議以降9月13日までの間に,法案起草者は「及仲 裁」を削除し,調停制度の創設を明確に決定した,といえよう。続く9月 28日付の謄写版には朱による修正がなく,9月29日は若干の字句修正のみ であった。9 月30日に修正後,10月1日に謄写版が作成され,1921年10月 22日に謄写版に対して朱入れがなされている。 最終的には1921(大正10) 年11月7日に「借地借家調停法案」(手書き謄写版, 表紙に朱で11月11日 ─ ─33 池田寅二郎文書131。 池田寅二郎文書131。
の文字有)が作成された。なお,後述するように, この10月22日謄写版 の段階で初めて,「本法施行ノ地区ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」という手書き の朱筆挿入が認められる。また,「借地借家調停法委員十八名」と題する 手書きの資料も封入されていた。 これらは帝国議会で, 借地借家調停法 特別委員会の委員になった衆議院議員の名前である。起草段階の最終にお いては,政党のバランスを考えつつ,弁護士出身の国会議員が18名中8名 を占めるという委員構成を想定していたことがわかる。
3.施行地区の限定
1922(大正11)年に借地借家調停法が導入され,引き続いて1924年小作 調停法,1926年商事調停法が導入された。このようにみると,種々の調停 法が制定され,裁判所において調停制度が盛んに利用されていったように 思われるが,しかし,借地借家調停制度は,法律の社会化・民衆化要求に 応える形で導入されたにもかかわらず,その施行を実質的に大都市圏に限 定していたのである。この点は商事調停も同様である。借地借家調停法に ─ ─34 池田寅二郎文書131。なお,1921(大正10)年12月24日付謄写版には鉛 筆による若干の修正が施されている(池田寅二郎文書131)。 池田寅二郎文書131。 「政友會 北井波治目 石井三郎 黒住成章 塚原喜藤 樋口伊三助 佐々 木志賀二 浅石恵八 伊藤虎助 麓純義 内口安兵衛 北山一郎 三好徳松 憲政會 藤井啓一 清水留三郎 作間耕逸 横山勝太郎 国民黨 板野友造 庚申倶楽部 南鼎三」 衆議院本会議では本史料に掲載された18名全員が借地借家調停法案委員に 指名され,その中から委員長に北井が推薦され,理事に黒住・横山・板野が 指名された。委員長と3名の理事全員が弁護士出身の衆議院議員であり,そ のほか塚原・麓・藤井・佐久間も弁護士であった(「第45回帝国議会借地借 家調停法案委員会議録第1回」大正11年2月7日,1 頁)。おいてその施行地域を限定するという方針は,1921年10月22日付謄写版の 草案末尾に「本法施行ノ地区ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」という文言が朱筆で 書き加えられた後には規定路線となった。そして実際には,借地借家調停 法はその施行地域を非常に狭く,しかも大都市圏のみに設定したのである。 借地借家調停法の施行期日および施行地区は「借地借家調停法ノ施行期日 及施行地区ニ関スル件」として,1922年7月11日勅令第338号で定められ, 当初は同年10月1日から東京府,京都府,大阪府,神奈川県,兵庫県のみ で施行された。この五大都市圏を有する府県に,1925年に「愛知縣」が 「借地借家関係の争議頻発の実情に鑑み」付加された。その後,1939(昭 和14)年までは施行地区がひとつも増えていない。1939年以降は毎年, 施行地域を増やしていくものの,道府県単位では同法を施行せずに,さら に市町村単位で細かく施行地域を限定している。最終的に1941(昭和16) ─ ─35 借地借家調停法ノ施行期日及施行地区ニ関スル件(大正14年4月10日勅令第 126号)。 