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青井秀夫著「法理学概説」

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Academic year: 2021

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酒 匂 一 郎 著者によれば、広義の法哲学と法理学はほぼ同義的に用い られうるが、狭義の法哲学は法をとりわけ他の社会諸領野 ︵道徳、政治、国家、経済等︶との関係において考察するの に対して、狭義の法理学は一般法理論とそれに基づく法学方 法論︵あるいは法思考論︶を取扱うという相違がある︵いず れも法概念を論じるが、視角の違いがある︶。名称とその内 容に関するこのような見解を述べる序論の他、全六部二六章、 六○○頁を超える大著である本書は、後者の意味での法理学 の概説書である︵この分類でいえば、二○○二年の笹倉秀夫 ﹁法哲学講義﹂はどちらかといえば書名のとおり法哲学の教 科書ということになろう︶。序論と比較方法論への展望を開 く最終章を除くと、本書の内容は︵分量からいっても︶大き く前半と後半の二つの部分に分けることができよう。前半は 法概念論︵同時に法源諭の性格をもつ︶とドイツ法学方法論 9 O l ’ り l ト リ リ Ⅱ Ⅱ ■ 9 Ⅱ Ⅱ Ⅱ 0 日 1 Ⅱ 6 F 1

論争する法哲学︵書評︶

青井秀夫著﹁法理学概説﹂

︵ 二 ○ ○ 七 年 、 有 斐 閣 ︶ l i ’’11トlhh0I60iⅡⅡ‘ⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡ11ⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡ060ⅡⅡⅡⅡ00 本 書 全 体 を 通 じ て 著 者 の 基 本 的 ス タ ン ス は 、 著 者 が か ね て より注目されていたK・エンギッシュと別・ヘックに基本的 に依拠する、バランスのとれた穏健な制定法実証主義とさし あたり特徴づけることができるだろう。しかし、﹁バランス のとれた﹂といっても、それは両極的な学説や見解︵たとえ ば、概念論では定言命令説と評価規範説、方法論では主観説 と客観説など︶の単なる中間や折衷や総合の立場ということ ではなく、制定法実証主義に近い観点から一方を主とし他方 を従として、しかもそれらを全体の構造や段階に位置づける 立場である。また、﹁穏健な﹂というのは、法源が制定法に 限定されるわけではなく、制定法を超える裁判官の発展的法 形成も限定的ながら重要なものとして認められているからで あるが、﹁法哲学的格率﹂︵法原理や憲法原理や正法や自然法 お断りしておきたい。 では評者のコメントも瓊末な点にしか及びえないことを予め 評者の観点からコメントを試みるが、この卓越した業績の前 可能な業績といってよい。本評では前後半それぞれについて としてはわが国では最初のもの、しかもほとんど乗り越え不 年の研究に基づくものであり、この分野でまとまった概説書 系的に展開される。いずれもドイツ法理学に関する著者の長 半ではこの基本的スタンスに基づいていわゆる法思考論が体 史からなり、ここでは著者の基本的スタンスが開陳され、後 147

