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ディルタイにおける精神科学の概念と方法

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(1)鴉. 島. ディルタイにおける精神科学の概念と方法 1とくに後期著作を中心として1. 峰. 旭. 雄. すでに前稿において︑われわれはデイルタイの﹃精神科学序説﹄を中心として︑かれの精神科学の概念と方法をい. ささか考察したのであるが︑そこでも断ったように︑その考察は︑﹃精神科学序説﹄がまさに序説であるのとおなじ つ 意味において︑序説的な考察にとどまらざるをえたかっ々︒そのことは︑すでに指摘したように︑﹃精神科学序説﹄ 到 そのものに後史があ㍗この書がそのよう荏後史へと展開していく最初の段階を示Lている点にも一因があった︒つ. まり一前稿の最後に掲げたような内容をもつ﹃精神科学序説﹂続巻のための準備研究がいくつか企てられ︑また︑じ 副 っさいになされていたのであ㍉ここで︑あらためて︑かれのこのような思想の展開のあとをたどってみると︑これ. 〇. 〇. 一九〇四年から一九一〇年へかけての﹃序説﹂続巻への努力. 一八九四年の﹃記述的分析的心理学﹄. 一八八三年の﹃精神科学序説﹄. をほぽ三つのポイントによって整理してみることがもっとも妥当ではたいかとおもわれる︒. 員. Hから⇔︑⇔から嘗へはそれぞれほぽ十年の間隔がある︒このような︑それぞれ十年にわたる問隔のうちに︑ディ. 89. 工.

(2) 30. ,. ︸ ⑭ ルタイの考えがいくぶんたりとも展開していったことは︑否めたい事実である︒たとえぼoにおいて序説的に︑精神. 科学のもっとも基礎的な群をなす精神物理的生の統一にかんする研究として︑心理学を挙げていることは︑すでに前 功 稿で触れた︑巧この心理学は記述的分析的心理学とLてOにおいて詳論されることになる︒ところが︑さらに嘗にお. いて︑とりわけ﹁精神科学におげる歴史的世界の構成﹂において︑Oの心理学的立場から一歩すすんだともみられる. 体験や了解や表現などの概念を︑精神科学の基礎づけに不可欠のものとして論ずるにいたるのである︒. さて︑小論は前稿に引き続き﹁ディルタイにおける精神科学の概念と方法﹂を論ずるのであるが︑﹁とくに後期著. 作を中心として﹂という副題が示すように︑右に述べた三つの時期のうち⇔と嘗にわたって︑いくぶんかの考察をこ. ころみることにしたい︒しかし︑さしあたって︑Oにかんする論述に入るに先き立ち︑一︑二の点を開説Lておかな けれぽならない︒. ディルタイが若き時代のへーゲルを研究して︑それまでおおわれていたへーゲルの一面を明るみに出したことは︑ 6︶ 周知のごとくである︒それは︑へーゲル一﹂たいする鋭い追体験の結晶であるが︑それはそれとして︑ディルタイ︑とへ. ーゲルを対比するとき︑そこに明らかな相違・懸隔のあることも︑一般に認められている︒前稿においても︑そのこ つ ︵ とはすでに︑精神科学と精神そのものの学という表現で指摘した︒くりかえしていえぱ︑精神そのものの学とは︑精. 神それ自体が自已を展開するとき︑そこにみずからを形成Lていくごとき学である︒そして︑そのようたものの輿型 8︵ ︶ として︑へーゲルの弁証法が挙げられるのである︒これにたいして︑一切の科学は経験科学であるという立場から科. 学としての精神の学︑つまり精神科学を展開するのが︑ディルタイである︒教育学においてしぱしぱ︑﹁上からの教. 功 ︵. 育学﹂︵震註胴O色・く昌Oげ彗︶と一下からの教育学﹂︵勺ぎ嵩轟鼻さ目旨片彗︶とがいわれるように︑こ・﹂でも︑﹁上から. の哲学﹂︵妻一一婁ε巨Oく昌Oげ彗︶と﹁下からの哲学﹂︵勺⁝εO冨討く昌⁝ε目︶をいうことができよう︒い︑︑ノまでもな. 190.

(3) 31. く︑へーゲルは前者にぞくし︑ディルタイは後者にぞくする︒ところで︑このような一.上から﹂と一下からLとは︑. それによって二分される哲学の根本性格を簡明にいいあらわすものであるげれども︑そのようた﹁上から﹂と﹁下か. ら﹂の両種の哲学に立ち入ってみると︑事態はかならずLも簡明ではありえたい︒その一例を客観的精神︵︒9呉葦彗. Ωo雲︶にっいてみることにしよう︒へーゲルは精神的世界を精神そのものの弁証法的展開とみたため︑客観的精神ぱ. 主観的精神と絶対的精神との中問︑つまり︑正・反・合の反として提えられた︒いいかえれぱ︑客観的精神は精神そ. のものの弁証法的展開の一段階をなす︑あるいは︑一段階をなすにすぎないのである︒そして︑客観的精神は法・道 ⑩ 徳・人倫をふくむにすぎない︒これにたいして︑ディルタイは︑後述のごとく︑﹁生の客観化﹂︵8冥葦き昌宗ω ⑪ 5ぎ嘉︶をいい︑へーゲルの客観的精神にほぼ相当するような考えを述べているが︑しかし︑その内実はいささか相. 違する︒というのは︑ディルタイのいう﹁生の客観化﹂とは生そのものの直接的表現であり︑その背後にたんらかへ. ーゲル的な形而上学的実体ないし主体−絶対精神1はかくされていないからである︒したがって︑へ−ゲル的た. 意味での精神の自己展開の一段階というような発展の思想は見出しえない︒かりにデノ.ルタイにおいてそのようなも. のを求めるとすれぱ︑それはかれの歴史主義︑相対主義のうちに見出されるといってよいかもしれたい︒しかし︑そ. れはもはや形而上学的た色彩を一切払拭しさった経験の場︑﹁上﹂にたいする一.下﹂の場においていわれるものであ. ることに︑注意しなげればならない︒また︑ディルタイが﹁生の客観化﹂によって包括するものは︑後述のごとく︑. きわめてひろい範囲にわたり︑へ−ゲルが客観的精神とよんだものはもちろん︑へ−ゲルにおける絶対繕神である芸. 術・宗教・哲学をもふくんでいる︒つまり︑それら諸般の客観化された生は決して段階的に発展するのではなく︑並. 存し相対するのである︒なお︑へーゲルにおいて主観的精神とされるもの︑人間学や心理学や意識が︑ディルタイに ⑫ おいては精神科学の基礎をなすものとされている点も︑注目にあたいする︒. 19一.

(4) 32. このようにディルタイとへ−ゲルとを対比することによって︑ディルタイの志す方向がかえっていくぶんなつとも. 明らかにされたようにおもわれる︒次に︑もう一つ︑キルケゴールについて触れることにしよう︒一般に︑キルケ︒コ. ールはへ−ゲルにたいするアソティテーゼとして現われたとされており︑その意味では︑ディルクイの精神科学の基 礎づげとまったく無関係とはいえないものがあるとおもわれるからである︒. キルケゴールは﹃死にいたる病﹄で︑人問は精神であると規定する︒じつは︑このような規定そのものが︑すで. に︑かれの哲学を︑精神︒科学ではなく精神そのものの学にぞくさしめるのであるが︑いまそのことに立ち入る余裕は. たい︒かれは人問を精神であると規定したうえで︑精神そのもののあり方を執勘たまでに追究している︒その追究の. 仕方は︑もちろん︑自然科学的方法それ自体ではなく︑また︑その転借でもない︒さらに︑それはディルタイのいう. ①. 尋. Φ. ^坤. ごとき糖神科学的方法でもない︒それはむしろ︑精神が精神自身をかえりみていく無限の反省︵;室鴬①寄茅泣昌︶. の方法である︒マルセルの言葉をかりれぼ︑それはく穿孔Vの方法といえるであろう︒そのような方法にしたがうと. き︑そこに︑おのずから精神が精神みずからの法則を生み出すのに気づく︒一例を挙げれぱ︑キルケゴールは︑おな. じ著老のなかで︑絶望とはなにかを追究し︑絶望老のあり方を次のように述べている︒﹁絶望著は︑自分自身を蝕尽 身. 屯. Φ. ⑤. することができないということ︑自分自身から脱げ出ることができないということ︑まさにそのことについて絶望し. ている︒﹂そしてかれは︑絶望︵老︶のかかるあり方を︑絶望の勺o8暮8戌昌と称している︒一﹂の勺o8鼻窒饒g−﹂. そ︑精神が精神みずからに見出す法則の一であることは︑いうまでもない︒. ところで︑前述のように︑キルケゴールが人間を精神と境定したことによって︑かれの立場はもはやディルタイ流. の繕神科学の立場からはなれ︑清神そのものの学に向かい︑その方向において㌧o蒜葦竃ご昌などの法則を掘り出し ㈲ たのであるが︑そのことは一度かれをきわめて狭駐な領域に追いこんだかのよう汁﹂みえて︑Lかも︑かならずLもそ. 192.