借地借家調停法ノ施行期日及施行地区ニ関スル件(昭和14年12月23日勅令第 865号) 「左ノ地區ニハ昭和十四年十二月二十八日ヨリ借地借家調停法ヲ施行ス 広島縣 山口縣下関市 福岡縣」 借地借家調停法ノ施行期日及施行地区ニ関スル件(昭和15年9月25日勅令第 622号) 「左ノ地區ニハ昭和十五年九月二十六日ヨリ借地借家調停法ヲ施行ス 埼玉縣 千葉縣千葉市、千葉郡ノ内幕張町、津田沼町、市川市、船橋市、東葛 飾郡ノ内松戸町 茨城縣水戸市、日立市 栃木縣宇都宮市、足利市 群馬縣 静岡縣 山梨縣甲 府市 長野縣長野市、松本市 新潟縣新潟市、中瀬原郡ノ内石山村、鳥屋野村、長岡 市、古志郡ノ内上組村 和歌山縣和歌山市 徳島縣徳島市 香川縣高松市、香川郡ノ内香西町、弦打村 三重縣四日市市、桑名市、桑名郡ノ内城南村、三重郡ノ内富洲原町、富田町、 羽津村、川越村、朝日村 岐阜縣岐阜市、稲葉郡ノ内厚見村、大垣市、不破郡ノ内綾里村、安八郡ノ内中 川村、和合村、三城村、川並村、洲本村、淺草村
年3月8日勅令第201号で未だ施行されていない内地のすべての地域およ び樺太に施行されることになる。借地借家調停法は東京,京都,大阪,横 浜, 神戸, 名古屋などの大都市部にのみ施行されたのであり, 全国に施 行されるようになるのは1941年3月以降のことだった。これは要するに, 借地借家調停法は,東京においては1923年の関東大震災後の借家紛争処理 において借地借家臨時処理法とともに重用されたのであるが,六大都市 圏を除くと,一般には戦時法体制期の紛争解決方法であったということに なる。 いま,ここで鳥取区裁判所における調停事件簿をみてみよう。鳥取区裁 判所においては借地借家調停法は1941年に施行されたが,次の表が示す通 ─ ─36 福井縣福井市 石川縣金沢市 富山縣富山市、上新川郡ノ内堀川町、高岡市、 射水郡ノ内伏木町 山口縣ノ内未ダ之ヲ施行セザル地區 岡山縣岡山市、倉敷市 愛媛縣松山市、温泉郡ノ内道後湯之町、新居濱市、新 居郡ノ内泉川町、角野町 長崎縣 大分縣大分市、別府市 熊本縣熊本市、飽託郡ノ内川尻町、力合村、 日吉村、玉名郡ノ内荒尾町 鹿児島縣鹿児島市 宮城縣 福島縣福島市、郡山市、若松市 岩手縣盛岡市、岩手郡ノ内淺岸村、中野村、本宮村、釜石市、上閉伊郡ノ内甲 子村 秋田縣秋田市、南秋田郡ノ内寺内町、土崎港町、河邊郡ノ内新屋町 青森縣青森市、弘前市、中津輕郡ノ内和徳村、八戸市 北海道札幌市、札幌郡ノ内圓山村、琴似村、室蘭市、小樽市、函館市、上磯郡 ノ内上磯町、亀田郡ノ内亀田村、旭川市、釧路市、帯廣市」 このような方針は借地法借家法においても借地借家調停法と同様であり,当 時司法次官であった山内確三郎は借地法借家法制定の理由について,東京・大阪 で問題が起きており,特に東京はひどい。地方都市でも問題があるのは承知して いるが,日本全国に適用すべき法律ではないので,「直勅令を以て地域を定め て,此の法律を適用する」と述べている(「政府委員山内確三郎の演説」富沢効 『誰にもわかる借地法借家法注釈』島鮮堂,1921年,4頁(下線は引用者))。 今村恭太郎「震災後の借地借家調停の結果と新借地借家臨時処理法實施に就 て」『法曹會雑誌』第2巻第10号(1924年)1~36頁参照。
