• 検索結果がありません。

〈判例研究〉自動車損害賠償法による保有者の賠償責任と民法による使用者の賠償責任との関係

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "〈判例研究〉自動車損害賠償法による保有者の賠償責任と民法による使用者の賠償責任との関係"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

③﹁見直される金﹂産経新聞三四年三月五日。 ④殆んどの通貨は上下合計3%の伸縮を許す。。︷...O。ロ<2叶竿  び一=蔓讐ミ。蒔曽、.円げ。国ooコ。目♂計。℃■o罫噛噂.田・       邑 ⑤ 国.芝●℃9。一ωF日げ①Z①妻OO己ω8コ匙oa層一〇田も.㎝噛 ⑥円上峯。でωε。置↓冨H導①∋餌ユ8巴○。邸εωo︷浮Φ∪♀  =9ひ国。。。。9。岩ヨH暮①ヨ⇔けδロ旺国轟琴PZ9悼cQ。拙稿F・H  ・クロプストック﹁弗の国際的地位﹂彦根論叢 四四 参照。 ⑦一九五六年は約十七億ドル、五七年は約十六億ドルである。  ω$菖ω江。巴︾び。。自9。90︷爵①d昆8餌Gっ邸け窃=8c。響憲■。。ひρ  cQ刈9 ⑧<﹃﹂≦.QQ$日目Φ=”目土①国舜は8亀竃8Φ貯q勺。=。ざ。や  9梓ごや悼綬■

判 例研 究

︻判例研究︼

自動車損害賠償法による保有者

の賠償責任と民法による使用者

の賠償責任との関係

西

 昭和三三年一一月五日高松地方裁判所丸亀支部判決・昭和三一年 ︵ワ︶一二四号慰籍料並損害賠償請求事件 [事実]

原告の主張 原告X・Y・Zはそれぞれ訴外Kの妻・次男・母

 である。被告Aタクシーは一般乗用旅客自動車運送業を営む者、  同じく被告Bは数年間右会社に運転者として傭われていた者であ  る。被告Bは昭和三一年一二月一四日午前一時ごろ被告会社所有  の事業用普通乗用自動車を運転して被告会社の事業を執行中国道  一一号線の路上において、折から同処に自転車に乗って前方から  進行してきた訴外Kとその自転車に、右自動車の左前部フェイン  ダー附近を衝突させて、同人に頭蓋骨骨折脳挫傷、顔面及び左下  腿部挫創などの傷害を負わせそのこ意識こんだくのまま同月二五  日F医院で死亡せしめるに至った。被告Bは、衝突前、約三〇メ  ートル前方から右側通行をしてくる被害者Kをみとめ、かつ附近 四七 昌

(2)

判例研究

 は路面に砂利が敷いてあって自転車などが平衡を失ないやすいと  ころであることを知っていたが、警笛を一回吹鳴しただけで自ら  安全にすれちがいができるような適度の間隔をとろうとせず、除  行もせず、慢然と時速三五キロ位で進行し、両者の距離が五・六  メートルに接近してはじめてハンドルを多少右にきったため、時  すでにおそく被害者Kが自動車の進路上に倒れかかってきたのを  避けることができなかったもので、右事故は被告Bが自動車運転  者としての注意義務に違反したことに起因するから、同人︵B︶  およびその使用者たる被告A会社はこれによって被告者Kがこう  むつた財産上の損害を賠償し、また原告X・Y・Zがこうむつた  精神上の苦痛にたいする慰籍料を支払う義務があるとし、ホフマ  ン式計算法によって年五分の割合による中間利息を控除した一二  一万一、〇七六円の損害賠償と、妻Xに対し三〇万円、次男Yな  らびに母Zに対しそれぞれ二〇万円の慰籍料を支払うべき旨請求  し、被告らの主張に対し、被害者は幅員一一メートルもある広い  道路の端から一メートルぐらいのところを交通まれな時間に通っ  ていたのであるから被害者に過失はない。また原告らは妻X名義  で自動車損害賠償保障法により三〇万円を受取っているが、これ       し  ら  ヘ  へ  は民法上の損害賠償請求権とはかかわりない特別法規にもとつく       ヤ   あ   る   へ   も   う   ヘ   ヤ  ものであるから、請求額から差引くべきでないと主張した。 被告の主張  右の事故は、被害者が飲酒泥酔して自転車に乗.  り、対面通行に違反し、警笛にもかかわらず避黙せず、その上突  然自動車の前に倒かれかってきたために発生したもので、被害者 四八 の重大な過失が原因であ.るから、被告Bに過失はなく、自動車に 構造上の欠陥ならびに機能上の障害はなかった、かつ被告Aは被 告Bの雇入れおよびその事業の監督について注意をおこたらなか った。仮りに被告に損害賠償の義務があるとしても、被害者の過 失は賠償額の算定にあたって斜酎さるべきであるし、自動車損害        も   ヘ   へ   も   し   も   カ   ぬ 賠償保障法にもとづいて交付された三〇万円は賠償額から控除す  も  へ べきであると主張した。         ヘ  ヨ [主文] 被告らは各自、原告Xに対し一五万九、〇四一円を、Y に対し二一万九、七二六円を、同Zに対し四万一、二三三円を、 それぞれにつき昭和三一年一一月一五日以降各完済までの間の年 五分の割合による金員を附加して支払え。 [理由] 判決は右事案に対し次のようにのべて被告Bの過失をみ とめた。 ﹁被告Bは自動車運転者として、右のような場合に更に 速力を減じて安全にすれちがい終るまで対向者の姿勢態度に終始 注意し、いつでも急停車をなしうる措置を講じ、あるいはまた道 路中央の砂利の部も自動車をもってすれば通行しえたから自らす みやかに、より右に避譲するなど相手方自転車との間に相当の間 隔をおいて通過するなどの配慮をし、被害者が急遽狼狽し或は路 面の砂利に平衡を失うなどのため異常な行動に出ることがあって も、これと接触衝突をきたさないよう危険の発生を未然に防止す る用意をする注意義務があるのにかかわらずこれを怠り、因って 本件事故を発生させたもので、自己の過失により被害者Kを死亡 させたものといわなければならない。よって同被告は不法行為に