(5) 33. うではないことが判明する︒宗教哲学的見地からキルケゴールをたがめるとき︑かれにおいては︑﹁具体的であると. 同時に普遍的である神の究極的啓示﹂が︑﹁あらゆる生の領域の︑かくれた規準として︑人々を宗教的生にまで導 ⑱ く﹂といわれうるからである︒. ところで︑われわれはまだへーゲルのアンティテーゼとしてのキルケゴールについては触れていないが︑それにつ. いては︑むしろJ・P・サルトルの口をかりて述べることにしよう︒サルトルは大著﹃弁証法的理性批判﹄のなか. で︑へーゲルにたいしてキルケゴールを特色づげて︑次のようにいっている︒へーゲルをまえにして︑キルケゴール. はほとんど取るに足らない︒しかし︑かれ︑キルケゴールは︑体系のなかに閉じこめられることを欲せず︑へーゲル. の主知主義にたいして︑体験の不可還元性と特殊性を主張してやまなかった︒人間の苦悩・欲求・情念・苦痛は知に. よって克服されず変化させられない生のままの実在であるとする点において︑キルケゴールは正しい︑というのであ. ㈱. る︒もっともサルトルぱ︑その反面︑へーゲルの正しい点も認め︑さらに︑その両者にたいして︑マルタスが正しい. ことを指摘する︒ところが︑サルトルのいう︑エソゲルスとの不幸な出会いを通して︑マルクス主義はこんにち衰退. してしまっている︒その主たる原因は︑サルトルの指摘によると︑マルクス主義的知からの人間の鎌除︵異署互昌ま. 一.ぎヨ姜︶である︒そこで︑マルクス主義の復活は︑人間学的知の基盤としての人間的次元︵g毒邑昌ぎ蔓ぎ実存 ⑳ 的投企員暑吋異華彗ま一︶を取り上げることからはじまる︒型言すれぱ︑それは︑エソゲルスとの不幸な出会い以後. 優位に立った自然弁証法的傾向にたいして︑ふたたび精神の弁証法を取り入れて考えることにほかならない︒サルト. ルは︑このような弁証法の具体的遂行に必要な補助科学として︑精神分析学や杜会学などを挙げ︑こんにちの諸科学. の成果を十分に取り入れることを説いている︒それがすなわち︑哲学とは現代の知の全体化︵§彗ωき昌旨窒き芹 ⑳. oε冨ヨ署轟ぎ︶ であるというかれの定義にそのままあてはまるのであるが︑この点は注目にあたいする︒なぜなら︑. 93. ユ. ⑲.

(6) 34. サルトルの弁証法的理性の批判の仕事は︑精神たいし精神的世界にかんする学の形成について︑たんらかの光をあて. るもののようにおもわれるからである︒精神科学の名のもとに一括されるような学の創立者はディルタイ︑その淵源 鶴 はさかのぼればへーゲルにある︒逆に現代にいたれば︑方法論の間題からしても︑サルトルの名を逸することはでき たいであろう︒. 幸O罵5お1岩買︶にその崩芽を見出すことができる︒ヴォルフは合理的心理学︵冨匡昌剋一〇雰壱ぎ一〇〇qεと経験的心理. あるいは︑他人や歴史的実在の吟味・研究にたい﹂てあたえられた事実を︑分析的に見出されたある隈られた数の諸 鈎 要素から︑導き出すことである︒﹂かかる説明的心理学は︑さかのぼると︑すでにクリスチャソ・ヴォルフ︵O重邑彗. ディルタイは説明的心理学を規定して次のようにいう︒﹁説明的心理学とは︑内的経験のうちにあたえられた事実︑. そこでまず︑説明的心理学についてのかれの批判的論議から触れていくことにしよう︒. 記述的心理学そのものの説述よりは︑かえって説明的心理学にたいする批判的論議に︑多くの頁をついやLている︒. つもそれに先き立つ立場の批判に多くのスペースをさくのが常であるように︑ディルタイもまた︑みずから主張する. 理学︵げ窃争至ざ巨−s邑τら睾目ま雰着ぎ5阻⑭︶でなけれぱならないことを明らかにした︒あらたたる立場の主張がい. 礎となるぺき心理学は︑従来の説明的構成的心理学︵實区腎彗宣8寡葦ζ一き雰着ぎ♂阻①︶ではなく︑記述的分析的心. ディルタイは︑さきに区分された三期のうちの第二期において︑﹃記述的分析的心理学﹄を書いて︑精神科学の基. るかについて︑少しく見ていきたい︒. 前置きがややたがくなったが︑次に︑ディルタイその人にかえり︑そのいうところの記述的分析的心理学のなんた. 二. 194.

(7) 35. 鱒 学︵︒目冨雪手勺苧︶との二分法をたてたが︑このうち合理的心理学をもって説明的心理学ともよんでいる︒しかし︑. ヴォルフのかかる分類が形而上学的な独断にもとづいていることは周知のとおりで︑カソトによって合理的心理学の. 不可能が証明される結果となった︒ただヴォルフがかかる分類の先鞭をつけた意義は否定することができないであろ. う︒ヴォルフのなした形而上学的分類を近代的な意味で生かして︑説明的と記述的との二分をおこたったのは︑ヘル 鯛 バルト学派のヴァイツ︵掌8o貝ミ印ぎ崖曽ふ紅︶である︒かれは説明的心理学を自然科学として樹立したばかりでな. 棚さらに記述的心理学︵ま艮昌葦①房着ぎ一〇胴一︒︶の企てをもなしている︒それは自然認 ;識芸 テイプテ事 におげる記述的と理論. イシユ. く. 的との区別に応じたものであって︑説明的必理学は記述的心理学の供給する素材に依存し︑それによって心的生活︑ 鯛 たらびにそれと外界との相互関係を説明するものであるという︒. ディルタイはさらに︑説明的心理学の流れをたどり︑ヒュームやハートリーを挙げ︑J・ミル︵旨昌窃;自Hミ㌣. ︑ ︑ 畠窒︶︑J.S.︑︑︑ル︵旨ぎ撃毒津昌自崖8−べω︶親子に触れている︒J・ミルの心理学は次のような仮設にもとづい. ている︒すなわち︑心的生活は例外なく︑その最吉同の表出においてさえ︑連合の法則がそこに働く内的なるものの単 鯛 純な感覚的要素から因果必然的に展開される︑というのである︒J・S・ミルもまた︑父J:ミルとおなじく︑心理 餉 学の方法は心的諸要素の帰納的発見とその綜合的吟味との協働であるとしている︑とディルタイはいう︒. ディルタイはさらにスペソサー︵寿き撃け留彗8・冨曽−岩8︶の心理学を挙げ︑それが二人のミルよりもはるかに. 心的達関の事実に近づいていることを指摘する︒ただ︑スペンサーにおいては︑ミルたちのように自然科学的方法を. 利用したにとどまらず︑コソトとおたじく︑心理学を自然科学に下属せしめ︑一般生物学に基礎づけている︒こ㍉﹂に. おいて︑かってヴォルフの心理学が形而上学から説明的要素を借りたように︑スベソサーの心理学は︑こんどは自. 然科学から説明的要素を借りてくることになってしまった︒そして︑︸﹂の傾向をさらに押し進めたのぼヘルバルト. I95.

(8) 36. ︵−向・葭實憲・ニミ㌣轟杜H︶であった︒かれは心的生活をあますところたく提えるためには決定論︵U︒一︒⁝一旨一閉︑嘗ω︶を. 釧 前提しなければならたいとした︒さらに︑この方向にあるフェヒナー︵ρ掌・票o巨撃崖oH占↓︶は︑精神物理的領域 鯛 ならびに心的領域に測定法および統計法を導入することによって︑実験心理学の祖となった︒ .. ディルタイはこのように説明的心理学の流れをたどり︑ディルタイと同時代におげる二つの顕著た動向に注目して. いる︒一つはミュソスターベルク︵目長o呂⁝箒ま①握冨3−岩5︶によって代表されるごとき実験心理学の一派であ. る︒それは︑身心平行論の跡謝のもとに︑結局︑心理学を生理学のもとに従属せしめ︑心理学の破産︵︸彗一套5を宣 鰯 告したにひとしい︒もう一つの顕著な動向はヴソト︵幸豪色冒事冒串畠ω㌣お8︶の実験心理学である︒ディルタイ. は︑ヴソトが﹁原因は結果にひとしい﹂︵O彗墨凹遷量↓$8巨冒︶という法則を精神界に適用することを断念し︑創造. 的綜合︵血gg睾ぎ訂ω着艘霊o︶の事実を認めた点を︑指摘している︒ヴソトのいう創造的綜合とは︑心的要素がそ. のうちにふくまれていないあらたな質的性質をもつ結合体をつくりだすこと︑そLて︑・﹂のあらたた性質には︑心的 鈎 要素のうちにはあらわれていない特有の価値規定が結びついているということ︑にほかたらない︒ヴソトがかかる創. 造的要索を認めたことは︑それが説明的心理学の培内にあってしかも記述的心理学への一種の転換の契機をふくんで 錫. ㈱. いることを︑示している︒ディルタイもこれを﹁注目すべき転回﹂︵σ窒o葦昌ω蓋碁峯彗庄⁝的︶と称している︒この傾. 向はW・ジェイムズ︵≠旨昌鶉畠亀−H嘗o︶らによってさらに拍車をかげられたとディルタイはいう︒. このようた説明的心理学を特色づけるものとしてまず第一に挙げられるのは︑仮設の使用ということであろう︒形 帥. 而上学をしりぞけるディルタイは︑仮設間のはげしい相剋を︑形而上学間のはげしい相剋︵匝箏釘彗一︒旨巴︑一一一︑︶にたとえ. る︒説明的心理学における仮設の最たるものは心身平行論である︒この場合︑自然科学的な仮説構成︵目胆け目︑乏︑硯︑冒.. 冴ぎ肇争二ξ葛ご嵩ω彗呂き轟︶を心的生活の説明のために用いることの正当性が︑澗題となってくる︒あるいは︑ヘル. 196.

