X IX VIU Vil VI V IV III II
オランダにおける論議を中心に—ー'
持 続 的 植 物 状 態 患 者 と 人 工 栄 養 の 問 題
目 次 はしがきスティニッセン事件
プランド事件
植物状態患者の実態
保健審議会の勧告
医師会の最終報告書
批判的な見解①
批判的な見解③
若干の検討
あとがきに代えて
9 '
論,','’',',',',',',',','訊,'〗
山
下
邦 也
17 3 ‑433 (香法'97)
れたオランダ医師会の植物患者に関する討議ノート 治療を拒否する意思の不明な持続的植物状態患者等の治療︵人工栄養等を含む︶の諸国では代行判断または最善の利益判断という構成を通してこれを容認する方向にあることが知られている︒我が国の諸学説︑判例等においてはこれらの条件はもっと厳しく考えられている︒しかし︑新聞報道によれば︑医療現場の実態は最近いくらか異なってきたようであり︑事前の意思表示もなく︑必ずしも死が切迫しているとは限らない高齢患者からの人工栄養の手控えの事実なども話題にされている︒これが新たな段階の到来であるとすれば︑議論の在り方もある程度変化することも予想される︒英米等における法的な論議も医療界の動向や人々の意識の在り方を反映したものであろう︒
本稿は末期患者の明示的な要請のある場合における安楽死を社会的に容認しているといわれるオランダにおいて︑
この問題がいかに論じられているかを紹介し︑比較検討のためのひとつの素材を提供しようとするものである︒
ところで︑あるいは意外にも︑
年代末のスティニッセン事件一件だけである︒後述するように︑
たが︑治療を拒否する事前の明示的な意思表示もなく︑
って、患者の夫が妻の利益(の不在)を考えて栄養•水分の人工的な投与の中止を要求したものであった。
司法的判断とは関係なく︑
ー は し が き
の制限・中止について︑英米法系
オランダにおいて植物患者の問題が裁判に持ち込まれたのは現在までのところ八〇
それは一五年間にわたって持続的な植物状態にあっ
またはその意思を推定させる十分な証言等もないケースであ
そのようなケースは頻繁に起こっているだろうか︒これについて︑
︵中
間報
告書
︶
一九九一年に公表さ
を参照すると︑長期昏睡または植物患者に対する
17‑3‑434 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
実務の治療方針は主として生命維持の方向にあるとして︑診断により予後の不良が明瞭になった後期段階で生じた合 併症を治療しないという決定はなされているが︑人工呼吸器やチューブ栄養の中止はほとんどなされていない印象で
あると述べている︒
その後︑状況は変化しただろうか︒今夏︑公表されたオランダ医師会の最終報告書によれば︑現時点において実務 の治療方針が絶対的に延命の方向にあるかどうかは経験的な資料に基づいて答えることはできないが︑
一連のナーシ
(3 )
ングホームにおけるガイドラインの存在からみて︑数年前とは少し異なった印象があると述べられている︒
オランダでは医療費の問題は保険でカバーでき︑急性期を過ぎて︑安定状態に入った植物患者はたいていナーシン グホームで治療・看護されるので︑家族に感じられる期待と不安などアンビバレントな精神面の負担は別として︑
の他のプレシャーはある国々ほどは高くないかもしれない︒
しかし︑社会的な話題をさらったスティニッセン事件を想起しつつ︑
にもある程度浸透しているのではないかと思われる︒ そ
この問題に関して経済的な観点等における議論はほとん
どこかに限界があるという意識は一般の人々
アメリカでは﹁クインランのようには生きたくない﹂といわれ︑
イギリスでは﹁ブランドのようには生きたくない﹂と囁かれるという︒オランダでもそのようなシンボリックな語り
ほとんどの人々︑少なくとも西側諸国の人々は植物状態の延命はその人の利益
アドバンス・ディレクティブをもっていない安定した植物患者につ いての治療制限の決定は難しい︒なぜなら︑治療制限の決定についてのほとんどのガイドラインは︑死が切迫してい
るこ
と︑
また死の過程にある患者の苦しみを防止することに関連するからである︒ ではないと確信しているだろうという︒しかし︑ ブライアン・ジェネットによれば︑ 口があるかもしれない︒ どなされていないようである︒
これらのファクターのどれも︑植
17‑3 ‑435 (香法'97)
(4 )
物患者には当てはまらない︒しかし︑極限的なディレンマの
上述したように︑
睡患者﹄を公表した︒それは︑オランダにおける昏睡患者ないし植物患者の実態を調査・分析し︑治療及びその制限・
中止に関わる医師会の方針を提起し︑広い討議を呼びかけたものであった︒中心問題のひとつは意識の回復の不可能
性が確実と診断された患者に対する栄養•水分の人工的な補給の中止は無益な医療の中止として事情次第では正当化
されるというところにあった︒予想されるように︑生命の質︑基本的な看護などの論点を主軸に反論も提起された︒
次いで一九九四年には保健審議会︵代表者は現厚生大臣ボルスト教授︶
する勧告書を提出した︒これも︑
たもので、結論的には医師会ノートと同様に事情次第では栄養•水分の人工的な補給の中止も無意味な医療の中止と
して正当化され得るとした︒
そし
て︑
今年
︑
発行された︒中間報告書と比較すると菫点の置き方に幾分異なる部分もみられるが︑基本線は同様である︒
どのような医療倫理的な考え方や法的な考え方が展開されているかに関心がもたれる︒
以 下
︑
であ
る︒
オランダ医師会はスティニッセン事件の余儘がくすぶっている一九九一年に討議ノート﹃長期昏
問題状況を概観することとする︒ が厚生大臣に対して﹃植物状態患者﹄と題
その時点までの調査・研究結果の報告と共に審議会としての独自の見解を打ち出し
一九九七年にはオランダ医師会の最終報告書﹃意思無能力の患者の生命終焉をめぐる医療行為﹄が
スティニッセン事件の高裁判決︑次いで諸報告書とそれに関連する論議などを追いつつ︑オランダにおける ︵里く感じられる場合の︶解消策も求められているよう
四
17‑3 ‑436 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
に指名された︒ 転院し︑以後そこに滞在することになった︒ したところにある︑
事実の経過
スティニッセン事件
とさ
れる
︒
五
にあり︑植物状態であると認定さ ﹁ヘット・ウィエデンブルック﹂に
スティニッセン事件の判決の意義は︑意思無能力者の治療︑看護及び世話につ
いて︑誰がこのような干渉について決定できるのか︑
ま た
︑ どのような規範に基づいてかという基本的な問題を提起
そして︑判決においては︑人工栄養の補給は医療行為かどうか︑
またその行為を継続
する意味があるかどうかについての判断は原則として医療的な判断であるという考えが里要な役割を果たした︑と︒
以下において︑事実の経過と判決をやや丁寧に追ってみる︒
一九四二年七月一一日にオランダ東部のエンシェデで生まれたヘントリナ・マリア・スティニッセン・シュバーゲル
マン夫人︵当時三二歳︶は一九七四年三月三
0
日︑帝王切開のためにエンシェデに所在するシュタッツマーテン病院 に入院した︒彼女はこの手術のための麻酔中の酸素不足とその後の致命的な低酸素症の結果︑絶望的な昏睡状態に陥 り︑再び意識を回復しなかった︒そして︑七四年八月二七日にナーシングホーム
夫人は︑深い昏睡︵このことばは覚醒昏睡の意味で使用されていると思われる︶
れた︒栄養と水分の補給はガストロストミー・チューブを経由して行われている︒彼女の臓器は排便・排尿をコント
保健法学者フェフェースによれば︑
I I
一九
八
0
年︱二月一七日︑彼女の夫︑G .
