位相に着目した時系列解析の神経科学 及び政策科学研究への適用
Application of Phase-Focused Time Series Analysis to Neuroscience and Policy Science
2011年 6月
早稲田大学大学院 理工学研究科 生命理工学専攻 応用分光学研究
川島 浩誉
目次
第1章 序論 01
第2章 神経科学研究への適用 04
第3章 政策科学研究への適用 32
第4章 総括と展望 67
第1章 序論
1.1 本論文の概要
定量分析において変量の時間変化を捉える解析方法すなわち時系列解析は、
様々な領域、様々な視点、様々なデータに普遍的に用いられる手段である。
従来、「時系列解析」は周波数解析や金融・経済時系列の文脈における予測 モデルの構築などを意味していたが、本論文では時系列解析の中でも特に時系 列の「位相」を求めることで時系列を解釈・解析する方法に着目し、これを応 用することで複数の分野のデータに適用し、それぞれの分野において有用な知 見を得た。
本論文において記述した研究は、神経科学研究と政策科学研究の二つであ る。神経科学研究においては、記憶、特にワーキングメモリ(working
memory、作業記憶)と呼ばれる短時間の記憶に関して提唱されている計算モデ ルとしてJensenとLismanが提案したモデルを研究対象とし、記憶課題を行っ ている最中の脳波の試行間の位相の同期性を表す指標である Phase
Synchronization Index を求めることで、反応時間の形で行動に現れる記憶 負荷と脳活動の関係を調べた。政策科学研究においては、時系列信号の瞬間瞬 間の位相を計算する方法の一つである「経験的モード分解法」をマクロ経済 データおよび特定の政策の成果として公表されている数値に適用した。これに よって、データの取得が不可能である年度のデータが補間され、最終的な統計 の前処理の役割を果たしたことにより、インタビューに基づく定性分析と合わ せて、政策科学的に有用な知見を得た。
本論文は、以下の四章から構成される。各章の概要を記す。
第一章である本章では、序論として本研究の背景および以降の各章の概要を 述べることで本論文の全体像を概観する。
第二章では、神経科学研究への適用について記述した。解析の対象とした データはワーキングメモリに関わる脳波である。脳波を測定し、脳波の位相の 瞬時値の課題試行間の同期を調べることでワーキングメモリに関して提唱されて いるモデルの検証を行った。位相の計算だけではなく認知神経科学研究として の全体を説明する。ワーキングメモリとは、ヒトを含めた動物が持つ、情報を 一時的に保持し、さらに保持しながら行動や操作を行うためのシステムであ る。神経科学においてはfMRI及び脳波などのイメージング解析や動物実験に よって、前頭葉の関与が報告されている。このワーキングメモリの神経メカニズ ムについて、学習や記憶のシステムに関わる場所である「海馬」に関連して報告 されているθ波と、統合などの脳の高次機能に関連して出現することが報告さ
れているγ波の二つの周波数が組み合わさって成立しているのではないか、とい うθ-γモデルが提唱されている。脳波を構成する成分全体の中でも遅い(低周 波の)成分であるθ波に速い(高周波の)成分であるγ波が上乗せされる、言 い換えると、高次機能に関与していると見られているγ波を記憶に関与している と見られているθ波が底上げしている、というのである。今回、我々は、この モデルを踏まえ、実験心理学において古くから短期の記憶の負荷を操作し、反 応時間を測定する課題であるスタンバーグ課題を用い、記憶の保持中にθ波が 強く現れる頭表部位(前頭葉の中心部分が得られた)のγ波の位相の試行間の 同期を、 Phase Synchronization Index と呼ばれる方法によって求めた。記 憶負荷を操作する変数としては従来用いられてきた「記憶する項目の数」だけ ではなく「記憶する項目の1項目あたりの複雑さ」を新たに取り入れた。今 回、導入した「記憶する項目の1項目あたりの複雑さ」を操作しながら脳波を 調べた先行研究はこれまでに存在していない。実験の結果、新たに加えたパラ メータである「記憶する項目の1項目あたりの複雑さ」に応じてγ波の位相の 同期の量が変化する結果を得たことから、ワーキングメモリに記憶する項目の 1つあたりの負荷の上昇は項目に対応するγ波神経活動の閾値を上昇させるこ とを示唆する知見を得ており、モデルにおいて考慮されていなかった要素を取 り入れる必要性と合わせて明らかにした。
第三章では、政策科学研究への適用について記述した。振動の解析方法のひ とつである経験的モード分解法をマクロ経済データと特定の政策の成果として 公開されているデータの定量分析において適用し、政策科学的に有用な知見を 得た。定量分析部分だけではなく政策科学研究としての全体像を説明する。第 三章で記述する研究の政策科学的目的は「地域クラスター事業」に代表される 地域科学技術イノベーション政策が社会にもたらした成果をソーシャル・キャ ピタルの視点から再評価し、地域科学技術イノベーションとソーシャル・キャ ピタルの関係を実証的に明らかにすることにある。本研究では、地域科学技術 イノベーションの代表的な政策である地域クラスター政策に焦点を当て地域ク ラスター政策が従来の地域振興政策や産業集積と異なる点として挙げられる
「対象地域が自主的に地域のポテンシャルを活かした形で提案の形式をするこ と」「成功までに多大な時間がかかることから継続性と過去の蓄積がイノベー ションの鍵を握ること」に注目し、「地域のポテンシャル」とは何を指してい るのか?「継続」によって何が「蓄積」されるのか?の一つの答えとして、地域 クラスター政策の成果に影響する「ポテンシャル」や「蓄積」は地域の大学の 研究開発能力や天然資源などの土地やプレイヤーの個々の特性だけではなく、
むしろプレイヤー間に存在する繋がりや地域の信頼のネットワーク、すなわち ソーシャル・キャピタルが多くを占めるのではないか、という問題意識を立て た。この問題意識のもとに「ソーシャル・キャピタルを含めた地域の資源と政
策によって産まれる成果の関係が互いに正のフィードバックループを形成してい るのではないか」という作業仮説を検証する。このような、ある政策の有効性 や妥当性を事後的に評価したい、という状況は常に存在する。しかし、実証的 な分析は少なく、とりわけソーシャル・キャピタルに関してはほとんど存在し ない。その大きな理由は、政策科学においては変数を統制した実験を行うこと が出来ないということの他に、時間変化の分析を試みても入手可能なデータの 時間位置や密度が一様でないことである。今回、この問題を経験的モード分解 法によって緩和することを試みた。都道府県別の粗付加価値額や全国の工業試 験研究機関の活動状況、先行調査から引用したソーシャル・キャピタル指数を 政策の「成果」に関与する指標の群と「要因となる地域資源」の群の二群に分 け、それらの相関を正準相関分析によって概観するための前処理として、データ が取得不可能な年度の補間および注目してない変動要因の除去(高周波成分の 除去による平滑化)において経験的モード分解法を用いた。この解析の結果、
定性分析と合わせて作業仮説である「ソーシャル・キャピタルを含めた地域の 資源と政策によって産まれる成果の関係が互いに正のフィードバックループを形 成しているのではないか」と矛盾しないデータであるという知見を得た。
