社学研論集 Vol. 18 2011年9月
はじめに
1900年代前後,清朝は衰微しつつあり,危機 を乗り越えるために,中国の近代化運動は政 治,経済,軍事,教育など諸方面にわたって行 われた。留学教育はこのような背景のもとで始 まった。
最初の留学生派遣先はアメリカであった。そ の後,ヨーロッパ諸国への留学生派遣が盛んに なった。日清戦争の敗北をきっかけとして,清 朝は西洋から東洋の日本を第一モデルとして日 本の各分野を習い始めた。1896年,最初の13名 の留学生が官費で派遣された。
留日学生に関する先行研究としては,実藤恵 秀氏の大著がある。本論では,実藤氏の研究 を参考にし,日中両方の史料を利用し,1890
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1910年代の日本留学についての政策,成果の点 から考察しようと思う。さらに,坂根慶子氏の「清朝日本留学考」で は,留学の成果について,「翻訳活動」と「革 命活動」という二つの留日学生の役割を挙げて いる。しかし,留学生の活動としては,もう一 つ雑誌などの発行もなされている。さらに,筆 者は留学の成果について,「革命活動」だけで
はなく,より広い範囲の「社会活動」も重視し なければならないと考えている。したがって,
本論ではこれらの分野も考察の対象とする。
第1章 日本留学の経過 1.1 時代背景
19世紀の中頃から,中国は英,仏,独,露,
米,日等の帝国主義国家に侵略され始めた。そ の諸国の中では,日本の近代化の明治維新及び 対外拡張政策が中国にとって,予想外な出来事 だったと思われる。その速さ,強さは清朝政府 と一般民衆を驚愕させるほどであった。従来軽 視していた「小国」を初めて重視し,日本の近 代化に学ぼうとする主張も多くの知識人,政府 官僚から出された。
日清戦争の敗北を契機に,東洋の日本を第一 モデルとして日本の各分野を習い始めた。そ の中では,「日本モデル」による教育の近代化 も進められた。1904年1月13日(光緒二十九 年十一月二十六日)「奏定学堂章程」の頒布を 始め,近代化の学校制度が導入された。「奏定 学堂章程」は日本の近代化教育の経験を参考に し,その制度,目的,内容及び方法などをすべ て模倣したうえで,作った教育改革案であっ
*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程1年(指導教員 島 善髙)
論 文
清国人の日本留学に関する一考察
― 1890年から1910年まで ―
孫 倩
*た。
教育の近代化に従い,留学問題も取り上げら れるようになった。阿部洋は『中国の近代教育 と明治日本』の中で,「日本留学問題がクロー ズアップされてくるのは,すでにみたとおり日 清戦争敗北後の変法自強運動の時期である。康 有為らは「変法」=政治改革と並行して「興学」
=近代教育の導入を主張し,この近代教育振興 の補助手段として海外留学,ことに日本への留 学の必要性を力説した。」[『中国の近代教育と 明治日本』1990
:
54]と述べている。このように,日清戦争に負けたのを契機とし て,中国近代化の変革の中で,アメリカ,欧米 諸国への留学生派遣に継いで,日本への留学生 の派遣が始まったのである。
1.2 日本側の働きかけ
1.2.1 日本政府と民間有識者の立場 清朝は積極的に日本へ留学生を派遣するよう になった一方で,1895年,三国干渉後のアジア 情勢のもとで,日本の官員また民間の有識者 は,強烈な危機感を持って,中国との政治
•
文 化の協力が必要だと強調した。このような背景で,日本が積極的に中国人留 学生の教育を引き受けるべきであると主張する 人も少なくなかった。貴族院議長で東亜同文会 を主催していた近衛篤麿をはじめ,陸軍の福島 安正大佐,宇都宮太郎少佐など日本側からの働 きかけもあった。彼らは中国各地を歴訪し,張 之洞,劉坤一,袁世凱などの高官及び地方の有 力者に対して,日本へ留学生を派遣するよう勧 めていた。同じく文壇でも,文科大学教授上田 万年が当時の総合雑誌である『太陽』に「清 国留学生に就きて」[『太陽』第4巻 第17号
1898年8月20日 論説
P
10-
15]を発表し,は じめて中国人留学生問題を取り上げた。その内 容を見てみると,予輩は切に清國留学生全般に就いての教育 問題が,我邦教育界の一大問題となり,幾 多の人々によりて,種々の方面より,解釋 せられん事を希望するものにして,或は 二三の人々の獨斷的意見と,獨斷的所置と によりて,愆られざらんことを冀ふものな り。
と書いてあるように,清国人留学生に対する教 育を二,三の教育家だけに委ねるのではなく国 家事業として取り上げるべきことである,とい うのが上田氏の主張である。
その理由を見てみると,以下のように書いて ある。
(前略)今回の留學生の如き,清國獨立の 上にも,日清提携の一致の上にも,與りて 大に力あるものにして,單に學術研究の為 に我邦より欧米に派遣せられたる留學生と は異り,殊に我邦に於て保護奬勵する必要 あるものはれば,帝國に於てせらるゝはあ まりに畏れ多しとする(後略)
とあるように,今回の留学生問題は単に学術研 究の問題だけではなく,「日清提携」及び日本 に供する国益を述べている。
このように,清国留学生に対する教育は「国 家事業」とするべきだと多くの有識者は主張し ていた。
1.2.2 矢野文雄公使の提案
清国政府内部では,日本留学教育を積極的に 推進すると同時に,受け入れ側である日本政府 の動きも明らかになった。駐華公使矢野文雄は 1898年5月に,日本政府は,200人の留学生を 受け入れ,経費を負担しようとする案を総理衙 門に提出したのである。
