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・ツェルニー宛 1894年7月から1895年8月まで

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・ツェルニー宛 1894年7月から1895年8月まで

著者 梅林 郁子

雑誌名 鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編

巻 64

ページ 55‑68

別言語のタイトル Hugo Wolf : Letters to Frieda Zerny (Part 2)

URL http://hdl.handle.net/10232/18878

(2)

フーゴー・ヴォルフの書簡研究 その 2

――フリーダ・ツェルニー宛 1894年7月から1895年8月まで――

梅 林 郁 子

(2012年10月23日 受理)

Hugo Wolf: Letters to Frieda Zerny (Part 2) UMEBAYASHI Ikuko

要約

19世紀の作曲者フーゴー・ヴォルフ Hugo Wolf(1860–1903)は、歌手のフリーダ・ツェルニー

Frieda Zerny(1864–1917)と、一時期恋人として親しい関係にあり、ヴォルフからツェルニーに

宛てた書簡は、全51通が残されている。本研究は、この書簡のうち前半31通について考察した梅 林2012に引き続き、二人の恋愛関係が終わった1894年7月から1895年8月にかけての、後半20通の 書簡内容を対象として、二人の音楽的な相互関係を中心に、ヴォルフを取り巻く音楽的環境を考 察するものである。

ツェルニーとの恋愛が順調だったときには、その関係が互いの演奏活動に影響することはあっ ても、直接にヴォルフの創作活動に結びつくことはなかった。むしろヴォルフは、恋愛の後、再 び創作に気持ちが向くなかで、ツェルニーが歌手として成功していく過程を見、自分も創作の場 で成功を収めたいという強い気持ちを抱き、それがオペラ《お代官様 Der Corregidor》(1896)や、

そのすぐ後に続く、晩年のリート作曲期へ繋がったと考えるべきである。こうしてツェルニーは、

ヴォルフの1895年以降の創作活動において、創作意欲を喚起するという意味で、非常に強い影響 を及ぼした人物と捉えられるのである。

キーワード:フーゴー・ヴォルフ、フリーダ・ツェルニー、書簡、お代官様

 鹿児島大学教育学部 准教授

(3)

1.はじめに

ヴォルフには、生涯に親しい関係を築いた女性が数名おり、その一人がツェルニーである。

ヴォルフは1894年1月29日にダルムシュタットで開催されたコンサートに出掛け、そこで歌った 歌手のツェルニーに一目惚れをしたことがきっかけで、やがて二人は愛し合うようになった。そ してこの関係は、同年6月にヴォルフの気持ちがツェルニーから離れるまで続いたのである。ヴォ ルフは1894年2月から1895年8月までの間に、ツェルニーに宛てて全51通の書簡を記している

(ツェルニーからヴォルフに宛てた書簡は、残されていない)。筆者は梅林2012において、ヴォ ルフがツェルニー宛てに記した書簡のうち、二人の恋愛関係が順調であった1894年2月から6月ま での前半31通の書簡について、二人の音楽的な相互関係を中心に、ヴォルフを取り巻く音楽的環 境を考察したので、以下その要旨を記す。

当時新進気鋭の作曲者であったヴォルフは、初のオール・ヴォルフ・プログラムによるコン サートを、歌手として評判を築き始めていたツェルニーを起用し、自身はピアノ伴奏を引き受け て成功させた。一方、ツェルニーも、ヴォルフの作品演奏に貢献するだけでなく、彼から契約に 関するアドバイスや仕事の斡旋などの具体的な支援を受けており、二人は演奏活動において相互 に影響を与えあったのである。しかし、二人の関係は、創作においてヴォルフの活動を充実させ るものではなかった。ツェルニーと出会った頃のヴォルフは、作曲活動において深刻なスランプ に陥っており、ツェルニー宛の書簡において「君も知っているように、ここ数年来、僕の創造の 泉はまさに枯渇している。(中略)あれ以来、僕は全くカエルのような存在になっている。しかも、

生きの良いのではなく、電気ショック療法を受けているカエルだ」(H.I.N.2003501 1894年5月22 日付)と述べている。そして、ツェルニーとの恋愛がスランプからの脱出に繋がると期待し「僕 に対する君の愛が、どんな暗雲も愛の地平線へと払いのける天空の虹であって欲しい」(H.

I.N.200350 1894年5月22日付)と望んだのである。しかし、現実にはヴォルフの期待通りには

ならず、書簡からは、むしろヴォルフの気持ちがツェルニーから離れるとともに、再び創作への 決意を新たにする様子が見受けられたのである。

さて、ヴォルフは1894年6月に、ツェルニーとの恋愛関係に、かなり一方的に終止符を打ち、

その後二度と会うことはなかったが、友人として1895年8月まで、断続的に20通の書簡を送って いる。これらの書簡には、オペラ《お代官様》のピアノ・スコアを完成させるまでの道のりが中 心ではあるが、ヴォルフがスランプを抜け出して、再び猛然と作曲活動に励んでいる様子や、二 人の音楽活動に関する記述も含まれている。