(9) 37. バルトのごとく︑心的生活をあますところなく捉えるために決定論を前提しなけれぼならたいとすれば︑また別な閥. 題が生ずる︒すなわち︑はたして心的生活たるものはあますところなく仮説構成されるべきものかどうかという間題. である︒ディルタイはきわめて明確にこの点を次のように断定する︒自然認識におげる連関はすべて仮説の穣成によ. ってつくりあげられるから︑説明的心理学は仮設を用いざるをえない︒これにたいLて︑心的生活における連関は体. 験としてあたえられているから︑記述的心理学は仮設を用いる必要は恋い︒﹁自然はこれを説明すべく︑心的生活は 鯛. これを了解すべ﹂﹂︵冒①麦け毒Φ麦腎彗皇・一まωω8一彗一争彗く實緊ブ彗ま﹃︑︶というのである︒ディルタイは︑この. 鵠. ㈹. ことを︑心的生活における違関は﹁根源的に︑いかなる場合も︑確実に﹂︵⁝名艘自曾身肇他量一げ価蓬邑邑あたえら. れているとか︑﹁内から﹂︵き目一昌昌︶実在として︑生げる達関として︑﹁始源的に﹂︵實雪富事胃︶意識されるとか︑. ㈹ 生はいかなる場合でもただ達関としてのみあるとか︑いいあらわしている︒. このようなわげで︑次の聞題︑すなわち︑ヘルバルト流に心的生活をもあますところ恋く仮設溝成すべきかどうか. という間題にたいする答えは︑もはや明瞭である︒﹁説明的心理学は仮説をもってはじまるのにたいして︑記述的分. 析的心理学は仮設をもっておわる﹂︵冒①び馨ζ筆g宕冨創・①逼ま彗ま①雰着重o㈹一①彗ξけ旨岸匡毫o;馨目ミ筆富邑. ︑. ︑. ︑. ︑. 網 姜昌区腎彗ま昌箒ま篶■び曇旨け︶というディルタイの言葉が︑その答えを簡潔にあたえている︒すなわち︑記述的. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. 心理学ははじめから仮設をたてず︑したがって仮設構成なるものははじめからありえたいし︑そのデータiはいきい. 197. きとした連関そのものとして始源的にあたえられているから︑あらためてあますところたく構成する必要もたいので ある︒. 三.

(10) 38. ディルタイは︑右のごとく二種の心理学を対比したうえで︑精神科学は心理学なしですましうるか︑という間題を 鶴 提起する︒かれの答えは︑繕神科学は心理学なしではとうてい有効な結果を期待しえたいというものである︒ただそ. の場合︑それがいかなる心理学を用いるかが間題である︒精神科学は説明的心理学によって示された成果を使用し仮. 設的性格を保持するか︑それとも︑それはかかる要素を欠きあいまいな主観的心理学によって支えられるにすぎたい. か︑いずれかであろうか︒ディルタイはこれを精神科学のディレソマと称しているが︑かかるデイレソマは説明的心. 理学のほかに記述的心理学を知らないところから起こるものであるという︒たとえぼ宗教という事実一つを取り上げ. てみても︑このことはうかがい知ることができる︒宗教という事実の分析には︑感情・意志・依存.自由.動機のよ. うな心理学的連関・心的連関のうちにおいてのみ解明されうる諸概念が必要だからである︒. すでに前稿において︑ディルタイにおげる精神科学の基礎づげは︑じつは精神科学の認識論的基礎づけであり︑そ ⑭ のかぎりにおいて︑カソト的な色彩のあることを指摘しておいた︒ここでは逆に︑そのよう放立場にありたがら︑ま. た反面︑カソトを批判するディルタイについて触れなければならない︒すなわち︑かれは︑精神科学のディレソマに. 関達して︑認識論におけるデイレソマについても述べ︑そこでカソトに言及しているのである︒認識論は心理学的前. 提なしに遂行しうるか︒それとも︑それはかかる前提を必要とするか︒認識論は心理学的前提なしには遂行Lえた. 認識論は認. い︒なぜなら︑認識論の素材をなす精神的事実は︑なんらかの心的運関を背後に有しているからである︒Lかしま. た︑そうかといって︑認識論が説明的心理学の成果にもとづくならぼ︑認識論を形而上学から独立させ. 識論としての地盤に育たしめようとする努力は︑むなしくなる︒なぜなら︑説明的心理学に依拠するかぎり認識論は. 不確実であり仮設的となるからである︒認識論はかかる心理学から脱却したげればならたい︒カソトのおこなった理. 性批判はまさしくこの点をめざしている︒しかしながら︑カントはふたたび︑脱却す︑へき穴にみずからおちいったと. 198.

(11) とディルタイは批評. いえる︒なぜたら︑かれは直観と思惟とを分離し︑形式と素材とを分かって︑みずから心理学の一派−能力説の. するのである︒. ㈹. ここで聞題とたっているのは認識論と心理学である︒あるいは︑それは認識論における論理と心理といいあらわす. こともできよう︒N・ハルトマソにおいては存在が認識にたいして優位をしめるが︑ト﹂こでは︑心的連関︵血邑ぎぎ﹃ ㈲ N易印冒昌gぎ長︶が心理学にたいして優位をしめる︒認識論の基礎に心■的連関をおくのである︒このことによって認. 識論は心理学的見解の部分的・随意的・偶然的な導入を排除することができるといわれる︒しかし︑ここで排除され. る心理学的なるものは︑結局︑説明的心理学にぞくするものであることは︑上述のごとき二種の心理学の弁別からし. て︑明らかである︒この場合︑優位をしめる心的連関もまた︑じつは︑すぐれた意味でやはり心理学的なるものであ. る︒それは︑いうまでもなく︑記述的心理学の領域にぞくする︒ディルタイは︑﹁認識論は動く心理学﹂︵宰ぎ⁝葦叩 網 亭8ま茸雰着ぎ一〇牲oぎ雰姜胴⁝①目︶であるという︒この心理学が記述的心理学であることは︑もはやいうまでもな ︑o. れにたいして︑記述的分析的心理学の場合はどうであろうか︒この点にかんするディルタイの言説は二面にわたって. る︒説明的構成的心理学においては︑説明的︵異匡篭彗匹︶であることは同時に構成的︵ぎ轟芦鼻芽︶でもあった︒こ. 干を附加して述べることにしよう︒まず︑この種の心理学が記述的であり分析的であることの意味あいが間題とな 鶴. ことによって︑記述的分析的心理学そのものもまた︑ほぼ浮きぽりされたものとおもわれる︒なお︑それについて若. 以上において︑説明的構成的心理学を批判的に穀述し︑かつ︑それを記述的分析的心理学と対比させてみた︒その. し. いるごとくである︒すなわち︑ある場合︑かれは︑かかる心理学は心的生活の全実掘を︑・記述︵悪習〜き⁝o目︶と︑. 199. −であることを暴露したからである︒カソトは﹁無情にも一つの生ける遵関を引き裂いた﹂ 陶. 39.