その提案に関して,矢野が外務大臣西徳二郎 に出した手紙(1)により,その詳しい事情を窺う ことができる。
(前略)福建省内鉄道ノ義ニ関シ申進文中 記載ノ通リ,其ノ要求ヲ提出セントナレ バ,筆舌ノ友情以外ニ実際ノ友情,即チ清 政府ガ今日ニ在ツテ喜悦スベキノ模様ナキ ニモアラズト観察セラルヽ留学生ノ教育を 引受クベキ事ヲ申込タランニハ,今度ノ要 求ヲ成功セシムルニ効力アルノミナラズ,
我国ノ感化ヲウケタル新人才ヲ老帝国内ニ 散布スルハ,後来我勢力ヲ東亜大陸ニ樹植 スルノ長計ナルベキトノ次第ヲ茲ニ敷衍セ バ,其武事ニ従フ者ハ日本ノ兵制ヲ模倣ス ルノミナラズ,軍用器械等ヲモ我ニ仰グニ 至ルベク,士官其他ノ人物ヲ聘用スルニモ 日本ニ求ムルベク,清国軍事ノ多分ハ日本 化セラルヽコト,疑ヲ容レズ,(後略)
清国留学生の教育引き受けの理由について,
一つは福建省における鉄道敷設権の交渉を円滑 に進める狙いがあり,もう一つは欧米列強が中 国でそれぞれの勢力範囲を拡大するに従い,日 本も積極的に中国に進出しなければならないと いう主張も背後にあったのである。「清国軍事」
だけではなく,そのほかには,
又理科学生ハ其ノ器械・職工等ヲモ之ヲ日 本ニ求ムルナルベク,清国ノ商工業ヲシテ 自ヅカラ日本ト密接ノ関係ヲ有セシメ,随 ツテ我商工業ヲ清国ニ拡張スルノ階梯トモ 為ルベシ,又法律・文学ニ関スル学生等 ハ,専ラ日本ノ制度ニ則リ清国将来ノ進運 ヲ謀ルベシ,事若シ此ニ至ラバ,我勢力ノ 大陸ニ及スコト,量ル可ラザルモノアラ ン。而シテ清国官民ガ我国ニ信頼スルノ情 ハ亦タ今日二十倍スベシ。(後略)
と書いてあるように,留学生の受け入れを通し て,中国の各方面への進出を容易にし,さらに 中国側の信頼を得ようとする考えであったこと がわかる。
このような「鉄道敷設権の獲得」と「大陸進 出」のために,矢野は留学生の受け入れに関す る具体案を出した。
(前略)本使ニ於イテハ口頭ヲ以テ二百名 迄モ引受クベキ旨申述ベ,又費用ノ一段ニ 至ツテハ,前顕二百名ニ対スル一切ノ費用 ヲ給セラル事ハ政府ニ於イテモ予期セラ ルヽコトト存候。一名ニ付一ケ年ニ三百円 内外ニ過ギザルベシトセバ,二百名ニ対シ 一ケ年六万円内外ニ過ギザルベク,斯ル僅 少ノ費用ヲ以テ前顕大業ノ資本ノ一部ト為 スノ得失,今更論ズルニ及バザル義ト存 候。(後略)
このように,矢野は僅かな費用で大業を完成 させようと企図していたのである。
以上,日本側にも,政府のみならず民間も留 学生の受け入れに努力していた者が多く存在し
ていたため,留学生の受け入れが円滑に行われ ていたことがわかる。
1.3 中国側の動き
1.3.1 光緒帝より日本への国書
光緒帝は日本からの清国留学生教育の熱意と 矢野の受け入れの提案に対し,1898年9月7日
(光緒24年7月22日),日本へ国書(2)を出した。
現在,貴国駐華公使矢野文雄は,中国に着 任して,日中間の外交問題に遇えば,あら ゆる事情を斟酌し解決しないものはない。
公平であり,すでに友好を表した。先に総 理各国事務衙門へ返信した。貴国政府は中 国の人材育成に関心を持って,中国は学生 を選抜し,貴国学堂に派遣し,各種の学問 を習わせることを望むと詳しく述べた。尤 も大皇帝は喜びと憂いを分かち合うという 友情に感服し,感謝する。朕はすでに総理 各国事務王大臣に知らせて,貴国の駐京使 臣とその派遣の規則を相談し,誠実に選 抜,派遣すると命じた。大皇帝の厚意を感 謝する。(現在貴國駐京使臣矢野文雄,到華以 来,凡遇兩國交涉之事,無不準情酌理,歸于公 平,已徴鄰好。曩復貽書總理各國事務衙門,備 述貴國政府關念中國需才孔亟,願中國選派學生 前赴貴國學堂肄習各種學問,尤佩大皇帝休戚相 關之誼,曷勝感謝。朕已諭令總理各國事務王大 臣,與貴國駐京使臣商訂章程,認真選派,以副 大皇帝盛意。)[『清光緒朝中日交渉史料』下冊 1970: 994](句読点 筆者)
とあるように,日本の留学生を受け入れようと の好意に対して,光緒帝は感謝の気持ちを表し
た。厳しく選抜して派遣しようという光緒帝の 返答であった。
1.3.2 張之洞と日本留学
当時,清朝政府の中では,日本留学を主張し た人物に,もっとも影響力を持っていたのは湖 広総督張之洞(3)である。
(1)日本留学の宣言書
1898年,張は有名な『勧学篇』を著し,「中 体西用」(中国の制度を本として,西洋の技術 を活用すること)を前提とした教育近代化の具 体策を提示した。同書の「内篇」には九つの 文章があり,その趣旨は「皆求仁之事」(すべ て仁義を求めること),即ちすべての庶民は伝 統的な「三綱五常」(4)を守るべきだと主張した。
「外篇」に十五篇の文章があって,その内容は
「皆求智求勇之事」(すべて智と勇を求めるこ と),即ち,伝統的な「三綱五常」と統治秩序 を守りつつ,さらに西洋技術,制度を習って工 商,教育,鉄道などの面の改革をいかにして行 なうのかという課題に建言した。「外篇」を見 ると,教育関連の文章は六つがある。具体的に,
「益智第一」,「遊学第二」,「設学第三」,「学制 第四」,「広訳第五」,「閲報第六」というような 章節がある。その中では,第二篇の「遊学」に,
日本留学を薦める理由が詳しく書かれてある。
[『勧学篇』1898]
留学の効用と対象者
留学の効用について,『勧学篇』は次のよう に述べている。
留学して過ごす1年間は,5年間西洋書籍
を読むことに勝る。(出洋一年 . 勝於読西書 五年 .)外国の学校に入学することは,中 国の学校で3年間の勉強することに勝る。
(入外国学堂一年 . 勝中国学堂三年 .)
