レンブラント『水浴するバテシバ』を めぐるエクリチュール
――エレーヌ・シクスー『バテシバあるいは内なる聖書』に寄せて
稲 村 真 実
はじめに
ひとつの絵の前に立つ.絵を見つめる.絵からもたらされるものにじっ と耳を澄ます.絵を見るという,このどこまでも静かな行為の中に,あえ て言葉を携えて入ってゆくことは果たして可能であろうか.言葉が絵画を 限定するのではなく,絵画そのものの奥底へと降りて行くことはできない か.それはまた,絵を見ている時間そのものの中に,注意深く入ってゆく 作業でもある.絵画とエクリチュールがどのように邂逅できるのか.ルー ヴ ル 美 術 館 所 蔵 の 一 枚 の 絵 を め ぐ っ て エ レ ー ヌ ・ シ ク ス ー
(Hélène
Cixous
,1937-)
が試みているのはまさしく,この限りなく困難な作業である.
*
1993年に美術雑誌
F. M. R (Franco Maria Ricci
,No
. 43)
4月号に寄せ られたエレーヌ・シクスーの『バテシバあるいは内なる聖書』(Bethsabée ou la Bible intérieure)
1) と題される短いテクストは,レンブラントの『水 浴するバテシバ』の大判の複写の隣に,見開きのページを 3 つに区切り,およそ4ページにわたって掲載されたエクリチュールである.それぞれの ペ ー ジ の 上 の 部 分 に は,フ ラ ン ス 語 版 で は
Emotions
( 英 語 版 で はImpressions
2)) と い う 副 題 が つ い て い る.一 方,レ ン ブ ラ ン ト(Rembrandt Harmenszoon Van Rijn
, 1606-
1669)
による『水浴するバ テシバ』(Bethsabée au bain) (
1654)
は,ルーヴル美術館のリシュリュー 翼3 階の一室に掛けられている大きさ142×142cm
の油彩画である.画 家がこの絵を描くにあたり選んだ人物はバテシバ.折にふれ,バト・シェ バとも表記されるこの女性は,旧約聖書のサムエル記下にあらわれる人物 である.シクスーによるレンブラントの『水浴するバテシバ』についての考察を始めるための前提として,まず,聖書におけるバテシバをめぐる記 述から確認してみたい。
Ⅰ.
ダビデとバテシバ―――聖書における記述といくつかの作品
聖書におけるダビデとバテシバについての言及は,旧約聖書のサムエル 記下11節の以下の部分である.年が改まり,王たちが出陣する時期になった.ダビデは,ヨアブと その指揮下においた自分の家臣,そしてイスラエルの全軍を送り出し た.彼らはアンモン人を滅ぼし,ラバを包囲した.しかし,ダビデ自 身はエルサレムにとどまっていた.ある日の夕暮れに,ダビデは午睡 から起きて,王宮の屋上を散歩していた.彼は屋上から,一人の女が 水を浴びているのを目に留めた.女は大層美しかった.ダビデは人を やって女のことを尋ねさせた.それはエリアムの娘バト・シェバで,
ヘト人ウリヤの妻だということであった.ダビデは使いの者をやって 彼女を召し入れ,彼女が彼のもとに来ると,床を共にした.彼女は汚 れから身を清めたところであった.女は家に帰ったが、子を宿したの で,ダビデに使いを送り,「子を宿しました」と知らせた.
(
11-
1〜5)
3)同じくこれに続く 11 節において,ダビデはバト・シェバの夫であるウ リヤを送り返すようにヨアブに命じ,自らの家に一時帰るように促すが,
他のものたちが野営して戦っているのに,自分だけが家に帰ることはでき ぬと拒むウリヤに,彼自身を戦死させるように書かれた手紙を持たせ,ヨ アブのもとへ返す.ウリヤは戦死し,ウリヤの妻は悲嘆にくれるが,喪が 明けると,ダビデは彼女を王宮に引き取り,妻にすることになる.11 節 の結びの部分で,バト・シェバは男の子を生んだとされているが,「ダビ デのしたことは主の御心に適わなかった.」4) と締めくくられる.続く 12 節において,主はナタンをダビデのもとへ遣わし,こう言わせる.「『なぜ 主の言葉を侮り,わたしの意に背くことをしたのか.あなたはヘト人ウリ ヤを剣にかけ,その妻を奪って自分の妻とした.ウリヤをアンモン人の剣 で殺したのはあなただ.それゆえ,剣はとこしえにあなたの家から去らな いであろう.あなたがわたしを侮り,ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻 としたからだ.』」5) 最終的には,ダビデ自身の死は免れるものの,その子供 は主に打たれて弱り,七日目に死ぬことになる.この出来事の後に,ダビ
デとバト・シェバの間に生まれるのが,のちに王となるソロモンである.6) こうした聖書のダビデとバト・シェバの記述は,しばしば絵画のテーマ として取り上げられている.例えば,15 世紀にはフランドルの画家ハン ス・メムリング
(Hans Memling
,vers
1435-
1494)
が 『バテシバの様子 をうかがうダビデ王』(Le roi David épiant Bethsabée) (
1485-
1490)
とい う作品〔図版1〕を制作しているが,ここでは水浴の前後を思わせるバテシ バとその侍女の姿が前面に描かれ,開かれた窓の向こうに,テラスに佇み 使いを送ろうとしているらしきダビデ王が小さく配置されている.〔図版1〕
