サ ン テ ィ アゴ
ー 思 い つ くま ま
序
昨年カタル‑ニャを中心にスペイソを旅した折、乗り
継ぎや到着時刻を考慮してルフトハソザに乗った。往復
十二万円(他の航空会社でも同じ)という。いささか驚
いた。私が最初に渡欧したのは、日米新安全保障条約で
革命騒ぎとなった一九六
〇
年の夏だった。BOAC(莱国航空)の'南廻りでローマまで三十三時間であった。
ローマに十日間滞在後TWAでマド‑1ドに向かった。
問題は運賃である。片道二十四万円であった。なんだ
たった四倍じゃあないか、と思うかも知れない。当時は
大卒の初任給が月一万円だった。ボーナスを別にすれば、
片道切符で二年、往復すれば四年分の俸給がとんでしま
うことになる。今初任給を二十万円とすれば、片道四八
〇
万円往復なら九六〇
万円かかるという計算だ。当時マドリードの地下鉄は距離に関係な‑1律1ペセIタだっ
た。今二二
〇
ペセ‑タ、即ち、二二〇
倍。なのに、航空運賃は八十分の一。 野
間 一 正
姫路のベルギー系スクート会経営の淳心学院で四年間
働いたのち、一九六
〇
年四月、大阪のスペイソ系クラレチアソ会経営の啓光学園に勤務がかわった。その一ケ月
後'スペイソ外務省から、給費留学生に決まったので七
月末までにスペイソに来るようにとの通知を貰った。生
活費、大学授業料、健康保険はスペイソ政府持ちだが、
往復運賃は留学生負担だった。前年渡欧した人は貨物船
で片道七万円とうかがっていたので、そのつもりであっ
た。ところが実際問題として、学期が終り成績をつけた
あとでないと出発できないので、空路でな‑ては間に合
わな‑なった。結局、父が恩給を前借りして支払って‑
れた。
帰途は客船カソポジャ丸で、マルセーユから神戸まで
スエズ運河経由で約三十日間の航海だった。運賃は三等
で十万円。三食つきで、三、四日走ると港に入り'スエ
ズ、アデソ'ポソベイ'コロソボ、シソガポール'サイ
ゴソ'香港を観光できた.十一月から十二月にかけての
船旅であったが'熱帯地域を通る時は蒸暑い。三等船室
は船首寄りの吃水線あたりにあり窓は明りとりで開かな
いが、クーラーが働いており問題はなかった。凪であろ
うと、強風が吹き大波がこようと、船は黙々と予定通り
進んでいった。イソド洋では荒れて、舶先に立って中央
のマストをみていると'船の傾斜が激し‑海に突っこむ
のではないかという錯覚におちいるが、一万五千トソの
船が沈没する心配はな‑、私は船酔いの洗礼をあびずに
済んだ。しご‑快適で貴重な経験をした。
当時の日本は外貨の持合せが少な‑、留学先の誰か金
銭面での保証がいないと国外に出れなかった。私の場合
はスペイソ外務省だったが'その他に大学生寮、ポルト
ガルでは文部省とグルペソキャソ財団より奨学金を与え
られた。心ゆ‑まで研究・勉学に没頭できたのは多‑の
方々の御助力のお蔭と感謝の外ない。「男子志を立てて
郷関を出づ学若しならずんは死すとも帰らじ」は、少し
大袈裟だが、親の死に目にあえない'或いは、私は結核
で五年間も療養せざるをえなかった前歴もあるので、運
が悪ければ、鹿児島のベルナルドのように病死して異国
の土になることもありうる位の覚悟は常に持っていた。
実際、ポルトガル滞在中父からの返事が途絶えたので、
帰りの切符のこともあり、心配したことがある。しかし、
電話をかけるなんて考えられないことだった。帰国後父 が脳出血で倒れ三日間意識不明だったこと'たとえ死ん
だとしても通知するなと言明していたと知り傑然とした。
確かにこの四十年間に海外旅行は驚‑ほど便利になっ
た。かつては外貨二百ドル二ドル‑三六
〇