このように,張は学生を留学させることの利 点を説いている。次に対象となる留学生の資格 について,張は以下のように述べている。
留学生の対象は,幼い子供より知識人を優 先し,庶民・官僚より貴族を優先する。(遊 学之益 . 幼童不如通人 . 庶僚不如親貴 .)
このように張は李鴻章が推進したアメリカ留 学の反省の上に立ってその対象者を年少者や庶 民,官僚よりも知識人や貴族を優先させたので ある。
日本での海外留学派遣の例と日本留学の利点 次に張は日本の海外留学派遣の事例を挙げて その留学生派遣の必要性を強調した。すなわ ち,以下の通りである。
日本は小さい国であるが,何故発展できた のか。伊藤,山縣,榎本,陸奥などは,皆 20年ほど前,欧米に留学した学生である。
彼らは日本が西洋に脅かされることを憤 り,百人あまりを率いて,ドイツ,フラン ス,イギリスなどの国々に行って,政治工 商あるいは水陸兵法を学んだ。修業した あと帰国し,国家はこれらの人材を活用 し,政事は一変した。日本は東洋で重要 な役割を果たした。(日本小国耳 . 何興之暴 也 . 伊藤山縣榎本陸奥諸人 . 皆二十年前出洋之
学生也 . 憤其国為西洋所脅 . 率其徒百餘人 . 分詣 徳法英諸国 . 或学政治工商 . 或学水陸兵法 . 学成 而歸 . 用為將相 . 政事一変 . 雄視東方 .)
さらに日本を留学させる利点を次のように説 明している。
留学の国といえば,西洋より東洋のほうが いい。一,距離が近く,費用の節約がで き,多くの人数が派遣できる。一,中国に 近く,調査,研究が容易である。一,日本 語は中国語と似ているため,理解しやす い。一,西洋の学問はかなり難しい。しか し,日本人はすでに西洋の学問を修得して いる。中国と日本との事情・風俗は似てい るため,倣いやすい。よって,半分の苦労 で倍の成果をあげることができる。その上 でなお自らもっと高いレベルを求めたいと 望むなら,さらに,西洋に赴くべきである。
(至遊学之国 . 西洋不如東洋 . 一 . 路近省費 . 可 多遣 . 一 . 去華近易考察 . 一 . 東文近於中文 . 易 通曉 . 一 . 西学甚繁 . 凡西学不切要者 . 東人已刪 節而酌改之 . 中東情勢風俗相近 . 易仿行 . 事半功 倍 . 無過於此 . 若自欲求精求備 . 再赴西洋 . 有何 不可 .)
留学生派遣の経験のまとめ
張は留学生派遣の経験について,日本への留 学生派遣前に,欧米へ派遣する事例をあげて,
以下のようにまとめた。
昔かつて幼い子供をアメリカに派遣した。
何故効果が見られなかったのか。いわく留 学生が幼かったからである。またかつて学
生を英,仏,独に派遣し,水陸師などの技 能を学ばせた。何故多くの人材が輩出され なかったのか。いわく使臣と監督が尽力し ていなかったからである。また出身の条件 も明らかではなかった。またかつて官員を 海外に派遣し,見学させた。何故才能が身 に付かなかったのか。いわく派遣の人選が まちがっていたからである。(或謂昔嘗遣幼 童赴美學習矣 . 何以無效 . 曰失之幼也 . 又嘗遣學 生赴英法德學水陸師各藝矣 . 何以人才不多 . 曰 失之使臣監督不措意 . 又無出身明文也 . 又嘗派 京員遊歷矣 . 何以材不材相兼 . 曰失之不選也 .)
『勧学篇』は当時に複雑な政治背景のもとで,
張は自分の政治立場(西太后を中心とした守旧 派と親しみ,康梁を代表とした革新派に批判し ようという自我保護策)を表すために書いたも のであるが,彼の建言,特に留学生派遣に関す る主張は確かに中体西用論の立場から教育近代 化のための具体策だと評価できよう。
(2)日本留学に関する公文書
『勧学篇』のほかには,『張之洞全集』には,
1898年(光緒24年)から,日本への留学生派遣 についての公文書が収められている。その内容 は留学経費,修業科目,留学生政策などに関す るもので,主に留学生監督,日本に駐在する大 使などへ差し出した公文書であった。
張の本意は日本の先進的な技術,特に軍事力 について学ぼうという考え方であった。1898年
(光緒24年8月11日)に北塩道(5)へ差し出した 公文書には以下のようにある。
日本の軍事学校は学問の修得に熱心で,日
に日に発展している。さらに,また,それ ぞれの学校はあらゆる西洋の学問を教授し ている。且つ日本と中国とは同文であり,
修得しやすい。(查日本武備學堂最為精心講 求,蒸蒸日上,此外各學堂於西學門類無不兼 賅,且與中國同文,學習較易。)現在110人を 派遣し,日本へ留学させると立案した。学 生50人を軍事学堂に入れ,将校を育成し,
兵士50人を教導団に入れ,下士官を育成す る。学生10人を農務,商務,工芸学堂に入 れ,社会に役に立つようにする。経理学や 軍医学も学習すべきである。すなわち,軍 事学校での50人の学生に習得させるべきで ある。(茲擬派學生一百一十人游學日本,以學 生五十人入武備學堂學習以儲將佐,以弁勇五十 人入教導團學習以儲弁目,以學生十人入農務,
商務,工藝學堂學習以裨民事。其經理科,軍醫 科亦應學習,即附入武備之內。)[『張之洞全集』
第六巻 2008: 159]
張は,軍事技術を中心として様々な専門分野 を修得させるように指示していった。
1899年(光緒25年2月11日),張は留日学生 監督の銭恂へ差し出した公文書の中では,
人材が輩出されると,すなわち国家は強く なる。これは目下の急務である。(人才出則 國家強,是為目前至要至急之事。)[『張之洞全 集』第六巻 2008: 214]
とある。したがって留学生派遣は,国家の富強 のための人材育成の策であるというのは張の基 本的な主張であったといえる。
1899年(光緒25年11月12日),総署へ差し出
した公文書によると,
本衙門は学生を各国の農工商学堂に入学さ せ,修業させる規則を上奏し,議しようと する。同日,「その議に依る。これを謹め。」