また16 世紀には,同じくフランドルの画家ヤン・マシス
( Jan Massys
, 1509-
1575)
の『ダビデとバテシバ』(David et Bethsabée) (
1562)
と題す る作品〔図版2〕があり,ルーヴル美術館に所蔵されている.こちらのほう は,前面の中央に,装飾品を身につけた,にこやかなバテシバとふたりの 侍女たち,それからダビデから使わされたと思われる使者が犬や子供とと もに描かれ,向かって左手上方に少し離れて,ダビデ王とその家臣たちが バルコニーからこの様子を見ている姿があり,背後には高い塔や木々を伴 った夕映えのエルサレムの町の光景が広がっている.いずれにしても,ここに例としてあげたレンブラント以前のふたつの作 品は,聖書におけるダビデを中心とした記述に則って,ダビデがバテシバ を垣間見て呼び寄せようとする場面を,文字通り忠実に再現している.こ れに対して,1654 年に描かれたレンブラントの『水浴するバテシバ』は 構図の上でも,明らかに大きな違いがある.そのひとつは,レンブラント
〔図版2〕
の画面においては,描かれているのはバテシバと老いた侍女のみであり,
ダビデを暗示するものはバテシバが手にしている手紙だけであるという点 である.また,空間のうえでも,内と外を明示する窓や町の遠景が書き込 まれている先のふたつの作品に比べて,レンブラントの『バテシバ』では 暗い室内のみが描かれている.それでは以下に,シクスーのエクリチュー ルがどのようにしてこの絵を見つめ,『水浴するバテシバ』〔図版3〕の中に 降りてゆくのかを考察してみよう.
Ⅱ.
レンブラントによる『バテシバ』と書き換えられた聖書
1)“
内側から”
描かれたバテシバシクスーのテクストの冒頭は,以下のようにして始まる.
この裸の女性は,いわゆる裸体画ではありません.この女性は,裸 である姿を眺められるようには作られておらず,また描かれてもいま せん.それはまさしく彼女,バテシバなのです.見られてしまった女 性.見られてはいけないはずでありながら,垣間見られてしまった女 性.遠くから….私たちが見ているこの女性は生きている人間ではあ りません.そしてまた欲望の対象でもなく,殺害の対象でもありませ ん.それは真実のバテシバなのです.裸にされたのではない,裸体.
むき出しにされたのではなく,服を剥がされたのでもない,それ自体 としての裸体.完全なバテシバ.男性なしの….この女性を見ながら,
“
ダビデとバテシバ”
を思い浮かべることもできるかもしれません.(バテシバの名前はダビデを呼び起こします.けれどもここでは,こ の女性はそうではありません.)これはバテシバなのです.ダビデか ら残されたものがあるとすれば,それは,このはっきりとはしない暗 がりでしょう.この種の黒さ….もしも,この絵の中に一組のカップ ル,対のものがあるとすれば,それは実際のところ,光と闇でしょう.
私は
“
男性なしに”
と言いました.“
目に見える”
男性なしにという意 味で.内側に男性がいないということです.彼女自身の内面において も….飾り気もなく,頑な様子もなく.この女性は身を起こしてはい ません.7)先に見たダビデとバテシバを描いたふたつの作品の例で,画面に小さく 書き込まれていたダビデの存在は,聖書の記述においては,神との関係を
〔図版3〕
介してその中心を成している.記述の次元では,バテシバについての言及 のほうが,むしろはるかに副次的なものであることは一目瞭然である.
“
バテシバ”
あるいは“
バト・シェバ”
という名前は,聖書においては,王 であるダビデが垣間見た女性の名前なのであり,のちに王となるソロモン の母の名前である.ところが,この聖書におけるダビデとバテシバの物語 に,長い間興味をもっていたと言われるレンブラントが,最終的に決定し た構図においては,ダビデの姿は画面の上から完全に消えている.シクス ーはここに,記述の上では,通りすがりのように言及されていたバテシバ に関わる言説が,レンブラントの絵画においては,副次的ではない,それ 自身の存在領域を持つものとして作り直されていることに着眼する.そし て,このことに呼応するように書かれたエクリチュールの最初の文章は,« Cette nue n’est pas un nu. Elle n’est pas faite – pas peinte –pour être vue nue. Justement elle – Bethsabée. »
であり,これはミレーユ・カル・グリュベールも指摘しているように8) ,シクスーによる女性形からの聖書 の物語の書き換えとしてとらえられるものである.音のうえでは同じであ る男性形の
“nu”
と女性形の“nue”
という二語を,名詞と形容詞という品 詞のレヴェルにおいても二重に使いながら,無音の“e”
という一文字によ って発生するふたつの性差の場を,エクリチュールは切り開いている.ダ ビデによって見られたバテシバではない,バテシバ自体を描くためには,おそらく画面上から,まずはダビデが消されなければならなかった.それ ほどまでに,性差をめぐる紋切り型の物語は根強く無意識の領域にまでも 浸透し,絵画における裸体画というジャンルを支えてきたのではないか.
