論 文
政治的民主化におけるNGOの役割
一マルコス体制崩壊過程における選挙監視NGOを事例として一
五十嵐 誠 一
目 次
はじめに 問題提起と分析枠組み
第1章 マルコス独裁体制の成立と選挙実施ま での経緯
1−1 戒厳令布告による独裁体制の成立 1−2 正当性の綻びL一経済危機とアキノ暗 殺事件
第2章 選挙不正と選挙監視NGOの誕生 2−1 フィリピンにおける選挙不正の特徴 2−2 NAMFRELの誕生とその背景
第3章マルコス体制崩壊におけるNAM・
FRELの役割
3−1 1984年の議会選挙とNAMFREL 3−2 1986年の繰り上げ大統領選挙と
NAMFREL
第4章おわりに
4−1 ピープルパワーとNAMFREL
4−2 政治的民主化におけるNAMFREL
の役割はじめに一間題提起と分析枠組み
90年代に入り,途上国,とりわけ東南アジア 諸国の民主化をめぐる議論が盛んであるω。こ れは,1つには冷戦の終結により,自由主義陣 営と社会主義陣営のイデオロギー対立が事実上 消滅し,市場経済の導入とともに人権保障や民 主主義の確立を,東西南北を問わず共通目標と する意識が強まったことに理由がある。いかに
経済が発展しようとも,人権が抑圧され,民主 的な諸権利が制約されているような状況は望ま
しくないというわけである。これは主として,
欧米諸国で主張される政経不可分の意見である。
現実の政策では,先進国の政府開発援助機関が 途上国の経済援助をする際に,政治的コンディ ショナリティとして民主化を要求することによ
く表れている。
これに加えて,途上国の中でも特に東南アジ ア諸国の民主化議論が盛んなのは,同地域で民 主化をめぐる事件が,ここ10数年の間に矢継ぎ 早に起こっているからであろう。1986年のフィ リピン2月革命を皮切りに,90年代のビルマ軍 事政権に対するアウン・サン・スー・チー女史
率いる民主化運動,92年5月に起きたタイの
「5月流血事件」,そして最近ではインドネシ アのスハルト退陣を求めた民主化運動など,全 体主義・権威主義体制から民主主義体制への移 行を問題とする事件が軒並み起こっている。冷 戦終結という国際的なインパクト,欧米先進諸 国による外からの圧力だけでなく,こうした国 内の民主化運動の成長・展開が地理的・時間的 に集中していることが,東南アジア諸国の民主 化研究への関心を一層喚起するのである(2)。
ハンチィントンによれば,現在拡大する民主 化は民主化の「第三の波」にあたる。18世紀末
から第1次世界大戦後にかけて世界的な規模で「
民主化が起こった時期が「第一の波」,第2次 世界大戦後に多くの第三世界の新興独立国が民 主的政治体制を採用した時期が「第二の波」,
そして1970年代半ばに,南欧やラテンアメリカ 諸国での軍事政権から民主主義体制への移行,
80年代後半の東欧諸国の民主化,一部アジア諸 国の民主化が進行した今の時期が「第三の波」
である(3)。
現在までに民主化研究において,民主化に貢 献するとされるおびただしい数の独立変数,民 主化の条件が提示されている。例えば,ハン チィントンはその著書『第三の波』の中で,民 主化,民主主義に貢献すると言われている独立 変数をおよそ27も挙げている。独立変数は,高 レベルの経済的富,識字率の向上といった近代 化論の立場から,プロテスタンティズムという 政治文化論の立場,そして諸外国の影響力と いった外的要因論まで多種多様である。ハン チィントンが言うように「すべての国,もしく は1国の民主主義の発展を説明するのに十分な 単一の要因はない」のであり,民主化の構造変 動は複雑で「国によってその原因は異なる」の
である(4)。
しかしながら,「第三の波」において,歴史 的,社会的,経済的,文化的条件の異なる様々 な国々が同時的に民主化したという事実は,そ れらの条件の相違といったものよりも,むしろ 政治アクターが共通して重要であるというアク ター中心主義の地位を重要なまでに押し上げた ように思われる(5)。無論,アクターも環境の産
物であるから,国内,国際環境とその変化に
よって,その行動は制約され変化する。従って,
民主化に関わる政治アクターと,それが行動す
る国内・国際環境の相互作用に注意を払う必要 がある。
とりわけ「第三の波」で,広く民主化に貢献 したと見られるアクターは「市民」であろう。
奇しくも,市民の動きが顕著になったのは,科 学技術の発達による情報通信三三命と運輸革命 が,地球規模の相互依存関係を深化させたのと 同時に,市民の情報能力と判断・行動能力を向 上させ,市民の地位を国際政治の舞台で重要な 位置を占めるまでに押し上げたからである。特 に,メディアの発達が著しい現代においては,
市民の動きは非常に目を引き,政府の指導者が それらの動きをフォローする必要性が増々高ま る。もはや市民は世界政治の不変係数ではな いのである㈲。
「第三の波」において,市民は既存の巨大な 国家権力,それを支える政党,軍などの制度に 異議を唱え,自らの政治的利益の集約・表出,
抑圧されてきた価値観や権利の回復を求めて新 たな団体を設立し,様々な運動に参加した(7)。
ことに,近年,市民による民主化運動が盛んで ある東南アジア諸国では,そうした運動が強大 な権力を握る政治指導者に,どう対抗して民主 化を推進するか,すなわち「下」からの民主化 は,最も関心を引くテーマと言えるであろう。
こうした市民を代表するアクターとして,
本稿では,NGO,即ち「非政府組織」
(Nongovernmental Organization)の役割に着目
したい。NGOは第2次世界大戦頃から現在に
至るまで,災害援助,飢餓救済,開発援助など ありとあらゆる分野で結成され,その数は膨大なものとなっている。そしてNGOは,国際組
織や政府の手の届かない領域で有効かつ柔軟に 活動し,国際政治の不可欠の一部を形成するまでに成長している。19世紀が国民国家形成の時 代であるとしたら,20世紀後半は世界規模での NGO出現の時代である。
しかし,これほどNGOが成長しているにも
関わらず,その政治的な役割はこれまで比較的軽視されてきた。まして,NGOが非民主主義
体制から民主主義体制というマクロレベルの政 治変動にどう関与するかに関しては,等閑視さ れてきたと言えよう。これは災害救助や飢餓救済といったNGOの社会経済的な役割に注目が
集められてきたからであり,またそれは単なる1ボランティア組織にすぎないといった認識も あったからに他ならない。
しかし,現実のNGOは非常に政治的な存在