という皇帝からの朱筆を奉じる。(本衙門 具奏議覆出洋學生入各國農工商學堂肄業章程一 摺。同日奉硃批 :依議。欽此。)[『張之洞全集』
第六巻 2008: 279]
これにより軍事以外の専門分野も重視される ようになってきたことが窺われる。総署よりの 返信を見ると,
確かに聖旨の如き,言語文学を専攻とし て,さらに海陸軍事も勉強する人がいた。
しかし各国の農,工,商務,鉱物採掘の知 識を修得し,帰国して,その技術を伝授す る専門家はまだいない(後略)(誠有如聖諭 專攻語言文學,肄習水陸武備,而於各國農,工,
商務鑛務未有專門精肄回華傳授者(後略))[『張 之洞全集』第六巻 2008: 280]
とあるように,各分野の専門家が期待されて いった。
1898年(光緒24年)から1900年(光緒26年)
までの3年間の公文書を見てみると,張が日本 留学に深い関心を持っていたことは明らかであ る。張之洞は清末の政治家として,中国教育の 近代化,特に留学生派遣を通して日中文化交流 に貢献していた。
1.3.3 康有為の上奏文
政界で活躍していた康有為も日本への留学を
極力勧めた。変法のために人材は必要である。
1898年6月1日,彼は上奏文を出した。その内 容を見ると,
私は今,変法を行いたいが,規則はまだ 整っていない。諸学に人材はいない,もの ごとをやろうと思うが,そのやり方が見つ からない。人材を派遣し,留学させないと,
変革の役に立たない。(中略)臣は日本の 変法,学制変革について,確かに成果がみ られたと考える。中国が留学生派遣を容易 にしようと思うならば,ぜひとも日本から 始めるべきである。(我今欲變法而章程未具,
諸學無人,雖欲舉事,無由措理,非派才俊出洋 游學,不足以供變政之用。(中略)臣以為日本 變法立學,確有成效,中華欲游學易成,必自日 本始。)[『康有為政論集』上 1981: 250]
張之洞とは同じような立場で,日本留学教育 の必要を力説した。
1.3.4 留学政策案
1903年10月6日(光緒29年8月16日),留学 生政策案が作られた。「約束游學生章程」の十 条,「獎勵游學畢業生章程」の十条,「自行酌 辦立案章程」の七条[『張之洞全集』第四巻
2008
:
162-
165]があった。「約束游學生章程」の内容を見ると,留学生 派遣,入学の状況,留学期間の言動及び不正を 働いた学生の処罰などについて規定していた。
「獎勵游學畢業生章程」では留学生の専門分 野によって,帰国後,優れた学生に相応な官職 を用意することを述べている。
「自行酌辦立案章程」は日本側と交渉せずに
清朝政府は自ら留学生の問題を解決するために 付け加えた規則であった。
留学政策案は留学生の選抜,派遣,在籍中の 勉強,言動及び帰国後の奨励などを詳しく記入 していた。この点からも清政府は日本への留学 生派遣に対して,積極的にその政策を立て,実 行に移すという意識が明らかである。
1.4 留日学生派遣の結果
このような流れの中で,日本留学者数は最盛 期を迎える。1896年に,当初13名の留学生から 発足し,1905年には1万人を越えた。しかし,
同年の「留学生取締規則」の公布により,1906 年から1911年まで,留日人数が逐年減少した。
その後,1912年民国成立以降,再び増加に転じ た。
第2章 留日学生の文化運動
当時の留学生は学校に通う以外,どんな活動 に参加したのか。清末の激しい政治,軍事,文 化などの変革の中では,留学生はどのような役 割を果たしたのか。文化運動と革命運動という 二つの観点から述べてみよう。
本章で,まず留日学生の文化運動を述べてみ る。
2.1 翻訳活動
2.1.1 日本書の漢訳の流行
明治維新以降の日本は欧米と並び,近代国家 に生まれ変わった。1895年,日清戦争での勝利 をきっかけにして,日本は欧米にかわって中国 の注目する国となり,近代化の手本となる国と して,さまざまな影響を中国に与えてきた。政 治,経済,軍事以外に,文化も中国に影響を与
えた。1896年から始まった留学生派遣の目的の 一つも日本語に詳しい翻訳者を養うことであっ た。[『清末留日學生』1975
:
152]欧米を発展モ デルとした日本は西洋書籍に対する訳書も豊富 なため,日本語の書物を読めば,世界の書籍が ほとんど読める。これは西洋文化を取り入れる 近道であろうと当時の中国の有識者は思ったの である。1902年,「奏請設立譯書院」(訳書院を設立す ることを奏請する)との折本には次のようにあ る。
日本は明治維新後,西洋の書籍を数多く翻 訳した。今,日本人は各分野の西洋学問を 習得した。それが和文訳書の果たした役割 である。(日本維新之後,以翻譯西書為汲汲,
今其國人於泰西各種學問皆貫串有得,頗得力於 譯出和文之書。)日本と西洋の新書を広く購 入し,世界に詳しい知識人を選んで,その 新書の内容を選択し翻訳する。(後略
)
(廣 購日本及西國新出之書,延訂東西博通之士,擇 要翻譯。(後略))[『中國近代出版史料 初編』1953: 50]
康有為も1898年6月に「請開局譯日本書折」
(局を開き,日本書を訳す折本)を書いた。そ の内容は以下の通りである。
臣は日本の変法を考察し,日本が既に西洋 の参考にできる書物をすべて翻訳した。そ して,その文字はわれわれと同じ,文法だ けは少し逆さまにしたため,数ヶ月これを 習うと理解できる。人々が容易に翻訳でき る。(臣愚窃考日本变法,已尽译泰西精要之书,
且其文字与我同,但文法稍有颠倒,学之数月而 可大通,人人可为译书之用矣。)[『康有為政論 集 上』1981: 254]
そして,同年,康は「请广译日本书派游学折」
(日本書を広く訳し,留学を派遣する折本)の 中で,次のように述べている。
日本は,昔は閉鎖した国であった。しかし,
変法も留学派遣も迅速に行い,その目的は 西洋の政治,工芸,文学などの知識を習得 することである。西洋の書物も即座に翻訳 し,それは国の発展に寄与させるためであ る。そのため,わが国より発展した。われ われは自らを救うためには,他の方法があ るわけではない。日本と同様に変法をした り,留学生を派遣したりするべきである。