そこで、本研究では1894年7月から1895年8月までに、ヴォルフがツェルニーに宛てて書いた後 半20通の書簡を対象として、梅林2012に引き続き、ツェルニーとの破局から《お代官様》ピア ノ・スコア完成までの、ヴォルフを取り巻く音楽的環境と彼の創作状況について考察を進める。

1 H.I.N.と以降の数字は、自筆稿が保存されているウィーン市庁舎図書館Wienbibliothek im Rathausの資料番号を 示す。

(4)

2.研究対象資料

ツェルニー宛書簡全51通の自筆稿は、ウィーン市庁舎図書館Wienbibliothek im Rathausに資料 番号H.I.N.2003530から2003580で所蔵されている。本研究の対象資料は、2011年9月にウィーン 市庁舎図書館で行った自筆稿調査を基に、刊行物であるSPITZER 2010,2011、並びにHILMAR;

OBERMAIER 1978を参考とする。【表1】は、本研究で対象とする1894年7月から1895年8月まで の書簡の、ウィーン市庁舎図書館資料番号、記載年月日と記載地を示している。尚、ツェルニー 宛全書簡における同様の情報については、梅林2012: p.63 を参照されたい。

【表1】1894年7月から1895年8月までのツェルニー宛書簡一覧(記載年月日順)

資料番号 年月日 記載地名 資料番号 年月日 記載地名

1 H.I.N.200359 1894. 7. 6 ウィーン 11 H.I.N.200369 1894.11. 5 ペルヒトルツドルフ 2 H.I.N.200360 1894. 7.16 ウィーン 12 H.I.N.200370 1894.12.30 ウィーン 3 H.I.N.200361 1894. 7.29 ウィーン 13 H.I.N.200373 1895. 1.17 ウィーン 4 H.I.N.200362 1894. 8. 2 トラウンキルヒェン 14 H.I.N.200374 1895. 2 .8 ウィーン 5 H.I.N.200363 1894. 8.17 トラウンキルヒェン 15 H.I.N.200375 1895. 3. 3 ウィーン 6 H.I.N.200364 1894. 8.22 トラウンキルヒェン 16 H.I.N.200376 1895. 4. 5 ペルヒトルツドルフ 7 H.I.N.200365 1894. 8.30 トラウンキルヒェン 17 H.I.N.200377 1895. 5.24 マッツェン城 8 H.I.N.200366 1894. 9. 6 マッツェン城 18 H.I.N.200378 1895. 6.21 マッツェン城 9 H.I.N.200367 1894. 9.29 マッツェン城 19 H.I.N.200379 1895. 7.17 マッツェン城 10 H.I.N.200368 1894.10.10 マッツェン城 20 H.I.N.200380 1895. 8. 7 マッツェン城

3.音楽に関する内容の分類と考察 3.1 分類

ツェルニー宛対象書簡における、音楽に関する記述について2、【表2】に内容の分類と該当す る書簡の資料番号を示す。

2 尚、後半20通の書簡について、音楽的内容以外の主要な話題は、恋愛関係から友情への移行であった。6月にほ ぼ一方的に恋愛関係を終わりとしたヴォルフに対し、ツェルニーは恋人として付き合い続けることを望んでいた。

し か し、 ヴ ォ ル フ は 付 き 合 い 自 体 を 断 つ つ も り は な い が、 友 人 で あ り た い と 述 べ て い る。

この話題はH.I.N.200359189476日付)H.I.N.200362189482日付)H.I.N.2003631894817日付) H.I.N.2003651894830日付)H.I.N.200366189496日付)H.I.N.20036818941010日付)に見られ、

恋愛関係の終わった直後から、《お代官様》作曲に取り掛かる直前まで続いている。以下に、その一例を挙げる。

「恨みと諍いの間を互いに行ったり来たりするのはやめよう。そしてもう君には、自分自身を自由にするため、

僕を解放すべきときが来ている。(中略)自由に、そして幸せになって欲しい。(中略)君に友情を捧げ、孤独に なったフーゴー・ヴォルフより」H.I.N.200363 1894817日付)

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【表2】音楽に関する内容の分類と該当する書簡の資料番号

内容 資料番号

⑴ ツェルニーの演奏活動 200359, 200360, 200362, 200363, 200364, 200367, 200368, 200373, 200380

⑵ ヴォルフの演奏活動 200368

⑶ ヴォルフの創作活動 200360, 200370, 200371, 200372, 200373, 200374, 200375, 200376, 200377, 200378, 200379, 200380

ツェルニー宛てに書かれた前半の31通では、⑴ツェルニーの演奏活動について述べられている 書簡が9通、⑵ヴォルフの演奏活動が14通、⑶ヴォルフの創作活動が6通であった(梅林 2012: p.64

【表2】3)。この状況と比較すると、後半の書簡でもツェルニーの演奏活動については、変わら ず言及されているのに対し、ヴォルフの演奏活動についてはほぼ記述がなく、むしろ創作活動に 関する記述が圧倒的に増えていることがわかる。

この分類を踏まえ、以下、内容について検討を進めたい。

3.2 ⑴ツェルニーの演奏活動 と ⑵ヴォルフの演奏活動

ツェルニーの演奏活動に対する言及は、前半31通の書簡と同様に、後半でも多く見られるが、

この内容は大きく分けて、ツェルニーの演奏活動に対する皮肉や嫌味と、ツェルニーが次第に歌 手として成功していく状況に対する喜びと寂しさ、の2つであり、この気持ちの変化は、ツェル ニーの仕事内容の変化に沿って起きている。