これはなにも,裸体画を好んで鑑賞する男性たちにばかりあてはまること ではなく,裸体画のモデルと自分を同一視する側にある女性たちの無意識 をも規定しているものである.文中においても,この
“
内側にいる男性”
とは,ダビデのことばかりではなく,多くの場合,
“
他者のまなざし”
とし て女性たちの中に生きており,鏡のような自己検閲の役目を果たしている ことが指摘されている.(…)裸である時にはいつも,私は自分を見ることはありません.
私は他者の側から自分に,すなわちあなたである私として,自分に視 線を投げるのです.(…)9)
こうした裸体の女性たちがしばしば担っている,視線の対象であり,ま
た欲望の対象である女性というあり方に対して,レンブラントのバテシバ は全く様相を異にしている.シクスーが女性形で書き換えているこのバテ シバには,
“
外側”
がないのだ.レンブラントの絵の中にないもの.それは,ダ・ヴィンチの絵の中 にあるものです.微笑みはなく,とらえる視線やもれてくる微笑みが 欠けているのです.微笑みがないのです.言うなれば,外側がありま せん.見つめられるがままになる顔がないのです.自分が見つめられ ていることを知っている顔が….正面がありません.表面もありま せん.見るべき場面もありません.すべては,内側にあるのです.体 面を保つためのものがないのです.バテシバの受動性.たわみ.差し 迫った様子.暗くなってゆく心に我を忘れて….レンブラントは私た ちをどこに連れてゆくのでしょう.よその国,私たちの見知らぬ国へ.
よその国,それは私たちのもうひとつの国なのです.彼は私たちを心 (
Cœur
) という国へと連れてゆくのです.レンブラント自身の国でし ょうか.町でもなく,田舎でもなく.それは心の中の国なのです.言 い換えれば,“
心の内側の聖書の風景”
.(…)10)確かに,同じくルーヴル美術館に所蔵されているレオナルド・ダ・ヴィ ンチ
(Léonard de Vinci
, 1452-
1519)
の代表作『モナ・リザ』(Mona Lisa ou La Joconde
,vers
1503/
06)
では,描かれている女性は絵を見ている私 たちに向けて,言い換えれば絵の外側に向けて, うっすらと微笑を放って いる.先に挙げたヤン・マシスによるバテシバは,使いの者とにこやかに 話をしている場面として描かれている.メムリングによるバテシバにおい ては,その視線の方向は正面をはずれているとはいえ,肌着に覆われかけ た体の白く滑らかな表面は,圧倒的に見るものの視線をとらえる.これら の“
バテシバ”
に対して,レンブラントによるバテシバは,明らかな舞台 装置を持たず,自分が見られていることすら知らないかのように,物思い にふけっているように見える.この場所は,いったいどこなのか.シクス ーは続ける.(…)それでは内側の聖書の世界に行くためには,どうすればよい のでしょう.階段をつかみ,肉体の奥深くにまで進まなければなりま せん.最も遠い記憶に至るまで….ここは暗い場所です.私たちは低
いところにいます.私たちがいるのはそこなのです.奥底に.じかに.
何と言う外部のなさでしょう.その国は,ぴくぴく動く襞のついた部 屋なのです.私が感じるものはこの暗闇です.それは私たちの秘密が もたらす怪しげな気配です.私たちを支配しながら,私たち自身はよ くは知らない秘密.バテシバである私たちは,その秘密の中にいます.
秘密が私たちをとりまいているのです.バテシバは光を放つ心のよう に,私たちの部屋に,私たちの胸の中に,腰をおろしています.彼女 は光を内に含んでいますが,その光を外に発散してはいません.身体.
それは,光でできたパンです.(…)11)
エクリチュールは,レンブラントによって描かれた
“
バテシバ”
の内側 へと降りている.一見したところ外部を暗示するものが何もない,闇に包 まれた世界.それは,通常は表にでることはない“
内側”
の私的な世界で あり,また意識にはのぼらない様々な“
秘密”
が支配する場所である.聖 書の“
言説”
の次元では,決してふれられていない領域である,バテシバ の心という“
内側”
の世界.ここでは,“
部屋”
という内側の世界はそのま ま裸の女性の“
身体”
であり,彼女の心の内側でもあるのだ.そこに辿り つくためには,隠喩や換喩に導かれながら,闇のなかの光として描かれて いるバテシバの心と身体へ,絵を見るもの自身が降りて行かなくてはなら ない.この“
光”
そのものは,どこから来ているのか.光の源は画面の中には描かれてはいません.光は残っています.こ の秘密の輝きは,肉体から発せられているのです.私たちはいったい どのような秘密の光でできているのでしょうか.どのような厚みで….
