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自由の客観的可能性と歴史の発展法則(二)

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37一一『奈良法学会雑誌』第4巻3号 (1991年12月)

V

自由の客観的可能性と歴史の発展法則

自 次

序 言 第二早社会的統合の手段(以上第四巻二号﹀ 第二章社会的統合と自由 第一節統合と自由の関係(本号﹀ 第二節政治的空間の規模 第三章政治的空間の拡大

第二章

社会的統合と自由

前章において、まず、生存を確保し人間として生きていくためには社会の統合が不可欠だということが、論ぜられ 第一節 統合と自由の関係

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第4巻 3号一一38 た。即ち第一に、生存は人間にとってあらゆる事柄の基礎であり、最も基本的な目的であるが、それは社会の形成な しにはありえないし、否、そもそも人間たることも、それなくしては不可能である。人聞は斯く根源的な意味におい て社会的な存在であるが、第二に、その社会は人々の間の統合なくしては存立しえない。統合ということは社会的生 存の本質なのである。そこで、これら二点からして、人聞が人間として生活していくためには、社会的統合の達成が 根本的な条件だということになる。それは人間生活における最優先の課題なのである。そして次に、そのような統合 に関る問題として、その手段又は要因が求められ、自然的・非政治的なそれと人為的・政治的なそれとが区別された。 統合の手段には多くの種類があり、見地によって様々に分類されえようが、本稿の主題からすれば、そのように二つ に大別することがおそらく妥当なのである。 このようにして、社会的統合、続いてその二つの類型である自然的統合と人為的統合というものが、人間存在その つまりそれによって、それが人間に対してもつ重大な意味が明 ものに発する根源的な仕方に基づいて導き出された。 らかにされ、従ってここに、そうした二種類の統合が人聞の在り方に関する根本的な問題として設定されたのである。 我々はその問題についてこれから取り組んでいかねばならない。自然的統合と人為的統合はそれぞれどのような性質 を も ち 、 お互どのような関係にあるのであろうか。そして、それらは我々に対してどのような作用を及ぼすものなの で あ ろ う か 。 まず自然的統合についてであるが、その考察に当たっては、﹁自然的﹂という概念が当然キ 1 ・ポイントになるであ ろう。そこで、その自然的ということだが、その意味や理由については前章において既に説明しておいた。それらに ついてはまた、自然的統合の手段を構成する具体的な各要素(即ち、経済的なものと非経済的な諸々の共通要素)からも伺 えるであろうが、ともあれ自然的とは、統合という目的が或る手段にとって意図的・人為的なものではなく副次的・

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派生的なものだという趣旨であった。しかしここで、本章の問題意識から、新たにもう一つ別の意味、従ってまた(﹁自 然的﹂と呼ぶ﹀理由を、付け加えておきたい。と言っても、それはもちろん元来の意味と異質のものではなく、その 延長線上に位置している。そしてそのほうが、自然的という語感にヨリ近いようにも思われる。それは何かと言えば、 恰も自然の如く既に一定の姿をもって存在し自動的に変化するもの、即ち、人聞にとって所与のものという意味であ る。人間の手の(少なくとも実質的に﹀及ばない客観的な事実ということである。 自然的統合は既述の如く経済的なものと非経済的なものに区別されるが、後者、即ち人種・民族・宗教︿以下﹁気 質﹂まで実定的・国民的なそれ﹀・道徳・価値観・気質・地理・風土・言語・伝統・慣習・歴史などがそのような意味に 鈎』ー自由の客観的可能性と歴史の発展法則。 おいて自然的であることは、明らかであろう。また、それは前者についても妥当する。なるほど、経済活動は人間の (少なくとも具体的には)自由な意志に基づき、人間の努力によって左右される。しかし、経済の全体的な在り方という ものは、自然的・社会的・歴史的・技術的その他諸々の客観的条件によって基本的に規定されるのであり、(或る時点 における﹀経済体制や発展段階の如何は人間の自由になるものではないのである。こうして、非経済的な統合手段も 経済的なそれも﹁自然的﹂であると見られるから、我々は自然的統合についてはその強さ(統合力﹀の水準を自然と同 じように所与のものと考えざるをえない。或る時代の或る国家における自然的統合力は、人聞の主観的意志の及ばな い一定の客観的な事実として認めなければならないのである。 このように、自然的統合の強さ、そして更に言えば、それを構成する諸要素の分布状態は、既に決定されており、 人間の意志が介入する余地は基本的にないが、他方、人為的統合についてはどうであろうか。人為的統合とは、既述 のように、統合をめざす、人間の意図的な努力によるものであり、具体的には政治を意味する。だとすれば、意図的 努力が人間の自由に属することは言うまでもないから、人為的統合即ち政治は、自然的統合とは逆に、所与のもの、