6月に恋愛関係を終わりにした後、7月に入って最初の2通の書簡には、ヴォルフから関係を断っ たにも関わらず、ツェルニーの演奏活動に対して、皮肉や嫌味のような表現が見られる(【引用 1】、【引用2】)。

【引用1】君のバイロイトの噂話は、本当におもしろかった。つまり、僕はそこから、君が 目先のことだけ考えているにも関わらず、よく観察していると見て取った。楽長、特に友人 のモットルだけに、親切にし続けることばかりを考えたらいい。カールスルーエでの契約は、

まもなく君に良い評判を得させ、休暇に伴い、おそらくそれほどにも悪くない状態となるだ ろう。(H.I.N.200359 1894年7月6日付)

【引用2】バイロイトでの舞台稽古に関する君の注釈を、僕はとても楽しんでいる。(中略)

これは全く最高に違いないのに、君が僕に、この茶番を歌って聞かせられないことは残念だ。

3 梅林 2012: p.64 の【表2】と本論文の【表2】は、⑴と⑵の順番を逆にした。これは、本研究の対象となる後半

の書簡は、⑴から⑶が、ほぼ時系列で順に話題となるため、組み替えたものである。

(6)

でも、君が白い小姓の上着を着ているところを、僕は喜んで見てみたい。君が粋に肩をそび やかして歩くとき、みんなの視線がどうなるか、賭けよう。君は魅力あふれる花娘の代わり に、心を惑わす小姓として写真を撮らせたくはないだろう? それとも、両方とも? 僕に は、あとの選択肢の方が良いように思える。ラテン語では「変化は人を楽しませる Valiatio

delectat」と言う。こちらでは花娘、あちらでは小姓。二束の干し草の間にいる、誰もが知っ

ているあのロバのように突っ立って、どちらの飼葉がよいかわからず、遂には両方を楽しん でいる。

 君をしっかりと、モットルちゃんで支えておきたまえ。彼もまた、それに噛りつくのだ。

(H.I.N.200360 1894年7月16日付)

当時、ツェルニーはバイロイト様式を音楽学校で学びつつ、カールスルーエの宮廷歌劇場で、

下稽古の歌手を務め、オペラ歌手として身を立てる努力をしているところだった。【引用1】と

【引用2】に名前の挙がっているフェリックス・モットル Felix Mottlは、当時カールスルーエの 宮廷歌劇場で、任期付の舞台監督を務めていた人物で、モットルがメゾソプラノの下稽古歌手を 探していることを知ったヴォルフが、自分の名前を出さない条件で、ツェルニーにモットルと連 絡を取るよう勧めた結果、ツェルニーは仕事を得ることができたのである(梅林 2012: p.68)。ち なみに【引用2】でヴォルフは、リヒャルト・ヴァーグナー Richard Wagnerのオペラ《パルジ

ファル Parsifal》の下稽古で、ツェルニーが下稽古歌手として小姓と花娘を演じている様子を皮

肉っているが、このような当て擦りめいた記述は、恋愛関係が終わった後も、自らの紹介による 仕事を続けていることが気に入らなかったということであったのかもしれない。

やがてツェルニーはコジマ・ヴァーグナーを Cosima Wagnerを囲むバイロイト・サークルに入 り、エンゲルベルト・フンパーディンク Engelbert Humperdinck作曲のオペラ《ヘンゼルとグレー

テルHänsel und Gretel》の私的上演で魔女役を演じるが、それを知ったヴォルフは、フンパーディ

ンクとヴァーグナー家の関係も含め、またしても皮肉っぽい書き方をしている(【引用3】)。

【引用3】フィディ Fidi4と彼の師匠フンパーディンクとの関係は、おそろしく親しいものに 違いない。君は、《ヘンゼルとグレーテル》が、まぎれもなく神聖な祝祭劇の舞台に上がる ものになるだろうと言っている。魔女の役を祝ったりしてよいのだろうか? 才能を見せつ け、楽長に魔法をかける好機だ。嫌でなければそうすればいい。(H.I.N.200362 1984年8 月2日付)

しかし、この上演でツェルニーは大成功を収め(HILMAR; OBERMAIER 1978: p.4)、それによ り彼女は、引き続きモットルから仕事の依頼があったにも関わらず、9月にはドレスデンの宮廷 歌劇場で正規の歌手として契約が成立して、カールスルーエを離れることとなった(ibid: p.77)

4 フィディとは、ヴァーグナーとコジマの息子の、ジークフリート・ヴァーグナー Siegfried Wagnerを指す。彼は、

1890年頃、フンパーディンクの弟子となった。

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のである。ツェルニーがドレスデンで契約をしたことを知った直後の書簡には、【引用1】から

【引用3】までとは異なり、ツェルニーが仕事を得たことに対する喜びと寂しさ(【引用4】)が綴 られている。

【引用4】君が遂に、宮廷劇場の舞台への入港に成功したことは、君に対して願う幸運とし ては全く充分ではない。君は、それを通じて、生活の心配から解放されるだけでなく、本当に、

