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陶芸制作と教育の通路

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【 論文】

陶芸制作と教育の通路

一陶芸制作の展開の論理による考察 ‑

Passagebet ween Educat i onand Cer ami cA r t

‑consi der at i onona l ogl Caldevel opmentofacer ami car t i st‑

㊨‑ 高石次郎 Ta k a i s hiJ i r o

Ⅰ はじめに

今 日、様々な分野 において、境界が暖味にな り、新た な関係が模索 されている。そして新 しい社会の誕生が、

待ち望 まれているようだ。美術 において もそのことは例 外ではないだろう。例 えば、絵画、彫刻、デザイン、工 芸などの美術の分野における境界、そして、制作者、評 論家、鑑賞者、 また、芸術、趣味な どの境界はますます 唆味にな りつつあるといえる。

ところで、我々は、美術 とい うものが人間に とって、

本質的なものであることを、 もっと自覚する必要はない だろうか。その自覚ができるならば、人間 と美術の関係 性 を語 る際に、それぞれの美術の分野の狭 くて固定的な 考 え方などを基 に語 るのでな く、むしろ、それ らの分野 を越境 ・融合 し、総合的に語 ることができるのではない だろうか。 ところが、今 日、一般的に美術 その ものが、

むしろ表層的なもの として認識 されているがために、越 境 ・融合 し語 り合 うことは難 しい状況にあるようだ。

表層的でな く深層的な美術 とは、人間存在の根底 とな る思考や感情が、表現へ変化するところ、つまり表現に なる前 に行為 として位置す るものである と考 えられ よ う。すなわち、美術 とは思考や感情 を意味化する行為で あ り、そのような行為 を展開する根源的な場 といえるの ではないだろうか。 しか しなが ら、近代 において、評論 家以外の美術関係者 は、あまりにも美術 について本質的 に語 って こなかった。むしろ、語 ることを、さげすむ傾 向にあった といえないだろうか。つまり、「 美術 は言葉で は説明がで きない」 という定説 とともに、作 られた作品 とその効果、言い換 えるならば、結果の部分を語 ること に限定することにより、本質的で深層的な美術 ( 美術行 為)を隠蔽 し、その存在す らをも見失 った といえるだろ

〕 ■ つ。

今 日の教育や社会の状況 をみると、将来像が見出せな くなって きた従来の価値観や枠組 みをひたす ら固執す

ることをやめて、それ らを再構築 し、人間存在の意味 を 根底 か ら問 うことか らスター トす ることが求 め られて いると思われる。そこで、美術の本来の役割 として、美 術 が人 間 に とって本質 的 な もので あ る とい う特性 に よって こそ、美術 と教育や社会 との関係性が見えて くる のではないだろうか。

そのためには、 まず、今 日の教育や社会の問題や要因 を認識 し、そこで深層的な美術行為が どう関われるかを 考 える必要があるだろう。 しか し、その ことは容易なこ とではないようだ。私 自身、陶芸制作の活動 と、可能な 範囲の論理に頼 りなが ら、その関わ りを探究 している過 程 にある。そこで、本論 は、その過程 を整理するととも

に、その関わ りの探究を一歩先に進めるための もの と考 えている。

また、本論では、今 までの私 自身の陶芸制作の展開 と その背景 を整理 して考察することによって、陶芸制作 と 教育や社会への 「 通路」を探 ることを目的 とするが、 し か し、 この ことは、私自身の教育 にかかわることと制作 者であるということの二面性が、互いに高め合 うもので あるとい う論理 を構築することを視野 においた もので もある。

日本陶芸の近 ・現代

(1)

明治 6 年 ( 1 8 9 3 年)ウィーン万国博覧会参加 を機会に

「 美術」 という言葉が日本に流入するとともに、絵画 と 彫刻 を 「 美術」 として上位に置 き、その他の もの ( 工芸

を含 めて)をその下位 に位置付 けて しまうことになっ た。 これが、近 ・現代の日本の工芸 ( 陶芸)の始 まりで あるといわれている。

そして、この ときか ら工芸 はローアー トとしての道 を 歩むことになった。 しか し、「 美術」として位置付 けられ た絵画や彫刻が、次第に権力性 を強化 していったのに対 して、工芸 としての陶芸 はローアー トの位置にあったが

上越教育大学美術教育研究誌 「美と育

」a r t a educat i onno . 41 998 ◆ ‑ 33

(2)

ために、そのような権力構造 とは距離を置 くことになっ た。その分、工芸 としての陶芸 には、自由があって、あ る意味で幸運であった と考 えることができる。

ところで、明治期においては、工業は地域 に密着 した ものであるとともに、少量生産であった。 したがって、

工芸 と工業は、ほぼ同等の ものであった。明治後半にな ると、それが、「 美術 ‑美」 、「 工芸 =用+美」 、「 工業‑用 」

のように、工芸は美術 と工業の中間に位置するもの と考 えられ、 この ような分化 は次第 に顕著 になったのであ る。大正後半か ら昭和初期 になると、それ らの中か ら一 部 の職人が、芸術家 または個人の制作者 になっていっ た。