C
.スティニッセン氏が後見人17‑3 ‑437 (香法'97)
ー
b a
おり︑彼女の利益を基本に置いて考えている︒ い
る ︒
ロールできない︒通常の昼夜のリズムはある︒
のような接触ももてない︒疼痛刺激に対する反応は脳波計に記録できない︒自発呼吸はあるが︑
りすることを防止するために気管カニューレが装着されている︒それゆえ︑彼女が受ける治療・看護は︑人工栄養の
投与
︑
四時間ごとの体位の変換及び手足と筋肉の彎曲を防止するための理学療法である︒彼女は肉体的にはまずまず
の状態にある︒症状の改善は期待できない︒昏睡は不可逆的である︒夫及び後見人としてのスティニッセン氏は︑
九八七年︑ナーシングホームの院長を被告として︑
もの
であ
る︒
アーネム高裁判決︵一九八九年一
0
月= 二日
︶
要求の背景と意図
控訴人は配偶者がナーシングホームに入所した時点では回復の可能性についてなお希望を抱いていたことに疑
いを挟む余地はない︒ ルメロ地裁に対して提起したが︑成功しなかった
︵広い意味で︶彼女の生命の終結を求めて アイ・コンタクトはない︒音声には反応するが︑精神的には外界とど
むせたり︑窒息した
とりわけ栄養と水分の人工的な投与の終結を求める民事訴訟をア
( R b .
A l
m e l o
1
,
j u l i 1 98 7)
︒そこで改めてアーネム高裁に控訴した
いまやそのチャンスは締め出され︑彼女は約一五年間も深い昏睡状態にある︒控訴人はそ
の状態の持続は意味がなく︑彼女の利益に反すると考えている︒彼は
その際︑控訴人は︑このようにも長い間︑現在のような状態にある場合にはもはや生きていたくないという夫
人自身の以前の言明があるとは述べなかった︒しかし︑彼は彼女の気持ちはそうであったに違いないと推定して
'.
ノ
17‑3‑438 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
2
c
ba
c
づいて医師によって答えられるべきものである︒ な
い︒
り︑変更の見込みもなく︑回復の兆しもなく︑死の兆しもなく︑
七
かつ特別の法的な 一五年間も深い昏睡にある状況で︑意味ある医 夫人の両親︑兄弟と姉は︑要求の判断のための尺度ャ
ー ︑
そし
て︑
ほとんど明瞭とはいえないが︑それぞれ異なった立場をとっている︒
それゆえ︑彼が裁判官の判断を求めている事情を十分に理解するものである︒夫人の状態︑
療行為は存在するのか︑人間的な行為はあり得るのかという疑問が呼び起こされるのは当然である︒もはやその
ような事態はあり得ないという見方をあらゆる点で首肯できると当裁判所は考えている︒
他方︑現在のような状況において︑控訴人の申し立てを認容すれば︑
それは直ちに配偶者の生命の終結に導く
ことになるであろう︒そのような要求は人生観的かつ医療倫理的な問題を突きつけるものである︒
はオランダ社会において多様な見解があり︑その問題に対する答えとして適合する︑明瞭な︑ それについて
枠組みには欠けているといわなければならない︒これらの事情を考えると︑裁判官にはここで議論されている問 題について一般的な意味で明言し︑これが呼び出した論争に関して立場を明瞭にする方法はないといわざるを得 医療行為の意味についての判断は︑原則として医学的な判断であるから︑裁判官としては慎重に臨まなければ
ならない︒ある医療行為が有意味かどうかの決定は法的な判断ではなく︑原則として︑医療専門職的な基準に基
当裁判所は︑控訴人が抱えているディレンマ︑ 形で提出されている︒
つま
つまり︑配偶者が置かれた状況が押し付けるもろもろのプレシ それは文書の
17‑3 ‑439 (香法'97)
し て
︑
4 のだからである︒この点︑それが医師にとって単に付随的な業務である場合にはその限りではない︒
控訴人の第一の要求は︑被控訴人は夫人に対する栄養と水分の人工的な投与を中止すべきであり︑治療または看護
の継続はもっぱら不必要な苦しみの防止または緩和に向けられるべきであるというものである︒その要求を容認する
ことの結果は数週間後の夫人の死であることは明瞭である︒その要求の根拠は次の二点である︒
支配的な医学的見解によれば︑栄養と水分の人工的な投与は無意味であると考えられる︒
これらの人工的な投与について夫人の同意は欠如している︑もしくは欠如しているものと考えられるべきである︒
第一の根拠に関しては︑まず︑実際に医療専門職グループの間でスティニッセン夫人のような患者に対する栄養
と水分の人工的な投与が無意味であるとする一般的に支持される見解が存在するかどうかを検討し︑次いで︑原則と
一般的には彼ら自身の医療倫理的規範に一致して行為できる医師たちが︑本件のような場合には︑そのーー̲‑
3
第一の要求についての判断 て︑医師たちによって付き添われ︑
e
訴人の要求が︑現行オランダ法によって︑承認に値するかどうかを検討することである︒d
裁判官にとって唯一の任務は—|'それ以上でもなく、その際︑当裁判所は︑スティニッセン夫人を世話する人々の行為は医療行為なのか︑
という問題に関しては︑地裁と同様に︑本件では︑看護的な側面が非常に重要であるが︑なお医療行為の側面も
もっているという見解である︒なぜなら︑ それ以下でもなく
i
案の具体的な状況を考えて︑控
コントロールされており︑ それとも看護行為なのか
スティニッセン夫人が置かれている状況は人工的な性質のものであっ
それゆえ︑すぐれて医療的な責任を負わされたも
f¥
17‑3‑440 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
6 般から逸脱した││'見解を固執することが許されないものかどうか︑医学的な見解に一致することを要求されるほどその共通見解は強い妥当力をもつものかどうかを検討しなければならばならないという一般的に存在する医学的な見解と非常に矛盾するものである︑
当裁判所は︑文書で提出された控訴人の見解や公表された出版物によっても︑
知の見方に従っても︑このようなケースに関して上述の意味における支配的な医学的な見解が存在するという確信を 的な見解に基づいて治療する資格があり︑彼らは夫人が彼らの世話のもとにある限りは彼女の看護を義務づけられて
いると考えられる︑それは否定されるべきではない︑
に救いを見出さない︒ もつことができない︒
九
スティニッセン夫人が被控訴人の看護に委託されている限りは栄養と水分を人工的に
一般的に支持されている医療倫理的な見解に道を譲らなけれ
と述べているからである︒
またオランダ社会で生きている周
︵同様にその外部においても︶医師たちは彼ら固有の医療倫理
といった非常に異なった見解も存在するのである︒