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第4巻3号一一40 客観的なものではないと言えるであろう。ただ確かに、人為的たる政治といえども、全く自由になるというわけでは ない。それは他の全ての人間的営為と同様に、それが置かれた情況、それこそそのありとあらゆる要素から、大きな 影響を受ける。例えば、経済的情況はもとより、自然・技術・文化・伝統・歴史・国際環境等々からである。しかし、 政治というものが人間行動そのもの或はその直接的産物である以上、少なくとも究極的には、人間自身の意志が政治 の在り方を決定するのである。そのことは特に政変や革命において鮮明に示されている。そして、もし仮に政治にお ける人為性の割合が些少であるとしても、政治による統合の強さが人間の努力に比例していることは、確かなのであ る 。 そこで、その比例の仕方、即ち、政治の質と統合力との関係についてであるが、 一般的に言えば、普き政治は強固 で安定した統合をもたらし、悪しき政治は脆弱で不安定な統合をもたらす。もとより、政治は現実的でなければなら ないから、その善し悪しの具体的な在り方は一概には言えないし、それについての絶対的・普遍的な尺度といったも のはない。それぞれの政治には、それぞれの置かれた具体的情況に対応して、個別の尺度がありえよう。例えば、社 会の発展段階に対応して、家父長的或は啓蒙専制的な善政もあれば、自由放任的なそれもある。また、政治の善悪と 統合の強弱の一致ということだが、厳密に言うならば、必ずしもそうではない。例えば、ファシズムや共産党独裁な どは、根本的にはともかく一応極めて強力な統合を実現しているが、到底善き政治とは言えないであろう。それらは 言わば過度の統合である。従って、政治の善悪に対応するのは、統合の強弱ではなく適・不適であると言うべきかも しれない。しかしまた他方、同じ統合にも、下からの自発的・主体的なものと上からのそうでない傾向のものとがあ り、前者は基本的に、強ければ強いほど望ましいから、そのような観点からすれば、統合の強弱が政治の善悪と比例 しないわけでもないのである。

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このように、政治の質と統合力の聞の関係は複雑であるが、ともあれ、政治と統合が直接的・内在的に結びついて いることは、確かである。そして、政治が人間の営為である以上、統合に対するその作用や効果が一様でないことも また、確かである。先に述べたように、政治による人為的統合は統合力の基本的構成における可変的部分であると言 えよう。しかもそれは、自然的統合が不変的である以上、唯一の可変的部分なのである。 これまで論じてきたように、統合は自然的統合と人為的統合とから成り、前者は(或る時点における或る一定の社会や 国家にとって)不変的で後者は可変的である。換言すれば、前者は定数であり後者は変数である。そうであるならば、 全体的な統合の強さは、当然のことに、人為的なそれに比例して変化するということになるであろう。自然的な統合 力についてはもはや如何ともなし難いから、専ら人為的なそれが全体的な統合を決定づけるのである。従って、問題 は人為的な統合にあるということになる。実践的観点からすれば、第一次的に注目すべきは可変的部分であり、統合 41一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則仁) に関して我々が問うべきは、人為的統合のほうなのである。 そこで、人為的統合の強さを問題にしなければならないが、それは如何にして決められるのであろうか。その決定 要因は何であろうか。この間いには二つの意味がある。即ち一つは、或る社会にとって必要な強さは基本的に如何に して決まってくるのか、或は如何にして決められるべきなのかということであり、またもう一つは、しかし現実の強 さは如何にして決まってくるのか、その個別的・具体的な決定要因は何かということである。つまり、大雑把に言え ば、理論と実際である。そしてこうした、人為的統合力の意味の区別は、次の事実に対応している 0 1 1 │ │ 既述の如 く、統合は社会の存立と結びついているが故に、当然のことながら、それは一つの社会へとまとめ上げる一定以上の 強さを要求される。それを保持することは、統合の欠くべからざる条件なのである。従ってここに、このように社会 的に必要とされる人為的統合の強さというものが存在するであろう。即ち、或る社会が社会たりうるのに必要と思わ

