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ハイエク社会理論体系の研究三

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(1)

       

ハイエク社会理論体系の研究三

      ︵

−正義︑政治および経済政策1

古 賀 勝 次 郎

  目   次

は じ め に

日 ハイエクの正義論

 ω 正義の概念

 ㈲ 消極的概念としての正義

 ㈹ 社会的︵配分的︶正義の幻想

目 正義と政治の問題

 ω 社会と国家

 ㈲ 正義と政治的権利

 ㈹ 社会的正義と現代民主主義

日 自由社会における経済政策

 ω原則と便宜

 ⑳ 配分的正義と市場

 ㈹ ﹁法の支配﹂の下での経済政策

む す び

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(2)

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は じ め に

 今日の西欧先進諸国に見られるさまざまな問題の中で︑ハイエクが自由社会をその根底から掘り崩そうとしている       ︵1︶最も重要な問題と考えているのは︑現代の民主主義の内容および制度に関わるものである︒ハイエクは︑現行の議会       ︵2︶民主制度を﹁取り引ぎ民主主義﹂︵冨お巴巳主位①巳︒︒鑓畠︶に過ぎないと批判している︒経済活動の主体が古典的な

企業家から︑集団ないし組織体へと移り︑それに伴い︑経済領域への政治の介入が増大して来た結果︑民主主義の内容

も変らざるをえなかった︒現実の議会民主制度は︑何らかの利益集団︑あるいは特定の組織に依存することなくして︑

その政策決定が出来なくなっている︒このことは︑現行の議会民主制度が︑組織された利益集団の専横を放置してい

ることであるが︑しかし他方それは︑立法権万能︑従って無制限の権力をもつ政府一その実体は︑官僚の支配する

行政国家であるが一を導くことになった︒まさにそれは︑J・L・タルモソの言う﹁全体主義的民主主義﹂︵8富−

毎母冨5鐸①ヨ︒︒箪︒団︶であり︑またE・ハイマソの表現を用いるならば﹁人民独裁制﹂︵且Φ三ω︒冨q儀g讐︒目ω三口︶

へ・早晩向わざるをえないであろ捻.とハイエクは畠主義擁護の立場から・現行の議会民主制度推惧の念を隠そ

うとしない︒

 では︑このように恐らく例外なく︑先進各国の民主制度を全体主義へと向わしめていったのは何であったろうか︒

ハイエクはこれに対して︑全くの幻想でしかない﹁社会的正義﹂︵ωo︒一三冒ωユ8︶という概念が︑現実の政治や経済

政策の領域において︑主導的な理念として罷ヴ通っているからである︑と考える︒ハイエクは︑社会的正義なる概念

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ハイェク社会理論体系の研究(三)

が︑今日の社会に支配的となった原因を︑特定の利害を超えた正義に対する信頼をわれわれが失ったからであると

︹4︶し︑次いでこのような結果を導いた誤った思想を批判する︒言う迄もなく︑ハイエクの正義論も︑J・ロック︑A・

スミス︑D・ヒュームなど古典的自由主義者たちのそれと基本的には同じである︒だがそこには自らハイエク独自の

見解が加えられており︑またその巧みな議論の進め方︑更に︑それを現実の問題へ厳格に適用することによって︑彼

の正義論は愈々鋭さを増しているように思える︒それはハイエクの思想的立場をより明確にしたということであっ

て︑例えばそれ迄︑極めて慎重な態度を持していたキリスト教に対しても︑社会科学の観点から批判している︒以

下︑現行の議会民主制度を全体主義へと導いていった社会思想︑そしてそれから脱け出し︑真に自由な社会を建設す       ︵5︶るにはいかにすればよいかを︑ハイエクの正義に関する議論を中心に述べてみたい︒

  注

 ︵1︶ ハイエクは﹃隷従への道﹄︵目び①肉8α酔︒ω①ほロ︒β一㊤軽軽.︶において社会主義を︑﹃自由の基本原理﹄︵↓びΦ08ω葺⊆島︒口

   oh=び①二ざぢ①9︶では︑福祉国家をそれぞれ批判の対象としたが︑最後の大著﹃法︑立法︑自由﹄︵目凶ぎHΦσq一ω三二8

   き自いま①詳ざく︒一﹃お刈ω矯くor㌍HO刈9<o門ρ日O刈P︶においては︑無制約的民主主義が今日の自由社会をその土台から

   脅かすものとして批判されている︒ハイエクの社会理論体系は︑このように現実の問題との対決の中から形成されていった

   とも言ってよく︑また社会情勢の変化に応じて批判の対象も変わったのだが︑その度ごとに︑彼の理論には彫琢が加えられ︑

   内容も一段と深さを増して来たと言える︒

 ︵2︶ =醸①r男︾二い鋤きピ①σq一ω一ε︒菖︒口きα=9﹃蔓−<oピρP8■ ︵3︶害51弓ト

 ︵4︶口塁Φぎ男︾こい︒︒牽冨αq互警8p巳=び①﹃ヨ<︒二響戸戸︒.

 ︵5︶ ここではこの論稿の内容から原則的なハイエクの考えだけを述べるに止めざるをえないが︑通貨制度や現行の議会民主制

   度に対するハイエクの改革案については既に別の機会に論じたので差し当たりそれらを参照して書きたい︒ ﹁ハイエクの

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﹃貨幣の非国有化﹄案﹂ ︵﹃世界経済﹄昭和五十二年四月号︶︑﹁F・A・ハイエク著﹃法︑立法︑自由﹄﹂ ︵同︒昭和五十      30四年八月号︶など参照︒

e ハイエクの正義論

 正義論はギリシア以来︑多くの優れた哲学老や法律家たちによって色々と論じられて来たが︑ハイエクは︑特に

Oお象ωo息①畠︵A・スミス︶における正義の問題に視点を限って考察を進めている︒もちろんそれは︑近代以前の正       ︵1︶義論を無視したり︑あるいは否定するからではなく︑単に予想される誤解を避けるためであるが︑しかしかえってそ

れが︑ハイエクの正義の議論をスムーズに運び︑また彼の思想上の立場を一層明瞭なものとしていると言えよう︒

 ω 正義の概念

 ハイエクは﹁正義﹂︵甘ω菖oo︶を︑人間の行為の属性として︑﹁正しい行為に関する一般的規則﹂即ち880ωに関      ︵2︶わる概念として把握している︒そこで先ずハイエクは︑われわれがわれわれ自身の︑あるいは他人の行為を﹁正し

い﹂とか﹁正しくない﹂とか判断する能力が︑ ﹁抽象的なるものの優位性﹂︵誓①凛ぎ8矯oh島Φぎω#露︒蝕︶という       ︵3︶彼の命題に従って︑入漁行為を支配している高度に抽象的な規則に基づいていることを明らかにしている︒もちろん

われわれはその存在に気付かないかもしれないが︑コ言語感覚﹂︵ωbH凶Oげ㎞四①噛9げ一︶がいまだ言葉で表現されていない規

則に従う能力であるように︑ ﹁正義の感覚﹂︵閑Φ島けωαq①hO三︶はいまだ成文化されていない規則に従って行為する能      ︵4︶力のことである︒そして正義を見い出すとか発見するといった言い方は︑そのようにいまだ成文化されていない規則

を表現しようとする努力のことである︑とハイエクは述べている︒けれども実際の規則は︑それが言葉で表現されて

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ハイェク社会理論体系の研究(三)

も︑されなくとも︑ ﹁正しい﹂か﹁正しくない﹂かを認めるような境界線が見い出されることが要求されるであろ

う︒ハイエクによれば︑この要求を満たすものがロ︒巨︒のとしての﹁一般的規則﹂︑つまり法︵菊Φ︒三︶である︒

 ハイエクによれば︑人間の行為のみが﹁正しい﹂とか﹁正しくない﹂と言いうるのであって︑ ﹁正しい﹂︑﹁正しく       ︵5︶ない﹂という言葉を︑人間の行為︑あるいはそれを支配している規則を越えて適用することは誤りである︒ある特定