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論争する法哲学(書評) など︶の援用には否定的であるという意味では、むしろ﹁や や厳格な﹂というほうが正確かもしれない。方法論的には評 価法学少数派ということになるが、ラーレンッらの多数派が ドイツの法実務において必ずしも支配的とはいえないという 著者の指摘からすれば、実務家向きの堅実な立場といえるの であろう。 第一部ではまず﹁法なき空間﹂を認めるかいなかをめぐる 法有限界説と法無限界説がエンギッシュの議論を基に対比的 に検討され、次いで制定法規範の性格と効力、慣習法と裁判 官法の法源性、さらに権利の概念と位置づけが論じられる ︵権利の位置づけについてはコメントすべき点もなくはない が、ここでは立ち入らない︶。前者の議論はわが国では必ず しもなじみあるものとはいえないが、法実証主義と自然法論 をめぐる議論の一種の変形とみることができるとともに、消 極的自由をどう位置づけるか、制定法あるいは法の欠鉄をど う捉えるかという問題とも関連しており、興味深い議論だと いえる。著者は法規範の本質に関する命令説︵とくに定言命 令説︶と評価規範説を両極的な見解として取り上げ、前者が 有限界説に、後者が無限界説に親和的であることを指摘する。 その違いの源泉の一つは、命令説が命令という事物の本性か らして一定の範囲の人間を名宛人とすることを明確に想定す るのに対して、評価規範説は原理的に名宛人を想定する必要 がないという点にみられているが、評価規範説とそれに親和 的な無限界説のほうが一見して非合理的にみえる帰結︵神や 動物も原理的に法の適用対象となりうる、遡及法も原理的に 認められうるなど︶を含意する場合が多いように︵この点、 ’九三二年の﹁法哲学﹂第一○章の﹁国際法﹂の冒頭の一節 だけをもって、ラートプルフを無限界説の代表とされている のは誤導的ではないかと思われる︶、著者は命令説を適切な 見解とする。しかし、評価規範説も法規範が最終的に人に向 けた命令となることを認めざるをえないし、他方で命令説も 命令としての法規範の背後に評価が存在することを否定する わけではない。したがって、著者は制定法規範の本質を命令 説と評価規範説との結合に、しかし前者が主で後者が従とい う位置づけにおける結合にみる。しかも、この関係は後半に おける法命題システムの第一層と第二層との関係に構造化さ れており、体系的な一貫性が窺われる。ただ、命令説によれ ば﹁思考法則上﹂直ちに遡及法は斥けられるのかどうか、ま た法の限界はつねに画定されるのかどうかについては疑問な しとしない。たとえば、裁決者を名宛人とするケルゼンの命 令説では遡及法も不可能ではないだろうし、また代理出産契 約を罰則をもって禁止すべきかどうかは命令説だけからは導 けないだろう。これらの問題はさまざまな観点からの評価を 必要とするはずであり︵著者も事物の本性や人間性への尊重 を挙げている︶、命令という事物の本性はその重要だが一つ の要因と位置づけることができるのではないだろうか。 制定法の効力の根拠については、単純な実力説︵権力説︶ と理念説を両極とすれば、ここでもバランスあるやや厳格な 148

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青井秀夫著「法理学概説」 (酒匂一郎) 制定法実証主義の立場、すなわちエンギッシュに依拠した ﹁法理念洞察的承認説﹂と呼ばれる立場がとられている。そ れによれば、|方で法制定機関は何らかの理念の実現を標傍 して法を制定し、他方で法仲間の多数はこの標傍された理念 を洞察して法制定機関の正統性を︵法規範そのものをではな く︶承認するのであり、この一種の間接的な承認︵エンギッ シュによれば社会心理学的な事実としての承認︶を通して、 法制定機関の命令としての法規範の妥当性は根拠づけられる。 これに対して、法規範が法理念を具体化していること︵法理 念が法規範に浸透していること︶をもって妥当根拠とみるラ ーレンッらの﹁法理念浸透力説﹂は斥けられる。これについ ては多くの論点がありうるが、ラートプルフの立場との関連 についてだけ触れると、エンギッシュは﹁正義の探求﹄にお いて、J・ビンダーとラートプルフを念頭におきつつ、過度 に極端な場合を除いて通常の場合は法概念と法理念とは分離 しておくほうがよいとしている。妥当する法の概念に法理念 を結びつけて捉えると、一方でナチスにおけるような非合理 な法理念も認めざるをえなくなりうるが、他方でこれを拒否 すれば実定法の経験的な安定性を非現実的な仕方で揺るがせ ることになりうるからである。ただ、私見によれば、ラート プルフの立場は二重であって、一方で法哲学的には法の概念 は理念︵とくに正義︶なしには理解しえないとしつつ、他方 で、過度に極端な場合を除けば、正義は何よりも立法にとっ ての課題であり、裁判官にとっては法的安定性が第一の課題 と見られていた。彼にとって、この二つは必ずしも矛盾する わけではなく、むしろ過度に極端な場合を除くためには前者 の視点が不可欠だと考えられたのであろう。他方、エンギッ シュも、そのラートプルフ追悼論文などをみると、いわゆる ラートブルフ定式を明示的には斥けていなかったように思わ れる。このようにみると、ナチスや価値相対主義に関する態 度の違いは別にして、エンギッシュとラートブルフはそれほ ど異ならないのではないかと思われるがどうだろうか。 第二部では、戦前から戦後にかけてのドイツ法学方法論史 が回顧され、とるべき方向が見定められる。ドイツでは今日 でも概念法学と自由法学との対立が方法論の出発点をなして いるようである。ここでも著者は、概念法学を批判しつつも 自由法学のほうをより厳しく批判したヘックのより制定法実 証主義的な利益法学の立場をとる。この立場決定はナチス法 学をどのように位置づけるかとも密接に関わっている。戦後、 ラートブルフは実証主義がナチスの法律的不法に対して国民 と法律家を﹁無防備﹂にしたといういわゆる﹁ラートプル フ・テーゼ﹂を打ち出したが、その後の研究によれば、ナチ スの法理論はむしろヘックの利益法学などを実証主義として 激しく批判していたこと︵シュミットやラーレンッ︶、ナチ スの司法実務も自由法学の極端な見解の延長線上に展開され たこと︵反制定法的な拡張解釈、一般条項やナチス的な﹁自 然法﹂原理の濫用など︶が指摘されている。これに照らせば、 ﹁ラートブルフ・テーゼ﹂は事実の認識において誤っていた 149