その後、工芸 は、美術工芸の「日展」 、美術工芸 と産業 工芸の 「 伝統工芸展」 、生活工芸の 「クラフ トマン協会」

というように多様な発展の様相 を見せるようになる。さ らに、同時期 に用を持たない工芸 ( 前衛陶芸 ・オブジェ 焼)の 「 走泥社」 も誕生 した。

昭和 3 0 年以降においては、「 新 しい造形の論理の発見 」

があった。その創始者 は富本意吉であ り、それを発展 さ せたのが、加守田章二 と 「 走泥社 」 の中心人物であった 八木 一夫 といえる。

この 「 新 しい造形の論理の発見」 とは、それ までの陶 芸作品が壷や鉢に模様 を付 け、その美を競い合 うもので あったのに対 し、陶芸本来の意味や可能性 を問い、その 論理 に基づいた制作 を目指す在 り方の発見の ことであ る。 この発見の背景 には、欧米の近 ・現代美術等の影響 があったことはもちろんである。

ところで、「 走泥社」は、次の二点 を約束事 とした。そ れは、旧来の古い考 え方による陶芸 を拠 り所にする陶芸 制作 をしないこと。そして、公募団体への出品をしない ことであった。 この ことは、非常 に興味深 い ことであ る。前者 は、西洋美術 ・工芸の模倣、桃 山茶陶の再現、

中国朝鮮陶磁の再現、民芸様式等か ら決別することを意 味 してお り、陶芸神話( 2 ) か ら距離を置 くことにつながる ものであるといえる。 これに対 して後者 は、 日本独 自の 芸術団体 との関係 を絶たなければ個々人 の新 しい自由 な陶芸 は生 まれない とい う考 え方に基づ くものであっ て、権威か らの離脱 を図るものであるといえるだろう 。

ここで、先に工芸 は、ローアー トの位置にあったこと によって、権力に染 まらなかった分、自由であった とい うことを述べたが、陶芸の中にも権力構造が徐々に生 ま れてきていた事実を認めざるをえない。

走泥社は 「 用」のない陶芸であると述べたが、西洋の 近代工芸概念か らきた 「 工芸‑用+美」か ら 「 用」を取 っ

34

‑‑‑●上越教育大学美術教育研究誌 「実と

育」a r t a educat i onno. 41 998

てしまえば、そこには 「 美」が成 り立つ という安易な考 えではな く、陶芸 その ものの持つ意味や陶芸が成立する 意味等を追究する過程で、おのず と 「 用 」 が排除される

ことになった と考 えるべ きである。

昭和後半 になって前衛陶芸の作品が現代美術 のカテ ゴリーで紹介 されるようになってきた。 この・ ことは新 し い陶芸の可能性が世 に認知 されるきっかけ ともなった。

また、一方で走泥社による陶芸革命以後の陶芸 とは何か を問 うきっかけともなったのである。

なお、現代美術 と前衛陶芸 とを厳密に分けることはむ ずか しい。それをあえて分 けるとするならば、それは素 材に対する制作者の姿勢の違い といえるであろう

現代 美術の制作者の場合、必要に応 じて適切な素材 を選択 し て使用することになる。一方、前衛陶芸の制作者は、使 用する素材 を陶芸素材に限定 しているのである。

しか し、昭和末期か ら平成にかけて前衛陶芸の制作者 であって も現代美術の制作者 と同 じような関係で陶芸 素材を用いる制作者 も現われるようになった。このこと は、陶芸素材に対するこだわ り、すなわち、素材・ 技術 ・ プロセスの追究の上 に陶芸作品が成立す るとい う根拠 を失 うことにな り、いわゆる陶芸作品 とは言いがたいも のになる( 3 ) 。いいかえるならば、陶芸素材に限定する必然 性がないのである。

すなわち、陶芸の素材 ・技術 ・プロセスの追究の上に 陶芸作品が成立するという工芸的造形( 4 ) によって 「 陶芸」

の存在が明確 になるといえる。 この工芸的造形論 によっ てはじめて<陶芸 で作品 を作 る現代美術 >とく陶芸で 陶芸作品を作 る工芸的造形 >を区分す ることがで きる のである。ここで、「 何故、沢山の素材 を使 えるのにわざ わざ一つの素材 ( 陶芸)にこだわるのか」 という問題が 残 されることになる。 しか しなが ら、一つの素材 にこだ わることによって、はじめて工芸的造形を明確 にするこ とができた といえないだろうか。むしろ一つの素材 にこ だわ りなが らも常に自由であることか らこそ、見 えて く るものがあると考 えられる。

このように、陶芸 にまつわる様々な自明 とされている ことを、その土台か らとらえ返す ことによって、従来の 陶芸 ( 工芸)観の根底 に隠 されていた新たな価値 ( 地平) が見 えて くるようだ。

北滞憲昭氏 は「 工芸 をめ ぐるラディカルな思考は、『 美

術』体制 とそれを含む技術の体制全体 に重要かつ重大な

動 きを引 き起 こさずにはおかないはずだ」 と述べた上

で、「 ただ、おしむらくは、それは未だ 『 美術』体制全体

を揺 るがす力にな りえていない。 しか し、そこには測 り

(3)

知れない起爆力がひそんでいるのにちがいない

(5)

」と、日 本近 ・現代の陶芸 ( 工芸)を超越 し、工芸の新たな展開 の可能性について述べている。

Ⅲ 陶芸制作の軌道 とその背景

陶芸制作をやっている誰 もが、まず、始めるきっかけ をもち、やがて、ひたす らそれを追究するプロセスを経 て、その様々な問題 に気付 くことになるという軌道を歩 んでいると考 えられる。 ところが、 この軌道は一般にい われる論理的なものではないことの方が多い。