第四章では、本論文を総括し限界と展望を述べる。本論文では政策科学研究 と神経科学研究の二例を扱った。他のすべての解析方法と同様に、解析の変数 に依存することから、適用には注意が必要であるが、分子生物学分野や計算化 学分野など、他の研究領域においても位相に着目した解析方法の有効性を示唆 する結果が出ており、時系列を扱う他の分野にも新たな示唆や計算処理の方法 を与えるものである。
1.2 本論文の主題に関する謝辞
本論文の主題である位相に着目した時系列解析や周波数解析は、もともとは 早稲田大学の宗田孝之教授の研究室において筆者が鈴木鉄兵氏と共同研究をす る中から、着目するに至ったものである。本論文においても、本来であれば氏 と共同で行った研究について、解析に着目して一章ないし二章を構成し、その 章において氏に対する謝辞を捧げるべきであるが、研究室内の事情および研究 室外の研究者との関わりのため、それは叶わなかった。代わりに本論文全体の 概要を示す本章に謝辞を書くことで、本研究としての端緒を筆者が作ることに 寄与した氏および氏との共同研究を許容した宗田孝之教授に対する謝意と敬意 を示す。
第2章 神経科学研究への適用
2.1 問題設定
2.1.1 本章の位置づけ
本章では、位相に着目した時系列解析の適用例としての神経科学研究につい て記述する。次節以降に、本章において説明される脳波を用いたワーキングメ モリの実験について、本論文の主題である「位相に着目した時系列解析」との 関わりと、記憶のメカニズムを探る認知神経科学研究としての序文に相当する 導入および説明を行う。
2.1.2 ワーキングメモリとは
本章では、信号の「位相」が重要な役割を果たしている例として、認知神経 科学分野における「ワーキングメモリ(作業記憶)」の実験およびその結果と 考察を記述する。ワーキングメモリとは記憶の分類の一つで、得た情報を一時 的に保持しながら操作するための過程や機構を表す概念である。
ワーキングメモリが働く具体的な場面の例を述べる。我々が「暗算」をする とき(具体的に53 7=だと仮定する)に、まず口頭もしくは視認によって最初 の数字(53)を知る。次に、その数字のことは「一旦おいて」演算子( )を 知る。そして同様に、演算子の後に来る数字(7)、さらに等号(=)を知っ て、自分が要請されている計算が解る。このとき、要素を獲得し「一時的に」
記憶に留めながら次の要素を獲得し、さらに記憶に追加するという処理が逐次 的に行われている。この記憶は少なくとも計算を行うまでは保持されるが、多 くの場合は数時間後には思い出せなくなってしまうだろう。このような短期的 な記憶の機構がワーキングメモリである。
ワーキングメモリは、古くは、長期間保持される「長期記憶」に対して「短 期記憶」と呼ばれていたが、単に保持するだけでなく保持された情報の処理も 一体となった機構として捉えるべきではないか、という記憶研究の流れから生 まれた単語である。ワーキングメモリの心理学的なモデルは短期記憶からの発 展の過程で様々な提案が成されてきたが、現在、広く認知されている
BaddeleyとHitchによるモデル(multi-component model)ではワーキング メモリの構成要素として、色、形、場所、位置などの視空間情報を格納する機 構(Visuo-spatial sketch-pad)と音声情報を格納し繰り返し再生することに
よって保持する機構(Phonological loop)および視空間情報と音声情報を統 合し格納する機構(Episodic Buffer)の3つの格納庫と、それを制御する中 枢(Central Executive)が提唱されている(Baddeley (2010)、 Baddeley (2003))。
BaddeleyとHitchによるモデルに代表される心理学的なモデルの提案および それに対する検証実験は盛んに行われてきたが、その神経機序に関するモデル の報告は必ずしも多くはない。その中で、ワーキングメモリの心理学的研究結果 と神経細胞の活動を結びつけるモデルとして提案されているのが、次項で説明す るLismanとIdiartによるモデルであり、さらにメゾスケールである脳機能イ メージング研究の結果と結びつけるモデルとして提案されているのがLismanと Idiartによるモデルを受けて提案された、次々項で説明するJensenとLisman によるモデルである。
図2.1 BaddeleyとHitchによるワーキングメモリの心理学モデル
(Baddeley (2010) を元に筆者作成)
2.1.3 ワーキングメモリの神経機序の理論モデル
ワーキングメモリの容量は心理学分野の蓄積によって把握されていた。ワーキ ングメモリは神経活動のパターンによって保持されていることが神経生理学分野 の蓄積によって明らかになっていた。LismanとIdiartによるモデル(Lisman and Idiart (1995))はこの両者を結びつけるものである。LismanとIdiart は、ワーキングメモリに保持された項目が、脳においてそれぞれに対応する神経
Visuo-spatial sketch-pad
Episodic
Buffer Phonological loop Central
Executive
細胞群によって空間的に分担されてコードされているのではなく、共通の神経細 胞群によって時間的にコードされていると考えた。LismanとIdiartが注目し、
モデルに取り込むことができたワーキングメモリの特徴は「マジックナンバー 7」「Phonological loop」「θ波とγ波」である。まず「マジックナンバー 7」であるが、心理学研究の知見によってワーキングメモリに格納できる情報 は、最大でおよそ7であることが知られていた。これまでは単一の項目をワー キングメモリに保持することを説明するモデルは提案されていたが、複数の項目 を保持する機構であり、かつ、その最大値がおよそ7であることも同時に説明 するモデルはLismanとIdiartによるモデルが筆者が知る限り最初の提案であ る。次に「Phonological loop」であるが、BaddeleyとHitchによるモデルに おいて提案された「格納された情報が繰り返し再生される」機能を、次に挙げ る「θ波とγ波」によってモデルの中に取り込んだ。最後に「θ波とγ波」で あるが、特に長期記憶において重要な部位である海馬の神経活動がθ波
[4-8Hz] やγ波[30-48Hz]を構成していること、γ波は記憶や統合のような高 次の脳活動に関しても出現が報告されていることから、LismanとIdiartが提案 した活動パターンはθ波とγ波の入れ子になった振動(nested oscillation)
である。
図2.2 入れ子になったθ波(より緩やかな波)とγ波(より細かい波)
(Lisman and Idiart (1995) fig.2 D)
LismanとIdiartは、θ波によって底上げされたγ波の一つ一つの「山」が ワーキングメモリに格納されている項目の1つ1つに対応する神経活動であると 考えた(図2.3)。この考え方は、まず「マジックナンバー7」を説明すること が出来る。γ波の「山」はθ波によって底上げされることで記憶の再生に必要 な閾値を越える、と仮定すると、一周期のθ波の「山」に乗ることの出来るγ 波の「山」の数は、およそ7になるのである。そして、このθ波とγ波が周期 的に繰り返されるという活動が「Phonological loop」そのものと1対1に対