その上に立てる基盤を獲得したのだ。それは君の才能の発揮に充分な糧を与えるだろう。際 立った素質と明らかな才能が、君に舞台を指し示し、すばやく君は、今や再び本領に辿り着 き、はっきりした目的を持って、偉大なる未来に向かって行くことができる。ただし、僕に とって君の契約は、大きな損失を意味している。なぜなら、君を埋め合わせることのできる 歌手を、長い時間かけて探すことになるからだ。このことについて、予測することのできた 急な展開に愚痴を言っても、今やもう何も変わりはしない。(中略)

 ここマッツェン城での生活は、様々な気分転換を与えてくれる。客がやってきては、帰り、

そのなかには、ヴァイマールの大公のような身分の高い紳士もいる。音楽もたくさん奏され、

自分のリートを演奏するよう求められたときには、何度も君をひどく恋しく思った。君はま た、ときどきは僕の作品を歌ってくれるだろうか? 君がオペラの役柄に夢中になって、こ のことを完全に忘れてしまうのではないかと、僕は思い込んでいる。これは、僕をとても悲 しませることになるだろう。(H.I.N.200367 1894年9月29日付)

この後、ヴォルフの書簡から、ツェルニーの演奏活動に対する一切の皮肉めいた表現は影を潜 めてしまう。ツェルニーがドレスデンで、正式な歌手としての足場を築き始めたとき、ヴォルフ はまだ、作曲者として充分な地位を得るには、ほど遠い状態であった。このようななか、ツェル ニーは、ヴォルフのリートによるコンサートを提案し、この返事が後半の書簡では、ヴォルフの 演奏活動に関する唯一の記述となる(【引用5】)。

【引用5】君の提案―つまり、僕のリートの伴奏を自分自身で引き受けることには、完全 に同意している。明らかに、僕自身の参加で効果が上がり、僕の作品に対する関心が増すだ ろう。ただ、僕がベルリンに引っ越すまでの状態であるかが、疑わしいだけだ。そのため、

シュテルンフェルドに手紙を書いて、延期するよう頼むつもりだ。(中略)シュテルンフェル ドは、確かによい伴奏者ではあるが、なんといっても、伴奏者でしかない。(H.I.N.200368  1894年10月10日付)

前半の書簡ではツェルニーとの演奏活動について、ウィーンだけでなく、グラーツやヴェニス やアメリカにまで行きたいと、大変積極的に書かれていた(梅林 2012: pp.64–65)し、また、【引 用4】でも、ツェルニーに自分の音楽を忘れて欲しくないと言っているにも関わらず、実際に演 奏活動を共に行うとなると、ツェルニーの誘いに気分が乗らず、言い訳をしているようである。

【引用5】で述べられているコンサートは、歴史家でピアニストでもあったリヒャルト・シュテ

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ルンフェルド Richard Sternferdが、ベルリン・ヴァーグナー協会の催しで設定したいと考えてい たものであったが、ヴォルフの伴奏では実現しなかった(最終的にシュテルンフェルドの伴奏で 開催されたのかは不明)(HILMAR; OBERMAIER 1978: pp.77–78)。

こうしてツェルニーとの恋愛関係が破局を迎えたことにより、結果としてヴォルフは自作の演 奏活動での共演からも身を引くことになり、このことも当時作曲活動に専念したいと強く望んで いたヴォルフが、本格的に創作活動に身を入れる一因となったのである。

3.3 ⑶ヴォルフの創作活動―《お代官様》の創作状況について

今回の研究対象である後半の書簡では、【表2】に示したように、特に12通目のH.I.N.200370以 降から、ヴォルフの創作活動に関する記述が全書簡に現れているが、この内容は全て、ツェル ニーと書簡をやりとりしている期間に作曲に取り掛かり、ピアノ・スコアまでを完成させたオペ ラ《お代官様》に関連している。

《お代官様》の原作は、ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン Pedro Antonio de Alarcón(1833–

1891)のスペイン語の小説『三角帽子 El sombrero de tres picos』(1874)であり、フルダ・マイス

ター Hulda Meisterによるドイツ語訳が、1886年にレクラム・ユニヴァーサル叢書から出版された。

あらすじは、アンダルシアに住む、働き者の粉屋ルーカスには妻フラスキータがいるが、村の代 官がフラスキータを手に入れようと策略をめぐらしたため、不仲となる。しかし、代官の妻メル セデスの計らいで、代官はフラスキータから手を引き、ルーカスとフラスキータは元の仲の良い 夫婦に戻る、というものである。

ヴォルフは既に1888年には、友人で作曲者のアダルベルト・フォン・ゴルトシュミット

Adalbert von Goldschmidtを通じて、この小説の存在を知っており、オペラ・ブッファにしたいと

考えていた(Walker 1992: p.262)が、その試みは成功しなかった。その後もヴォルフは、オペラ を作曲しようと台本を探し続けていたが、1894年の終わりになってようやく、当時リヒャルト・