ここで、陶芸制作 と教育や社会の 「 通路」を探 るため に、まず私自身の陶芸制作が どのような軌道 を歩んでき たのかを確かめることにしたい。 したがって、 これから 述べることは、単なる自己回顧的な もので も、 もちろ ん、自己を正当化 しようというようなものでもない。む しろ、自己を素材 として扱い、自己否定的な面を多 く含 んだものであるといえるだろう。

さて、私の陶芸 との出会いは、中学校美術教師であっ た父が絵画制作 を中断 して陶芸 に没頭 していた ことで あろう。そのことは、大学において、絵画や彫刻に馴染 めずに陶芸 を専攻するきっかけにもなった。加 えて、陶 芸が、粘土 という素材か ら焼成 までの複雑な過程におい て、自己が深 くかかわれるという身体感が陶芸 に向かわ せたといえるだろう 。

卒業後、一時、陶芸関係の企業に、その後、窯業試験 場に勤務 したことは、ある意味で陶芸制作の固定的な方 法性 に疑問をもつ ことになる背景 として考 えられよう 1 . さらに、その後、教育 にかかわることによって、このこ とも、陶芸制作の意味や可能性 を深 く考 えることにつな がった といえる。 また、文部省在外研究員 として英国に 留学 したことも、陶芸 に対する考え方を転換 させるきっ かけになった と考えられる。 1

1 陶芸制作の方向性の模索 ( 1 9 7 5 ‑1 9 7 9 )

初期 は、一通 りの陶芸技術 を修得することに重点をお き、陶芸の新 しい技法にチャレンジしなが ら制作を試み ていた。一時期、勤務 していた企業では、陶壁画やタイ ルの制作などの建築関係の仕事が主であった。その関係 で、いろいろな陶芸の制作者 と出会 う機会にも恵 まれ、

陶芸制作の多様性や可能性、そして追究の在 り方に接す ることができた。後に、技術偏重の傾向が強い有田焼産 地に転勤するが、その前に、勤務 していた企業で、幾人 かの芸術的な陶芸制作者 に触れ、その制作 を見ることが

できたのはとて も重要であった。なぜならば、その経験 は、有田焼の様々な要因か らくる強力な制約や制度 を、

自明の もの として身体化 してしまう危険から、一定の距 離 を保 ちつつ自分 自身を守 るためには、 とて も有効で あったのである。

また、当時は、「 走泥社」の八木‑夫 らによって起 され たオブジェ焼が広 く知 られるようになってお り、陶芸制 作の生成方法

(6)

や存在理由を考 えるきっかけとなった。

しか しなが ら、私の陶芸制作の生成方法や存在理由は、

必ず しも明確 になっていたわけではなかった。ただ、ユ ニークな形、多 くの人が好む作品を作 り出すことを漠然 と目指 していただけであり、つまり、この頃の陶芸制作 は暖味なものであったのである。

2 陶芸制作 と社会の関係性

一産業 と制作者の狭間‑ ( 1 9 8 0 ‑1 9 8 6 )

勤務 していた有田焼で知 られる佐賀県有田町 にある 佐賀県窯業試験場は、磁器の成形 ・加飾 ・粕薬 ・焼成な どの技術 を研究、開発するとともに、有田焼製陶所 ( 窯 元)のデザインや技術の指導を行 うところであった。

当然 ともいえるが窯業試験場 は、陶磁器産業の育成 と 発展を目的 とした公的な機関 ( 地方公務員) であって、い わゆる芸術的な陶芸制作 は、 ままな らない状態であっ た。さらに、個人的な制作活動( 7 ) は勤務時間以外において も必ず しも歓迎 されているとはいえない状態であった。

したがって、同じ制作に関わる行為であるにもかかわ ら ず、陶磁器産業( 昼の仕事)<作品写真

Nnl>

と芸術的な 陶芸制作 ( 夜の仕事) とは画然 と分離 しなければならな かった。 しかし、今にして思 うと、その分離されること による矛盾を感 じなが ら制作を続けることは、モノをつ くることの意味について、深 く考 えさせる機会にもなっ たのである。

すなわち、その矛盾 こそ、人間 と美術、人間 と制作 ( 陶 芸) 、美術 ( 陶芸)と社会 といったそれぞれのかかわ り合 いか ら生 じる意味への関心 を深める下地 になった とい えるだろう。

今 日においても、特に産業の中における陶芸では、当 然ながら、利潤追求が目的であって、その制作に直接か かわる作 り手の人間 としての存在か らくる制作の意味 を尊重することは難 しいことである。

陶芸 という作る行為 ( 美術行為)は、人間の深奥の感 覚などを、深 くかかわ らせることによって、成 り立つも のである。 したがって、その所産 として、自己実現ない

しは自己開発、自己改革が ともなうと考 えられる。

上越教育大学美術教育研究誌「美と

」a r t a educa t i onno. 41 998 ◆ ‑ 35

(4)

であるならば、そのようにして作 られたモノこそが、

製品 として尊重 され るほうが産業 としての陶芸の意味 があるのではないだろうか。 しか し、実際には、制作者 ( 作 り手)の人間 としての存在 よりも、 より有効な市場 性、すなわち、機械的な、合理的な、安定 した製品が優 先 されることになるのである。いわゆる近代産業 として の陶磁器産業の流れにおいては、ある程度止むを得ない