応するのではないにしても、背後にある神経機序として関与している可能性があ る。 LismanとIdiartはこのモデルを支持する心理学研究の結果として、ワーキ ングメモリに格納した項目を「再認」するスタンバーグ課題1において、格納し た項目の増加に対する被験者の回答に要する反応時間の変化量(記憶する項目 が一つ増えるごとに反応時間が何ミリ秒伸びるか、図2.4)が、およそ38ミリ 秒でγ波の1周期に相当することを挙げている。
図2.3 底上げされたγ波の1周期と記憶項目の対応
(Jensen (2006) Fig. 3b)
1 被験者は数字をいくつか記憶し、数秒間経ったあとに新たに数字(プローブ刺激)を見せ、その数字が 最初に記憶した数字の中に「入っていたか」「入っていなかったか」を答える。本章の研究でも同じパ ラダイムを用いた。2.2.3に詳しく述べる。
図2.4 記憶する項目数(横軸)と反応時間(縦軸)の関係
(Lisman and Idiart (1995) fig.2 B)
LismanとIdiartによる提案を受けて、JensenとLisman(Jensen and Lisman (1998))は、θ波とγ波の活動と同様の記憶課題の反応時間を結びつ け、過去の研究(Ashby et al. (1993))で測定された反応時間の分布と要約統 計量(平均、分散、歪度)を説明するモデルを提案した。
JensenとLismanは、Jensen and Lisman (1998)において2種類の有り得 べきモデルを提案した。2種類のモデルの相違点は「θ波の周波数は記憶負荷に よって変化するか」「プローブ刺激の呈示によってθ波と位相はリセットされる か」である。 JensenとLismanはこの論文の段階では、2種類の説明能力の多 寡について言及していなかったが、Jensen (2006)において、脳波および脳皮 質電位の測定による研究群ではθ波の周波数が記憶負荷によって変化する結果 が得られていないことを紹介し「θ波の周波数は記憶負荷によって変化せず」
「プローブ刺激の呈示によってθ波と位相はリセットされる」位相リセットモ デル(Phase Reset Model)が有力であることを報告した。図2.5は位相リ
セットモデルの説明図である。
図2.5 位相リセットモデル
(Jensen and Lisman (1998) fig.6)
図中の大きい波がθ波、θ波の上に周期的に立っているスパイク状の信号が γ波である。図2.5Aは、記憶項目A、B、Cが記憶されることによって、θ波に 記憶項目と対応するγ波の一つ一つの周期が乗っていく様子の図である。
tretentionは記憶課題における記憶の保持区間、tidentifyはプローブ刺激の呈示から
照合の完了までの時間、twaitは位相がリセットされるまでの待ち時間、tscanは記 憶の走査に要する時間、tmotorは脳で確定した応答(Yes/No)が運動系によっ てボタン押しの形で実行されるまでに要する時間である。図2.5Bはプローブ刺 激によってθ波の位相がリセットされる様子である。プローブ刺激の呈示後、
twait経過後に位相がリセットされる。図2.5Cは、記憶を繰り返し「走査」する 様子である。被験者は、記憶した項目に対応するγ波の一つ一つの周期を順番 にプローブ刺激と照合するのであるが、1回の照合で反応に至るとは限らず、繰 り返し照合する。この確率を決める変数はpaと置かれた。走査はpaの確率で照 合に成功する。
JensenとLismanは位相リセットモデルを以下のように定式化した。まず、
θ波の周期Tθ、γ波の周期Tγ、記憶が可能な最大項目数Sspan、θ波が「谷」
になっていてγ波を底上げ出来ない部分の長さをdとおいて
(1) JensenとLismanは、ここで、Sspanは7と仮定している。さらに上述の時間 の分解から反応時間RTは
(2) tscanは記憶している項目の数S(図では3)によって変化し
(3) 位相リセットの待ち時間は、プローブが出現するタイミングによって異な り、その平均時間は
(4)
T
e= T S
a(
span< 1 ) + d
RT = t
identify+ t
wait+ t
scan+ t
skip+ t
motor?
t
scan= ( S < 1 ) T
a+ d
t
wait= 1 t
scanT 2
2
/
e記憶の走査において照合に失敗(スキップ)することで発生する時間は
(5) 完全な式変形は省略するが、これらにより、反応時間RTは
(6) であると記述されている。JensenとLismanはこの定式化に基づいて、反応 時間の分布を計算し、実際の実験結果とよく一致する結果を得ている。
2.1.4 脳機能イメージングによる先行研究
JensenとLismanによるモデルは、式(6)に表れているように、反応時間とい う行動の指標とθ波およびγ波の周期という大局的な脳活動の指標をモデルを 介して結びつけており、脳波および脳皮質電位を測定するイメージング研究に 大きな示唆を与えた。以下では、この点を強調するために、θ-γモデルと呼称 する。本項では、θ-γモデルと関わる脳機能イメージング(脳波および脳皮質 電位の測定など)による先行研究を概観し、本章における研究の問題意識へと 繋げる。
まず、ワーキングメモリの負荷とθ波の活動に関しては、以下の報告がなされ ている。JensenとTesche(Jensen and Tesche (2002))はスタンバーグ課 題における記憶項目の数を操作して脳磁図(MEG)を測定し、記憶を保持して いる時間区間で、前頭葉を中心とした領域に8Hzのθ波が出現していること、
そのθ波の振幅は記憶する項目数と正の相関を持つことを示した。同様の結果 はTescheとKarhuからも報告されており(Tesche and Karhu (2000))、脳 波の測定によっても報告されている(Napflin et al. (2008), Jensen et al.
(2002), Michels et al. (2008), Meltzer et al. (2008) )。θ波の振幅の時 間的推移を調べた報告としては、Raghavachariらによるものがある
(Raghavachari et al. (2001))。Raghavachariらは、4人の患者の協力の もと、埋め込み電極を用いてスタンバーグ課題の刺激呈示から保持期間、プ
t
skipp t
a
= £ <
scan¤²
¥
¦´
1 1
RT T p
d T
T
T S T
T S const
a
= £ + <
¤²
¥
¦´ + +
a
e a e
a e
1
2
2 2
ローブ刺激の呈示までのθ波の振幅の推移を調べ、刺激呈示後に急激に増大 し、保持期間の終了(プローブ刺激の呈示)とともに急激に減少することを明 らかにした。θ波の位相に関してはRizzutoらによる報告がある(Rizzuto et al.(2003))。Rizzutoらは、9人の患者に対して皮質及び海馬付近への埋め込 み電極を用いてスタンバーグ課題のプローブ刺激の呈示によって、θ波の位相が リセットされることを示した。
次に、ワーキングメモリの負荷とγ波の活動に関しては、以下の報告がなさ れている。Howardらは2人のてんかん患者に対し埋め込み電極による脳皮質電 位を測定し、γ波の振幅と記憶負荷との関係を調べた(Howard et al.