(3)

より、被告会社は該事故に先立つ昭和三〇年=一月一日施行され た自動車損害賠償保障法第三条により、各自被害者Kが右事故に 因りこうむった損害、および原告らがこうむつた精神上の損害を 賠償する義務がある﹂。 しかし被害者にも過失があり、事故発生 の重大な一因をなしている。けれども、このような事情は被告ら の賠償責任を免れさせるものではなく、損害賠償の額を定めるの につき斜賦すべきものであるとしてつぎのごとく損害賠償額をき めた。被害者Kは尋常小学校を卒業しただけ。自己名義の田四反 位、畑一反三畝。昭和一六年頃より現在の会社︵日本通運株式会 社︶に勤務し、平均一ケ月晶万一千円程度の墨入と、自己所有農 地から自己の労働による星斗としては.年間で五〇乃至六〇日程度 の労働賃金に相当する程度のものをあげている。Kの家族は原告 らX・Y・Zを加えた,四世帯でいずれも原告を除いては独立の牧 野がない。Kの実質的消費支出は米麦野菜類代および修繕費の頭 割按分額による住宅関係経費などを加えて一ケ月につき約五千五 ・六百円程度とする。結局Kが衷失したというべき得べかりし純 利益の額はその死亡時において一ケ月につき六、四〇〇円程度で ﹁かっこれを下らず、またこの額は爾後においても変りがないも のとみとめる﹂。 昭和三〇年における満三三才の日本人男子の平 均余命は統計上三五年余であるが﹁同人は前記の学歴および職歴 などから主として筋肉労働に従事する外はないと考えられる﹂か ら満六〇才までの余命とする。以上から﹁同人の死亡の際を現在 時として、ホフマン式計算法により毎月未の右利益につき昭和五

判例研究

七年二月末まで毎月分賦に逐一年五分の割合による中間利息を控 除計算すると、前記の失った得べかりし利益全部を加害者側に一 時に賠償させる場合としての金額は、原告らの本訴における見解 を上まわる金一二八万一、四〇〇円余となる。しかし本件事故の 発生については、被害者にも過失があり、その程度は加害者のそ れよりも重く、両者の過失に関する前記認定の各事実を比較する とその度合はほぼ加害者四、被害者六の程度と解されるから、こ の点を掛目してKの被告らに対する得べかりし利益自失による損 害賠償の額は金五一万円が相当﹂である、とした。慰籍料につい ては﹁被害者の過失の占める割合が﹂大きいから、その額は苦痛 の程度に比して著しく低額とするの外ないとし妻Xについては一 〇万円、次男Yについては幼少であるため五万円、母Zについて は七万円とした。自動車損害賠償保障法による三〇万円について は﹁同法は自動車による人の死傷事故が起きた場合につき被害者 側︵本人或は父母妻子など︶保護の観点からその第三条に損害賠 償責任に関する民法の特別法を設け他方損害賠償を直接且現実に 保障する方法として自動車損害賠償責任保険制度などを創設し、 潮位保険制度において、被害者側が加害者側から損害賠償を受け 次に賠償した加害者側が保険会社から保険金を受取るという方法 の他に被害者加害者の利便のため前記一六条により被害者︵前記 のとおり従来民法上是認されたすべての賠償請求権者をふくむ︶ が保険会社に直接損害賠償額の支払を請求しうる途をひらいたも       も   し   へ   も   ヤ   も   も   も   ゐ   う   む   も   し   カ ので、第三.条の適用がある範囲でこれと別に民法の一般規定によ 四九

