研究論文
研究論文
文型導入という活動では何がなされ ているか
―教師用参考書における導入例の談話分析か ら見えてくるもの―
李 址遠
要 旨
日本語教材の教師用参考書に示されている教師の発話例は、それを作成した著者 らの信念や価値観を顕著に反映すると考えられ、言語教育研究上重要な分析対象で あると言える。本稿では『みんなの日本語初級Ⅰ・Ⅱ第 2 版 教え方の手引き』に 示された文型の導入例における教師と学生の発話を言語人類学的談話分析の観点 から分析する。(新人)教師のために提示された文型の導入例における教師と学生 の発話、そして、(新人)教師がその導入例を読むという行為をコミュニケーショ ン出来事として捉え、そこで何がなされているかに注目することによって、それら がコミュニケーション参加者の間の特定の関係を指標的に創出する社会的実践で あることを指摘する。これを通して、本稿では、教材及びそれに基づく教育実践に 対する教師の批判的内省を促すことを試みる。
キーワード
日本語教材 教師用参考書 文型導入 教室談話
1 .はじめに
日本語教育研究では、言語構造に関する知識の伝達という側面のみに焦点化した従来の 教育の在り方に対する批判や反省がなされて久しく、それを乗り越えるための新たな授業 形態への転換が試みられてきた(細川、 2007 ;西口、 2013 ;塩谷、 2008 など) 。しかし、
その一方で、教師主導による文型積み上げ式の授業形態は、依然として主流の位置にあり 続けている。 『 2017 日本語学校全調査』によると、調査に回答した 449 の日本語教育機関
(大学・短期大学を含む)のうち、初級日本語の授業で、文型積み上げ式アプローチに基づ いて作成された教材である『みんなの日本語初級Ⅰ・Ⅱ』を使用していると答えたのは 320 の機関に上っている。これは一見、言語教育における言語構造に関する知識の教育・学習 論文の種類(研究論文・展望論文・研究ノート)は入力してください。
研究論文
文型導入という活動では何がなされ ているか
―教師用参考書における導入例の談話分析か ら見えてくるもの―
李 址遠
要 旨
日本語教材の教師用参考書に示されている教師の発話例は、それを作成した著者 らの信念や価値観を顕著に反映すると考えられ、言語教育研究上重要な分析対象で あると言える。本稿では『みんなの日本語初級Ⅰ・Ⅱ第 2 版 教え方の手引き』に 示された文型の導入例における教師と学生の発話を言語人類学的談話分析の観点 から分析する。(新人)教師のために提示された文型の導入例における教師と学生 の発話、そして、(新人)教師がその導入例を読むという行為をコミュニケーショ ン出来事として捉え、そこで何がなされているかに注目することによって、それら がコミュニケーション参加者の間の特定の関係を指標的に創出する社会的実践で あることを指摘する。これを通して、本稿では、教材及びそれに基づく教育実践に 対する教師の批判的内省を促すことを試みる。
キーワード
日本語教材 教師用参考書 文型導入 教室談話
1 .はじめに
日本語教育研究では、言語構造に関する知識の伝達という側面のみに焦点化した従来の 教育の在り方に対する批判や反省がなされて久しく、それを乗り越えるための新たな授業 形態への転換が試みられてきた(細川、 2007 ;西口、 2013 ;塩谷、 2008 など) 。しかし、
その一方で、教師主導による文型積み上げ式の授業形態は、依然として主流の位置にあり 続けている。 『 2017 日本語学校全調査』によると、調査に回答した 449 の日本語教育機関
(大学・短期大学を含む)のうち、初級日本語の授業で、文型積み上げ式アプローチに基づ
いて作成された教材である『みんなの日本語初級Ⅰ・Ⅱ』を使用していると答えたのは 320
の機関に上っている。これは一見、言語教育における言語構造に関する知識の教育・学習
論文の種類(研究論文・展望論文・研究ノート)は入力してください。
の重要性を示唆するものであるように見えるが、それは十分な説明であるとは言えない。
文型積み上げ式の授業形態は、言語構造に関する知識の教育・学習のための唯一の方法で はないのである。 言語教育における文型積み上げ式の授業形態の確固たる地位は、 むしろ、
それが人々の言語学習に対する信念(単線的で段階的な成長・発達のメタファー)や、教 育実践に関するイデオロギー(教師―学生間の権力関係など)と合致するものであること によって守られてきたと考えられる。
一方、文型積み上げ式の授業は、他の授業形態(例えば、学生同士の対話の活動など)
に比べ、扱うべき文型の種類とその順序、練習の方法などが具体的に示されている教材へ の依存度が高いと言える。もちろん、授業の在り方が教材によって完全に規定されるとは 言えず、教材の用い方や授業運営の在り方は、それを用いる教師の言語観や教育観によっ て大きく異なり得る( Sunderland, et al., 2001; トムソン・尾辻、 2009 ) 。しかし、それ でも、教材が授業の在り方に及ぼす影響は、決して無視できるものではない。すでに多く の研究において示唆されてきたように(久保田、 2008 ;熊谷、 2008a, 2008b ;佐藤、 2007 など) 、教師が教材に対して批判的な目を向けず、自分が何を教えてしまって ....
いるのかに対 して自覚的でなければ、教師は、教材が前提にしている(またはそれが標榜する)特定の イデオロギーの再生産に加担することになりかねないのである。したがって、言語教育の 当事者たちが、自らが日々使用している教材に批判的な目を向けること、その教材を特定 の仕方で用いることによって何がなされ得るか ......
を理解することは、教材に潜む特定のイデ オロギーを無自覚的に再生産することを避けるためにも、そして何より、その教材を通し てことばを学ぶ学習者たちを(彼らの意志とは関係なく)その再生産の過程に加担させる ことを避けるためにも、必須のことであると言える。
本稿では、現在の初級日本語教育において最も広く使用されている教材である『みんな の日本語初級Ⅰ・Ⅱ 第 2 版』 (以下、 『みん日』 )の教師用参考書、 『みんなの日本語初級
Ⅰ・Ⅱ 第 2 版 教え方の手引き』 (以下、 『手引き』 )を対象に、文型導入活動の例として 示された教師と学生の発話を、言語人類学的談話分析( 3.1 を参照)の観点から分析する。
(新人)教師のために提示された文型の導入例における教師と学生の発話、そして、 (新人)
教師がその導入例を読むというコミュニケーションにおいて何がなされているか
.........