である(8)。時には脆弱な政党制を補完する機能 を果たし,政治に介入し政府と積極的に関係を 築くこともある(9)。また抑圧的な体制下で政権 に対峙する唯一安全な政治空間を提供したりも する⑩。NGOの代表的論客であるコーチンは,戦後のNGOはすでに「第四世代」に入ってお
り,その特徴は国全体と地球全体に「宇宙船地 球号」のビジョンを実現しようとする「ピープ ルズ運動」であり,市民とその組織の緩やかな ネットワークが活動基盤となっていると指摘する鋤。この指摘は,成長したNGOがマクロレ
ベルの政治変動に決定的な影響力を行使しうる 重要なアクターとなりつつあることを示唆している。こうしたNGOの政治的役割を再認識し
てこそ,非民主主義体制から民主主義体制という政治変動に対するNGOの政治的役割を探る
道が開かれよう。以上のことから,本稿では,市民を代表する アクターであるNGOの政治的役割を再認識し,
NGOが非民主主義体制から民主主義体制への
移行という「民主化」プロセスで,決定的な影 響力を行使しうる政治アクターであることを,
フィリピンのマルコス体制崩壊プロセスの分析 を通じて考察する。そしてこのことで民主化に
おけるNGOの役割を理論的に把握・考察する
必要性を喚起し,民主化研究に新たな視座を提 供したい。フィリピンを事例とするのは,東南アジア諸国の中でもNGOの活動が群を抜いて
盛んであり,かつ民主化に市民が大きく貢献し,東南アジア諸国の民主化の先駆的存在だからで ある。同地域の民主化研究,中でも市民アク ターによる「下」からの民主化研究の出発点と して,フィリピンは最適の事例であると考える。
さて,フィリピンは1986年の2月革命によっ て,約14年に渡るマルコス独裁体制に終止符が 打たれ,民主化した。国軍の反乱分子,野党勢 力,アメリカの圧力なども革命を成立させる重 要な条件であったが,結集した市民が決定的な 役割を果たしたことから,この革命は「ピープ
ルパワー革命」とも呼ばれる。また,革命時だ けでなく83年のアキノ暗殺事件以降活発となっ た市民による反マルコス運動・民主化運動も,
マルコス体制を下から弱め,民主化を推し進め る役割を果たしたから,総じて民主化プロセス において市民が重要な役割を果たした。その運 動の性質は,階級的同質性に基づいた古いタイ プの社会運動とは異なり,多様な階級・階層を 含んだ多元的なものであった。
しかし,こうした運動を全て「民主化」とい う1つの用語のみで括ってしまうと,それぞれ の運動の持つ独自の価値観・ビジョンを見落と しかねない。実際,民主化運動と一口に言って も,その求める民主主義の方向・形態は異なり,
政治的民主化のみ求めるものから社会経済的民
主化をも求めるものまで幅広く存在していたの である(拗。とはいえ,その運動が自由で公正な 選挙による平和的な政権交代を目指すものであ るならば,政治的民主化を求めるものであるこ とは少なくとも否定できまい。政治的民主主義
の重要な成立条件の1つは,ダールの「ポリ
アーキー」の成立条件の1つである自由で公正 な選挙の確立に他ならないからである㈱。本稿 では「民主化」を「ポリアーキー」が成立する までのプロセス,すわなち「政治的民主化」の 意味に限定して考察する。ある程度自由で公正な選挙が行われることは,
民主化にとって大きな前進であり,権威主義体 制への訣別をも意味しうる。例えば,台湾や韓 国,ネパールでは選挙が権威主義体制,半民主 主義体制から民主主義体制移行への重要な橋頭 量であった。最近では,98年7月のカンボジア の選挙,99年6月のインドネシアの選挙が民主 化への橋頭量とされている。フィリピンでは,
84年の議会選挙と86年目大統領選挙が民主化へ の橋頭量であった。
本稿では,フィリピンにおけるこの2つの選 挙に注目し,マルコスによる選挙不正に対抗し,
自由で公正な選挙の確立を目指して83年10月に
設立された選挙監視NGOである「自由選挙の
ための国民運動」(National Movement for Free Elections・NAMFREL)の,そこでの活動を取り
あげ,NGOが民主化という政治変動にどう貢
献したかを検証したい。フィリピンにおいて,こうした選挙監視NGOの活動に着目すること は,政治的民主化とNGOの関係を探る格好の
素材となりえよう。本稿の枠組みは以下の通り である。まず第1章では,マルコスによる抑圧体制と
選挙を実施するまでの経緯を概観する。第2章 では,フィリピンの選挙の特徴を整理すると共
に,NAMFRELの結成の背景を考察する。第 3章では,NAMFRELの実際の活動を,1984
年の議会選挙と1986年の繰り上げ大統領選挙を
通じて考察し,第4章で,NAMFRELの活動
の意義とその役割を総括を兼ねてまとめ,分析 を加える。
第1章 マルコス独裁体制の成立と選挙 実施までの経緯
1−1 戒厳令布告による独裁体制の成立 1969年にフィリピン史上初めて再選を果たし
たマルコス(Ferdinand Marcos)は,1972年9 月23日に戒厳令を布告した。この戒厳令により 事実上マルコスの独裁体制が成立したわけだが,
戒厳令を布告するには危機的状況をアピールす る必要があった。マルコスは戒厳令布告を正当 化する危機的状況を,主として以下の2点に求
めた。
1つは伝統的な寡頭政治体制である。1970年 代に入りマルコス政権は正当性の危機に直面し ていた。経済面における有効性は低下していた し,選挙における不正や暴力の恒常化,治安の 急速な悪化による社会不安も広まっていた。マ ルコスはこの要因を,ほんの一握りにすぎない 経済的な特権階級が,過度に政治的影響力を行 使する政治体制に求めた。そしてそれを打破す るために強力なリーダシップによる社会改革を 断行する必要性を説いたのである⑯。戒厳令を 布告下すぐマルコスは寡頭政治の根源である議 会と政党の活動を禁じた。そして三権を掌握し,
国軍を自己の管理下に置いて,絶対的な権力を 手中におさめたのである㈲。
戒厳令を正当化するもう1つの危機的状況は,
共産主義勢力である新人民軍(New Peoples Army・NPA)による破壊活動の拡大である。し かし,実際には,新人民軍の脅威は,国家全体
としてみれば大きなものではなかった。そこに は明らかに危機のすり替えがあったのである。
過度に危機的状況を強調することで,戒厳令を 受容しやすい状況を工作したと言える㈹。マル コスに,権力欲と政権の永続化の意図があった ことは明らかであった。その証拠に,戒厳令布 告以後,マルコスは自己を頂点とする独裁的な
「マルコス王国」を築きあげてゆくのである。
その強権的な側面は,多くのメディアを抑圧し たり鰍政敵や自分を批判する者を様々な理由 を付けて不当逮捕したことによく表れている⑱。