(12) ⁝︑・︑. ・・・・・. ⁝. ︑. ︑. ︑. ︑. 帥. 経済生. 200. できるだげの︵彗毒岸昌爵ぎε−なしうるかぎりの︵ε婁g5分析にもたらさねぱたらないといいながら︑他の. 場合︑﹁記述的心理学は同時に分析的心理学でなげれぱならない﹂︵2①幕竃〜き彗ま房壱=OざO・討昌姜彗包耐事 帥. ともいうのである︒この点はどのように解されるべきであろうか︒おそらくディルタ. ︑. ディルタイは︑記述的分析的心理学における記述と分析ができるかぎりの確実性︵膏ユ・o〇一糞二§巨σ實o9ぎく昌. ︑. 芸術的創造者にいたるまで︑一切の心的諸力︑一切の心的諸形式が鍍述され︑位置づげられるのである︒. 述するものであることを︑指摘する︒そこにおいては︑最高の可能性である宗教的天才ニポ教創唱者・歴史的英雄・. 学は︑生の観察を通して︑心のゆがめられない力づよい全実相を︑最低の可能性から最高の可能性にいたるまで︑絞. とその要求するところの記述的心理学のあり方とが︑明確に語られている︒さらにディルタイは︑かかる説明的心理. げる相互連関は︑そのなかで協働する人間のうちにおける心的連関にほかならず︑かかる心的連関は︑そのようなも ㈱ のの分析を取り扱うところの心理学によってのみ︑理解されうるからである︒﹂このながい引用のうちに︑精神科学. 活・法律・芸術・宗教たど−は︑その同質性によって︑相互達関の分析をゆるす︒ところが︑かかる目的体系にお. 個々の目的体系へとこの実在が分析されるとき︑はじめて完成されるが︑このような目的体系のおのおの. り分析するものである︒なぜなら︑きわめて複合的な杜会的・歴史的実在の分析は︑かかる実在を成りたたせている. ありえない︒求められる心理学は記述的心理学である︒﹁それは︑心的生活の力づよい全実相を記述し︑できるかぎ. さて︑くりかえしいうごとく︑精神科学は心理学たしではすまされない︒その心理学とはもはや説明的心理学では. 実に遂行しうる範囲内において︑記述的はできうるかぎりの分析的を伴うことを求めるという意味ではたかろうか︒. イの性向からして︑記述的が分析的であらねぱならないことを︑記述的が分析的であるというように︑独断すること ︑ ︑ を避けたのではあるまいか︒つまり︑記述的心理学はその本質からして同時に分析的心理学であるべきであるが︑現. 彗巴苔竃思雰着ぎ一〇困一個駕ぎ︶. ω.

(13) 黎oぎ・ぎ5をもつべきであることも︑堕言している︒そのためには︑説明的構成的心理学のとった道とは逆の方向を. たどらねぱならない︒すなわち︑構成的過程ではなく分析的遇程をふまねぱならない︒まだ︑ここで注意しなけれぼ. ならないことは︑この場合の分析とは︑分析と綜合に分かたれた意味での分析ではたいということである︒この場合. の分析は︑分析と綜合︑帰納と演縄とが一体であるような意味での分析なのである︒ゲーテのいうように︑吸う息と. 吐く息のごとく相応し一体である分析H綜合の分析なのである︒このような方法によってのみ︑心的生活はその全体 鰯 性において︵ぎω筆異↓o邑蔓け︶把握され︑記述され︑分析されるのである︒. ディルタイは︑心的生活が外界・自然界の諸過程とまったく異たることを強調する︒われわれは自然界の事物・事. 象を感官を通して認識する︒しかし︑かかる自然界の事物・事象をいかほど分解しようとも︑ついにそれらの究極の. 成素には達しえない︒われわれは︑これら諾要素を︑経験の助げをかりて︑おぎない︵撃魅竃彗︶︑追考する︵巨冨亨. ま寿彗︶︒また︑感官によるかぎり︑決して対象の統一は得られない︒対象の統一は︑感覚的刺戟の︑内部からする 副. ある種の綜合︵9篶く昌一⁝彗ωs昌篶己①留葦ぎ器まH2⁝鶉睾Hoo頁彗①畠昌︶によってのみ︑達成される︒ここでディ. ルタイは︑M・ブロソデルからH・ベルグソソヘ流れをひくような︑外部知覚と内部知覚の区別を強調する︒外都知. 知覚には分かちがたい単一なもの︵oぎ⁝置亭彗轟曽目︷竃一嚢︶があたえられる︒それは﹁自然の諸遇程とまったく比 ㈲ べものにならないものである﹂とディルタイはいう︒くわしくいえぼ︑それは次のごとくである︒たとえぱ︑われわ. れがくすみれ色Vの感覚をもつとき︑その感覚がいかにLて生じたか−すみれを見て生じたか︑すみれ色の紙を見. て生じたか−−にかかわらず︑内的現象としてみられるかぎり︑一つの分かつべからざる単一なものである︒あるい. は︑われわれがたんらかの思考を働かすとする︒その場合︑そこには︑多様な内的諾事実が︑分かちがたく︑しかも. 201. 覚と異恋り︑内部知覚は︑覚知︵−⁝薯oa彗︶や体験︵睾一g彗︶にもとづいている︒かかる覚知や体験によって内部. 姐.

(14) 42. ㈱. 機能的に統一されて︑統括されるのである︒ディルタイはかかる単一なるもの︑統括的なものを︑自已性︵ωき畦色け︶ とよんでいる︒. さらにディルタイは次のような説明を加える︒われわれは心的連関をはじめから総体的に経験するのではない︒わ. れわれがわれわれの内都において経験するのはその部分である︒あるときはこの点が︑またあるときはかの点が︑と 5刊 . いうふうに︑心的連関の一定の分肢︵雲&︶が都分的に︵血g鼻書落︶意識のうちに取り入れられ奄しかし︑意識. 内容の測りしれたい変易にもかかわらず︑たえず同一の分肢が︑そしてそれらの結合が︑くりかえされる︒この︸﹂と. によって︑それらの分肢や結合の仕方は次第に明瞭とたり︑より包括的な結合のたかにおいてそれらがいかなる位置. をしめるかも︑次第に明らかとなる︒このような第一のクラスの分肢はさら︸﹂第二のクラスの分肢へと接合し︑第二. 鵠. のクラスは第三のクラスヘと接合する︒このようにして︑すべてこれらのクラスの諸分肢の相互連関︵旨窒冒ヨ彗ゴ彗藺o. 篶冨雲ヨ窒眈彗く昌婁oo①;︶についての意識がついに生じきたる︒このようた心的連関が精神諾科学を支えるもの であることは︑前述のとおりである︒. このように相互連関として始源的にあたえられている心的連関からある一つの遇程をえらび出し︑それだげを孤立. ⑳ 値. させ︑強化する場合︑抽象化・一般化が生じ︑内部知覚の知的性質︵巨邑oζ畠=馨ま二目冨H彗峯筆・邑⁝⁝藺・︶が生. まれる︒くわしくいえぼ︑区別・同化・差異決定・結合・分離・抽象などの作用によって︑内部知覚の濃淡別・段階 づけ︵まmg︷彗o繧一ωぎ5︶が生ずるのである︒. このような内部知覚の知的性質にたいして︑心全体の諸過程が協働する体験︵宰事募︶の場合も︑考慮されなげれ. ⑫ 佑. ぱならたい︒﹁われわれは︑純粋に知的な過程によってく説明Vする︒だが︑︿了解Vは︑把握におげる一切の心情. 諸力の協働による一とディルタイはいう︒個々のものの把握・了解もまた︑われわれが全体的連関のうちに生きてい. 202.

(15) 43. 力 6. るという意識によって可能である︒全体の把握が個々のものの解釈を可能たらしめる︵註ωぎ夢窒g宗血Ω彗︑彗2o. H津睾肩9き昌ま眈臥竃O巨昌①旨島5引︶︒さらに︑全体の把握が個々のものの解釈を可能ならしめる場合︑全体にた. いする個々のものの価値づけということが生ずる︒われわれの内部知覚としての心的諸事実︑われわれのうちなる個. 々の心的遇程は︑心的運関の全体にたいする種々なる価値意識を伴ってあらわれる︒したがって︑内的把握そのもの において︑すでに︑本質的なるものと非本質的なるものとの区別が出てくる︒. さきに︑われわれは︑記述的分析的心理学の記述と分析とができるかぎり確実性をもつべきことを述べて︑論述を. 展開してきたのであるが︑有に触れたことも︑じつはほかたらぬ確実性︵ω事①︸①6の間題にかかわるのである︒す. なわち︑外界の自然認識の場合とちがって︑かかる内部知覚の場合は︑対象の全き実在性−−対象において心的違関 鋤 が直接的にあたえられていること−に確実性の根拠があるのである︒このような心的連関におげる価値意識と確実 性の度合とは無関係ではない︒. ディルタイは︑以上のごとく︑記述的心理学なるあたらLい心理学を提唱し︑それが精神科学に不可欠のものであ. ることを主張ナる︒そして︑右に触れたかぎりのものは︑記述的心理学の一般的部門︵ま;一冨⁝一篶↓︑eであり︑. これにたいLて︑いわぱ特殊的部門として︑心的生活の三大分肢であるく知性V︿衝動.感情生活V︿意志行動Vに. 鶴. おける心理学的記述と分析の仕事が︑これにつづくのである︒しかし︑いまここでは︑それに立ち入る余裕はない︒. 冒頭で述べた第二期については︑だいたい上述でとどめ︑次に︑第三期︑すなわち︑一九〇四年から一九一〇年へか けての﹃序説﹄続巻への努力について︑触れることにしよう︒. 203.