り,1946(昭和21)年の敗戦直後の混乱期に家屋明渡請求等の解決のため に利用された制度であったことがわかる。また,この事件簿から次のこと が課題として浮かび上がってくる。第一に,事件名としては宅地売買をは じめとする売買にかかる申立てが多いこと。それ以外の内容は多岐にわた るが,一つの類型として,借主が占有確認のために調停の申立てをしてい ると思しきことである。第二に,ほとんどの事件において申立から終局ま で一か月程度であり,迅速な紛争処理が為されていたことがわかる。第三 に,同住所・近隣と思しき両当事者による訴えが多いことである。第四に, 調停委員の中には弁護士が入っていること,また,この表からは明らかに はできないが,調停委員となっている弁護士が,同時期の別の調停事件で は当事者の代理人となっていることである。 鳥取区裁判所における調停は(他の多くの地域と同様に),1942年の戦 時民事特別法(昭和17年法律第63号)の施行以後は,金銭債務臨時調停法 第7条1項が借地借家調停に準用される状況で実施されていた。金銭債務 臨時調停法第7条1項と戦時民事特別法第16条の規定によって,強制調停 の色彩を強めた。金銭債務臨時調停法第7条については, 裁判所がどの ように紛争が解決されるべきであるかを判断して当事者に押し付けるとい う側面を持った「利益衡量主義」的紛争解決を行うものであり,特に,決 定の理由づけが不要とされているので,裁判所の恣意的な決定を許すこと に繋がる。 なお,同法7条については,1970年に違憲判決が出されてい る。 ─ ─37 本間義信「昭和戦前期の民事司法」法経研究18巻1号[1969年]10,20頁。 広中俊雄「権利の確保・実現」『法社会学論集』(東京大学出版会,1976年) 43頁,69頁参照。 最大決昭和35年7月6日民集14巻9号1657頁,判時228号5頁,判タ109号29 頁など。戦時法体制については,小野博司=出口雄一=松本尚子編『戦時体制 と法学者1931~1952』(国際書院,2016年)参照。
─ ─38 鳥取区裁判所 22 8 「昭和 1 6 ―2 1 年借地借家調停事件簿」 備考 終局要旨 終局月日 調停委員 調停主任 事件の標目 相手方 申立人 受付の日 進行番号 取下 5月 2 2日 尾崎篤次郎, 加藤長藏 安田 宅地建物買戻 気高郡吉岡村大字吉岡 T(女) 気高郡吉岡村大字吉岡 O(女)外1名 3月 1 3日 1 昭和 16年 成立 5月1日 米澤喜男, 上田武三郎 安田 家屋明渡 鳥取市川端 T(男) 岩美郡倉田村大字馬場 N(女) 3月 2 7日 2 成立 5月1日 萬井源太郎, 上田武三郎 安田 家賃 鳥取市立川町四丁目 Y ( 男 ) 鳥取市江崎町 N(男) 4月7日 3 成立 6月3日 由宇石治, 平野繁藏 安田 宅地売買 気高郡大和村大字横枕 F(男) 気高郡美穂村下味野 F ( 男 ) 5月 1 6日 4 成立 8月5日 山本鉄太郎, 岩本松樹 家屋明渡 同市本町二丁目 T(男) 鳥取市西町 M(男) 5月 2 2日 5 [取下] [ 9月 29 日 ] 借家占有確認 八頭郡智頭町大字芦津 T(女) 鳥取市丸山町 K(男) 7月7日 6 成立 9月 1 7日 倉信一雄, 君野順三 安田 宅地賃料米支払 同所 T(男) 八頭郡八上村大字曳田 M(女) 8月 1 8日 7 昭和 1 6年 8 ~ 1 1 の相手方は 同一人物 取下 1 1月1 3日 波當根武藏, 上田武三郎 安田 宅地売買 鳥取市瓦町 T(女) 気高郡大正村大字古海 H(男) 1 0 月9日 8 取下 1 1月1 3日 波當根武藏, 上田武三郎 安田 宅地売買 鳥取市瓦町 T(女) 気高郡大正村大字古海 M(男) 1 0 月9日 9 取下 1 1月1 3日 波當根武藏, 上田武三郎 安田 宅地売買 鳥取市瓦町 T(女) 気高郡大正村大字古海 T(男) 1 0 月9日 1 0 取下 1 1月1 3日 波當根武藏, 上田武三郎 安田 宅地売買 鳥取市瓦町 T(女) 気高郡大正村大字古海 N(男) 1 0 月9日 1 1 成立 1 2月1 1日 吉村信義, 松谷幸一郎 安田 老舗移転料等 気高郡瑞穂村大字日光 H(男) 鳥取市西町 