に注目す ることによって、それらがコミュニケーション参加者の間の特定の関係を指標的に創出す る
1社会的実践であることを明らかにする。それを通して、教材に対する、そして、それ に基づく教育実践に対する教師の批判的内省を促すことが本稿の目的である。
2 .本研究の位置づけ
近年の第二言語習得研究の分野では、従来の認知的アプローチに対する批判の下、社会
(学)的視点に基づく研究が比重を増してきた( Atkinson, 2011; Firth & Wagner, 1997,
2007; He & Young, 1998; 義永、 2009; Young, 1999 など)。第二言語習得における社会的
視点とは、これこれの社会的側面を取り入れると、 (抽象的意味体系としての)言語の(認
知的)学習が進むといったものではなく、言語を学ぶことそれ自体を社会的行為として捉
える視点であり、そこでは、社会文化的コンテクストに根付いた(そして、同時にそのコ
ンテクストを作り上げていく)言語使用を通して言語が学習されていく過程を明らかにす ることが重要な目的の一つになっている。本稿は、文型導入という活動そのものに注目す ることによって、 そこで何がなされているかを明らかにしようとするものであり、 社会 (学)
的視点に基づく近年の第二言語習得研究の流れを汲むものであると言える。
一方、本稿は、日本語教材の教師用参考書を対象とする点では、日本語教材に対する一 連の批判的研究(熊谷、 2008a ;佐藤、 2007 ;田中、 2005 ;トムソン・尾辻、 2009 など)
と、そして、導入例に示された教師と学生の発話を分析データとして用いる点では、教室 談話を(社会的視点から)分析した諸研究( Antón, 1999; Duff, 2002; Hellermann, 2007;
熊谷、 2008b; Ohta, 1999; Pool, 1992; Young & Miller, 2004 など)と深い関連を持つ。日 本語教材に対する近年の批判的研究では、主に教材の内容に対する分析を基に、そのイデ オロギー的前提を明らかにすることが試みられており、一方、社会的視点に基づく教室談 話の研究では、教室内コミュニケーションの複雑さや流動性が明らかにされ、学習者が教 室で言語を学ぶことが、単に言語の構造的知識の習得に終わるものではなく、特定の社会 文化的規範や信念を取り入れていく(言語)社会化( Ochs & Schieffelin, 1984 )の過程で あることが指摘されている。
本稿がこれらの先行研究の知見を踏まえるものであることは当然であるが、本稿は、分 析の対象が教材そのものではなく、それに対するメタレベルの言説である教師用参考書で ある点、そして、データとして扱う教師と学生の発話が、実際の教室でなされたものでは なく、 『手引き』の著者たちによって作られたものである点においては、その両者とも区別 される。 『手引き』は、 『みん日』を使用する(新人)教師の参考になることを目的にして 書かれたものであり( 『手引きⅠ』の「まえがき」 ) 、教材そのものに比べて、 「教師(また は学生)はこう振る舞うものだ、こうあるべきだ」などといった、教師と学習者、そして、
言語の教育と学習に関する信念や価値観をより顕著に反映すると考えられる。著者たちに よって作られた「導入例」における教師と学生の発話はまさにその一部であり、 「作られた 発話」であるという事実により、実際の教室談話に比べても、より顕著なイデオロギー的 明示性を示すと推測される。
一方、 『みん日』という教材の波及力を考えると、その教師用参考書を分析の対象とする のは、個々の教室談話の分析以上に重要性を持つと言えるかもしれない。 『手引き』におい て示された文型の導入例が、それを読む(新人)教師たちによって無批判的に取り入れら れ、そこにおいてなされていること(第 3 章を参照)が広く再生産される可能性も十分考 えられるからである。
以下の第 3 章では、導入例の具体的な発話を検討していくが、その前に、本稿が言語構 造に関する知識の教育・学習の重要性を否定するものではないことを明確にしておきたい。
言語構造に関する知識の学習は、言語を学ぶ上で不可欠である。しかし、重要なのは、そ
れを如何に教えるか(あるいは、学ばせるか)という点であろう。 Antón ( 1999 )が示し
ているように、言語形式に関する授業は、教師主導の形にも、学習者中心の形にもなり得
る。そして、そのような授業の在り方がもたらすコミュニケーション論的意味(その社会
指標的効果)は大きく異なり得るのである。
導入例①(L6:67)
3 .導入例分析
3.1 『教え方の手引き』における文型導入の活動
導入は、 「新出の語彙や文型などを導入する際に、場面の中でその項目の意味や使い方、
どのような場面で用いられるかを分からせることを目的として行われる」 (渡嘉敷、 2000 、
p. 22 )活動のことである。『手引き』では、媒介語を用いず、学習対象言語のみで文型の
導入を行う「帰納的な導入」が主な導入の形態として採用されている。
『みん日』では、 「ことばの暗記→文型の練習→会話の練習→問題を通した確認→実際の 言語使用」の順で日本語を勉強していくのが、当の教材の「効果的な使い方」であるとさ れており( 『みん日本冊Ⅰ』 、 p. ix ) 、これに対応する形で、 『手引き』の各課は「Ⅰ.新出 語彙」 「Ⅱ.学習項目の導入と練習」 「Ⅲ.会話」 「Ⅳ.その他」の順に構成されている。個々 の文型の学習は、「Ⅱ.学習項目の導入と練習」の導 入と展 開の部分でなされること になっている。導 入は「教師が導入を考える際のヒントを記し」た部分(『手引きⅠ』、
p. 3 ) 、展 開は「導入文型を少し変化させた形の文(疑問文、接続詞、副詞を伴う文) 」 を取り上げた部分( 『手引きⅠ』 、 p. 6 )であり、それぞれ「導入例」と「練習」を含んで いる。
「導入例」は、各課で扱う文型を、それに初めて接する学生たちに提示する仕方を示した ものであり、以下のように、教師( T )および学生( S )の発話(や行動)の例が具体的に 示されている
2( L ○は導入例が登場する課を、 「 : 」以下の数字は掲載ページを意味する) 。
本稿では、導入例に示された教師と学生の発話(ゴシック体で示された部分)を、社会 記号論系言語人類学のコミュニケーション論(小山、 2008 、 2009 など)の観点から分析 する。それは、導入例の発話を、コミュニケーション出来事( communicative event )
3と して捉え、その中で何が言われ、何がなされているかを明らかにすることを意味する( cf.