(16) 第二期から第三期へかげて︑ディルタイにおげる転回が︑しばしば指摘されている︒それは二蕎でいって︑心理学 ㈱ 的考え方から解釈学的考え方への転回である︒ディルタイ自身︑﹁われわれは︑いままで述べてきたったところを超 ㈲. えていくことになる﹂︵q邑書目鷺す彗ま﹃豪實O顯蜆げ雲睾∪賞鷺一晶箒巨冒與豪︶といっている︒また︑ディルタイは. 国家・教会・制度・風習・書籍・芸術品などが問題となる場合︑これらの事実は︑人間それ自体とおなじく︑外的た. 感性的側面の︑感覚をこえた内的な側面にたいする関係をふくんでいるとし︑﹁ところで︑さらにこの内的な側面は. 規定されねぼならない︒その場合よく犯される誤謬帖この内的側面にかんする知識として︑心的生活の過程を︑す ㏄ なわち心理学を︑もちだすことである﹂といっているaこの言説のたかでは︑たんに心理学とだげいっている︒もし. その心理学が前述の説明的心理学のことであれぽ︑たとえ﹁いままで述べきたったところを超えていく﹂とLても︑. 説明的心理学から記述的心理学へと超えていくことにたって︑そこには︑第二期とくらべて︑なんら転回がないこと. になる︒そこで︑もしこの心理学を︑説明的・記述的を間わず︑一切の心理学を意味すると解すれぼ︑それを超える. というのはすべて心理学的立場を捨てることを意味するわけで︑心理学から解釈学への転回がそこに含意されている. ことになる︒はたしてそのいずれであろうか︒ 一 ㈱ われわれはすでに目目頭で︑そのような推移を展開としてとらえていくことを︑明言Lた︒その立場からすれぱ︑右. の間題を批判的にみて︑おそらく次のような解答が出ることであろう︒すなわち︑そこでいわれる心理学は捨てさら. れる.べき心理学的立場のことであり︑したがって︑心理学から解釈学への転回が含意されているのである︑と一︑しか. ︑. ︑. し︑すぐ言葉をつづげて︑その揚合︑そのようたく転回Vをこまかく考察する必要がある︒それぱ転回とはいえ︑じ. つはすでに存したものの展開ではなかったか︑といわねぱならない︒そして次に︑転回であるものが展開でありうる. には︑そのような転回がどのような仕方でおこたわれているのであるか︑が間われなけれぼならない︒. 204.

(17) 45. われわれはそのような展開の仕方をく態度Vの転回とよんでよいようにおもう︒第二期までは︑ディルタイはいま. だ自然科学から論をすすめて精神科学へいたり︑自然科学を一︒つの目安として精神科学の特性を浮きぼりするという. 仕方にしたがっていた︒これにたいLて︑第三期においては︑かえって精神科学のほうから︑あるいは︑それと自然. 科学との弁別以前の領域から︑論をすすめていくことが︑ディルタイに可能となったかともおもわれる︒第二期にお. いて︑説明的心理学にたいして記述的心理学が立てられたのも︑かかる事情によるものであり︑第三期において︑. ︿人問性V︵竃彗窒;呉︶とかく事態V︵豪亭婁昌匝︶がまず取り上げられるのも︑このようた理由からである︒第二. 期において︑説明的心理学から記述的心理学への方向において取り出された価値とか体験たどの概念は︑ふたたび第. 三期において︑重要欠くべからざるものとして︑取り上げられている︒さらに別の例をあげると︑第二期において説. 明的心理学にまつわるものとしてしりぞげられたく構成Vの概念が︑第三期においては︑こんどはひとたび記述的心. 理学を経過してきたものとして︑是認された形で︑精神科学の領域のうちに拾い上げられている︒そして︑歴史的世 鯛. 界の構成︵ぎ夢彗o撃鷺8巨o;一9彗ミo5や概念構成︵雰畳穿げ旨⁝o・︶までいわれることになる︒. さて︑このように第三期においては︑第二期とは精神科学の基礎づけの︿態度Vにかんして異たり︑したがって︑. じっさいの基礎づけの遂行もまた︑様相を異にする︒以下︑そのことについて論述することにしよう︒. 第三期におけるとりわけ注目すべき論文は﹁精神科学における歴史的世界の溝成﹂︵忌﹃ぎ夢竃ま・団・霧まOゴ畠99. 鯛. ミ①一二目匹彗Ω募蚕乏窒o舅9き畠︶であるが︑そこでは︑精神科学を自然科学から確実た標識によって区別するとい. う︑精神科学の限界づげ︵>高冨冨冒①目宗﹃Ω芸募乏留彗眈9顯津g︶のこころみがまず在される︒ところが︑そのような. こころみをなしながら︑ディルタイはただちに︑精神科学と自然科学とを︑そのそれぞれの対象をなす二つの事実領 ① π 域によって︑二つの部門として論理的に正確に区別しうるものではない︑ともいうのである︒このような一見矛盾1︶. 205.

(18) た言説も︑じつは︑前述のごとき︿人間性V八事態Vから説きすすもうとする第三期のディルタイを考えるとき︑理 刀 σ 解されるのである︒すなわち︑かれは︑物理的なものと心理的なもの︵ま血雲豆ωoぎ冒己雰着プ一8ぎ︶︑あるいば外と オ 貯 内という相対概念︵匹窒雰管戻寝胃宗ω>奏①;⁝匡−⁝彗︶は︑必要に応じて抽象化されたもので︑そのようなもの. によって二分される自然科学と精神科学の分類は︑かかる抽象体の範囲内︑かかる抽象をおこなう観点の限界内にお. いてのみ︑妥当するにすぎないとする︒このような抽象は︑人聞性という事実や事態そのものにたいしてある種の特. 味する︒そこには意味や目的や価値のみがあらわれる︒これが構成のための第二の中心である︒そして︑精神科学が. の構成が生ずる︒第二は︑人間が自然からふりかえって眼を貞已自身に向けた場合である︒それは体験への復帰を意. 仮設として用いざるをえない︒結果としては︑人間みずからは排除されたうえでの︑自然という大いなる法則的秩序. となる︒世界は空間的延長という観点からとらえられるので︑自然の斉一性︵9o巨ま⁝嵐ぎ6が立てられ︑それを. 支配される形のもの︒この場合︑心的過程は物理的世界へ埋没したかのように見え︑自然が人間にとって現実の中心. する態度決定は人間性の本質にもとづくという考えである︒﹁これらの科学の対象は︑人問性にたいして外から持ち 勾 序 こまれたものではなく︑人問性の本質にもとづいている﹂とディルタイはいう︒ 伺 次に︑精神科学の構成について︒ディルタイは科学的研究の二大傾向について語っている︒第一は︑人間が自然に. とによって切り抜けられる︒すなわち︑人間性そのもの︑事態そのものは分類根拠をもたないとしても︑これにたい. た︑一つの矛盾した所説につきあたるのであるが︑この矛盾はもとより外見上のことにすぎず︑次のように考えるこ. ろがまた︑かれは︑このような二部門への分類は︑人問性の本質にもとづくともいっている箇所がある︒ここでま. 定な態度をとるところから生ずるのであって︑人問性という事実・事態そのものはそのような二分をゆるすものでは 劃 庁 ない︒ディルタイは﹁これら二部門を分かつ分類根拠は︑事態そのもののうちにはありえない﹂といっている︒とこ. 蝸. 206.

(19) 47. この第二の構成にしたがうものであることは︑いうまでもない︒. さきほど︑第三期の特色として︑精神科学にも構成のあることを述べたが︑それは右のごとき第二の中心からなさ. れるものなのである︒そこで︑このことと関連して︑対象的把握︵鴫轟昌蓬目肇g窪陣冨馨硯醐竃︶が説かれている︒こ. の対象的把握が説かれているということが︑構成を前面に押し出してきた第三期の特色をなすのである︒. ディルタイは︑精神科学の基礎づけのためにまずもって解決されなけれぼならない三つの課題のうちの一つとし 司 7 て︑繕神科学の一般的な論理的構造の間題を挙げてい勾これは︑精神科学的認識の普遍妥当性の間題にほかならな. い︒すなわち︑心的生活という領域においてあたえられる始源的意識素材がはたして普遍妥当的でありうるかという. 間題である︒この解明のためには︑精神科学的認識があくまで認識であるかぎり︑その認識構造−論理的溝造1. が︑間題とたるのである︒ディルタイは︑第二期とは異なり︑率直に︑かかる構造論は自然科学たると精神科学たる 刑 とを間わず同一であり︑同一の思惟形式と同一の思惟操作を用いることを︑認めてい句︒ただ︑精神科学に特有な課. 題と制約のために︑このおなじ基礎から精神科学独自の方法が生ずるのである︒第二期においては説明的から記述的. へと︑すなわち︑自然科学を目安として精神科学へとすすんだディルタイが︑このように︑精神科学から自然科学. へ︑あるいは︑爾老に共通な地盤から精神科学の独自性を基礎づげるという方向へたちいたったことは︑注目にあた. いする︒ところで︑対象的把捉ということは︑このよう在点において︑すなわち︑普遍妥当的危知識を成り立たしめ るべき論理的構造が間われる場合に︑関説されるのである︒. 対象的把捉とはたにか︒それは︑知覚・体験・記憶表象・判断・概念・推理たらびにそれらの複合体を包含する諾. 20フ.