の結果が行為者の意志によって惹ぎ起こされた時︑また結果に対してその行為を許した者の責任が明確に認められる

場合のみ︑われわれは﹁正・不正﹂の判断をなすことができる︒それ故︑このような意味では︑それは多数の人々の

協調的行為︑また集団や組織の行為に対しても適用でぎることになる︒要は︑特定の結果が行為者の意志によったも

のか︑あるいは︑それが責任に当たる人のコントロールの下に︑明らかにあったと判断されることが必要なのであ

る︒従って︑特定の人や集団︑組織によってコントロールしえない状態は︑ ﹁善い﹂とか﹁悪い﹂とは言えても︑

﹁正しい﹂︑﹁正しくない﹂と言うことはできない︒もし人間のコントロールの下にないものに︑われわれが正・不正

を言いえないものであれば︑ある事柄を﹁正﹂たらしめようとする希望は︑少なくとも他人の行為に関する限り︑当

然ながら︑それを人間のコントロールに従属せしめようとする議論を正当化するものではない︒しかしまたある情況

においては︑ ﹁正しい﹂と認められるような状態をもたらすことが︑道徳上︑また法律上︑義務と見倣される場合が

考えられる︒このような場合︑そうした状態をもたらす義務を負っている人が自分の判断によってそうすることがで

ぎる︑またその人が用いる手段が正しい︑という前提があれば問題はない︒

 ところで︑イギリスの古典的自由主義者の中で︑ ﹁正義﹂に関し︑最も包括的に論じたD・ヒュームの一見逆説的

に思える正義論について考えてみよう︒ヒュームの正義論の最も重要な点を要約すれば次のようになろう︒即ち︑個

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(6)

々の正義の行為が﹁個人の利益﹂あるいは﹁公共の利益﹂︵〇二三8ぎ8﹃①ω一︶に対し害となっても︑全体においてはそ       ︵6︶れは︑ ﹁各人の福祉﹂と﹁社会の維持﹂に貢献し︑またそのために必要不可欠である︑これがヒュームの正義論の中

心問題であった︒ではヒュームはこのパラドックスをどのように解決したか︑ハイエクに従って述べるならば以下の

ようになる︒つまりヒュームは︑ ﹁一般的規則﹂が一般的秩序の維持に役立つ︑そしてこの一般的秩序は︑一般的規

則が特定の結果に拘らず︑あらゆる場合強化されるだろうと期待されている限り維持される︑このように解決した︒

それは︑般的規則が手段としてすべての人々に共通な︑しかも個人の特定の目的とは異った窮極の価値として取り

扱われた場合︑無数の個々の目的に役に立つことを意味している︒ハイエクによれば︑これが﹁目的は手段を正当化

しえない﹂という原則︑あるいはドイツ皇帝フェルディナント一世の言葉として伝えられる︽自讐甘巴ユ勲噂Φお9      ︵7︶ヨ環昌亀信ω︾という金言の意味するところである︒

 しかしなに故︑ 二般的規則﹂のみが正義の問題を生じせしめるのか︑いま少しく見てみよう︒

 ㈹ 消極的概念としての正義

 ハイエクは︑正義の概念が意味をもつのは︑人聞の行為に関わる規則としてのみであると考える︒それは︑Oお暮

ω09①¢のように極めて複雑な社会においては︑ある人間の行為の結果は︑他の無数に近い人々の諸行為の結果︑あ

るいは予測しえないさまざまな情況に依存しているからである︒即ち︑かかる社会では︑人間の行為はその結果では

なく︑人間行為に関わる規則によってしか判断することができない︒ではなぜ︑この場合の規則が二般的規則﹂な

のであろうか︒既に述べたところであるが︑それはO﹁o象ωoo帥①¢がある特定の目的に依存しないooωヨ︒のとして

の社会だからである︒

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ハイェク社会理論体系の研究(三)

 ハイエクによれぽ︑近代以前の社会から近代社会への発展過程で見られた法︵冨≦︶の展開は︑具体的目的への依存

性から離れることによって行われた︒つまり︑特定の目的に依存しないような規則のみが﹁一般化﹂あるいは﹁普遍       ︵8︶化﹂︵ひq①ロΦ鑓一一鎚二〇旨︒﹃二巳く①諺帥一一鎚鉱︒昌︶という歴史的検証に耐えることがでぎたのであって︑そうした長いプロ

セスを経て﹁一般的規則﹂は形成されて来た︒そしてこの一般的規則は︑その﹁内在的批判﹂︵一旨P巴PP口①冨什 O﹃一八一〇一ωヨ︶        ︵9︶を通して発展される︑とハイエクは言う︒つまり︑一般的規則のうち︑特定の規則を判断する場合︑既に他に認めら

れている多くの規則との斉合性と両立性の観点から判断していくということである︒これは各人の行為の結果が︑他

の人々の行為を支配しているさまざまな規則に依存していると考えられるところがら来ている︒何れにせよ︑以上の

ような理由からハイエクは︑正義を人間行為の属性として︑ ﹁一般的規則﹂に関わる概念としたのである︒ここにお

いてハイエクの正義の概念は︑一方で抽象的なものの優位性という命題から進められた思想と︑他方︑このような社      ︵10︶会科学的考察から導かれた理論とが重なり合う︒

 さて︑ ﹁一般的規則﹂が普遍妥当性︵=巳く震ω巴一躍三一一受︶という検証を通して発展せられるということは︑それが      ︵11︶ハイエクも述べているように︑ ﹁消極的﹂︵昌①ひq鋤酔凶くΦ︶な性格をもつものであるということである︒それ故︑ 一般的規

則と関わる﹁正義﹂も︑当然であるが︑消極的概念だと言える︒即ち正義の規則とは要するに︑禁止︵b同Oげ一σ一け一〇昌ω︶

の規則であって︑先ず不正︵一且二ωけ一8︶という概念を想定し︑不正な行為を禁ずることが正しい行為だとする︒ここ

で不正というのは︑一般的規則によって保護されるべぎ他人の領域を侵すことである︒従ってわれわれは︑何が他人

の保護されるべき領域かを知らなくてはならないが︑J・ロックが﹁生命︑自由︑財産﹂と定義して以来︑それが一

般的なものと考えられるようになった︒

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 ﹁正義﹂が消極的概念であるというのは︑古典的自由主義者達にとって次のことを意味していた︒即ち︑われわれ

は何が﹁正義﹂であるかには到達しえないが︑何が﹁正しくない﹂かに対する絶えざる検証を試みながらわれわれは

正義に近づくことはできる︑ということを︒彼らはこのような正しくないものを排除していく努力の中に︑現存する一

般的規則の体系をより正しいものに導く方向を沿い出しうると考えた︒それは科学的意味ではないが︑いろいろな社

会のさまざまな人間に妥当するという意味での︑何が﹁正しくない﹂かに関する客観的な検証が存在する︑という確

信に基づくものであった︒だがもとより︑そのような努力によって︑全く新しい法体系を構築することは不可能なこ

とである︒否︑彼らは全く新しい法体系を構築することが不可能なことをはつぎりと認識していた︒というのは︑例

えばヒュームが詳しく論じたように︑人間の理性には限界があり︑また︑われわれの有する知識に制約があるからに

他ならない︒であれば寧ろ︑消極的意味での正義の概念は︑具体的事実について無知であることを克服するために︑

われわれが工夫して来た努力の結果だと考えられる︒ハイエクによれば︑正義は法︵図oo馨︶と同様︑われわれの無知       ︵12︶に対する一つの調節である︒      ︵13︶ 正義の概念に関して以上のように議論した後︑ハイエクは︑ベソサム流の功利主義︵しdΦ口けげ卑ヨ一ω目︶と︑ヶルゼソ