小山、 2008; Silverstein, 1976, 1997; Wortham, 2001 )。分析において特に注目するのは、
導入例における教師(と学生)が、新たな文型(以下、目標文型)を導入する際にどのよ うなコンテクスト
4を作り上げるのか、その結果、コミュニケーション上にどのような社 会指標的帰結がもたらされるのか、という点である。
ただし、導入例の発話は、実際の教師と学生によってなされたものではなく、 『手引き』
の著者たちによって作られたもの、 教師と学生による発話として表象された ( represented ) ものであり( cf. Agha, 2005 )、そのようなものとして分析されなければならない。すなわ ち、導入例の分析は、言われた出来事( narrated event : Jakobson, 1957 )の中の教師と 学生が何を言い、何を行っているのかだけでなく、彼らをそのように表象することによっ て、著者たちが「今・ここ」のコミュニケーション出来事(すなわち、それを読む読者と のコミュニケーション)において何を行っているのかまでも明らかにしなければならない のである( cf. 小山、 2008; Wortham, 2001 )。
3.2 教師と学生のやりとりを通した文型の導入
3.2.1 教師主導による、文型導入のためのコンテクストの形成
『手引き』の導入例は、そこに学生の発話が含まれているかどうかによって、大きく「教 師と学生のやりとりを通した導入」と「教師のみによる導入」の 2 つのパターンに分けら れる。ここでは先に「教師と学生のやりとりを通した導入」を検討することとする。
『手引き』では、教師が既習の文型(のみ)を使って目標文型を導入するのが基本となっ ている。以下の導入例②に見るように、既習文型を用いた教師と学生のやりとりは、目標 文型を導入するためのコンテクストを形成する役割を果たす。
導入例②( L16:143 )目標文型:〜て〜て、〜
T:朝何時に起きますか。
S:6時に起きます。
T:それから何をしますか。
S:ジョギングをします。
T:それから何をしますか。
S:朝ごはんを食べます。
T:Sさんは朝6時に起きて、ジョギングをして、それから朝ごはんを食べます。
T は、 3 つのターンを利用して S に質問をし、それに対する S の答えをまとめることに よって目標文型を導入している( の部分) 。ここで T は、 「 A は B である」というメタ言 語的フォーマット(等価性に基づく言い換え)を、発話の連辞的構成を通して間接的に用 いており、目標文型はかなり明示的な形で導入されている。
一方、以下のように、目標文型の導入がより「自然な」形でされることもある。
導入例③( L32:66 )目標文型:〜た/〜ないほうがいいです
T:Sさんはたばこを吸いますか。S:はい、吸います。(吸う人にあたるまで順に質問を続ける。)
T:たばこは体に悪いですから、吸わないほうがいいですよ。
今すぐやめたほうがいいですよ。
この「自然さ」は、メタ言語的フォーマットが用いられず、目標文型が T と S のやりと りの中にコンテクスト化された形で導入されたことによって生じるものであると言える。
ただし、上の 2 つの導入例は、文型導入の明示性とその「自然さ」に違いはあるものの、
どちらの場合でも、 T と S が行うやりとりが、目標文型導入のためのコンテクストを作り 上げている点、そしてより重要なことに、それが T の主導(質問)によってなされている 点において共通している。 S は、 T と共にコンテクストの構築には参加しているものの、
それはあくまで T の質問に答えるという受動的な形での参加なのである。
ただし、 『手引き』の全ての導入例において S が受動的に文型導入のためのコンテクス トの形成に関わるわけではない(以下、注目すべき学生の発話を で示す) 。
導入例④( L35:90 )目標文型: 〜ば、〜
T:日本の桜はとてもきれいです。桜を見たことがありますか。
S:いいえ、ありません。見たいです。
T:そうですか。
S:桜はいつ咲きますか。
T:春になります。桜が咲きます。春になれば、桜が咲きます。
2 行目の「見たいです」は S によって自発的に発話されたものであり、 4 行目の「桜は いつ咲きますか」は、自発的な発話であるだけでなく、 「質問—答え」という隣接ペアの第 一成分を成し、 T が目標文型を導入するための直接的なコンテクストを作るものである。
しかし、 『手引き』の全体を通して同様の例(学生が自ら教師に質問することによって主導 的に目標文型導入のためのコンテクストを作る例)は他には見られない
5。
3.2.2 未習文型に対する徹底的な無知
文型積み上げ式のアプローチでは、 導入する文型の順序が予め決められている。 ただし、
導入例の分析からは、それが単なる順序ではなく、先に学んだことを身に付けなければ、
次に進むことができない「段階」として捉えられていることが窺える。というのも、導入 例では、学生が導入済みの文型を間違える例は、基本的に見られないのである(導入済み の文型を間違える例については注 6 を参照のこと) 。以下の導入例⑤には、教師による目 標文型導入の後、学生がそれを使用できるようになっていく様子が示されている。
導入例⑤( L26:18-19 )目標文型:疑問詞〜んですか
教師は再び旅行かばんを持ち、帽子をかぶり、「旅行にいくんですか」を誘発するようなジェス チャーをする。
S:先生、旅行に行くんですか。
T:ええ。クラスが終わってから、出かけます。
(ガイドブックを見る様子をして、「どこへ」を誘発する。) S:どこへ行きますか。
T:(首を振って)Sさんは先生の旅行についてもっと知りたいです。
どこへ行くんですか。
S:どこへ行くんですか。
T:メキシコへ行きます。
S:メキシコ、いいですね。だれと行きます……行くんですか。
T:家族と行きます。
S は、 1 行目( 「先生、旅行に行くんですか」 )で、導入済みの文型「〜んですか」を適
切に使用している。しかし S は、ここでの目標文型( 「疑問詞〜んですか」 )はまだ使用で きておらず( 4 行目) 、続くターンで T の修正を受け、それを身につけるようになっていく
( 9 行目の自己修復) 。このように、 『手引き』の導入例における S は、すでに学んだ文型で あれば T の質問に正しく答えられる「できる学生」である。しかし S は、 T が導入する新 たな文型については、徹底的に「できない学生」として描かれる。
導入例⑥( L20:175 )目標文型:後続句を用いた文の普通体
T:今まで、いろいろ勉強しました。(「〜ませんか」のカードを見せ)これを普通体で言います。
どうなりますか。「いっしょに行きませんか」は?
S:いっしょにいかない?
T:そうですね。じゃ、(「〜ています」のカードを見せ)「今勉強しています」は?