7 4 番地 M(男) 1 1月2 0日 1 2 成立 1 2月1 7日 長砂鹿藏, 西垣幸吉 安田 家賃 八頭郡隼村大字福井 O ( 男 ) 外一名 鳥取市吉方町 T(男) 1 1月2 5日 1 3 成立 1月 2 1日 上田武三郎, 尾崎篤次郎 安田 貸家明渡 同所 K(男) 鳥取市行徳三石 T(男) 1月 1 2日 1 昭和 17年 取下 1 1 月9日 安田 土地売買 鳥取市外一名 京都府綾部郡大字味方 T(男) 3月4日 2 成立 4月 1 6日 由宇石治, 尾崎篤次郎 安田 家屋明渡猶予等 同市川端四丁目 N(男) 鳥取市吉方町 M(男) 4月8日 3 取下 1 0月1 4日 安田 土地明渡等 鳥取市川端三丁目三十六番地 鳥取県旅館商業組合外一名 東伯郡倉吉町大字明治町千三 百十二番地一 保証責任鳥取 県信用購買販売利用組合連合 会 6月9日 4
─ ─39 成立 1 1月1 8日 平野繁藏, 由宇石治 窪田 宅地売買 鳥取市北本寺町 I(男) 鳥取市北本寺町 K(男) 1 0 月6日 5 成立 1 1月2 0日 米澤喜男, 尾崎篤次郎 渡辺 家屋明渡 同所 M(男) 鳥取市吉方町 S(男) 1 1 月4日 6 成立 1 2月1 6日 萬井源太郎, 尾崎篤次郎 鳥取市寺町 T(男) 岩美郡福部村大字高江 Y(男) 1 2 月7日 7 成立 4月6日 米澤喜男, 平野繁藏 安田 借家買受 同所 M(男) 鳥取市行徳 N(男)外一名 2月9日 1 昭和 18年 成立 7月 2 7日 由宇石治 福本 家屋明渡 鳥取市吉方 T(男) 鳥取市鍛治町 M(男) 4月8日 2 成立 4月 2 1日 由宇石治, 浅沼喜雄 福本 貸家明渡 鳥取市西町 S(男) 鳥取市西町 O(男) 4月 1 2日 3 取下 5月 2 2日 福本 借地 同郡八東村大字横田 A ( 男 ) 八頭郡河原町大字谷一木 K(女)外一名 4月 2 1日 4 成立 7月 2 7日 由宇石治 福本 家屋明渡 鳥取市元魚町 Y(女) 鳥取市鍛治町 M(男) 4月 2 7日 5 取下 1 2 月3日 安田 貸家明渡 鳥取市新品治町 S(男) 鳥取市西品治 I(女) 6月 1 7日 6 取下 1 1 月4日 安田 家屋明渡 同所 N(男) 鳥取市吉方 Y(男) 8月 3 1日 7 1 8 年8と 2 1年 1の申立人は 同一人物 取下 昭和 1 9年 1月 1 7 安田 土地賃借権継続 同 I(男) 鳥取市川端四丁目 K(男) 1 1月2 5日 8 成立 6月 2 9日 岩垣新一郎, 足立義隆 安田 継続賃借 同所 M(男) 鳥取市藪片原町 K(男) 2月2日 1 昭和 19年 成立 4月 1 7日 君野順三, 加藤長藏 安田 家屋明渡等 同所 M(男) 鳥取市大工町頭 K(男) 2月 1 6日 2 取下 1 1月1 5日 米澤喜男, 中田義正 安田 家屋明渡 鳥取市川外大工町 Y(女) 外一名 鳥取市東品治町パラダイス市 営バラック住宅内 T(男) 3月 1 5日 3 成立 4月 1 2日 北川菊造 安田 貸地明渡 鳥取市元鋳物師町 Y(男) 3月 1 5日 4 成立 4月 2 4日 由宇石治, 浅沼喜男 安田 土地買受 鳥取市二階町 N(女) 鳥取市吉方町 M(男) 5月8日 5 成立 9月4日 長砂鹿藏, 平野繁藏 安田 貸地返還 鳥取市西品治 A(男) 鳥取市西品治 T(男) 6月 1 3日 6 成立 8月 1 6日 平野繁藏, 加藤長藏 安田 家屋明渡等 同市東品治町 I(男) 鳥取市鍛冶町 T(男) 7月 2 9日 7 成立 5月4日 安田 家屋明渡等 鳥取市鍛治町 K(男) 鳥取市鍛治町 H(男) 3月 1 6日 1 昭和 20年 成立 5月 2 9日 和田 家屋賃貸料 同郡同町大字東仲町 Y ( 男 ) 東伯郡倉吉町大字鍛治町 M(男) 5月9日 2