ことではあるが、これ らの重要な面がすっぽ りと抜 け落 . ちて しまうことになるのである。 しか し、陶磁器産業の 目的が人間生活 を豊かにす るということか ら考え るな らば、 この間題 を自覚することは不可欠であろう。さら に、後で述べることになるが、 このような陶芸の在 り方 が基礎 となって、技術的な側面を重視する考 え方が教育 の中にも持ち込 まれることになった と思われる。

ちなみに、本来、陶芸 は人間の根源的な行為であると 考 えられているにもかかわ らず、その行為の結果 として 生 じたモノ ( 食器など)が、たまたま、生活に直接かか わるものであったがために、近代産業の波 と制度化の強 い影響 を受けることを、避 けられなかった ということが いえるであろう。 この ことによって、陶芸が、芸術性 よ りも、 日常的な製品性が求 め られ、制作者の論理 よ り も、機械的な意味や機能性、すなわち、技術性が優先 さ れることになった といえる。

しか し、 このことは単に一部の陶磁器産業や陶芸制作 のみにいえるのではな く、現代社会におけるすべての作 る行為 においていえることではないだ ろうか。すなわ ち、作 ることにおける人間性の欠落が進行す ることに なったのである。 ところで、先に述べた、陶磁器産業 と 芸術的な陶芸制作 とを画然 と分離 しなければな らない という矛盾の経験により、私の陶芸制作は、一つの方向 を試みるようになっていった。

その新たな試み とは、現代社会の様々な問題点をアイ ロニカルにユーモアを交えて、「 陶芸」の作品 として表現 す ることで、社会 との関係性 をもつ とい うものであっ た。それは、人間性が削 りとられることへの小 さな反抗 ( メッセージ) の意味であった と、 今は思 えるのである<

作品写真

Nn2、Nn3、Nn4

> o

このような試みに対 して、周囲か らは、陶芸 というよ りも現代美術的なカテゴ リー として位置付 けられ るこ ともあった。 しか し、 このことは、後 に、「 陶芸」という 意味や可能性 を考え、教育や社会 との通路 を開 くために

は有効なプロセスであった といえるだろう。

3

教育への視座 と陶芸制作の自由 (

1986‑1994)

36

‑ ◆上越教育大学美術教育研究誌 「実と育

」a r t 良e du c a t i onn o . 41 998

教育の世界 ( 上越教育大学)へ移 ったことは、陶芸制 作の転機 ともなった。 ここでは、先の産業 と芸術的な制 作 という矛盾か ら解放 された代わ りに、先の矛盾 とは異

なる新たな矛盾に出会 うことになったのである。

まず一つの矛盾は先の矛盾の中における妥協が、いつ の間にか、技術的なものにこだわるというかたちで、私 の中で身体化 されていたことによるものである。すなわ ち、陶芸の技術修得による喜びや自負が、「 陶芸」か ら離 れることを誘発するという矛盾である6 /もう一つの矛盾 は現代社会の様々な問題点 を陶芸の作品 として表現す ることの中には、「 陶芸」で表現する必然性が希薄である ということである。つまり、陶芸作品 としての存在理由 を感 じないのである。 しか しなが ら、陶芸 としての存在 理由を感 じない作品を表面的に支えていたのは、実は修 得 した陶芸技術であったわけで、つまり、 この二つの矛 盾は逆説的な構造をなしていた といえるだろう。 このよ うな作品 として、東京の渋谷西武百貨店工芸画廊 (

1991

年 ・個展)で発表 した 『 夢見る世紀末 ・未知の道』をあ

げることができる<作品写真

Nn5

> .

その後、英国研修

(1992)

の機会に恵 まれ、新 しい試 みを行 った。 この試みは、さまざまに人為的に刻印され た英国の石か ら直接粘土にその痕跡 を、 拓本のように「 写 し取 った」粘土板 を使 って 「 ティーポット」の形に組み 立てた ものでメッセージ性 を排除 した作品である<作 品写真

Na6> (

なお、英国にお ける試 みは、 Me r i di an Gal l e r y ・ 個 展で発表) 。ちなみに、ティーポッ トの形に

した理由は、以下の とお りである。

( 彰英国人が とにか くティーが好 きであること ( 卦英国では焼物の器の ことを全てポッ トと呼ぶこと

③英国ではティーポットの形 を使 って 自己表現す る陶 芸制作者が多いこと

④注口 ・取 っ手などの部品が多 くその部品で多様な表現 ができること

⑤陶芸文化の中に注 ぐ器 として位置 していること

「 ティーポット」の形にした理由の

(

壬 X窒X 萱 ) は、特に深い 意味はな く、英国 という場所であるか らという程度の も のである。 しか し、「 写 し取 る」ことが可能であるという 粘土の特性 を使 うことに加 えて、㊨ さは 「 陶芸」の、あ る意味では、中心的な存在である 「 注 ぐ器」の概念上に あることに 「 陶芸」 とのかかわ りを託 した ともいえるで あろう 。 これは、「 陶芸」であることに母型を求めていた ということもできる。

また、「 写 し取 った」 粘土板のイメージか ら、一つのイ

ンスピレーションによって組み立ててい く方法には、成

(5)

形過程での意味生成

(8)

の可能性 をみることができたよう に思われる。 この 「 写 し取 り」を生かす という、陶芸の 新 しい試みは 、1 9 9 3 年頃まで続いた。しかし、「 写 し取 り」

という方法は、「 陶芸」 という行為の意味か ら次第 に離 れ、行為 よりも、むしろ、「 題材 ( テーマ)探 し」に比重 が置かれることになっていったのである。すなわち、一 種の 「 的外れな陶芸」になってしまった。 しかし、 この