S:今勉強してい……
T:「今勉強している」ですね。
S は、既習文型に関する質問には正しく答えられているが、目標文型に関する質問には 答えられていない。同様のことは、上の導入例⑤に対しても言える。そこで S は、目標文 型が既習文型と極めて類似したものであるにも関わらず、それを使用できないのである。
学生が未習文型について徹底的に無知であることは、目標文型の導入が必ず教師によっ てなされることと関連している。 『手引き』の導入例に教師による文型導入の例のみが示さ れているのは、そもそも導入例というものが、 (新人)教師が目標文型を導入する際に参考 となる情報を提供するためのものであることを考えると、当然のことであると言えるだろ う。教師が参考にする導入例に、学生がすでに目標文型を知っている例や、学生主導によっ て目標文型が導入される例をわざわざ示す必要はないのである。しかし、導入例の談話を 一つのコミュニケーション出来事として見たとき、教師のみによる文型導入によってもた らされる指標的帰結は大きい。教師が常に目標文型を導入する存在でいられるためには、
学生は、未導入の文型について徹底的に無知な存在でいなければならないのである。
3.2.3 学生の発話の修復・修正を通した目標文型の導入
このことは、目標文型を導入するためのコンテクストの形成においても重要な意味を 持ってくる。教師は、既習文型と未習文型の差を利用して学生がうまく答えられないよう な状況を作り、それを目標文型導入のためのコンテクストとして利用することができるの である。
導入例⑦( L18:160 )目標文型:趣味は〜(こと)です
T:趣味はなんですか。S1:趣味は旅行です。
S2:趣味は……映画を見ます……
T:趣味は映画を見ることです。
ここで T は、未導入の文型を使用することが必要になるような質問をし、 S がうまく答
えられないという状況を意図的に作り上げることを通して目標文型を導入している。しか
しそれだけではない。いくつかの導入例では、 S が、おそらく実際には起きないだろうと 思われる間違いを起こす例も見られるのである。
導入例⑧( L2:31-32 )目標文型:これ/それ/あれは〜ですか、〜ですか
T:これはボールペンですか。シャープペンシルですか。S:はい、ボール……
T:(「はい」は不要というジェスチャーをして)ボールペンです。
次に、教師が言った数字(例:17、56、97)やひらがな(例:あおい、カメラ)を学習者に書い てもらい、わかりにくい字を確かめてみる。
T:それは1ですか、7ですか。
S:はい、1です。
T:1です。
導入例⑨( L14:132 )目標文型:〜ていますか … はい、〜ています/いいえ、〜ていません
T:今雨が降っていますか。S:はい、います。/いいえ、いません。
T:はい、降っています。/いいえ、降っていません。
ここで S が起こしている間違い(しかも導入例⑧では二度も)は、実際にはおそらく起 きない間違いであり、この会話例の作為性を物語る。これらの間違いは、 T が続くターン でそれを修正し、目標文型を導入するためのコンテクストとなる。これらの導入例におけ る S は、教師の文型導入のために、普通は間違えることがないようなことさえ間違えてし まう者になっているのである。
以上のように、 『手引き』における文型の導入例には、 「未習文型の使用を要求する教師 の質問→うまく答えられない学生→教師による修復または修正(目標文型の導入)→文型 の学習」という流れが一つのパターンとして存在すると言える。ただし、教師による修正 の対象となるのは、学生がうまく答えられない場合や間違いを起こす場合だけではない。
教師は、既習文型を用いた学生の発話を、たとえそれが正しいものであった場合でさえ、
別の形に言い換え、目標文型を導入するのである。
導入例⑩( L2:29-30 )目標文型:これ/それ/あれは〜ですか … はい、〜です/いいえ、〜です
手元の辞書を指して、T:これは辞書ですか。
S:はい、これ……それは T:はい、辞書です。
本を指して、
T:これも辞書ですか。
S:いいえ、辞書じゃありません。
T:いいえ、本です。
「これは辞書ですか。 」という T の質問に対して、 S は、自己修復を通して正しい直示詞
( 「それ」 )を選択して答えようとしている。しかし教師はそこに割り込み、 「はい、辞書で
す。 」と新たな文型を使ってそれを言い換える。続くやりとりでも同様に、 S は「いいえ、
辞書じゃありません。 」と既習文型を用いて適切に T の質問に答えているが、 T はそれを
「いいえ、本です。 」と言い換える。このように、 S の発話は、質問に対する適切な答えに なっている(あるいは、なり得た)にも関わらず、 T によって言い換えられることによっ て、不十分なものとして指標されることになる。
もちろん既習文型を用いた学生の発話が常に適切なわけではない。しかし一部では、既 習文型を用いた学生の発話の不適切さや不自然さを、教師が意図的に招いていると見受け られる例も見られる。
導入例⑪( L8:85 )目標文型:そして/〜が
T:日本の地下鉄はどうですか。S:便利です……と……きれいです。
T:便利です。そして、きれいです。
T:日本の地下鉄はどうですか。
S:便利です。そして、高いです。
「便利」と「高い」が逆接の関係にあることを、例えば と をホワイトボードに書き、その下 に形容詞の絵教材を置いて示す。
T:便利ですが、高いです。
T はまず、目標文型「そして」を用いて答えることが必要になるような質問をし、それ がうまく言えない S の発話を修正することによってそれを導入している。その後学生は、
先に学んだ「そして」を用いて同じ T の質問に答えることを試みるが、それはまたも不適 切なものとなり、 T が目標文型「〜が」を導入するためのきっかけを提供する。これと類 似した例は、 「まだ」に関する文型を扱った以下の 2 つの導入例にも見られる。
導入例⑫( L7:78-79 )目標文型:もう〜ました
T:今、11時40分です。わたしは山田さんに質問します。「もうご飯を食べましたか」。山田さ
んは「はい、もう食べました」。皆さんはもうご飯を食べましたか。
S:いいえ、食べませんでした。
T:いいえ、まだです。
導入例⑬( L31:61 )目標文型:まだ〜ていません
T:皆さん、きのう30課を勉強しましたね。30課の言葉はもう覚えましたか。
S:はい、覚えました。
T:じゃ、31課のことばはもう覚えましたか。
S:いいえ、まだです。
T:いいえ、まだ覚えていません。
導入例⑫で S は、既習文型「〜ませんでした」を用いて T の質問に答えている。しかし、
それは非文法的であり、 T によって新たな文型「まだです」が導入される。ここで「まだ
です」を学んだ S は、導入例⑬では、以前と同様の T の質問( 「もう覚えましたか。 」 )に
適切に答えられるようになっている。しかしこの S の答えは、またも T が導入する新たな 文型「まだ〜ていません」によって言い換えられてしまう。このように、学生は、教師に よる導入を通して新たな文型を学んでいくものの、既習の文型(のみ)を用いる学生の発 話は、 (たとえそれが適切に使われた場合でも、 )次々と導入される新たな文型によって、
常に不十分なものになってしまうのである
6。このような事態は、学生の立場からすると、
一種のトラップとも言えるようなものになっている。学生は、教師から学んだ文型を用い て教師の質問に答えようとすることによって、かえって不適切または不十分な発話を産出 してしまうのである。
しかし、 ( S の発話を不十分なものだとして言い換える)導入例の T とは異なる観点か ら S の発話を見たとき、それは限られた言語知識を用いてその場の課題( T の質問に答え ること)に(時には創造的な形で)臨もうとする S の「有能さ」の現れであるとも言える だろう( cf. Firth & Wagner, 1997 ) 。しかし、 『手引き』に示された文型導入の仕方は、そ のような観点から学生の発話を捉えることを困難にする。導入されるべき文型が事前に決 まっていて、教師のみがそれを導入できるという仕方では、学生の発話は、常に教師によっ て言い換えられ得る(ときには言い換えられるべき)不十分なものになるからである。