(20) 48. 関係の体系をいう︒対象的把捉はまず︑所与性の形式をかえることたくしかも所与にふくまれているものを判明た意 ㈱ 識にまでたかめる操作としてあらわれる︒それは第一次的な操作︵呂冒與毒H・芸g暴︶である︒その次に︑比較. ︵く宰σqζg彗︶の操作がおこなわれる︒この操作によって︑もろもろの事実が等しいときれたり︑等しくたいとされ. たりする︒さらに︑分離︵享①昌g︶の操作がこれにしたがう︒すなわち︑所与において二つの事実が分かたれ︑そ. れらが別個の事実であることが把捉されるのである︒かかる分離をもととして︑つまり︑分離されたもののあいだの. 到 7. 関係︵雰豪ぎ轟︶をもととして︑次の操作がおこなわれる︒これらすべての操作は︑所与を閲明する︵彗菱岬︑︑箏︶基. 本的思惟操作︵寿冒彗︷彗①∪彗区芸g自匝・彗︶であ旬この操作は︑次にくる比量的思惟︵豪ぎ轟ぎω一︺︑目斥︑目︶に先行. し︑かつ︑それへの一朋芽をふくんでいる︒すなわち︑等しいとする働きには一般的判断および普遍概念の構成と比較. 鋤. 法がふくまれ︑分離の働きには抽象と分析的方法がふくまれ︑関係づけの働きには各種の綜合の操作がふくまれてい る︒かくして︑対象的把捉は比量的思惟へとすすむ︒. 基本的思惟操作が所与の模写であるのにたいして︑比量的思惟はそれ以上の働きをする︒比量的思惟は表現︑とり. わけ言語表現において具体化する︒そこでは︑表現の︑表現されたものにたいする関係が生まれる︒いいかえれぱ︑. それは判断の間題である︒判断においては︑対象についてある事態が陳述される︒このことは︑判断が︑所与ないし. 表象のたんなる模写にとどまらないことを示している︒このようにして︑判断と︑これまで述べてきた対象的把捉の. 諸形式とのあいだには︑あるあらたな関係が生ずる︒そのさい︑かかる関係は二つの側面を示Lている︒一つは︑や. はり判断といえどもあくまで所与を根底としているということ︑他は︑ただ潜在的に開示しうるものとしてふくまれ. ているにすぎないものを︑顕示する働きをなすということ︑これら二面である︒前者においては代表︵く賢鼻言胴︶. という関係が生ずる︒判断は︑所与にふくまれた事態を代表するのである︒後者において︑制約された特殊な可変的. 208.

(21) 期. ﹄ 俸. たものから出発して実在の根本的な関係へ迫ろうとする対象的把捉の意図が︑判断によって実現されるのである︒. このようにLて︑比量的思惟の分析からは思惟形式︵冒目罧o旨彗︶が得られ︑もっとも普遍的た性質は思惟法則. ︵U彗翁窪ω§︶として表現される︒さらに︑思惟形式および一般的思惟操作が一定の科学的謙題を解決しようとする. 目的によって結合されて複合的な全体をなす場合には︑科学的方法︵9冨色窒①冨oぎ肇婁︒竃oまo宗︶が成立する︒. ディルタイは︑これらを通じて︑すなわち︑基本的思惟操作による所与の蘭明︑記憶表象におげる模写︑比量的思惟 副. におげる代表のすべては︑代現作用︵寄召駐彗芹き竃︶という包括的な概念のもとに包摂されるという︒. ところで︑ここで注目すべきことは︑﹁基本的思惟操作に類として従属している比量的思惟操作︑すなわち︑比較. ・類比推理・帰納・分類・根拠づけの達関は︑それぞれの思惟領域の限界づげ︑とりわげ自然科学と精神科学の相互. 規定とは︑なんら関係がない﹂というディルタイの言葉である︒前述のごとく︑第三期におけるディルタイは︑自然. 科学と精神科学に共通た地盤から︑精神科学の隈界づげをこころみているのであって︑その端的たあらわれが︑この. 言葉となって結晶しているといえるのではなかろうか︒先き立っていえぽ︑基本的思惟操作に比量的思惟操作が類と. して従属するのであるが︑さらに︑その比量的思惟操咋に種として精神科学に特有な思惟操作が従属するといえる︒. ただし︑この場合︑従属とは思惟段階の高下・広狭によっていいあらわされるのであって︑それ自体としてみれぱ︑. かえって︑精神科学に特有な︑もっとも下に従属するはずの思惟操作が︑きわめて優位に立つことを︑忘れてはなら ない︒. さて︑右のごとき対象的把捉の連関が︑精神科学のもつ制約のもとに立つとき︑精神科学の特殊な構造が生まれ. る︒﹁精神科学においては︑思惟形式と一般的思惟操作とを基礎として︑特殊た課題があらわれ︑それが独自の方法 ㈱ の協働によって解決される﹂とディルタイはいう︒すでに前稿で触れたように︑精神科学は自然科学にたちおくれ. 209.

(22) 50. ︒. 能動と受動︵事物および人間の︶︵ω亭箒彗昌邑−邑彗︶などが見出される︒ここでディルタイは︑二つの注目すべき. には︑心的生統一の諸規定︑すなわち︑生の交渉︵■&gωぎき鷺︶・身がまえ︵ω置一冒遷き⁝︶・態度︵<彗ぎ景聲︶.. ものとして︑なんら加工することなく提えるべきことを主張する︒﹁われわれは︑種々の科学的労作を加えないまま 司 ︑ ︑ 俸 ︑ ︑ の事実に迫り︑この事実それ自体をたまのまま捉えねぱならたい︒﹂このようななまのままの生に当面すれぱ︑そこ. たかに展開するのである︒ディルタイは︑体験や了解がそこでおこなわれるく場Vとしての生︵−9昌︶を︑生その. ろがっていって精神的なるものを生のさまざまな表出から完全かつ方法的に汲み出せば汲み出すほど︑繕神科学はゆ. れら三老の関係は精神科学の基礎であるという︒体験が深まれぱ深まるほど︑そして︑了解が精神の客観化全体にひ. て︑たんに論理的・抽象的な仕方ではない体験︵塁9妻︶・了解︵く婁け昌9︶・表現︵ぎ邑;鼻︶を挙げている︒こ. に︑注目Lておきたい︒さらに︑ディルタイは︑精神科学に特有な思惟操作−前述の種としての思惟操作ーとし. ω葦軍毒︶の二つを挙げている︒前者は杜会的歴史的現実の成素のことであり︑後老は︑前老において種々の操作が 錫 相互に結合する連関を指すびかかる二つのものが︑以下に展開されるディルタイの解釈学の基本的な視点であること. ディルタイはまず︑一般的術語として︑心的生統一︵単位︶︵湯着募oぎ冒冨轟〇一亭︒6と心的構造︵o︑く︒巨︑︒す︒. >轟o畠竃oo昌冒琴oき︶相違しているのである︒では︑そのような相違とはいかなるものであろうか︒. わらず︑精神科学における方法の違関が︑自然科学におけるそれと︑そもそもの出発点からして︵︑︒巨昌く︒目暮︑︒冒. 方法は︑心理学・美学・教育学などで用いられるようになった︒しかし︑そのような事実上の影響.被影響にもかか. 用いられた比較法は︑やがて精神科学でひろく用いられるようになったし︑はじめ天文学や生理学で発達した実験的. 殊た課題へと適合させるその仕方にかんしても︑精神科学は自然科学の影響を受げている︒たとえぱ︑生物学で最初. た︒そこで︑精神粋学が自然科学からの影響を受けた一﹂とは否めない事実である︒恩惟形式と一般的思惟操作とを犠. 鯛. 210.

(23) 馳. 点に甑れている︒一っは︑すべてこれらのことのおこなわれる底層・場・地盤︵ζ葦睾憤冒戸ooぎき昌︶ということ︑. 他は︑生の交渉の軸となるべき自我︵ま己争︶ということである︒これら二つの点をあわせて︑自我による生の交渉 副 は︑生の底層.場.地盤のうちにすべてふくまれている︑とディルタイはいね﹁かかる生の底層のうえに︑生の態. 度の類型として︑対象の把捉︑価値の附与︑目的の定立などが︑相互に移りゆく無隈のニュアソスをもって︑あらわ. れる︒これらのさまざまな生の態度の類型は︑生のプロセスのうちにおいて︑緊密に連関し緕合され︑あらゆる活動 鯛 と展開を包含.規定するものである︒﹂この点について︑ディルタイは︑拝情詩人が体験を表現する創作活動を例に. とって説明しているが︑自我による生の交渉から︑対象の把捉はもとより価値や目的の定立も生じきたることに︑注. 目しなけれぱならない︒また︑ディルタイが﹃哲学の本質﹄︵冒ω奉窃昌ま﹃雲ぎ8冨一9岩8︶や﹃世界観の研究﹄. ︵冒︒ξ君目ま・ミ隼彗窒ぎ⁝昌O専L畠◎︶で述べている哲学の類型︑世界観の類型も︑右のごとき自我による生の交渉. 9 8 を地盤として発生してくることを︑おもわねぱならな㌧. ︑. 90. 昌巴竃︑彗胸︶がすたわち個人の生活経験︵宗び彗伽艮註;轟創9ぎOまO量冒9電易α目一げぎ■O冨舅Oユ筆;長︶であ智こ. ︑. く︑他人の状態や種々の外的状況についても︑想起がはたらく︒−﹂のようにして集成されたものの概括︵ぎ轟目零−. し︑すでに体験されたものは退いていく︒そこに︑自已の生のプロセスについての想起が生まれる︒それとおなじ. ない︒前述のごとき対象の把捉は時間のうちでおこなわれる︒時のすすむにつれて︑あらたに体験されるものは増. ディルタイはさらに生活経験︵−①冨嘉彗敏ぎ冒胴︶を説く︒これは︑生が時聞的かつ対他的に展開する相にほかたら. ↓. れにたい﹁一て︑おなじ領域にぞくする人び︒とのあいだでつくられ︑その人びとが共有する諸命題が︑一般的生活経験. 211. !、.

