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軍国主義からの日独比較考察

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軍国主義からの日独比較考察

寺 村 安 道

はじめに Ⅰ.日独の歴史過程と時間軸 Ⅱ.明治国家の成立と君主制の実態 Ⅲ.明治国家とプロイセンの統帥権 Ⅳ.日独両国における近代化の契機 Ⅴ.「古い軍国主義」から「新しい軍国主義」へ Ⅵ.統帥権の独立と軍事的技術への追随(1914 年と 1941 年) おわりに 1918 年と 1945 年

はじめに

近年、安倍内閣の集団的自衛権に対する対応をめぐり、様々な議論が展開されると同時に、 それを論評する過程で、しばしば「軍国主義」なる言葉が登場している。この「軍国主義」と いう言葉は当然ながら現状に対して否定的な「悪」のイメージとして使用されている。従来、 「軍国主義」とは学問上の概念からは程遠いものとも見做されてきたきらいがあり、確たる定 義が困難であることはいうまでもない。その意味するところは一定していないが、概ね「平和 主義」の逆であり、「文民主義」に反するもの、つまり「軍事的配慮が文民政府に対して決定 的かつ圧倒的な影響力を持つに至った」1)状態と認識されており、先述の卑近な事例に対して 些か乱暴な適用を試みると、集団的自衛権を行使できる環境をつくりだすことは「軍国主義」 的であるということになる。このような解釈と適用自体が、この言葉への理解の深化が未だ充 分ではないことを、ある意味明らかにしているのである。 因みに政軍関係に関わる歴史学的または政治学的な研究の中で、「軍国主義」国家の典型と して取り上げられるのは、奇しくも戦前期の日本国家(以下、明治国家とする)とプロイセ ン・ドイツの二国である。両者は所謂「後発型近代国家」に類型され、政軍関係に関わるサ ミュエル・ファイナーの古典的な研究によれば、「政治文化」の面でも、「発達した政治文化」 をもった国家に分類されているとおり、英米などの「成熟した政治文化」からは一等低いカテ ゴリーに位置づけられている2)。こうした日独の後進性、つまり「急激な経済的、社会的変化

論 文

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を体験したが、その政治体制と半ば工業化以前のものである権力構造がこれらの変化とはなは だしく不適合の関係」3)にあった国家では、国の内部に不安定性と緊張が生じたといわれる。 それが両国の社会を軍事的に形づくったというのである。 これら日独両国の近代化の歴史は同時に対外的な膨張と侵略を伴っており、共に「軍国主 義」国家の典型を成すとの通説が成立し、両者の共通性が歴史学や政治学の分野で事あるごと に指摘されてきた。殊に 1945 年に両「軍国主義」国家は共に第二次世界大戦に敗れており、 その戦後世界での責任と対応の差を指摘したものが山口定氏の大阪市立大学での最終講義をま とめた「戦争責任問題 ‐ ドイツと日本」4)である。これは特に人道主義の観点から戦後日本 の在り方を精緻に且つ厳しく指摘すると同時に市民社会の成熟による旧来の責任論に留まらな い「未来責任」を果たす解決の道を示しているが、その背後には、しばしば共通性が語られて きた日独両国の間に存在する歴然たる差異が同時に論じられているように感じられる。 本稿では、この日独の差異という問題に改めて焦点を当て、その原因を成している歴史経過 の時間軸と質の「ずれ」という問題に向き合っていきたいと考えるものであり、その過程であ る種有効な視角を提供してくれるのは、両国の政軍関係の歴史、より具体的に述べるならば 「軍国主義」の歴史の差ということになろう。

Ⅰ.日独の歴史過程と時間軸

改めて指摘するまでもなく、日独両国には「近代国家としての国家統一をほぼ同じ時点で達 成し(1868 年の明治維新と 1871 年のドイツ帝国=「第二帝制」創建)、それを契機とする国 家主導の『後発国型近代化』による急速な経済成長とそれによる社会変容を経験したという基 本的には同じような歴史的経過」5)が存在する。 フォルカー・R・ベルクハーンは第一次世界大戦までの「軍国主義」をめぐる論争を概観し て、その現象は、「単に軍の政治への影響の問題とは受けとめられていなかった。むしろ大部 分の著述家たちはこの現象を近代化社会についての彼らの眼前に浮かぶ発達のモデルの枠組み のなかに組み入れた」6)と述べているが、近代化と「軍国主義」は強く関連付けられながら論 じられてきたのであり、古典的な一例として、ハーバート・スペンサーは進歩の理念のもとに 「軍事型社会」が「産業型社会」にとって代わることを信じていたという7)。これは近代化の 進展(工業化・産業化)による「軍国主義」の克服を意味するが(スペンサー以降の議論は、 「工業化された軍国主義」や「軍産複合体」といった克服ではなく、「軍国主義」の変容に焦点 を定めることになったが)、近代化と「軍国主義」は不可分な関係にあると同時に後発型近代 化の典型なケースである日独両国が「軍国主義」国家といわれる所以でもある。この近代化 (工業化・産業化)を尺度とする「軍国主義」論は、近代化の移行期における「古い軍国主 義」(嘗ての日独両国にみられた心情主義的で戦時下において国民に耐乏生活を強いる形態) と近代化達成過程後の「新しい軍国主義」(確立した工業・産業力の下で軍事と国民生活を両 立させ得る欧米諸国にも共通する「工業化された軍国主義」)に分けて論じられる訳だが、