認知的な観点から見た場合、このような導入の仕方は効果的であると言えるだろう。学 生が何を知っていて何を知らないのか、何ができて何ができていないのかを的確な質問を 通して気づかせ、そのような状況で新たな文型を提示することは、既習文型と新たに導入 する目標文型の類似点と相違点を理解させ、文型の定着を図る上で有効な方法となり得る のである。しかし、そのような導入の仕方をコミュニケーション論的視点から、すなわち、
その場で何がなされているのかに注目して見ると、 また違ったことが見えてくる。 教師は、
学生がうまくできない状況を意図的に作り上げ、そこで正しく、適切な文型を提示する。
一方、そのような教師の導入を通してしか文型を学ぶことができない学生は、教師とのや りとりを通して、常に不十分な日本語能力しか持たない存在として指標的に創出されてく。
そこでは、知識を持っている者と持っていない者、それを与える者と与えられる者、発話 の正しさや適切さを評価する者と評価される者、学習をコントロールする者とコントロー ルされる者、などといった何重にも不均衡な関係が創出されているのである。このように 考えると、文型積み上げ式のアプローチに基づく教師中心の日本語の授業は、単に文型の 効果的な教育・学習を目指すものであるとは言えなくなるだろう。それは、教師と学生の 間の不均衡な関係を創出し維持させる社会的実践でもあるのである。
3.3 教師の発話のみによる文型の導入
3.3.1 教師の発話に現れる教師の声と学習者の声
次に、教師の発話のみによって目標文型が導入される導入例を検討する。教師のみによ る導入の例には、 図などの視覚的材料を用いた導入、 教師の自問自答による導入、 (架空の)
ナラティブの中での導入、教師が複数の人物のやりとりを演じる中での導入(一人二役)
など、いくつかのタイプがある。ここでは、最後の 2 つのタイプの例を検討する。
すでに述べたように、 『手引き』では教師が導入済みの文型のみを用いて目標文型を導入
するのが基本となっているが、この方針によって、教師の発話は、いわゆるティーチャー・
トークの特徴を帯びたものとなる。
導入例⑭( L12:117 )目標文型:〜と〜とどちらが(形容詞)ですか。 … のほうが(形容詞)です。
T:わたしの弟はスポーツが好きです。弟に質問しました。「サッカーと野球とどちらがおもしろい
ですか。」弟は答えました。「サッカー、おもしろいです。野球、おもしろいです。どちらもおも しろいです。」答えは板書に書き加える。
導入例⑮( L36:102 )目標文型:〜ようにしています
T:(日記帳を見せながら)これはわたしの日記です。毎日日記を書きます。大変です。でも、去年 のきょう何をしましたか、何を考えましたか。日記を読むと、わかります。おもしろいです。で すから、疲れていても、眠くても、毎日日記を書くようにしています。
これらの例では、単純な構造の文の連続、接続(助)詞の不在による結束性の低さが共 通して見られ、導入例⑭では、 T が弟の発話として引用している「サッカー、おもしろい です。野球、おもしろいです。 」における助詞の脱落、導入例⑮では、 「去年のきょう何を しましたか、何をかんがえましたか。 」におけるデスマス形の使用においてティーチャー・
トーク的特徴が見られる。しかし、このような特徴は、単に既習の文型のみを用いるとい う方針だけに基づいて生じたものであるとは言えない。もし既習文型が十分に用いられて いたならば、上記の 2 つの導入例では、例えば「サッカーも野球もおもしろいです。 」や
「日記を読むと、去年のきょうしたことや考えたことがわかります。 」などといった、より 自然な表現も使用できたはずなのである。上記の T の発話は、教師は学生にとって分かり やすいことばで話すべきだという著者たちの考えが反映されたものであると言えるだろう。
ティーチャー・トークについては、従来、その認知的な効果をめぐる議論が中心的にな されてきた( cf. Wooldridge, 2001 ) 。しかし、コミュニケーション論的の視点から、すな わち、そのような話し方が何(誰)を指標し、どのような効果をその場にもたらすのかと いう観点からそれを見ると、また違ったことが見えてくる。つまり、上記の例における ティーチャー・トークは、単に学生のために分かりやすい文型を用いて話す「教師の話し 方」であるだけでなく、限られた文型しか用いることができない(と想定されている) 、そ れゆえ、しばしば不自然でたどたどしい発話を産出してしまう「学習者の話し方」に類似 したもの、すなわち、学習者の「声( voice ) 」 ( Bakhtin, 1981 )を含むものでもあるとも 考えられるのである
7。
教師の発話に含まれる学習者の声は、同じく教師の発話の中に含まれる教師の声とはと きどき区別される。教師の声は、新たな文型を適切な文脈で正しく用いる(導入する)教 師の発話を通して現れるもので、例えば導入例⑭の「どちらもおもしろいです。 」 、導入例
⑮の「毎日日記を書くようにしています。 」がそれに当たる(ただし、導入例③のように、
目標文型がそれまでの発話にコンテクスト化された形で(すなわち、 「自然な」形で)導入 されるときは、明確な区別が難しくなる) 。
興味深いことに、教師が誰の声で話しているかという点に着目して教師のみによる導入 例を見ると、そこに、 3.2 で指摘したものと極めて類似した導入のパターン、すなわち、
不自然な学生の発話を教師が修復または言い換えることによって新たな文型を導入すると
いうパターンが存在することが見えてくる。
導入例⑯( L12:118 )目標文型:〜で〜がいちばん<形容詞>です
T:日本は1 年に4 つの季節があります。春、夏、秋、冬です。わたしは春が好きです。春は暖かい です。きれいな花があります。秋も好きです。秋は涼しいです。冬も少し好きです。でも、夏がと ても好きです。海へ行きます。山へ行きます。とても楽しいです。わたしは 1 年で夏がいちばん 好きです。
目標文型が導入される最後の一文( で表示)に至るまでの全ての発話( で表示)は、
導入のためのコンテクストを作る役割を果たしており、最後の一文は、それまでの全ての 発話をまとめるもの、すなわち、完全に等価ではないものの、それを言い換えるものになっ ている。文型導入までの一連の発話は、結束性の低さ、副詞「とても」の不自然な使用、
主語と述語のみからなる単純な文構造の繰り返しといった特徴によって文章全体に不自然 さを醸し出しており、意味的にも冗長である。初級日本語学習者の発話を連想させるこの 一連の発話は、その直後の「わたしは 1 年で夏がいちばん好きです。 」という教師による 簡潔な一文によって言い換えられる。まるで言いたいことがうまく言えない学生を、教師 が手助けし、的確な表現を教えてあげるかのように、である。
3.3.2 他者を演じることと様々な声の混ざり合い
一方、教師が一人二役で目標文型を導入する場合も、同様のパターンが観察される。た だし、一人二役では、教室外の場面という設定で目標文型が導入される例が多く見られ、
教師はそこに、いわゆる「自然な」日本語、すなわち、教室の外で話される日本語の特徴 を取り入れる。それは例えば、 「え、 」 「ああ」 「あ、 」 「え?」などといった感動詞( L16:147 、 L18:159 、 L20:176 ) 、 「そうですね」などのフィラー( L13:125 ) 、終助詞「よ」 「ね」 ( L10:98 、 L14:131-132 、 L15:136 、 L23:197-198, 203-204 、 L26:20 )などであり、これによって教 師は、一人二役を演じる中で、学習者の声と教師の声に加え、自然な日本語を話す母語話 者の声をも取り込むことになる。そしてその結果、一人二役の導入例は、様々な声の混ざ り合いという様相を示すことになる。
導入例⑰( L13:125 )目標文型:〜<動詞ます形>に行きます
A:B さん、日曜日、何をしますか。B:そうですね。パソコンを買いたいです。秋葉原へ行きます。秋葉原ヘパソコンを買いに行き ます。A さんは?