(4)

      判例研究

 う   あ   セ   も   ね   も   セ   し   も   へ   う   る   へ   ゐ   も   ミ   も   も  る損害賠.償請求権が並存することはなく、また保険会社による前  記の支払は損害賠償と二重に或いはその範囲を超えて与えられる  ものではなく、したがって右の支払を受けた被害者はその限度で     も  も   ぬ  財産上精神上の各損害賠償請求権をうしなうというべきであって  なお損害賠償請求権を有する者の間に優先劣後の別を設けず、本  件のように死亡者の妻子および母が同一世帯を営んでいるような  場合には反対事実の立証がない限り、右請求および支払の手続は  原告Xを原告らの代表とする意味合いでなされたものとみとめら  れるから右支払の効力を弁済充当の規定を類推して、各自にそれ  ぞれの損賠償額によって按分した額でみとめられるのが相当であ  るしとした。 [研究]       る  一、判決の法技術的論理はともかく、法律専門家といわれる人以 も 外の人は、︷人の人間が自動車にひき殺された場合の賠償額におど        ヤ  リ  う  ぬ  へ ろくにちがいない。或る入はその余りに少ないのに。搾る人はその    へ  も  ロ  る 余りに多いのに。かつて最高裁判所は人間の生命は全地球よりも なお重く尊いといった。本件の被害者は運送会社に勤務し一ケ月わ ずか︸万一、○○○円の俸給をもらう下級労働者である。しかし、 かれもまた入間たることにかわりはない。にもかかわらず、全地球 の重みよりも重くかつ尊い筈の、そして、︼家の大黒柱たる夫が死 んだ場合に、妻が受取りうる賠償額が一五万九、〇四一円︵それが    た  へ  り いかにちみつな計算からはじきだされたものであろうと︶にしかす       ら  へ  も  ヤ  あ ぎないとしたら、最高裁判所のげんしゅくな﹁言葉﹂と﹁現実﹂の 五〇 相異に唖然とさせられる.であろう。大都会の中心街では坪何百万円 とか、盛り場のちょっとした店の権利金でもすぐ何百万円とかいう    い  へ  も  も ことがたやすくいわれる。入間の生命は憲法で保証され、民主主義 のもとで最も尊いものと叫ばれても﹁現実﹂ではそれは全地球どこ ろか、東京は銀座街の一坪の何分の一にも及ばないのである。新聞 紙上をにぎわす人≧の一夜の歓楽代は一人何万円という。一家の大 黒柱を失った母の嘆きが一人の人の一夜の夕食代とおなじ位とした ら、多くの人は自己の生命の余りに安っぽいのにおどろくのも無理 はない。しかしまた、身体傷害や生命侵害における損害賠償とは、 負傷そのものには価値がない、したがって生命それ自体にも価値は ないからそこに損害の発生する余地はない。だから損害とは、かれ が生きていたならば得たであろう利益の損害︵得べかりし利益の損 害︶であるという点から本件の賠償額をながめたらその多きにおど       も   ミ ろく人も少なくないにちがいない。本件の被害者は幸い就職して︸ ケ月平均一万一、○○○円の俸給をとり、かつ、若干の田畑をもも っている。しかし、田畑はもちろん、職さえもなく動物的生活から 自然死への一歩手前にある人︵しかもそれは何百万人といわれるほ        し  た どに多い︶にとっては、いずれ死ぬにもかかわらず、幸い? 自動 車にひかれて死んだがために、その遺族が何十万円ももらえるとし        ヘ  カ  ヤ  も  ぬ  ヘ  へ たら、賠償額の余りに多いのにおどろくかもしれない︵尤もこれは 一つの比喩である。かれらは人の生命を金に換算するほどブルジョ ア的人間衷失をきたしていないから、ただ何十万という金高におど ろくだけであろうか︶。 賠償.額が絶対的に低いのにおどろかされる

(5)