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1945 年の時点で日独両国がいずれの段階にあったかは検証を要する事項である。 また、「軍国主義」の問題を対外政治上及び地政学的見地から定義する見解も古くからみら れ、ドイツ第二帝制期の国制史家オットー・ヒンツェも軍事地理学の要因の重要性を強調して おり、海に隔てられ、外からの脅威に晒されなかった英国と、国家間の対立の中、常備軍を発 展させてきた欧州大陸の歴史の違いを指摘していた8)。こうした議論を日独両国の近代化の過 程に適応させると、一方は紛れもなく東西で露仏両大国に接する大陸国家であり、もう一方は 四方を海に囲まれた島嶼国家ということになる。それぞれの地理的要因は極端に異なる訳だ が、19 世紀以降の歴史を振り返れば、前者は 1806 年のイエナ会戦でナポレオン・ボナパルト の軍に大敗し、一時、領土の半分を喪失する憂き目にあい、後者は 1853 年の米ペリー艦隊の 来航とそれに続く薩英戦争(1863 年)、四国艦隊下関砲撃事件(1864 年)という所謂ウエスタ ン・インパクトに晒され、それぞれ軍事的劣勢の中で、新しい強固な軍備の確立を強く意識し た改革・近代化を推し進める契機となっている。 しかし、この約半世紀の時間差を別にしても、日独「後発型近代国家」の類似する筈の歴史 的経過は質の面でも必ずしも期待に応えるものではない。確かに二つの帝国の形成の契機はほ ぼ同時並行に進んできたようにみえるが、既に確固たる絶対君主制のもとにあった軍事的強国 プロイセンからドイツ第二帝制への発展と、極東の島国で起こった特異な明治維新は大きく歴 史的様相を異にしている。また同様に、1945 年の敗戦は共に枢軸の主力を成したドイツ第三 帝国と大日本帝国の崩壊を意味するが、前者はナチズムの全体主義国家であり、後者は天皇を 中心とする君主制国家を最後まで維持し続けたのであって、基本的な国家形態をやはり異にし ている。むしろ国家形態という点から探るならば、君主制と統帥権の独立という政軍関係を規 定する重要な制度を共有していた 1918 年のドイツ第二帝制の崩壊(第一次世界大戦での敗 戦)と明治国家の 1945 年の同質性に着目すべきではなかろうか。この約四半世紀の時間差を もって両帝国に到来した歴史の画期は多くの共通性を備えた二つの「軍国主義」の終焉を意味 している。この共通した「軍国主義」の問題については改めて後述するものとし、先ずは、ほ ぼ同時並行で進んできたという二つの帝国の形成の過程について、君主の大権と統帥権独立の 確立という観点から言及していきたい。

Ⅱ.明治国家の成立と君主制の実態

明治国家形成の政治的契機が明治維新に求められることは無論であるが、この維新の政治的 変革は、西欧に倣った近代化を推進するという革新的な性格を内包しながらも、形態としては 王政復古という伝統への回帰を掲げたものであった。その基本理念には、天皇親政という君主 制国家の確立を目指す方向性と、公議輿論(簡潔にいうと「天下万人の動向」9))という政治 参加の拡大への指向が並置されながら、明治国家を形づくっていくことになる。坂田吉雄が 「天皇親政と公議輿論とは、本来は、たがいに矛盾する観念であり、このたがいに矛盾する観 念を矛盾させずに両立させようとしたところに王政復古の王政復古たる特色があったのであ

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る」10)と述べたとおり、公議輿論は天皇親政を否定することなく、時に不協和音を呈しなが らも、その中に包摂され、後には立憲主義や議会制度等として姿をみせることになっていっ た11)。こうした明治国家は、形式上の問題は別として、先行して強大な君主権力の確立をみ ていたプロイセン・ドイツと比較して、当然ながら絶対君主制の色彩に乏しかったといえる。 詳細は後述するが、プロイセン・ドイツの君主は決して天皇のように政治理念の実体に止まる ことなく、その内廷機構を通じて統治を行う強固な存在であったのである。 一方で、明治国家における政治・軍事上の正統性は主として天皇親政に求められ、軍事力の 形成も天皇に直結する形で進められ(初の本格的中央軍は「御親兵」、つまり天皇親衛軍とし て形成された)、所謂「皇軍」として帝国陸海軍を規定することになった。しかし、これも絶 対君主制とその強制力(常備軍)の確立を必ずしも意味するものではない。明治国家の政軍関 係が統帥権独立と呼ばれる統合と政治の優位を欠いた状態にあったことはよく知られている が、抑も広義の意味において明治国家の統帥権独立制度とは、兵権(軍事上の権限)を政府の 管掌下から分離し、天皇が掌握することであり(狭義の意味において統帥権独立は軍令と軍政 の分離を意味する)、天皇親政、つまり天皇による政兵二権の掌握が明治国家成立上の大原則 であったことに由来するといえる。簡潔にいうならば、明治国家の政府と軍隊は、天皇を接点 とした間接的で且つ原則的に対等な政軍関係を形成していたのであり、天皇の政府であるが故 に、軍は政府の指示や方針に従ったのである。福地源一郎12)は『東京日日新聞』の社説「陸 海軍軍人ハ政治ニ関渉スベカラズ」の中で次のように述べている。 然バ則チ朝野ニ如何ナル政論ノ行ハルヽトモ、政治ハ如何ナル党与ノ事ニ出ルトモ、其政 府ハ我天皇陛下ノ政府ニテ、其政治ハ天皇陛下ノ委ネサセ給フ宰執ニ出ルノ政治ナランニ ハ、軍人ハ其政府命令ニ服従シ、昼夜寒暄ノ別ナク、我天皇陛下ニ本分ノ忠節ヲ尽シ参ラ スゾ大切ナルベケレ つまり明治国家の政軍関係においては、「天皇に直属する軍人は、天皇に忠節を尽くすという 形で間接的に政府に服従することを要求された」13)のであり、天皇は政軍関係を調整する結 節点ではあっても、そこに主体的な役割を見出すことは元来難しいのである。 統帥権独立の原点からもうかがえるとおり、天皇親政は君主の専制的支配ではなく、飽く迄 も天皇の名の下に統治が行われるという建前と、天皇による現実政治に対する正統性の付与と 調整を意味するものであり、1882 年に福澤諭吉が「帝室論」の中で述べたとおり、「帝室」(天 皇)は「直接に萬機に當らずして萬機を統べ給ふ者なり、直接に國民の形體に觸れずしてその 精神を収攬し給ふ」14)ものであった。このような天皇親政の捉え方は、プロイセン・ドイツ より、むしろ英国の立憲君主制にその類型を見出すものである。そしてこのような天皇の裁可 をもって国家の意思決定を完結させる「万機宸裁」の仕組が明治国家の基本的政治システムと して希求されたのであり、しばしばプロイセン憲法の強い影響を受けたといわれてきた大日本 帝国憲法にこの「万機宸裁」の仕組が収斂され、天皇の大権として整理されていったのであ る。