またマルコスの独裁性は経済面でも見られた。
マルコス政権下の経済は「クローニー・キャピ タリズム」という言葉によって象徴される。
「クローニー・キャピタリズム」とは,過度に 政府が介入しマルコス大統領とイメルダ夫人
(lmelda Marcos)に癒着した「取り巻き」の企 業家によって主導された経済運営のことである。
クローニーは投資機会,事業資金,納税面で他 の企業家達よりも遙かに優遇された。さらにそ こでは汚職・腐敗が蔓延したのであるU9。
このような特徴を持つマルコス独裁体制は,
70年代後半以降,徐々にほころびを見せ始める。
その大きな原因となったのは経済危機とアキノ 暗殺事件であった。
1−2 正当性の綻び一経済危機とアキノ暗殺 事件
マルコス政権の経済政策の基本は,いわゆる 輸出志向型工業化であった。この輸出志向型戦
略によって,東アジアNICSや一部東南アジア 諸国に代表される発展途上国が,急速な経済成 長を達成したことは広く知られているところで ある。しかしながら,フィリピンにおいては輸 出部門が経済成長を牽引する中心部門にまでは
成長せず,この戦略によって他の東アジア
NICSほどの国際的な競争力と]二業化の牽引力 を獲得できなかった。その大きな原因は,「ク ローニーキャピタリズム」,すなわち政府が経 済へ過度に介入し,汚職と腐敗が蔓延する非合 理的な経済運営にあったと言えよう。とりわけココナツや砂糖産業に代表される伝統的な輸出 部門を,政府の管理下に置き,それを取り巻き のクローニー企業家へ委ねたことは,「クロー ニーキャピタリズム」を象徴するものである。
そこでは汚職と腐敗が蔓延したため,テクノク ラート主導の合理的な経済運営に対する障害と なった⑳。クローニーへの手厚い保護のために,
多くの企業家は輸出部門に参入せず,有利な投 資機会を保障される国内市場向けの生産活動を した。輸出部門自体も外資系企業への依存が強 く,その成長と他の国内産業へのリンケージが 非常に制限されたものとなっていた⑳。また農 地改革の遅れにみられるように,所得の均等配 分には手をつけず,外国援助,借款などでパイ
を大きくした成長にすぎなかったことも,フィ リピン経済を悪化させる原因であったことを指 摘しておきたい⑳。こうした経済政策ヒの欠点
によって,80年代以降,フィりピンは深刻な経 済危機に直面するのである。
80年代に入ると,第2次石油ショックと主要 1次産品の国際価格の暴落,さらに81年デュー イ・ディー事件による金融恐慌によって,フィ リピン経済は大きな打撃を受け,深刻な経済学
機に陥った㈱。この経済危機の根本的な要因は,
第2次石油危機,1次産品価格低落といった国
際的な環境だけでなく,国内の経済政策,すな わち「クローニー・キャピタリズム」を中心と する経済政策に根本的な問題があったことは明らかであった。
そして正当性の侵食は経済面だけではなかっ た。政治面でも政権の正当性を根底から揺さぶ
る事件が起こった。それは83年8月21日に起
こったアキノ元上院議員暗殺事件である㈱。真 相はともあれ,この事件による市民の怒りはマ ルコスに向けられた。その証拠に,この事件を 境に様々なマルコス抗議運動が形成されてゆく。また,国際社会,特にフィリピンを支えてきた アメリカが,マルコスの強権的な側面に徐々に 批判的になるのも,この事件以降である。
この事件による政情不安は相次ぐ資本逃避を 引き起こし,6月に切り下げられていたペソは 10月にも切り下げられ,対外借款返済の一時停 iLを宣言することとなった㈲。84年に7.1%
だったGNPは85年には4.2%に落ち込んだ。
78年第1半期に15%だった失業率は,84年の第 1半期には40%以上になっていた。そしてイン フレ率は50%と戦後最悪の数字を示したのであ
る2岱.、
以.しのように,80年目になると,政治経済両 面からマルコス政権の正当性は根底から揺るが
されることとなった。そして内外の批判・圧力 を緩和し,正当性の回復を求めて,マルコスは 1984年に議会選挙の実施を決意するのである。
第2章 選挙不正と選挙監視NGOの誕
生
2−1 フィリピンにおける選挙不正の特徴
フィリピンの選挙は伝統的に「3G」と特徴
づけられる。3Gとは「銃」(Gun),「私兵団」
(Goon),「金」(Gold)を意味し,それぞれの語 の頭文字を採ったものである。「銃」と「私兵 団」は,有権者に対する脅迫,対立する候補者 の暗殺,投票箱の強奪などに用いられる。すな わち「暴力」である。「金」は六号に使われる 金品を意味する⑳。この3Gは,戒厳令前から 現在に至るまで,毎選挙ごとに蔓延している。
戒厳令前では,1949年と1969年の選挙が顕著 な「3G」選挙であった。特に49年目大統領選 挙は前代未聞の「3G」選挙だったと言われて
いる。1948年に任期途中のロハス(Manuel
Roxas)が死亡して,急遽大統領に就任したキ リノ(Elpidio Quirino)が,選挙には勝ったも のの,私兵団の横行,賄賂,有権者リストの水 増しなど,ありとあらゆる不正手段を用いたか らである。この目に余る不正は,野党勢力の反 乱を引き起こし,また農民層のフク団の拡大を も促した。1969年の大統領選挙では,現職マル コスが再選をかけて立候補するが,キリノ同様 に国軍や選挙費用を買票のために使ったので,野党勢力のデモと財政赤字を引き起こした⑳。
戒厳令前から現在に至るまで,選挙ごとに3 Gが絶えないという事実は,それが伝統的に根 付いたフィリピンの政治文化であることを示唆 している⑳。しかしながら,マルコス政権下で 選挙不正が横行したのは,マルコスが選挙の公 正さを管理するはずの選挙管理委員会を操作し,
国軍を私物化して,有権者の脅迫等に使用した
ことにも起因する。もちろん3G以外にも,有 権者リストの偽造・水増し,開票の操作など,
様々な不正が行われてきた㈹。こうして伝統的 に選挙不正が蔓延していたフィリピンでは,自
由で公正な選挙を求める選挙監視NGOの活動
が,民主化プロセスで重要な役割を果たす下地 が存在していたのである。2−2 NAMFRELの誕生とその背景 フィリピンの選挙監視NGOの歴史は1951年
にさかのぼる。1951年に伝統的な選挙における 不正や暴力といった悪癖を阻止し,公正で自由 な選挙の確立を求めて結成された「自由選挙の ための国民運動」(National Movement for Free Elections=NAMFREL)が,フィリピンにおける 最初の選挙監視NGOと言えるだろう。 NAM.