それを以て,欧米の政治,工芸,文学など の知識習得が可能となり,諸国の書物を広 く訳して,わが国の発展に役立てる。それ を以って,わが国の広大さと,人口が多い こともあり,国家の発展は日本より何倍も 速く達成できる。(日本昔亦闭关也,而早变 法,早派游学,以学诸欧之政治工艺文学知识,
早译其书,而善其治,是以有今日之强而胜我
也。吾今自救之图,岂有异术哉?亦亟变法,亟 派游学,以学欧美之政治工艺文学知识,大译其 书以善其治,则以吾国之大,人民之多,其易致 治强可倍速过于日本也。)[『康有為政論集 上』
1981: 302]
上記した有識者,政治家の意見から見れば,
訳書活動も留学生派遣と並び,自国の発展のた めの有力な手段であったと認識していたことは 明らかである。
なぜ和書を漢訳にするのかについて,ここで まとめよう。その理由は①日本が既に西洋の参 考にできる書物をすべて習得し,訳したこと,
②欧米各国の言語より,日本語は漢文と似て,
習いやすいため,短時間で習得できることであ る。したがって,1896年日本への留学生派遣か らはじまり,日本書の漢訳活動は盛んになって きたのである。
2.1.2 訳書の種類と影響
次に,前述した訳書について,その種類及び 他国の書物と比べて日本書の漢訳の割合を見て みよう。次の表は張靜廬『中國近代出版史料 二編』を参考にしてまとめたものである。
表2-1 各国書籍の漢訳書の対照表
分類 /原書 日本語 英語 アメリカ語 フランス語 ドイツ語 ロシア語 その他 合 計
史 志 87 8 10 3 不詳 不詳 17 125
法 政 35 5 2 2 6 2 18 70
学 校 39 3 1 不詳 不詳 不詳 5 48
交 渉 2 5 不詳 1 不詳 不詳 1 9
兵 制 6 1 不詳 3 13 不詳 9 32
農 政 4 1 不詳 不詳 不詳 不詳 5
砿 務 5 1 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 6
工 芸 不詳 不詳 不詳 不詳 1 不詳 不詳 1
表2-1は,1902年から1904年までに清国で 出版された日本及び欧米諸国の原書を翻訳した 漢書の種類と冊数の一覧表である。まず,原書 は日本語の一欄を見てみると,ほかの国の書物 と比較して,数が圧倒的に多いことがわかる。
この点から見れば,確かに1896年日本への留学 生派遣が始まった頃から,和書を漢書に訳した 数も多く,分野も多岐にわたっていることが確 認される。日本書を漢文に訳した合計の数は 321冊があり,全体533冊の中では60%以上を占 めていた。
また,列挙した25の分野を見れば,清国で重 要とみなされた分野も一目瞭然であろう。日本 語の一欄を参考にすると,史志が一番多く,以 下,学校,法政,地理,哲理の順となってい る。なぜこの五つの分野の訳書が多いのであろ うか。その理由について,張静廬は『中国近代 出版史料初編』の中で次のように述べている。
中国は30年以来,例えば京都同文館,上海 製造局などで,翻訳した西洋書籍は千百分 の一しかない。大体数学,化学,工芸など の学問関係の書物が多く,政治関係の書物 は最も少ない。そして,西洋の学問の精髄 は新しい理論,新しい法律であり,昔に訳 したものの多くは古い論理なので,優れた 人材に新しい学問を究めさせれば,数年も 経たない内に,その効果を得ることができ る。日本のように広く各国の書物を訳さな いと,発展の道はないだろう。(中國三十年 來,如京都同文館、上海製造局等處,所譯西書不 過千百中之十一,大抵算化工藝諸學居多,而政治 之書最少 ;且西學以新理新法為貴,舊時譯述半為 陳編,將使成名成才者皆究極知新之學,不數年而 大收其用,非如日本之汲汲於譯書,其道無由矣。)
[『中國近代出版史料 初編』1953: 50]
分類 /原書 日本語 英語 アメリカ語 フランス語 ドイツ語 ロシア語 その他 合 計
商 務 2 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 1 3
船 政 1 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 1
理 化 10 2 2 2 不詳 不詳 5 21
象 数 6 1 1 1 不詳 不詳 不詳 9
地 理 34 5 3 不詳 不詳 不詳 4 46
全 体 学 14 不詳 3 不詳 不詳 不詳 1 18
博 物 9 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 4 13
衛 生 6 1 2 不詳 不詳 不詳 不詳 9
測 絵 2 不詳 不詳 不詳 1 不詳 不詳 3
哲 理 21 9 2 不詳 1 不詳 1 34
宗 教 2 1 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 3
体 操 5 不詳 不詳 不詳 1 不詳 不詳 6
遊 記 3 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 3
報 章 1 2 不詳 不詳 不詳 不詳 3 6
議 論 15 2 2 1 2 不詳 1 23
雑 著 8 1 不詳 不詳 不詳 不詳 4 13
小 説 4 8 3 2 不詳 2 7 26
合 計 321 55 32 15 25 4 81 533
(張靜廬『中國近代出版史料 二編』羣聯出版社 1954 P100-101より作成)
とあるように,清国にとって一番重要なのは西 洋の最新の理論と法律などを学ぶことであっ た。しかし,政治関係,新しい法律などの翻訳 書は遥かに不足していた。多くの日本書を訳す と,西洋各国の文明,理法などの新たな知識を 得ることができる。上述した一番多く訳された 領域の歴史,学校,法政,地理,哲理はいわゆ る政治関係,新しい理法などの分野に属する。