─ ─40 成立 5月 2 3日 窪田 貸家明渡 鳥取市湯所町 Y(男) 鳥取市湯所町 T(男) 5月 1 1日 3 成立 5月 2 0日 長砂鹿藏, 岡垣傳重 和田 借地明渡 同市今町二丁目 T(男) 鳥取市寺町 N(男) 5月 1 5日 4 成立 9月4日 君野順三, 由宇石治 和田 敷金返還 同市吉方 Y(男) 同市川端三丁目六 因州紙〇 荷商業組合 6月 1 2日 5 取下 6月 2 8日 米澤喜男, 君野順三 窪田 家屋明渡 延期 鳥取市南〇寺町 K(男) 鳥取市南〇寺町 N(男) 6月 1 7日 6 昭和 20年 成立 8月1日 長砂鹿藏, 伊藤完一 和田 家屋明渡 鳥取市立川町三丁目 I ( 男 ) 鳥取市西町 Y(女) 7月 1 2日 7 成立 7月 2 3日 平野繁藏, 伊藤完一 窪田 土地明渡 鳥取市中町 I(男) 鳥取市中町 Y(男) 7月 1 6日 8 取下 9月 1 2日 長砂鹿藏, 米澤喜男 和田 家屋明渡 鳥取市掛出町 O(男) 鳥取市掛出町 Y(男) 7月 2 4日 9 取下 9月7日 平野,米沢 窪田 土地明渡 同所 鳥取市立川二丁目 T(男) 外一名 9月6日 1 0 2 1 年1と 1 8年 8の申立人と 同一人物 成立 2月 1 2日 伊藤完一, 高田光藏 和田 家屋明渡 同所 O(男) 鳥取市川端四丁目 I(男) 1月 2 8日 1 昭和 21年 成立 2月 1 2日 岡垣傳重, 常田孝藏 窪田 土地建物明渡 同所 T(男) 鳥取市本町四丁目 K(男) 1月 2 9日 2 成立 2月8日 西本庄太郎, 保木本徳太郎 和田 家屋明渡 同所同番地 U(男) 気高郡青谷町大字青谷 H(女) 1月 2 9日 3 取下(意 表) 7月9日 平野,岡垣 窪田 建物明渡 同市吉方 Z(男)外二名 鳥取市吉方 K(男) 1月 3 1日 4 成立 3月 2 2日 常田孝蔵, 岡垣傳重 和田 鳥取市本町二丁目 T(男) 鳥取市職人町 Y(女) 3月4日 5 成立 3月 1 3日 西尾重義, 岡垣傳重 窪田 気高郡東郷村大字本寺 N(男) 気高郡東郷村大字本寺 K(男) 3月6日 6 取下 6月7日 柚木 家屋明渡 同市東町 S(男) 鳥取市東町 H(男) 3月 2 5日 7 成立 4月 2 3日 山下勉一, 尾崎篤次郎 窪田 家屋明渡 鳥取市川端壱丁目三九番地 鳥取署管内飲食雇施設組合 右理事 K(男) 鳥取市川端一丁目 N(男) 4月 1 5日 8 成立 6月 2 0日 伊藤,足立 柚木 賃貸料継続 鳥取市立川町一丁目 K ( 男 ) 鳥取市立川町一丁目 T ( 女 ) 5月 1 8日 9 成立 6月 1 8日 窪田 家屋明渡 鳥取市川端三丁目 S(男) 鳥取市川端三丁目 C(女) 6月6日 1 0 成立 6月 2 5日 柚木 借家明渡 鳥取市北本寺町 T(男) 鳥取市元鋳物師町 I(男) 6月 1 1日 1 1
─ ─41 番地まで同じ 成立 8月 2 8日 窪田 借地返還 鳥取市吉方 K(男) 鳥取市吉方 O(女) 6月 2 6日 1 2 一番地違い 成立 8月 1 3日 柚木 家屋明渡 鳥取市西品治 K(男) 鳥取市西品治 S(男) 7月1日 1 3 成立 9月3日 君野順三,平野 窪田 借家明渡 鳥取市川端四丁目 K(女) 鳥取市川端四丁目 S(男) 7月 1 1日 1 4 取下 8月 3 1日 柚木 家屋明渡 鳥取市川端一丁目 O(女) 外一名 鳥取市川端一丁目 Y(女) 7月 2 3日 1 5 2 1年1 6と1 7の 申立人は同一 成立 8月5日 窪田 家屋明渡 鳥取市下魚町 K(男) 鳥取市片原一丁目 M(女) 7月 2 7日 1 6 成立 1 1月1 8日 長砂,岸田 柚木 