控訴人は当裁判所に対して専門家の助言を得るよう提案している︒しかし︑地裁と同様に︑当裁判所はそのこと
なぜなら︑現に多様な見解が存在するのであるから︑専門家の誰を選択するかによって︑実際 の調査の結果はなはだしく影響を受けるであろう︒なるほど裁判所は控訴人が引照しているような専門家の見解を独 自に判断しなければならないものであるが︑今日の事情のもとでは控訴人の要求を判断するために依拠すべき支配的 な医学的な見解をその方法に即して正しく確定することは不可能であると考える︒
それどころか︑医療界において
5 供給されなければならないという医療倫理的な見解は︑ ない︒なぜならば︑控訴人は︑
つまり︑人工栄養の投与については︑支配的な
17‑3 ‑441 (香法'97)
な出発点というべきである︒
8
ないと考えられる︒本件において︑医療専門職的な基準に従って医療的に無意味な行為が行われているとしても︑控訴人の要求は承認
の対象とはならないものである︒なぜなら︑自発呼吸のある昏睡患者のケースでは︑積極的な生命終結の選択がなさ
れる場合を除いて︑生命の終焉は栄養と水分の投与の中止によってのみ起こるからである︒栄養と水分の投与の中止
は数週間の後に死が訪れるプロセスに導く︒この方法はー書│患者がこれをどのように体験していようとも
して様々な意見が存在するが)│ーー被控訴人によって体現されているような生きた見解によれば︑本件では容認され
さらに︑控訴人によって指示されたような方法が容認されない場合︑生命終結の積極的な形態が正当化されるかど
うかという問題が生じる︒支配的な法的見解によれば︑患者の明示的で真剣な要請のある場合を除いて︑このような
形態の生命終結の余地はないとされている︒本件ではそのような要請は確認されていないのであるから︑その道は開
かれない︒当裁判所は生命の質という尺度を独立の基準とはみなさない︒
第二の根拠も要求の承認に導かない︒スティニッセン夫人自身がその置かれた状況についてどのように考えてい
るにしても︑それはこの問題の判断にとっての接点に欠ける︒それゆえ︑彼女自身による栄養補給への同意が欠けて
いる︑または欠けていると考えられるべきであるということはできない︒この点で︑配偶者及び後見人としての控訴
人がとっている立場も︑同人の要求が夫人の同意の代替物︵代行判断︶
7
当裁判所は上記にプラスしてなお次のことを加えておく︒1 0
︵
それ
に関
とはみなされないというものであって︑妥当
17‑3‑442 (香法'97)
持 続 的 植 物 状 態 患 者 と 人 工 栄 養 の 問 題 ( 山 下 )
相手方を義務づけるような利益を原告がもっていることを要求した︒この要件が満たされているかどうかは︑職権に
この検討に際しては︑控訴人の要求に関して二つのことが確認されなければならない︒
彼と相手方との間の法律関係において夫人に対する栄養と水分の人工的な投与は医療的に無意味であり︑中止さ
れるべきであるという被控訴人を義務づける確認が求められている限りにおいて︑
ある︒控訴人と被控訴人との間の法律関係における宣言的な要求を承認することは︑栄養と水分の投与を中止すべき
である︑換言すれば︑最初の要求が真なるものとして認められるよう行為すべきであるという結果を伴うものである︒
人工的な投与は医学的に無意味であり︑中止されるべきであるという司法の宣言を要求する限りでは︑彼は認められ
得ない何かを要求していることになる︒このような一般的な宣言を発するには民事訴訟は役に立たないものである︒
12 11
控訴人が︑被控訴人に対して︑特別な意味においてではなく︑ 基づいて裁判官が調査する︒
10
宣言的な要求の承認のために︑地裁は という司法の宣言を求めている︒ 9第二の要求についての判断
一般的な意味において︑夫人に対する栄養と水分の この要求は第一の要求の代替物で
第二の要求でもって︑控訴人は︑夫人に対する栄養と水分の人工的な投与は医療的に無意味であり︑中止され得る
︵少なくとも︶原告と当該訴訟における相手方との間の法律関係に関して
17‑3 ‑443 (香法'97)
控訴人はこのことに関して明瞭でないようである︒なぜなら︑診療契約はこれの継続を中止するつもりであるとい
控訴人は要求の前者の部分を求める必要はない︒なぜなら︑彼は地裁判決に従って︑簡単な解約によって診療契
控訴人はその要求でもって︑第一に不必要な苦しみの防止または緩和の措置以外には夫人の合併症を治療すること 1 7
第四の要求に対する判断 約を終えることができたし︑できるからである︒
16 う理由で失効するからである︒ い趣旨であると理解する︒
15 控訴人の第三の要求は︑まず診療契約は被控訴人と夫人との間にもはや存在しないということ︑次にこの法的効果
を伴う診療契約は配偶者または後見人としての控訴人によって解約することができるという司法の宣言がなされるこ
地裁は要求のこの後者の部分を認めている︒被控訴人はこの判断に関して争わなかった︒それゆえ︑要求のこの
要求の前者の部分に関しては︑当裁判所は夫人またはその法定代理人︵控訴人︶ 部分は当法廷において論議されない︒
14 とを求めている︒ 1 3
第三の要求に対する判断
の側が診療契約の継続を望まな
17‑3 ‑444 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
1 8
ロを求め
てい
る︒
*
*
*
の禁止を求めている︒第二にそのような方針は医療専門職的な基準に一致して認められるべきであるという司法の宣
被控訴人は︑控訴人が夫人に合併症が生じていると申し立てているが︑それを治療することは彼らがその状態を
改善するために決定した方針に属するものであると主張している︒その方針は今日の医療専門職的な基準に一致して
いる︒被控訴人がこれに一致して行為していないという全ての指摘は当たらない︒
以上が判決文の大体である︒主要な判断事項は次の二つである︒その一っは医療専門職グループの間には不可逆的 な昏睡患者に対する栄養と水分の人工的な投与が医療行為として無意味であるということに関して支配的な見解は存 在しないということであって︑専門職的な医療的基準に従って判断すれば医療的に無意味な行為が語られる場合があ るとしても︑水分と栄養の投与の中止は本件では許容されないと判断したことである︒その二つはナーシングホーム
と夫人︵代理人︶との間の診療契約は解約することができるという法律関係の確認である︵民法一三七五条︶︒
このように︑判決は本件において水分と栄養の投与の中止を容認できないとしたのであるが︑事実は別のように展
開した︒というのは︑なるほど高裁はスティニッセンの治療に当たる主治医たちの生きている医学的見解に従えば︑