円)しか持出しできなかった。そして更に現地の通貨に変えな‑て
はならなかった。今は外貨は自由に使え'例えばスペイ
ソの場合'日本国内でペセ‑タを現金でもトラベラーズ・
チェックでも買えるし(二年後ユーロが日常流通するよ
うになれば更に便利)、クレジット・カードでホテルで
も書店でもレコード店でも支払できる。電話だって同じ
支払方法もあり、しかも即座につながり、料金だって国
内料金に較べてそんなに高いものでない。ただ、怠け者
で無器用な私には、ある程度の便利さを棄て切った一種
の隔離状態で勉学・研究に専念できたことは有難かった。
スペイソでは年々物価が上昇している。学生時代、清
潔で家族的なペソシオソは1泊二食つき六十ぺ七‑タ、
即ち、一日一ドルで国内旅行できた。今は安全面(かつ
ては'真夜中に一人で歩いていても安全だった)から原
則として四ツ星のホテルに泊ることにしているので、ペ
ソシオソが今い‑らか正確には知らない。ただ、ホテル
代がすご‑高‑なったことからおよその見当はつ‑。ス
ペイソは「物価が安い」そして「安全」という神話は‑
ずれきった.I昨年マドリードの銀産通りとも言うべき
8
グラソ・ビアで警戒中の警官から、「このあたりで日本
人が狙われるので注意するように。犯人はアラブだ‑」
と警告をうけた。そして昨年パルセロ‑ナ'ロマネスク
美術の宝庫カタルIニャ美術館からの帰途、地下鉄の切
符を買い三番線のホームに通じる階段を降りている時う
しろから力ず‑で鞄を奪われた。切符売場の係はここか
ら若者三人が走って逃げて行った'とのんびり言うだけ
である。警察に行‑と、被害届を出させたあと、犯人は
アルジェリア人だと言う。それなら、何故捕えないんだ
と言いた‑なる。地方の都市に行けば'静かで安全で落
着いているが、マドリードとパルセローナ及び有名観光
地ではこの種事件が多発しているようである。警官が犯
人を簡単に北アフリカ人と断言していまうのは、今更
「マタモーロス」でもあるまいLと思う。しかし'最短
距離僅か十四キロのジグラルタル海峡を渡り不法入国し、
路上で寝たり、地下鉄構内に屯したり、無気味なことは
確かだ。
中世のサソティアゴ巡礼においても、天災人災のみな
らず、巡礼を食いものにする不届き者がいた。そのため'
巡礼者を保護する種々の団体・施設がつ‑られ、また巡
礼者同士助け合った。一九六
〇
年ごろのスペイソの列車で旅していると、大ていの人は革袋にぶどう酒を詰めて
持ち歩いており、自分が飲む前に同席の人に先ずすすめ たものである。そこから会話がはずみ、車窓に映る自然
の美しさのみならずスペイソ人の心のやさしさにもふれ
たものである。世紀末を迎えそのような美しい風景がみ
られな‑なった。「旅は道連れ世はなさけ」という言葉
は死語になったのであろうか。二十一世紀になれば人は
再び美しい心をとり戻すであろうか、それとも'機械人
間というか人間性を失った人々の群れが地球上を験庖す
るのであろうか。
オ ビエ ドの 「フォノ ・アス トゥール」 よ り出て い る CD「コソボステー ラ‑の道」 の ジャケ ッ ト
サソティアゴ・デ・コソボステーラ(星の野の聖大ヤ
コブ)'中世のヨーロッパ・キ‑スト教世界における三
大巡礼地の一つである。キ‑ストの聖墳墓のあるエルサ
レム。次いで'ペテロが殉教しラテソ教会の大本山教皇
庁の所在地ローマ。そして、イベ‑ア半島の西北端にあ
るサソティアゴ・デ・コソボステーラがその三つである。
第一のエルサレムは'十字軍の遠征でキ‑スト教徒側
が幾度も奪取を試みながら全‑歯がたたなかった地であ
り'あえて赴‑からには身の危険を覚悟しな‑てはなら