(24) 52. ︵竺鷺旨ム毒宗冒嘉睾︷巴一;轟︶である︒個人的生活経験は一般的生活経験において拡大されるとともに︑その個人的. 視点は訂正される︒かくして︑生と生活経験と精神科学とは密接な関連をたもちつつ交流しあう︒. このようた生と生活経験と精神科学との交流のなかから︑じつは︑精神科学に独特た方法もまた生ずるのである︒. 精神科学およびその方法は︑自然科学およびその用いる方法とこの点において明らかに異たるものをもつ︒これをも 力 ㊤. ︵−⁝薯︒︑匹︒目oぎ︒ωo︑着豪g︒目ざ段彗匝︒囮ヲ置冨︑. っとも簡明にいいあらわせぱ︑﹁生が生を把捉する﹂︵■9彗9雪零5冨目︶といえよう︒精神科学の基礎をたすものは︑. 概念的な方法ではなくて︑心的状態を全体的に覚知すること. Ω彗きo6︑追体験によって心的状態を再発見すること︵≦&o島邑彗ま岨邑げ彗一昌麦︒︸︒︑一︒げ︑目︶である︒精神科学に. おいては︑一方に生があり︑他方に科学的方法があるというのではたくて︑両者が密接不可離に綜合しており︑生の. 思想構成の営み︵ま胴&彗ぎ姜豪邑①>・童;鶉−g①易︶がそのまま学的創造︵註ω皇萎易o巨津まぎω争簑彗︶の根 鋤 底をなすのであ旬ディルタイは︑歴史学や杜会科学においても事情は同一であるという︒. 前述のごとく︑生は時間のうちにおいてある︒わたしは以前おこなったわたしの営みのことを知っている︒そし. て︑現前にあるものはわたしを未来の営みへみちびくであろう︒このように︑すべてこれらのく⁝についてV. ︵oσ睾︶︿⁝⁝にかんしてV︵くo冒︶︿⁝−にたいしてV︵ぎ︷︶という関係︑体験・想起されたものにたいする︑ま. た未来的なものにたいするすべての関係は︑わたしを前方へ︑また後方へと牽く︒飽くことのない体験の要求がわた. しを次々とあらたなる関係項へと牽引していく︒ディルタイは︑かかる時間的な心的達関をく生の過程V︵幕ざ奉. き・一彗︷︶とよぶ︒ところで︑体験のこのような時間的構造は︑いまだ個人的・主観的な制約のもとにあり︑それに伴. う狭隆さから脱していない︒体験のこのような狭駐さを打破するのが了解の働きである︒しかし逆に︑了解もまた体. 験を前提することなしには︑働きえない︒﹁理解は体験を予想し︑体験は︑理解によって︑体験の狭隆さと主観性か. 212.

(25) 53. 蝪 ら︑全体的なるもの︑普遍的なるものの領域へと解放されることを通して︑はじめて生活経験とな奄﹂体験と了解︑. そして精神科学の一切の手続きは︑かかる相互依存の関係︵庄麸<宰霊一邑ω鷺鷺昌竃一冨竃き轟長一黒睾︶によって規定 幽 されている︒精神科学の特色の一つはまさにこの点にある︒. 以上のように︑体験と了解とは相互関係においてあり︑相互制約の関係にあるわげであるが︑体験がもっぽら個人. の深みへとすすむ比較的せまい把捉であるのにたいして︑了解は︑他の個人への関係づげであることによって︑体験. をよりひろい場へと拡大する︒しかし︑その反面︑他の個人の体験を了解するのは自已の体験によってであるから︑. ここに体験と了解との相互関係は︑自と他の相互制約という一種の循環を生み出す︒ディルタイはここに発展進歩の. 考えを取り入れ︑かかる一種の循環も︑決して同一の段階にとどまる循環でなく︑その交互作用を通して事態を漸次 蜴. 鉤. 的に閲明していく︵竺旨岬彗oぎ>自麦腎冒胴︶関係であるとする︒そのことによって︑﹁精神科学は全体としてとにか. く進歩﹂ているLといいうるのである︒. ここでディルタイは︑かれの精神科学においてきわめて重要な位置をしめるく生の客観化V︵◎σ冒奏くき旨ま血. 籏冨易︶の概念を提起する︒生の客観化とは種々の構造連関をもった生の外化︵<彗ぎ寄;轟︶のことであり︑了解に 餉. おいて体験の主観性にたいしてあるところの︑いわぱ﹁精神の外的王国﹂︵まω彗津冨家一争宗ω①9ω冨︶である︒そ. れは自然の連関のうちにやすらっている精神の外的現実なのである︒たとえぱ︑制度・法典二一呈胴・身振・芸術作品. ・歴史的行為たどをその例として挙げることができる︒われわれは︑かかる︵共同態という︶雰囲気のうちに生き︑. かかる雰囲気にとりかこまれ︑いわぱかかる雰囲気のうちにひたっている︒︵婁・ポ冨目ざg霧弩>冨o醐暑甘鶉♂雲 鯛. 鶉昌ω弐竃彗ぎ享冨目昌胴葦冒岨まω註己何 峯庁ω一己色馬9彗O睾ぎ昏︒︶さて︑このような生の客観化ということか. ら︑共同態の観念が︑そして︑それに伴って︑普遍妥当性の間題が生ずるとともに︑歴史的なるものの把捉もまた可. 213.

(26) 能となる︒︑なぜなら︑精神がこんにち︑その性格から生の表出へ移し入れたものは︑それが存続しているかぎり︑明 鉤 日は歴史であるからである︒. ディルタイは最後に︑精神科学の概念をとりまとめて次のごとくいう︒精神科学のおよぶ範麗は了解作用のおよぶ. 範囲とひとしい︒しかるに︑了解作用は生の客観化をもってその統一的対象とする︒したがって︑精神科学のおよぶ. 範囲は︑外界におげる精神の客観化のありうるかぎりということにたる︒自然科学においては︑その対象としての自. 然は精神の働きとはなんのかかわりもなく生じた現実を包含するが︑精神科学においては︑精神は精神が創造Lたも. ののみを了解する︒人間が活動Lつつ生み出した一切のものが精神科学の対象なのである︒ここにいたって︑前述の ㎝ ごとき﹁生が生を把捉する﹂は︑﹁精神は精神が創造したもののみを了解する﹂というように展開されるのであ到︒. ディルタイにおげる精神科学の概念と方法にかんしては︑なお立ち入って︑少たくとも歴史的なるものや歴史的世. 界の溝成について︑さらにかれのいう文化体系について︑触れなげれぽならないL︑かれがじっさいに精神科学の概 10 念と方法を適用して研究した一連の具体的研究や︑また根本的にはかれの哲学プロパーの諾論文についても検討Lな. けれぱならない︒小論においては︑それらの諸点については︑ついは関説することができなかった︒ただ︑小論は︑. 前稿とあわせて︑ディルタイにおげる精神科学の概念と方法について︑間題点の摘出を中心とし︑かつ︑その展開の. 一二. あとをできるだけ方法論的に整備してたどることをこころみたにすぎたい︒しかし︑﹁ディルタイにおげる精神科学. 拙稿﹁ディルタイにおける精神科学の概念と方法−﹃精神科挙序説﹄を中心と﹂て−L︵早程禺商挙第一七七号︶. の概念と方法﹂と題する一連の論究は︑ひとまずこれをもって終えることにしたい︒ 註ω. 一頁︒. 214.