A:わたしは横浜へ行きます。
B:横浜へ? 船を見に行きますか。
A:いいえ、中国料理を食べに行きます。
フィラー( 「そうですね。 」 )および驚きを示す聞き返し( 「横浜へ?」 )という「自然な」
会話の特徴は、教師と学生の間のやりとりには見られなかった、母語話者の声を表すもの
である( で表示) 。ただし、ここにもすでに言及した導入のパターンは見られる。すなわ
ち、 「パソコンを買いたいです。秋葉原へ行きます。 」という結束性の低い 2 つの文(学習
者の声)が、 「秋葉原へパソコンを買いに行きます。 」という目標文型を用いた一文(教師
の声)によって言い換えられているのである
8。
さらに、ここに見られる声の操作が、 A と B を演じる教師および、それを見守る学生の フッティング( footing : Goffman, 1981 )の変化、そしてそれに伴うフレーム( Goffman, 1974 )の変化と共に表れていることにも注目する必要がある。ここでは 2 〜 3 行目の B の 発話に注目してみよう。この発話は、主に 2 つのフレームにおいて同時に展開していると 言える。一つは、教師が A と B を演じる寸劇のフレームであり、もう一つは、それを包み 込む日本語の授業という上位のフレームである。 「そうですね。パソコンを買いたいです。
秋葉原へ行きます。 」において、教師は、寸劇のフレームの中で B として、 A を addressee にして発話している。一方、授業のフレームから見ると、そこで教師は(目標文型の導入 を目的とした)一種のパフォーマンスを行っており、学生たちが「観客」の立場からそれ を見守っている。しかし、次の「秋葉原へパソコンを買いに行きます。 」では、この構造に 歪みが生じる。教師は、目標文型を用いたこの一文で直前の 2 つの文を言い換えることに よって、自身が行っていることが単なるパフォーマンスではなく、目標文型を導入するた めの教師としての活動であることを強く指標し、それによって当該の発話の解釈する上で 授業のフレームが持つ関与性をより高くしているのである
9。ここで学生たちは、単なる 観客としてではなく、教師が導入する新たな文型を学ぶ学生として、すなわち、当の発話
の addressee としてそこに参加することになる。つまり、この発話によって、寸劇と授業
という 2 つのフレームの間の境界が曖昧になり(あるいは、 2 つのフレームが融合し) 、 ( B を演じる)教師が、寸劇の中の A と、目の前の学生たちの両方を addressee にして同時に 話しかけるというコミュニケーションの構造が立ち上がるのである。そして、その直後、
教師は「 A さんは?」と再び A に向けて話すことで、寸劇のフレームを関与的コンテクス トとして指標し、これによって学生たちは再び観客となり、フレームの構造は以前と同様 のものに戻る。このように、教師は、声、フッティング、フレームを巧みに操作すること を通して、目標文型の導入のためのコンテクストを作り上げているのである。
一方、一人二役の導入例の中には、教師が学生の役を演じるものもある。
導入例⑱( L14:132 )目標文型:〜ています
T:始めましょう。(見回して) S1さんがいませんね。どこですか。
S2:(外を指して)S1さんは電話をかけます。
T:S1さんは今電話をかけています。
(教師の演じる) S2 は、上記の複数の導入例で見たように、 (同じく教師の演じる) T の 質問に正しく答えられておらず、 T による(声、フッティング、フレームの変化を伴う)
修正を通して目標文型が導入されている。しかし一方、以下の導入例⑲では、教師の演じ
る学生は、これとは全く対照的な様子を示す。
導入例⑲( L39:125 )目標文型:〜いので/〜なので、〜
T:きょうはこれで終わります。
S:えっ?どうしてですか。
T:わたしは体の調子が悪いです。病院へ行きます。体の調子が悪いので、病院へ行きます。
S:そうですか。お大事に。
T:じゃ、皆さんは勉強を続けてください。
S:あしたは試験なので、頑張って勉強します。
(教師の演じる) S は、 「えっ?」という感動詞を用いているだけでなく、自発的な発話
( 「そうですか。お大事に。 」 )も行っている。そしてさらに、 「あしたは試験なので、頑張っ て勉強します。 」と、目標文型( 「〜なので、〜」 )まで導入している。これは、これまで見 てきた学生の様子とは明らかに異なっている。学生は、教師が演じる会話の中でなら、自 然な日本語で自発的に話し、自ら目標文型を導入することさえできるのである。ただし、
ここで重要なのは、ここでの学生の様子がこれまで見てきたものと大きく異なっていると いうことではない。むしろ注目すべきなのは、様々な役を、様々な声を通して演じること を通して目標文型を導入する教師の行為そのものの方である。教師は、自身が演じる人物 を自由に表象している。その表象は、文型の導入という教師の主要な活動における背景(す なわち、コンテクスト)となっており、それ自体が焦点化されているわけではない。しか し、だからこそ教師が作り上げる表象は重要な意味を持つ。特定の表象は、焦点化されな いまま文型導入の活動において繰り返し用いられ、その活動における前提可能なもの(す でにそこにあるものとして指標可能なもの)になり得るのである。言い換えれば、教師が 様々な声を演じることを通して作り上げる学生(および教師自身)の表象は、その活動に 関わる教師と学生にとっての指標的現実になり得るのである(さらに、教師のみによる文 型の導入では、そのような表象に対して学生が異議を唱え、その表象をめぐる交渉を行う 可能性が排除されている点も忘れてはならない) 。
ここで再び本稿における分析の前提に戻ることにしたい。それは、本稿が表象そのもの を分析の対象としてきたという事実、すなわち、これまで検討した文型導入における発話 例が、全て『手引き』の著者たちによって作られたものであるという事実である。管見の 及ぶ限り、本稿で示したような観点から教師用参考書の導入例を分析した研究はこれまで にない。 このことは、 文型導入の活動において背景化してしまう教師と学生の表象と同様、
教師が教師用参考書の導入例を読むという活動でも、その導入の方法だけに焦点が当てら れ、それがどのようなコンテクストの形成を通して成されるのか、その中で教師と学生が どのように表象されるのかにまでは注意が届いていなかったことを推測させる。 『手引き』
の著者たちによって作られた教師と学生の表象は、それを読む読者(教師)にとっては、
単なる背景となっていた可能性が窺えるのである。しかし、これまで示してきたように、
『手引き』には教師と学生の表象に関する一定のパターンが存在していた。導入例は、教師
と学生に関するその一定の表象を繰り返し(しかし、それに焦点化することなく)用いる
ことによって、前提可能な指標的現実を作り上げていたのである。したがって、次に問わ
れるべきことは、これを通して、 『手引き』の著者たちが、導入例を読む読者とのコミュニ
ケーションにおいて何を行っているのか、ということであろう。続く第 4 章では、これま
での考察を簡略にまとめた上で、この問題について考察する。
4 .コミュニケーションの「今・ここ」でなされていること