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Ⅲ.明治国家とプロイセンの統帥権

参謀本部が設置された 1878 年以降の明治国家における政軍関係の特質は統帥権独立制度に 見出される。この統帥権独立制度こそが明治国家におけるドイツ主義の大いなる痕跡とされる ものである。明治国家においては、参謀本部が政府乃至議会から独立した地位を与えられたと いう国家機構上のドイツ的特色(所謂、統帥権独立制度)が語られてきたのであり、また天皇 という君主が兵権を掌握するという視点に基づく限り、明治国家の統帥権独立制度は、プロイ セン・ドイツの制度と何等異なるものではないと見做されてきた。事実、多くの軍事史家のみ ならず、同時代の人々によっても明治国家はドイツ流であるとしばしば認識されてきたのであ る15) しかし、単純なドイツ主義の移入と日独の類似性を論じることには注意を要する。何故な ら、明治国家において、参謀本部の独立が確立したのは、未だ帝国議会すら存在しなかった 1878 年のことであり、一方、ドイツ参謀本部が政府から独立した機関としての地位を確立し 得たのは、実にその 4 年以上も後のことであったからである。更にプロイセン・ドイツにおけ る統帥権独立制度の中核的組織である軍事内局(君主に直隷する軍事に関わる内廷機構)に該 当する機関が明治国家にはみられなかった16)。つまりしばしば明治国家の政軍関係の特色の 源流がドイツ主義の移入に求められるにも拘わらず、当初から日・独間の政軍関係には制度・ 機構の面に限っても多くの相違点がみられたのである。故に日本陸軍がドイツ式兵制を導入 し、統帥権独立という政軍関係の根幹を定め得る制度を共有していたとしても、明治国家とプ ロイセン・ドイツの政軍関係が同質のものであると見做すのは早計であり、両国の政軍関係を 規定している政治構造(君主制、政府や軍隊をも包括する)という国家の本質的問題に目を向 ける必要がある。 君主の兵権という原点に立ち戻って考察を加えるならば、日・独の統帥権独立制度には根本 的な差異が存在する。先ずプロイセン・ドイツにおいては、国王乃至皇帝の兵権を議会勢力か ら護持するために統帥権独立という制度が創られてきた。当初は陸軍大臣の業務領域を行政と 統帥に分けて、前者に関しては国王のみならず議会に対しても責任を負い、統帥の領域につい ては国王にのみ責任を負うという方式が採られていた。その後、ヴィルヘルムⅠ世の時代に は、統帥の領域を陸相の業務から除き、軍事内局が担当するように成り、1883 年に至って参 謀本部が陸軍省から分離独立し、皇帝の直隷下に位置付けられたのである。このようにプロイ セン・ドイツにおける統帥権独立制度の整備は段階的に進められていったようにみえるが、そ れを短絡的に君主の統帥権護持を強化していく過程と見做すことには疑問もある。何故なら、 統帥権独立を維持していく上で、陸軍省・軍事内局・参謀本部の三機関をわざわざ上奏機関と する必要性は感じられず、また軍事内局及び参謀本部が独立上奏機関に成長していく過程には 君主の統帥権を強化することに止まらず、陸軍省に対して独立した地位を得るという陸軍内部 のセクション間の対立も同時にうかがわれるからである17) 一方、明治国家では、天皇の兵権は維新の時点で、それ自体確立していたものではなく、軍