に代表される法実証主義︵8ぴq巴喝︒ω導く︸ωヨ︶の正義論を批判する︒ハイエクのベンサム流功利主義の正義論批判の要

点は︑その理性を絶対視する態度に向けられている︒既に述べたように︑正義が無知に対するある調節をなすと言う

時︑われわれは︑理性には限界があり︑またわれわれのもつ知識には制約があることを前提としている︒だから︑理

性の絶対性を信じていることは︑さまざまな結果の相対的重要性に関する知識を既に知っていることを前提としてい

る︑とハイエクは言う︒要するにベソサム流の功利主義の想定している社会は万能の人間からなる社会である︒従っ

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ハイエク社会理論体系の研究(三)

て当然︑ 二般的規則しというものを否定するのであるが︑そのような社会においては︑ ﹁正義﹂という観念の生ま

れる余地はない︒これに対し︑法実証主義の根本的な誤りはいかなる点にあるのだろうか︒法実証主義の誤りは︑正

義の客観的判断基準がないとしたところにあるのではなく︑その拠って立つ前提が誤っているのである︒即ち︑その

ような正義に関する客観的判断基準が積極的判断基準eoω暫くΦ︒葺興♂︶でなければならない︑つまりそこから全法

体系が論理的に演繹されうるような命題でなければならないことを︑暗黙の前提としていたところにある︒法実証主

義が︑正義の問題を単に利害あるいぱ妥当性の問題に帰したのは︑そうした意味での客観的判断基塗を見つける可能

性のないところがら生まれたと言える︒しかし法実証主義のかかる考えが︑結局︑立法権万能のイデオロギーとなら      ︵14︶ざるをえないことについては︑既に述べたところで明らかであろう︒

 ㈹ 社会的︵配分的︶正義の幻想

 いま述べたように︑ハイエクがベンサム流の功利主義︑また法実証主義を批判したのは︑それらの思想が正義その

ものを疑うか︑あるいは全く否定するからであるが︑しかし今日の正義に関する議論の中で強い影響力を与えている

のは︑寧ろ﹁社会的正義﹂︑同じことだが﹁配分的正義﹂︵巳ω貫ま︒江く①言ω鉱︒①︶を主張する︑言わば正義の概念を

乱用した思想である︒正義の概念は先に述べたごとく︑個人の正しい行為に関する一般的規則として発展して来たの

だが︑社会的正義︑配分的正義を主張する人々は︑正義の概念を社会による個人や集団を取り扱う場合もたねばなら

ない属性と見倣し︑多くの人々の諸行為によってもたらされた結果に適用しようとする︒だがハイエクは︑社会的正      ︵15︶義あるいは配分的正義を﹁裸の王様﹂の話に響え︑それはO﹁Φ馨ωo︒δqにおいては全く意味のない空虚な︑一つ

の大いなる幻想であると論じる︒しかもこの幻想でしかない概念が︑今日の民主主義を全体主義へと導いているので

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(10)

あれば︑われわれはそうした幻想を撒いている思想を批判しなくてはならないであろう︒ここでハイエクが批判の対

象として挙げているのは︑すべての社会主義︑現代のキリスト教︵特にカトリック︶︑ またルソー的社会思想などで

ある︒ 上に述べた意味で︑社会的正義という概念が使われ出したのは比較的新しく︑恐らくJ・S:ミルが配分的正義と       ︵16︶同じ内容をもつ概念として用いた時に始まる︒ミルは社会的正義︵配分的正義︶を︑ ﹁功績﹂︵自①ωΦ客︶に従って取り         ︵17︶扱うことであるとした︒これは︑ハイエクの指摘をまつまでもなく︑本来の意味での正義の概念とは異っている︒ミ

ルの社会的正義の要求は︑個人にではなく社会に対して宣言されているので︑明らかに社会主義一︑・・ルの場合はも

ちろん︑マルクス主義的意味での社会主義ではない〜へ直接結びつく思想を孕んでいたと言える︒

 社会主義は︑生産手段の﹁社会化﹂︵ωoo一跡一ω讐一〇嵩︶一後述するように︑正確には﹁国有化﹂︵屋鉱︒口蓋冨鎮一〇目︶

と言うべぎであるが一によって︑階級対立のない社会を目指すものであるが︑それはもともと︑富の平等化︑つま

り︑配分的正義を実現するための手段として考えられていたと言うに他ならない︒ところが社会の生産力が増大し︑

国民の生活が次第に豊かになるにつれて︑生産手段の社会化が現実に不可能であり︑また必ずしも有効な手段でない

ことが明らかになって来た︒しかもその上︑富の再分配が︑国民の抵抗をあまり受けることなく︑例えば累進課税な

どの政策によって︑かなりの程度可能であることが知られるようになって︑生産手段の社会化という従来の要求は取

り下げられ︑それに代わって︑累進課税などの諸政策が社会的正義の実現という名目で主張せられるようになった︒

だがハイエクにとって︑そうした政策は︑国民に何をなすべきかという命令権をもつ政府に︑正義の義務を負わせる        驚︶ものとしか映らない︒

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ハイエク社会理論体系の研究(三)

 社会的正義はしかし︑必ずしも社会主義者たちによってのみ主張せられているのではなく︑保守的なモラリストや

宗教家たち︑とりわけキリスト教徒によっても主張されている︒キリスト教の聖職者たちの多くは︑一方で︑超自然

的な啓示への信仰をますます失いながら︑他方︑新しい﹁社会的﹂宗教︵.ωo︒団巴.お一一σq団︒昌︶の中に︑ある種の慰め︑       ︵19︶最後の拠り所を求めているように思える︒それは︑神の正義の約束に代わり︑世俗的正義︑即ち社会的正義の実現を

求める宗教である︒現在キリスト教各派の殆どは︑このような世俗的目的を与えることに先を争っている︒中でもロ      ︵20︶ーマ・カトリック教会は︑ ﹁社会的正義﹂の実現を公式教義の一部としている︒ ハイエクはそのような宗教に対し︑

社会問題への寛容を望むのである︒

 現代社会に強い不満を感じながら︑近代以前の不合理な﹁自然的﹂感情︵︑轟け霞巴︑oヨ︒鉱8︶に郷愁を覚︑兄ている       ︵21︶言わばルソー的思想の持ち主も︑その社会改革へのスローガンを︑社会的正義の名において掲げている︒確かに︑近

代の何十倍もの長い歴史をもつ近代以前の社会の中で︑われわれが膚で覚えて来た自然的感情が︑いまだわれわれの

胸底深く残っているのはあるいは当然かもしれない︒けれどもそれは既に述べたように︑O屋碧ω09Φ蔓が依存して

いる歴史的検証に耐えて来た二般的規則しではない︒ハイエクによれば︑それはつまるところ政府がそのような自

然的感情を満たす方法で︑社会的正義の実現を保証する社会︑即ち全体主義社会へと向わざるを︑危ない︒

 ところで︑社会主義︑現代のキリスト教︑ルソー的社会思想などが一つの幻想に過ぎない社会的正義を説くのは︑

そこに共通した特徴があるわけだが︑それは何であろうか︒結論を先に言えば︑これらの社会思想に共通しているの

は︑近代という08響ωo島︒蔓に対する合理的な洞察を欠いているということである︒それらは︑現代社会の改革

をY

゚代以前の小さな社会のイメージに基づいて行なおうとしている︑そこに根本的誤りがあると言わなくてはなら

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(12)

ない︒近代以前の小さな社会は共通の目的をもった社会︵一①一ΦOO﹁国O︽︶であって︑ このような社会を支配している規

則は多く︑その目的の達成のために作られ︑つまり目的に依存した規則である︒これに対しOお曾ω09①なは共通

の目的をもちえない︑ただ︑目的に依存しない一般的規則のみが社会の成員に適用される社会︵づ︒ヨooδ畠︶である︒

それは︑小さな社会から○お讐ω09Φ昌への移行過程で︑更に○お碧ω09①¢の発展過程において︑規則という

ものが次第にその適用範囲を拡大していくに伴い︑それはますます一般化︑普遍化されていかざるをえなかった︒と

同時に︑この過程を通して︑近代以前の社会において︑特定の目的と結びついていた義務の観念も︑その希薄化を免

れることはでぎなかった︒従って︑近代以前の社会思想がもっていた神人同形同性論的︑あるいは︸神教的性格は︑

近代社会においてはその妥当性が失われる︒社会主義︑現代のキリスト教︑またルソー的社会思想などが︑社会的正

義を説いて疑わないのは︑Oお讐ωoユ①ζに対するそうした理解を欠いているからである︒ ハイエクは︑ こうした       ︵22︶現象を﹁社会的正義の隔世遺伝﹂︵夢Φ讐9<凶ωヨohωoo一⇔こ⊆ω謡︒Φ︶と呼んでいる︒社会的正義が実現されるには︑