と.ともに、われわれが余りに貧しいということ︵低賃金︶にもおど ろかされるのである。そして賠償額が低いということにはいろいろ の原因が考えられるが、貧しさということが大きな原因をなしてい るといえよう。  昭和三〇年に自動車損害賠償保障法がつくられたが、それにもと つく最高額は、死亡の場合三〇万円、重傷の場合一〇万円、軽傷の 場合三万円となっている。もちろんそれ以上の損害があれば民法の 不法行為の規定によって損害賠償や慰籍料を請求できるが︵請求し ても本件のごとく賠償額はきわめて少ない︶、.死亡について最高三 〇万円はいかにも少ない。しかも統計によればその最高額さえ給付 されることは少ないよ.うである。無保険事故やひきにげ事故に対す る政府の保障.は平均 人当り、死亡について二五万円余、重傷四万 円余、軽傷一万円余で、昭和三三年一月−一一月における責任保険 損害査定額の場合も、死亡二四万六千円余、重傷六万円、軽傷一万 円余と.なっている︵木村英世﹁自動車事故と損害賠償﹂ジュリスト 一七二号︶。︵各保険会社は組合契約により共同本部を設け、その下 部機関として各都道府県に共同査定事務所を設けている。これらが        も  も  ヤ  ぬ  た  ぬ  へ 査定業務を行うわけであるが、死傷の程度に応ずる定額支給が理想 も であることはいうまでもない。そのことは手続が煩雑となり保険金 の支給を要する現状からも充分にいえる︶。 これは一事故あたりド イツの八五万円、イギリスの五〇〇万円、 一人あたりスイスの四 二〇万円と比べて余σにも低い。川島教授は﹁ガリフォ.ルニァの自 動車交通法﹂のなかで﹁多くのアメリカ人は、自動車事故の恐ろし .判 例研 究 さを常に口にしている。のみならすその法的結果も大へんである。 損害賠償額は巨額にのぼる。人間一人殺してもほぼ三〇万円の賠償 責任が最高だという国とは、勝手がちがうしといい﹁裁判所はもっ と人間の身体と生命とを尊重して、相当額の賠償責任をみとめるべ きである。戦前の裁判に比べても、戦後の賠償責任は軽すぎる。入 間一人ひき殺して三〇万円が最高という通り相場は到底是認できま い﹂といわれている︵ジュリスト一六八号︶。  保障法による最高額が低いのは、生命に対する感覚の外に保険経 営からの問題もあろう。 ﹁責任保険の特質にかんがみ、結局免れな いとこ・ろである﹂として、小田蟹玉が﹁わがくにの自動車損害賠償 保障法では、再保険のみが、国営であり︵百分の六十、四〇・四二 条i筆者註︶、 被害第三者は初めから登場せす、かれと保険契約者 との関係には、最初から偶然性が.伴うので、保険による利点の発揮 は未だ十分でないことを知る﹂︵自動車損害賠償保障論四四頁︶と いわれているのは、無過失損害賠償との関連においてもきわめて示 唆的であるが、現在の保険のあり方が、最高額を低からしめている 点.を見逃すべきではない。      ひ  昭和三三年九月未現在の自動車台数は二二二月九、九九四台であ るが同年における九月までの交通事故は死者八、二〇〇、傷者﹂ 四五、○○○、計=ハ八、二〇〇の多きをかぞえている︵小林幸雄 ﹁交通事故について,1最近の統計から﹂ジュリスト一七二号︶。 こ れに対応する、事故を如何ようにして解決したか、の統計をもたな いがつぎのことは自動車損害賠償保障法の重要性をもの語るもので 五一

(6)

判例研究

あろう。昭和三三年六月三〇日調で無保険車が二〇パーセントにお よぶという︵現行法のもとでは、加入を強制する最終的方法は刑事 処分だけであり、実際的にはこれのみでは完全加入は期しがたい︶。 それら無保険事故やひき逃げ事故︵裁判に訴えるによしない︶など に対する、昭和三一年二月一同三三年六月の政府の.保障件数は一、 八三〇で、責任保険によるもの六〇、九九四となっている︵木村・ 前掲︶。 このことはいかに多くの事故が保障法によって解決されて いるかをもの語っている。自動車損害賠償保瞳法ができるまでは戦 前・戦後を通じ、刑事事件としてはともかく、損害賠償請求を裁判 に訴えたものはきわめて少なく、また訴えても殆んどが和解によっ て解決し、それ以外は全部示談によっていたもののようである︵千 種達夫﹁慰籍料額の算定﹂綜合判例研究叢書民法㈲所牧 一四三頁 以下および一七五頁以下、佐瀬昌三﹁交通事故と損害賠償﹂第七章 以下︶。  ところで千種判事が戦後より三︺年未までの一〇側聞になされた 判決で、高等裁判所判例集、下級審民事判例集および判例時報にの ったものから生命侵害による損害賠償額を検討された結果によると 交通事故によるもの一七件で、損害賠償額は平均四四五、二〇三円 で、この額は戦前のそれを三〇〇倍した額より少ないが大してちが わないとなっている。アメリカでは脚腕の傷害で七万ドル賠償の判 決もある。わがくにの判決による賠償額の少ないことにつき同判事 はつぎのようにいっている﹁損害賠償の総額にもっとも多くひびく のは、慰籍料よりは、むしろ得べかりし利益の喪失による損害賠償 五二 請求権の相続がみとめられるかどうかにかかる。次にかかげるもの の中にも、得べかりし利益の喪失がみとめられる事件が多いにかか        へ   た   カ   し   ぬ   も   へ   た   へ   も   も   う   も   へ   も   も   る   ぬ わらす、これを請求せず、請求しても認められていない事件が多ハ。 これがわがくにの生命侵害による損害賠償を少なからしめておる大 きな原因である⋮⋮アメリカでは生命侵害の場合にも、四万ドル’、 三崩二千ドル、三脚ドルなどのものもあり、一万ドル以上の賠償を 命じた判決はわたしの知りえただけでも百件に近かった。生命侵害      ヘ  ヘ  ヘ  ヤ  も  ヘ  ヤ  ヤ  ヘ  へ  も  た  ぬ  ヤ  ヤ  ヘ  カ  へ  ぬ  も  ヘ  へ  し  も  へ の場合に、わがくに程各種の名目の賠償がみとめられている国は恐 へ   も   ヤ   ぬ   も   ミ   し  ヤ      ヤ   ヨ   ヘ   へ   も   た   ヤ   も   あ   も   あ らくないであろう。しかもその額が少いのは、得べかりし利益とか 扶養請求権の侵害による損害賠償が多くみとめられないことが原因        な している。更にその額が高められてもよいし Ω刷掲一七八頁。傍点 筆者︶と。  ﹁交通之友﹂昭利二五年八月号によれば昭利二四年度の東京警視 庁管内の交通事故の総件数二、九四七件のうち、示談で解決したの が約六割の一、六九五件、死亡事故は一三四件で、平均一件が三万 五千円、最高額が一件三〇万.円、最低額が八○○円となっている。 示談がなぜ多いかについて佐瀬教授はつぎのごとくいっている。       ヘ ミ  の  ヘ  ヨ ﹁︵一︶原被告ともに正式な損害賠償の訴訟によれば、手続が面倒        し  も  る  カ  し でしかも解決までに長い年月日を要し、往≧費用倒れになること。        へ  も ︵二︶被害者側である原告が負担する加害者側の過失に対する立証 も  も  も が困難なこと。 ︵三︶運転手、助手などの従業員はもちろん、その 使用者も国や大会社でないかぎり賠償資力の十分でない者が少くな        も   ヘ   ミ   へ   も   へ   も   も   も   ヤ   へ いこと。 ︵四︶しかも被害者側は窮迫状態にある者が多く、したが