ヴァーグナー協会の会長を務めていたフランツ・シャウマンFranz Schaumannが、ヴォルフのた めに、『三角帽子』のドイツ語訳から《お代官様》のオペラ台本を書き上げた(HILMAR 2007:

p.76)5。この台本についての記述がヴォルフの書簡に現れるのはツェルニー宛ての12月30日であ り、この日がヴォルフの全書簡を通じて《お代官様》の作曲について述べられた最初の日である

(【引用6】)6

5 当時、アラルコンの小説は、劇やオペラの原作として非常に人気があり、『三角帽子』も、1894年にはデンマー クの作曲者であるフレデリック・ルング Frederik Rungにより既にオペラ化され、コペンハーゲンで初演されて いたが、おそらくヴォルフはこの事実を知らなかった。ヴォルフの《お代官様》作曲前後における、『三角帽子』

も含めたアラルコンの小説の舞台化については、SAARY 1984: p.237に詳しい。

6 同日に、弁護士で、歌手でもあった友人のフーゴー・ファイスト Hugo Faißtにも書簡を送り、やはり、《お代官 様》の台本について触れている(SPITZER 2010 2: 534

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【引用6】ところでつい最近、僕のところに、あるオペラの台本が送られてきたのだが、そ れは、もし3幕仕立てで、いくつか必要不可欠な変更が行われるなら、全く好ましいものと なるだろう。この台本は、ペドロ・デ・アラルコンによって書かれたスペインものにより、

『三角帽子』という題名だ。(H.I.N.200370 1894年12月30日付)

ヴォルフは『三角帽子』を大変気に入っていたが、シャウマンの台本については、充分な魅力 を感じず、最終的に受け入れられないと判断した。この小説については、既に1890年に、ヴォル フの友人である建築家ユリウス・マイレーダー Julius Mayrederが、「詩人、画家、そしてフェミ ニスト」(HILMER 2007: 283)の義妹ローザ・マイレーダー Rosa Mayrederに台本を依頼し、こ れは完成をみていた。当時、ヴォルフは彼女の台本に目を通したにも関わらず、適していると判 断できずに却下していたが、翌1895年初めに、ヴォルフは再度この台本を読み、これこそ作曲に ふさわしいとの思いを新たにした(WALKER 1992: pp.262, 372–373)のである。この件について 初めて述べている書簡も、やはりツェルニー宛てであった(【引用7】)。

【引用7】僕は、台本に通しで曲を付けるかどうか、また部分的にメロドラマにするかレチ タティーヴォで作曲するか、といったようなことを扱うにあたり、まだ明らかに充分な状態 ではない。いわゆる通しの作曲は、僕には極めて難しく、危ないことであるように思える。

あまりにも簡単に、退屈になるという危険を冒すことになる。ヴァーグナーは、この手の芸 術に、むろん熟達していた。つまり、退屈にならずに、通して作曲することにだ。でも、

ヴァーグナーは、やっぱりヴァーグナーなのだ。(中略)

 君がこの小説を気に入ることは、当然と思う。そこには、なかなかのユーモアがある。台 本を執筆した女性(僕の昔の知り合いだが)はしかし、大きな舞台効果を形作るため、彼女 独自の素材を寄与している。詩は、4脚のヤンブスで進み、大半に韻は無いが、耳を傾ける のが楽しい品格がある。(H.I.N.200373 1895年1月17日付)

この引用から、ヴォルフはオペラの作曲に際しても、詩の韻律に関心を寄せ、言葉の表現につ いて心を砕いている様子が伝わってくる。そして言葉を音楽的に表現する手段について、まだか なり迷いのある様子も窺える。特に台詞で物語を進める部分では、リヒャルト・ヴァーグナーの ように「いわゆる通しの作曲」をすることには懸念を表明し、レチタティーヴォだけでなく、メ ロドラマの形式にも言及していることから、最終的には取り入れられなかったが、当初は部分的 に、音楽を伴奏として語りで言葉を入れ込むことも考えていたようである。

次のツェルニーへの書簡は、2月8日付だが、これは残されていないツェルニーからの書簡に答 えたものである。この書簡はおそらく、ツェルニーが、歌手で音楽に関する著述も残しているエ ルンスト・オットー・ノートナーゲルErnst Otto Nodnagelと話した際に、ヴォルフがノートナー ゲルの妻にツェルニーの音楽的能力を評価していないと述べたと聞き、その真偽を正したものと

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考えられる。ツェルニーの問に対する、ヴォルフの答えは、あまり煮え切ったものではなく【引 用8】のようであった。

【引用8】今後、特に女に特有の同様のうわさ話で、僕を煩わせないで欲しい。なぜなら、

高潔なスペイン人は、どのように言っているだろうか?