「 写 し取 り」の方法は、先の逆説的な構造の矛盾を解決 するための重要な過程で もあった といえるだろう。何故 ならば 「 写 し取 り」によって、技術やテーマ と自分の関 係性 に対 して揺 らぎを与 えることで、自己確認作業 を 行 った といえるからである。

また、英国留学中に陶芸制作の在 り方を考 えた時 に、

日本語、日本文化の中で育んできた感性や思考が如何に 狭 く小さいものであるかを実感することになった。しか し、その狭 く小 さな国文化が集 まって世界ができている ということも実感することができたのである。このこと はグローバルな陶芸制作 とは何か という新たな意識 を 持つことになった とともに、新 しい世界 ・文化への広い 通路 を作るきっかけともなったように思われる。

このような過程 を経たが、帰国後、再びメッセージ性 を重視 した陶芸制作に戻 ることになった。しかし、「 写 し 取 り」による制作に入る以前か らメッセージ性 を重視 し た制作を試みていたが、その際、そのメッセージの内容 のために、陶芸の素材感や形つまり 「 陶芸」が制約 され ることにな り、その ことにしばしば不満 を感 じていた。

そこでメッセージ性 を表す ことが中心的な目的であ るならば、むしろ、陶芸の正道 として位置付けられてい る絵皿 にメッセージをイラス ト的に絵付す る在 り方の 方が制約が軽減 されると考えたのである。

そのような考 え方で制作 したのが 、1 9 9 4 年のギャラ リーいそがや ( 個展)・ 同年のギャラリー

TAO(

個展)で 発表 したイ ラス ト絵皿 による作 品で あ る<作 品写真

Nn7、Nn8

>。 これ らは、メッセージを表現するという 意味では成功 したが、長い間抱 え込んできた矛盾、つま り、陶芸によって制作することの必然性の希薄さという 意味では、問題の残るものであった。

つまり、先に述べた逆説的な構造の矛盾がより顕著に なることにより、「 陶芸」 か らますます離れていったので ある。

4 矛盾の解消そして 「 陶芸」へ ( 1 9 9 5 ‑現在) ここまでの陶芸制作の軌道を経て、二つの問題が明 ら かになってきた。第一の問題 は、自分の陶芸制作の生成

方法 とその存在理由を明確 にした制作 に向かわなけれ ば、今後の制作の展開が開かれないことである。第二の 問題 は、I V章で述べるところの 「 陶芸制作一陶芸教育一 教育一研究」 と自己 との整合性の問題である。そ して、

これらの二つの問題 を乗 り越 えるためには、不慣れでは あるが論理 を構築す る必要が ある と認識 す ることに なったのである。

1 9 9 4 年のこうの個展の陶芸制作及び作品を見直 した とき、先にあげた問題の解決には結びつかなかった。す なわち、その段階においては、メッセンジャー としての 陶芸作品を制作 し続 けることの意義 を兄い出せなかっ たわけである。

そこで、制作のテーマ と素材 ・技術 ・プロセス等の関 係性 によって生 じる意味等を考 えなが ら、生成方法等を 工夫 してい くことの必要性 を認識 し、イラス ト絵皿のシ リーズを終結することにしたのである。 後にこの終結( 転 換)は陶芸制作 と陶芸教育 ( 教育) との関わ りを考える 上で、 とて も重要であったことに気付 くのであった。

また、作品にはそれぞれにユニークな題名 を付けるこ とにしていたが、その題名 と作品をみることによって、

はじめて作品のメッセージが理解で きることが多った。

そして 、1 9 9 2 年の英国における英語に囲まれての生活の 経験から、 言葉や価値観が異なることによって、メッセー ジの伝達の在 り方に予想以上の開 きがあることを知 ら された。 ここで、メッセンジャー としての陶芸制作 は、

まった くの表層の言葉遊びにな りかねない ものである ことを、はっきりと認識できたのである。このこともイ ラス ト絵皿の制作を終結 した一因であった。

結局、メッセンジャー としての陶芸作品は 1 9 9 5 年の机 上空間の為のアー トワークス展 Ⅳ ( コンテンポラ リー アー ト NI KI )の 『シラクの鞄』( フランスの度重なる核 地下実験に対する反対メッセージ)の発表をもって終止 符を打つことになった<作品写真

NQ9

>. ここで、自己 の制作の大 きな転機 となった 『シラクの鞄 』( 1 9 9 5 年)を 基に、意味生成について考えることにする。

『シラクの鞄』以前の陶芸制作 は、ほぼ次の ような方 法 ・手順を経たものである。すなわち、はじめに、( 彰自 己の思想を言葉によって表 し、( 卦それを紙 と鉛筆で視覚 化 ( イメージを形にする)したうえで、③陶芸の方法に

よって形作るものであった。

はじめの段階 ( ①の行為)は、言語による美術行為 と いえるであろう。次の言葉を視覚言語に置 き換 えること ( ②行為)は、いわゆる美術の行為に位置できるが、制 作の行為 とはいいがたいものである。さらに、陶芸の方

上越教育大学美術教育研発誌r美と育

」a r t a educat i onno . 41 998 ◆‑ 37

(6)