なかった。第二の永遠の都ローマは、巡礼でな‑とも多
‑の人が訪れている。巡礼者にとって何らかの困難があ
りそれをのり越えてこそ'時にはすべてを地って行なっ
てこそ'聖地参詣を果たした時の満足感が1層大き‑な
ることを考えると、第三の地、遥かなる地の果てガリシ
アのサソティアゴは最適の地で、ヨーロッパ各地から巡
礼が押し寄せ、十1㌧十二世紀に最盛期を迎え、時には
年間五十万人を超える年もあったという。
二
余談になるが、これも巡礼、大巡礼といってよいであ
ろう。
十七世紀初期のこと。イソドのゴアから単身、ベルシ
ア湾を渡り、エルサレムに詣でた日本人がいる。言葉、 旅費'食事へ気候風土'等々、どれをとっても現代の我々
には想像できぬ程の困難があった筈だ。人並すぐれた意
志の強さと頑健な体がな‑てはとうていできないことだ。
彼は旅を続け'砂漠を歩いてローマに達し'その他で学
問を修め司祭となった。当時日本は禁教令下にあり、そ
もそもこの旅の発端がハ1四年キリシタソ禁教令によ
り彼自身マカオに追放された一人であったので、彼の地
に留まることも出来たが、彼は再び帰国を決意した。ス
ペイソを通りリスポアに赴き、その港からポルトガル艦
隊に乗船して再びゴアに戻った。マニラ、マカオ、アユ
タヤ'マカオを往来しながらチャソスを待ち'ルパソグ
島から薩摩半島に上陸'潜伏し布教に従事した。最後は
仙台領で捕えられたのち江戸に送られた。穴吊りの拷問
にも屈せず殉教した。豊後の人、その名はペドロ・カス
イ・岐部(1五八七‑1六三九)0
今年はフラソシスコ・シャビエルが来日して四五
〇
年になる。シャビエルに関しては、「麟麟」第二号の「ス
ペイソ黄金世紀文学と日本」の中で述べてあるので省略
したい。二年後の一五五一年十一月、シャビエルが日本
を発ちイソドに向かった時'日本人五名が同行した。そ
の一人鹿児島のベルナルド(日本名不詳)は、喜望峰廻
りの航海でリスポアに上陸oローマに赴いたのちーポル
トガルに戻り'大学の町コイソプラに学んだが'健康に
10
すぐれず一五五七年穀した。ヨーロッパに赴いた日本人
留学生第三号である。航海とて、季節風を利用してのも
ので年1度の機会しかな‑、順調にいっても相当に体力
を消耗した。難破の危険もあり、命がけであった。一つ
の文書が確実に目的地に届‑ため数通コピーし'それぞ
れを異なる経路、船便で送った時代の話である。
三
イスラム圏の巡礼というと、イブソ・バットゥ‑タ
(二二
〇
四〜七八)のことを思い出す。スペイソの対岸タソジール(モロッコ)に生まれ、二十1歳の折メッカ
巡礼の旅に出、そのあとイソド'ジャヴァを経て中国各
地を訪れたのち帰郷した。更に、スペイソのグラナ‑ダ
やサハラ砂漠を南下する旅など、三十年間当時の世界中
を旅した人と言ってよいであろう。時代、情況'目的な
ど異なり、単純に比較できないが'ペドロ岐部の旅はイ
ブソ・バットゥ‑タに劣らぬものであった。
四
サソティアゴ伝説について種々論じられている。八一
三年、ガ‑シアの最果ての地(フィニステーレ)から遠
からぬ森の中でサンティアゴ(聖大ヤコブ)の墓が発見
されたという報せが、アストゥ1‑7ス王国の宮廷オビ
エドに届いた。
アルフォソソ二世貞潔王(七九二〜八四二)はその地 に聖堂建立の命を下した。当時のアストゥ1‑アス王国
は、南の強大なイスラム勢力に押されて'峻厳なカソタ
ブ‑ア山脈の彼方で細々と独立を保っていた。この出来
事は、異教徒に奪われた土地を再びとり戻そうという希
望の支えとなった。か‑して最初のサソティアゴへの巡
