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芸術と教育(その五) : レーニンの思想から

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Academic year: 2021

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(1)Title. 芸術と教育(その五) : レーニンの思想から. Author(s). 広川, 正治. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 22(1): 1-14. Issue Date. 1971-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4625. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 芸. と. 術. 教. 育 (そ の五). - - レー ニ ン の 思 想 か ら. 広. 川. 昭和4 6年9月. 正. --. 治. 北海道教育大学函館分校教育学研究室. Sho i H工ROKAWA ; Some Thoughts of Lenin’s on i Art and Education. - Art and Eduat ion. No 5 - . .. 次. 目. 1 , 2 , 3 , 4 ,. 認識論コ反映論 反映論にもとづく教育の問題 反映論にもとづく芸術の問題 芸術の階級性・党派性. 5 , 教育の階級性o党派性 6 , 文化の民族的性格に関する問題 7 . 共産主義的 教育と芸術のリアリズム. ヴ ェ ・イ . レー ニ ンの芸 術 と 教 育 と に 関 す る 考 え 方 を 検 討 して み よ う.. 「物質的生活の生産様式が, 社会的・政治的および精神的生活過程一般を制約する) ( 「経済学批 判」 序 言) と い うマ ルク ス ・ エ ン ゲル ス の 唯 物 史 観 の 上 に 立 っ て, レー ニ ン は さ らに 彼 の 時 代, す. なわち資本主義体制の崩壊とプロレタリア革命の勝利の行進が始った時代, ロシヤにおける社会主 義建設の時代をふまえて, 芸術や教育を含む文化全 般についての問題を発展的に考察することがで きた. 芸術は芸術の, 教育は教育の, それぞれ独自の発展法則をもっと考えながらも, しかしそれ らの特殊法則から出発するだけでは, それらを正 しく理解することができない。 つねに政治・経済 および社会全般との全体的関連性のなかにおいてこそ, それらを正 しく理解することができるであ ろう. 芸術的発展は究極において経済的発展にもとづく。 経済的発展の要求は, 社会的機能として の教育を不可欠の条件として要求する。 また逆に経済的発展から生ず る芸術的発展は, さらに土台 であるその社会の経済的構造に反作用をおよぼすのである。 そうしたなかで, 教育と芸術とはどの よ う な 働 きと して, どの よ う な 相 互 関 係 を も つ の で あ ろ う か。 こ の 点 に つ い て, レ ー ニ ンの見 解 を 検討 して み よ う。. 1 . 認識論=反映論 われわれはすでに, エンゲルスの所論に従って, 人間が猿の段階から, いかにして人格としての 人間の段格にまで発展してきたかを理解した。 人類にこの進化を保障したものは人間が生きていく ために不可欠の価値を生産する労働によってであった. 労働を通して, 人間は物的な客観的世界を 認識することができた。 この認識とそれにもとづく実験=労働によって科学が発達した。 この プロ セスを中核として世界を総合的に認識することによって, マルクス主義の哲学としての弁証法的唯 物論が確認されたのである。 - 1 -.