社会の成員のそれぞれの目的に対する重要性に関し︑共通のヒエラルキーがなければならない︒しかし︑既に明らか

なようにOお讐QDoo凶①ぐにはそうしたものがないのであるから︑社会的正義という概念は一つの幻想に過ぎない︑

このようにハイエクは論ずるのである︒

 以下︑この問題を政治と経済という︑より具体的な領域の中で詳しく考察してみよう︒

  注

 ︵1︶ 国曙︒〆﹀﹄ご目げ①Ooロω二8嵩二80h=げ︒詳ざ目80.層.念同・き8二・

 ︵2︶臣岩F︾.聞二9三ピ①αq巨帥二窪9&=σΦ﹁多く︒強しミρ戸ωい

 ︵3︶剛踏曙︒ぎ鋭男Z①毛ω二aΦ・︒甘頃巨︒ω︒℃ξ闇勺巳一§︒・闇国88鼠89巳餐ω8ぐoh置$ω﹂ミ︒︒蝸℃.駆①.

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(13)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

︵4︶=瑠①貫﹀渇;g︒εa①ω貯勺巨︒ω8ξ・勺︒=け8ω螢巳国8ロ︒巳︒96①縄目心9

︵5︶国曙︒r︸閃ご冨≦層い①ゆq巨9二呂帥呂=9答ざ<︒ピト︒お刈9署●ωマN●

︵6︶ 国=8ρ∪簿く建ご﹀日N$謡ωoo団畑鼠ヨp昌Z舞仁層P固くΦ藁筥§︒昌︑ω=訂費ざZo・経○◎﹁せ唱bO甲ド

︵7︶出亀Φr聞■︾こ雷ヌピ︒瞬邑巴8きα=げ︒答ざ<︒ドト︒﹂箋◎o﹂S

︵8︶ 一げ置ご戸ω①・

︵9︶H三鳥二罰卜⊃心.

︵10︶ ここにハイエクの独創性が窺われるのであり︑また︑彼が社会科学の総合化に成功した理由もこういうところにあるのだ

  が︑この点を理解するにはもっと詳しい論述が必要である︒差し当り拙稿﹁ハイエクの感覚秩序と社会的秩序﹂ ︵﹃世界経

  済﹄昭和五十四年一月号︶参照︒

︵11︶国餌団O〆﹀︒岡こピ凶ミいOひq芭9︒二〇づ餌コαピまΦ﹁けざ<Oピトσ︾Hゆ刈①り燭燭・ωooI念.ハイエクは﹁正義﹂︵冒ω諜O①︶に︑自由

  ︵マ①Φ島︒ヨ︶︑﹁平和﹂︵℃oε︒︒Φ︶を加えて︑この三つを偉大な消極的概念であるという︵国曙①貫閃.>﹂ぴ≦U①αq一ω冨凱8

  帥ロα=げ〇二ざくorωb﹂ωO︶︒

︵12︶ ぎ置.いPω㊤.

︵13︶ ハイエクは﹁行為功利主義﹂︵讐マ暮ま3二掌︒冒すヨ︶と﹁規則功利主義﹂︵肖巳①宗旨詳母ご巳ωヨ︶とに分けて厳密に論じてい

  る︒ここではハイエクの結論だけを述べているので詳しくは︑ピ餌≦層ピooq芭9怠︒昌自・づαζげΦ含ざ<o﹁トユ噸目O刈①もO﹂守b◎q︒.を

  参照されたい︒

︵14︶拙稿﹁ハイエク社会理論体系の研究口i自由︑法︑法律−﹂︵﹃早稲田社会科学研究﹄第十八号︑昭和五十三年︶参照︒

︵15︶ 国字Φr劉﹀;ピ毛.ピΦ鳴︒︒一定幽︒づp︒口阜ピ旨︒誹ざ<oドト︒噂H旨Φ噂﹁お匿oρ×一・ハイェクは﹁社会的﹂︵ω09巴︶という用

  語の使い方の曖昧さ︑またその誤まりから論じている︒︵=曙①ピ男﹀こ≦器二心重書霧げ︒一ω繋︿︒・o歯質﹀⁝ぎ竃霧器

  ⊆昌住Uoヨ︒ξ9自ρH8㊤︶︒

︵16︶一三傷・噛O・①︒︒●﹁社会的正義﹂という用譜はもちろんミル以前にも使われているが︑﹁一般的規則﹂を強化するための組織

  的な努力を意味していた︒最近︑政治哲学の分野で注目されているJ・ロールズの正義論に対し︑ハイエクは略々自分の考

  えと同じであるとしながらも︑ロールズが﹁社会的正義﹂という言葉を既に与えられたものとして用いていることに不満を

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(14)

  述べている︵ピ9≦一い①σq巨卸二〇=き昏ζげ︒算ざく︒ドP﹂OO︶︒

︵17︶ 寓罠︑一・qD.一d三淳p二づ診巳ご国ぐΦ蔓旨き.ωζび鑓蔓Zo・ら︒︒卜⊇嚇ロ℃・㎝刈Ic︒.

︵18︶ =曙oF男﹀二い⇔〜い①σqδ一2︒二9きα=9﹁肩甲く︒ドρお刈9喝戸3よ●

︵19︶ 一三傷.讐戸①①・ ハイエクはもちろんキリスト教を無視したり︑否定したりするのではない︒彼は︑自由主義の中に強いキ

  リスト教信仰を持った人がいることを知っている︒しかし次の文章は彼のキリスト教を理解する上で注意すべきである︒

  ﹁モーゼからプラトン︑聖アウグスティヌス︑ルソーからマルクス︑フロイトなどの予言者や哲学者たちが︑社会に広く行

  われている道徳に反抗した時︑彼らは︑彼らが非難した慣習が︑彼らが共有している文明を可能として来た程度を理解しな

  かった︒﹂︵い鋤≦リピ①職ω言鉱︒昌鋤昌匹い一σo﹁酔ざ<o汗ω.H㊤刈P℃﹈①9︶

︵20︶ ハイエクは︑ローマ教皇の回勅︑例えば〇二9︒O墨αqoωぎ︒>導︒︵お︒︒一yu一≦巳図①傷︒ヨ艮9δ︵おω刈︶などを批判して

  る︒また︑カトリックの立場に立つJ・メスナ!の社会的正義の議論に対しても批判的である︒ ︵ピρ声ピΦαq巨9該︒づ彗麟

  いま︒︻¢.−<o憎卜︒響お刈9戸嵩①︶

︵21︶ =ミΦぎ劉﹀;い節〜い£剛ω一〇江8⇔コ畠=9H蔓−<9悼お刈9℃﹂ミ.