第 3 章では、『手引き』の文型導入例における教師と学生の発話を、言語人類学的談話 分析の観点から分析した。導入例における教師と学生のやりとりを分析した 3.2 では、① 導入すべき文型とその順序が事前に決まっており、②目標文型の導入が必ず教師によって なされるという方針、そして、③学生は導入済みの文型は使用できるようになるが、④未 導入の文型については徹底的に無知であるという想定がそこに存在することを確認した。
このような方針と想定は、教師が、未習文型の使用を要求する発話を学生に求めることに よって目標文型を導入するためのコンテクストを作ることを可能にするものであり、これ によって『手引き』には、学生の発話の修復または言い換えによる目標文型の提示という ものが一つのパターンとして成立していた。このような方針と想定、そして、それに基づ く文型導入のパターンは、 限られた言語的リソースを駆使して課題の解決に臨む学生の 「有 能さ」に目を向けることを妨げ、教師と学生の間の不均衡な関係を創出・維持させるもの につながり得ると言える。
一方、教師のみによる導入例を検討した 3.3 では、ティーチャー・トークと呼ばれるレ ジスターを、学習者の声を取り込んだものとして捉える観点を示し、教師のみによる導入 例の中にも、学習者の声で発せられた発話が、教師の声で発せられた発話によって言い換 えられ、それを通して新たな文型が導入されるという、 3.2 で確認したものと同様のパター ンが見られることを指摘した。そして、教師が、学習者の声と教師の声、自然な日本語を 話す母語話者の声を巧みに織り交ぜ、フッティングとフレームの操作を行いながら目標文 型を導入する様子を仔細に分析した。さらに、教師が学生の役を演じた導入例の分析を基 に、文型導入において教師が作り上げる特定の表象が、焦点化されずに繰り返し用いられ ることによって、前提可能な一つの指標的現実が作り上げられている可能性について言及 した。
それでは、 以上のような文型の導入例を提示することによって、 『手引き』 の著者たちは、
それを読む読者とのコミュニケーションの「今・ここ」において何を行っているのだろう か。 『手引き』の「まえがき」には、 「本書(中略)は、 『みんなの日本語 初級Ⅰ第 2 版』
を用いる新人教師のための手引きとして製作したものですが、教師経験の有無にかかわら ず、日本語を効果的に
....
教えるために、参考にしていただきたい」 (強調は筆者)とあり、ま た、 「 「教科書」を教えるのではなく、 「教科書」で教えるための工夫は、常に教師に求めら れるところだと思いますが、本書を通して、 『みんなの日本語 初級Ⅰ第 2 版』の意図する ところをご理解いただければ幸い」と述べられている。この述べ方は決して高圧的なもの ではない。しかし、ここで著者たちは、自らを、 「効果的な」日本語の教え方を提示できる 経験豊富な教師として、そして、 (現在最も多く使用されている)教材の著者として位置づ けており、読者である(新人)教師との間に、 「教える側」と「教わる側」の関係を成立さ せていると言える。
この関係性は、導入例の中で T (と S )が行っていることが、著者と読者の間のコミュ
ニケーションにおいて同様に(すなわち、相同的に)現れることを通してさらに強く指標 されている。すなわち、導入例における T が、 (主に自身と S に関する)様々な表象を作 り上げることを通して目標文型を教えるという様子が、 「今・ここ」のコミュニケーション では、 『手引き』の著者たちが、様々な形で教師と学生を表象することを通して効果的な文 型導入の方法を教えるという形で現れているのである。換言すれば、 「教える側」と「教わ る側」という「今・ここ」のコミュニケーション出来事における参加者間の位置取り
( positioning )が、言われた出来事となされた出来事の間のパラレルな構造の形成を通し
て達成されているのである( cf. Wortham, 2001 ) 。さらに、導入例に登場する T が、他の どこかの教師ではなく、 「効果的に」日本語を教える著者たち自身の姿が投影されたもので あることを考えると、 『手引き』は、自伝的ナラティブの性質を有するものであるとも言え る。著者たちは、自らが表象する自らの姿( T )を通して、 「今・ここ」における自身と読 者たち( (新人)教師) 、さらには、日本語を学ぶ学生の立ち位置を示しているのである。
5 .結語
以上本稿では、コミュニケーションにおいて何がなされているかという観点から『手引 き』の導入例を分析し、文型積み上げ式のアプローチに基づく文型導入の活動(および、
文型の効果的な導入方法を教えるという活動)において、参加者の間の特定の関係性が創 出されていることを明らかにした。これはもちろん『みん日』を用いる全ての初級の日本 語授業に対してそのまま言えることではなく、それは本稿が意図するものでもない。文型 積み上げ式アプローチの限界、そして、それを乗り越えるための教育実践の在り方につい てのより深い検討を可能にするためには、今後、実際の教室における文型導入の活動を分 析し、そこで何がなされているのか、それが『手引き』に示された導入例とどのように異 なって(または類似して)いるのかを明らかにする必要があるだろう。そしてさらに、特 定の文型導入の仕方が、その後の学習者のコミュニケーションにどのような影響を及ぼす のか、その成果と課題を見極めるための縦断的な追跡研究も必要になるだろう。そのよう な研究を通して、文型を教えるということが学習者のコミュニケーションにどのような意 味を持つのかをより深く理解することができ、具体的な言語教育実践の改善を図ることが できると思われる。
ただし、注意しなければならないのは、文型積み上げ式アプローチの限界を乗り越えよ
うとして、それに代わる何らかの具体的な授業形態を考案することだけに気を取られては
ならないということである。仮に、事前に決められた文型を教師が教えるという形を取り
やめ、学生が各自学びたい項目を決め、他の学生(および教師)との話し合いを通じてそ
れを学んでいくという授業形態を採用したとしよう。そのような授業形態は、確かに本稿
が指摘した文型積み上げ式アプローチに基づく授業形態のいくつかの問題を回避できるも
のであると考えられる。しかし、そのような授業に対しても、本稿で示したものと同様の
観点からの批判的検討が可能である(むしろ、必要である)ことを忘れてはならない。そ
のような批判的検討は、一見対等な参加者からなる「対話」の活動においても、何らかの
社会・文化的ステレオタイプの喚起と構築による不均衡な関係の創出が行われている(あ
るいは、行われ得る)ことを明らかにするだろう
10。教室談話のみならず、全てのコミュ ニケーションは同時に何かを行うことであり、批判的検討の対象になり得るのである(当 然ながら、 本稿自体もそのような批判的検討の対象となり得る) 。 したがって、 重要なのは、
単に従来のものに代わる新たな授業形態を提示することではなく、現に行われている様々 な教育実践を批判的に検討できる、さらには、そのような批判的検討までも相対化し、再 帰的に批判できる視点を、各々の教師が備えることであると言えるだろう。言語教育実践 の改善は、絶え間ない実践と批判の繰り返しの過程の中で自然と実現できるもの、それを 通してのみ実現できるのであり、それ以外の道はないのである。そして、そのような実践 の批判的改善の過程に、教師間の(批判的)協働が重要な役割を果たすであろうことは言 うまでもない。そのためには、教師が互いの教育実践を自由に批判できる環境を醸成する ことが重要であり、各々の教師には、自らの実践を他者にさらけ出す勇気と、他者からの 批判を真摯に受け入れる謙虚さが求められるだろう。