     そして そんな風に女たちの感覚は歪んでいるから、

     お前は褒めに、褒めているけれど、

     口ではにぎやかに騒いでいても、

     心では同じことを考えているかどうか―

     だって、女は女なのだから。       (H.I.N. 200374 1895年2月8日付)

この「スペイン人」の言葉として引用されている箇所は、やがて《お代官様》第2幕6場の代官 のアリアとなる一節である。これは、フラスキータが代官の目に余る振舞を妻メルセデスに知ら せてしまうと思い込み、代官が自分の行状は棚に上げて、思い通りにならない女たちを揶揄して 歌う場面だが、この物語の背景と照らし合わせると、果たして本当にヴォルフは、この噂話の件 について潔白であったのだろうかと疑いたくもなる。

一方でヴォルフは、登場人物のイメージを音楽で表現するにあたって声種の割り当てをするに 際し、当初はツェルニーに役を演じて欲しいと願っていた(【引用9】)。

【引用9】きっと君はそのうち、舞台芸術家として大成功を祝うことになるだろう。そして まさに、君のおかげで、僕のフラスキータは、栄光に手が届くだろうか? 僕はこれが、君 には高いのではないか、と心配している。なぜなら、この刺激的なアンダルシアの女性は、

とても高い方に向かうだろうからだ―僕はそこから、何か表現力のあるソプラノのような ものを、考えている。しかし、威厳があり、尊敬すべきメルセデスは、しっかりしている。

この役は君には魅力的であるに違いないし、響き豊かなメゾソプラノなのだ! どう思う?

(H.I.N. 200375 1895年3月3日付)

ある意味でヴォルフは、当時、歌手として順調に見える道を歩み始めたツェルニーが、無事成 功した暁には彼女の名声を利用して、オペラを成功させたいと望んでいるようにも読み取れる。

また、この時点では、声種の割り当ては、フラスキータをソプラノ、メルセデスをメゾソプラノ と考えている様子が窺えるが、作曲が進むにつれ、最終的には逆の設定となったのである。しか しいずれにしても、その後の初演7、再演を問わず、ツェルニーが《お代官様》の上演に関わる ことはなかった。

7 《 お 代 官 様 》 は189667日 に マ ン ハ イ ム で 初 演 さ れ た が、 フ ラ ス キ ー タ 役 は ホ ー エ ン ラ イ ト ナ ー  Hohenleitner(名は不詳)、メルセデスはアンナ・ゾルガー Anna Sorgerが歌った(WALKER 1992: p.400

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4月になって、ウィーン近郊の村ペルヒトルツドルフに、続いてマッツェンに移り住むと8、 ヴォルフは本格的に作曲に取り掛かり、非常に速いペースで仕事を進めていく。

【引用10】僕は生きている、つまり、作曲をしている。たった今、第2幕を仕上げた。手 紙を書く時間がない。さようなら。(H.I.N. 200377 1895年5月24日付)

【引用11】僕は朝5時から夕方まで働いている―ぶっ通しでだ。ああ、管弦楽編曲では、

一体まだどんな大事業が、僕に迫ってくるのだろうか。(H.I.N. 200378 1895年6月21日付)

【引用10】に示した5月24日付の書簡に至っては、書かれている内容はこれが全てである。こ の書簡からは、寸暇を惜しんで作曲に励むヴォルフの姿が浮き彫りになってくる。やがて【引用 11】の6月21日付書簡を記した時点で、ヴォルフの猛烈な作曲活動の成果が実り、早くもピアノ・

スコアの作曲は終盤にさしかかったのである。この件については、同日の書簡で【引用12】のよ うに言及している。

【引用12】でも、作曲を終えたらすぐに―もう4幕3場に来ている―ただちにこの本9を 君に、しかもフランクフルトの住所に送ると約束する。(中略)ピアノ・スコアは200ページ 程度になるだろう。今、170ページを書いている。この手稿譜は、僕のリートと同様に、精 緻できれいに書かれている。次はもう、写しができるだろう。(H.I.N. 200378 1895年6月 21日付)

《お代官様》は全4幕5場であることから、この時点で、ピアノ・スコアはほぼ完成に漕ぎ着け ていることがわかる。そして、7月9日、遂にピアノ・スコアができあがり、ヴォルフは同日の間 に、台本作家であるマイレーダーと恋人のメラーニエ・ケッヒェルト Melanie Köchert10の他、4 人の友人たち11に計6通の書簡を送っているが、これらはいずれも完成の報告と喜びに満ち溢れ ている。しかし、報告を受けた友人たちのなかに、ツェルニーは含まれていなかった。ツェルニー への完成報告は、7月17日にようやくなされたが、【引用13】のように簡潔に済まされている。

8 ペルヒトルツドルフには、家族ぐるみで付き合いのあったヴェルナー Werner家の別荘が、マッツェンには友人 フランツ・ヨーゼフ・フォン・リッパーハイデ Franz Joseph von Lipperhaide男爵の城があり、ヴォルフは作曲に 際して、ほぼ自由に別荘や城の狩小屋を使うことが認められていた。

9 ヴォルフはツェルニーに《お代官様》の台本を見せると約束していた(H.I.N.200373 1875117日付)が、

自身が作曲に使用していた原本以外の写しの数が少なく、貸せなかった。

10 ヴォルフ、ツェルニー、ケッヒェルトの関係については、梅林2012: p.68–69 を参照されたい。

11 4人は、税務官のリヒャルト・ヒルシュ Richard Hirsch、ファイスト、判事で作曲も手掛けたオスカー・グロー

Oskar Grohe、指揮者で音楽教師でもあったエーミール・カウフマン Emil Kauffmannで、いずれもヴォルフが

非常に親しくしていた友人たちであった。

(12)

【引用13】大急ぎで、オペラが完成したことを、君に知らせる。(H.I.N. 200378 1895年7 月17日付)