︵22︶ =ミΦF>.男魑Z①≦ωε&①ω冒勺﹃鵠︒ω8ゴざ℃2三〇ω魑団080旨8ω働昌α=巨︒蔓ohε$Pお刈G︒リウミ

40

口 正義と政治の問題

 今日の西欧諸国の民主主義が︑A二体主義への道を辿り始めたのは︑正義の概念に対する誤った認識にその根本の原

因を求めることができる︒そしてこの誤った認識に二つの方向があって︑一つは︑正義の概念そのものを無視ないし

否定するもの︑いま一つは正義の概念を乱用するもので︑これら両者が微妙に絡み合って現行の議会民主制度を全体

主義へと導いているのである︒ここでは︑今日の政治学の混乱の原因を作っている概念の誤った理解を検討していく

(15)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

という方法をとりながら︑次第に問題の核心に近づいていくことにしよう︒またそれを通して︑ハイエクの政治に対す

る基本的な考えを明らかにしたい︒そこで先ず︑政治学の領域で最も基礎的な社会と国家という概念から見てみよう︒

 ω 社会と国家

 現代の政治学の混乱は︑先ず︑﹁社会﹂︵ωo鼠Φな︶と﹁国家﹂︵ω鼠8︶という概念に対する明確な理解を欠いている

ところに見られる︒イギリスの古典的自由主義の時期においては︑だいたい社会という概念は﹁政府﹂︵σqo<①導∋Φ旨け︶

という概念に対して用いられていた︒ところが大陸の思想︑特にヘーゲルの国家思想︑あるいは社会主義の影響を受

け︑政府と言った方が適切なところでも国家という用語が使われ︑次第に社会と国家を同一視する傾向を生んでいっ

た︒だがハイエクは︑社会と国家とは全く異った概念であることを強調する︒社会は︑自由な諸個人の間に︑また彼

らが作った集団︑組織の間に︑そして両者の間︑即ち諸個人と諸集団︑諸組織の間に︑自発的に形成される多元的︑

重層的な構造である︒これに対し国家は︑一つの政府の支配下にある一定地域に住んでいる国民の組織を言う︒自由

社会では︑国家も一つの組織であるから他の多くの組織と同じなのだが︑ただ︑自発的に形成される社会が維持さ

れ︑更に発展していくように︑その外的な枠組を提供するために要請された組織であるという点で他の組織と異な      ︵1︶る︒しかし要するに︑社会は自発的に形成されるものであるが︑国家は人為的に作られたもの︑と言えるであろう︒

 社会を国家と同一視する思想が︑大陸︑とりわけドイツでなされたのは︑社会の発展過程がイギリスより遅れてい

たためと考えられる︒イギリスに後れをとった後進諸国は︑急いで近代化を計らなければならなかったので︑国家の

強力な指導を期待する外なかった︒けれどもそこには︑近代以前の神人同形同性論的思考が根強く残っていたので︑

社会を国家と同一視する思想が展開されたのである︒これに対しイギリスが︑このような大陸的国家概念の影響を受

41

(16)

けた背景には︑これとは違った事情があった︒既に十九世紀後半のイギリスでは︑著しい経済発達を見た結果︑さま

ざまな社会的︑経済的問題が起っていた︒このことは当然︑古典的自由主義者たちの説いた政府の機能に関する議論

を修正︑あるいは発展させることが要請されていたわけだが︑これを十分行なうことなく︑大陸の国家概念を受け入

れることになったのである︒

 既に述べたように︑社会の概念と国家の概念とが全く異なるものである以上︑問題は︑現代の情況に適合した政府

の機能を明確にすることにあるといわなくてはならない︒ハイエクは︑古典的自由主義の議論を基本的には正しいと

しながらも︑現実の具体的な問題を導くには︑不明瞭な点が多いとしてそれを発展させている︒後者については後に

詳しく論ずるとして︑ここでは前者のみ簡単に述べておこう︒古典的自由主義者が認めていた政府の機能は︑大きく

二つに分けられる︒一つは︑強制機能︵OOΦ同O一くΦ h嘗昌〇一一〇昌ω︶で二般的規則Lを国民に遵守せしむべく強制力を用い

ることであるが︑これは社会という自発的秩序を維持するための基本的条件と考えられた︒いま一つはサービス機能

︵ωΦ﹃<一〇㊦ h=昌Oけ一〇コω︶で︑市場によって供給しえないサービスを︑政府に委ねられている資源を用いることによって        ︵2︶提供するものである︒そしてこの場合︑政府の活動は他の組織と同じく︑一般的規則に従わねばならず︑その範囲内

で行われねぽならないことが当然のこととして暗黙裡に認められていた︒このように政府の任務は︑個人や団体が各

々の目的を首尾よく追求しうるような枠組︵ず9ヨ︒≦o蒔︶を作ることであるが︑そのために使用する強制力は︑個       ︵3︶人や団体の保護されるべき領域を侵さない限り︑スミスの表現を使えば︑ここでもあくまで﹁正義の法﹂を侵さない

限り許される︒しかし︑政府の第二の機能に関し︑古典的自由主義者はこれ以上明確な考えを示さなかった︒

 上に述べたところがら明らかなように︑国家という概念は︑本質的には殆ど政府の概念と同じであることが理解さ

42

(17)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

れる︒ただ︑国家という概念の方が︑空聞的にまた組織的な規模において︑政府のそれより大ぎいというイメージを

われわれに与える︒だが︑両者とも基本的に強制的性格を有する組織であることに変りはない︒ついでに言えば︑社

会主義者が本来ならば︑生産手段の﹁国有化﹂と言うべきところを﹁社会化﹂というのは︑当然その実現のために必

要となる政府の強制力の使用1もちろんそれは﹁正義の法﹂を超えたものになる一を覆い隠さんがための偽装に   ︵4︶過ぎない︒

 ㈹ 正義と政治的権利

 第二に﹁権利﹂︵ユoq葺︶という概念の乱用ということが挙げられる︒ハイエクは︑消極的概念としての正義が︑社

会的正義という積極的概念へと変質していった理由の一つに権利の概念の乱用を指摘する︒現在では︑特定のサービ

スを提供することが﹁社会﹂の義務であり︑それを要求することが当然の権利であるごとく思われている︒だがハイ

エクは︑これは正義とは何の関係もないものであり︑またかかる要求が自由社会において満たされうることでもない

と言う︒そこでハイエクは︑ ﹁権利﹂という概念が本来いかなるものであるかを明らかにする︒

 ハイエクは︑権利の概念も正義の概念と同様︑ ﹁一般的規則﹂に関わるものとして襲え︑個々の一般的規則がそれ      ︵5︶に対応する個人の権利を作るといった意味で︑権利の要求が認められると言う︒即ち︑一般的規則が個々の保護され

るべき領域を限定する限り︑各人はその領域に対して権利をもつと言うことである︒そして︑ ﹁一般的規則﹂を強化

するために政府のような組織を作っているところでは︑人々はそれぞれ各人の有する権利の保障︑また権利の侵害に

対する補償を︑政府に対して要求することがでぎる︒一般にこのような要求が︑人間や組織のような行為主体に向け

られたものであり︑しかもそれらの行為主体が一般的規則に拘束されている限り︑それは正義に漏った︑即ち権利た

43

(18)

りうる︒だが権利という概念を︑人間や組織の行為ではなく︑ある状態に適用しようとする場合︑そこに一定の状態

を保障すべき義務が誰に課されているかが明らかにされていない限り︑いかなる人もその状態に対し権利をもたな

い︒従って︑社会という自発的秩序に対して︑権利の要求をすることは意味のないことである︒なぜなら︑そうした

社会では︑誰もその全体の状態に対し義務をもたないし︑またそのような状態を導く権力をもたぬからである︒

 政府は既に述べたように︑社会の維持︑存続にとって不可欠な組織であるので︑われわれはその組織を維持しなけ

ればならないが︑このことはわれわれが政府という組織を規定している原則によって︑所謂﹁政治的権利﹂︵娼︒毎8巴

ユoq窪ω︶をもっているということである︒即ち人々は︑個人の保護されるべき領域の保障︑またその侵害に対する補

償を要求しうる権利の他に︑次のような権利を有する︒政府が強制力をもつ組織であり︑しかも組織の規則︵島①ω一ω︶

が存在していることから︑政府の提供するサービスへの分け前︑またその平等な分配を要求することは︑正義に適つ

た権利である︒それ故︑政府をそのような方向へ導くために︑いろいろな政治運動を行なったり︑あるいはそれに参

加することも権利である︒これが︑古典的自由主義者が市民の基本的な権利としたもので︑それは現代においても当

然認められねばならない政治的権利だといえる︒

 しかし︑今日見られる政治的権利の主張の中には︑しばしばこれとは異った︑新しい﹁社会的︑経済的﹂権利       ︵6︶

(.