(3) . VO I .22 No .I. i i ido Un i on (Sect lof Hokka i ty of Educat on IC) s Journa ver. Sept , ,1971. 人間は始めから完全な精神として 存在するのではなくて, 動物的な不完全な状態から, 弁証法的 に発展するのである. 何よりも, 無知から科学的な知者にまで発達するのである。 人間の発達にか かわる教育はまずこの点に着目 しなければならない. ひとたびわれわれが, 「人間の認識は無知から発展するという観点に立つならば,」 つぎのことを 認 めざるをえない. 「すなわち, 『物自体』 は 『われわれに対する物』 に転化するということ, われ われの感覚器官が外部のあれこれの対象から刺激をうけると 『現象』 が発生するということ,また, われわれが存在 していることを知 っている対象が, なにかの障害 でわれわれの感覚器官に働きかけ ることができなくなると, 『現象』 が消失するということ, を.」 そこからくる唯一の必然的な結論 は, 「われわれのそとに, われわれから独立して, 対象・物 o 物体が存在 し, われわれの感覚は外 ) 界の像である,1 」 と レーニ ンは主張する. これが弁証法的唯物論の立場に立つ認識論の出発点であ る. レー ニ ンは マ ル ク ス ・ エ ン ゲ ル ス に よ っ て 確 立 さ れ た こ の 立 場 を 守 り, さ らに 発 展 さ せ た.. 「物質は第一次的なものである.」 「物質がわれわれの感覚器官に作用 して感覚を生み出すのであ 2 ) 感覚を始めとして, より高度な意識もす べて特殊な仕方で組織された物 質の最高の所産なの る。」 であっ て, 決 してその逆ではない. そ して感覚がわれわれのす べての認識 (知識) の最初の源泉で ある. しかし認識が理解となるためには, 知覚されなければならない. 感覚がある事物の個々の特 性の反映であるのに対 して, 知覚は, さまざまの特性をその総和において, それらの相互の関連に おいてとらえた反映である. 知覚は感覚内容と しての事物や現象のさま ざまな特性や部分の総和に おける直観的・形象的な反映である. 知覚のこの総体性という性格は, 知覚される物質的対象の客 観的な総体性にもとづいている. 感覚も知覚もわれわれにおけるもっ とも直接的な実在の反映であ る。 しかし他のあらゆる認識過程と同様に, 知覚する立体 の特殊性によって左右される。 感覚・知 覚は客観的世界の主観的映像である. 決して写真のような映 像ではない. その認識内容が現実と合 3 )「人間の実践が唯物論的な認 致 しているかどうかは, まさに人間の実践活動によって点検される. 4 ) 識論の正 しさを証明する」 のである, と同時に人間の実践活動は知覚の基礎でもある. 何をどの ように知覚するかは, その人が何をどのように行なうか, その人の実践活動の内容と性格 がどうか 一般化, 現実の一般化された反映 が によってきまってくる. 知覚において認識された個々の現象の‐ 思考である. すでに持っている知識から問題を解決しようとする探求活動が思考活動である. 現実 の一般化された反映と しての思考は, 言語・コトバ を通 して行なわれる。 思考はコトバ を媒介とす る現実の反映である. コトバ は共通点をもった事物の信号である. コトバによってわれわれは, 一 般に知覚 したり, 表象 したりすることのできないものでも, これを思考することができる. 「表象 は 全 体 と して の 運 動 を と らえ る こ と が で き な い. た と え ば, 毎 秒30万 キ ロ メ ー ト ル の 速 度 を も つ 運 ) か く して, 動 は と らえ られ な い. しか し 思 考 は そ れ を と らえ る し, ま た と らえ る に ち が い な い.」5. 感性的認識はコトバ (概念) を媒介に して理性的認識にまで発展するのであるが, 抽象的思考は対 象を, その総体において, その運動において, 他の対象とのそれの関係において反映 し, 対象の本 質を反映する. 概念はコトバ によ って表現されるが, それは事物そのものにおける実在的で一般的であるものの 反映であり, 実在世界の客観的諸関係の反映にほかな らない. かかるコトバ を媒介に して, 諸事物 の内部的結合, それらの相互作用, それらの発展法則を反映するようになる. それが思考過程であ る. 思考は現象間の法則的・本質的関係の反映であるといえるであろう. 現象の反映から本質の反 映への移りゆきは, 直接的なものから媒介的なものへ, 特殊的なものから一般的なものへの移りゆ きである. 人間は, 思考過程において知覚の限界を越えるけれども, それは現実を歪めるものでは なく, 反対に, 現実をより深く, より正確に認識させるのである。 事物や現象のなかから一般的な - 2 -.