そして直接に日本書を漢書に訳すのは西洋学問 を勉強する近道であるため,このような分野の 訳書が一番多いという理由も理解できる。
したがって,当時の留学生たちの大部分は法 政,文学・歴史,教育などの専門を選んだので ある。[『清末留日學生』1975
:
181]清末の政治 改革の多くは日本をモデルとして進んできたた め,日本の法政の書物を訳すことを目指した。法政関係の人材を養うことは急務なだけではな く,日本語に詳しい法政専門家の必要性はさら に切実であった。これも日本への留学生派遣を 行う目的の一つであろう。
1896年の留学生の来日から,日中戦争にい たるまでの42年間は,日本書の漢訳は絶え間 なく,おこなわれた。[『中国人日本留学史』
1960
:
291]実藤恵秀編『中訳日文書目録』によ り,その間の単行本の発行数を表に整理してみ た。表2-2 日本書漢訳の単行本の発行数表
(1896-1938)
分 野 種 類
政治・法律 374
経済・社会問題 374
自然科学 347
地理・歴史 344
文学・語学 324
分 野 種 類
医 学 193
実 業 177
教 育 140
軍 事 132
宗教・哲学 113
雑 類 84
合 計 2602
(実藤恵秀編『中訳日文書目録』国際文化振 興会 1945 P30-31より作成)
合計した数は2
,
602冊がある。その内訳も前 に挙げた1902年から1904年までの漢訳書の一覧 表と同じように,1位から5位までの順序は相 変わらず,政治・法律,経済・社会問題,自然 科学,地理・歴史,文学・語学であった。した がって,表から政治,法律,社会経済,などの 分野は当時の中国にとって一番関心深い領域で あったことがわかる。中国近代化は日本をモデルとして始まったた め,日本書の漢訳活動は西洋及び日本の先進的 な科学,文明を吸収できたという点では,中国 の近代化に大きな役割を果たしたことは言うま でもない。
2.2 諸雑誌の発行 2.2.1 雑誌の種類
翻訳活動と並んで,当時の留日学生が出版し た諸雑誌は,文化運動のもうひとつの表現であ る。
留日学生派遣の初年の1896年から辛亥革命の 勃発の年の1911年まで,留日学生が日本で創刊 した雑誌をまず挙げてみよう。
張靜廬の『中國近代出版史料 二編』による と,辛亥革命前に創刊した全部で49種類の雑誌 が挙げられている。その中で,表2-3に掲載
した27種類の雑誌は日本で創刊したものであ る。その割合から見れば,日本で創刊した雑誌 は全体の半分以上を占めている。
日本で創刊した雑誌の内容については,各国
の新刊書の訳書,新しい思想,理論などの紹介,
個人的な著作など,いろいろ含まれている。
表2-3 1896年-1911年日本で創刊した雑誌の一覧表
名称 刊行地 刊行年 編集者 備考
訳書彙編 東京 1900 戢元丞,楊廷棟,楊蔭杭,雷奮
留学生の創刊した最初の月刊誌。そ の訳文はわが国の青年の民権思想 を養った
開智録 横浜 1900 鄭貫公,馮自由,馮斯欒 自由平等の真理を提唱 国民報 東京 1901 戢元丞,沈翔雲,秦力山,王寵惠,
楊廷棟,馮自由
革命で清朝打倒と康,梁保皇党反 対を目指した革命的な雑誌 湖北学生界 東京 1902 劉成禺,李書城,程明超,尹拔一,
王存一
新民叢報 横浜 1902 梁啓超,韓文舉,蔣智由,馬君武 民族主義を提唱 浙江潮 東京 1903 孫翼中,蔣智由,蔣方震
江蘇 東京 1903 秦毓鎏,張肇桐,汪榮寶
湖南遊学訳編 東京 1903 楊守仁,梁煥彝,樊錐,黃軫,周 家樹
旧学 東京 1903 湖北学生界の増刊
漢声 東京 1904 湖北学生界の改称
女子魂 東京 1904 抱真(女)
二十世紀之支那 東京 1905 田桐,白逾桓,劉柄標,宋教仁,陳 天華
民報 東京 1905
胡漢民,陳天華,章炳麟,劉光漢,
朱執信,汪東,湯增壁,陶成章,黃 侃
中国同盟会の機関雑誌,三民主義 を主張
復報 東京 1906 高天梅,柳亞子,田桐 鵑声 東京 1906 雷鐵崖,董修武,李肇甫 雲南 東京 1906 楊秋帆,呂志伊,趙伸 洞庭波 東京 1906 陳家鼎,楊守仁,寗調元
直言 東京 1906 直隷留学生
中国新女界 東京 1906 燕斌
天討 東京 1907 民報の付加雑誌
晋声 東京 1907 景定成,景耀月,谷思愼 天義報 東京 1907 劉光漢,何殷震
漢幟 東京 1907 陳家鼎,景定成,仇式匡 大江報 東京 1907 夏重民,黃增耈
醒獅 東京 1907 高天梅
四川 東京 1907 雷鐵崖
河南 東京 1907 張鐘端,劉積学
(張靜廬『中國近代出版史料 二編』羣聯出版社 1954 P283-287より作成)
2.2.2 雑誌の作用と留学生の役割
以上,清末に日本で発行した諸雑誌の簡単な 紹介を通じて,その雑誌の影響力及び留学生の 役割について述べた。実藤氏のいうとおりに,
「中国の醒むるがごときも未だ醒めず,または 初めて醒むるの時,人は新に従ふか,旧に従ふ か,未だ定まらず。日本留学生の書報(書籍雑 誌)あり,日本留学生の罵詈(本国政治に関す る攻撃)あり,日本留学生の電争あり,而して 通国の人 大に醒む。開明なる者は,明に因り て醒め,頑固なる者は罵に因りて醒め,進まざ る者は駆に因りて進み,退後する者は鞭策に因 りて前む。此の覚悟時代に在りて,日本留学界 は 大に中国に影響あり。」[『中国人日本留学 史』1960
:
417-
418]というように,留日学生の 活動(文化運動,革命運動など)を通じて,中 国の各階層の人々を覚醒させ,中国の変革を促 したことが諸雑誌の最も重要な役割であった。第3章 留日学生の革命運動
本章で留日学生の革命運動を述べてみよう。