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第4巻 3号一一42 れる統合の強きである。しかし他方、それは言わば理論的計算値であって、それが、実際に存在している人為的統合 の強さと一致するとは限らない。後者は過剰であったり不足したりするであろう。従ってもう一つ、必要とされる強 さとは別に、現実における人為的統合の強さというものも存在するのである。かくして、人為的統合に関しては二種 類の概念が成り立つが、前者を仮に﹁必要量﹂、後者を仮に﹁現実量﹂と呼んでおこう o 人為的統合の強さという場 合、必要量と現実量という二つの意味を区別しなければならないのである。 さてそれでは、それら三つの量を決定するものは何であろうか。或は、それらは如何なる考慮から導出されるので あろうか。まず必要量について言えば、それは明らかに自然的統合の強さによって決まってくる。社会が成り立った めには一定の統合が形成されなければならないから、自然的統合の不足分(自然的統合だけで全体的な必要量を充たすこと は、国家的レベルにおいてはありえない)は補充されねばならず、その役割を果すのが人為的統合だからである。即ち、 統合全体として必要な強さから自然的統合のそれを差し引いたものが、人為的統合の必要量に当たるわけである。従 っ て 、 自然的統合が強い場合には人為的統合は弱くて済むし、自然的統合が弱い場合には人為的統合は強くしなけれ つまり、人為的統合の必要量は自然的統合の強さに反比例するのである。 ばならないということになる。 但し、それには条件がある。その条件とは、外国の存在を捨象するということである。もしそうでなければ、人為 的統合の必要量が自然的統合によって決定されると言い切ることは、 できないであろう。その場合でも、両者の相関 性自体は変わらないが、それは単純な比例関係ではないであろう。何故なら、外国特に近隣諸国の状態、即ち国際環 境と、国内の在り方とは、無関係ではなく、後者は前者に適切に対応しなければならないからである。例えば、(種々 の意味で)強大な国が周りに存在している場合や、それがしかも政治体制・文化・民族・宗教などを異にしている場合 には、諸々の独立性を維持するために或る程度の国内的規制が求められるし、更にまた、外国からの軍事的脅威が高

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まっているような場合には、 一致団結してそれに対処しなければならないから、そうしたいずれの場合にも全体的な 統合の必要量、従って人為的統合のそれは、増大するであろう。このように、国外的要素を考慮に入れるならば、全 体的な統合の必要量自体が変わってくるが故に、人為的統合も当然その影響を受けるのである。しかし基本的には、 自然的統合の強さが人為的統合の必要量を規定すると言うことができるであろう。 次に、現実量についてであるが、これは、あらゆる﹁現実﹂がそうであるように、多くの要因によって規定される。 この場合も、歴史的背景、経済的条件、政治的情況などから個人的欲望や偶然的事件に至るまで、その要因は様々で あ り 、 しかも複合的である。しかし、現実量を最終的に決定するものは、 ﹁人為的﹂統合のそれである以上、人間以 外にはない。即ち、それは為政者や権力者であり、或は国民自身である。ということは、彼らは多かれ少なかれ主観 的・限定的な存在であるから、 一般に現実量の決定は十分合理的になされるわけではないということを意味する。そ 43一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則。 れは人々の特殊的な意志や判断によって様々になされるのである。例えば、専制君主の怒意と警戒心が必要以上に抑 圧的な支配体制を生み出すこともあるし、多民族国家の歯止めなき自由化と民主化が分裂の危機をもたらすこともあ も ち ろ ん 、 ろ う 。 多少とも賢明な為政者や国民であるならば、過大な統合も過小なそれも共に結局は逆効果(自己矛 盾﹀であるから、自然的統合の情況、従って人為的統合の必要量というものを考慮し、慎重に振舞うであろう。 故、必要量によるこうした規定を受けて、現実量の決定には自ずと制約があり、それが全く非合理的になされること そ れ は稀である。しかしともあれ、 一般に現実量は必要量を基準として上下にぶれるのである。かくして、現実量には三 つの場合がありうることになる。即ち、必要量に合致した場合と、過多及び過少の場合である。 このように、統合の現実量は、必要量との関係で三つのケ l スに分けることができる。そうであるならば、次にそ れぞれのケ l スについて自由の観点から論評を加えなければならない。しかしそのためには、自然的統合と人為的統