(7)

って示談解決を急ぐ必要があること。 ︵五︶示談で誠意を示せば運 転手や事業主に対する行政処分が寛大なことしなどに原因するとみ られる。これらほとんど被害者側に不利な条件が多いため、示談の 場合はとかく少額に落着くということになる︵佐瀬・前掲三〇一頁 傍点筆点︶。  労働者の工場災害などにおいても労働基準法による救済のみで、 多くの労働者はそれ以上の損害賠償を裁判に求めることはほとんど      へ  も  も  た  ヘ  ミ  も ない。救済手続の簡易迅速ということが、いかに大きな意味をもっ ているかがわかる。自動.車事故においてもまた然りである。裁判に 訴えれば若干賠償額はふえる。しかし、示談が多い理由の.ごとく、 現在の訴訟法のもとでは弁護士料は訴訟費用にふくまれないから、 若干の増加分などはそれに消えてしまう場合が多いだろう。訴訟費 用のなかに弁護士料がふくまれない法の立前ならびに実際の慣行は 世界に例をみぬ特異なものであるが、裁判が利用されていない最も 大きな原因はここにあるとさえいえよう︵オックスフォード大学の グソドハ:ト教授は﹁訴訟費用に言及することなしに実務上の規則 を説明することは自動車かガソリンで走る事実に言及しないでその エンジンを説明するようなものである⋮⋮訴訟費用は正当な請求を なす原告にとっては攻撃の補助的武器である﹂というi三ケ月﹁民 事訴訟﹂三五九頁︶。  訴訟費用は自弁、手続は厄介である、しかも判決額は大したこと なしとすれば、裁判によってことを解決する者はほとんどないであ ろう。ということは裁判はなんの役にもたっていないということで

判例研究

ある︵調停裁判というのも委員は多く保守的・ボス的で法的知識と 感覚にとぼしく信ずるに足らない︶。 このことは裁判制度という大 きな問題をはらんでいる。したがって保障法による賠償額はいよい よ重要性をもってくる。現在のような低額では、ある自.家用車の所 有者がいうごとく、自動車の修繕費を考えたら、ひき殺した方が、 も  も  へ とくだということにもなりかねない。日・米の自動車一万台当り死 者数を比較してみると︵一九五六年︶、 ニューヨーク四・三に対し 東京二四・一⋮、大阪四一・○であ・る︵ジュリスト一七二号一九頁︶。 また自動車による生命傷害の数は交通量に関係のないことは統計の 示すがごとくである︵小林・前掲︶。 とすれば交通事故による死亡 は必ずしも都市にだけ多いとはいえない。田舎では裁判などという ものはおよそ縁遠いものであろう。川島教授はコアメリカにきてま        ヤ   ぬ  あ  へ   た す気がついたことは、歩行者優先という原則が徹底的におこなわれ ミ ていることである。東京で自動車の脅威に日夜悩まされてきた日本 人は、誰でも、こちらへきてしばらくは、むこうから自動車がくる と、立ちどまって、自動車が通りすぎてから道をわたらうとする。 ところが交通法規によれば、歩行者は常に通行権︵嵩αq冥。︷芝避︶ を有するものであるから、歩行者が道をわたらないかぎり、自動車 は前進することがでなきい。違反すると、罰金である。わたしはし ばしば、この日本的習僻で、自動車を立往生させたしといい﹁日本 では、自動車の運転者は横暴であり、歩行者は一級下の人間として 見下しているように思われる。⋮⋮歩行者に対.する自動車運転者の 優越感は、過去何十年の日本文化の遺産である﹂ ︵前掲︶ともいわ 五三