家屋明渡 鳥取市下魚町 O(男) 鳥取市片原一丁目 M(女) 7月 2 7日 1 7 成立 9月4日 平野,岡垣 窪田 家屋明渡 鳥取市東町 T(男) 鳥取市西町二三六 鳥取木工 株式會社 8月 2 2日 1 8 取下 1 0 月4日 柚木 家屋明渡 鳥取市東町 T(男)外三名 鳥取市東町 H(男) 8月 2 8日 1 9 成立 9月 2 8日 岡垣傳重, 山下勉一 窪田 家屋明渡 鳥取市立川町三丁目 O ( 男 ) 鳥取市立川町三丁目 M ( 男 ) 9月 1 9日 2 0 成立 1 0月1 4日 柚木 土地明渡並ニ古 材木赤瓦等引渡 鳥取市東品治町 T(男) 外一名 鳥取市吉方町 M(男) 1 0 月2日 2 1 取下 1 1月2 5日 窪田 借家明渡延期 八頭郡用瀬町大字用瀬 Y(男) 八頭郡用瀬町大字用瀬 U(男) 1 1 月9日 2 2 成立 1 1月2 5日 長砂,松本 窪田 借家明渡請求 鳥取市湯所町 Y(女) 鳥取市湯所町 S(女) 1 1月1 5日 2 3 成立 1 1月2 9日 伊藤,長砂 窪田 借家明渡 鳥取市立川町一丁目 K ( 女 ) 鳥取市立川町一丁目 H ( 男 ) 1 1月2 0日 2 4 取下 1 2月1 1日 長砂,田中 窪田 土地建物明渡 鳥取市川端一丁目 C(男) 鳥取市川端一丁目 I(男) 1 2 月3日 2 5 取下 1 2月1 9日 田中秀次, 伊藤完一 窪田 家屋明渡 鳥取市寺町 A(男) 鳥取市下横町 S(男) 1 2 月4日 2 6 成立 1 2月1 3日 平野繁藏, 松本壽道 窪田 家屋明渡 O(男) M(男) 1 2 月5日 2 7 窪田 貸家明渡 鳥取市西品治町 I(男) 外一名 鳥取市川外大工町 Y(女) 1 2月2 6日 2 8 *本表は,科学研究費補助金(基盤C) 「日本近代法史像の再検討―ゆらぎから再構築へ」 (2 0 1 6 ―2 0 1 8 年度:研究代表者 矢野達 雄広島修道大学教授)の研究成果の一部である。鳥取地方裁判所をはじめお世話になった方々に対し深甚の謝意を表する。
こうしてみると,1910年代に裁判外紛争解決制度の導入が検討された段 階では,民事事件一般がその対象として想定されていたが,他方でその制 度導入については非常に慎重な検討がなされた。借地借家調停法として事 件の種類を限定することとなった経緯は多分に偶発的であった。1910年代 に検討された労働問題,家事(人事)問題など幅広く民事事件一般を対象 とする調停制度の導入は,紛争当事者の権利実現の妨げになるのではない かという懸念等からなかなか進展しなかったという状況の下で,借地法借 家法の制定過程における司法次官の答弁を直接的契機として,借地借家調 停法の起草が進められたのである。その後の本格的な起草過程においても なお,借地借家には限定していない土地家屋の争訟を対象とする調停制度 が考えられていたことをみてきた。そして,起草の最終段階においては借 地借家調停法は東京・大阪・横浜などの六大都市に限定して用いられる制 度となり,司法省は意図的にその施行地区を限定したことがわかる。今後 の課題はさらなる史料の分析によって,戦時法としての調停が果たした役 割を明らかにすることである。その分析にあたっては,1920年代と1939年 以降に施行地区が急増する段階とにおける事件内容の異同,手続の変化, 当事者間の関係性と調停利用の意味,弁護士の関与の在り方などが重要な 視角となる。特に戦時法体制期において共同体内部の紛争に裁判所が関与 する調停が用いられたことの法史的意味を明らかにすることが今後の課題 である。 〔付記〕 本稿は,2017年12月1日に台湾法律史学会20周年シンポジウムで行なった口頭報 告を大幅に改稿したものである。 ─ ─42