(4) . 第 22 巻 万 醐 第1号. 、 旭 月 学紀要( 一口 C) 北海道教育大 第一部 子か. 昭和4 6年9月. ものを明るみに出すことによって人間は, それらの本質を認識する 「思考が具体的なものか ら抽 。 象的なものへ上昇するとき, --もしその思考が正 しいものであれば……真理から遠ざかるので は なく, 真理へ近づくのである. 物質という抽象, 自然法則という抽 象, 価値という抽象など す べ , て科学的な (正しい, まともな, 無意味でない) 抽象は, 自然をより深く より正 しく より完全 , , に反映する。 生き生きとした直観から抽象的思考へ, そしてこれから実践へ --これが真理 の認 , 識の, すなわち客観的実在の認識の弁証法的な道す じである 」 ) 感覚・知覚におけると同様に 思 。6 , 考においても, 実践はその源泉であり, かつそれの真理の基準である われわれが解決を迫られる 。 問題は, 実践のなかで提起される。 また逆に, 有効な実践活動 は, 思考なしにはありえないのであ る。 したがって, 「生活・実践の観点が, 認識論の第一の, 根本的な観点でなければならない ー) 。 なぜなら, 「認識は, それが人間に依存 しない客観的な真理を反映したばあいにだけ 生物学的に , 有用であり, 人間の実践・生命の保存・種の保存に有用であることができる」 8 ) からである 。 2 . 反映論にもとづく教育の問題 以上の レーニンの客観的世界の反映としての認識論から, 教育の基本的問題が提起されなければ な らな い。. 第一に幼児期における感覚的経験の重要性が強調さ れなければならない しかもそれは子どもの 。 自然のなかでの行動による体験である. 子どもたち同志の遊びにおける人間関 係の体験である 幼 。 児は事物をとりあつかうことによって, その個々の特性やさまざまの側面を識別する 自分の足で 。 歩くことによって距離を識別する。 事物の空間的知覚はかく してえられるであろう 時間の知覚 も 。 また意識的に行動することを通して 「まえ」 と 「あと」 との関連の知覚と して, しだいに形成さ れ るであろう。 視覚や聴覚を始め, 諸感覚の発達は, これを子どもの自然の形成にまかせておくので なく, 教育として は, とくに親や教師から, 意図的に認識への刺戟を組織することが要 請される 。 特に学校教育のなかでは目的志向的に, 多面的o総合的に自然現象や社会現象 を 児 童 の 前 に 提 起 し, 観察させなければならないだろう。 直観教授は唯物論的反映論に立てばこそ真に大切な教 育原 理となるであろう. さらに, さきに示 したレーニンの認識論の第一 観点からすれば, 生物学的有用 性からして, 児童生徒の学習を生産労働と結合す ることは, もっとも重要な原則となるであろう 。 この点については後に改めて論ずるであろう。 いずれにしても子どもの科学的発達はもちろん, 芸術的発達のためにも, 視覚や聴覚の発達は不 可 欠 の基 盤 で あ る. す で に マ ル ク ス に お い て 見 た よ う に, 絵 を か く こ と を 通 して こ そ 自 然 界 の 色 ,. や形についてみて観ることを発達させる。 歌を唄い, 器楽を演奏すること を通して, 生活環境にお ける音や, 人間関係における声をきいてみることを発達させる。 身体的活動を通して, ス ポーツや 踊りを通して, 身体的運動の感覚, リ ズム感覚を体験する. このように認識は物的世界の色や形 , 音や流れ, リズムを反映する. 「感覚は運動する物質の像である。 ……感覚は, 運動する物質のわ れわれの感覚器官に対する作用によってひきおこされる。 ……赤い色の感覚は, 1秒間に約450兆 回 の速 さ でお こ な わ れ て い る エ ー テ ル の 振 動 を 反 映 して い る。 淡 青 色 の 感 覚 は, 1 秒 間 に ほ ぼ 620. 兆回の速さのエーテルの振動を反映 している。 エーテルの振動は, われわれの光の感覚から独立に 存在している。 われわれの光の感覚は, 人間の感覚器官に対するエーテルの振動の作用に依存して 9 ) このように 「唯物論は, 客観的実在 すなわち運動する物質の われわれの意識から独立 いる. 」 , , した存在をみとめることによって, 不可避的に, 時間と空間の客観的実在性をも……みとめなけれ ばならない. ……空間と時間もまた単なる現象の形式ではなく, 存在の客観的=実在的な形式であ る, 世界には運動する物質以外の何ものもなく, そして運動する物質は, 空間=時間のなか以外に - 3 -.