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論争する法哲学(書評) だけでなく、処方菱として提案された自然法の復活は裁判官 の制定法への拘束を弱める点でかえってナチス法学の延命を 助長し、また実証主義に責任を転嫁することによってナチス に荷担した法学者や法律家を免責するという非常に問題のあ る効果をもつこととなった。それはまた、ヘックの利益法学 を歴史的エピソードとして片付けるラーレンッらの評価法学 が多数派を占める遠因ともなった。したがって、概念法学の 形式主義や一面的な概念思考は斥けられなければならないと しても、ナチスの影をひきずっている自由法学の系列ではな く、裁判官の制定法への拘束を堅持する利益法学の系列に基 本視座を定め、これを継承発展させるべきである。以上が本 書の前半の白眉ともいえる第二部のきわめて概略的な骨子で あるが、著者の基本的スタンスの背景を如実に示していると いえる。 この方法論史の考察もドイツ法理論に関する著者の深い学 識によって裏打ちされたもので、不用意な論評を許さない重 さをもっている。ただ、﹁ラートブルフ・テーゼ﹂に関して 近年かなり有力になりつつある右のような議論には異論もな いわけではない。﹁ラートブルフ・テーゼ﹂が戦後の︵旧西︶ ドイツの法理論及び法実務の展開に問題のある影響を及ぼし たということはおそらく否定できないであろう︵それは﹁壁 の射手﹂事件にも遠く及んでいる︶。とはいえ、評者のみる ところでは、実証主義断罪テーゼとしての﹁ラートブルフ・ テーゼ﹂に集約されるラートプルフ理解そのものに誤解が潜 んでいたのではないかとも思われる。たしかにラートブルフ の実証主義観は多義的であるが、たとえば一九一九年の実証 主義批判にも見られるように、彼が一貫して実証主義の問題 点としていたのは、法を究極のところで窓意的な権力と同一 視することになりうるというその含意であった。他方、制定 法が正義への奉仕という法理念の最小限の要請を提示してい るかぎり、制定法への拘束は戦後のラートブルフにおいても 一貫して堅持されるべき要請であったと思われる。たとえば、 ナチスによる後者の要請の躁鯛については﹃法律的不法﹂論 文でも触れられており、一九四八年の﹁法哲学入門﹂ではナ チスが﹁自由法運動の精神﹂を篁奪し濫用したことが認めら れている。著者はこの点についてのラートブルフの認識は実 証主義責任論と比較して圧倒的に比重が小さいことを問題と されているが、戦後のラートブルフは制定法への忠誠と正義 への忠誠の双方を同時に回復しようとしたのだというフラー の見方のほうが正鵠を射ていたのではないかと思われる。も っとも、カントロヴィッッが裁判官の自由を過度に認めるも のとして受け止められてしまった自由法運動の最初の綱領的 文書を後に限定せざるをえなかったのと同様に、ラートブル フも実証主義断罪テーゼと受け止められかねない﹁法律的不 法﹂論文をより明示的に限定する機会を必要としたかもしれ ない。 150