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第4巻3号}ー44 合というこつの在り方自体について評価しておくことが、先決である。 そ こ で 、 まず自然的統合についてであるが、それは統合の在り方として基本的に望ましいと言えるであろう。統合 が必要とされ課題として意識されること自体が物語っているように、統合は人間の自然的傾向性に逆らいがちである。 多勢の人々が多少とも一つにまとまって暮らすためには、彼らは自らの個人的な欲求や意志を或る程度抑制しなけれ ばならないからである。統合とはそもそもこうした性質をもっており、それを免れることはできない。しかし、それ を薄めたり弱めたりすること、圧迫感や束縛感を軽減することは、可能である。そしてその点で、自然的統合という 在り方は望ましいというのである。何故なら、自然的統合の諸々の手段ハ要因)の統合作用は直接的ではなく、各人 がそれを意識することはないからである。つまり、統合のための自己抑制が文字通り自然的に、即ち自発的且つ無自 覚的に、というよりむしろ、自己抑制という形をとらずに間接的に、なされるからである。従って、それは自由と両 立することができるであろう。 それに対して、もう一方の人為的・政治的統合は、逆に望ましいとは言えない。こちらのほうは人々の統制を直接 の目的又は手段とするものであり、しかもその根底には、権力という外的強制力が存在しているからである。そうし た、権力を背景とした直接的統制が自由と真正面から衝突することは、言うまでもない。人為的統合は本質的に、即 ち既にその概念そのものからして、自由に対して敵対的なのである。 統合の二つの在り方について、このように明確な、全く対照的な評価がなされうる。そうであるならば、ここに現 実量のコ一つのケlスについてもそれぞれ論評することができるであろう。それら三つのうち、現実量が必要量に等し い場合は、もちろん問題はない。問題なのは、過多の場合と過少の場合である。 まず過多の場合について言えば、前述の如く、人為的統合それ自体は望ましいものではないから、即ち言わば必要

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悪であるから、それが過多であることは、善いことではない。それは必然的に人々の自由を制限することになるので ある。従って、人為的統合はできるだけ弱いほうがよいが、 しかしだからと言って、それは弱ければ弱いほど善いと いうわけでもない。逆に過少である場合もまた、都合が悪い。というのは、過度の自由が放怒に走って無秩序や分裂 を招来し、やがて自由の基盤自体を崩し始めるからである。人為的統合は自由にとって確かに脅威であるが、同時に それはまた、自然的統合を補完する限りにおいて自由の可能根拠でもある。言い換えれば、自由にとって直接的・即 自的にはマイナスだが、間接的・綜合的には、限定された範囲でプラスの面をもっと言えよう。過多及び過少の場合 についてこのように判断できるとすれば、人為的統合の理実量はその必要量に近ければ近いほど普いということにな る。それは過多でも過少でも有害であり、必要量程度が最適なのである。 45一一自由の客観的可能性と歴史の発展法郎防 以上のように、人為的統合の強さはその必要量に等しい程度が望ましいということになる。そうすると、人為的統 合それ自体が悪である以上、その必要量が少なければ更に望ましいということになるであろう。それが少なければ少 ないほど、現実量も少なくなりうる余地が増えるが故に、望ましいのである。そして、もし人為的統合がなくても、 即ち政治というものが存在しなくても、社会が存続していけるならば、それに越したことはないであろう。それは古 来人々の理想であり、自由主義はもとより共産主義においてさえ見出すことができる。それはともかく、それでは人 為的統合の必要量は何によって決まるのかと言えば、前述の如く、それは自然的統合の強さによってである。前者は つまり、自然的統合が強いほど人為的統合の必要量が少なくなるのであり、従って、自然的統合 後者に反比例する。 は(少なくとも基本的に)強ければ強いほど望ましいということになる。そうであればあるほど、 するのである。かくして結局、自由の可能性は人為的統合に反比例し自然的統合に比例すると、言えるであろう。 自由の可能性が増大 但し、それについて一言付け加えておくが、自然的統合の強さにも、 より精確に言うならば、やはり望ましさの限