(5) . VOI .l .22 No. ion I C) i i on (Sect ido Univer t lo s f Hokka journa y of Bducar. Sept . ,1971. ) l o は 運 動 す る こ と が で き な い.」. 感性的認識を, 客観的世 界の連続的総合的全体像の反映と して, 正 しく育成することなしに, そ れにもとづいて始めてその うえに形成される記憶 ・想像・ 思考という意識や感情・意志という人格 の 諸要 素 を 育 成 し, 発 達 さ せ る こ と は で き な い. こ の こ と と 関 連 して つ ぎ に 強 調 せ ざ る を え な い こ と は, コ ト バ の も つ 概 念 内 容 の 理 解 に つ い て で あ る. コ ト バ は, 人 間 だ け が も つ, も っ と も 完 成 した コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ンの 形 態 で あ る. こ れ が コ ミ ュ. ニケーショ ンの手段になりうるのは, すなわち人間間の相互理解を可能にするのは, 人間が共通に 理解せざるをえない客観的世界の事物や現象 の信号であるか らである. したがって, 家庭において は親がこの点を意識 して, 客観的事物や現象と結合させて, 子どもにコトバ を教える努力が必要で あり, 学校においても, 教師は, 子どもたちがいわゆる 「論語ょみの論語知らず」 にならないよう に, 特 に 同 様 の 留 意 が 要 請 さ れ る で あ ろ う. ゴ ト バ な しに 考 え, 感 じる こ と は で きな い. 子 ども た. バ ちが考え, 感 じ, そのうえで実践するその活動が, 生物学的有用性をもちうるためには, コト の 意味内容が正 しく客観的実在を反映 する信号になっていなければな らない. この点か らも, わが国 の教育遺産として の生活綴方的教育方法は再評価されねばな らない であろう. 第三に, 以上のことはさらに, 子 どもたちの知識はすべて客観的・科 学的でなければならないと い う こ と で あ る.. 客観的世界の反映 としての唯物論的認識論に立つかぎり, 知識が客観的である こ と は 当 然 で あ ・ る. その見解を離 れては, 科学は一歩も前進 しえない。 一般に認識は, 形式としては主観的であ る にしても, 内容としては客観的でなければならない. 認識主体の条件に左右される面からくる主観 性のゆがみは, 実践によって実証されることが必要であった. 実践的に実証された知識であること 認 に よ っ て, そ れ は 始 め て 真 の 知 識 と い え る。 こ の こ と は 科 学 的 で あ る こ と を 意 味 す る. さ らに,. 識が感性的なものから理性的なものに発展してこそ, より正 しく, より深い 認識 と な る の で あ る が, そ の 移 りゆ き を 可 能 に す る も の は, コ ト バ に よ っ て 表 現 さ れ る 概 念 を 媒 介 に して で あ っ た. し. かもすでに ふれたとおり, す べての概念は, その源泉としての感性的経験と結びついていなければ ならない. そのうえで概 念は, 現実の事物や現象 の一般的o本質的特徴の反映であった. 「概念は 1 1 ) 感性的認識 の資料の一般化を通じて 形 成 さ 物質の最高の産物 である脳髄の最高の所産である.」 れた概念を操作する思考は, 現実の一般化された反映であった。 かかる思考によってえられた客観 的世界の法則的知識の体系が科学である. 「法則という概 念は, 人間が世界の過程の統一性・連関 ) といわれるよ うに, 実践的に実証 1 2 性・相互依存性およ び総体性を認識する諸段 階の一つである」 さ れた 知 識 と い っ て も, そ れ が ま だ 個 々 バ ラ バ ラ な も の で あ る か ぎ り, 真 に 科 学 的 と は い い え な. い. 統一性・連関性 ・相互依存性およ び総体性があっては じめて科学的といえるものである. 「人 間のもっている概念は, 抽象的で孤立しているばあいには, 主観的であるが, 全体・総計・煩向・ i 3 ) と レー ニ ンが 指 摘 した の も こ の 意 味 に お い て で あ ろ う. 源 泉 に お い て は, 客 観 的 で あ る」. 最近のわが国のカリ キュラムの改訂のなかで強調されてきているように, いかに科学的に高度化 してきているとはいっ ても, その 「科学」 が, 抽象的で孤立しているかぎり, 全体的な連関性・相 互依存性が否定されているかぎり, 主観的ではあっても, 真に科学的客観性の あるものとはなりえ ないであろう。 人間をしあわせにする知識技能 であり, よってもって社会の福 祉に貢献できる知識 技能であるためには, それは客観的・科学的でなければならない. 教育課程が自然においても, 社 会においても, 現実生活を正 しく客観的に 反映 しているものでなければならず, 全体的に相互連関 一 性を保障するものでなければならないであろう, 特に, たとえば小学校の八教 科の横の連関性・ 貫性が問われなければならない。 - 4 -.