法によって形作 ること ( ③の行為)は、残念なが ら、表 層的な作業にとどまった ものであ り、その意味では、美 術行為 とはいいがたいものである。

なぜならば、③の行為には、意味生成の行為が姿を消 しているか らである。すなわち、作 る行為のたびに生 じ る関係性 による意味生成が期待できないのである。つま り、本来位置すべ き美術の行為の以前に、すでに、表す べ き 「 意味」が言葉などによって設定 されていて (ここ ▲ では自分が設定 した ものであるが) 、それを陶芸の方法に よって形作 るだけであって、陶芸で制作する必然性がな いことになるのである。

最 も成功 したかにみえる 『シラクの鞄』は、 このよう な視点に立つならば、陶芸であるか らこそ、陶芸 によら なければ表現できない 「 意味生成」か らは遠のいた もの であった といえるだろう

O

しか しなが ら、一方で 『シラクの鞄』は最 も重要な作 品であった といえる。以前 より制作の意図を転換する必 要性 を意識 しなが らも、なかなか踏み切れずにいたので ある。そうした中で 『シラクの鞄』を一応の評価ができ る作品であると認識することによって、ようや く制作の 転換 に踏み込むことができたか らである。

さらに、 この転換の重要性 について、異なる視点か ら 考 えてみることにする。つまり、少々乱暴な例 えか もし れないが、誰 もが人生において同居する複数の矛盾 を問 題 として認識 し、それに様々な形で納得のゆ く答 えを出 す ことを目標 とする行為を、 くり返 して生 きているので はないだろうか。同様 に複数の矛盾を抱えなが らの 『シ ラクの鞄』は、その矛盾 ( 問題)に対 しての答が出て し まった といえる。それは、『シラクの鞄』がその方法の中 では納得のい くモノだった と同 じ意味だ と考 えられる。

つ まり、 ここに、一つの矛盾 ( 問題)解決の行為が終了 した といえるのである。さらにいえば、陶芸制作の方法 を獲得 した喜びの甘受 とともに、同時に目標 を失い、そ の方法の終結を感 じたのである。 また、 この終結は、前 もって、準備 されている正 しい、又は間違い という二元 論的な答ではな く、ある時間をついや しての自分自身の 納得のゆ く答 といえるだろう 。 これは、自分勝手な答の 在 り方か もしれないが、社会やその関係性の中で、責任 の もてる答である必要があるだろう。このようなことか ら、陶芸制作 と人生 「 生 きる力 」 とを重ねてイメージす る関係性 を強 く認識するようになってきたのである。

しか し、幸いなことに 『シラクの鞄』 までの矛盾 と、

そのために制作が停滞 したことを経験 している 。 だか ら こそ、その矛盾の解消の上に、新たな目標 を設定できる

38

‑‑◆ 上越教育大学美術教育研究誌 「美と

育 」a r t a educat i onno. 41 998

ことに期待 して しまうのである。 したがって、ある意味 で成功 した 『シラクの鞄』の方法 を継続す る方向 よ り

も、新 しい方法、つまり現時点では矛盾が無 く、追究が 無限に広が る可能性 を感 じる方法 を探す方向へ転換す ることにしたのである。つまり、第一の問題の解決への 第一歩 といえる。

ここで、素材 ・技術 ・プロセスにおいて生 じる関係性 によって、意味 と形が一体 となった新 しい作品が立ち現 われるようにする行為 ( 工芸的造形)へ転換することに なったのである。

一つの転機 となった 『シラクの鞄』 (

1995

年)の発表か ら 1 年後の 1 9 9 6 年にギャラリー TAO ( 個展)で 『 対話か らの形態』を発表 した<作品写真 N n l O > 。 これは三角形 というチップ ( 粘土板)を幾何学の言語 として用い、語 られた ( 考 えられた)時 に生 じる言語芸術 ( 造形作品、

詩 ・小説 ・戯曲など) といえるだろう。

『 対話か らの形態』は、紙 と鉛筆で表 された作品の完 成予想図がはじめにあって、その予想図に沿 って再現を するように造形する従来の方法 とは異 なる方法 による ものである。つまり、三角形の粘土板の辺 と辺 を張 り合 わせなが ら、その時点で現れた形 と自己の対話でその時 点の形を決定 し、その繰 り返 しにより生 じた関係性か ら 形 を立ち上げてゆ く生成方法である。

この方法 による陶芸の存在理由は、生成= 行為のプロ セスの中か ら生 じる関係性か ら形が次々 と立 ち上がっ て、その都度新 しい意味 を立ちあげてい くことにある( 意 味生成)のである。

このことは、作 る行為 ( 陶芸の方法)によって、次々 に新 しい関係性 を生み、意味をつ くりだす可能性 を秘め てお り、メッセンジャー としての陶芸制作に比べるとよ り深層 に位置す るひろが りのある美術行為である と考 えることができる。

ギャラ リー TAO の 『 対話か らの形態』では長年付 き 添 って きた模様や筆使 いな どの表層の技術が残存 して いたが、出石磁器 トリエ ンナーレ ( 1 9 9 7 年)<作品写真

N n l l > ・フ レツチャーチャレンジ国際 陶芸 展 ( ニュー ジーラン ド 、1 9 9 8 年)<作品写真 N n 1 2 > ・フアユンツア国 際陶芸展 ( イタリア 、1 9 9 9 年)<作品写真 N Q 1 3 、N n 1 4> で 発表 した 『 思考形態』では模様や技術の誇示 という意識 は払拭することができた。

ところで、『 対話か らの形態』のシリーズ名 は、言葉に

よる表層的な関係性 を意味することになる。 しか し、 こ

の方法は成形後 に乾燥 ・加飾 ・焼成などを控 えている技

術的条件 と、組み合わせるときに生 じる数学的な条件を

(7)