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隊並びに軍事諸機関の整備及び軍事諸制度の確立によって徐々に確立へと向かったものといえ る。それは天皇親政の理念が拡散し、明治国家内において(軍隊内においても)共通意識化し ていく過程でもあった筈である。そして兵権に関わるこうした事実は天皇乃至天皇親政の本質 をよく現している。天皇は明治国家の政治理念の実体ではあっても、抑も軍事力や経済力を 伴った権力者ではなかった。明治国家の初期においては、依然として純粋に理念の実体として 位置付けられていたのであり、後に国家諸制度の整備によって権力者としての側面を付与さ れ、帝国陸海軍の大元帥としての地位も確立していったと考えられるのである。 このような天皇の兵権乃至統帥大権は、プロイセン・ドイツにおけるものとは全く基礎を異 にしている。抑もプロイセンの国王は国家の全権を掌握する存在(絶対君主)であり、軍にお いては大元帥として兵権乃至統帥権を掌握していた。それが立憲主義と議会制度の導入という 政治情勢の変化により、それまで掌握していた諸権限に制限を受けるようになり、こうした新 局面に対応し、少なくとも軍事においては議会から独立した専権を維持するために、軍事諸機 関を整備し、独立上奏機関としての地位を与えていったと考えられる。また、統帥権独立制度 を象徴する参謀総長の帷幄上奏権は、ヘルムート・フォン・モルトケ18)という近代戦史上稀 有な軍事的巨人の個人的功績(対オーストリア=ハンガリー戦争の勝利や普仏戦争の勝利、そ れに伴う新ドイツ帝国の建国)に対して与えられたものでもあった(モルトケの個人的特権に 過ぎなかった帷握上奏権が参謀総長の権限として法制化されたのは 1883 年のことである)。こ れらは殆ど一兵も有することの無かった天皇を中心に形成され発展していった明治国家のプロ セスと符合するものではない。プロイセン・ドイツと明治国家の大元帥は共に君主でありなが ら、軍に向き合うそれぞれの歴史的な立場は大きく異なっていたといえるのであり、統帥権独 立制度という日独両国の共通点は、むしろ両者の歴史と君主制の異質さを証明する材料とすら なるのである。

Ⅳ.日独両国における近代化の契機

欧米諸国を先進地域として捉え、そこに近代というものを見出すならば、明治国家は紛れも なく後発型の近代国家である。近代化とは一概に定義することが困難な活動であり、政治的な 近代化(権威の合理化・組織構造の分化・政治参加の拡大等)・工業化(産業化)・欧化など 様々な捉えられ方で語られるものである。幕末期以来の歴史も一つの近代化の道程であり、そ れは欧米列強の極東地域への経済的・軍事的侵出(ウェスタン・インパクト)に触発されたも のであって、それらへの対抗を目的として出発した。文明国として位置付けられた欧米中心の 万国公法を機軸とした国際関係の中へ参入し、その中で植民地化を避けるためには自国が文明 国として位置付けられることを必要とした明治国家は、政治的な近代化を図ると同時に、様々 な分野で欧化を進め、欧米列強から文明国と認められるだけの諸制度を整える必要に迫られて いたのである。それは激烈な国際環境から迫られた近代化と近代的諸制度の整備であり、それ を怠ることは自らを植民地化の対象である「未開の国」として欧米列強の眼前に晒すことを意

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味していた。正に「不幸な時代」の近代化であり、このような欧米に範を求めた近代的諸制度 の整備の中で、最も重要で緊急性を要したのは、実のところ軍事分野での近代化であった。 嘗てサミュエル・ハンチントンが非西欧社会における近代化について、「近代化への初期の 強い努力は軍事分野で生じたのであり、ヨーロッパの武器、戦術および組織を採用しようとす る試みが先になって、社会内の他の諸制度を引っ張ったのである」19)と述べたとおり、明治 国家のような後発国の近代化は、自国の自主独立を貫徹するところに、その目的があり、列強 の強大な軍事力に対抗していけるかどうかが重大な問題であった。独立を全うするにたるだけ の軍備を整えるためには、政治機構の集中化・財政規模の拡大・外貨獲得に寄与すると同時に 近代兵器の生産が可能な産業の育成・徴兵制度に対応出来る国民を創出する教育の実施等様々 な改革が必要であった。殆ど総ての分野の近代化の試みは国防のために為されてきたとさえい える。これはハンチントンによって「防衛的近代化」20)と評されるものであり、自ずと明治 国家の近代化は「軍国主義」の色彩を帯びることになったのである。 もう一方の「後発国型近代化」の一原型であるプロイセン・ドイツにおいても、所謂「上か らの統一」21)という性格の近代化の現象がみられた。これは明治維新同様に市民革命的性格 に乏しいものであり、ナポレオン戦争での敗北と屈辱を契機としている。当該期、シャルンホ ルスト22)やグナイゼナウ23)といった革新的な軍人(その革新性が故に時の国王は彼らを 「ジャコバン」と称したという24))たちによる軍制改革がスタートした。これは参謀本部制度 という近代的な軍事運用システムと、フランス革命がもたらした国民皆兵制という軍事力の規 模を飛躍的に増大させるシステムを取り入れたものである(1814 年に国民皆兵法成立)。特に 後者は、国民国家の成立を前提とするものであり、シュタイン男爵25)やハルデンベルク公26) といった政治家によるプロイセンにおける国制改革(身分制改革・行政機構改革・教育改革な ど)と相俟って、ティルジット平和条約下のナポレオンによる干渉や依然として保守的であっ た君主主義の下で抵抗にあいながらも、明治国家同様の劇的な変革をもたらし、急激な社会的 変化を招いたのである。こうした両国の変革についてベルクハーンは次のように説明してい る。 プロイセン=ドイツと日本は、急激な経済的、社会的変化を体験したが、その政治体制と 半ば工業化以前のものである権力構造がこれらの変化とははなはだしく不適合の関係にあ る国家の、特にはっきりした例である。このような適合性の欠如と吸収力の欠如とは、国 の内部に、不安定性と、内戦にも似た緊張を呼び起こした。これら両国の発展のなかにあ る、それ以外の目につく特徴は、両国が領土拡大の目標を展開し、外への侵略によって 「正式の帝国」(Formal Empires)を設立しようと試みたことである27) 事実、プロイセン王国は 1848 年に三月革命を経験し、その正規軍は激しい市街戦の末に民衆 暴動を抑え込み、1850 年にはプロイセン憲法が成立し立憲体制に移行した。一方、明治国家 はその初期において度重なる農民一揆と特権を奪われた士族層の反乱(最大にして最後の士族 反乱は 1877 年の西南戦争)に悩まされながらも、1889 年に帝国憲法を制定し、近代国家の基 礎を確立したのである。そして、プロシアは対デンマーク戦争や対オーストリア=ハンガリー