(8)

判例研究

れている。この日本的習癖と文化遺産はますます甚だしくなりそう である。自動車による生命傷害からわれわれを守ってくれるのは、 も   ヘ   ヘ   ミ   へ   ら       ヤ   で 現在のところ、法の解釈よりも、保障法による賠償額の多額の増額 であり、裁判による賠償額のより以上の増額である。  判例は以前から生命傷害による損害について、それは生命の衷失 それ自体による損害ではなく、生命の衷失にともなう労働力の衷失 によっご生する財産上の損害であるとし﹁被害者たる死者が、爾後 生存したならば、将来うべかりし純牧益を以て其の範囲とし、其純 益は、死者が爾後生存せしならば将来得べかりし総牧入額より生活 費および其の他の費用を控除して算出すべきものとす﹂とし︵大判 昭和三年三月一〇日民集七巻一五二頁、大正二年一〇月二〇日大判 民事判決録九一〇頁︶、 現在一時にそれを要求するにはその間の中 間利息を差し引くべきものとして、その計算法は.ホフマン式を採用 する︵大判大正一五年一月二六日民集五巻七一頁︶ ︵ホフマン式の 他にカルプソォウ式、ライプニノッ式などがあるもわが判例はホフ マン式である︶。 このホフマン式計算方法について加藤教授は現在 の計算方法はホフマン式を不当に適用したもので、損害を不当に低 く計算したものであり、名義額をA、年数をn、年利率を○・〇五 とした場合       ︾       ﹀         ︾

  ×11一土×P8+一もxP8⋮⋮+一+口xP8

として計算すべきことを主張するとともに、現在の計算方法は昇給 を考慮していないし、生活費を相当多く控除し、家族の分まで引く 場合の多いことを批判している︵加藤﹁不法行為﹂全集二二六一.七 五四 頁︶。 判決は﹁毎月分画に逐一年五分目割合による云≧﹂としこの 正しい計算方法によっているが、昇給を考慮していないことは今ま での判例と規を一にする。新らしい計算方法を採用している、とは いえ、判決は今までの判例と同じ基盤に立っている。市民法秩序は すべてを個人かその結合による利益社会の経済的生活利益に還元す るのであるから、判決がそのような態度をとるのも無理からぬこと かも知れない。だが﹁ようやくその日その日の生計をたてうる、も しくは、生計をたてるに足らぬ牧入をえているに過ぎない多数の俸 給生活者や労働者は生命を奪われた場合になんら救済を受けること はできぬこととなる︵判例によ.れば無牧入者は得べかりし利益.はな いことになる1筆者註︶。 生命侵害による損害賠償請求権を一般に みとめる立場をとる限り、生存の価値自体を評価すべく、そのため に正常に普通人が費しえたであろう生活費その他の費用を考慮すべ くそれについては現在または将来うる見込の牧入総額を資料とする に過ぎぬ。人を単に純牧益を生むための機械のごとく見るべきでな く人間は人間として扱わるべきだ、また仮りに被害者が得べかりし 純然たる財産上の利益衷失填補のみを目的とすると考えても控除さ るべきは牧入を得るための勤労活動自体に関聯した支出に限らるべ きで、生活費は、牧入を断たれるという被害により免れうる費用で ないから控除さるべきではない﹂︵﹁損害賠償額の算定﹂総合判例研 究叢書ω五二⋮三頁︶との反対学説の方がより損害賠償を完全なら しめるものであろう。  慰籍料は、当事者の社会的地位・職業・資産・加害の動機・態様

(9)