(2003))。記憶負荷の操作は、項目数を変化させるのではなく、4項目を記憶 させる際の、1つ目を記憶した時点、2つ目を記憶した時点、と時間的に分割 して行った。結果、前頭葉から側頭葉にかけての157電極のうち、9電極におい て6.73Hz(θ波)が、29電極において38Hz(γ波)が、被験者が記憶してい る項目数と正の相関を持ったと報告している。Howardらは、これらの電極に ついて時間的推移も調べており、θ波におけるRaghavachariらの報告と同様 に、プローブ刺激の呈示によってγ波が急激に減少している。γ波に関しては、
ヒト以外、スタンバーグ課題以外の実験パラダイムにおいても記憶の保持期間に おける増大(サルを用いたワーキングメモリサッカード課題、Pasaran et al.
(2002))や記憶保持の開始と終了のタイミングでの出現(Tallon-Baudry et al. (1998))が報告されている。
最後に、ワーキングメモリの負荷とθ波-γ波の位相も含めた関係性について は、以下の報告がなされている。Sausengらは視覚ワーキングメモリ課題の記 憶保持期間の脳波を調べ、視覚野のθ波の位相がγ波の振幅を変調すること、
θ波の位相がγ波の位相とロックしていることを明らかにした(Sauseng et al. (2009)。ただし、Sausengらは、健常成人における脳波測定という非常に ノイズの混入しやすい状況に対して、21人測定して5人分のデータを廃棄し、さ らにノイズが含まれていないデータのみを使用するという名目で、一人当たり平 均26.4試行まで解析対象を絞り込んでいるため、注意が必要である)。
2.1.5 本章の問題意識
前項で概観したように、θ-γモデルを裏付ける傍証は数多く報告されてい る。記憶負荷による振幅の変化およびその時間的推移から、θ波とγ波の関与 は固まってきている。しかし、θ波、γ波がそれぞれ単独でワーキングメモリの 負荷によってどう変化するか、という報告が多くを占め、θ波とγ波の関係性 に注目をした論文は少ない。今回、注目をしたJensenとLismanのモデルは、
θ波の位相とγ波の関係が重要であり、この点を抑える必要がある。
また、γ波の活動を調べた論文では健常成人を被験者とした脳波の測定は少 なく、てんかん患者等の協力による侵襲的な脳皮質電位の測定によるものが多 い。これは、γ波の活動は振幅が非常に小さく、筋肉の活動などによるノイズ が混入しやすい周波数帯域だからである。しかし、ワーキングメモリの研究に限 らず、脳機能のイメージング研究においては、てんかん等の患者の協力によって 得られた知見は、患者以外のヒトにおいても同様の活動を示すかどうかを調べ る必要がある。これは、それぞれの患者の持つ障害が、測定対象としている脳 活動に何らかの影響を及ぼしている可能性を否定出来ないためである。本研究 では健常成人を対象とし、γ波の抽出に関しては、 Phase Synchronization Index と呼ばれる、2つの波の位相がどれくらい揃っているか、の指標(詳細 は2.3 解析方法 において記述する)を用いて、γ波帯域の中でθ波と位相が 揃っているγ波がすなわちワーキングメモリに関連するγ波であると仮定し、そ の周波数の変化を探ることで、解決を試みる。
最後に、実験パラダイムであるが、前項で列挙した論文におけるワーキングメ モリ課題は全てスタンバーグ課題であり、記憶負荷の操作は記憶する項目の数 のみに依っている。2.1.3の(6)式において、記憶項目の数、θ波、γ波の周期 と反応時間についてのモデル式を記述したが、この式は、スタンバーグ課題の 反応時間の測定結果のグラフである図2.4に対応している。(6)式においてSの係 数にγ波の周期が含まれていることは、図2.4においては直線の傾き、すなわち 1項目あたりの記憶負荷がγ波と正の相関を持つということを意味している。
1項目あたりの記憶負荷をスタンバーグ課題において操作した心理学分野の先 行研究として、Swansonらによる報告(Swanson et al. (1981))がある。
Swansonらは、被験者が記憶する数字の桁数(1桁、2桁、3桁)を項目数(1 項目、2項目、3項目、4項目)とともに操作し、それぞれの桁数について線形 回帰をしたところ、切片の値がほぼ等しく傾きのみが変化している、との結果 を得ている。このとき、(6)式に従うと、γ波の周期(周波数)は変化している はずである。
以上を踏まえ、本章における実験は健常成人を被験者とし、スタンバーグ課 題の記憶「項目数」と「桁数」を操作し1項目あたりの記憶負荷を変化させる ことによって、θ波と位相が揃っているγ波の周波数がどのように変化するかを 調べることで、ワーキングメモリシステムにおけるθ波とγ波の関係性を探る。
2.2 実験方法
2.2.1 被験者
17人の健常成人(男性3人、女性14人)が被験者として参加した。被験者の 年齢は平均値が21.1歳、標準偏差が1.60歳であった。被験者は全員が正常な視 力を有している、あるいは矯正による正常な視力を有していること、実験課題 に用いる視覚刺激を視認、判別できることを事前に確認した。本研究の実験手 続きはヘルシンキ宣言2に則り、国立精神・神経センターの倫理委員会の承認を 得て実施した。
2.2.2 心理実験装置
すべての実験は、防音室(YAMAHA アビテックス)の中で、防音室内の照 明を消し、実施した。被験者はイスに座り、前にある机に備え付けられた顎台 に顎を乗せ、眼前70cmに設置した21インチのCRTモニタ(SONY GDM- C520K)に向かって課題を実施した。CRTモニタのリフレッシュレートは 100Hz、画面のサイズは縦29cm(視角23.4度) 横36.25cm(視角29.0度)
であった。被験者の反応の取得は、机の上に置かれた専用の押しボタンスイッ チ(筆者による製作)を用いた。課題の刺激文字は縦およそ2cm(視角1.6度)
横およそ1.6cm(視角1.3度)であった。刺激の呈示および被験者の反応の検 出・記録は、防音室外に設置したパーソナルコンピュータを用いて行なった。
2.2.3 実験課題
本研究では、 スタンバーグ課題(Sternberg Task, Sternberg (1966))と呼 ばれる古典的な記憶課題を用いた。この課題では被験者は数字を記憶すること を求められる。
本課題の1試行におけるイベントを図2.6に示す。まず、これから始まる試行 の実験条件として記憶すべき数字の「桁数」と「項目数」が呈示される(図2.6 の”Instruction”)。 図2.6の例では「桁数(number of digits), D3」が1、
2 世界医師会(WMA, World Medical Accociation)によるヘルシンキ宣言6訂版 http://www.wma.net/en/30publications/10policies/b3/index.html
3 桁数の略号Dおよび項目数の略号Sは、本実験と同様にこの2つの変数を操作した先行研究である Swanson et al. (1981)に倣った。