この書簡は、他にも必要な用件しか書かれていない短いものであるが、ヴォルフは同日ファイ ストにも書簡を送っており、そこには「現在、第1幕の半ばにオーケストレーションしている」

(SPITZER 2010 2: p.672)と記されているのである。つまり、9日にピアノ・スコアを仕上げて

すぐに、今度はオーケストレーションに、またしても猛然と取り掛かったことになる。そして再 び今度はオペラの仕上げに向かって専念したヴォルフは、ツェルニーに書簡を送る時間も惜しく なり、このような簡潔な記述になったのであろう。

さて、このように非常な集中力で創作に取り組むなか、当然ヴォルフはオペラの上演とその成 功を夢見るようになる。ヴォルフは自作の上演の見込みや希望について次のように述べている

(【引用14】、【引用15】)。

【引用14】《お代官様》の音楽は、僕のペン先から流れ出た、充分に過ぎる、充分に過ぎる〔ママ〕

最高のものだ。このオペラは、類のない成功を収めるだろうと、確信している。

 僕はこの作品を仕上げたらすぐに、ウィーン・オペラ座の総監督である、ヴィルヘルム・

ヤーンWilhelm Jahn ―彼は、夏にはザルツブルクに滞在している―に演奏を披露するため、

ザルツブルクへ旅をするつもりだ。僕は彼がこの作品を、今シーズン中に公演にかけるだろ うと確信している。(H.I.N. 200378 1895年6月21日付)

【引用15】マンハイムの舞台で僕の作品を初演することは、全く僕の念頭にない。上演の 場所をウィーンにするか、ベルリンかでまだ決めかねている。(H.I.N. 200380 1895年8月

7日付)

ヴォルフにとってオペラの上演は、作曲者として大成するための第一歩であり、自信を持って 完成を目指したたこの作品を、彼はウィーンやベルリンといった大都市の歌劇場で初演したいと 強く希望していた。現存しているツェルニー宛ての書簡は、【引用15】で挙げた1875年8月7日付 が最後となっているが、ここで簡単に《お代官様》の初演とその後について、まとめておきたい。

《お代官様》の初演は、1896年6月7日に、ヴォルフの希望通りではなかったが、マンハイムの 宮廷国立歌劇場で行われ、初演に至るまでオーケストラの団員や歌手たちと、悶着を起こし続け たにも関わらず、無事に成功を収めた。しかし、10日の初演二日目は完全な失敗に終わった。こ れは7日の初演後にヴォルフがシュトゥットガルトに旅立ったことから、初演までヴォルフの激 しい気性に振り回されたオーケストラの団員や歌手が、《お代官様》に対して悪意を持った演奏 をした結果と考えられている(WALKER 1992: pp.401–404)。こうして、マンハイムで連続上演

(13)

される夢は閉ざされたが、ヴォルフは当初からの念願であるウィーンでの上演をあきらめきれず、

ヤーンの後任でウィーン・オペラ座の総監督に着任した旧友のグスタフ・マーラー Gustav

Mahlerにウィーンでの上演を依頼するが、こちらもすげなく断られてしまった(WALKER 1992:

p.441)。結局、ウィーンでの上演が実現されたのは、ヴォルフ没後約1年が経った1904年2月12日

であり(船山 1987: p.25)、さらにベルリンでの上演は、1906年になってからのことであった

(JESTREMSKI 2011: p.489)。こうしてヴォルフが「類のない成功を収めるだろうと、確信して」

書き進めた《お代官様》の念願の舞台を、ヴォルフは生前にマンハイムでたった一度見たきり だったのである。

《お代官様》の原作『三角帽子』について、そしてマイレーダーの台本についてを、初めて書 簡に記した相手はツェルニーであった。これは、ツェルニーを優秀な歌手として信頼していたた めでもあろう。さらに、オペラ作曲に取り掛かるまでは、言葉の音楽的表現方法など記していた にも関わらず、ツェルニー宛ての書簡が、1875年8月7日で突然終わってしまった理由は不明であ る。この点については推測の域を出ないが、ヴォルフは当初、ツェルニーにフラスキータを演じ て欲しいとも考えていたが、オペラを書き進めるなかで声種の変更もあり、彼のなかでツェル ニーは役にふさわしくないと判断した可能性がある。加えて、《お代官様》の仕上げに全力を尽 くしているなかで、1年も前に恋愛関係では気持ちが離れてしまった相手であるため、もはやオ ペラと何の関係もないのに書簡を送り続ける思いも時間もなくなり、ピアノ・スコアの完成時に は、知らせたいと思う友人たちのなかからさえも外されてしまったといったところであろうか。

4.まとめ

本研究ではこれまで、ヴォルフからツェルニーに宛てて書いた全書簡51通中、1894年7月から 1895年8月までに書かれた後半20通の書簡を対象として、内容をヴォルフとツェルニーの演奏活 動、並びにヴォルフの創作活動に分類し、ツェルニーとの破局から《お代官様》ピアノ・スコア 完成までの、ヴォルフを取り巻く音楽的環境と彼の創作状況を検討してきた。