FRELは市民やビジネスグループによる無党派 の選挙監視NGOであった㈱。 NAMFRELはそ
の後消滅するが,1983年に再び復活する。この新生NAMFRELがマルコス体制崩壊プロセス
で重要な役割を果たすのである。新生NAMFRELは名前こそ同じであるが結
成の背景は異なっていた。結成の契機となった のはアキノ暗殺事件であった。結成を主導した のは経済的特権層であるビジネスグループであ り,彼らはアキノ暗殺事件による大衆の急進化,
さらにはそれらの共産勢力への傾倒を懸念し,
それを阻止するためには選挙による平和的,民 主的な政権交代が必要と考えたのである。こう
して83年10月にNAMFRELが旗揚げされた。
その主要な目的は,マルコスによる大幅な選挙 不正を阻止し,公正な選挙を実施して,大衆の 選挙への信頼を回復することであった幽。
一方で,カトリック教会もNAMFRELの結
成を支援した。フィリピンのカトリック教会は 伝統的に保守的で体制順応的であり,経済面で 教会自身が最も裕福な組織の1つであるという 特徴を持っていた。事実,多くの司教や司祭達 が土地所有階級や資本家として経済的特権層に 属していた。このためマルコス政権による人権 侵害等に対しても,批判はすれども協調という
「批判的協調」とも呼べる態度をとっていたの である㈹。
しかし,アキノ暗殺事件によって明らかに反 マルコス的態度をとるようになる。それは暗殺 後の11月に発表した司教教書によく表れている。
そこで教会は,:革命による流血を避けるために は和解が必要であること,汚職や腐敗の防止,
基本的人権の回復を求めたのである㈱。革命に よる流血を避けるために和解が必要であるとい う主張は,ビジネスグループ同様,マルコス批 判運動が高揚し,大衆の急進化に伴い台頭して きた共産主義勢力による革命の動きに対して,
教会自身が脅威を感じていたこと,汚職や腐敗 の防止,基本的人権の回復は,マルコス政権の 不正の体質,人権侵害といった状況をもはや見 過ごすことができないといった教会の宗教的・
人道的な立場がよく表れている。
こうしてアキノ暗殺事件を契機として,カト リック教会も選挙よる平和的,民主的な政権交 代を求めるようになり,利害の一致を見てビジ ネスグループと協力関係をより強めたのである。
カトリック教会とビジネスマンの連絡協議機関 としては,71年に設立された「ビショップ・ビ ジネスマン会議」(Bishops Businessman s Con−
ference for Human Development=BBC)があっ たが,それを通じてカトリック教会のシン枢機 卿(Jaime L. Cardinal Sin)は,財界の指導者達
とコンタクトをとっていた。その中にはフィリ ピンを代表する産業企業の1つである製粉会社
の社長で,同時にNAMFRELの会長となった
ホセ・コンセプション(Jose Concepcion, Jr.)
もいた㈲。NAMFRELはカトリック教会の支持
を得たことで多くのボランティアを獲得するこ とが可能となり,広く国民に受け入れられる存 在となった。なぜならフィリピン人の90%近く がカトリック教徒だからである。第3章 マルコス体制崩壊における NAMFRELの役割
3−1 1984年の議会選挙とNAMFR肌
1984年の議会選挙の実施は,民主化への大き なステップであった。なぜならこの選挙は,マ ルコス戒厳令布告以来,初めての「自由」選挙 だったからである。確かに,78年に暫定議会選 挙,81年には大統領選挙が行われたし,またそ の間,野党勢力も徐々にではあるが復活してき ていた。しかし,78年の選挙は既成政党からの 参加が乏しく,選挙戦術も制限され財源もな かったために,政府不信任を示す以外の効果は なかったし,81年に至っては野党勢力が全国政 党としては活動できなかったのである。確かに 野党勢力自体,その内部で選挙参加を巡って分 裂するという問題を抱えてはいた。しかし,そ れはマルコスとその政党である「新社会運動」
(Kilusan Bagong Lipunan=KBL)が,選挙を支 配・操作し,初めからマルコスの勝利が明白な 形式的なものにすぎないのではないかといった 選挙に対する不信感があったからである⑯。
しかし,84年の議会選挙はそれらとは異なっ ていた。アキノ暗殺事件によって,国際社会,
特にアメリカが強い関心を持ったからである。
例えば,この選挙に先立ち,レーガン大統領は
マルコスに宛てた84年3月29日付けの書簡で
「フィリピンにふさわしい民主制度が十分に機 能するように努力を続けることが,経済的,政 治的信頼を再構築する鍵である」㈱と警告し,
マルコスに圧力をかけている。そのため・マル コスはある程度の野党勢力を参加させ,選挙が
「自由」であることを国際社会にアピールする 必要があったのである。こうして様々な野党勢 力の参加が許されることになった。
異なっていたのはそれだけではない。様々な 市民団体・抗議団体がボイコット戦略をとる中,
結成されて間もないNAMFRELが数十万人の
ボランティアを集めて選挙監視に参加したのである㈱。NAMFRELは政府の選挙管理委員会で
あるCOMELEC(Commission on Elections)の 承認を得て,投票所にボランティアを動員し,選挙監視を行うことができた。NAMFRELは
設立からわずかであったが15万人目ボランティ アを選挙監視のために集めることに成功した㈲。このことによって自由で公正な選挙であるとい う期待を増幅させたのである。
NAMFRELの活動は,投票日以降の開票監
視に留まらず,それ以前から始まっていた。ま
ずNAMFRELはマルコスKBL支配の暫定国民
議会に,選挙法,選挙方法の改正・改革を求め
てロビー活動を行った㈹。その結果,NAM・
FRELの要求は全てマルコスに受け入れられ,
暫定議会が制定する選挙法の中に盛り込まれた。
しかし,これらの要求により選挙不正がなく なったわけでは決してなかった。例えば有権者 登録では,架空の人物が多く登録されたし,選 挙運動期間中も野党側には平等なメディアアク セスが認められなかった。また,予想通り投票
日当日も国軍による脅迫,買票が行われたので ある㈲。選挙法を改正しただけでは,あまり効 果はなかったと言える。
NAMFRELの活動で,選挙不正に対して効 果的だったのは「クイックカウント作戦」
(Operation Quick Count=OQC)であった。 OQC はマルコスの不正に対して野党勢力が議席を確 保するのに最も有効な方法であった。従来,選
挙結果を集計し勝利者を宣言するのはCOM−
ELECの仕事であった。しかし, COMELECの
集計は遅く,票が操作されている疑いがあった。そのためNAMFRELは自己のボランティア
ネットワークを用いて,電話や電報によって選 挙結果を集計し,非公式に国民にその結果を知
らせる迅速で正確なシステムの設置を提案した
のである。これがOQCであった。その提案の 結果,NAMFRELはCOMELECとは別に非公
式の開票を行うことを許された㈱。
しかしながら,実際にOQCを開始するとそ
の作業は思いの外難航した。群島であるフィリ ピンでは集計に時間がかかったし,地方では伝 達手段不足から選挙結果を全く入手できなかったりもしたからである。それでもCOMELEC の集計よりは速かった。最終的なNAMFREL
の集計によると,183議席中91議席を野党が獲 得することになり,野党勢力は奇跡に近い躍進を遂げたものと思われた。ところが,COM・
ELECの最終的な集計がでると,その議席は59 に減少した。明らかに何らかの不正手段がとら れたものと思われる。しかし,幸い比較的選挙 結果を集めやすかった都市部の選挙結果を早く 集計し発表していたおかげで,そこで獲得した 野党勢力の議席は奪われなかったのである㈲。
最終的に都市部では28議席中21議席を獲得した
(表1) 都市部における野党勢力の獲得議席数 回 市
議席数
議席獲得数メトロマニラ 21 15
セブ 2 2
ダバオ 2 1
ザンボアンガ 1 1
カガヤンデオロ 1 1
バギオ 1 1
合 計 28 21
(出所)De Guzman and Tancangco, Mの1984 Bα αsα 8Pα拠わαηεαE θc 痂:Ro5 6γqr P配一 薩翔瑠L88誌妨oγε1907 01987, Manila:
House of Representatives Congressional Library,1989.