(6) . 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和4 6年9月. 3 . 反映論にもとづく芸術の問題 すでにみてきたことであるが, 「認識は人間による自然の反映である。 しかしそれは単純な, 直 接的な全体的な反映ではなく して, 一連の抽象からなる過程であり, 諸概念や諸法則な どの定式化 ・形成からなる過程である。 そしてこれらの概念や法則などもまた, たえず運動し発展しており, 自然の普遍的な合法則性を条件的・近似的に包括するものである。 人間は自然を全体的に完全に, すなわちその 『直接的な総体性』 を把握する=反映する=模写することはできない。 人間は抽象や 4 1 )人 概念や法則や科学的な世界像などをつくりながら, たえずそれに接近していくにすぎない. 」 間が自然について所有しようと努力している認識は, 必然的に, たえず発展している歴史的過程で ある. なぜなら, 第一に, 反映される対象, 物質世界が不断に運動状態にあり, 発展状態にある からであり, 第二に, 反映する方の主観は自然の一小部分にすぎず, したがって認識の運動はすで に, す べ て の 運 動 が そ う で あ る よ う に, つ ぎの よ う な 本 源 的 な 矛 盾 を も っ て い る か ら で あ る。 す な. わち, 汲み つくしえない際限のない物質世界とわれわれの認識がそれぞれにもっている制限された 性格とのあいだにある矛盾である。 「認識とは, 思考が客観へたえず, 限りなく近 づいていくこと である。 人間の思考のうちに自然を反映する活動は 『生気のない』『抽象的な』 運動のない, 矛盾の ないものとして理解きれてはならず, 運動の不断の過程, 矛盾の発生とその解決の不断の過程のう 1 5 ) これが反映論の基本的命題であった。 唯物論 ちにあるものとして理解されなければならない。」 的認識論は, 人間が現実反映の初歩的形態から, 感覚的所与を論理的に仕上 げることによって, 科 学的概念・法則・カテ ゴリー等の定式化にまで高まる過程を示 している。 認識が絶対的真理に迫っ ていく無限の過程であるということ, このことは芸術を含め社会的意識のあらゆる形態を正 しく理 解するうえで大きな意義をもつであろう。 芸術といえども, それが真の文化として人類の進歩や福 祉に 貢 献 す るも の で あ る か ぎ り, こ の 基 準 を は ず れ る こ と は で き な い。. 芸術的創造性とは何か. 創造にかかわる認識的機能は想像である。 「想像とは, 形象・表象ある ) 想像はた しかに観念形態における新 しいもの 1 6 いは観念の形における新しいものの創造 で あ る。」 の創造ではある. 「しかし, 想像の源泉となるものは, つねに客観的な現実である。 人間によって 創造されるものは, それが どのように新しいものであろうとも, つねに現実にある も の か ら 出 発 し, それを拠所としている。 ……全く荒唐無稽な像 が作られるときでさえ, そのなかに含まれる個 1 7 ) 想像をも含めて, す 々のものは, 客観的現実からとり出されたものであり, その反映である.」 べての認識がそうであるように, 客観的現実の反映であればこそ, レーニンは想像の一種である空 想 に つ い て も, つ ぎの よ う に 述 べ て い る。 「空 想 は, 詩 人 だ け に 必 要 だ と 考 え る の は 間 違 っ て い る.. ′数学にさえ空想は必要である。 空想なしには, 微分や積分の発見さえ不可能 これは愚かな偏見だ. 8 ) 革命という社会変革の活動であれを こそ, 夢なしには考えられない。 空想は芸 1 であったろう. 」 術家や詩人だけでなく, 科学者にも不可欠のものである. いやしくも大胆な夢なく して, 新しいも 1 ) 9 の を創造 す る こ と は で きな い。. 想像は, 労働の過程において発生し, 発達した人間の特殊な活動である。 したがってまた, 人間 がその願求を実現するために, 目的志向的に, 計画的に現実を変革しようとすれば, その意味で新 たなものを創造する想像が有効であるうとすれば, その想像は客観的現実を正 しく反映するもので な け れ ば な らな い の で あ る.. さらに, レーニ ンの反映論的認識論は, 世界の画像を創造することを助ける。 「唯物論者にとっ て は, 世 界 はそ の見 え る ま ま の も の よ りも, い っ そ う 豊 富 で, い き い き と して い て, 多 様 で あ る。. ) というよ 2 0 なぜなら, 科学の発展の一歩一歩が世界のなかに新しい側面を発見するのであるから」 - 5 ー.