など諸般の事情を考慮して裁判所が自由に決定しうるとの判例の立 場に対し、学説の多くは、生命侵害の場合には、人の職業や地位に       ミ   ゐ   ヘ   へ   ぬ   へ   も   も よって差別を設けるべきでないという。しかし、慰籍料もまた一つ う   へ   へ   む   し   ヤ   も   カ   も  ヘ   ヤ   ヘ   へ   し   し   ぬ   や の損害賠償たることにはかわりがない。慰籍料は画一たるべく、得 べかりし利益は画一であってはならぬというのでは筋が通らない。 たとえそれが契約というものではあっても、違約金や賠償額の予定   へ  リ  カ  ら  ヨ  へ  も  し  ヘ  ヤ  へ  し  ぬ  へ  も  も  ぬ  ヤ      リ  ぬ は、損害そのもののあるなしにかかわ.らない。生命傷害に対し定額 の賠償金が予定されてもすこしもおかしくはない筈である。保障法  ぬ  ヘ  ロ  ぬ  も は高額の定額をきめるべきだし︵運.輸省自動車乱民障課長である井 上健︸氏は﹁自動車損害賠償保障制度の実施状況とその問題点﹂ー ジュリスト一七二号一で﹁実損害のてん補ということは必要があれ ば裁判上の問題とし、自動車保険としては死傷の程度による定額支 給という方法に切り変える方が適切ではないかと思われる﹂といっ ている︶、 裁判所ば判決を.通じて高額の賠償金をつくりあげるべき である。  いずれ生命傷害に対する諸外国の賠償額はきわめて高額であるの.         も   も   ヤ   し   も   し   た   ミ   も だから、それは、実損害とは関係ない考慮の上に立っているのであ る。身体傷害にせよ、生命傷害にせよ、そこに物的傷害とは異な.る も  ヘ  へ 特殊性があって然るべきである。判例もそろそろ今までの態度を再         ぬ  も  う  た  ハ  も  し 吟味して然るべき時期にきているのではなかろうか。余り.に高額な 賠償金は不.能なときもあ.ろう︵たとえば高額所得者の得べかりし利 益︶。 したがって賠償額.の算定について裁判所は加害者の財産.を.考 慮するときもあるであろう。現.に生命侵害の場合は多く過失相殺が

判例研究

おこなわれて賠償額は低くされている。ということは賠償額は決し  も   ヘ   へ   も   も   ヘ   ヘ   へ   も て実損害の賠償でないということである。高額な賠償額にたえうる ために使用者の無過失損害賠償責任が生じ、それは保険によって担       ミヘ  へ  た  ヤ  も  も  ミ  へ  う  も  ら  お  ぬ  へ  ぬ  カ 保されればよい。もともと損害と賃金とはなんらの関係もない。に もかかわらず賃金労働者の場合はいつも賃金が損害算定の基準とさ れる。それは参照さるべきであっても、基準となるべきものではな い。重傷者の積極的損害の方.がはるかに低所得者の得べかりし利益 より多いこともある。生命傷害は身体傷害の最大なもの︵極限概念 というむつかしい言葉をあえて使うほどのこともない︶之苦れば、 このことは矛盾である。このことだけからも賃金が損害の基準にさ れてはなら.ないことはあきらかである。わがくにのように低賃金で は損害の算定が自から低くならざるをえない。いかに資本主義とい    も   へ   る   も   も   へ   し   た えども生命だけは平等に取扱われて然るべきである。身体瞳害わけ て生命傷害については、よろしく損害の概念からはなれるべきであ る。  とはいえ、費すぐ裁判所がその態度をかえるとは期待すべくもな       ヤ   も   へ   も   へ   ぬ   ヤ   へ い。裁判によって賠償額が確定されると、もはや再び賠償額の増額 り   も   ヘ   ヤ   あ   カ   も   も   や を求むるすべはないのだから、そして貨幣価値があがるということ はないのだから裁判所はいつのときでも損害の算定にあたっては、         ぬ  も  ぬ 賠償責任はつねに使用.者にあることを念頭におき、直接の加害者た る運転者などの財産は一切顧慮することなく、できるかぎり高額に 決定することが望まれるのである。  一、自動車運転者に課せられた注意義務は道路交通取締法・同施 五五. ド

(10)