栄養と水分の投与を含む当該治療の中止を許容することはできないとしたのであるが︑
医療行為に属するものか︑ それは栄養の人工的な投与が
それとも看護行為に属するものかについて支配的な医学的見解が確認できない状況では︑
17 3 ‑445 (香法'97)
のよ
うに
いう
︒
という声も挙げられた︒ ﹁現実に患者を担当する医師たちの間に生きている医療倫理的な判断﹂に委ねなければならないとしたからである︒診療契約の解約によって他の施設に転院したのかどうかなどの詳細は不明であるが︑結局︑らスティニッセン夫人の人工栄養の投与は絶たれることになった︒これに対して﹁オランダ患者協会﹂は人工栄養の供与の再開を求めてアーネム高裁に提訴したが︑
( 8 )
された︒そして︑夫人は栄養補給の中止後︑
事件として司法予備調査が開始されたが︑
一九
九
0
年一月一六日︑患者協会には当事者適格がないとして却下︱二日目の一九九
0
年一月一九日に死亡した︒この件については︑刑事それ以上の訴追は放棄された︒事件についての報道では︑賛否両論が戦わ
され︑患者を餓死させるのはむごすぎるという声と︑それならばむしろ致死性の注射による生命終結の方が人道的だ
スティニッセン判決に関与したアーネム高裁判事でナイメヘン大学の保健法教授のフッベンは判決とは別のところ
で︑彼自身の立場を語っている︒それは判決に対するコメントでほとんど注意を引かなかった側面であるという︒次
オランダにおける昏睡患者の大多数は人工呼吸器を装着されている︒このグループに属する患者に対する医療行為
が無意味であると判断されるときには︑中止の決定は死を導く︒
行われるのであって︑ スティニッセン夫人には自発呼吸があった︒これら
の患者の医療行為がもはや無意味であると結論されるときには︑生命の終焉は栄養と水分の補給の中止によってのみ
それは飢餓と脱水の過程を経て︑数週間の後に到来することになる︒アーネム高裁はこのよう
な中止の過程は担当医たちの専門職としての生きている見方を考慮して認められないと判断した︒同様に︑その許さ
れない死に方ゆえに︑高裁は敢えて︑無意味な医療行為の話があるという問題には深く立ち入らなかった︒本件では
一九
九
0
年一月八日か一四
17‑3‑446 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
る ︒ りヽ
無意味な行為は︑明らかに︑
一 五
﹁ 容 つ
ま
これが無
それが医療行為であるかどうかは
積極的な生命終結の余地がないことはもちろん︑高裁は独立の基準として人間の生命の質を尺度とする余地のないこ
とを確認した︒生命の質の概念を操作することは主観的な判断であって︑
ことは最高に危険な問題である︒
それに基づいて延命行為の終結を決定する
(9 )
それは我々の法秩序において鋭く引かれた一線を超えることを意味する︒
フッベンは判決が生命の質という尺度を独立の基準として使用する余地のないことを確認した点を強調している︒
価値なき生命︑または生命の質の低下を理由に患者に延命行為を継続する利益はないとは考えないという趣旨である︒
そこで次に︑生命の質の判断と離れて人工栄養の補給が中止され得るかが問題となる︒本件の状況において︑人工栄
養の補給は医療的な側面と看護的な側面をもっていることは事実である︒しかし︑
すぐれて医学的な判断であるが︑現在︑これについて支配的な医学的見解を確認することはできない︒医療的に無益・
これを開始または継続する権利または義務はない︒しかし︑
意味な医療行為であると結論されるときには︑事実は飢餓と脱水による死を招く︒
とこ
ろで
︑
よって完全に客観化されるべきであると考える立場の人々であるが︑
得る
のか
︑
フッ
ベン
︑
そうだとしても︑
その﹁許されない死に方﹂ゆえに︑
無意味な医療行為の話には深く立ち入らず︑人工栄養の補給は基本的な看護であるという当該の医療現場で生きてい る見方を尊重して︑本件において人工栄養の投与を中止することは容認できないと判断した︑
というのである︒
フッベン自身の意図は飢餓・脱水死を認めないところにあったが︑﹁現場で生きた見方﹂を強調することで︑
認できない﹂という禁止命題はほとんど緩和されて︑実際の行程は別の見解に従われることになった︑
アビングなど一連の保健法学者は﹁無益または無意味な医療行為﹂ というのであ
の概念は医学的な基準に
無意味さについての完全に客観的な基準はあり とりわけ生死が間題であるところでは︑生命の質についての判断が役割を演じることはないのかといった
17‑3 ‑447 (香法'97)
議論がある︒例えば︑症状を改善しない医薬の投与など生理学的な基準によって客観的に無意味と判断される医療行
為は存在する︒そこで︑死が到来するとしても︑死の原因は本来の病気とされる︒しかし︑飢餓と脱水の過程はフッ
ベン自身の立場では﹁許されない死に方﹂であって︑死因は本来の病気の結果であるとは直ちには言い難く︑生命の
質を操作するという﹁主観的な判断﹂が混入しているのであるから︑中止が可能となる無意味な医療行為とはいえな
いことになる︒しかし︑判決は生命の質という尺度を独立の基準とはみなさないと明言したが︑人工栄養の投与を医
療行為とみる医師の立場も事実上容認することになったため︑必ずしも客観化できない価値判断が役割を演じたとも
みられるのである︒そうだとすると︑これを中止することは︑例えば︑
って義務づけられた扶養︑看護︑
なる
︒ まり︑当然のことながら︑
オランダ刑法ニニ五条︵法律または契約によ
または管理のもとにある人を援助のない状態に置き︑
四五
0
条︵援助を必要とする人に援助を与えず︑ または放置する行為︶またはなすべき援助を怠る行為︶等に抵触する可能性があることに
スティニッセン事件が刑事事件の観点で司法予備調査の対象になったのも︑こうした理由によるであろう︒
アーネム高裁判決は人工栄養の投与の中止問題に最終的な解決策を与えたわけではなかった︒
控訴人の側︵訴訟代理人はオランダにおける自己決定権の運動︑
為であること︑第二にそれは患者の利益ではなく︑ とくに安楽死問題で有名なストリウス弁護士︶は︑
人工栄養の投与の中止を要求するに当たって︑第一に人工栄養の投与は支配的な医学的見解に従って無意味な医療行
その続行について患者は同意していない︑ または
または同意していない
第二点に関しての詳細は判決文からは不明であるが︑自己決定理論からは次のような論理が予定されていたものと
思われる︒すなわち︑医療行為に際しては原則として患者の同意が必要である︒意識障害のあるスティニッセン夫人