「項目数(number of items), S」が2である。本研究では、桁数は1もしくは 3、項目数は2もしくは4を用いた。桁数は「1項目あたりの桁を変えることに よる記憶負荷」を、項目数は「一度に記憶する項目を変えることによる記憶負 荷」を各々操作することを意図した。被験者が実験条件を理解した後に開始ボ タンを押すと、実験条件が画面から消え、十字状の注視点が1秒間表示される
(図2.6の”Fixation”)。注視点の表示の後、記憶に保持すべき項目(数字)が 次々と順番に1秒ずつ呈示される(図2.6の”Memory Items”)。呈示される数 字が1桁の場合には、数字は中央に呈示し左右に”X”を配置した。これは、桁数 の変化が画面の明るさの変化を伴わないようにするためである。図2.6の例で は、項目(数字)が”5”と”2”であるので、”X5X”、”X2X”である。項目(数 字)が全て呈示された後、2秒間注視点が呈示される(図2.6
の”Retention”)。この期間は、記憶した数字の情報を保持しなければならな い保持期間である。この保持期間の後、1つの数字が呈示される(図2.6
の”Probe Item”)。被験者は、このときに呈示された数字が最初に表示された 数字に「含まれていた」か「含まれていなかった」かを判断し、同じ数字が記 憶した項目に含まれていたら右手の人差指でボタンを押し、含まれていなかっ たら右手の中指でボタンを押すことが求められた。実験開始前に被験者は「で きるだけ早く、正確に答えてください」と教示された。判断すべき数字が呈示 されてからボタン押しまでの制限時間は1.5秒とし、これを超えた場合は誤答と 判断した。被験者は、ボタン押し反応の直後に、音によって正誤のフィードバッ クを受けた。このフィードバックによって1試行は終了し、次の試行のための実 験条件が表示された。
以上の手続きはWindowsXP上で動作するプログラム4によって制御した。
4 プログラムは筆者による製作である。プログラム内では、刺激の呈示操作や脳波記録装置との連携をミ リ秒単位で制御することの出来るライブラリを使用した。このライブラリは、Microsoft DirectXライ ブラリを使用したもので、本実験の共同実験者の製作である。
図2.6 今回用いたスタンバーグ課題 の1試行の流れ
2.2.4 脳波記録
脳波(Electroencephalograms, EEG)は頭表上に10 Systemに基づいて配置 した73の電極から記録した。参照電極は鼻尖部に配置した。課題遂行中の視線 の動きを評価するために、水平方向と垂直方向の眼電位
(Electrooculograms, EOG)を同時に測定した。脳波と眼電位の測定には Neuroscan社のSYNAMPシステムを用いた。測定のサンプリングレートは、
1000Hzである。被験者はEasyCap社のEasyCapを装着し、EasyCapに取り付 けられたAg/AgCl素材の電極を通じて脳波の記録が行われた。頭皮と電極の間 に専用のペースト(Quik-Gel)を注入することにより電気抵抗(インピーダン
ス)を下げた。記録開始時にはすべての電極のインピーダンスは5kΩ以下に調 整した。脳波および眼電位SYNAMPシステムによって記録時に0.1-100Hzのア ナログバンドパスフィルタを適用された。体動による筋電位
(Electromyogram, EMG)の混入を避けるために、測定中は常に実験者が脳 波の波形を監視した。
2.3 解析方法
解析には被験者が正答した試行のデータのみを用いた。次に、記録された連 続的な脳波に1Hz未満の成分を減衰させるデジタルハイパスフィルタ(IIRフィ ルタ)を適用した。本研究では、1試行の中で記憶情報を保持している保持区間 2秒(図2.6の”Retention”)の最初と最後の0.5秒ずつを除いた1秒のデータの みを解析対象とした。データを目指することにより、この区間に著しい筋電位 や眼電位を含むと判断できる試行5は廃棄した。さらに独立成分分析によって、
筋電位、眼電位、配線ノイズ、電源ノイズとみなすことの出来る成分を除去し た。独立成分分析による成分の除去は、最も除去数の多い被験者で73成分中59 成分、最も除去数の少ない被験者で73成分中20成分、平均でおよそ38成分であ る。図2.7に例として1人の被験者についてノイズを除去された結果、以後の解 析の対象として採用された成分を示す。
被験者のうち1名に関して筋電位混入が非常に大きかったことから、この1名 のデータは解析対象から除いた。
5 筋電位の混入に関しては、頭表上電極のうち首や耳に近い電極の多くに20-30Hz程度の大きい一過性 の振動もしくは断続的な振動が発生している場合を、眼電位の混入に関しては、記録された眼電位に一 過性のスパイクが発生しており、前頭葉の電極にも同様の波形が発生している場合を判断の基準とし た。
図2.7 独立成分分析による成分の分解
ある被験者に関してはこの23成分がノイズ除去の結果として残った
以上の前処理を施された脳波にマルチテーパ法6による周波数分布の計算を適 用しθ波の強度の頭表上の分布を求めた。分布から得られるθ波が顕著に出現 している頭表上の箇所に関してγ波の周波数ごとのPSIを求め、PSIが最も高く
6 マルチテーパ法は Percival(1993)において提案されたフーリエ変換を基盤とした時系列信号から周波 数分布を推定する方法の一つである。さまざまな窓関数による分布の推定を平均化するような効果を持 ち、離散フーリエ変換のみにによる推定と比べて、平滑化された分布を得ることが出来る。
なるγ波の周波数の実験条件ごとの変化を調べることで、ワーキングメモリに 関係するγ波の変調を調べた。
ここで、PSI(Phase Synchronization Index, Schack and Weiss (2005)) について詳述する。PSIは図2.8に示すような、2つの周波数の異なる2つの信号 の位相がどれだけ揃っているかを表す指標である。PSIは、信号の時系列のある 1点に対して求めることが出来る。図2.4の中に、Φ=0,90,135と書かれている のは波形の位相7である。図2.9に”Trial1”、”Trial2”、”Trial3”とあるように PSIは試行間のデータを集約する形で求めることができる。ある試行(Trial1)
において、注目する2つの周波数の波の位相差が40度だと仮定する。別の試行
(Trial2)では180度、さらに別の試行(Trial3)では130度だと仮定する。
これらの角度のベクトルを単位円上に配置し、3つのベクトルを合成したベクト ルの「長さ(絶対値)」が、信号のある瞬間におけるPSIである。全ての試行が 完全に同一の位相差を持つときPSIは最大値1を取り、全ての試行の位相差がラ ンダムであるときPSIは最小値0に収束する。
以上に述べたことを、数式にて再度記述する。
今、k回の測定によって得られた信号fのa、b2つの周波数の成分f(a)、f(b)に 注目すると、n回目の測定によって得られた信号の時刻tにおけるPSIは
(7)
である。
本研究では、θ波[4-8Hz]とγ波[30-48Hz]という記憶に関係すると言われて いる2つの脳波成分を解析するためにPSIを使用した。
PSI a b t
k e i f b t n f a t n
n
( , , ) = { arg ( ( , , ) ) < arg ( ( , , ) ) }
=
1 >
1 1 k
-