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戦争に勝利し、普仏戦争(1870 年開戦)の勝利を経て新ドイツ帝国の成立をみた。同様に明 治国家は日清戦争(1894 年開戦)に勝利し、日露戦争(1904 年開戦)を経て、西欧諸国との 不平等条約を清算し、植民地や海外権益をもつ「正式の帝国」に成長したのである。 尚、ドイツの歴史学者ゲルハルト・リッターはミリタリズム(軍国主義)について次のよう に述べている。 国家がせま苦しい状態から、つまり相対的な無力から強国の地位へ達しようとつとめ、い まや昔から強固な強国の抵抗や不信に直面するばあい、あるいはまた、ある強国が他にた いするヘゲモニーをえようとしてたたかうばあいに、つねに最大だろうということは明白 であります28) これは「軍国主義」国家の典型であるとされる日独両国が「正式の帝国」の確立を目指したこ との必然性を語るものである。次章では、この領土拡大、「正式の帝国」の設立という観点か ら、両国の「軍国主義」の質の問題に触れていきたい。

Ⅴ.「古い軍国主義」から「新しい軍国主義」へ

嘗てリッターは、プロイセン・ドイツのミリタリズムの歴史を政治と軍事の関係に限定しつ つ、ミリタリズムの概念として、「国家理性」に反する軍事技術的考慮に基づく政治的決断と 政治家や国民の政治的根本態度における闘争的特徴の優勢という定義を試みていた29)。この いずれもが、国家と国民に有益なものを害し、人々の間に「永続的な法(平和の秩序)」を樹 立するという国家の本当の究極使命を破壊するものと捉えられている。また一方で、リッター は、啓蒙君主(フリードリヒ大王)や内閣(官房)政治家(オットー・フォン・ビスマルク) によって主導された限定的で「国家理性」に叶った(政治・外交上の目的達成のための理性的 な戦争遂行)「古いミリタリズム」から、国民国家の構成員として政治化された大衆の熱情に 左右される(大衆の敵国への憎悪と総力戦の戦争形態)「悪い新しいミリタリズム」への質的 な移行という観点を提示していた30)。リッターによれば、後者のミリタリズムの原因はフラ ンス革命と国民皆兵制に求められ、ナポレオン・ボナパルトは過激なミリタリストであり、殊 に悪しきミリタリズムの原型はドイツ以外に求められるということになる。 リッターは斯く述べる。プロイセン・ドイツの宰相ビスマルクは「こんりんざいミリタリス トではなかった」31)と。これは当該時期、プロイセン・ドイツが遂行した対外戦争が政治と 外交の優位、つまりビスマルクの如き偉大な政治家のコントロール下で展開されたことを意味 する。それらの戦争は敵対国への憎悪に縛られることなく理性的に遂行され、ドイツ第二帝制 の確立という究極の国家目標が達成されたのである。例えば、1866 年の対オーストリア=ハ ンガリー戦争において、ケーニヒグレーツの会戦で決定的打撃を与えた後、モルトケ等プロイ セン参謀本部は帝都ウィーンへの入城を望んだが、ビスマルクはこれを止め、寛大な講和を結 び、ドイツ統一からオーストリア=ハンガリー帝国の影響を排除しつつ、戦後の両国の良好な 関係(対仏戦での墺国の中立)を確立したのである。

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他方、明治国家では、日清戦争において、「東洋のビスマルク」こと首相伊藤博文と外相陸 奥宗光による巧みな戦争指導が行われた。伊藤首相は文官の立場を超えて大本営に列席し、軍 事に偏重する陸海軍統帥部の戦略に容喙し、朝鮮半島からの清国軍一掃後に山縣有朋司令官等 が清国領内に深く進攻し、直隷平野で清国野戦軍の撃滅と北京への進撃を企図していたのを掣 肘し、清国政府を瓦解させることなく講和に持ち込んでいる。そこには宰相ビスマルク同様、 戦後秩序を強く意識した政治外交的判断を垣間みることが出来る。引き続き約 10 年後の日露 戦争では、帝国陸海軍の作戦上の要求をコントロールすることは容易ではなくなっていった が、それでも国力の限界と政治・外交上の目的達成を見据えた講和が図られ、戦後、明治国家 は大国の仲間入りを果たしたのである。 しかし、この日露の講和に際しては、早くも「悪い新しいミリタリズム」がその姿を現して いる。それは日比谷焼打ち事件という形で表出したものである。賠償金も広大な領土の割譲も 得られない講和条約を「国民の勝利を政府が売り渡した」ものと受け止めた民衆は暴徒化し、 政府機関を襲撃するに至った。政府と軍部の情報操作により戦争の実情認識に甘かったという 面は否定出来ないが、国民皆兵制の定着と「初の総力戦」といわれた飛躍的に拡大した戦争遂 行の下に、戦争と一体化した熱情的な国民が登場したといえるのである。 日独両国はここに「正式な帝国」の建設に至った訳だが、明治国家の「軍国主義」は早くも 質的な変化をみせ始めていた。他方、プロイセン・ドイツの軍事機構は、その功績を背景に、 「国家生活の中で決定的な地位を占めるに至った」のであり、「真の愛国主義は、-そして神の 摂理の御業でさえも-軍国主義という媒介物を通じてのみ表現され得るのだ、と確信する支配 的な力を持った思想の一流派が勃興した」という。ウィラー・ベネットは、ビスマルクやモル トケの下で、「この思想の流派はプロイセンをオーストリアに頭のあがらない一領邦国家から 帝国権力を支配する地位へと押し上げた」32)と述べているが、これは先述の、ミリタリズム は国家が相対的な無力から強国の地位に這い上がろうとするときに最大になるというリッター の見解と同質のものである。 また、初代ドイツ帝国宰相となったビスマルクは「ヨーロッパの最後の偉大な内閣政治家で あり、リシュリューやフリードリヒ大王の最後の末裔」であったといわれるとおり時代の転機 に立つ人物であって、「ドイツの全国民に奉仕し、自己の事業のためにドイツの全国民に助け をもとめなければならなかった」のであり33)、国民皆兵制の基盤に立つものであった。故に ビスマルク以降のドイツ第二帝制の「軍国主義」は「悪い新しいミリタリズム」へとその性格 を変えていくのだが、同時にそこには両国に共通する統帥権独立制度を基軸とした軍事的技術 への政治の追随、つまりリッターが定義したミリタリズムのもう一つの側面がみられるのであ る。