のような患者が同意を与えることは不可能だが︑彼女自身が意思能力をもっていたとしたら回復の利益を選択するだ ものと考えられるべきである︑という理由を挙げた︒
一 六
っ
17‑3‑448 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
I I I
ると思われるからである︒ ろうと合理的に想定して治療への同意が推定される︒本来想定された利益はなく︑と構成したものであろう︒
しか
し︑
回復の不可能性が確実になった限りにおいては︑その
その後の治療の継続への同意はない︑
一 七
一 九
もしくはないものと考えられなければならない︑
事実の問題として︑彼女がその利益・不利益を意識的に体験することはないのであるから︑利益があるとかないと か他者が判断すべきではないという見方も成り立つが︑出発点において︑他者の判断において合理的な利益が想定さ れている以上︑
その論理的な帰結として︑
もはやその医療を継続する利益がないとすることは一貫した考え方とも思 われる︒しかし︑もちろん︑困難な問題点は治療継続の利益がないとすることによって患者が死に委ねられるという
こと
であ
る︒
この問題を本件の判決以後のオランダの諸見解がどう扱っているかをみることが本稿の関心事であるが︑その前に︑
イギリスのアンソニー・ブランド事件の諸判決における見方を参照しておきたい︒
周知
のよ
うに
︑
プランド事件
アンソニー・ブランドは一九八九年四月のサッカー場の事故によって持続的植物状態に陥り︑
九二年九月までの三年半その状態の改善はみられなかった︒脳幹機能により自発呼吸と循環は維持されていたが︑高
次脳はほとんど液状化しており︑ ほぽ共通した思考ラインが存在す
チューブ栄養の補給を受けていた︒意識の欠如は決定的であり︑例えば︑苦痛感覚 を欠如するために麻酔なしで外科手術が行われたほどである︒このように︑意識の回復の見込みはないとして両親と
17‑3 ‑449 (香法'97)
医師によって鼻腔チューブ栄養の差し控えが要求されたものであった︒
人間の生命が特別な価値をもつものであるという信念は全ての文明社会の根底にあるものであるが︑ブランド事件
の裁判官たちは︑﹁生命の神聖﹂
( s a n c t i t
o f y
l i
f e )
の名
にお
いて
︑ その中止を認める判断を下した︒生命の神聖の原理は何によって限定されるのか︒それは自己決定権
によってである︑とされる︒﹁生命維持治療を含む治療に対する拒否権はいまやイギリス法と医療倫理の強固な構成部
分であるから︑生命の神聖の原理は自己決定権に譲歩しなければならない﹂︒こうして︑貴族院のゴフ裁判官によれば︑
﹁自己決定権は患者が無能力であるという事実によってもさえぎられるものではなく︑それは常に存在しなければな
( 1 0 )
らない﹂とさえいわれる︒もちろん︑ブランドは自己決定ができない存在である︒しかし︑自己決定の重要性はその
決定の恣意性が尊重されるという趣旨ではなく︑
価値が問題であるというのである︒
よってさえぎられてはならないと︒ここでは品位や尊厳に一定の客観的な準拠枠が与えられている︒それは︑例えば︑
社会が死者に対しても法によってその客観的な基準における名誉を保護している仕方と同様な考え方であろう︒
り︑客観的な意味で︑ある水準の限度を超えて︑
とするのである︒
こうして︑高次脳が液状化したブランドのような患者が︑直接的な意味でその利益・不利益について判断できない
ことはむろんであるが︑
と矛盾・抵触すると︒ の原理には例外があるとして︑患者の最善の利益︑人間的な尊厳
その決定を尊重することによって確保される人間的な品位や尊厳の
その価値は全ての人に対して社会が承認したものであるから無能力という事実に
その品位を傷つけるような医療的な侵襲の持続は正当化されない︑
そのような状態を持続することは自己決定権思想が追求してきた人間的な尊厳などの諸価値
控訴審のホフマン裁判官はその趣旨を次のように展開している︒
一 八
つま
17‑3‑450 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
私見によれば︑ブランドのようなケースで︑法がなすべき選択は︑人々に対して次のような確信を与えるものでな ければならない︒すなわち︑裁判所というものは生命に対して満腔の敬意を払うものであるが︑
命が現実的な意味においてほとんど空虚なものになり︑人間的な尊厳や選択の自由のようなその他の重要な価値を犠 牲にしてしまうような時点までも生命の神聖の原理を追求するものではないということを︑
を死に委ねることを認める判決において十分な説明をもって人々にこのような確信を得させることができるものと信
を意味するものではない︒ ﹁生命は生きるに値しない﹂
その生命は生きるに値するとか︑値しないとかいった問題はここではあり得ないことであ
る︒なぜなら︑あるがままの現実を直視するならば︑
の暮らしを生きる仕方︑例えば︑元気にとか︑
︑ ︑
とカ
一 九
だからといって︑生 と考えたから彼は死んでもよいと判断したこと
ブランドはその生活を全く生きていないからである︒人々がそ 具合が悪くてとか︑勇気や忍耐をもってとか︑幸せにとか︑悲しくて そうしたことのどれひとつとして︑彼との関係ではどのような意味ももっていないのである︒これは︑意識は あるが重度の障害をもった人のケースとは種類の異なる問題である︒本件の判決に反対する理由として優生学の亡霊 生命の神聖とはアウトサイダーからの不可侵性の保障を意味する︒正当防衛などの例外はあるが︑人間の生命は当
の人がその侵害に同意していてさえ不可侵である︒自殺は犯罪ではないが︑他人の自殺の割助が犯罪になるのはその
理由である︒
たとえブランドが同意していたとしても我々には彼の生命を致死量の注射によって終える資格はない︒
他方︑我々は︑
あれこれの仕方で︑生命が終焉することを知っている︒我々は延命のために可能な全てのことを行
う無限定の義務をアウトサイダーに課すものではない︒不可侵性の原理は︑ある状況ではある人に死を容認すること を持ち出すことはばかげている︒ じ
る︒
しか
し︑
このことは裁判所が彼の
である︒私は︑ブランド
17~3 451 (香法'97)
めの積極的な干渉を不当な外力として否定させるというのである︒ が正しいという見方を受け入れるものであるが︑他方で︑これは︑誰かの死を引き起こす意図をもって外的な力を導入できないことを無制限に守る理由をも与えている︒私はこの区別を作為または不作為によってすべきだとは思わな
( 1 1 )
い︒区別の基準は本来の原因を作用させる作為または不作為と死を招致する外的な力の導入との間にある︒