判例研究

行令、道路運送法、道路運送車輌法、自動車運送事業等運輸規則、 自動車道標軍令などに示されているが、判例は﹁凡そ自動車運転手 は、いかなる場合においても他との衝突をさくるにつき、そのなし うべき巖善の措置を講ずべき業務上の注意義務﹂があり︵大判昭和 九年七月一二日集一三巻一〇二五頁︶、﹁これがため自動車本来の 効用を減殺するもまたやむをえざるもの﹂である︵大判大正一四年 一〇月三日集四巻五七〇頁、その他︶との態度を基本としている ︵自動車運転者の注意義務の諸判例については、大塚・四宮・下光 ﹁自動車事故をめぐる法律問題﹂参照︶。 この点について判決が運 転者に過失ありとしたのは従来の判例にしたがったもので是認せら るべきである︵事故の原因のうち徐行違反は一番多いが本件もまた それである︶。 元来、損害は故意過失あるところに発生するのだか   う  た   ヘ   ヘ   ヤ   ら   し   ぬ   ヤ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ミ   り ら、損害あれば過失ありといってよい。しかし民法七一五条の免責 は今までもほとんどみとめられていないし、保障法の免責規定はき わめて厳格である。国家賠償法は免責規定を設けていないが、それ は使用者責任の此後のあり方を示すものだといわれている。だとす れば使用者の責任は、被用者の故意過失を前提とする現行法のもと では若干無理だとしても、被用者の過失の有無に力点をおくことな く、むしろ無過失責任を使用者にみとめることに努力すべきではな かろうか。その意味で、判決は被告A・Bに不真正連帯債務として ・各自に支払を命じているが使用者Aのみにかぎるべきであった︵な お運転者に過失があって保険会社が使用者に填補しても、運転者も 被保険者だから保険会社は代位できない。また運転者自身か支払う 五六 と保険により運転者が填補されることとなる︶。  一、一応損害賠償額を一二八万一、四〇〇円としながら過失相殺 により五一万円が相当としたのは不当である。過失相殺は保障法の        し   も   も  ぬ   ら   ヤ   し   も 最.高額までは適用さるべきでなく、また死亡の場合にのみ多額に適 用さるべきではない。近時、英米法における碧。凱㊤三①8口。・①ρロ→ ロ。Φωあるいは含受oh日三σq四二〇ロの理論から示唆をえたとして、 被害者の態度への道徳的評価を加える損害避抑義務を中心とする過 失相殺の法理を活用する必要を唱うる説あれども賛成しがたい。誰 も自己の生命を軽んじ、進んで痛い目にあうことを求めるものでな いからである。  一、慰籍料の算定について原告Y︵次男︶については幼少である との理由からであろうが、一番すくないのは理解しがたい。むしろ 将来精神的苦痛を味わうのは幼少であったものだろうからである。 慰籍料の算定は得べかりし利益の額とにらみあわせてきめられるよ うであるが、一ケ月一一、○○○円の低賃金労働者の得べ”りし利 益はきわめて少額なのだから︵従来の判例からすれば高額かも知れ ない︶むしろ高額の慰籍料を算定して、賠償額の増額をはるべきで あった。そして、本件の場合X・Y・Zはともに扶養請求権をもっ ているのだからそのことをも考慮し、かつX・Y・Zに差別をつけ ることなく、総額として算定すべきであったろうと考えられる︵そ のことは保険会社による損害賠償額を控除のときには考慮されては いるが︶。  養鶏料が保障法にもとつく賠償額にふくまれるかについて、判決

(11)

はこれを肯定しているが正当である︵尤も労災法は財産的損害の填 補だけを目的としているから、慰籍料はふくまれぬとする1大判昭 和一六年一二月一七日民集二〇巻一四七九頁︶。 生命傷害におい ては財産的損害と精神的損害を分けて考慮せす、生命傷害そのもの に対する保障︵損害ではない︶として賠償金が支払らる置きだと考 えるからである︵なお実務においてもそのように取扱われている︶。  一、判決は、保障法と民法による賠償は並存するものでないから 保障法による賠償額は控除すべきものとした。是認さるべきであろ う。尤も判決が保障法三条をもって、被害者側保護の観点から設け られたものとするのは是認しがたい。民法七一五条はまさにそのよ うな主旨であったろうが、保障法は免責規定をもつ点でなお相対的 無過失責任の域にとどまるが、免責が事実上許されないことからそ れは絶対的無過失責任︵鋤げ。・。ζΦ蕾ぴ出ξ︶に近く、過失責任から 無過失責任へ推移する事由に、その根拠を求むべきだからである。 ﹁自動車損害責任保障法による自動車損害責任保険などのごとく将 来負うことあるべき損害賠償責任のため、加害者の賠償金積立の性 質を有する保険契約の保険給付は﹂控除さるべきだが﹁被害者が、 将来の被害に備えて若干の出指をなすことにより成立する保険契約 にもとつく保険金のごときは、払込んだ保険料の対価であるから控 除すべきでない﹂ ︵谷口前掲・七五頁︶との説あるもその区別はす っきりしない。むしろ保障法を民法の便用者責任の酵化と考え、と もに使用者の無過失責任を規定したものとするなら、控除されるの が当然だということになる︵したがって法定賠償額以上の損害につ いても無過失責任は及ぶ︶。        ︵一九五九・四・一︶

判例研究

五七

参照

関連したドキュメント

Kübler in

[r]

翻って︑再交渉義務違反の効果については︑契約調整︵契約

賠償請求が認められている︒ 強姦罪の改正をめぐる状況について顕著な変化はない︒

は,医師による生命に対する犯罪が問題である。医師の職責から派生する このような関係は,それ自体としては

と判示している︒更に︑最後に︑﹁本件が同法の範囲内にないとすれば︑

発生という事実を媒介としてはじめて結びつきうるものであ

告—欧米豪の法制度と対比においてー』 , 知的財産の適切な保護に関する調査研究 ,2008,II-1 頁による。.. え ,