Ⅵ.統帥権の独立と軍事的技術への追随と(1914 年と 1941 年)

モルトケやビスマルク亡き後のドイツ第二帝制は、その最高指導層に人材を欠き、嘗ての

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「国家理性」に従った国家経営の道から外れていく。政治・外交上の立場から軍を掣肘し得る 強力な帝国宰相は現れず、帝国の東西には依然として露仏の大国が位置し、外交上の無策と相 俟って露仏の同盟が成立、軍事地理学的環境は更に悪化していった。こうしたある種政治が不 在の中で、参謀本部はシェリーフェン34)という参謀総長を得た。来るべき戦争における東西 二正面作戦に備え(後に第一次世界大戦で現実化した)、彼の名を冠した「シュリーフェン・ プラン」が確立された。これは開戦劈頭にほぼ全戦力を西部戦線に配置し、ベルギーを大迂回 した大軍がパリを攻略する作戦であり、速やかにフランスを屈服させた後に、東部戦線にとっ て返し、迅速にロシア軍を撃滅するというものである。シュリーフェンにとって外交による戦 争の限定化は意に介するところではなく、殲滅戦の思想を強く持っていたといわれるが、防御 兵器が発達し、多量の軍需資材を要する近代戦において短期決戦で敵野戦軍を撃滅することは 容易なことではない。また、彼のプランはベルギーなどの中立を一方的に破るものであり(こ れが第一次世界大戦で英国の参戦を招くことになった)、軍事技術的判断に外交や政治を従属 させるものであった。 一方で、帝国内のセクショナリズムは進展し、プロイセンの強固な君主制から発していた筈 の統帥権独立制度は軍事官僚主義によって浸食され、その主軸は皇帝から軍部に移っていく。 政治外交と軍事の統合は擬制的に皇帝ヴィルヘルムⅡ世によって行われるだけで、政戦両略の 統合が成し難い中で、先述の「シュリーフェン・プラン」に代表される軍事技術的判断に政治 が追随する状況が生まれ、巨大な戦争機械の発動に総てが引きずられていったのである。 結局のところ、第一次世界大戦でシュリーフェンの後継者たちが実行した西部戦線での大攻 勢は早々に行き詰まりをみせ、予定された短期決戦と殲滅戦は約 4 年にわたる長期持久戦へと 転化し、「国家総力戦」と称されたのである。そこでは、知識人や学者ですら、「ドイツ陸軍を ドイツ文化を構成する本質的な要因」35)と見做す傾向がみられた。また同時に「生粋のミリ タリストの原型」36)とリッターが称したルーデンドルフ参謀次長が帝国の全権をほぼ掌握し、 軍事技術的判断に政治と外交が従属させられる一種の独裁が行われ、戦争の遂行が自己目的化 する事態が生じたのである。この対戦国間で決定的な手段を欠く未曾有の長期戦は国内資源の 徹底した動員によって戦争が支えられる状態を持続させ、国民生活を著しく圧迫した。大戦末 期には労働者や兵士のストライキを招き、革命の危機が全ドイツを覆い、ついにドイツ第二帝 制は戦場だけではなく内部からも崩壊し、敗北を喫したのである。ここで明らかにされたの は、「国家総力戦」時代の戦争は国民の動員と協力無くして遂行することは出来ず、単に思想 的に扇動し、耐乏生活を強いるだけの古い「心情的な軍国主義」は最早成立しないことの証明 である。国民生活を犠牲にした「バターの代わりに大砲を」と称される「古い軍国主義」は次 期大戦のドイツ第三帝国ではナチズムの下で不充分ながらも国民生活との両立を図る「大砲と バター」も求める「新しい軍国主義」に変化していった37)。事実、ナチスは社会集団として の労働者の扱いに慎重であったし、不充分な「新しい軍国主義」の下で、短期決戦思考の戦争 指導を行ったのである(長期戦において国民生活を維持することが不可能であることに自覚的 であった)。この背景にあるのはヒトラーの膨張政策を支える高度なドイツ工業界の発展であ