(7) . VO I .22 No .I. i do Uni i i i t Journalof Hokka s on (Sect on IC) ver y ofBducat. Sept , ,1971. ぅに, 芸術的創造における想像は, 個々の過程から切り離された外的なものの反映だけにかぎるこ とはできない. 現実は, 目のなかにうつる個々の特徴の, 機械的な全体ではなく, その複雑な諸関 係, 諸矛盾, 諸葛藤をもち, 古いものと新しいものとが闘争 し, だれもが明らかにできるとはかぎ らない, 内部的な動態をもった, 一定の法則にもとづいて発展している生きた世界であるが, 芸術 はそうした現実世界のなかから, 一般的なもの, 典型的なもの, 諸現象の連関, それらの本質的な 内容を認識することを助ける. 1 ) 社会科学が社会的現実の構成を抽象的概念によっ 2 芸術的認識は, 「現実の形象的反映である.」 て理論的に認識するとすれば, 芸術は社会的現実の生活形態を形象によっ て具体的に認識する. 芸 ) 科学が一般 2 2 術的認識は, 芸術家の体験を基礎とした社会的現実の生活形態の形象的認識である. ゴ て具体的に認識するところに芸術的認識 形象によ に論理的形式・カテ リーによるのに対して, っ の 特 殊 性 が あ る. レ ー ニ ンは トル ス トイ, ネ ラ ー ソ フ, ツ チ ェ ドリ. ゴ. リ キ ー を, ま さ に 真 実. 性のために, 芸術的諸形象が, そのふかい具体的な理解における歴史的現実に相応 していることの ために, 典型化が完全であると評価 したのである。 偉大な芸術家は, その時代が 提起する問題を避 けることはできず, 時代の本質的な特徴と現象を描出せざるをえない. 芸術家の偉大さをはかる基 準は, 現実の本質的な面を認識するその深さにある. なぜなら, ほんとうの芸御守作品にはかならず 客観的真実がふくまれているからである。 現実の芸術的反映の真実性の度合いは何によってきめられるであろうか。 それは, どの程度に, 芸術家が諸現象の合法則的連関をみぬいているかによっ て, 現実の本質的な側面と内容を認識する その深さによって決められる。 したがっ て芸術家の世界観は, 芸術作品が芸術的に十分な価値 をも つための基礎 である. 偉大なる芸術作品であればこそ, そこから作者の世界観がに じみ出てくるで あろう. 「生きた人間ならだれでも, いずれかの階級の味方をしないではい られない し, (ひとたび かれが, それらの階級の相互関係を理解するなら) その階級の成功を喜ばないではいられないし, その階級の失敗を悲 しまないではいられない し, その階級に敵意をいだく人びとや, おくれた見解 ) 2 3 を普及させてその階級の発展を妨げる人びとに対 して, 憤りをおぼえないではいられない等々」 と レーニ ンはいう。 芸術が, 彼のいう偉大なものであオリズこそ, それはおのずから階級性をもたざ る を え な い ゆ え ん で あ る.. 4 . 芸術の階級性・党 派性 そもそも 「唯物論者は階級的矛盾を暴露するとともに, そのことによって自己 の 見 地 を 確 立 す 2 4 ) ものなのであり, 「唯物論は党派性とでもいうべきものを自己のなかにもっ ており, 諸事件 る」 のどのような評価にあたっ ても, 直接, かつ公然と特定の社会的集団の見地に立つことを義務づけ 4 ) と い う性 格 を も っ て い る の で あ る こ こに, 芸 術 的 創 造 も ま た, そ れ が 本 物 で あ れ ば こ そ, る」2 .. 階級的性格をもたざるをえない必然性がある. 資本主義社会にあっ ては, 文筆の仕事をはじめと して一般に芸術活動は, 総 じてプロ レタリアの 共通の事業から独立 した個人的な仕事であっ てはならない. それは 「全 プロ レタ リ ア の 事 業 の 一 部, 全労働者階級の自覚 した前衛全体によって運転され る一つの単一の, 偉大な社会民主主義的な 2 5 ) のであり, 「組織的, 計画的な, 統一され 機械装置の 『歯車とね じ』 にならなければな らない」 5 2 ) のである。 だから 「無党派的文筆家 た社会主義的党活動の一構成部分とならなければならない」 ′超人文筆家をほうむれ。 ′」 とレーニ ンは叫ぶ. なぜなら, 資本主義社会に, すなわち をほうむれ. 金力のうえにたてられている社会に, 勤労大衆が貧窮 し, 一握りの金持が寄生 している社会に, 真 の, 現実の 「自由」 はありえないのであり, 「社会で生活しながら, 社会から自由であることはで - 6 -.