レンブラントが私たちに取り戻させるもの,それは生地であり,深さ であり,手触りなのです.平たく,厚みを持たず,スクリーンの上の 影絵のように生きている私たちが,見失い,また失ってしまったもの,
それはこの内側からの光の放射なのです.12)
外部に向けられているのではない,そして視線に対しての
“
表面”
では ない,それ自体としての“
内側からの”
光.しかし,絵画というものが,見られることを前提として作られているものである以上,絵を見るものの 執拗な視線は,バテシバを垣間見たダビデの視線と同じものではないのか.
内側からの光をとらえるために必要なこと.それはまず「地下であると同
時に,洞窟あるいは森の中」というレンブラントの世界に固有な,私たち の
“
下にある世界”
13) に移動することなのだ.この「夜と金色の布で満ちた」世界で,バテシバの身体の
“
内側”
から光は生まれてくるのであるが,私 的という意味での“
内側”
の親密な世界をあえて描くのに際して,シクス ーはレンブラントが別の絵の中で描いた“
カーテン”
という仕切りを思い 起こす.“
カーテン”
は明るい瞳を発見する瞼のように,持ち上げられました.するとそこに現れるバテシバの光り輝く身体.私はこの
“
カーテンが 引かれているという感覚”
に注目します.あたかも私たちのナイーヴ さが,こんなふうに考えるかのように.これ,この肉体とという器に 盛られた光は,隠されているかあるいは予め守られてしか存在しない と.それは親密さなのです.私たちは慎みのなさによらない限りは,決してそれを見ることはできないのです.驚くべきあの『カーテンの 掛けられた聖家族』
(Sainte Famille au rideau
, 1646)
〔図版4〕をもう 一度見てみましょう.問題はこの絵の持つ不可思議な力です.言い換 えればそれは,いったいどのようにして私たちに親密さに対しての親〔図版4〕
密さ,いわば親密さの性質そのもの..........
を感じさせるのかということなの です.こうしたことは,カーテンの背後に隠されているものを私たち に見せてくれるのです.それは,揺りかごの中の子供を見つめるのと 同じ動作なのです.(…)肝心なことは,隠れているものを明かすと いう慎み深い感覚なのです.私たちが目にするのは,動作の鈍さと動 揺の入り混じった様子です.まさしく
“
直後”
の瞬間….でもまだな のです.それにはまだ名前がありません.14)引用した原文の訳のなかで,
“
親密さの性質そのもの..........”
とした語は本文中では
“intimitude”
となっており,ゴシックの書体で強調されている造語である.外部からは独立して営まれている,親密で私的な空間に
“
カーテ ン”
を導き入れることでレンブラントは,ヴォルフガング・ケンプが指摘 しているように,《境界を示し,観者がその外にあることを明確に規定す る》働きと《同時にそれは,観者に門戸を開いて,観者の参加をうながし もする》仲介者を作り出すことに成功している.15) エクリチュールのほう は,視線が常に脅かしてしまう危険を孕んでいる,プライベートな場面で ある“
水浴画”
のバテシバに対して,見るものが注意深く引受けるべき位 置を先の造語によって示しているのである.2)
“
考えパ ン セ”
の肖像画と“
背後から見られた手紙”
を描くこと次に
“
内側”
として描かれている要素は,この裸体の女性の視線そのも のの所在である.彼女は,私たちのほうを向いていない.バテシバは人間の姿をしています.部屋着の様子で.肉体を備えて.
身体(からだ)が顔なのです.彼女は私たちを見てはいません.彼女 は私たちを見つめない女性たちの側に属しています.私はこう言いた いのです.これらの女性たち,バテシバ,マリア,ヘンドリキェたち は私たちのほうを見ておらず,でもそれでいて私たちを見つめるため に生き続けている(言い換えれば,夢想し,遠ざかることをやめない)
のです.彼女たちはゆっくりと遠ざかり,立ち去ります.ある考え
(パンセ)が彼女たちを,遠くにある,見知らぬもののほうに,誘う のです.私たちは―かろうじて―遠くから,ある考えが呼ぶのを聞く のです.そして私たちは,彼女たちを見ながら,考え(パンセ)が立 ち去るのを目にするのです.私たちは,考え(パンセ)を見ているの
です.それは,レンブラントによって描かれた
“
考え(パンセ)”
の 肖像画なのです.考え(パンセ)は,座り込んだ重々しい考える人で はありません.それは通過してゆくものなのです.内側をぼんやりと 旅するように.それは,よそにいる女性なのです.彼は,よそにいる 女性,自分の中の,そしてあなたがたの内の未知なるものを絵にして いるのです.一通の手紙のもたらす衝撃のもとで,私たちが突然,私 たち自身の中で見知らぬ男性や女性になる時….私たちは自分自身で,自らを離れるのです.16)
手紙によって引き起こされた,バテシバの物思いに耽る様子を通して,
レンブラントは我を忘れて考えを巡らすという,いわば
“
出発点”
を描い ているのだとシクスーは指摘する.“
考え(pensée)”
とロダンを暗示する“
考える人” (penseur)
を対置しながら,“
考え”
自体は決して固定されたも のではなく,動いてゆく雲のように移動してゆくものとしてとらえられて いるが,先に挙げた女性形の“nue”
には,同音異義の女性名詞として,“
雲”
あるいは“
天空”
の意味もある.このように,
“
考え”
あるいは“
思念”
をめぐらせている女性が,裸体と して描かれている奇妙さは一体何なのか.“
考え”
のうえでは心ここに在ら ずのこの女性の身体(からだ)は,置き去りにされているのではないか.ここでは,より身体(からだ)であればあるほど,より肉体であれ ばあるほど,より重みを持てば持つほど,彼女―バテシバはよそにい るのです.顔には旅を感じさせるものがあります.ある大きな沈黙が この絵を支配しています.あなたは何を考えているの? 私たちは自問 します.一人の裸の考え込んでいる女性.