(表1)。また183議席中59議席と,NAMFREL の集計に比べると減少してはいたものの,議席 全体の約30%を獲得したから,野党勢力はかな
りの躍進を遂げたことは確かである㈹。
こうして84年の議会選挙では,結成して1年
にも満たないNAMFRELが,多くのボラン ティアを募り,OQCを駆使して都市部を中心 に野党勢力躍進を支える重要な役割を果たした。
この下支えがあってはじめてマルコスのKBL
一党独裁体制を切り崩すことが可能となったのである。この選挙によって,NAMFRELは選
挙がマルコス体制を弱体化させ民主主義を回復 するのに有効な平和的・民主的手段であること を国民全体に改めてアピールすることができた のである。3−2 1986年目繰り上げ大統領選挙と NAMFR肌
来るべき大統領選挙に向けて,野党側では候 補者の一本化の動きが84年11月以降1年以上に わたって続いていた。そこでは2つの派閥があ り,その歩み寄りが難航していた。1つは最大
野党「民主野党連合」(United Democratic
Organization=UNIDO)のラウレル(Salvador Laurel)を中心とした勢力であり,もう1つは 故アキノ元上院議員の妻であるコラソン・アキ ノ(Corazon Aquino)を中心とした「呼びかけ グループ」(Convenor Group=CG)である。 UN・IDOのラウレル議長は大統領選出馬への野心
を抑えきれず,85年4月に連立の合意が成立し てからも,CGに対抗して「全国統一委員会」(National Unification CommitteeニNUC)をつく り,先手を打って6月に大統領候補となった㈲。
一方,アキノ自身は当初,立候補するつもり はなかったが,立候補要請の嘆願書に100万人 国民が署名すれば出馬すると公言していた。そ して署名運動の結果,85年12月1日にその100 万人が達成されたためアキノは出馬を決意した。
アキノが出馬を決めるとすぐに,ラウレルの
UNIDOに対抗するために他の野党勢力がバッ
クアップのために結集した。その結果,「国民 のたたかい」(Laban ng Bayan;LABAN)が結成された㈹。LABANは暗殺されたアキノ氏の 政党の名を復活させたものである。LABANが 結成されると,多くのUNIDOの政治家やその 他の野党勢力がLABANへ鞍替えしたため,
ラウレルは孤立することになる。しかし,最終 的には,カトリック教会のシン枢機卿の説得も あり,ラウレルは副大統領候補として出馬を表 明した。その結果,UNIDOの旗の下にアキノ,
ラウレルコンビでの立候補が可能となったので ある。こうして野党勢力がアキノの下で一応は 統一を果たすことができたのである働。
なぜ87年に予定されていた大統領選挙を,86 年2月7日に繰り上げたのだろうか。そこには,
マルコスが健康面での問題を抱えていて,87年
までにどうなっているかわからないといった不 安,84年の議会選挙での野党勢力の躍進から,
86年5月に予定される地方選挙で地方自治の KBLの幹部が敗れるかもしれないといった不
安,そして政権の安定継承に主眼を置きマルコ スに大統領選挙の早期実施を求めるアメリカの 圧力といった要因が複雑に絡み合っていたので ある㈱。マルコスはこの選挙で,84年以上にあからさ まな不正を行った。84年の野党勢力の進出から 脅威を感じていたマルコスは,買票の値段を増 やし,軍を野党勢力の多い地域に配置して有権 者を脅したり,さらにそれだけでは不十分と考 え,世論調査を使い自分に不利な地域を特定し て有権者登録名簿から特定の名前を削除したり,
何の知らせもなしに投票所を変えたりしたので
ある㈲。この有権者名簿の大量脱落はKBLの
新しい戦術であり,フィリピン全土でざっと 300万人の有権者が投票できなかったと言われ る。特にアキノ地盤といわれる地域で集中的に 発生した鱒。一方,NAMFRELは84年の議会選挙よりも
さらに多くのボランティアの組織に成功してい た。84年では65%の選挙区に15万人であったの が,この選挙ではそれよりも3倍以上の50万人 の市民ボランティアを動員し,それを8,600あ る選挙区の85%というほぼすべてに配置したの
である㈹。さらに他のNGOも選挙監視に協力
した。例えば,カトリック教会直属の「全国社 会行動事務局」(National Secretariat for Social Action, Justice and Peace・Caritas Philippines=NASSA)やビジネスセクターが主導する「フ
ィリピンビジネス社会開発財団」(Philippine 3usiness for Social Progress=PBSP)が, NAM一FRELに組織的なバックボーンを提供した田。
また,84年の議会選挙では選挙をボイコット した「8月21日運動」(August Twenty・One
Movement=ATOM)や「国民精神目的統合運
動」(Bansang Nagkakaisa sa Diwa at Layuninニ
BANDILA)といった反マルコス大衆抗議組織
も選挙監視に参加した協。大統領選挙というこ ともあったが,84年の選挙よりも選挙に対する 市民の期待度は,はるかに高いものとなった。84年の議会選挙後,NAMFRELは大きな問 題を抱えていた。議会選挙の後,COMELEC認 定の市民団体の地位を剥奪されたからである。
認定されなければ選挙監視は許可されない。し
かし,こうした不安定要因を抱えながらも NAMFRELは自由で公正な選挙を求めて精力
的に活動した。
議会選挙後,まずNAMFRELは84年目議会
選挙の反省から,85年初めに新しい選挙法を提案した。その内容は,例えばCOMELECは少
なくとも投票日の180日前には選挙監視団体を 配置すること,印刷される投票用紙の数を有権 者人口の110%にまで制限すること,使用しな い投票用紙を選挙監視のいる前で破棄すること などで,不正行為の監視をさらに強化するもの であった。これをもとに議会の野党勢力は選挙 法改正を議会で提案し,それが可決されたのである。成立した選挙法は,NAMFRELの提案
したものと驚く程似かよっていた。マルコスが 支配する議会でなぜこのような法律が成立しえたのか。NAMFRELの当時の事務局長であっ
たモンソド(Christian Monsod)によれば,マ ルコスが合法性を好んだからだという。つまり 法律が自由選挙を保障しているのに私がそれに どうやって違反できるのかということを示すためであったという図。
NAMFRELは選挙直前まで承認されなかっ
た。党派的な性質を帯びていて,アメリカのCIAが支援していると考えられていたからで
ある。結局,承認されたのは85年12月24日,繰 り上げ大統領選挙のおよそ2ヶ月前であったから,約3年を承認のために費やしたことにな
る㈲。承認が直前まで得られなかったにも関わ らず,50万人以上のボランティアを集めること ができたことは,選挙への期待だけでなく,NAMFREL自体への期待度の高さを表してい ると言える。例えば,BBCの全国規模の調査 によれば,NAMFRELが84年の選挙を公正に
するのに大いに役立ったと答えた人は53%であった。またメトロマニラでは67%がNAM・
FRELにボランティアとして志願すると答えて いる。他の世論調査でも「あなたは誰を信頼す る」という質問に対して,NAMFREL−65%,