実藤氏は次のように述べている。「日清戦争 に中国が敗北したことは,中国としてはむしろ 日本に感謝すべきだ!なんとなれば,中国はこ れによって自強の策を講ずるに至ったからだ
——清国のある人は,こういったほどである。」
[『中国人日本留学史』1960
:
411]このような認識が当時の一部中国の人々に あったのだろう。この戦争をきっかけに,様々 な救国運動がおこった。1898年,戊戍変法が百 日間で失敗した。1900年,義和団運動は「扶清 滅洋」(清朝を扶助し,八ヶ国連合軍を滅ぼす)
をスローガンとして活動したものである。しか し,清政府はこの団体を利用しようとする立場
から殲滅する方向へ政策を変えたため,義和団 運動も失敗に終わった。この二つの運動はとも に失敗したが,その変革を通じて中国を発展す る各階層の革命運動が生まれてきたのである。
当時,中国ではいろいろな政治団体,革命 組織も成立してきた。1894年,康有為は広東
•
広西の新学の学生を集めて,桂学会を作った。1895年8月,康有為と陳熾が北京の安徽会館で
「万国公報」を創刊し,海外の新聞の紹介や時 事評論を行った。これをきっかけに,定期的に 集会を催し,講演と討論会を行ったため,11月,
強学会が発足した。1898年,康は欧米列強の租 借地に反対するため,保国会を作った。
その時の革命活動,革命団体などは雨後の筍 のように,次々と出現してきた。この革命の嵐 の中では,留日学生はどのような役割を果たし たのか。留日学生と当時の亡命者,革命者との 間でどのような関係があったのか。以下,中国 同盟会を中心として,留日学生が清末の革命運 動の中で果たした役割を考察する。
1905年8月,興中会,光復会,華興会(6)など の組織が合併して中国革命同盟会が東京で成立 した。孫文を総理,黄興を庶務に選出すると同 時に,『軍政府宣言』,『中国同盟会総章』及び
『革命方略』などの文書を選択し,国内外に支 部及び分会を設置し,華僑,会党,新軍と連絡 して,全国規模の革命組織となった。
8月13日,黄興,宋教仁が主唱して,飯田橋 近くの富士見楼で東京中国留学生の孫文歓迎大 会が開かれた。それを伝え聞いて集まった留学 生は千人を越えたといわれる。[『日本留学と革 命運動』1982
:
111]孫文は留学生たちに向かっ て演説を試みた。「諸君が日本に留学にきておられる目的が,
日本の文明を吸収することにあるのは言をまた ないでしょう。しかし日本の旧文明は,もとよ り固有のものではなく,これを中国から移入し たものであります。五十年前,明治維新のころ の日本の英雄豪傑たちは,中国の大哲学者,王 陽明の知行合一の学説の感化をふかく受け,独 立尚武の精神をもって,その四千五百万の国民 を,水火のなかから救い出す功業をなしとげた のです。ところがわが中国人は,せっかく立派 な哲学思想の素養がありながら,異民族である 満州にこびへつらっているうちに,日本に落伍 してしまったのです。」[『日本留学と革命運動』
1982
:
112]聴衆の多くは留学生で,日本に学ぶことの意 義から,明治維新の故知を説き,西洋化をめざ した明治維新も実は中国の哲学に養われたもの であることを指摘して,留学生たちの民族意識 と自尊心に訴えたのであった。
その結果,同盟会が成立後3ヶ月にして,入 会するものは留学生の大半を占めたといわれて いる。[『日本留学と革命運動』1982
:
113]中国同盟会成立初期(1905,1906の2年間)
の会員名簿[『革命之倡導與発展 -中国同盟 会一-』1964
:
163-
225]を見てみると,東京で 入会した留学生の863名全員についてそれぞれ の名前,出身地,入会年月日などが収録されて いる。その内,就学先の学校名が明らかであっ た学生は91名である。以下,彼らを対象として 分析する。まず,出身地から見ると,全員863名の中で は,安徽籍は59人,貴州籍は8人,浙江籍は20 人,陜西籍は4人,河南籍は9人,江西籍は8 人,広西籍は43人,江蘇籍は36人,湖北籍は 106人,湖南籍は157人,雲南籍は21人,福建籍
は10人,山東籍は53人,直隸籍は35人,広東 籍は112人,山西籍は55人,四川籍は127人(7)で あった。入会の人数が100名を越えた地域は湖 南省,四川省,広東省,湖北省の四省である。
もちろん,これは省によって,留学生の人数は かなり違うためで,南のほうから日本に留学し た学生はもともと多かった。したがって,全員 の留学生の中では,中国南部出身の人が数多く 革命に参加したのは当然といえよう。そのた め,南部のほうには,革命活動がより活発で あった点は否定できないだろう。
年齢から見れば,平均年齢は25歳であり,今 現在の留学生と同じぐらい,20代の若者が主と して活躍していた。
彼らの紹介人を見てみると,主に当時の政治 家,亡命者,革命家などである。中では,同盟 会の成立に力を尽くした重要なメンバーも少な くなかった。たとえば,孫文,黄興などの同盟 会の創設者も含まれている。
就学の学校先から説明してみると,振武学 校,同文書院で学んでいた人が多かった。振武 学校は正式的な教育機関として運営していた学 校であり,同文書院は現在の予備校と同じよう なレベルの学校であった。正式的な教育機関の 出身の留学生は,革命に参加した人がもっと多 いだろう。早稲田出身の留学生も6名が収録さ れている。
以上見てきたように,中国同盟会と留日学生 とは深く結びついていることが明らかである。
中国同盟会は亡命者をリーダーとして,作られ た革命組織である。彼らは留日学生などを指導 し,さまざまな革命活動を起こした。
前章で述べた文化運動には同盟会会員の留学 生たちもたくさん参加した。それだけではな
く,革命運動にも同盟会会員としての留学生も 参加した人も少なくなかった。
このような革命運動が漸く盛んになってきた 時,清政府も革命運動の中心が日本にあるのを 見て,日本政府に対し,中国留学生の革命運動 に弾圧を加えることを要求した。1905年11月,