“
考え込んでいる身体(か らだ)”
.一方で,この“
考え込んでいる”
という状態は,裸体を強調 しています.あらわになった裸体.考えられたのではない裸体.(…)いいえ,バテシバは彼女の身体(からだ)を見てはいません.彼女は 自分自身の前にはいないのです.彼女はここにはいません.(…)彼
(画家)は,考え込むということ.........
(pensivité)
を描いているのです.身 体(からだ)におけるこの不在.こんなふうに魂が立ち去り,まるで 生きている者の墓のように,身体(からだ)を空っぽのまま残してい るのです.私たちは考えます.そして,そうすることによって,出発 するのです.17)先にも引用したミレーユ・カル・グリュベールが,このシクスーのエク リチュールを
“écrire-peindre-penser”
のひとつの例であると位置づけて いるが18) ,上に引用した一節はまさしくエクリチュール自身が絵画を辿っ て思いをめぐらし,絵を見ている時間に,そして書かれている時間にもぐ り込んでいる.“
考える”
ということが,ここに書かれているように,本当 に見知らぬ領域に出て行くことであるのならば,そこには時間のなかに生 じるひずみや亀裂,そして分岐が当然侵入してくるだろう.絵画を見る時 間を書くということは,そうした時間に忠実になるということではない か.エクリチュールはさらに続く.レンブラントの『バテシバ』において,
見落とすことができないもの.それは,ダビデという人物は画面から消え,
闇にまぎれてバテシバの足を拭っている一人の老いた侍女が描かれている ことである.ふたりの女性.彼女たちの視線は,互いを見てはいない.
“
侍女”
はぼんやりとバテシバの足を拭いています.彼女はよそにい ます.彼女たちはよそにいるのです.魂では,彼女たちは他の場所に いるのです.身体(からだ)は置き去りにされ,より重みを増します.“
侍女”
は何を考えているのでしょう.このふたりの女性はその年の終 わりを思い浮かべているのです.その年の終わりには,一筋の道が失 われることでしょう.その年の終わりには….読みとれない何かが私 の目をとらえます.だいぶ時間が経ってから,おそらくはこれなのだ と私は心に思います.言うなればそれは,頭から足まで滑り込んでく る,あるものなのです.ほとんど動きのない,ある動き,変形.今や 私はそれを見ます.それは時間なのです.しかもそれは時間の描き出 すもの(エクリチュール),年齢なのです.若々しい頭部から,知覚 できないほど少しずつ,身体(からだ)は老いているのです.何と言 うことでしょう!私の胸を締めつけていたものは,これだったのです.この若い女性は,老いてゆくただなかにいるのです.未来は,彼女の 手足のあちこちに,少しずつ現れています.胸はまだ子供のようです が,すでに骨盤や腿,足は年齢が引き起こす仕業にとらえられていま す.何ですって?そんなことを言ってはいけない…? けれども,レン ブラントが絵にしているには,まさしくそれなのです.言い換えれば,
バテシバの受難(あるいは苦悩)は,そこに,身体(からだ)の中の
両膝の間に始まっているのです.そこに浮かんでいる…手紙.手紙の...
暴力..
.初め,私はそれを見てはいませんでした.手紙.次第に手紙が 視線をとらえます.初め,私は身体(からだ)を見ていました.この 身体(からだ)はそれ自身のうちに崩れるがままになります.19)
冒頭に挙げた聖書の記述のなかで,ダビデとバテシバの言及があるサム エル記下の 11 節の始まりには,新しい年とあり,この後一連の出来事が 起こり,ウリヤの死後に喪の期間があったことが記されていた.光る裸体 のバテシバと,半ば闇に沈みながら,かぶりものの上に帽子をかぶり,座 ったバテシバよりもさらに低い所にいるこの老女は,画面の上ではふたつ の部分に分かれてはいるが,共に物思いに耽ることによって,沈黙の世界 を作っている.アンリ・フォシヨン
(Henri Focillon
, 1881-
1943)
は,自 らのレンブラント論のなかで,《閉ざされた寝室で働くこの老いた召し使 いは,バテシバと年齢がちがうが,しかし,同じように生きた女の姿なの だ》と書いている.20)《生きた実質で満たされている》かに見える,このふたりの女性を沈黙 に陥れているもの.エクリチュールの目は次第に,それに近づいている.