7 時系列信号が与えられたとき、その信号の位相は、ヒルベルト変換による複素化を経てオイラーの公式 によって求めることが出来る。
図2.8 周波数の異なる2つの波の位相 Sauseng and Klimesch (2008) fig.1から引用
図2.9 Phase Synchronization Indexにおけるベクトルの合成 Sauseng and Klimesch (2008) fig.2から引用
以上の解析は、すべてMATLAB(Mathworks Inc.)とEEGLAB
(Delorme et al. (2004))および両者の上で動作する筆者製作のスクリプト によって行った。IIRフィルタおよび独立成分分析はEEGLABの関数を、マルチ テーパ法による周波数分布の推定はMATLABのSignal Processing Toolboxに 含まれる”pmtm”関数を使用した。
2.4 実験結果
まず、参加者の行動の指標として反応時間について示す。正答した試行の条件 ごとの反応時間が図2.10である。ここでの説明は、図と対応付けるために、項 目数を”items” 桁数を”digit”と表記する。
1 digit, 2 itemsの条件では平均513.0ms、1 digit, 4 itemsの条件では平 均561.5ms、3 digits, 2 itemsの条件では平均547.8ms、3 digits, 4 items の条件では平均623.5msであった。回帰直線は、1 digitの条件では y = 24.3x + 464.5 [ms]、3 digitの条件では y = 37.8x + 472.4 [ms]であっ た。この反応時間の傾向は、回帰直線の切片が等しく、3 digits の条件におけ る傾きが1 digits の条件における傾きより大きいという点においてSwansonら による先行研究(Swanson (1981))と一致している。被験者の正答率は、1 digit, 2 itemsの条件で平均97.1%、1 digit, 4 itemsの条件で平均96.5%、3 digit, 2 itemsの条件で平均95.6%、3 digit, 4 itemsの条件で平均85.7%で あった。
分散分析による統計解析の結果は、桁数(digit)および項目数(items)の効果が p<0.001であり、両者の交互作用はp=0.007で有意であった。
図2.10 参加者の反応時間および回帰直線
次に、脳波の解析結果を示す。
θ波[4-8Hz]の頭表分布が図2.11aである。前頭葉の中央に、操作した実験パ ラメータによって変化するθ波成分が存在している。ワーキングメモリの保持期 間におけるこのθ波成分の出現分布は先行研究と整合する。3 digits, 4 items の条件でもっともθ波成分が強い4電極を図2.11aに白色の四角で示す。その4 電極は、AFz、Fz、F1、F2である。以後の解析は、この4電極に着目し、4電 極の平均値を用いて行う。[4-8Hz]の成分を積分し、被験者間のθ波成分の大き さの平均値を表した図が図2.11bである。このθ波成分の大きさに、項目数{2, 4}、桁数{1, 3}の2*2の分散分析(被験者内繰り返しあり)を適用した結果、項 目数の効果: p = 0.0449、桁数の効果: p = 0.0143、交互作用: p = 0.0927 で、項目数と桁数の両方の効果が、p < 0.05で有意であった。
図2.11 a.θ波の頭表分布 b. 実験条件ごとのθ波の強度
γ波の帯域[30-48Hz]の中で、PSIが最大値を取る周波数の被験者間の平均値 を表した図が図2.12である。1 digit, 2 itemsの条件では平均35.25Hz、1 digit, 4 itemsの条件では平均37.25Hz、3 digits, 2 itemsの条件では平均 37.94Hzms、3 digits, 4 itemsの条件では平均41.50Hzであった。θ波成分 の大きさと同様に2*2の分散分析(被験者内繰り返しあり)を適用した結果、項 目数の効果: p = 0.0543、桁数の効果: p = 0.0029、交互作用: p = 0.532 で、桁数の効果のみが、p < 0.05で有意であった。
θ波の周波数、およびγ波の強度は、項目数の効果、桁数の効果、交互作用 のいずれにおいても条件間に有意差がなかった(p>0.1)
図2.12 PSIが最大値を取るγ波の周波数
2.5 結果に対する考察
2.5.1 反応時間の傾向の先行研究との照合
本章における実験では、ワーキングメモリについて、神経細胞の活動からス タンバーグ課題の反応時間までを結びつける理論モデルとして提案されている、
θ-γモデルに注目し、これまで脳機能イメージングの実験としては行われてい なかった「記憶する項目の1つあたりの負荷」を従来の「記憶する項目の数」
とともに操作することで反応時間を操作し、θ波とγ波の関係性の探索に新た な軸を加えた。
まず反応時間の測定結果(図2.10)を確認し、今回注目している傾向、すな わち、 記憶する項目の1つあたりの負荷 (桁数)を増加(1桁から3桁)させ ると項目数と反応時間の関係の回帰直線の傾きが増加すること、について先行 研究と概ね一致していることから、ワーキングメモリの実験として破綻はしてい ない、と考えた。細かいな差異としては、Swanson(1981)と比べて回帰直線の 切片が大きく、傾きが小さいが、これはSwansonらが実験を2日間の訓練の後 に3日間に分けて測定を行ったのに対し、本実験では1日の間に練習と本番の 測定を行ったため、練習の効果が切片に関与する運動系の反応に大しては相対 的に小さく、傾きに関与するワーキングメモリの走査に相対的に大きく現われ たものと考えている。
2.5.1 前頭葉中心線上のθ波
次に、課題中のワーキングメモリの保持期間の脳波を取り出し、θ波の振幅 の頭表上の分布を示した(図2.11a)。θ波は前頭葉の中心に局所的に出現して おり、これは複数の先行研究と整合すること、記憶負荷によって振幅が変化し ていることから、今回注目しているθ波であると見なした。振幅の変化を統計 的に検証したところ、記憶する項目の数と桁数(記憶する項目の1つあたりの 負荷)の両方共が5%有意であった。ここで 図2.11bを見ると、桁数1の時のθ 波の振幅は項目数2でも4でも大きな違いはない。脳波という体積伝導の影響を 強く受ける測定であるので、この結果をもって神経細胞の活動した数量と直結 させることはできないが、もし仮に、ワーキングメモリの保持に関与する神経 細胞の内、活動した数の変化が、この結果どおりであるとすると、これは JensenとLismanがJensen and Lisman(1998)において想定した、θ波を構 成する神経細胞の活動量の変化(図2.13の◯プロット)だけでは説明ができな い。JensenとLismanはワーキングメモリの上限を仮定し(仮に7と置いてい る)、その時の神経細胞の総活動量(数)を上限として、記憶負荷に対して線 形に増加する(すなわち関与する神経活動が7分割されて、個々の記憶項目に 対応している)ことをモデルとして図示している。しかし、JensenとLismanは 記憶負荷(memory load)を「記憶する項目の数(S)」と同一の意味で用いて いるため、本実験のように「記憶する項目の1つあたりの負荷」を操作し、図 2.11bのように別の傾きを持つ複数の直線を得たときに、共通の分割・対応メ カニズムを持っているのか、は解らない。これを検証するためには、 測定する