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第4巻3号一一46 度というものがある。それが強いことは望ましいが、 しかし、強ければ強いほどよいというわけでもない。そのよう な事情は、人為的統合の弱さの場合と同様である。というのは、なるほど、自然的統合は自由と基本的に両立しうる が、しかしその自然的統合自体の中に、自由を抑える要素が含まれているからである。先にも言及したように、そう し た 要 素 は 、 およそ統合ということのもつ内在的な必然性であり、それは人為的統合のみならず自然的統合に対して も妥当する。例えば、余りにも伝統の強い社会や、或る宗教一色に塗り潰されているような社会においては、 たとえ それらがリベラルなものであったとしても、その同質性や濃密性の故に自由な雰囲気を損うであろう。また仮に、そ れらが既に各人の人格の一部となっている場合でも、それほどまでに伝統的又は宗教的な社会は、人々の行動原理は 一 つ で は な い か ら 、 やはり自由にとって好ましくないであろう。こうした事例の示す如く、自然的統合が自由にとっ て全面的にょいというわけではない。自然的統合の強さというものを無条件に認めることはできないのである。 それはさておき、自然的統合がそのように極端に走らない限り、自由の可能性は自然的統合の強さに比例して増大 すると言うことができる。逆に言えば、自然的統合が不十分であるのに比例して、自由の可能性は減少するのである。 従って、自然的統合が(かなり又は著しく)欠乏しているところでは、 自由を実現することが(それだけいっそう)困難 になるであろう。 つまり、経済的水準が低かったり、人々の聞の共通性が乏しいところでは、 一つの社会を形成し社 会生活を維持していこうとする限り、自由の許容範囲は狭いものにならざるをえないであろう。それは人々の選択の 問題ではない。主観的な願望や努力によっては如何ともなし難い客観的な現実なのである。 このように、自由と統合の間には本質的な因果関係がある。それは、これまでの推理の展開からする必然的な結論 である。従って、それはあくまで理論的な帰結であるが、 では、現実にはどうであろうか。それは果して現実に妥当 するであろうか。それによって現実を合理的・整合的に説明することが、 できるであろうか。私の見るところ、そう

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した現実的妥当性を示すにふさわしい実例には、事欠かないように思われる。 そこで、いくつか(簡単に﹀見てみると、まずその最も顕著な例は、おそらくソ連であろう。ソ連については、その 統合にとってのマイナス要素として、とりわけ、極端に広大な国土と余りにも多数の民族及び言語を指摘することが 一国だけで世界の六分の一近くを占める。また民 ヨーロッパ・アラブ・アジアにまたがって優に百を超え、それほど多種多様に構成された国家 できる。その国土はアメリカと中国を合わせたものよりも大きく、 族 及 び 言 語 の 種 類 も 、 は他に例を見ない。そしてそれらに加えて、国家としての歴史的伝統の乏しさ、政治文化的な未成熟、更には経済的 な未発達など、重大な欠陥が目白押しである。それ故、これらが複合して、自然的統合のレベルはゼロに近い。しか るにソビエト政権は、そのような決定的ハンディキヤヅプにもかかわらず、共産主義体制確立のために逆にハイレベ ルの統合を人為的に、従って(必然的に﹀無理やり、達成しようとしたのである。それが如何なる結果を招来せざるを 47一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則同 えないかは、明白であろう。言うまでもなく、甚しい自由の抑圧と人権の侵害であり、官憲による恐るべき監視と弾 圧である。しかも、更にそれに拍車をかけたのが、国際的脅威であった。ナチス・ドイツの侵攻やアメリカの封じ込 ソ連圏内の全体的な統合の必要量をいっそう引き上 め政策がソ連の警戒心を高め、防衛のための団結を促した結果、 げてしまったのである。