近づいて行く足どり.徐々に現れてくるもの.絵を見ている時間そのも のが書かれる.まず,見出されるものは,
“
時間”
,そしてさらにはバテシ バのなかで進行している“
年齢“
というかたちでの時間.この絵をいわゆ る“
裸体画”
にはしていないものがとらえられる.画面のうえに現れてく る,レンブラントによって描かれたもののみに忠実に,エクリチュールは 進行する.次いで,その身体における刻々とした風化の引き金となってい るものが,突如として出現する.それは画面をふたつの三角形に分けてい る「金色の闇と肉体の光」の間にある“
衝撃”
として描かれている“
手紙”
(lettre)
である.先に,聖書の記述においては,バテシバを呼び寄せようとしているダビデは,姿形のうえではこの画面上にはいないことを確認し た.エクリチュールは,レンブラントがバテシバに持たせている
“
手紙”
を,バテシバの受難
(passion)
の発端として,そして暴力(Violence)
とし てとらえているのだ.この“
手紙“
に遭遇してゆく過程には,奇妙な迂回 が含まれている.エクリチュール自身が,自ら見てきたものを遡っている のだ.まず目に留ったものはバテシバの“
身体”
だった.ところが,“
手 紙”
を見たとたんに絵をみる視線は“
身体”
を見なくなるように作られて いることに気づいてゆく.崩れそうになっているバテシバを見ながら.ある無気力が,彼女をとらえてしまったのです.落胆? それともあ きらめ? どんなふうに,彼女は手紙を持っているのでしょうか.疲れ きった様子で….彼女はその気になれば,手紙を手から落ちるがまま にすることもできるかもしれません.それゆえに,一通の手紙がある のです.常に,一通の手紙があるのです.手紙,何という暴力! なぜ なら,それは私たちを探し,私たちを狙っているからです.私たち,
とりわけ女性たちをです.そして,それはより多くの場合,私たちに 喜びよりも,死ぬほどの苦痛をもたらすのです.私はなぜそれを見て いなかったのか,自分でもわかりません.あなたは…? バターのよう な光に満ちた大きな身体のとなりに置かれた,一通の手紙とはいった い何なのでしょう.これらの柔らかな肌着の横にある,一枚の紙きれ とは…? 突然,私は手紙に襲われます.すると,それしか目に入らな いのです.この手紙!いいえ,それは絵の中の身体にあいた,ひとつ の穴であり,夜のなかの裂け目,きずなのです.もし私が手紙を見る ならば,私はもうバテシバを見ないのです.そして今や,私の目は手 紙に釘付けになり,私はこれ,この手紙こそがバテシバの左足の上に,
そこに見える影を流し込んでいるのを見るのです.この手紙は,ヴェ ールにも,肌着類にも,そして読むことにも対立しています.それは,
裏返しになっている手紙なのです.それは,私たちに背をむけていま す.私たちがそれは読みたいと思ったとしても,永遠に禁じられてい るのです.背後から見られている,一通の手紙を絵にするというこ と! …扉は閉じられているのです.それはダビデなのだと,古い物語 が私にささやきます.ダビデは
“
外”
なのです.外.命じている人物 は目には見えません.“
ダビデとバテシバ”
,そうなのです.言い換え ればそれは,文字通りの,手紙を持つバテシバなのです.手紙は絵全 体のなかに反響しています.21)最初は,ダビデから見られたのではないバテシバを描いたのだと思われ ていた,このレンブラントの
“
バテシバ”
が手にしている,隅に赤い染み のある白い手紙.それは,それ自体として内側から輝いているバテシバの 身体に影を流し込むものであり,裂け目としてあるいはきずとして存在し ている.見られるための“
裸体画”
ではないこのバテシバを,あえて“
背 後から見られた手紙”
とともにレンブラントが描いたのはなぜか.赤に目を留めながら,シクスーはこの絵が
“
悲しみの肖像”
であり“
喪の予感”
で あることに辿りつく.そして,バテシバが,画面上には見えないダビデだ けではなく,絵を見る私たち自身の執拗な視線のもとで,悲しんでいるこ とに思い至るのだ.いかなるレアリズムもありません.彼が絵に描いているのは,バテ シバの見かけの下に隠されたひとりの女性なのです.彼は過ぎゆく正 確な瞬間を絵にしているのです.永遠の入り口である瞬間を.永遠は 瞬間のうちにあるのです.レンブラントには,本当にいかなるレアリ ズムもありません.彼が絵にしているもの,それはどれほどまでに魂
(âme)
,それも肉体と光でできた生身の魂であることでしょう.(…)両腿をぎゅっと引き締めさせているもの,それは魂なのです.彼は一 通の手紙によって打ちのめされ,茫然としたひとりの女性を絵にして いるのです.彼が,そして私たちがバテシバと呼ぶ女性を.彼はバテ シバの皺くちゃになった心を絵にしているのです.22)
書かれた聖書の記述においては,決して言及されてはいなかったバテシ バというひとりの女性の心の
“
内側”
.そこに降りて行くために,レンブラ ントは“
背後から見られた手紙”
を絵の中に描いた.文字でもある“lettre”
を裏側から描いた.......