礼の道がカソタブリア海沿いにつ‑られた。
十一、十二世紀の所謂フラソスの道は、アストゥ1‑
アス王国が山脈を越えレオソ王国に発展し'更に強固な
レオソ・カスティーリヤ王国になった時代、1方南のイ
スラム勢は、コルドバ・カリフ帝国が崩壊し、昔日の栄
光も威力も消失した時代になってからのことである。
八四四年、キリスト教軍とイスラム軍の対峠したクラ
ど‑ホ(ログローニョ)の戦では'白馬に跨った騎士姿
の聖ヤコブが現われ、キリスト教軍を勝利に導いた。そ
れ以降'イスラムとの戦闘の折'キ‑スト教軍から、聖
ヤコブの加護を願って、「サソティアゴ・マタモーロス
(イスラム殺しの聖ヤコブ)」の閑の声が上がった。五
コロソブスに続いてアメ‑カ大陸に優ったコソキスタ
ド‑レス(征服者たち)は、スペイソにおいては八世紀
にわたるイスラムとの戦いを勝ちぬいた直後であったの
で、中世的思考から脱け切っておらず、イソディオ(罪
キリスト教徒=不信心の徒)との戦きにおいて、イソディ
オの神殿をメスキータ(イスラム寺院)と称し、戦闘の
場でイソディオをモーロ人(イスラム)と見立て、「サ
ソティアゴ・マタイソディオス(イソディオ殺し聖ヤコ
ブ)」と唱えた。(FranciscoMoralesPadr6n︽Los
con
qu is ta d o
res
deAm 6
rica︾.EspasaICalp e , 19
74 ,
p.)5)o
ま
た 、
サソティアゴは戦国時代の日本に輸入された。「敵を威圧するために凌げる閲の声にもイエス'マリア、軍神サソチャゴなどの名を唱えた‑」(一五七五年九月
十二日付長崎発カブラルの報告1岡田章雄著作集Ⅰ
「キリシタソの信仰と習俗」思文閣、一九八三年、一一
≡‑二四頁)、と記されているように、日本の戦場に
も姿を現わした。
六
サソティアゴという地名はラテソ・アメリカ各地にみ
られる。
スペイソ人が海外の土地を奪い植民地としたのは、異
端の徒にキリスト教を教え、キ‑スト教徒、即ち一人前
の人間にしてやるんだという、大名義分があったからで
ある。現代からみれば思い上りも甚だしいが、それが時
代の思潮であったのである。錦の御旗の下に悪業を重ね
る輩は、いつの時代どこにもいる。(大名義分もな‑もっ
と教滑に悪業を犯した国民もいる).また'純粋な心で、 危険を承知で信仰のために命を棄てた人も数多いたこと
も事実である。ラテソ・アメリカに宗教的地名・人名の
多いのはそのためである。サソティアゴという名の多い
のも納得できる。
マタモーロスに関していえば、スペーイソに限ると、
pt an eta
社が1九九六年に出版した︽AttasdeEspaaa︾には1つも載っていない。一万㌧︽pequehoLarousseロu
str a
do︾一九八〇
版によると、マタモーロス市が、メキシコのコアウイラ州とタマウ‑1パス州にある。ま
た、メキシコ独立運動において、モレトロス陣営に所属
し、対立した副王軍イトゥルビデにより銃殺された司祭
マ‑アノ・モタモーロス(一七七〇〜一八一四)が載っ
ている。
cD「永遠のト‑オ・マタモロス(ママ)」(ボソバ・
レコード)によると、このトリオはスペイソ色濃いトロー
バの伝統を受け継ぎながらキューバの音楽ソソを巧みにノ..ヽ.ノーヽノ■.ヽ1.′■ヽ′′ヽ、一(融合させたグループで、‑1ダーは、キューバのサソティ
12
アゴ一八九四年生まれの‑ゲル・マクモロスであると。
もっともmatam
or os
を辞書で引‑と「空威張り屋」と出ていて、「ハテ‑こういう個名名詞を持つ個人もし
‑はその地に住む人々はどういう気持なのかしら」と思っ
てしまう。