ヨOO圃鋤一 帥昌ユ ΦOOづO一5一〇曽 ﹃一℃ゴ一ω       G︶が含まれている︒それは︑政府が行わない︑多分なしえないであろうものを﹁社

会﹂の義務の名において︑要求しようとする権利である︒だがハイエクによれば︑これらの要求は特定の利益に対す

る要求であり︑権利の乱用以外のなにものでもない︒そこにはそうした要求を満たす義務を誰が負っているのか︑ま

たどのような方法で満たされるべきなのかが示されておらず︑暗黙のうちにすべての人がそうした要求をする権利を

44

(19)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

もっていると仮定されている︒このような傾向が目立つようになったのは︑F・ルーズベルト大統領が︑ ﹁四つの自

由﹂︵団︒霞牢ΦΦOo旨ω︶の中に︑﹁欠乏からの自由﹂︵︷おΦOoヨ\δミ≦帥曇︶︑﹁恐怖からの自由﹂︵博ΦΦ画︒ヨ︑さミ      ︵7︶h①曽︶を加えた時からである︒そしてこの傾向に決定的な弾みを与えたのが一九四八年の国連総会において採択され

た﹁人権に関する世界宣言﹂︵α巳くΦ二巴∪①o置茜ユ80h=月日雪菊凝げ一ω︶であった︑とハイエクは言う︒この中に

は︑西欧の伝統的な︑正当化しうる政治的権利の外に︑それとは全く異った﹁社会的︑経済的﹂権利が宣言されてい

るのである︒即ち︑すべての人は︑ ﹁社会の一員として﹂︵霧9巨①∋びΦ戦︒︷ω09Φな︶︑﹁公正で有利な﹂︵冒ωけ⇔づ側       ︵8︶︷曽︒=<餌三①︶労働条件︑報酬などを受ける権利があると主張されている︒しかし︑このような権利が実現されるに

は︑社会が一つの組織である時のみ可能である︒それが自由社会と両立しえないことは既にみた︒これらの﹁社会

的︑経済的﹂権利を主張するのは︑社会を目的意識的に作られた組織と考えるからであって︑そこに根本の誤りがあ

ると言える︒

 ㈹ 社会的正義と現代民主主義

 さて︑愈々問題の核心に入るが︑今日の民主主義がいかなる理由で︑全体主義への道を辿るようになったか︑大づ

かみに言えば︑次のようになろう︒即ち︑そこには三つのものが︑一つは︑社会的正義を主張する諸思想︑第二に︑

今日支配的な法律理論である法実証主義︑そして第三に︑現行の議会制度のあり方︑これら三つが︑複雑に錯綜し合

って全体主義的民主主義をもたらしている︑と︒

 ﹁社会的正義﹂という用語は︑現在では︑あらゆる思想的立場を超えて︑すべての人︑集団︑政党の共通のスロー

ガンのようになっている︒だが08魯ω09露図においては︑各人のそれぞれ異った目的の重要性に関する共通のヒ

45

(20)

エラルキーがないので︑社会的正義の主張は結局︑特定の利益の要求とならざるをえない︒今日︑社会的正義の名に

おいて︑政府に対して行われている要求は︑すべて何らかの特定の利害と結びついたものである︒特定の利害を担っ

た個人や集団は︑社会的正義を楯として︑もろもろの﹁社会的︑経済的﹂権利を主張する︒しかしこの場合︑すべて

の要求が政府によって受け入れられるわけではない︒要求を出している利害の担い手が︑十分な政治力を有している

場合のみ︑その要求は政府に受け入れられる︒従ってそれは︑個々人では十分でなく︑集団でなくてはならず︑しか       ︵9︶も強力な政治力を発揮するには組織化された集団でなけれぽならない︒

 議会制民主主義の前提条件の一つは多数決の原理である︒もとよりこの多数決の原理は︑少数意見の尊重というこ

とがその前提として認められていた︒けれども︑民主主義の理論家たちが︑国民の支配する1人民主権1民主主義に

おいては︑多数派の決めることは正しいという思想を吹き込んできたので︑多数派の意見が恰も社会的正義に曇った

ものであるかのように考えられるようになった︒だがハイエクによれば︑このような多数意見とは︑いま述べたよう

なさまざまな組織化された利益集団の要求の集合でしかない︒というのは︑現行の議会民主制度の下で︑政権を確保

し︑これを維持するためには︑そのような特定の利益集団の支持を﹁買う﹂必要があるからである︒さらに多数派の

意見というものも︑原則に関する合意というより︑個々の政治家の利害に絡んだ﹁取り引き﹂の産物に過ぎない︒か

かる理由から︑ハイエクぱ現代の民主主義を﹁取り引き民主主義﹂︵びg︒お巴三⇒σqα①ヨ︒︒鑓ok︶と呼ぶのである︒しか       ︵10︶しそれは︑社会的正義の名において実行されるのである︒

 かくて一方では︑強力な政治力をもつ組織化された利益集団の要求がますます拡大していく︒他方︑議会も︑多数

を獲得しようとすれば︑これらの要求を受け入れていかねばならない︒古典的自由主義の時代には︑立法府も一般的

46

(21)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

規則に従わねばならなかったので︑これに対する歯止めがあった︒しかし︑今日支配的な法律理論である法実証主義      ︵11︶1議会において制定されたものはすべて法であるとする理論−!は︑立法府に対し何の拘束も認めない︵立法権万能︶の

で︑このような歯止めがかからない︒こうして政府は︑この膨れ上がる国民の要求に応えていかねぽならなくなる︒

そのために政府は︑個人や集団の活動を政府のコントロールの下に組み入れていく︒それは︑さまざまな法律を作っ

てそうしていくのだが︑注意すべきは︑議会で制定された法律はすべて強制力をもっているということである︒これ

は︑法実証主義の根本的考えであるが︑更に重要な点は︑法実証主義が一般的規則を否定するところがら︑本来一般

的規則が規定していた強制力の範囲が無限に拡大されうるということである︒こうして政府は何の障害もなく︑現行

の議会民主制度の下で︑社会のすべての活動を政府の支配下におくことができた︒だが政府の支配といっても︑実際

に支配しているのは専門の行政官︑即ち官僚である︒ハイエクはこのようなメカニズムによって︑現代の民主主義が

全体主義的民主主義へと向わざるをえなかった理由を説明する︒

 もちろん現代のように︑より発展した社会では︑政府の役割が大きくなることは不可避であるが︑それは︑先に述

べた政府の第二の機能︑つまりサービス機能が増大するということである︒古典的自由主義者は︑この政府の第二の

機能は︑ ﹁一般的規則﹂の許す範囲においてのみ認めていた︒しかしそれは︑法実証主義の法律理論が支配してくる

に及んで︑次第に取り払われていった︒だが実際の問題として︑ハイエクは︑本来異った二つの任務︑即ち﹁一般的

規則﹂11法︵ヵ①o耳︶を明確にする︵成文化すると否とに拘わらず︶ことと︑特定の目的のために政府に指令する法

律︵Ooωo訂︶を制定するという二つの任務を︑議会という同じ立法機関に委ねているところに︑現代の議会民主制度

の欠陥があると考えている︒そこでハイエクは︑前者の任務を遂行する機関として立法院︵冨αq凶ω巨ぞ①︾ωω①§三団︶︑

47

(22)

後者の任務を遂行する行政院︵Ooぐ①琶ヨ①暮巴﹀ωωoヨ三団︶︑そしてこれら二つを調整する憲法院︵Oo昌ω二ε二〇コ巴      ︵12︶Oo霜詳︶︑の画院制を作ったらどうかと提案するのである︒しかしハイエクは根本的には︑思想の問題であるとする︒

社会的正義を主張する現代のさまざまな思想︑また法律理論としての法実証主義が︑今日の全体主義的民主主義へと

導いた主なものである︒けれども法実証主義の影響はある程度︑法律学の内部に限定されうるものである︒ハイエク

は言う︒﹁﹃社会的正謹への信仰が政治行為を支配する限り・その過程はますます全体主義に近づいていく﹂輪喝既

に述べたように︑社会的正義を主張するのは︑Oおp︒けω09Φξの理解に欠けているからである︒われわれはD・ヒュ      ︵14︶ームが見抜いていたように︑政治学で真なるものも︑現実においては誤りである︑という逆説的な洞察に学ぶべきで