(8) . 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和4 6年9月. 6 ) か ら であ る きな い」2 。 「だ れ の も の で も な い 感 覚, だ れ の も の で も な い 心 理, だ れ の も の で も な. い意志, もし人間の意識が客観的に実在する外界を反映するという唯物 論の理 論 を み と め な け れ 2 ) であろうし, 「すべての 了 ば, 不可避的にここ (観念論的信仰主義) までに転落せざるをえない」 党派のうちで, もっ ともいとうべきものは中間の党派である」 という i o デ ィ ー ツ ゲ ソの 言葉 を 引 いて, あらゆ る問題について唯物論的方向と観念論的方向とからのがれようとする試みは, 「和解 8 ) と レ ー ニ ンは指 摘 す る 無 関 心 と い う の は 中 立 性 と 的 な 山 師 ざ た」 以 外 の な に も の で も な い,2 , 。. か, 闘争から身をひくということを意味しない. 階級社会である資本主義社会にあっては, 闘争か ら 「身をひくこと」 はできないし, 中立者はありえないからであ る. 無関 もということは, 結局す ) にほかならない 「無党派主義は ブル ジョア思想 2 9 るところ 「強者, 支配者に対する暗黙の支持」 。 であり, 党派性は社会主義思想であ る, という命題は, 大体において, ブル ジョア社会全体にあて 9 ) した が っ て レー ニ ンの 考 え か らす れ ば 「芸 術 の た め の 芸 術」 と い う の は 芸 術 の 階 は ま る J2 , , ,. 級性をごまかすための偽善にすぎないのである。 芸術家が真に自由であ るためには, まず外的には 農奴制的検閲からの解放, 金銭・小商人根性・買い手やパ トロンからの解放と同時に, 内的には, 芸術から確かな社会的基盤と現実の豊かさ, 内容の重要さを奪いとる。 無政府主義的な個人主義と 漆 意 か らの 解 放 が 必 要 で あ る. そ して 積 極 的 に は, プ ロ レタ リ ア 階 級 の 立 場 を し っ か り と ふ ま え る. ことが必要 である。 そのときにこそ, 芸術は真に芸術としての力を発揮すること が で き る の で あ る。 なぜなら, レーニンに従えば, 勤労大衆こそが歴史の真の創造者, 社会のすべての精神的およ び物質的価値の創造者なのであるから。 「芸術は人民のものだ. 芸術はこの大衆に理解され, かつ 愛されねばならない。 芸術はこの大衆の感情 り 思想 ・ 意志を統一し, それらを高揚せねばならな 3 ) 芸術は本来そうした 0 い。 芸術はかれらのうちに芸術家をめざめさせ, 発達させるべ きである.」 性格のものだからである。 芸術は本来人民のものであるがゆえに, 大衆にふれ, 大衆を高め るもの であり, 大衆に必要とされるものであり, 大衆の意識に深い痕跡をのこすもので な け れ ば な ら な い。 ここに芸術の深い教育的意義がある。 5 . 教育の階級性o党派性 マルクスの社会の発展に対する科学的認識は, 商品の分析から剰余価値の秘密を発見した. す べ て存在するものの発展は, 矛盾にもとづいて作用する対立物の闘争であるように, 社会の発展は生 産力と生産関係の矛盾によるのであるが, 資本主義社会にあっては, 生産の社会的所有と取得の 私 的所有の形態との矛盾を基本とする。 剰余価値追求から必然的に発生す る搾取関係による ブル ジョ ア ジ ー と プ ロ レタ リ ア ー トの 対 立 が 資 本 主 義 社 会 の 主 要 な 矛 盾 で あ る。 レー ニ ンは マ ル ク ス 主 義 の. この理論を, 歴史的に発展した帝国主義段階においていっそう発展させることができた。 資本主義 の高度に発展したこの段階においては, その矛盾もまた飛躍的に強まり, 芸術にもまして, 教育の 領域においてはいっそう支配と被支配の階級的性格を顕著にせざるをえない。 レーニンは彼の時代 の学校教育の実際や計画案を分析することによって, 教育がいかに階級性をもたざるをえないもの 10年度の 「ロシヤ年鑑」 (内務省出版) を分析しなが になっているかを具体的に立証した。 彼は19 ら, 学 齢児童 は22% な の に, 在 学 者 は 4 0 7 % つ ま り そ の ほ と ん ど5 分 の 1 に す ぎ な い。 した が っ. てロシヤにおける児童と未成年者のおよそ5分の4が 国民教育をこむ ま れ て い る こ と を 意 味 す る。 ヒ明り 知識という点でこれほどの略奪をうけている野蛮国」 「人民大衆が教育リラ , こういう国はヨー ロ ッ パ では ロ シヤ 以 外 に 一 つ も 残 っ て い な い, と い い, 「若 い 世 代 の 5 分 の 4 は, ロ シ ヤ の 農 奴 制. 3 1 ) ものであるから, 「お役所 的国民愚昧化」 的国家機構によって文盲とな る運命を負わされている」 で あ り, 教 育 省 は 「ロ シヤ の 愚 昧 化 省」 で あ る と 糾 弾 して い る。 さ らに, ツ ァ ー リ の 政 府 は, ロ シ ー 7.