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り、内部から帝国が崩壊した先の大戦の教訓であったといえよう。 一方で、明治国家では、ドイツ第二帝制に遅れること四半世紀、1941 年の冬、遂に日米開 戦に踏み切った。開戦に至る過程は省略するが、最終的な決定要因はやはり軍事技術的な判断 であった。それは一つに燃料問題であり、石油備蓄残量が約 2 年分と判断される中で、日米開 戦に消極的であった海軍首脳部の姿勢を変えさせた。また、太平洋での島嶼戦での上陸作戦を 考慮に入れると 41 年 12 月初頭の開戦は必至であった(季節的要因から時期を失すると風波が 強くなり上陸作戦が困難となる)。そこには「シュリーフェン・プラン」の如き神話じみた勝 利の処方箋は用意されていなかったが、より矮小化された軍事的判断が優先されたのである。 周知のとおり、太平洋での戦闘は開戦後約 1 年で日米攻守ところを代え、敗戦の日まで 3 年余 続き、日本国民に多大な犠牲を強いることになった。枢軸を形成する同盟国ナチスドイツの高 度な工業力に比べ、明治国家のそれは極めて脆弱であり、「国家総力戦」時代への対応につい ては早くから認識されていたが、第二次世界大戦の段階でも全くといってよいほど用意は為さ れていなかった。そこで展開されたのは極めて観念的な古い「心情的な軍国主義」であり、耐 乏生活の強要と精神主義(「精神と銃剣」)の枠を超えるものではなかった38)。アルフレート・ ファークツは、「軍国主義」は「それらがすべて軍隊や戦争と結びつけられているが、にもか かわらず本来の軍事目標を逸脱してしまう習慣や利害や威信や行為や理念の強力な集合 体」39)として出現するというが、正に明治国家末期の「軍国主義」の状況を説明するに充分 である。「軍国主義」の典型と呼ばれるドイツと日本ではあるが、後者は遂に前者の段階に達 することはなかったのである。 近代化の進展(工業化・産業化)による「軍国主義」の克服乃至変容という問題には先に触 れたが、「後発型近代国家」の典型である日独は強国への発展を志向する中で軍事の優位と対 外戦争を半ば必然的なものとしつつ、結果的に自滅した訳だが、政軍関係の構造と「軍国主 義」の質を共有し得たのは、1918 年までであり、そこから第二次世界大戦に至る過程でドイ ツのみは次の新しい「軍国主義」の段階に進んでいたのである。

おわりに 1918 年と 1945 年

本稿では、日独の「軍国主義」を「国家理性」と両国の近代化(工業化・産業化)のレベル に応じた「古い軍国主義」と「新しい軍国主義」という観点から対置させつつ考察を行ってき た。また、両国の政軍関係の特徴は周知のとおり統帥権の独立制度にある訳だが、本制度は軍 事技術的判断に政治と外交が引きずられる同様の局面を四半世紀の時間差をもって二つの異な る大戦の入り口で両国に強いることになった。この統帥権の独立制度は両国の君主制と一体の ものであると同時に、君主制の下で近代化と「正式の帝国」の建設を図った両国の古い「軍国 主義」とも不可分なものでもあった。「後発型近代国家」内部の不均衡と矛盾を統合し得る基 盤を創り出すことが出来たのは君主制であったのであり、君主制を核とする「上からの近代 化」を進める中で、統帥権の独立はある種の必然性を孕んでいたからである。ただ、プロイセ

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ンのそれは歴史的に先行していた絶対君主制であり、明治国家のそれは近代国家建設のための 擬制的なものであった。 君主制と政軍関係に関していえることは、プロイセン・ドイツの政軍関係は、元来内に強固 な君主制の骨格を持ちながらも、後に軍事官僚主義によって浸食され、遂には「ルーデンドル フ独裁」と称される事態を招いた。これに比べ、明治国家は軍事制度並びに軍事官僚によって 外側から外殻を与えられ、形成される、例えるならば卵の様な形質を備えていた。それは擬制 的な君主制に基づく統帥権独立制度を確立したものであった。両者は、その終局において、 1918 年のドイツ帝国の敗戦と 1945 年の大日本帝国の敗戦という帝国の崩壊を共に迎えながら も、それぞれ新たな国家体制へと移行する中で極端な相違をみせている。ドイツでは、皇帝は 亡命し、君主制は崩壊したが、軍隊は存続したのであり、また日本では君主制が温存され、軍 隊は解体されたのである。元来、強力な君主権力から発していたドイツ第二帝制は総力戦に伴 う国内の疲弊と敗戦の混乱に堪えきれず崩壊した。退位した最後のドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ 世が亡命生活に入ったことをベネットは次のように語っている。 彼の出発はドイツ国家にとってもドイツ軍部にとっても一時期の終わりを劃することと なった。何故なら、それによってドイツ国家は皇帝を失って取り残され、ドイツ軍部は大 元帥を失って後に残されたからである40) 正に帝国は失われたのに、帝国軍だけが残されたのである。他方、元来権力を有しないが故に 純粋ともいえる理念から発した天皇親政の体制は政軍関係を解消し、象徴天皇制へと姿を変え ていったのである(新たな民主主義という政治理念の登場に伴い天皇は脱理念化していったと いえる)。この様に日独の政軍関係上の道程と、その終局には大いに異なるものがあったので ある。 1945 年以降、日独はそれぞれの戦後を歩んで行く。戦後責任という課題、そして再軍備を 経験することになる。ただ、前者は「古い軍国主義」の段階で戦後世界を迎えたのであり、ド イツの如き歴史的経験を踏んではいない。そのような現代の日本国家で「軍国主義」という問 題は如何に語られるべきであろうか。それは少なくとも文民の政治家による安全保障政策の変 更という事態に対する矮小化された評価の代名詞では無い筈である。 あとがき 近代日本の政軍関係を研究テーマとしていた小生は、大学院在学中、幸運にも故山口定先生 から多くの学問的な示唆を受けることが出来た。本稿で取り上げた先生の論稿・翻訳書などか らも伺えるとおり、殊にドイツ帝国からワイマール共和国に至る過程の政治・軍事史に関わる 先生の教えは、今日もなお自身の研究の骨格の一部を成すと同時に、研究上の視座を与えてく れている。末筆ながら、山口定先生に改めて御礼を申し上げたい。