ホフマン裁判官の見解に代表されるような考え方は︑生命の神聖さや生命の質を論じることのタブーに立ち入って
いる︒しかし︑例えば︑肉体的または精神的に障害のある人の生命の質が低いので﹁生きるに値しない﹂とか︑﹁無益
な生命﹂は社会から排除されるべきであるとかいうのではなく︑
な侵襲を継続することこそが人間的な冒漬︵利益の侵害︶ まさにブランドのような例外的なケースでは医療的
ではないかというのである︒
いう消極的な評価ではなく︑干渉の継続こそがかえって人間の生命の保護価値性を侵害することになるというレトリ
ックなのである︒また生命の神聖の原理はアウトサイダーからの不可侵性を保障することにあるとして積極的な殺害
との区別を強調すると共に︑不可侵性の原理は逆にきわめて例外的な状況では単に生物学的なレベルで生存させるた
﹁生命の救助不可能性﹂
イギリスにおいても︑ ではなく︑﹁意識の回復不可能性﹂を延命治療の制限・中止の基底に置く考え方に対しては︑
どのような種類の生命もそれ自体が利益であるとするバイタリストからの反論もあり︑当然の
ことながら﹁滑り易い坂道﹂の現象をもたらす危険も指摘されているが︑一方で歯止め策を講じつつ︑
( 1 2 )
的なケースについてコモン・センスと両立する解法を探ろうとするものである︒
以上を呼び水として︑次にオランダの議論状況にアプローチする︒ きわめて例外 つまり︑生きるに値しないと 二
0
17‑3‑452 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
予 後
︑
植物状態患者の実態
︵神経︶外科的な介入がなされる︒事故の後の最初の オランダ医師会の中間報告書︑最終報告書及びオランダ保健審議会の勧告書は︑それぞれ︑植物患者の定義︑診断︑
回復の可能性︑死亡率などオランダ国内のデータと国際的なデータを参照して︑情報を整理し︑方針提言の土
( 1 3 )
︵1 4 )
︵1 5
)
台を与えている︒すでに周知の知見も含まれようが︑要約的に現状を窺うこととする︒
植物状態の病歴は里大な事故で始まり︑長期にわたる深昏睡が生じる︒これらの患者は︑痛みの刺激に対して開眼
こと
ばを
発せ
ず︑
どのような指示にも反応しない︒屈伸痙攣︑呼吸異常や呼吸障害︑瞳孔機能の障害︑発汗︑
過度換気︑不穏の発作など脳幹障害の徴候がみられる︒このような昏睡が六時間以上も続くと重大な脳障害が語られ
る︒回復は原理的には可能だが︑昏睡が長引くにつれ︑予後はより悪化する︒
事故の後に何日も昏睡状態にあった患者の回復は時々非常に不十分である︒脳幹機能は回復する
非常
に長
く︑
︵覚醒と睡眠のリ
︵皮質︶機能の回復は起こらない︒この状態は一時的な場合もあるが︑あるケースでは
そこでは持続的な植物状態が語られる︒基碇にある原因は非常に里大な脳損傷なので︑結果として意識
が回復する場合にも重大な精神的及び身体的な障害を伴う︒
これらの患者の医療は初期には事故の結果に向けられる︒しばしば頻繁に起こる肺異常または合併症の防止のため
に︑人工呼吸器が装着される︒しばしばショック療法︑時々は ズム︑開眼︶が︑
より高次の
せ ず
︑ 1
概
観
I V
17‑3 453 (香法'97)
類によるので正確に示すことはできない︒ 週には集中治療室に入るが︑集中治療は徐々に軽減され︑人工呼吸器はとめられる︒患者は意識を回復することなしに﹁安定状態﹂に入り︑徐々に植物的な症状が明らかになっていく︒その他の改善のない自発的な開眼は医師にとっては悪い徴候︵植物状態の成立︶だが︑患者の家族には回復の希望の徴候である︒安定段階では患者のケアはほとん
ど栄養と水分の投与からなる︒予後は陰鬱だが︑家族は脳幹の不規制を知覚が再開した徴候と解釈し︑開眼を意識の
兆しと解釈し︑握り反射を握手と解釈するなど高い期待と緊張が現れる︒徐々に持続的植物状態が成立する︒患者に
対する家族のなお強い情緒的な結びつきにもかかわらず︑最終的には回復への希望は消失する︒強いアンビバレント
な感情がその後の家族の生活を支配する︒この状況は﹁死よりももっと悪い﹂
( w o r s e t h a n d e a t h )
状況と解釈される︒
昏睡と持続的植物状態
昏睡状態の重要な特徴は︑患者が︑開眼すること︑話すこと︑指示に従うことができないことにある︒同時に脳幹
機能の不調整︑呼吸障害︑体温の異常︑さらに痛みやその他の刺激に対する屈伸痙攣などの異常な反応がある︒
昏睡患者が死なず︑意識を回復する場合には︑昏睡成立の数日または数週間後に開眼する︒患者が再び覚醒と睡眠
のリズムを安定的に発展させている場合には︑もはや昏睡ではなく︑植物状態が語られる︒
昏睡または植物状態が長引くにつれ︑長期昏睡または持続的な植物状態が語られる︒それは患者が大きな蓋然性を
もってもはや意識を回復しないことが徐々に明らかになる段階であり︑その結果︑
身体的・精神的な障害をもち︑完全な依存状態になる︒この段階がいつ訪れるかは︑患者の状態︑年齢及び昏睡の種
このような不良な予後は︑若い患者よりはより年配の患者に︑ 2
いずれにせよ患者は非常に重大な
また外傷よりは非外傷性の原因で昏睡に陥った患者
17‑3 ‑454 (香法'97)
持 続 的 植 物 状 態 患 者 と 人 工 栄 養 の 問 題 ( 山 下 )
も︑彼らは重大な障害をもち︑完全な依存状態になる︒安定段階が訪れたとき︑患者の諸特徴から一般的な予後を個 別的に判定できる︒患者の大多数は短期には死なない︒死ぬのは合併症の結果である︒これらのことから次のような
脳震盪などによる意識の欠如は︑意識喪失の︑軽い︑可逆的な形態である︒
昏睡は意識喪失の重い形態であり︑患者は︑開眼すること︑話すこと︑指示に従うことができない︒患者は呼吸
障害や体温の規制障害など脳幹機能の規制喪失の状態を示す︒
植物状態も意識喪失の重い形態であり︑患者は自発的に開眼するが︑意識的に知覚することはできない︒外界と
のコンタクトはない︒うめくことはあっても決して話さず︑心理的な機能を示す反応はない︒
安定段階の長期昏睡患者の意識回復の見通しは常に少ない︒たとえ回復したとしても完全な依存状態である︒同
定義が導かれる︒ の状態にあった患者は︑ 患者は急性期には目を閉じている︒この段階は数週間以上は続かない︒この段階では生命保持のため︑人工呼吸器︑栄養と抗生物質の静脈内投与などの集中治療が提供される︒徐々に人工呼吸器はとめられ︑抗生物質も必要でなくなり︑チュープ栄養の投与が開始される︒昏睡では目が閉じられ︑植物状態では開閉される︒後者では︑関係者の多くは回復の希望をもって︑数週間または数ヵ月間︑患者との情緒的つながりは非常に大きい︒患者の年齢と昏睡の原因次第でこの段階は約一\三ヵ月間持続する︒徐々に安定段階︑持続的植物状態が出現する︒昏睡の開始後三ヵ月間こ