持 った三角形の粘土板 と、自分 との間に生 じる関係性 に よる造形である。 したがって、対話 よりも思考によると 考 え、『 思考形態』 とシリーズ名 を変更することにした。

また、三角形の粘土板 を組み合わせるときに、任意の三 角形 を使 っていたために、新たに張 り合わせる三角形の 形つまり、三つの角の一点 ( 三番 目の点)を決定する方 法があまりにも悪意的であった。 したがって、そこには 関係性や意味が生 まれに くいのである。そこで 、1 9 9 8 年 か ら二等辺三角形のみを使 う制約 ( 三 とお りの三角形か

らの選択 に限 られる)音義件 として設定 した。

このように新 しい条件 を加 えることによって、自由さ が減少するが、その ことによって新たな関係性の論理が 生 じ、新 しい展開が可能 となってい くことになった。

陶芸制作 と教育の通路

1 陶芸制作の意味

陶芸制作 をすることの意味 は、表層的な思考の方法や 形 にする方法にあるのではな く、それ らが一体 となって 思考 と行為によって、意味 と形が立ち現われるようにす ることにあると考 えている。つ まり、陶芸の行為による 多様な関係性が、意味 を生成する在 り方にこそ、存在理 由があると意識 している。 ところで、「 工芸的造形」の行 為は、関係性の行為であって、それはある意味では社会

との相互作用にも通 じるものではないだろうか。

さて、先に近 ・現代 日本の美術 と工芸 について、工芸 が権力構造か ら距離 を置いた ところに位置 した ことは、

一種の自由を得た と述べた。そのことは、ある意味では 工芸 ( 陶芸)を志す者 にとって、確かな教本がない という ことで もあ り、不安が常 につ きまとうことで もあった。

しか し、その ことは制作において目指す ところを常に開 発 しなければならない という ことにな り、多様 な試みが できるという利点で もあった といえるだろう。

さらに、陶芸がいわゆる絵画や彫刻な どの権威か ら距 離をおいた ところに位置 したことは、定説 となっている ことや自明 とされるようなものを、安易に絶対的なもの として とらえることがない とい うことであ り、 ここで も、無意識の内に、制作 を固定的なものにして しまうこ とか ら、逃れる力 となったのではないだろうか。

したがって私 自身、制作のたびに新たな試みをしなが ら、価値 ・意味 をつ くり申す ことをめざすようになって きたのではないか と思 う。その ことは、結果的に、陶芸 制作 をしなが ら、自己を変革する行為 ともなっていった

のだ とも考 えられる。その意味では、今後 も、制作に対 する考 え方、方法なども限 りな く変 り続 けなければなら ない ともいえる。

しか し、先の 『シラクの鞄』の ところで述べたが、多 くの場合、 ともす る と、安定 を目指 し、固定的な方向 で、磨 きをかけることにとどまることになる。つ まり、

思考や行為、あるいは、目標が固定的になった時、制作 することの意味ばか りでな く、生 きることの意味 さえも 失 うことになるのではないだろうか。

このように、私自身の陶芸制作 をとおして、人間変革 の論理 と重ねてイメージし、そのことを基に、理論 をと もなって追究をする中か ら、新たな制作の方向を見出す ことにつなが る とい うことを少 しで も実感す ることが で きるようになるまでには、多 くの経験 ( 矛盾・ 遠回 り) が必要であった。

もちろん、私 自身、現在 もなお作 る行為 ( 陶芸制作) と自己変革の中にあ り、理論 としては、理解 したつ もり であって も、そのことが身体化するまでには、なお、時 間を要するようである。

しか し、『シラクの鞄』か ら、いわゆる 「 工芸的造形」

による陶芸への転換 は、制作のみの継続 によっては不可 能であった と思われる。それは、理論的な支 えによって はじめて可能 となった とともに、 また一方で身体性が、

その まま制作 を進 めてい くことの希薄 さを感 じとって いた ともいえるようだ。

2 陶芸制作か ら教育へ

1 9 8 6 年に教育の世界 ( 上越教育大学)に移 った時 に、

窯業試験場勤務時の陶磁器産業 ( 昼の仕事) と芸術的な 陶芸制作 ( 夜の仕事)の分離はな くな り、 とりあえず陶 芸教育が仕事、陶芸制作が研究 と位置づけた ( 後 に陶芸 制作+教育=研究‑仕事 となる) 0

この時点で は陶磁器産業 を陶芸教育 に置 き換 えただ けで、陶芸制作 と陶芸教育 ( 教育)は分離 していた。言 い換 えれば陶芸制作が陶芸教育 ( 教育)の中に融合 して いなかったのである。 しか し今考 えてみると教育が仕事 で、制作が研究 というように離 して位置づけると、単に 美術の知識 ・技術 を伝達 ・指導するだけにとどまり、美 術行為や意味生成、そして支援や共有 によってはじめて 制作 と教育の間に生 じる 「 通路」を発見することは不可

であっただろう。

ここで、前述の第二の問題である 「 陶芸制作一陶芸教 育一教育一研究」 と自己 との整合性 について考 えてみる ことにする。制作の行為 は、多様 な関係 をつ くりだ し、

上越教育大学美術教育研究誌 「美と育

」a r t a educat i onno. 41 998 ◆ ‑ 39

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それにともなって、意味生成 を成立 させ、自ず と、制作 者の中において も変革がなされることになる。 このこと は、制作 と教育 に共通 した ことであろう。