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1 ) V・R・ベルクハーン(三宅正樹訳)『軍国主義と政軍関係』南窓社 1991 年 17 頁。 2 ) 三宅正樹『政軍関係研究』芦書房 2001 年 38-40 頁を参照。 3 ) ベルクハーン 1991 年 154 頁。 4 ) 山口定「〈最終講義〉戦争責任問題 ‐ ドイツと日本」(大阪市立大学法学会『法学雑誌』第 40 巻第 4 号[光藤景皎・山口定教授退任惜別記念号] 1994 年 3 月 5 ) 同上、816 頁。 6 ) ベルクハーン 1991 年 45 頁。 7 ) 同上、20-23 頁を参照。 8 ) 同上、25-26 頁を参照。 9 ) 松本三之助「幕末における正統性観念の存在形態-その思想史的考察-」(稲田正次編『明治国家形 成過程の研究』御茶の水書房 1966 年 606 頁。 10) 坂田吉雄『天皇親政 明治期の天皇観』思文閣出版 1984 年 12 頁。 11) 松本三之助 1966 年 635 頁を参照。 12) 福地源一郎(1841~1906 年)、政治評論家、東京日日新聞主筆、政府系の記者として活躍し、立憲帝 政党を結成。 13) 坂田吉雄 1984 年 106 頁。 14) 福沢諭吉『日本皇室論』島津書房 1987 年 34-35 頁。 15) 内閣総理大臣原敬の日記には、「余は、是迄は獨逸の例とか言ふ事にて何もかも皇室中心にて統率權 など極端に振り廻さんとするも‥以下略」(1920 年 9 月 10 日)、「又獨逸流など稱して思召とか大權と か又は統率權とか云ふ事を振り廻はすは、却て累を皇室に及ぼすべき危險あり」(同年 9 月 22 日)など の記述がみられる。また、内閣総理大臣吉田茂(戦前は外交官)もドイツ型の参謀本部制度によって苦 しめられたとの見解を示している。 16) 軍事内局という内廷機構に関連して、安田浩は「近代天皇が個人で掌握する本格的な内廷政治機構を 形成しえず、広い意味での政府機関に依存する以外、その個人統治の方法がなかった」(安田浩『天皇 の政治史─睦仁・嘉仁・裕仁の時代』青木書店 1998 年 15 頁)と述べている。 17) 三宅正樹 2001 年 195-196 頁を参照。 18) ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800~91 年)プロイセン・ドイツ軍の参 謀総長。その卓越した作戦指導により対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導いた。 19) Samuel P. Huntington, “Civil-Military Relation”, in: International Encyclopedia of the Social

Sciences, edited by David L. Sills (New York Macmillan), vol.2, 1968, p.489.

20) サミュエル・ハンチントン(内山秀夫訳)『変革期社会の政治秩序(上)』サイマル出版会 1972 年  124 頁。 21) 山口定『現代ヨーロッパ政治史 上』福村出版 1982 年・第Ⅰ部第 1 章ドイツ第二帝制の成立-後 発国型近代化の一原型を参照。 22) ゲルハルト・ヨハン・ダヴィット・フォン・シャルンホルスト(1755~1813 年)、プロイセン軍参謀 長、プロイセン軍再建の中心人物。 23) アウグスト・ヴィルヘルム・アントン=グラーフ・ナイトハルト・フォン・グナイゼナウ(1760~ 1831 年)、プロイセン軍参謀総長。

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24) 渡部昇一『ドイツ参謀本部』中央公論社 1974 年 66 頁。 25) ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン(1757 年~1831 年)、プロイセン王国宰相。 26) カール・アウグスト・フォン・ハイデルベルク(1750 年~1822 年)、シュタインの改革路線を引き継 いだプロイセン王国宰相。 27) ベルクハーン 1991 年 154 頁。 28) G. リッター(西村貞二訳)『ドイツのミリタリズム』未来社 1963 年 6-7 頁。 29) 同上、4-5 頁を参照。 30) 同上、13 頁を参照。 31) 同上、30 頁を参照。 32) ウィラー・ベネット(山口定訳)『国防軍とヒトラー Ⅰ』みすず書房 1961 年 17 頁を参照。 33) リッター 1963 年 28 頁を参照。 34) アルフレッド・グラーフ・フォン・シュリーフェン(1833~1913 年)、大ドイツ軍参謀総長。 35) ベルクハーン 1991 年 48 頁。 36) リッター 1963 年 47 頁。 37) ベルクハーン 1991 年 163-165 頁を参照。 38) 同上、169 頁を参照。 39) 同上、59 頁。 40) ウィラー・ベネット 1961 年 13 頁。

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