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こ の よ う に し て 、 ソ連における自由の情況については、統合という観点から最も根本 的に説明できるように思われる。 次に、こうしたソ連と基本的に同一であり多くの共通点をもっているのが、中国である。なるほど、中国は国土の 広さと民族及び言語の多様性の点ではソ連ほど極端ではない。しかしそれでも、国土は世界第三位で日本の二六倍も ある。また民族についても、漢民族が九

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余 り と は い え 、 五

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種以上の少数民族がおり、言語についても、漢語に は多くの方言があって、それらの聞の対話は困難な状態である。そして中国には、 ソ 連 に は ハ 中 国 に 比 す れ ば ﹀ な い 悪

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第4巻 3号一一48 条件が存在している。それは世界の四分の一という余りにも巨大な人口である。従って、綜合的に見て、両国の置か れた情況は極めて類似していると言えよう。ただ、統一国家又は国家という点で、中国はソ連とは比較にならない歴 史的伝統をもっているが、 しかし、元・清などの征服王朝の存在が示す如く、それは民族興亡の歴史でもあったし、 一世紀以上にわたって半植民地的な状態であった。しかも、低レベルの経済と また、中華人民共和国の誕生以前は、 国際的脅威という点ではソ連と同一であり、更に、そのような自然的統合の欠如を共産党支配によって強引に克服し ょうとしてきたことも、共通している。それ故、中国における自由の情況はソ連の場合と同様の論理によって説明さ れうるのであり、中国もまたその一つの実例と見なしうるのである。 こうした事例に見る如く、自由の実現は客観的条件を必要とし、 その欠如を人為的にカバーしようとすれば自由の 抑圧が避けられない。しかしながら、 たとえ客観的条件が欠けていても、 ソ連や中国とは違って程々の統合で満足す るとすれば、或は、社会的安定をかなり犠牲にするとすれば、それほどの抑圧は生じないであろう。そのような事例 と し て 、 おそらくインドを挙げることができる。 インドもまた、自然的統合のレベルが非常に低い。国土の広さはヨーロッパ大陸にほぼ等しいし、人口も世界第二 位である。また、言語は主要なものだけで一

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数種、国民に対する母国語の調査では一五

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種以上であり、宗教も ヒンズー教のみならずシ 1 グ教・ジャイナ教・仏教、そして各部族独自の伝統宗教が、多数存在している。更に経済 的にも、貧困の解決が課題とされるような状簡明であり、貧富の差が大きく、膨大な低所得者層を抱えている。このよ うに、統合を大幅に損なう要因がいくつも見受けられるが、 こうした自然的統合のマイナスを(ソ し か し イ ン ド は 、 連や中国のように)強いて人為的にカバーしようとは、況や過度のプラスに引き上げようとは、 しない。西欧型の民主 的政治制度を曲りなりにも維持しているし、 その経済も(一部社会主義的であるが)資本主義を基調としている。従っ

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て、政治的・経済的自由が一応認められていると言えるであろう。とはいえ、既述の如く、 一定の統合なしに社会は 存立しえないのであって、自然的統合の欠如と自由の容認とは両立しない。それ故インドの場合も、国家を維持しつ つ一応の自由を認めているということは、上述のハンディキャップを補填するいくつかの統合手段が存在しているは ずである。そして確かに、それらを指摘することができるが、それらが自由を或る程度制約するものであることは、 言うまでもない。例えば第一に、なるほど宗教的に多様であるが、 しかしヒンズー教徒が入