のだ.シクスーは,こうしたレンブラントは
“
秘密”
を 絵にしているのだと言う.言うなればそれは,私たちを逃れてゆくものの痕跡なのです.彼は 常に,私たちを逃れて行くものを絵にします.起きたばかりのこと,
起こるであろうこと,そして突如として私たちを横切り,私たちを貫 き,私たちを引っくり返して,絵画の彼方に,また思念の彼方に逃げ 去るものを….(…)絵画とは通過の場なのです.23)
ここで,レンブラントについて書かれたヴァン・ゴッホの手紙が引用さ れ,「測り知れない深さによる,何と気高い感情!…こんなふうに絵を描 くためには,何度も死んでいる必要があるだろう.」という,
“
死者の仕 事”
と呼びうる次元が示される.死者の仕事,それは容易なことではありません.それはいったい何
を意味しているのでしょう.例えば次のようなことなのです.レンブ ラントがバテシバを描くのは,情欲をかきたてることによってではあ りません.それは,神の被造物である人間に対する,そして存在する という奇蹟に対する,注意深い愛によってなのです.深く,けれども 決して華々しくはない喜びに満たされた,この
“
人間”
という作り出 されたものを前にしての,ほとんど敬虔とも言える驚嘆なのです.豪 華なものなどありません.並外れたものなどないのです.ありふれた もののつつましい輝きがあるのです.すばらしいもの,それはありふ れたものの変換(メタモルフォーズ)なのです.これらの人物たちは,変質してゆくことや時間から逃れることはできません.時がはたらい ているのです.そして時だけではありません.絶えず,内側から私た ちを作っているすべてのものがあるのです.24)
以上に見てきたように,レンブラントの『水浴するバテシバ』をめぐる エクリチュールの試みは,まずは「裸体画」である男性形の
“nu”
を,バ テシバと私たちが呼ぶ「ひとりのあるがままの裸体の女性」“nue”
に書き 換えることから始まった.ここで,男性形の“nu”
を女性形にするために 加えられているものは,言語のレヴェルでは通常,“
無音のe” (e muet)
と 呼ばれている“
ひとつの文字” (une lettre)
である.このひとつの文字によ って切り開かれた,バテシバという聖書に登場している女性の“
内側を”
エクリチュールは絵画に導かれて辿ってきた.実はフランス語で書かれた このテクストをを音と文字のレヴェルから見てゆくと,先に引用した
“
裏 返しになっている手紙”
が出現する場面で,音声としては決して現れるこ とはない同じく“
無音”
にもなり得る別の文字が,非常に奇妙な形で出現 しているのだ.それは,文字としては“
無音” (muet)
にもなりまた“
有音”
にもなり得る
“h”
という文字である.絵を見る私たちには読むことが禁じられていると言われている,
“
背後 から見られている一通の手紙”
をレンブラントが絵にしていることに気づ いた瞬間に出現する,“
閉ざされた扉”
という隠喩(メタファー)の部分を 原文で引用してみる.Cette lettre s’oppose
.Au voile
.Au linge
.A la lecture
.C’est une
lettre de dos
.Elle nous tourne le dos
.Quand j’ai voulu la lire: à
jamais interdite
.Peindre une lettre vue de dos! La Porte est fermée
.C’est David
,me souffle un vieux récit
.David est l’hors
.Le hors
.L’ordonnateur
.Invisible
.“ David et Bethsabée ”
,c’est ça: c’est Bethsabée à la lettre … La lettre retentit dans tout le tableau
.明らかにここでは
“lettre”
という語は絵の中に響き渡っている.けれど もエクリチュールの音素のレヴェルでは,この一節に埋め込まれているものは
“or”
であろう.絵画というものが,色彩によって描かれるものであるとすれば,色彩を持たないエクリチュールは,何によって
“
秘密”
を書 くのか.おそらくは音と文字によってなのだ.この部分を読もうとするも のは,奇妙な幽霊に出会う.意味のうえでは,このエクリチュールの冒頭 では見えていなかったはずのダビデの属詞(attribut)
である“hors”
とい う語はここで一体どのようにして,出現しているのか.本来は,この“hors”
という語は「〜の外に」という意味をあらわす前置詞であって,名詞ではない.それがここでは,おそらくは故意に名詞として用いられてお り,そのうえ,この語が先に述べた無音/有音の両方の可能性を持つ
“h”
という,口頭では決して発音されない、音の上では姿を現さない性質を持 つ文字であることを利用して,通常では読むことのできない文章が作られ ているのだ.エクリチュールが,金と金色を表す
“or”
を使って“
見えない ダビデ”