地方公務員一36%,最高裁判所一32%,議会
一28%,警察一23%,COMELEC−23%,とい
う結果であった㈱。
ようやく承認を得たNAMFRELは次のこと をCOMELECに要求した。第1に84年置議会 選挙と同様にOQCを行うこと,第2に選挙監
視員を指名する権利を得ることであった。後者 は許可されなかったが,前者に関しては概要の提出を求められた。結局,COMELECがカウン トし,NAMFRELはそれを援助するだけとさ
れ,独自の集計と開票の許可されなかった。し かし,長い協議の末,86年2月1日目ようやく 別々に行う並行開票の許可を得ることができ た勧。選挙の6日前であった。同時開票が行われることは重要な意味を持っ ていた。単に結果が2つになることを意味した
(表2)87年繰り上げ大統領選挙集計過程
COMELEC NAMFREL
1 マルコス アキノ マルコス アキノ
2月8日 11,593 6,575 383,131 568,087
2月9日 1,112,275 1,079,228 3,455,548 4,306,684 2月10日 3,056,236 2,903,348 4,806,166 5,576,319 2月11日 3,813,688 3,610,099 5,971,693 6,658,838 2月12日 5,899,873 5,384,368 6,281,510 6,933,989 2月13日 7,032,095 6,381,364 6,532,362 7,158,679 2月14日 7,239,306 6,597,351 6,532,362 7,158,679
(出所) β螂 麗55Dαy,1986年2月8日〜2月14日付。
だけでなく,もし結果がマルコスの勝利ならば,
自動的に選挙不正を行った疑いがかかる。国民
の多くはNAMFRELを信頼しており,逆に COMELECに対しては不信感を持っていたから
である。また,故アキノ氏の妻コラソン・アキ
ノの人気は高く,残虐に殺された美のために聖
戦を挑むアキノ夫人の姿は,多くの国民にとっ
てIE義に見えたからでもある。さらに,国民自
身も深刻な経済危機とアキノ暗殺に見られるよ
うな強権的な抑圧体制に疲れていた。NAM−
FREI、は無党派の選挙監視NGOであったが,
マルコスによる大幅な選挙不正を阻止しようと 多くのアキノ支持者がボランティアとして参加 したことから,結果的にはアキノを支持するこ ととなった。
選挙当日は予想通り様々な不正が行われた。
投票箱のすり替えや国軍による暴力,脅迫,全 世界の人々が注目するにもかかわらず不正が横
行した酌。だが,最も決定的な不正はCOM−
ELECの中央段階における集計操作であった。
そこでは大幅な票の操作が行われたのである。
そのため2月9日の夜,中央集計センターの電 算機オペレーターら30人は計算結果が手を加え て発表されていると抗議して,一斉に職場離脱
をした。実はその指導者は2月革命でクーデタ を起こす国軍改革運動(Reform the Armed For−
ces Movement・RAM)の指導者の1人で,エン リレ国防相の情報将校であるカプナン空軍中佐 の妻であった。これによりマルコスはきわめて まずい立場に立たされた69。
表2は新聞で公表されたCOMELECと NAMFRELの集計結果である。 COMELECの 集計がNAMFRELに比べて,かなり遅れてい ることがわかる。サイモンは,COMELECは意
図的に作業を遅らせ,本物の集計用紙と偽の集 計用紙をすりかえたからだと指摘している。また,NAMFRELのボランティアがほとんどア キノ支持であったために,NAMFRELの集計
がアキノ陣営に有利に行われるのは当然だったが,NAMFRELの偏向度の方がずっと少な
かったとも述べている田。
結局,当選者を宣言する憲法上の権限は国民
議会にあり,その議会はKBLが過半数を占め
ていたので,14日にはマルコスが得票数1080万 票,アキノが930万票として発表し,強引にマ ルコスの当選を確定したのである馴。当選宣言によってマルコスに対する不信感は さらに高揚した。大幅な不正を行ったことが明
らかなCOMELECの結果を,国民は受け入れ
ることができ套かったのである。政権の正当.性 の回復を求めたはずの選挙が,皮肉にも国民の 不満をさらに拡大する結果となった。その証拠 に,選挙結果に対する不満から,アキノを中心 として,2月16日にマニラで勝利宣言を行った が,そこに50万人以上の市民が集っている。そ こでアキノは,マルコスが彼女の勝利を認める まで全国的な不服従運動をおこなうと宣言し,マルコスが管理下におく新聞,政府やクロー ニー所有の銀行に対するボイコットを呼びかけ たのである㈱。この不服従運動はマルコスをさ らに追いつめていった。
同時に,アメリカの選挙撤回宣言も重要な意 味を持っていたらレーガン大統領は当初,不正 は両陣営にあったと言ったが,2月15日には撤 回し,ホワイトハウスは広範囲な不正と暴力が 主として与党によって行われ,それはあまりに
も度を超していて,選挙の信頼性は疑わしいと して公式にマルコスの不正を非難した㈹。この 国外最大の支持者であるアメリカのマルコス離 れは,マルコスを国際社会から一気に孤立させ たのである。
しかし,この時点ではマルコス政権を崩壊さ せる決定的な最後の一撃が不足していた。政権 がほとんど正当性を喪失したこの瞬間に,決定 的な最後の一撃を与える起爆剤となったのが,
エンリレ(luan Ponce Enrile)とラモス(Fidel
V.Ramos)率いる国軍内の反乱分子である
RAMの蜂起であった。1986年2月22日,国軍内部の反マルコス勢力 はクーデター計画が察知されたために,追いつ められたエンリレ国防相はラモス参謀総長代理 を誘い,国軍総省本館建物に籠城し,内外の
ジャーナリストを相手にマルコスを痛烈に非難 した。これが2月革命の発端であった。
国軍はマルコスの独裁体制の柱として肥大化 したが㈱,同時に国軍内部の対立関係も顕著に なっていった。それはフィリピン士官学校出身 将校と一般大学出身将校の対立である。この対 立は伝統的なものであったが,戒厳令以後,マ ルコスが一般大学出身者を優遇するにつれて対 立が強まっていった。対立の図式は,ベール
(Fabian Ver)とラモスの対立によく表れてい る。マルコスと同じフィリピン大学出身のベー ルは,マルコスのボディガードを務め,そこか ら出世した人物だが,士官学校出身のラモスは プロフェッショナルな軍人で戦闘経験もあった。
81年にベールを参謀総長にし,ラモスを参謀次 長したことで,ベールを中心とするマルコス忠 誠派の,ラモスを中心とするプロフェッショナ ルな軍人に対する勝利が明らかとなった。その 結果,ラモスを中心とする勢力は不満を高めた のである。さらに,アキノ暗殺事件によって国 軍が内外から非難されると,国軍内部の不満層 の運動に一層拍車をかけた。特に暗殺疑惑で ベールが休職し,ラモスが参謀総長代行に任命 されたにもかかわらず,ベールの権力が依然強 く,国軍の信用回復を含める改革はうまくいか なかったことは,RAMの活動を本格化させ,
2月革命で反旗を翻した反乱軍の形成を促して いった㈹。だが,500人にも満たない反乱軍は,
マルコス国軍に対して圧倒的に不利であった。