3経
過
に︑より早く確定される︒外傷性の患者でも一定の症状に基づいて数日内に不都合な予後が確定されるケースもある︒
一年以内に外傷では約三五%が︑非外傷では約︱‑%が再び意識を回復する︒そうだとして
三
17‑3 ‑455 (香法'97)
植物状態の診断は臨床的な観察に基づいてなされる︒高次の機能を担う諸脳の部分︵知覚︑意思︑意識︶
または植物機能を担う部分︵呼吸︑血圧規制︑睡眠と覚醒のリズム及び不随意の動き︶ 5診
い る
︒ 4現
断 状
変容︑失語症︑不全麻痺などの変化がある︒ ﹁依存﹂とは︑非常に重大な精神的または身体的な障害のことであり︑
助に頼る状態である︒彼らは自己管理ができず︑璽大な神経心理的な異常と行動上の異常がある︒他方︑﹁独立﹂とは︑
飲食する︑洗顔する︑座る︑
トイレに行く︑歩行するなどの障害がないことを意味する︒彼らは自己管理ができ︑公 共輸送機関で旅行できる︒ある人々は労働し︑時には以前の仕事につくことができる︒記憶力と集中力の障害︑人格
オランダでは年間約五
00
人が事故の結果として六時間以上続く昏睡に陥っており︑
ぼ同数の昏睡患者がいるものと推定されている︒長期昏睡または植物状態になる患者の総数は正確には知られていな
い が
︑
Si
vi
s 登録によれば︑一九九五年には長期昏睡の七
0
人の患者がこの登録に加盟しているナーシングホームに受
( 1 6 )
け入れられた(八八•五%)。保健審議会の見積もりでは一九九四年において一
00人から二00人の患者数とされて じことが持続的植物状態に当てはまる︒ほとんどの日常用務を果たすために他人の援
また非外傷性の原因によるほ の機能障害が調査される︒診
ニ四
と自律性
17‑3‑456 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
断の確実な臨床的な量的澗定はグラスゴー昏睡スケールによって可能である︒
脳波による付加的な診断はほとんど情報をもたらさない︒
C
T
スキャンとMRI
スキャンでは側面の変容が実証で
きるだけである︵脳の空洞と脳組織の喪失︶︒
ば ︑
PVS
患者の大脳のグルコース代謝は五
0
%から七五%まで減少していることが明らかである︒最近の文献は︑昏睡三日目の皮質の反応の不在が非外傷性の昏睡患者の非常に悪い予後の信頼できる判定基準であるとしている︒
植物状態は︑様々な診断によって︑脳死︑閉じ込め症候群及び無動無言症から区別される︒脳死では脳幹が捐なわ れている︒閉じ込め症候群では脳幹の中央部に損傷がある︒意識は完全に無傷だが︑患者は顔面の筋肉まで麻痺して
い る
︒
二 五
PET
スキャンによる診断は首尾一貫した異常を解明する︒
話すことも︑動くこともできない︒彼らには脳の前頭皮質または副皮質の損傷があるが︑ それによれ
しかし︑目の垂直な動きだけでコミュニケートできる︒無動無言症の患者は自己及び周辺を意識しているが︑
アイ・コンタクトはある︒
植物患者は事故によって昏睡に陥った患者と非外傷の原因で昏睡に陥った患者とではその予後が区別され︑また昏
睡期間によっても区別される︒以下では六時間以上も昏睡状態にあり︑なお引き続いて一ヵ月以上昏睡状態にある患
者グループの予後が語られる︒若干の個所ではより長く植物状態にある患者グループの情報が補充される︒
( 1 8 )
アンドリュースらは集中治療プログラムにおいて励ましになる結果が入手されたと述べているが︑詳細な考察によ れば︑正しく
p>S
を診断された患者グループのうち少数だけがコミュニケーションのある形態を示すことができる︒( 1 9 )
しかし︑常に重大な残存する障害の話がある︒六ヵ月から一年の間
p>S
の患者の予後は残念ながら依然として悪い︒ 6予後
17‑3 ‑457 (香法'97)
かっ
た︒
かわらず誰も独立しなかった︒ 外傷性の患者の脳損傷後の予後
事故の結果として六時間以上昏睡にあった患者のうち一ヵ月後に約五
0
%が意識を取り戻した︒四0
%は死亡した︒
一年後にはこれら後者の四五%が死亡した︒これらの数字は重大な外
( 2 0 )
傷性の脳損傷をもった約三︑
000
人の患者に関する調査結果である︒外傷性の昏睡患者のうち一ヵ月後になお約一
0
%は昏睡状態または植物状態である︒M u
l t
i ‑
S o
c i
e t
T y
a s
k
F o
r c
e 研
一年以内に意識を取り戻した患者の五二%のうち︑二八%は重大な障害をもち︑
七%は適切な回復を示した︒このグループの全ての患者は外傷後の最初の三ヵ月から六ヵ月で回復の兆しを示した︒
( M
u l
t i
' S
o c
i e
t y
T
a s
k
F o
r c
e 研究の
PVS
患者の四三四人のうち七人︶︒
外傷性の患者グループについてはさらに次のことが明らかである︒
一ヵ月以上昏睡または植物状態の場合︑約四
0
%から五0
%が再び意識を取り戻す︒しかし︑大多数は完全に依四
0
歳以上の患者が一ヵ月後になお昏睡または植物状態にある場合には︑再び独立しなかった︒三ヵ月から六ヵ月の間︑昏睡または植物状態にあった人のうち一
O
S 0
二%は再び意識を回復したが︑年齢にか一年後になお昏睡または植物状態にある場合には︑若干のみが意識を回復したが︑依存状態だった︒
急性期における集中治療の期間と種類に関わりなく︑様々なセンターの間で長期の予後に関して明快な相違はな 存的であり︑約一
0
%だけが独立状態になる︒ これらの患者の四人は重大な障害︑一人
は中
位の
障害
︑
一人はデータが不明だった︒
その
後︑
なお若干の患者が意識を回復した
究に
よれ
ば︑
一七%は中位の障害︑
1 0
%はなお昏睡状態または植物状態だった︒ 6•1
二六
17‑3‑458 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
なった患者で一年後に独立するのは一
0
%以下である︒
︵と
くに
七
0
歳以上の患者の場合︶昏睡開始後の数日で高い蓋然性をもって死亡するか︑植物状態に 患者の年齢は多くのケースで死亡するか意識を回復するかの統計的チャンスの個別的な判定にとって重要なファク
ターである︒同時に自発的な眼球運動の有無︑光に対する自発的な眼球運動と瞳孔反射の有無も個別的な予後の判定 両患者グループの間の相違は損傷の様々な種類によるばかりでなく︑患者の年齢にもよる
六時間以上続く非外傷性の昏睡のほとんどの原因は︑脳出血︑脳血栓症︑
溺れ︑呼吸停止など︶と代謝障害︵急性の肝臓障害や低血糖症など︶
肉眼でみえる広範な脳損傷を引き起こした疾病︵出血︑血栓︶