(27) 55. ② 同. 同. 九六頁︒. ③. たとえぱ︑ハイデガーについては︑その思想の展開か転向かが論議された︒ディルタイの場合は︑むしろ展關であるか同一. 一一八頁 以 下 o. ④. であるかが問題となる︒筆者はこれを一応展開とみなLて論ずるのであるo. それは次の論文となっているo−昌o目①昌﹄胴窃o巨oまo︸o血目o−9畠冨︒. ⑤ 前掲論文︑ 一一一頁o ⑥. ω 前掲論文︑九四頁o. ①9ω一〇9. U葭ω. ωo冬O籟誌9目. ^O︺. たとえば︑へーゲルのエンティクロペディによってもそのことは知られる︒国o胴①ポ向昌ξo−〇七岬g①創①﹃亘一畠o8七巨窒ブo目. 隷谷恒夫﹃認識現象挙序説﹄も挙げられている︒. ディルタイとへーゲルを−﹂のような観点から論ずるものとLては︑小松摂郎﹃精神科学方法論﹄があるoなお︑そのなかで. の確実性について﹂仏教文化研究所収︑近刊︶O. ⑧ 精神そのものの学としてのへーゲルの弁証法を︑とくに信の確実佳︵o⑭ミ轟ぎδの面から考秦することもできる︵拙稿﹁信. ⑨. ⑩. ︼︺鶉ogo〆↓才oΩ①赤け一. >窯①昌目目藺q−一U雲窒go岸↑苓ooo泳け. 奉床器冨o庁国津ωpU﹃葦①﹃↓o芦勺堅−8oo−げ庄霧Ω9g鶉.. >事9;昌藺目ド. >ま①自自箏胸ω.一U胃き8−o箒Ω①雲.. 本稿五三頁o. 昌oω. ⑪. ︸ザ叫目O昌o目O−oOqぎ. やはりエンティクロペディによると︑精神哲学の⁝部門は次のごときものをふくむ︒ ^︸︶U討. ⑫. 雰着ぎ−o牲9U異oo雲. U①﹃眈qσ−①汗艘くoΩ色9⊥>︺>目一=HOOO−o胴−9U庁 ωogo. 215.

(28) 56. Uo﹃Oす−o斥巨く①Ω五9H︵>︶U顯眈肉①oブ吋^籟︶Uポ冨OH印−岸眺け︵O︺U⁝oωま巨ざす〆o津一. −︶睾き弩;①Ω①ゑ⊥>一∪一①︻冒ω二埋冒o鷺o箒目9﹃冨家一優昌一〇一冒①雲目oωo昌一ρ. なお︑ディルタイがへ−ゲルの客観的精神を批評し︑かつ自己の﹁生の客観化﹂と弁別しているのは︑後述の﹁精神科学に. おげる歴吏的世界の構成﹂という論文のなかであるが︑そこでかれは︑はっきりと︑﹁へーゲルがこの︵客観的精神という︶. 概念の根底においた前提は︑こんにちではもはや維持されえない﹂といい︑その理由とLて︑へーゲルがそれを形而上学的に. 構成したのにたいし︑ディルタイの場合は所与の分析から出発している点を挙げている︒そして︑観念的構成そのものを放棄. するとき︑客観的精神のあらたな概念が成立するといい︑その場合の客観的精神︑つ童りディルタイの﹁生の客観化﹂は︑類. −零.. 型へと分化していく組織をふくんでいるといって︑暗にかれの展開の方向をも示唆Lている︵冒斥ぎきΩo窒冒冒98ωo葦薫竃 く員ω一H害︶.. ρ竃胃sポU昌肉①︷易ψ■︑まくos弐oξ−竃9や轟.. ⑬ ω睾雪窒葭ζ鷺弩♀ωく胴ま目昌雪巨U邑彗︵留冒一〇〇〇<8寿胃−H︶o ⑭. なお︑この点をとくに敢り上げて指摘しているのは︑﹃存在論的神秘の定立とそれへの具体的接近﹄に附せられたド・コル. ト教授の解説である︵︸O岨三冒9岩肩o9窒8■0H9窃2﹄目壱箒冨昌8−oOqζ﹄9弐言邑冒巨o箏O胃昌胃8−まOo算oら・寄︶一. O.甲◎.勺O冨真竃饒昌には﹁自乗・強化﹂の意味がある︒その動詞O〇一彗冨實は﹁自乗する・強める﹂の意︒キルケゴール. ⑮ 丙ざ妥o藺q墨H♀o勺一〇ぎo︐Hお一. ⑯. はここで︑シェリングの勺o冨冨︵展相・勢位︶を思いうかべているものと推察される︒. 宮本武之助﹁宗教哲学﹂︵キリスト教大事典︶︒ここでは︑宗教哲挙を理佳パと啓示の関係から三種に分類している︒第一は理. は伝達できるか﹂︵﹃月刊キリスト﹄第十六巻十一号︶である︶O. ィシ亘ンの問題として提起し︑かつ︑キルケゴールの﹃死にいたる病﹄とブーバーの批判に触れているのは︑権名麟三﹁真理. ⑰ キルケゴールにおける狭隆化については︑0・F・ボルノウなどからの指摘がある︒︵この点を文学におけるコンミュニケ. ⑱. 2I6.

(29) 57. 性によって啓示が基礎づげられるとみなす宗教哲学で︑いわゆる哲学的宗教哲学がそれである︒第二は理性と啓示が相亙に緊. 張関係をなすとみられるものであって︑宗教的経験も重んじ︑それにふさわしい哲挙によって宗教の本質ないL摂理を明らか. にしようとする宗教哲学である︒トレルチ︑ヴォヅバーミン︑ティリヅヒ︑波多野精一などが挙げられる︒第三は啓示を根本. とし︑そこから啓示と理性︑神学と哲学などの関係を明らかにしようとするものであって︑E・ブルンナー漆挙げられるoそ. −.勺.ω脾﹃冒90H津昼冒o〜o5H凹床o箏O−巴①〇一昼目90目①ω巨o目庄①目志↓︐o匝9戸−oo−. して︑﹁この種の宗教哲学に近い立揚をもつものとして︑キルケゴールがあげられ得るであろう﹂というのである︒ ㈹w. ⑳ サルトルはこういうoマルクスは︑キルケゴールにたいLても︑へーゲルにたいしても︑ひとLく正Lかったoなぜなら︑. かれは︑キルケゴールとともに︑人聞実存の特残性を確認するから︑また︑へーゲルとともに・具体的入間をその客観的現実 性のなかで捉えるから︑とo︵ε・o声ラ曽︶ ⑳ε一〇竿〇一− 昌 一. 鶴. 奉一冒−葦oき5o彗書實①ぎ①σ鶉9冨亭彗ま目冒o轟蟹−−&o;ま雰︸9goo膏川90o窒昌昌9冨ωo享津彗︵以下oωと略す︶. 小松︑前掲書:ハ六頁︒. ⑳ oり一9 一〇一冨一. ⑳. ㈲. 主著として■争まεテo實雰溝ぎ5胴一①巴ωzg昌ま錫雪㎜oぎ︷一一−o︒おがある︒. O巨ミo罵−弔ω︸oブo−oO目す﹃︸饒o5顯=9閉ト. く−ω一冨o〇一. ⑳. ﹁われわれが内省によってわれわれのうちに見出すような複合的な心的現象は︑一定の要素の協働により︑一般的合法則佳. ︑. ︑. ディルタイからいえぼ︑かかる心理学は雰着ぎo−湯寿とよばれるべきものである︒ディルタイのいう精神物理的統一を扱. ○弄ω﹂蟹︶︒それは可能性を示すにとどまるがゆえに︑ヴォルフ的形而上学の立場を克服したといえる︒. ︑. にしたがって︑構成されるものであるという︑可能性を示す﹂のが︑説明的心理挙であるという︵Oや〇一け・OO﹄9冒斥ぎきO?. ⑳. 鶴. 217.

(30) 58. うぺき心理挙はこのようなものであるといえようか︵前稿一〇八頁参照︶o. ・︑ルにたいするディルタイの見解については前稿で少しく触れた︵前稿一〇二頁︑二二一頁註④. −⁝戸>冨冨跡o;ブo雲彗o冒彗顯o二ぎ雪昌目竃量まし竃p冒事oきΩきメω﹂8.. U昌婁oきo勺.色けω一旨ト一. 照o. る︒次お︑拙稿﹁ミル﹃論理学体系﹄におげる論理と倫理−精神科学基礎づげへの序曲1−O﹂︵﹃哲学年誌﹄第2号︶参. 参照︶︒これらの点をとりまとめると︑ディルタイからみてミルの精神科学の基礎づけがどのように位置づげられるかが分か. −︺葦ざき名・o汗ω・崖ρ. 鋤⑳ 冒−書①きOり一〇ぎω一N8一. 事一旨昌o9軍川富宣窃艮︸毫争〇一潟きNき一ω一Hoo8. 一. ︵■o瞥〆b0■oρ−oo轟ムoo︶も挙げられているo. 前稿一一六頁参照o. 冒−旨oきεlq↓一ω一−違.. ξo葦ψ崖ωし章. 〇戸O声ω.崖ω一. ε一9け1ω一 崖 ト. ○ラo声ω.−葛一 〇〇一9片一ω一崖ぺ一. ほかにジグワルト︵O享葬o宮一く旨ωぼ峯胃けHo.8−畠實︶の論理学. 奉一峯目目争一竃彗血991目冒O−⑦易8−9−O081竃一ω一旨〇一冒−亭①きε一9けω一H薯一. ディルタイはミュンスターベルクの>目傳きo目目箏︷冨o艘a彗︷o﹃戻漬ぎ一〇阻9Hoo胃を参照すべきことを註記している︒. 與一凹一◎一. 鉤錫鋤鰯働鉤. 鱒陶㈹㈹鉤鯛餉. 2I8.

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