「記憶する項目の数(S)」を変更し、3桁、1桁のワーキングメモリに保持でき る上限の「記憶する項目の数(S)」において、θ波の振幅が同程度になるかどう かを調べる必要がある。
2.5.2 θ波と位相が揃っているγ波の周波数の変化
本実験ではθ波の活動を確認した後、θ波とγ波の位相の関係性を調べ、θ 波と最も位相が揃っているγ波帯域の周波数はいくつであるか、を得た(図 2.12)。θ波と最も位相が揃っているγ波は、すなわち、(背景脳波やノイズ ではなく)本実験で注目したθγモデルにおけるγ波であると考え、この周波 数の変化に着目した。γ波の周波数は、桁数(記憶する項目の1つあたりの負 荷)の上昇によって有意に増加し(p = 0.0029)、記憶する項目の数の上昇に よる増加は有意傾向(p = 0.0543)であった。
後者の項目の数の増加によるγ波の周波数の増加は、γ波のうち記憶する項 目と対応付けられる必要のある山(1周期)が増えたため、θ波の山(振動が 正に振れている区間)により多くのθ波を載せることが出来るようにγ波の周 波数が増大する、という機構の可能性がある。ただし、本実験の解析結果は
「有意傾向」と、統計的にやや弱いものであるので、1試行の中で逐次記憶し ている項目数が増えたときにも同様の傾向が起こるか、ということも含めて、
例えば桁数を1桁に固定し2項目から6項目までの5点(本実験では2点)で 測定し、傾向を調べるなどの更なる実験が必要である。
次に、前者の桁数の効果であるが、γ波の周波数と反応時間とを結びつける 関係式が(6)式である。(6)式は図2.10に対応している。図2.10から分かるよう に、桁数を増やすことによって回帰直線の傾きは増加する。これを(6)式で考え ると、S(記憶する項目の数)の係数が増加する、ということである。(6)式のS の係数の内、θ波の周期Tθは変化しないという結果が得られている(θ波の周 波数は桁数と項目数のいずれに対しても変化しなかった)ので、記憶の照合の 成功確率paが減少した、θ波の谷間部分の長さdが増大した、γ波の周期が増大 した、のいずれかが必要である。このうち本実験で解析結果として得られたの はγ波の周期である。本実験の結果では、(6)式の予想に反してγ波の周期は減 少した(周波数が増加した)。(6)式およびその背景となるモデルは変数が多い ため、実験結果として一つの変数が予想と異なる傾向を示したことで、モデル そのものが否定されることにはならないが、少なくとも他の変数がそれを補償 するために、(固定値ではなく)変化する必要がある。残りの2つの変数のう ち、paが減少するというのは本実験においても桁数を1桁から3桁に増やすこ とによって正答率の減少が起きていることから、自然な捉え方である。Jensen and Lisman(1998)においても「paは被験者ごとに異なる変数」として扱われ ている。一方、dが増大すると仮定して考察を進める。この変数はθ波の谷間部 分の長さであり、間接的にはθ波とγ波を重ねあわせた波のワーキングメモリ
の記憶項目に関与するために必要な(神経活動の電位の)閾値を操作する変数 である。dは、θ波とγ波を重ねあわせた波が一定の閾値に達しない場合は、そ の部分のγ波の1周期は記憶項目を担うことが出来ない、という考えに基づい て導入された。dが増大、すなわち谷間として利用出来ない部分が増大するとい うことは、重ねあわせた波のγ波のうち記憶項目と対応して使われる1周期の 数が減少するということである。この減少がγ波の周期の減少を上回れば、
ワーキングメモリに保持が可能な項目の最大値は小さくなる。paの減少のみで は記憶する項目の1つあたりの負荷が増加することを正答率が減少することと 関連付けることは出来ても、記憶可能な項目の数が減少することを取り入れら れないため、dの増大も起きている、すなわち、dは固定値ではなく変数である ことが示唆された。これはdがJensen and Lisman(1998)において固定値とし て扱われたことに疑義を呈することになる考察である。さらにθ波の振幅の変 化を考慮すると、先述のように(図2.11b)、桁数の増加(および項目数の増 加)によってθ波の振幅は増大しており、dが一定であれば、閾値を越えるγ波 の山(1周期)の数は増える。逆に、閾値を越えるγ波の山(1周期)の数を 固定するのであれば、やはりdは増加する必要がある。ここで注意が必要なこと は、JensenとLismanのモデルでは、この「dの増加(θ波の谷部分に当たる ため使用できない区間が増えるということ)」は「閾値の増加(超えなければ ならない電位が上昇する)」と同義であるということである。
図2.13 記憶項目数とθ波の神経細胞の活動量 本文中で言及しているのは、◯プロットの直線
(Jensen and Lisman (1998) fig.13)
2.6 認知神経科学研究としての結論
最後に、本章の4節と5節で述べた結果と考察から、認知神経科学研究として 得られた結論を本節に示す。
考察に述べたようにθ-γモデルは変数が多く、単一の実験では予想に反した 結果が出ようとも他の変数の増減によって補償しうるため、モデルそのものの 正誤を検証することは困難である。本実験の結果と考察から得られる結論は、
モデルの枠組みを前提とするならば、ワーキングメモリに記憶する項目の1つあ たりの負荷の上昇は項目に対応するγ波神経活動の閾値を上昇させる、という ことである。
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2.7 実験実施に関する謝辞
本章で述べた実験は、国立精神・神経センター神経研究所モデル動物開発部 にて行われた。実験装置および消耗品を含めた実施費用を提供して下さった中 村克樹部長8および実験における刺激呈示のためのプログラムの元となるライブ ラリの提供から測定、解析、本章本文の執筆にいたるまで常に助言を下さった 同部の竹本篤史研究員9に深く感謝する。
8 実験実施時点のご所属、現在は京都大学
9 実験実施時点のご所属、現在は京都大学
第3章 政策科学研究への適用
3.1 本章の位置づけ
本章では、位相に着目した時系列解析の適用例としての政策科学研究につい て記述する。本節では、論文の主題における本章の研究の位置づけを述べる。
次節では、論文全体と関わる、本章で用いた数値データの前処理について説明 する。第3節以降は、政策科学研究としての全体像について記述する。
政策科学研究においては、しばしば定量分析のデータとしてwebや白書にて 公開されている経済社会に関する数値を用いる。本研究においては「大学等と 民間等との共同研究数」「粗付加価値額の増加率」等を用いている管轄省庁の サイトや工業統計等から取得している。この時、母集団のサイズや集計の方 法、欠損値の存在等によっては数字をそのまま統計解析にかけることができず、
補間や平滑化が必要になる。本研究においては、振動現象の解析方法のひとつ である経験的モード分解法(Empirical Mode Decomposition, Huang N.E.