1894年6月に、ヴォルフがほぼ一方的に恋愛関係を解消した後、彼は二度とツェルニーと演奏 活動をすることもなく、また会うことすらなかった。別れた当初のヴォルフは、ツェルニーの演 奏活動に対して、皮肉っぽい言葉を連ねているが、やがてツェルニーが成功の道を歩み始めると、

書簡から皮肉は影をひそめ、彼女の成功に対する祝福と寂しさが表れてくるようになった。しか し、ツェルニーは再びヴォルフの自作リートで共演を望んでいたにも関わらず、ヴォルフはツェ ルニーの成功を受け、むしろ、一層創作活動に情熱を傾けることとなったのである。ここには、

ヴォルフの作曲で成功したいという強い気持ちを見て取ることができる。

1894年12月には、アラルコンの小説『三角帽子』から、いよいよ念願のオペラを作曲しようと 考え、これを初めて書簡で知らせた人物はツェルニーであった。また当初考慮していたシャウマ ンの台本ではなく、マイレーダーの台本でオペラ《お代官様》に取り掛かろうと決め、これを初

(14)

めて記した書簡もツェルニー宛てであった。このように、オペラに着手し始めた頃、ツェルニー は自分の構想を知らせる良い相手であり、またオペラが完成した暁には、主要な役を歌って欲し いとも考えていた。しかし、作曲が進むにつれ、ヴォルフのなかではツェルニーの存在は次第に 薄れ、1895年7月9日のピアノ・スコア完成時には、多くの友人に報告の書簡を送っていたにも関 わらず、ツェルニーはその中から外されてしまったのである。その後、オペラの成功を確信する かのような若干の記述の後、ツェルニーに書簡を送ることはなくなってしまった。

こうしてヴォルフとツェルニーの関係は、ヴォルフのスランプ期における出会いから始まって 恋愛へ、さらには二人が共同で行う演奏活動へと発展した。この時点では、お互いに音楽的に影 響を与え合っていたが、やがて、ヴォルフの恋心が冷めて、二人の間に溝が生まれると、共に演 奏活動を行うことはなくなり、ヴォルフは再び創作活動に全てのエネルギーを向けていった。そ して、《お代官様》作曲が進むにつれて、ツェルニーとの関係は、完全に終焉を迎えることとなっ たのである。

ヴォルフにとってツェルニーとの恋愛関係が順調であったときには、それが直接に創作に結び つくことはなかった。むしろ恋愛が終わった後、再度創作に気持ちが向くなかで、ツェルニーが 歌手として成功していく過程を見、自分も創作の場で成功を収めたいという強い気持ちを抱くこ とにより、ヴォルフの創作活動は、オペラ《お代官様》や、そのすぐ後に続くこととなる、晩年 のリート作曲期へ繋がったと考えるべきであろう。こうしてツェルニーは、ヴォルフの1895年以 降の創作活動においても、創作意欲を喚起するという意味で、非常に強い影響を及ぼした人物と 捉えられるのである。

本稿は、カワイサウンド技術・音楽振興財団平成23年度第1回音楽振興部門助成研究「フー ゴー・ヴォルフの書簡研究―音楽に対する考え方と創作状況」による研究成果の一部である。

謝辞

本研究は、平成23年9月のウィーン市庁舎図書館における資料調査に拠るものです。調査にあた り、ウィーン市庁舎図書館の司書の方々にご配慮いただきました。ここに、厚く御礼申し上げます。

引用・参考文献

DANIELCZYK, Julia. 2010. “,,Ich rase wie ein Vulkan”― Verschwiegene Briefe eines Feuerreiters. Zur Psychologie der Frauenbeziehungen in Hugo Wolfs Briefwechsel mit Frieda Zerny und Melanie Köchert.” Hugo Wolf Biographishes. Netzwerk. Rezeption. pp.126–147. Wien: Metroverlag.

船山隆. 1987. 『マーラー』新潮社.

HELLMER, Edmund. 1900. Der Corregidor. Berlin: S. Fischer. (2010 Whitefish, MT: Kessinger Publishing).

(15)

HILMAR, Ernst; OBERMAIER, Walter (Hrsg.). 1978. Hugo Wolf Briefe an Frieda Zerny. Wien:

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HILMAR, Ernst. 2007. Hugo Wolf Enzyklopädie. Tutzing: Hans Schneider.

JESTREMSKI, Margret. 2011. Hugo-Wolf-Werkverzeichnis. Kassel: Bärenreiter.

KNAUS, Kordula. 2007. “Feministin auf librettistischen (Ab-)Wegen. Rosa Mayredes Textbuch für Hugo Wolfs Corregidor.” Musicologica Austriaca. 26, pp. 219–229.

SAARY, Margarete. 1984. Persönlichkeit und Musikdramatische Kreativität Hugo Wolfs. Tutzing: Hans Schneider.

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Verlag.

梅林郁子. 2012. 「フーゴー・ヴォルフの書簡研究―フリーダ・ツェルニー宛 1894年2月から6

月まで」『鹿児島大学教育学部研究紀要人文・社会科学編』第62巻. pp.59–73.

WALKER, Frank. 1992. Hugo Wolf. (3 ed.). Princeton, NJ: Princeton University Press.

参照

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