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青井秀夫著「法理学概説」 (酒匂一郎) 後半の四つの部では著者の法思考論の体系がきわめて明快 かつ精繊に展開されている。その基本構造は﹁三元・三層・ 三段階﹂論︵見方によっては﹁四元・四層・四段階﹂論︶と 呼ぶことができるだろう。﹁三元﹂というのは法思考が立法 者・法学者・裁判官の三つの次元において捉えられることを 意味する︵日常人の世界像を加えれば﹁四元﹂となる︶。﹁三 層﹂というのはとくに立法者と法学者の体系構成に関わる。 立法者による法命題システムは、言語的に表現され概念的な 思考の対象となる外的体系、それを内側から関連づける評価 の内的体系、さらに社会の利益コンフリクト・パタン︵以下、 利害パタンと略す︶の認知に基づく法的パタン系列の三層か らなる︵法的パタン系列と同じ深層に位置づけられる社会的 事実の類型認識も加えると﹁四層﹂となる︶。法命題システ ムを解釈する法学者の法内容システムも同様に外的体系・内 的体系・法的パタン系列の三層からなる。もちろん、後者の 場合、その命題は命令ではないこと、概念の明確化が強く求 められることなどの相違がある。﹁三段階﹂というのはとく に裁判官の法思考に関わり、法命題システムの外的体系に対 応して制定法の文言の可能な語義の限界内における解釈の段 階、立法者の評価連関に対応する立法計画の限界内における 制定法の補充・訂正の段階︵ここまでは主観説が妥当する︶、 そして立法計画を超えるがしかし法の限界内での制定法の補 | ’ 充・訂正の段階からなる︵この第三段階を超える﹁法なき空 間﹂での発展的法形成は第四段階となるだろうが、もちろん 著者はこれに否定的である︶。以上は体系の概観にすぎない が、見事に整然とした体系といえるだろう。細部においても、 法的三段論法の構造、解釈の四つの手段、法命題概念の相対 性、欠鉄や誤謬の分類と補充・訂正の方法など、ドイツ法学 方法論の蓄積を背景として著者の法思考論はきわめて豊かな 示唆に満ちている。 著者の体系の最大の特徴は、ヘックの利益法学に依拠しつ つ、利害パタンとそれに対応する法的パタン系列を深層に位 置づけている点であろう。立法者の法思考における利害パタ ンの認知と決定が重視され、制定法の解釈・補訂においても これに定位することが求められる。この点が、制定法の文言 への拘束の要請と並んで、わが国の利益衡量論との明確な相 違点をなす。また、立法計画を超える補訂の場合でも、現実 の利害パタンの分析を基本とするべきであり、﹁法哲学的格 率﹂に基づく価値判断に安易に依拠すべきでないとされる点 で、評価法学多数派と︵またドゥオーキン流の解釈論と︶| 線を画している。立法者の法思考に関する研究が必要である ことは別著﹁法思考とパタン﹄においても強調されており、 法哲学界においても今後さらに展開されるべき重要な論点で あるといえる。ただ、多少わかりにくいと思われるのは利害 パタン決定と評価との関係である。著者は一方でヘックの利 益概念の包括性に基づいて、評価対象と評価基準との区別 151