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以上を占めており、 それなりの宗教的統合力が作用していると見ることができる。しかも第二に、そのヒンズー教は人間生活全般に対す る規制を特徴としており、且つまた、堅固なカ 1 ス ト 制 度 と 結 合 し て 社 会 的 諸 関 係 を 支 配 し て い る 。 そ し て 第 一 一 一 に 、 インドは制度的には連邦制であるが、 イギリス植民地支配の伝統から、中央政府の権力が州を圧倒しており、実態は 中央集権国家なのである。このように見てくるならば、インドにおける自由の情況についても、統合という見地から 49一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則り 適切に説明しうることが判るであろう。 以上は、自然的統合、従って自由の客観的条件を、欠いている国家の事例であるが、その逆の場合についても、も ちろん指摘することができる。西側先進各国がその典型であることは、言うまでもない。それら諸国が(むろん部分的 問題はあれ)経済的にも非経済的にも十分な統合手段を保持していることは、明白であろう。ただその場合、日本や E C 諸国などについては容易に理解できるが、(特に)アメリカに関しては疑問が残るかもしれない。そこで、それに ついて付言しておく必要があろう。 アメリカは広大な国土に多くの人口を抱えており、 な る ほ ど 、 しかも世界有数の多民族国家である。従って、自然 的統合が弱いように見受けられるかもしれない。しかし、 アメリカには、そのようなマイナスを補って余りあるプラ スの要因が、数多く存在している。例えば、まず第一に、何と言っても有効なのはその経済力であり、それが世界一

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第4巻3号一一50 の水準(今世紀以来)にあること、第二に、それと関連するが、交通と通信が最先端の発達を遂げてきたこと、第三に、 国土が、旧世界から隔離された、言わば一つの巨大な島国を成しているということ、第四に、建国期の国民の聞には 民族・信条・境遇などの点で大いなる共通性があり、その後多様な人々が加わったが、移民国家という根本的同質性 は継続しているということ、第五に、国土の拡大がフロンティアの西進という形をとって漸次的であったこと、第六 に、キリスト教というほぼ支配的な宗教が存在していること、第七に、基本的な共通言語として英語が完全に(最近 多少問題が出てきたが)普及していること、そして第八に、 しかも各州の独立性の強いそれであるとい 連 邦 制 で あ り 、 うこと│││これらの諸点を指摘することができる。それらを勘案するならば、 アメリカにおいて豊富な自由が存在 していることは、何ら不思議ではあるまい。それは統合の観点から合理的に説明することができるのである。 かくして、極めて大雑把な分析ではあったが(本当はもっと客観的且つ詳細な分析が求められるがて それによって理論 の現実的妥当性が(ひとまず)確かめられたと言えるであろう。つまり、本節で提示された、白白と統合に関する理論 は、各国の実状と(一応﹀普遍的に合致すると見なしうるのである。 ただ、それについて最後に一一一目しておかねばならないことがある。それは、その理論は現実を正当化するものでは ないということである。それはソ連や中国における自由の抑圧を容認しようとするものではない。その理由はこうで ある。ーー

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統合自体は(既述の如く)絶対的な要件であるが、その具体的な程度や在り方には選択の幅があり、それ らは(現実認識と共に)一定の価値観によって決定される。ところが、価値には自由はもとより、それ以外にも例えば平 和・秩序・平等・繁栄など、多くの価値が存在しており、価値観は事実においても当為に(少なくとも具体的には)おい ても決して唯一ではない。従って、或る国家について或る特定の統合が必然的に導出されるわけではないのである。 要は価値選択の問題であって、国土・人口・国民・経済等々における悪条件の下でいずれを優先させるかによって、

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またそれらの聞でどの程度のバランスをとるかによって、実践的な価値判断は変わってくる。それ故例えば、秩序を 乱したり一平等を損ったりしてもあくまで自由を尊重すべきだとすること、或は、後者を相対的に重視すべきだとする ことは、もちろん可能である。しかし事実として、自然的統合に欠けるところ又はそれが不足するところで、両者を 多少とも又は十分に両立させることはできないというのである。このような認識が現実に対する理解ある態度や同情 的解釈をもたらすこと、それ故、保守的傾向をもたらすことは、ありうるが、 いずれにせよ、本節の理論が説いてい るのは、統合と自由の関係についての事実認識であって、価値判断ではないのである。 51一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則り

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