この不利な状況を一転させたのが,反乱軍を 守るためにアギナルド基地に結集した市民で あった。市民はアギナルド基地の前でバリケー ドをつくって反乱軍を国軍から守ろうとした。
兵士を市民が守るのではなく,完全武装で立て
こもった兵士を,逆に何百万人もの丸腰の市民 が,兵上を守るために結集したのである。これ が「ピープルパワー」であった。この結果,国 軍は市民への発砲をためらい,反乱軍を武力で 制圧することを断念せざるをえなかった。そし て革命後,真の勝利者アキノ下に民主主義政権 が成立したのである。
第4章おわりに
4−1 ピープルパワーとNAMFR肌
前章で考察したように,2月革命において反 乱軍RAMは革命を成立させる重要なアクター
であった。さらにアメリカのマルコス離れも重 要であった。しかし,それだけでは革命は成功 しなかった。市民の結集,すなわちピープルパ ワーがあったからこそ革命が成立し得たのである。それではこのピープルパワーとNAM−
FRELは,どのような関係にあったのか。それ を考えるには,まずマルコス体制を崩壊させた ピープルパワーの性質について検討する必要が ある。
ピープルパワーは,ともすれば突然現れた怒 れる暴徒にも見える。しかし,それを先導した のはカトリック教会のシン枢機卿であった。シ ンはカトリック系ラジオ局ヴェリタスを通じて,
市民にアギナルド基地に集まるよう呼びかけ,
それを聞いて自発的に結集した市民がピープル パワーを形成した。その証拠に多くの市民がラ
ジオを携帯していた鱒。カトリック教会の呼び かけは思った以上に効果をあげた。既述したよ
うに,フィリピン国民の90%近くがカトリック
教徒だからである。こう考えるとピープルパ
ワーはシンの指導の下に生み出されたように見
える。
これに対してバチスタは,全体として革命時 の市民は極めて自発的に集結し,様々な利益団 体の戦術も組織的な同調も欠如していた点を強 調する鋤。またローゼナウは,フィリピンの
「ピープルパワー」を,ミクロアクターである 個々の市民の,マクロアクターへの変容と見て いる。彼は市民は集合的な結果に貢献するとは 気づいておらず,予期せぬ反乱によってマルコ ス追放という結果を生んだと指摘する。ローゼ ナウは「ピープルパワー」が組織的なメンバー シップを共有せず,バラバラではあるが,多く の市民の収束によって出現したことから,それ を「リーダレスパブリック」,つまり「指導者 なき公衆」と分類している聞。バチスタもロー ゼナウも,シン枢機卿の呼びかけがあったとは いえ,それは単なる起爆剤に過ぎず,ピープル パワーは明白な指導者が存在せず未組織で,自 発的に結集したという点を強調していると言え
よう。
社会学的な見地から見れば,ピープルパワー の出現は,メディアの発達に伴う大衆社会現象 ともとれる。メディアによって操作される大衆 で,この場合のメディアはラジオである。また,
組織への過剰同調としてのデマゴーギックな現 象とも考えられる。確かに,そういう要素があ ることは否定できない。しかし,市民が恐怖す るマルコスの国軍の前に何の理由もなく立ちは だかれるだろうか。強い反マルコス感情を持っ ていたからこそ恐怖を乗り越えて,国軍,つま りマルコスの前に立ちはだかることができたの
である。RAMの反乱もシンの呼びかけも単な
る起爆剤に過ぎなかった。ピープルパワーとは それまでの反マルコス感情の爆発であったのである。
この反マルコス感情を市民の間に浸透させる 役割を果たしたのが,アキノ暗殺以降,特に活 発に市民を組織した多様な市民団体・市民運動 であった。それらは左派系の急進的・暴力的な 組織から穏健的・非暴力的組織まで幅広く存在
していた。NAMFRELは,その中で公正な選
挙による平和的な政権交代を求めた穏健的な組 織であったが,穏健的であるとはいえ,NAM−FRELは最も直接的な方法で市民に反マルコス 感情を浸透させ,ピープルパワーへと導いて いった。なぜなら2月革命を成立させたピープ ルパワーは,選挙に参加した市民が,不正選挙 の現実に直面したことによってマルコスとの全 面的な戦闘へと結集し,その過程で形成された ものであるからである。不正な選挙によるマル コスの勝利宣言は,選挙民の怒りを爆発させ,
これが選挙後の不服従運動,そしてピープルパ ワーへと連なっていったのである。この意味で
NAMFRELの活動は革命の下地を形成するも
のであったと言えよう。4−2 政治的民主化におけるNAMFRELの
役割最後に,民主化におけるNAMFRELの意義
について,総括を兼ねて分析を加えることにす
る。
まず,OQCを含めたNAMFRELの選挙監視
活動に関してである。84年の議会選挙では,全 体として見れば不正が行われたわけであるが,名目上「自由」選挙が行われたことは民主化へ の大きなステップであった。なぜならこの選挙 での野党勢力の進出は,選挙に対する国民の期 待,平和的合法的解決への期待を高めたからで
ある。そこではNAMFRELのOQCが野党勢
力進出を支える役割を果たしていた。86年の大
統領選挙では,NAMFRELは84年よりもさら
に多くの市民を動員し,OQCを駆使したが,
結局マルコスの勝利となり,84年の議会選挙で 高まった選挙への期待を一気に押しつぶす結果
となった。しかし,NAMFRELがOQCによっ
てアキノを勝利者としたことは,選挙不正にも 関わらず,自分たちボランティアの集計が正し いという証明でもあったし,国民の反マルコス 感情をより一層高揚させる役割を果たしたと言 えよう。その結果,選挙に負けはしたものの,
アキノの下へと市民を結集させることができた
のである。その意味で,NAMFRELのOQCを
中心とする活動は,マルコスの不正に対抗し,
民主化勢力を結集させる有効な手段だったと言
える。
第2に,NAMFRELが市民を選挙監視に動
員したことは,自由で公正な選挙の確立という,
民主主義の根幹となる重要な価値観を効果的に 市民に浸透させた。そして価値観だけでなく強 い義務感をも芽生えさせた。それは選挙を守る のは他でもない我々市民であるという義務感で ある。実際,市民ボランティアの中には投票箱 を自分の身体に鎖で結びつけている姿も観察さ
れた㈹。NAMFRELは市民を直接選挙に動員し
たことで,不正選挙の現実に直面させ,反マル コス感情を効果的に高め,選挙後のアキノ率い る不服従運動,そしてピープルパワーへと市民 を導いていったのである。第3に,結果として選挙による平和的な政権 交代とはならなかったわけであるが,他の多く の組織が選挙をボイコットする中,選挙へ参加
したNAMFRELは,政治社会内の反マルコス
勢力と市民社会内の反マルコス勢力を,アキノというより保守的な合法野党勢力へと集結させ,
結束を強める唯一の橋渡し役であったと言える。
ステファンは,市民社会は最高にうまくいけば,
権威主義体制を崩壊させることができるかもし れないが,民主主義への完全な体制移行は政治 社会を巻き込むものでなくてならないと指摘す る⑳。フィリピンでは,選挙によって,そして アキノの立候補によって選挙を通じてのマルコ スとの全面戦闘へと向かった。そのアキノの下 にまとまった政治社会内の民主化勢力と市民社 会の民主化勢力をつなぎ,協力関係を促進した
のは,あくまで選挙への参加にこだわった NAMFRELであった。そして同時にこのよう