また、その制作が、陶芸であるとすれば、陶芸の素材・

技術 ・プロセスの特性か ら、今 日の教育が求める心身の 統合、あるいは、身体性の回復、すなわち、人間感覚の 覚醒 を目指す という意味で も、有効なものであるといえ るであろう。 しか し、実際には、陶芸教育 は一方でロー アー トである とい うことか ら美術教育界での発展 を妨 げられ、また他方では陶芸神話による空虚な論理性のな い陶芸の正当化 ・美化にあ ぐらをかいてきた といえない だろうか。

陶芸神話や権威 としての陶芸観 に位置 した陶芸制作 か らは陶芸教育 ( 教育) との通路の発見はありえないだ ろう。 もしあった として も空虚な論理性のない陶芸の単 なるプロセスの経験や無意味な 「 用」によって梗塞 され た陶芸教育だ と思われる。

また、今 日の教育や社会が、境界にある唆味な存在 を ことごとく削除 し、人間の多様 な形 を認 めな くして し まった状況 を考 えるならば、ローアー トの歴史を歩んで きた工芸、特 に、陶芸が、意味生成の認識によって、そ の暖味や境界の存在 を明 らかにし、その部分を埋めてい く一助 となることがで きないだろうか。つまり、陶芸 と 教育の新たな関係が見えて くるのである。ここに、「 陶芸 制作一陶芸教育一教育一研究」のそれぞれにある従来の 枠組みを解体 し、美術行為や意味生成 を 「 通路」 として 認識することによって、「 陶芸制作一陶芸教育一教育一研 究」 と自己の整合性の問題 に解決の目処が立つ といえ る。

今 日現代社会 を見ると知識優先、考 える力の不足、結 果優先、 責任転嫁、自由や個性の認識不足等か らくる様々 な問題が噴出 している。 しか し、 これ らの多様 な問題 は、近代の歴史 とともに歩んできた ものであ り、根底か らの問い直 しを必要 としているといえる。同様 に、美術 において も 「きれい」 とか 「 お もしろい」な どの美辞麗 句によって、美術の存在 を正当化 ・美化 してきたことも 根底か ら問い直す必要があると思 う。いずれにせよ、根 底へ、そ して核心へ向かわなければならないわ けであ る。その時に、本論で述べた 「 近代化の中で置 き忘れて きた、美術 を行為 として再認識 し、そこに生 じる意味生 成 に価値 を認めること」は、美術か ら教育へそして社会 への 「 通路」 として重要な役割 を担 うのではないだろう か。つ まり、本論で述べてきたことは陶芸の狭い社会だ けの ことのようだが、工芸 ・美術そしてその枠組みをも

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‑‑ 上越教育大学美術教育研究誌r美と育

」a r taeduca t i onno . 41 998

超越 して( あるいは消滅 して) 、美術行為 という通路 はこ のような現代社会 に求め られているのではないだ ろう か。

(l) 平成 8 年度上越教育大学集中講義 「 =芸 ・デザイン論」( 金子賢 治) の講義内容に私見を加えている。下記に金子賢治の引用文献 を付記する。

西洋近代のアー ト/クラフトの文脈においては、特定の素材 や技法に導かれて表現することと、表現の‑素材として特定の 素材 ・技法を選択することとの協調と桔抗からなる造形 ( =工芸 的造形)を的確に把握することができない。その帰結が、「 クラ ス・ ゲットー」と称されるような中途半端に現代美術志向の工芸 作品であるとすれば、それを生み出したのか 「 素材相対主義」と いう立場だったと考えることができる。スタジオ・ グラス、スタ ジオ ・クラフトの隆盛にともない、「 特定素材による表現」の可 能性と 「 特定素材の選択」の必然性、その両者の差異を陛味にし たまま、特定の制約を持った素材を単なる造形素材の一つとし て相対化 ( 他の素材と同格に見ること)する立場が生まれること となる。これが 「 素材相対主義」である。

金子賢治 「 スタジオ・ クラフトを介してアバカノヴイチから橋 本真之へー素材相対主義の系譜と克服 」GL ASS AND ART No. 21Spr i n91 988 p . 43)

( 2) 陶芸神話とは、陶芸が日本の伝統美として、佗び・ 寂・ 窯変等の 味や、生活用品としての食器や茶道における器等の文化のもと に、神事のように自明のごとく認られている「 焼物は素晴らしく 教育的にも大変よい、そ して子供から老人まで広く楽 しまれて いる」という疑い様のない教義によって守られてきた陶芸文化 のことを指 している。 ( 高石の造語)

( 3) このことを金子賢治は 「 素材相対主義」と定義している。

( 日 参照

(4) 「 工芸的造形 」 (1) 参照

(5)

北洋憲昭

「 民族」と r 美術」をめぐる走り書的覚書‑あるいは

「 工芸」について Topos.Et hnos 一現代美術における文化 のはざまをめぐって‑ テキスト p. 28

( 6) 生成方法とはある考えによって形になる過程を意味 し、成形過 程と成形過程の前にある意味の生成をも含んだ言葉として使っ た。

(7) ここでいう個人的な制作活動とは、販売による利潤を目的とし たものでなく、芸術的追究を目的としたものである。

( 8)

長 田謙一

「 意味生成」生成する美術へー<美術/ 教育>の転

回一 上越教育大学美術教育研究誌 「 美と育 」no. 3 1 997 参照

参照

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