あろう︒もし現代の政治学がこのことに気づかないならば︑ ハイエクが敢えて﹁政治学の廃位﹂ ︵島①ユ①島﹃o昌守       ︵15︶ヨΦ三〇hO2陣江︒ω︶を唱えたことは︑あるいは当然なことかもしれない︒

  注

 ︵1︶ 国ε9団Φぎ男﹀.噂ピ勘≦ピ①αq冨一卑ご昌四づ匹=げΦ二ざく︒ドGO層目零㊤弓﹂8・

 ︵2︶出曙①ぎ﹁■︾こい9︒≦−いooqδ一9︒ユ︒嵩雪住ピま巽面一<orどHり刈ω噂弓・幽︒︒・ハイエクは強制︵8醇鼠︒づ︶を次のように定義

   している︒ ﹁ある人の行為が︑他人の意志のために奉仕するようになされる︑自分の目的のためでなく︑他人の目的のため

   に﹂なされること︑と︵↓ずΦOOロω二ε鉱OPO︷い凶σΦ答ざト㊤①9b﹂ωG︒・︶︒

 ︵3︶ qD∋房戸﹀住鋤ヨこ︾昌ぎρロ一蔓ぎ8島oZ①ε﹁①§qO騨器Φωoh夢①≦$=げ︒喘29︒二〇霧↓ず①寓︒α①ヨピ一σ茜曙層

   同㊤①9 憎・①㎝H.

 ︵4︶国畠︒r﹁︾.−鐵ぎいΦゆq巨毘︒5節巳=び巽ヨ<︒﹁ω層Ho蚕b・=ピ

 ︵5︶國曙①ぎ男﹀こ冨多目①σq巨魯8︒巳=σ9ざく︒ピト︒お刈9℃﹂O一.

 ︵6︶ぎζb●H忌陰

 ︵7︶旨乙ニロ﹂8.

48

(23)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

︵8︶ 一ぴ乙こ℃弓﹂O心ふ・

︵9︶守置二弓.=H・

︵10︶ ハイエクは︑このような過程の中で﹁法の下における平等﹂︵oρ§ま二戸5α臼島Φ冨≦︶という原則が破壊され︑結局︑

  特定の利害を超えた正義への信頼が失われていったと考える︒

︵11︶ 拙稿﹁ハイエク社会理論体系の研究﹂国  自由︑法︑法律−L︵﹃早稲田社会科学研究﹄第十八号︑昭和五十三年︶参照︒

︵12︶ 詳しくは︑拙稿﹁F・Aハイエク著﹃法︑立法︑自由﹄﹂︵﹃世界経済﹄昭和五十四年八月号︶参照︒簡単に述べておくと

  次のようである︒﹁立法院﹂は︑法︵幻①o窪も︒ヨ︒︒︒︶としてのコ般的規則Lを明確にしたり︑成文化する機関︒議員の任

  期十五年︒四十五歳の男女にのみ被選挙権︑選挙権が与えられる︒ ﹁行政院﹂は特定の目的を遂行するために政府に指令す

  る法律︵︵甲Oω①仲N 一げOω一ω︶を制定する機関︒その際︑立法院によって承認・成文化された﹁一般的規則﹂および憲法の条文に

  よって拘束される︒︵現在の下院︑日本でいえば衆議院にあたるようなものと考えればよい︶﹁憲法院﹂は︑立法院と行政院の

  間に権限の問題で対立した時︑調節を計る機関︒議員は専門の裁判官の外︑立法院︑行政院の元・前議員によって構成される︒

︵13︶ 国β︒団︒ぎ男︾ニピ缶牽ピ①ひq一ω冨二〇ロ.帥コαぴま①二罫<oパト︒戸①︒︒・ ハイエクの現代民主主義批判の結論は︑C・シュミッ

  トのそれと同じようになったが︑その意図するところは全く異っている︒即ちハイエクのそれは︑本来の民主主義の理念を

  現代に蘇生させんがためである︒

︵14︶ 悶ロヨρ∪簿く同自こ国ωω曙ωζo建ご℃o=け一〇巴層9︒口仙=9鑓藁.a.ぴ団団.口.Oお2p︒コα↓.即08ωρHG︒胡ロO﹂一〇︒亡・

︵15︶ 国麟︒団Φ貫即﹀こい薗牽いΦoq一ω一讐一自碧ユ=σ臼蔓噂くorG︒H㊤謬閣ロ・=O

日 自由社会における経済政策

 さて以上の議論は︑現行の民主主義の制度的問題を別にすれば︑結局︑自由社会における経済政策はいかにあるべ

きか︑という問題に帰してくるであろう︒ハイエクは︑古典的自由主義の経済政策に関する議論を基本的には正しい

49

(24)

としながらも︑今日の具体的な問題を解決へ導くには不明瞭であり︑不十分であるので︑より発展させねばならない

と考える︒

 ω 原則と便宜

 ハイエクが︑古典的自由主義の経済政策に関する議論を基本的に正しいとしたのは︑原則︵只冒9豆①ω︶と便宜

︵①×o①象Φづ︒団︶についての考え方である︒それは自由の聞題と密接に結びついていた︒即ち︑古典的自由主義におい

ては︑個人的自由は原則に従う場合のみ守られ︑便宜に従う時破壊されると考えていた︒例えばB・コンスタンが自       ︵1︶由主義を︑ ﹁原則の体系﹂︵紹ω協ヨΦOΦ嘆冒︒6Φω︶と呼んだのは︑自由を特定の利益のために犠牲としてはならな

い最高の原理としていたからである︒個々の経済政策が︑継ぎはぎ的︵嘗①o①8①巴︶なものであっても︑それが社会

の有効な改善につながらないとは言えない︒だが︑各々の経済政策が︑その全体において斉合的︵OO昌ω圃ωけΦ一P榊︶な原

則によって導かれないならば︑その結果は︑個人的自由に対する脅威となるであろう︒ハイエクはその理由を以下の

ように説明する︒自由はその価値を︑未知の予測不可能な行為に対する機会に依存している︒これに対し︑個々の経

済政策の実施に伴う強制  一般的規則のそれを除く  は︑予測可能な︑特定の結果の達成を目的としている︒し

かしこの場合︑その間接的︑あるいは長期的な効果︑損失というものは予知できないので︑殆ど無視されることにな

る︒であるから︑自由と強制の間の選択が︑便宜の問題として扱われるならば︑常に自由がその犠牲に供せられざる   ︵2︶をえない︒

 ところが︑今日各国において採られている経済政策は︑その殆どが何らかの意味で﹁政治的便宜﹂︵Oo憂8巴︒×O㌣

a①コ︒矯︶によったものと言ってよいであろう︒経済政策におけるプラグマティズム︑また経済政策を単に社会的技術

50

(25)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

とする考えも︑最後は政治的便宜によって左右されざるをえない︒そして︑このような傾向をより進めているのが︑

﹁結局われわれは皆死んでしまうから﹂︵︒.ω冒8霧雪①δ詣毎昌≦Φ9﹁Φ曵仙①巴︑︑︶式のケインズの経済政策理論

  ︵3︶である︒それは︑長期的な効果を考慮に入れない︑全く短期的な効果のみを狙った政策理論に過ぎない︒科学主義的

な思想に基づいた政策理論が︑技術的︑短期的なものとならざるをえないのは︑計量可能なもの︑予測可能なものし

か︑その理論を構成するファクターとなりえないからである︒古典的自由主義の考えが︑現代の経済学者に受け入れ

難くなっているのは︑上に述べたような意味の﹁原則﹂というものが証明でぎないものであるからと言える︒

 個別的には社会の改善︑つまり社会的正義の実現に役立つものと考えられた経済政策が︑次々に便宜の問題として

実行に移されていった結果どうなったであろうか︒それは︑これらの政策を行なった人々の期待とは殆ど反対の結果

をもたらしている︑と言わなくてはならない︒そしてこのことが︑ますます積極的な経済政策を︑不可避のものとし

て必要としてくる︒しかしハイエクは︑かかる経済政策の必要性は︑原則を無視し︑便宜によって行なって来た過去       ︵4︶の政策の結果であると論じている︒では︑ハイエクが考えている原則とはいかなるものであり︑またその具体的内容