コミュニケーションにおいてなされたこと(相互行為のテクスト)は、言われたこと(言 及指示のテクスト)に比べて人々の意識に上りにくく( Silverstein, 1981 ) 、普通は焦点化 されないまま見過ごされてしまうことが多い。それにあえて焦点化し、そこで行われるコ ミュニケーション参加者間の位置取りの作業に自覚的になること、それこそが、言語を教 える教師が自身の用いる教材を、自らの教育実践を、ひいてはコミュニケーションそのも のを批判的に捉えるための第一歩になると言えるだろう。本稿が示そうとしたものは、そ のような批判的検討を可能にする言語人類学的視点とそれに基づく分析の一例である。
注
1 「指標(index)」とは、パース(C. S. Peirce)の記号論における概念で、記号とそれが指し示す 対象が物理的な隣接性や連続性に基づいて関連付けられる様態を指す。指標(性)(index(icality))
は、発話をはじめとする何らかの行為(記号)が、そのコンテクストと関連付けられることを指 す用語として広く用いられており、コンテクストにすでに存在する物事や性質を前提可能なもの として指し示す前提的指標と、記号論的行為によってコンテクストに新たな効果や帰結がもたら される創出的指標という、二つの側面を持つ(Silverstein, 1976; 小山、2008、2009)。
2 導入例について、『手引き』には、「学習者によってさまざまな導入が考えられるし、何が適切で あるかは学習者によるので、導 入、導入例をヒントとしてその場の学習者に合った導入を試み てほしい。導入例は2-3準備しておいたほうがよい」と記されている(『手引きⅠ』、p. 3)。
3 「コミュニケーション出来事(communicative event)」とは、Hymes(1974)が、Jakobson(1957) の「発話出来事(speech event)」を発展させる形で継承した概念で、発話を、場面、参加者、目 的、行為の連鎖、調子、メディア、規範、ジャンルなどをその構成要素とする全体(すなわち、
出来事)の観点から捉えるために提示したものである。導入例における教師と学生の発話をコミュ ニケーション出来事として捉えるということは、それを特定のコンテクストに根付いた社会文化 的実践として捉えることを意味する。
4 本稿では「コンテクスト」を、発話(テクスト)が位置づく前後の言語的文脈(co-text)を含む、
発話を取り巻く(関与性のある)あらゆる物事を指すものとして用いる。本稿が依拠する Silverstein(1976)、小山(2008、2009)の理論においては、コンテクストが、テクスト(にお ける諸記号)によって前提可能なものとして指標され、遡及的にその意味解釈を可能にするもの であると同時に、記号の使用によって新たに創出されるものとして捉えられており、コミュニケー ションは、そのようなテクストとコンテクストの間の弁証法的過程として概念化されている。
5 いくつかの導入例では、「T:きのうおもしろい犬を見ました。」「S:どんな犬ですか。」「T:靴を はいている犬です」(L22:188目標文型:文による名詞の修飾)のように、教師の質問への応答以 外の形で学生が目標文型導入のためのコンテクストの形成に関わる例も見られる(L8:87、 L16:146、L26:17-18、L27:30-31 など)。しかし、これは少数であり、学生の発話が教師によっ て意図的に誘発されたものである点で、教師の質問への応答の場合と大きな違いはないと言える。
6 一方、「まだ」を用いたSの発話は、「〜ようになりましたか…いいえ、まだ〜ません」を目標文
型とするL36:101の導入例に再び現れる。そこでSは、「Sさん、日本語の新聞が読めるように
なりましたか。」というTの質問に対して「まだ読めるようになりませんでした。」と答えており、
Tはそれを「いいえ、まだ読めません。」と修正することによって目標文型を導入する。Sは、導 入例⑬(L31:61)においてすでに「まだ〜ていません」を学んでおり、それを用いていたなら ば、ここでは適切に答えることができたはずだが(「まだ読めるようになっていません」)、ここで はそれを用いていない。その理由は、ここでの学生の答えは、「まだ〜ません」という目標文型に 関わるものであり、その導入のためには、Sが適切に答えられないという状況が必要だったから だと推測できる。
7 ただし、学習者の発話の特徴とティーチャー・トークの特徴には違いがあり、両者が構造的に同 一であるとは言えない。しかし、両者が類似性を持っていることも事実であり、以下に見るよう に、その類似性によって、ティーチャー・トークを話す教師のみによる目標文型の導入は、学生 と教師のやりとりによる導入と類似たパターンを示すことになる。
8 ただし、学習者の声を表す上記の 2つの文(「パソコンを買いたいです。秋葉原へ行きます。」)
には、普通の日常会話では頻繁に脱落する助詞「を」「へ」が省略されずに用いられており、必ず しも学習者の声とはみなせない要素も含んでいる。これは、助詞を脱落させてより自然な表現を 教えるより、まずは助詞の使い方をしっかり覚えさるべきであるという教師(著者たち)の信念 が反映されたものであると思われ、これにより、「A:日曜日なにをした?」「B:本を読んだ。そ れから、ビデオを見た。」(L20:171)のような不自然な発話や、「あ、雨ですね。Sさん、傘があ りますか。」(L14:131)のような文法的とは言えない発話、すなわち、声の持ち主を特定できな い発話が産出されてしまうこともある。このような声の異質性こそ、ティーチャー・トークを特 徴づけるものであると考えることもできるだろう。
9 そもそも言い換えという行為は、メタ言語(言語に言及する言語)を用いる行為であり、「メタ」
という語が示すように、言い換えることばと言い換えられることばの間には、次元の違い、つま り、それが位置づくコンテクストのレベル(層)に違いを認めることができる。
10 「共生」を目指す相互学習型活動の場においてさえ、ステレオタイプの構築による「我々」と「彼
ら」の区別がなされていることを指摘したOhri(2005)を参照されたい。
参考資料
エスアイケイアイ(2017)『2017日本語学校全調査』エスアイケイアイ出版部
鶴尾能子・石沢弘子(監修)(2012)『みんなの日本語初級Ⅰ・Ⅱ 第Ⅱ版 本冊』スリーエーネット ワーク
鶴尾能子・石沢弘子(監修)(2016)『みんなの日本語初級Ⅰ・Ⅱ 第Ⅱ版 教え方の手引き』スリー エーネットワーク
参考文献
久保田竜子(2008)「日本文化を批判的に教える」慎司佐藤・ドーア根理子(編)『文化、ことば、教 育―日本語/日本の教育の「標準」を越えて』明石書店、pp. 151-173
熊谷由理(2008a)「「日本語を学ぶ」ということ―日本語の教科書を批判的に読む」慎司佐藤・ドー ア根理子(編)『文化、ことば、教育―日本語/日本の教育の「標準」を越えて』明石書店、pp. 130-150