を描いているのだ.それもレンブラントが画面の中心に描き込ん だ,あの白い“
一通の手紙”
と同じ単語である,“
文字”
というひとつの“lettre”
を使って….もう少し細かく見てみよう.拡大鏡をとりだすようにして,ここにあるふたつの
“hors”
を見てみると,最初のほうの“hors”
は無音の
“h”
であるために,“h”
の文字は字としては完全に消えて,音の うえでは,「その時」という意味を表す“lors”
あるいは“l’or”
と同じ状態 になる.ところが,次の“Le hors”
はつづりの状態から有音であることが わかり,音の次元ではこちらのほうに「金」を表す“or”
の音が聞こえて くるが,文字の上では,“l’hors”
が“Le hors”
に変換されることで,“h”
という文字は
“le”
と“hors”
を切り離し,それはあたかも扉がばたんと閉 められたかのように,音には表われないまま“
壁”
として出現しているの である.また男性単数形の定冠詞としての“le”
の側からみれば,初めのも のはエリジオンをおこして,音自体は希薄になるが,“or”
と一体化してい るようにも見える.ただし,ここでの“hors”
はあくまでも“h”
のついた“
外で”
という“hors”
としての“or”
であって,本当の“or”
という言葉と 音は,布や肌着や「埋め込まれた金(ors)
や白っぽい金色などが,肉体の黄色みがかった金色
(l’or blond)
と隣り合って、長調や短調の調べを奏で ているのです」25) と語られているように,ダビデという“
命じている人物” (L’ordonnateur)
の側ではない,バテシバの輝く身体(corps)
を語ってい る部分に多く使われているのである.このように,レンブラントの絵画をめぐりながら,そこで
“
起きたばか りのこと”
をみずから作り直す“
エクリチュール”
という場も,それ自身 が言っているように,“
秘密”
を描きうる場であり,“
移行”
あるいは“
通 過”
の場なのではないだろうか.そしてそれはまた,絵画がパラドックス にも見える“
見えない手紙”
を描いたように,本来は“
読めない”
ふたつの“hors”
のような要素や同音異義の“or”
/“hors”
を入れ換えることによっ て,ささやかな一つの文字さえも,錬金術のように“
変換“
(メタモルフ ォーズ)させ得る場であることを示しているのではないだろうか.そんなことをレンブラントの
“
手”
とシクスーの“
手”
という,このふた つの手の邂逅は,私たちに見せてくれているようだ.“
時間”
というものの“
内側”
をめぐりながら….註
1) 本文中,引用において用いられている略号は,以下のとおりである
B. = Bethsabée ou la Bible intérieure(F. M. R.No. 43,avril 1993 pp.14-18) 2) 英語版(F. M. R.No. 61,april 1993) では,Catherine. F. MacGillivray に
より英訳されている.cf. 《Bathsheba or the Inner Bible》
3)『聖書』(新共同訳),日本聖書協会,1988 サムエル記下,11-1〜5,p.572 4) Ibid. p.574
5) Ibid. pp.574-575 6) Ibid. p.576 7) B. p.14
8) Mireille Calle-Gruber :《ou Ce qui ne renonce jamais》p.274 in《Hélène Cixous, Croisées d’une œuvre》pp.265-283,Galilée,2000
9) B. p.17 10) Ibid. p.14 11) Ibid.
12) Ibid. p.14,p.16 13) Ibid. p.16 14) Ibid.
15) Von Wolfgang Kemp :《Rembrandt ; Die Heilige Familie》〔邦訳:ヴォルガ ング・ケンプ『レンブラント《聖家族》』加藤哲弘・訳,三元社1992〕p.113 16) B. p.16
17) Ibid. pp.16-17
18) Cf.Mireille Calle-Gruber :《ou Ce qui ne renonce jamais》p.272 19) B. p.17
20) Henri Focillon :《Rembrandt》(Paris,Plon,1936)〔邦訳:アンリ・フォシ ヨン『レンブラント』原章二・訳,彩流社 2002 p.44 〕
21) B. pp.17-18 22) Ibid. p.18 23) Ibid.
24) Ibid.
25) Ibid. p.16
図版
〔図版1〕ハンス・メムリング『バテシバの様子をうかがうダビデ王』
(
1485-
1490)
シュツットガルト州立美術収集〔図版2〕ヤン・マシス『ダビデとバテシバ』
(
1562)
パリ,ルーヴル美術館〔図版3〕レンブラント『水浴するバテシバ』
(
1654)
パリ,ルーヴル美術館〔図版4〕レンブラント『 カーテンの掛けられた聖家族』