代謝障害の結果としての昏睡の予後はそれほど悪くない︒患者の約三分の一は一年後には独立する︒
持続性の植物状態はとくに脳の酸素欠乏後により多くみられる︒
非外傷性の患者の数字は外傷性のグループよりも明らかに不利である︒最初の月に八五%以上が死亡する
F o
r c
e ,
1994)︒意識の回復は一般的にはあり得ず︑
常に
若い
︶︒
6.2
非外傷性の患者の脳損傷後の予後 にとって決定的である︒ とどまるかが判定された︒
1
0
%では
であ
る︒
二七
クモ膜下出血︑脳の酸素欠乏︵心停止︑
は最悪の予後を呈する︒このような疾病から昏睡に
( T
a s
k
一年後で最大限一五%である︒
M u
l t
i
ーS
o c
i e
t y
T a
s k
F
o r
c e
研究で ︵外傷患者は一般的に非
17‑3 ‑459 (香法'97)
らゆる努力にもかかわらず︑なお死亡したり︑ に中位または重度の異常を伴っている︒ ャンスが減少することは明らかである︒ は︑昏睡の開始後六ヵ月から︱ニヵ月の間ではどの患者も意識を回復しなかった︒態にある患者のうち昏睡開始の一年後に五三%から八三%が死亡した︒四%から三二%はなお植物状態だった︒
一年内に意識を取り戻した一五%のうち大部分の︱‑%は重大な障害が
あった︒相当な回復を示した患者の大部分は最初の月に改善している︒
︵相対的に︶良好な見通しを提供するこ 非外傷性の患者グループでは一週間後に自発的な眼球運動と痛みの刺激に対する腕の動作反射に基づいて生存でき非外傷性の患者では昏睡または植物状態が長引くにつれ︑事故による患者の場合よりもより早く独立的な回復のチ世界的規模で昏睡または長期植物状態から回復した患者に関する若干のケース記録がある︒それによれば回復は常およそ以上のような事実認識に基づいて︑次のような道徳的な課題が設定されるとする︒すなわち︑近年の医療技術的な発展は昏睡に陥った患者の治療可能性を非常に広げた︒とくに人工呼吸器やその他の集中治療は人工的に生かせる可能性を広げ︑相当多くの患者が救命されるようになった︒これらの患者が必ずしも
完全に回復するわけではないが︑この新たな達成によって患者のある部分に
とが可能になった︒しかし︑他の部分にとっては今日の医療的な可能性もなお十分とはいえない︒これらの患者はあ
一定の期間の後︑植物状態に陥ったりする︒これらの大多数の患者は︑
結局のところ︑意識を回復することなしに死亡する︒死の過程はこれらのケースでは長く︑時には非常に長く待たれ る患者と死亡する患者をさらに区別することが可能である︒ 意識を回復しても機能の回復は常に悪い︒ 一ヵ月後になお昏睡または植物状
ニ八
17‑3 ‑‑460 (香法'97)
持続的植物状態患者と人工栄養の問題(山下)
るだけである︒また︑これらの患者がたとえ意識を回復したとしても︑
二 九
へと改めてい
その予後は非常に悪い︒これらの患者には完 悪い予後にもかかわらずこれらの患者の治療を続けることが医学の主要な目標と一致するかという問題が提起され
これらの患者を死に委ねることが人道的かという良心問題が成立する︑
と
゜
以下では︑まず︑医師会の報告書と保健審議会の報告書から︑本稿のテーマに即した部分を紹介することになるが︑
医師会の中間報告書と最終報告書とでは︑すでに述べたように基本ラインが同じなので︑前者については省略する︒
ただ若干の相違点を挙げておくと︑前者では︑昏睡患者または植物患者には意識がないとはいえ︑
苦しみがあるという可能性を留保しておかなければならないとしていた︒ なお苦しみを感じ
ているという家族など関係者の実感や証言または医療者の観察をむげに否定すべきでないとすれば︑安全のために︑
その結果︑医療中止の後︑苦しみが感じら
れているようであれば︑非常に例外的なケースでは理論的には安楽死薬の投与も是認されるだろうという立場を採用 するものであった︒もう一点は︑意識の回復の不可能性の一応の目安として︑非外傷性の原因による昏睡患者︵植物 では三ヵ月︑外傷性の原因による患者では六ヵ月の指針が掲げられていたことである︒最終報告書では︑持続 的植物患者には苦しみはないという国内的及び国際的な研究成果を受け入れ︑安楽死薬の投与を認めない立場に立っ ている︒また回復の不可能性の目安についても︑安全性を考慮して︑非外傷性の原因による植物患者ではその限界を
六ヵ月︑外傷性の原因による患者では︱ニヵ月︵イギリスでは一律に︱ニヵ月としているようである︶
る︒もちろん︑それは統計的な資料に基づく目安であって︑個別患者の具体的なケースごとに
三再四︑事実の確認が必要だとしている︒そのほかに︑﹁疑わしきは控えよ﹂﹁疑わしきは行え﹂などの医療原則につ 患
者︶
る︒これに否定的に答えられるならば︑ 全な依存状態︑重大な身体的及び精神的な障害が成立する︒
︵年齢︑病状など︶再
17‑3 ‑461 (香法'97)
いずれにせよ最終報告書の記述に従うことで十分と思われる︒
医師会の中間報告書は︑当然のことながら保健審議会の勧告にある影響を与えており︑後者もまた医師会の最終報
告書に影響を及ぼしていることは明らかである︒しかし︑
っている︒以下では保健審議会の勧告書(‑九九四年︶︑医師会の最終報告書(‑九九七年︶の順番で︑必要と思われ
る関係部分を紹介する︒記述の順序︑項番の付け方︑表現方法︵要約・省略・補足部分も含め︶などについては︑も
との意味を損なわないと考えられる限りで︑記述の便宜上︑改変している︒
保健審議会の勧告
それぞれの参加メンバーは異なっており︑公表時期も異な
植物患者の治療方針は︑治療段階︑成り行きを見守る段階︑意識の回復のチャンスが取るに足りないほど小さくな
った段階に区分される︒治療段階︑
吸︑血液循環︶
の安定と意識の回復に向けて十分な治療がなされる︒昏睡が植物状態に移行し︑ある期間続くときに
は︑その状態がなお改善されるかどうかを見守る段階である︒この段階の治療方針は︑通常のケア︑理学療法︑床擦
れ予防に置かれる︒しばしば薬物治療も必要である︒ほとんどの患者は見守り段階でナーシングホームヘ移されてい
る︒それは事故の後︑平均三ヵ月でなされている︒見守り段階で︑援助提供者が患者の意識の回復のチャンスについ
て矛盾する情報を与え︑近親者を混乱させている事実がある︒援助提供者は敗北主義に陥ることなく︑このチャンス
についてできるだけ現実的な説明を試みて︑偽りの期待を目覚めさせてはならない︒混乱の防止のためにコンタクト・ ー
治療
方針
の一
l一
段階
V
つまり︑人が昏睡に陥った事故の直後には︑通例︑病院において生命維持機能︵呼 いての比重の置き方の違いなどもあるが︑
三〇
17‑3‑462 (香法'97)