et al. 1998)をこれらのマクロ経済データおよび特定の政策の成果として公開 されている数量データの定量分析において平滑化および補間の方法として用い た。
経験的モード分解法は、その手続の中にスプライン補間を含むことから、欠 損値に対する補間も行うことができ、また、分解された信号のうち、高周波数 のものを廃棄することで、平滑化作用も持たせることができる。
経済社会現象や第2章で述べた脳波、あるいは、その他の複雑な系から観測 できる数値データは内部の様々なダイナミクスの合成の結果でしかない。経験的 モード分解法による平滑化の利点は、時系列を複数の振動が合成されたもので あるという視点に基づくことから、相対的に高周波の振動のいくつかを探索的 に取り除いたり、相対的に低周波の振動に着目して使用したりすることが可能 なことにある。本研究では複雑な系から観測される時系列は複数の要素が合成 されたものであるという視点から、経験的モード分解法の適用が可能な時系列 に関しては、これを用い、分解された信号単位で取捨選択を行うことによって 元の時系列から大局的な変化を取り出すことが妥当であると考え、経験的モー ド分解法による平滑化と補間を試みた。
3.2 経験的モード分解法による前処理
本節では、論文の主題と関わる前処理の方法である経験的モード分解法につ いて説明する。
経験的モード分解法は、Huang N.E. et al.(1998)において提案された時系 列の周波数分布の時間変化を求める方法の過程である。Huang N.E. et al.
(1998)が採用した周波数の考え方は、Hilbert変換によって実数時系列を複素時 系列に変換し、オイラーの公式から位相(角度)を求め、位相の変化(一次導 関数)をもって周波数(の時系列)とみなす方法である。この周波数の考え方 はHuang N.E. et al.(1998)以前から存在しているが、 Huang N.E. et al.
(1998)の新規性は「ゼロを中心とした振動」から遠い時系列ほど、周波数の推 定に誤差が発生する問題の解決方法の1つを与えたことにある。すなわち、経 験的モード分解法は任意の時系列を「ゼロを中心とした振動」に分解する方法 である。経験的モード分解法による時系列の分解を経て上述のHilbert変換とオ イラーの公式によって周波数分布を求める方法全体は、Huang N.E. et al.
(1998)および後続の論文群ではHilbert-Huang変換と呼称されている。
経験的モード分解法による時系列の分解は、次の手続きで行われる。
1. 任意の時系列(図3.1 a,b)の包絡線をスプライン補間によって求める 2. 包絡線の中心線を求め、時系列から引く(図3.1 b,c)
3. 包絡線の中心線を引いた時系列が「ゼロを中心とした振動」になるまで 1-2を繰り返す
4. 「ゼロを中心とした振動」を元の時系列から引く
5. 1-4を繰り返し、元の時系列から「ゼロを中心とした振動」を次々と抽出 する
この手続きによって、時系列は複数の「ゼロを中心とした振動」に分解され る(図3.2) この時系列の分解手続きが、経験的モード分解法である。
前処理において、経験的モード分解法による平滑化と一般的な移動平均によ る平滑化処理(3点使用)との比較を後の定量分析において使用したデータを 例として用いて図3.3に示す。粗付加価値額に関しては、大きな違いは発生しな いが、大学等と民間等の共同研究数 に関して、平滑化処理による値の違いが顕 著に現れている。この違いをもたらしている要因を特定するにはさらなる検証 が必要であるが、考えられる仮説としては「大学等と民間等の共同研究数 は 粗 付加価値額 に比べて年度ごとの独立性が低い」ということがある。産学の共同 研究は単年度で行われるものではなく3年程度から10年以上まで長短様々な期 間で行われていること、政府からの助成金や民間における需要はその時「旬」
である特定分野に偏ること、景気の動向等によって共同研究に割ける資源の数 が異なること、などが年度をまたいで影響を及ぼす不確定要素と成り得る。ま た、本章における研究の政策科学的知見に関わることとしては、地域科学技術 イノベーション政策やソーシャルキャピタルの特徴である継続性や蓄積性が影
響を及ぼしている可能性がある。この結果は、位相に着目した前処理方法であ る経験的モード分解法が持つ異なる視点が、より複雑な振動現象を起こすデー タに関して従来の前処理方法と異なる結果をもたらす事を意味している。この
「異なる」ことが、どのような意味(どのような前提条件)において「適切」
あるいは「精度が高い」と言うことが出来るのかどうかは、今後の研究課題の ひとつである。
図3.1 経験的モード分解の抽出過程 Huang NE. (1998)より
図3.2 経験的モード分解による分解結果 Huang NE. (1998)より
図3.3 経験的モード分解(EMD)と移動平均による平滑化の比較 左: 大学等と民間等の共同研究数(件)1992-2008
右: 粗付加価値額(百万円単位)1999-2007 一つの点は、ある年度のある県の値を示している
3.3 政策科学研究としての問題提起
本章の政策科学的目的は、地域クラスター事業に代表される地域科学技術イ ノベーション政策が社会にもたらした成果をソーシャル・キャピタルの視点か ら再評価し、地域科学技術イノベーションとソーシャル・キャピタルの関係を 実証的に明らかにすることにある。近年、米国に遅れて日本でも10「イノベー ション」という言葉が政策や企業戦略における重要な概念を表すものとして用 いられ、定着し始めている。「イノベーション」は、日本ではしばしば技術分 野に限定的な意味で捉えられ、技術革新との訳が為されていたが、本来の意味 は、「これまでのモノ、仕組みなどに対して、全く新しい技術や考え方を取り入 れて新たな価値を生み出し、社会的に大きな変化を起こすこと」11である。
現在、そのようなイノベーションを創出することを目的とした政策、特に科 学技術分野におけるイノベーションによって経済の活性化を目指す科学技術イノ ベーション政策が、文部科学省、経済産業省を始めとする府省および関係機関 で推進されている。現政権の下で策定中の科学・技術重要施策アクション・プ
10 吉田 (2007) によると、日本では 2006 年から急激に人口に膾炙し始めている。
11 内閣府 イノベーション25 (http://www.cao.go.jp/innovation/) による定義。本研究ではイノベー ションの原義に深入りしないが、Porter(1998) に詳しい。