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論争する法哲学(書評) ︵ヴェスターマンや評価法学多数派︶は相対的であり、とく に区別の必要はないとされているが、法命題システムの法的 パタン系列︵立法者の利害パタン決定︶と評価連関の成層的 構造はこの種の区別に対応しないのであろうか。利害パタン 認知が認識的作用だとすれば、それを法的パタンとするには やはり何らかの評価的判断が必要であろう。そうだとすると、 立法計画を超える補訂の場合にも、裁判官は利害パタン分析 によるだけでなく、それに対する独自の︵もちろん法命題シ ステム全体を考慮に入れた︶評価を避けることはできないの ではないかと思われる。もう一つ分かりにくいと思われる点 は、類型とパタンの関係である。一方で類型概念からパタン 概念への移行が提唱されているが、他方で類型認識が利害パ タン認知と並んで深層に位置づけられている。類型概念につ いては構成要件に関係づけられているだけで、立ち入った議 論がないために分かりにくくなっているのではないかと思わ れる︵もっとも、この点は別著を参照すべきであるかもしれ ない︶・ 評者の観点から興味深いのは本書における法思考といわゆ る法的議論や対話的合理性との関係である。これらについて は第二○章第四節﹁基礎づけの限界﹂で触れられている。判 決における具体的当為判断の基礎づけには究極的な限界があ るが、窓意や不正を可能なかぎり回避して﹁品位ある法思 考﹂により導かれたものとするために様々なコントロールが 必要となるとされる。最小限の必要条件としての論理的コン トロールの他に、体系的整合性、認識論的真理性、認知論的 適合性のコントロール、さらに判例法や学説や価値論や方法 論によるコントロールが挙げられる。アレクシーの法的論証 の理論における内的正当化は論理的コントロールに該当し、 外的正当化がそれ以外のコントロールに該当するものとみら れる。この位置づけは適切だといえるが、著者は法的論証理 論の用語の使用については、それが討議理論や対話的合理性 論と結び付く場合には、後者の難点を考慮しなければならず 注意が必要だとされる。そこで難点として挙げられているも のには誤解ではないかと思われるものもある︵たとえば、真 理性や正当性の妥当要求は命題や判断についてではなく言語 行為についてなされるものと捉えられている点など︶が、法 的議論や対話的合理性に関する議論の意義は、著者の指摘さ れるように、主要には裁判制度の設計や紛争処理手続の基準 などに関わる点にあるといえるだろう。とはいえ、法思考が こうした法的議論の手続構造のなかでどのように機能しうる のかという問題も有意味に立てられるであろう。このような 観点からすれば、たとえば、解釈基準などの選択や順序づけ も当事者の主張と論証の展開のなかで実現されることや、さ しあたり裁判官の判断基準とみられる立証責任論も同時に当 事者にとっての行為規範という性格をもつこと、また行政庁 の裁量的判断についても裁判によるコントロールの前に手続 を保障することが有意味であること、さらに議論規則等の考 察が現代型訴訟にみられるような和解への交渉過程のコント 152

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青井秀夫著『法理学概説」 (酒匂一郎) ロールに資することなどが注目されるであろう。法思考と法 的議論とを組み合わせた方法論というものもありうるように 思われる。 本書は最後に、法理学から法哲学へ、そして法理学から比 較方法論へという展望で結ばれている。前者はエンギッシュ の﹁入門﹂から﹃正義の探求﹂への展開を思わせるが、ここ では後者について最後のコメントを手短に付することにする 本書はドイツの法学方法論の豊かな蓄積を背景として書かれ ている。わが国の判例や法学における法思考やその傾向も取 り上げられてはいるが、素材は圧倒的にドイツのものである ︵限定なしに﹁通説﹂と書かれている場合でも、ドイツのそ れであるのが特徴的といえる︶。また、英米の法理学ではホ ーフェルドの権利論やハート及びドゥオーキンの法理学が触 れられているが、やはり全体に占める割合は僅少である。そ の理由は、わが国の場合、実定法学者の方法論の蓄積はある ものの、法理学・法哲学の専門家によるものはほとんどない こと、英米の場合でも、著者によれば方法論への寄与は﹁意 外なほど少ない﹂点に求められるのであろう。最近の英米で はとくにドゥオーキン︵とポズナー︶の法理論をめぐって活 発な議論が展開されているが、高度に理論的な議論が中心と なっており、本書におけるような繊密な方法論はたしかに少 ないといえるだろう。最終章において著者は、﹁法なき空間﹂ の扱いを一つの尺度とするフィケンチャーの比較方法論の図 式を敷術しながら、諸国の立法及び司法の実務に関する着実 な研究の展開に比較方法論のあるべき方向を見定める。その 際、上記の三元・三層・三段階論が一つの理念型的な尺度と なりうることが期待されている。どう受け止めるかは別にし て、重要な課題提起であり、本書を一つの起点とする議論の 展開が望まれるところである。 153

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