な協力関係の構築によってこそ,選挙でボイ コット戦略をとった共産党勢力への市民の傾倒 を防ぎ,アキノという穏健的な野党勢力の下へ と導くことが可能となった。その結果,アキノ の下で民主主義政権が誕生したのである。そして,なぜNAMFRELがこれだけのボラ
ンティアを集めることができたのだろうか。第1に,NAMFRELに対する期待の高さである。
すでに指摘したように,マルコスと選挙管理委
員会に対する国民の信頼度は低く,NAMFREL
に対する信頼度はそれよりもはるかに高かった のである。第2に,カトリック教会の役割があった。カ トリック教会の後押しは,約90%がカトリック 教徒であるフィリピン国民に大きな影響を与え,
NAMFRELを多くの国民に受け入れられやす
い存在にしたのである。
第3に,アキノの人気の高さである。残虐に 殺されたべニグノ・アキノの妻がマルコスに立 ち向かう姿は,多くの国民に正義に映ったので ある。各集会でも多くの市民が集まり,アキノ
のシンボルである黄色のT一シャツなどを身に つけていた㈱。そして,選挙監視に参加し不正 を阻止することは,アキノと共にマルコスと戦 うことを意味していたのである。
第4に自由で公正な選挙という民主主意義的 価値観をキータームにしたことである。フィリ ピンは,「アジアにおける民主主義のショー ケース」と言われ,早くからアメリカ式の議会 制民主主義が導入され,選挙が行われていた。
そのため民主主義的価値観が根を張っていると 見られてい たが,戒厳令の布告によって,それ
が一気に抑圧されたのである。NAMFRELが
自由で公正な選挙をキータームに活動したこと は,その抑圧を解放する格好の機会を国民全体 に提供したのである。
最後にNGOの機能面に関してまとめると,
NGOは自己を中心として無数のボランティア
を結集することができる。もちろんキータームに何を選択するかにもよるが,NAMFRELの
場合,自由で公正な選挙をキータームにするこ とで多くの市民を動員することができた。その 結果,マルコス権威主義体制からアキノ民主主 義体制成立というマクロレベルの政治変動を可 能とする重要な政治アクターとなりえたのである。そしてNGOは単なる1ボランティア組織 に留まらない。NGOは自己を媒体として多く
の市民を動員し巨大な市民運動へと変容させる ことができる,いわば変換器として機能を果たす。その最もたる例がNAMFRELであった。
NAMFRELの事務局長ルズは次のように語る。
「NAMFRELは確かにNGOかもしれないが,
それだけではない。必要な時には多くの市民
を結集し,1つの目的を達成しうる『運動
(movement)』なのだ」㈲と。こうしてNGOは,
ミクロレベルの市民を結集させ,マクロレベル の政治変動,即ち政治的民主化において影響力 を与える巨大な市民運動へと変容しうるのであ
る。そしてNAMFRELに代表されるNGOの
活動は,アキノ体制以降も継続する。現在まで にアキノ,ラモス,エストラーダと2度の政権 交代を経たが,3Gに見られる選挙不正はいま
だに解消されていないからである。NAMFREL に代表される選挙監視NGOは,民主主義体制
の成立後にも,成立した民主主義の深化を求め る活動を展開することになるのである㈱。注
(1)例えば代表的なものに,東南アジア10ヶ国の政 治体制を「権威主義」「半権威主義」「半民主主 義」「民主主義」の4つに分類した,Clark D.
ハ1納gγand Ross Mαγ」α第Dθ励oc箔α yα屈Pωρ如ρ膨π ∫σμ,ぬ8α3,/15如:丁肋 Wfπdεqr c海απ8らBoulder:
Westview Press,1995,東アジア・東南アジア諸 国において経済発展が民主化に与える影響を各国 別に論じた,Anek Laothamatas, Dθ刎oc獅α セα ⑩π ∫oκ 雇αs α7財Eα5 As虹Singapore:Institute of Southeast Asian Studies,1997,がある。
② 民主化研究と言えば,全体主義体制・権威主義 体制から民主主義体制への体制移行を引き起こす 条件・要因は一体何かという問題に関心が集まる。
しかし,民主主義体制が成立して,.それが定着す るまでの不安定な状態をいかに乗り越えるかとい う問題も,重要なテーマである。なぜなら多くの 発展途上国で,導入された民主主義的制度が,う まく機能していないからである。筆者はこの問題 を,拙稿「ポストマルコスにおける民主主義の強 化に関する一考察一選挙NGOの活動を中心とし て」(r早稲田大学社会科学研究科紀要別冊」早稲 田大学大学院社会科学研究科,Vol.5,2000年)
の中で,フィリピンを事例として検証している。
参照されたい。
(3} Samuel P. Huntington, Tん8丁師名4 Wα砿D例。・
αα彪rα∫伽 Lα θT㎜f惣 hCe漁αNorman and London:University of Ok且ahoma Press,1991 (S・
P・ハンテントン著/坪郷實・中道寿・・薮野祐 三訳r第三の波一20世紀後半の民主化」 韻書房,
1995年).
(4) 扉d.,p.38.
(5)政治的民主化において,こうした政治アクター に注目するアクター中心主義の立場は,例えば,
Gumermo ODonnell and Philippe C. Schmiuer,
Tm臨 偽伽・4翼 肋7ffα7ゴ4 R漉=τρπ α w Co,1・
dμ51b榔 αδ014 U配ρ7fαfπ De脚Cγαcfρ5, BahimOre:
丁飯〜ノoh鳳s∬foρ癖7聡σ所 θγ∫fりPγ8s⑤1986 (シュ ミッター/オドンネル著・真柄秀子/井戸正伸訳 r民主化の比較政治学・一権威主義 支配以降の政治 世界」回目社,1986年),Gcorg Sのrensen 2nd ed.,
Dθ徽π箔αcアαπ4ρ8㎜c名α zα σ :Pγocぞ∬θεαπd γ・∫
契 s ηαC肱π8切8 1覗oγ d,Boulder Westview Press,1998,に代表的に見られる。
(6)賀来弓月『地球化時代の国際政治経済・情報通 信化革命と運輸革:命の衝撃』中公新書,1995年,
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1996,pp.227−228.
(8)こうしたNGOの政治的役割にいち早く注目し たとして,Michad Bratton, The Politics of Government−NGO Relations in Africa. 1物γ 4ρ ・ ρ ρρ馬脚Vo1.17, No.4.1989,がある。他にも
NGOの政治的な役割に注目するものとして は,インドネシアに関するものとして,Phihp
Eldridge,ムb笛Go 8η1η陀剛0㎎α zα のπsαη4 Dρη星。・
o瓢α 脅Pα貿fcψα 伽伽∬πdo喫sfα, Ncw York:Oxford
University Press,1995,フィリピンのNGOを中 心に論じたものに,Gerard Clarke,丁加Po 1 1儒ρr /VGOs ∫側飯εαεM漁:Pαγ fcψα fo 伽d Pγo儒 肋 加P允∬ψρ伽8s, London and N〔,w York:R〔川t・
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