日本政府(文部省)は「清国と韓国の留日学生 取締規則」を公布した。これをきっかけに,在 日中国留学生たちの「取締規則」に反対する尖 鋭的な闘争が勃発した。[『中国新聞史の源流
孫文と辛亥革命を読む』1994
:
77]その後の留 学生一斉帰国事件(8),湖南籍の留学生陳天華の 自殺事件(9)などが相次いで起こった。このよう な一連の事件から見れば,留日学生が当時の革 命活動に果たした役割が大きかったことが推測 できる。「中国同盟会設立100周年記念国際シンポジウ ムについての紹介」(10)によると,中国同盟会の 設立の環境について,「中国人留学生の革命へ の傾斜,東京という中国革命大本営の存在,そ れに一部の日本人の中国革命への支援など,こ れらのいくつかの要因が組み合わされて,初め て中国同盟会の設立を可能にした環境が作られ た。」と述べている。留日学生の存在は,同盟 会成立の重要な要素である。
おわりに
本論では,清末時代の1890年代から1910年代 における10数年間に,生じた日本留学の風潮を 中心として,日本留学についての政策面と成果 面から留学生派遣の経過と留学生の在日活動を 述べた。
清末時代の日本留学史について,従来の研究 には,全般的な流れを紹介した著作が多い。し
かしながら,詳しく当時の史料を使いながら,
分析したのは少ないと思う。本稿執筆の目的 は,当時,日中両国での留学生の受け入れと派 遣に取り組んだ人物を挙げて,その関係史料を 駆使して,彼らがその留学生派遣の政策面にど れほど働きかけたのかを解明しようとするのが 目的の一つであり,留学の成果について,新聞,
雑誌の発行を文化運動の一つの表現,同盟会を 革命運動の重要な一部として位置づけることが 目的の二つ目である。この二つの目的を持っ て,本論の結論を以下の二点にまとめてみる。
① 清国留学生の教育について,最初の13名を 受け入れた1896年から,1万人を迎えた ピークの1905年まで,また1905年以降の清 末,民国初期まで,絶えずに続いてきた。
それは日中両国の推進者の力がなければ,
なかなか実現できないことであった。
② 日本に留学した清国留学生が日本で知識の 習得だけではなく,社会運動も積極的に参 加したことがわかる。彼らは中国の政治,
経済,文化などの諸方面に貢献した。さら に,日中の文化,経済,政治などの交流に も力を尽くした。
今後の研究について,先行研究では留日学生 が中国へ帰った後の人生に関する研究は未だ不 足しているのがわかる。そのため,留日学生に 関する人物研究は今後の課題となる。
〔投稿受理日2011. 6. 18 /掲載決定日2011. 6. 30〕
注
⑴ 外務省外交史料館,在本邦清国留学生関係雑纂 より。
⑵ 本文の中に出てきた中国語史料の訳文は筆者の 訳したものである。
⑶ 張之洞(1837-1909)は,清末の政治家。李鴻章,
左宗棠などと並んで,洋務運動を積極的に推進し,
軍備強化と官営工場の設立,教育改革,留学生派 遣による人材育成,実学振興に努め,洋務運動の 後期の代表者の一人となった。
中国から日本への最初の留学の立案者として,
近代化の過程における留学生政策と日中間の文化 交流においては大きな功績があるといわれる。
⑷ 「三綱五常」は,儒教でいう三綱と五常。「三綱」
とは君臣・父子・夫婦の道,「五常」とは人の常に 守るべき五つの道徳で,通常,仁・義・礼・智・
信を指す。
⑸ 北塩道は,清朝官吏の肩書きである。
⑹ 興中会は,1894年に孫文が創設した清朝打倒を 目指す革命団体である。光復会とは,1904年頃に 中国で成立した革命団体である。華興会は,清末 に黄興が中心となり組織された革命組織の一つ。
活動方針は「清朝の打倒」と「民主および自由国 家の建設」であった。
⑺ 中華民国開国五十年文献編纂委員会『革命之倡 導與発展 -中国同盟会一-』正中書局 1964 P163-225より統計。
⑻ 「取締規則」の発布後,留学生は憤慨のあまり,
全員が学業を棄てて帰国しようとの事件。
⑼ 陳天華は,1875年,湖南省に生まれた。1903年 日本に留学し,法政大学に学ぶ。1904年10月,帰 国し,黄興らと長沙で旗上げをしたが,失敗して しまい,再び日本に亡命した。彼は同盟会章程起 草委員八人の一人であり,同盟会の機関雑誌の『民 報』の撰稿者として,宋教仁,汪兆銘,胡漢民た ちと並んでその一人でもあった。
⑽ 趙軍「中国同盟会設立100周年記念国際シンポジ ウムについての紹介」CUC [View & Vision]第22 号。
参考文献
阿部洋『中国の近代教育と明治日本』福村出版株式 会社 1990
上垣外憲一『日本留学と革命運動』東京大学出版会 1982
上田万年『太陽』第4巻 第17号 博文館 1898 国家清史編纂委員会・文献叢刊 主編: 趙徳馨 副
主編: 呉剣杰・馮天瑜『張之洞全集』武漢出版社 2008
孔健『中国新聞史の源流 孫文と辛亥革命を読む』
批評社 1994
実藤恵秀『中国人日本留学史』くろしお出版 1960 実藤恵秀『中訳日文書目録』国際文化振興会 1945 坂根慶子「清 朝 日 本 留 学 考 」Bulletin of the Foreign
Student Education Center Tokai University 12, 41-53, 19920000
張之洞『勧学篇』中江書院 1898
張靜廬『中國近代出版史料初編』上雜出版社 1953 趙軍「中国同盟会設立100周年記念国際シンポジウム
についての紹介」CUC[View & Vision]第22号 中央研究院近代史研究所 黃福慶『清末留日學生』
永裕印刷廠 1975
中華民国開国五十年文献編纂委員会『革命之倡導與 発展 -中国同盟会一-』正中書局 1964 湯志鈞『康有為政論集』上 中華書局 1981 李振華『清光緒朝中日交渉史料』下冊 文海出版社
1970