はどのようなものなのか︒が︑その前にわれわれは︑このこととも密接な関係をもっている︑経済の領域における正

義の問題といったものについて述べておこう︒

 ㈹ 配分的正義と市場

 ﹁配分的正義﹂1ここでは経済の領域の問題との関連で論ずるので︑社会的正義という用語でなく配分的正義と

いう用語を用いる  という概念︑またそれに伴った﹁公正価格﹂︵甘心づユ8︶や﹁正しい報酬﹂︵甘曾おヨ琶母㌣

自︒昌︶などの概念は︑言う迄もなく︑極めて古い概念である︒ハイエクは︑問題が複雑になるのを避けて︑これらの

51

(26)

概念についての思想的︑歴史的な論証は行なっていない︒けれどもハイエクは︑次のことは注意しておくに値いする

ものだとしている︒即ち︑多くの優れた哲学者たちが︑二千年以上の長きにわたって︑これらの概念について思索を

重ねて来たが︑経済の領域において何が正しいかを決める規則は︑ついに発見されなかったという事実である︒わず

かに中世後期のスコラ哲学者たちが︑公正価格あるいは正しい報酬というものを︑詐欺︑暴力︑特権を伴うことなく      ︹5︶市場において形成される価格︑報酬と定義する外ない︑という結論に到達したに過ぎない︒だがハイェクは︑このよ

うな配分的正義についてどのように思索を重ねても︑否定的な結論しかえられなかったことは当然だとしている︒な

ぜなら︑既に述べたところがら明らかなように︑配分的正義の概念が意味をもつのは組織の中において︑つまり組織

の成員が︑共通の目的を達成するために︑特定の命令に基づいて行動している場合のみである︒従って︑そのような       ︵6︶共通の目的体系をもちえない自発的な経済秩序︵8雷一隅×楓︶︑即ち市場においてはいかなる意味ももっことができな

い︒そうであれば︑近代のようにOお讐ωoo凶Φ受において︑配分的正義の概念が成り立ちえないことは︑もはや説

明の要はないであろう︒

 では︑自発的な秩序である市場においては︑いかなる意味で︑正義の問題が生ずるのであろうか︒古典的自由主義       ︵7︶者は︑これを﹁競争の正義﹂︵甘ω二〇Φoh8ヨ且葺一〇ロ︶の中に生じると考えた︒即ち︑正義が関わりをもつのは競争

の結果ではなく︑競争が行われている方法にである︑という考えである︒A・スミスは︑人間の生活が技︵ω臨=︶と      ︵8︶運︵oゴ四⇒8︶とによって決まるゲームに似ていることを洞察したが︑ハイエクも︑現代のすべての人々がさまざまな       ︵9︶形で参加している経済活動の全体を一つの﹁カタラクシーのゲーム﹂︵αq戸主①oh8富ぎ鍾︶と呼んでいる︒競争に参

加している選手たちの技能︑知識︑目的はそれぞれ異なる︒しかし︑プレーを行っている時︑すべての選手は一定の

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(27)

ハイエク社会理論体系の研究(三)

ルールに従わねばならず︑これに違反してはならない︒そして︑ゲームボブェアに行われておれば︑当然その結果

は︑技と運とによって決まる︒従って︑各々の選手に対する結果が正しくなければならないと要求することは意味の

ないことである︒ハイエクはこれと同じことが︑ ﹁カタラクシーのゲーム﹂にも当て嵌ると考える︒このゲームに参

加している人々の技能︑知識︑目的はそれぞれ異なる︒しかしいかなる人も﹁一般的規則﹂に従わねばならず︑違反

してはならない︒だがその結果は︑技と運とによって決まるので︑結果に対し正しいとか正しくないとは言えない︒

 ゲームにおけるルールのように︑正義はすべての人々を平等に取り扱うことを要求する︒けれども︑結果に対して

正しさ︑あるいは平等を求めることは︑人々を不平等に扱うことである︒ハイエクは︑人々を不平等に取り扱うこと

が最も反道徳的なことであり︑すべての道徳︵巳︒同職︶は意思決定の自由に依存していると言う︒市場に求められる

平等の概念は︑ただ﹁機会の平等﹂︵¢ρo巴騨kohobOo答犀ロ二二︶︑あるいは﹁出発時の平等﹂︵①ρ⊆巴ω鐙詳冒α自ooコー      ︵10︶象江︒ロμω↓碧茜︒お〇三一びqぎΦ置︶に限られるが︑それは市場にとって重要な規則である︒もしこれを超えて︑結果の正      ︵11>しさ︑平等を求めるならぽ︑それは﹁中央指令経済﹂︵餌8三冨ξ湯量9①O①8づ︒素望︶においてしか実現されえない︒

そこでは各人は︑一般的規則ばかりでなく︑各人に向けられた特定の命令に従うことが要求される︒今日の支配的な

考えは︑市場メ耳順ズスをできるだけ活用すべきだが︑その結果が﹁正しくない﹂ところではそれを修正すべきであ

る︑という考えである︒しかしハイエクは︑市場における結果を﹁配分的正義﹂の名の下に修正する試みは︑恵まれ

ない︑弱い立場におかれている人々の生活環境の改善をもたらさず︑その意図に反して︑強力な利益集団によって利      ︵12︶用されるか︑結果的に既得権益者の保護をすることになろう︑と論じている︒

 ㈹ ﹁法の支配﹂の下での経済政策

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(28)

 既に述べたところがら明らかなように︑自由社会は個々の経済政策が︑ ﹁原則﹂に従って行われる場合のみ維持さ

れ︑ ﹁便宜﹂の問題として取り扱われた時脅かされる︒では︑経済政策における原則とはいかなるものであろうか︒

ハイエクは︑経済政策における原則を次のように考える︒       ︵13︶

一、

「かなる経済政策が自由社会と両立し︑また︑しえないかの基準を﹁法の支配﹂︵一げ⑦ 同国︸① Oh 一ρ≦︶に置く︒       ︵14︶二︑ ﹁法の支配﹂の基準によって︑自由社会と両立しうると考えられた場合︑それは更に﹁合目的性﹂ ︵N≦oo閃ヨ㌣

  稜σq評①淳︶の観点から検討される︒      ︵15︶三︑政府の強制力の使用は︑ ﹁法の支配﹂と両立しうる範囲でのみ許される︒

 このような原則に立てば︑政府の行なう経済政策の範囲はかなり広いものとなるであろう︒この点に関する古典派

経済学者たちの議論は︑極めて曖昧であった︒このことが後の経済学者たちにさまざまな誤解を生むことになったの

である︒ だがハイエクは︑A・スミスやJ.S・ミルが政府の介入に反対したのは︑﹁一般的規則﹂n法︵菊①o冥︶が保護しなけ      ︵16︶ればならない私的領域への介入であるとしている︒つまり彼らにとって政府の介入とは︑ ﹁一般的規則﹂の正しい意

味での強化ではなく︑特定の目的を達成するために決められる強制力の使用である︑と考える︒そしてその場合︑彼

らが求めた判断基準は︑追求される目的ではなく︑そのために用いられる方法であった︑なぜなら国民が望む限り︑合

法的でないと見倣せるような目的はないからである︑このようにハイエクは言う︒従って︑政府の政策が一般的規則と

両立しうる限り︑それは単純に政府の介入として拒絶することはできなくなるだろう︑と︒もしこのような解釈が可

能であれば︑ハイエクの考えは︑古典派経済学者の考えと全く同じくなって︑ただハイエクが彼らの曖昧な議論を明

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参照

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