(9) . I VO .I .22 No. ion (Sec i i f Bduca do Uni t t lof Hokka i t on IC) Journa ver s yo. Sept , ,1971. ヤは貧乏だからといっ て, 全住民の一人あたり1ルー ブルにもみたない教育予算しか支出しないの に, 「高い」 官職をつとめあ げた地主へは何万ルー ブルという俸給を呈 している. た しかに 「小学 校教師の給料に関するかぎり, ロシヤは貧乏である.」 「国民教育に関するかぎり, ロシヤはただの 3 ) そのくせ人民弾圧のための警察や, 侵略戦争のための軍事的冒 2 貧乏ではなくて, 赤貧なのだ.」 険 に は お しみ な く 金 を だ して い て 「す こ ぶ る 金 持」3わ な の で あ る. だ か ら 「政 府 は ロ シ ヤ の 国 民 教. 3 3 ) と指摘する. さ らにまた政府は, 小 育を妨害 している. 政府はロシヤの国民教育の最大の敵だ」 市民や農民が人口の88%, すなわちおおよそ国民の10分の9を しめているにもかかわらず, 彼らに 対し教育の道をと ざ し, 貴族は人口のたった1%半なのに, 「学校やあらゆる種類の教育施設のた めに国民の10分の9から金をとりあげ, 小市民と農民には道をと ざしておきながら, しかもこの金 4 ) と 政 府 を 糾 弾 して い る で 貴 族 を 教 育 して い る」3 。. 資本主義社会では, 学校が身分にかかわりなしに開放されているとしても, 授業料の支払いとい 3 5 ) かぎり, その学校は階級学校である. 労働者階級は子 う 「ただ一つのことだけを要求している」 どものための無償教育を要求する. 子どもによい教育をほ どこすことができるのは金持 階級だけと いう社会にあっては, 「す べての子どものための無償の義務教育だけがせめていくぶんでも, 今日 6 ) と は い え, 3 の 無 知 か ら人 民 を 救 い 出 す こ と が で き る.」. そ れ は せ め て い く ぶ ん で も で あ っ て, そ. れ以上ではない. だからこそ 「現代社会では, 授業料を全然とらない ような中等学校といえ ども, なんら階級的学校でなくなることは決してない. なぜなら, 7~8年にわたる生徒の扶養費は授業 料よりもはるかに高く, こうした費用 がまかなえるのは, ごくわずかの少数者にすぎないからであ 3 ) 資本主義社会であるかぎり, 「西欧でもロシヤでも中等学校はその本質において階級的であ 7 り」 3 7 ) たとえ無料の り, またそれは住民中のごく ごく少部分の利益だけに奉仕しているからである.」 学校教育があらゆる階級の子 どもたちに開放されていても, 資本主義的経営においては, 特に農業 経営においては, 「農民は自分の身体をすりへらすまで働き, 自分の子どもたちを二倍もはげしく 働かさなければ持ちこたえることができない」 のであり, 農繁期においては特に 「彼らは自分自身 3 8 ) こ の よ う に, の 子 ども の 労 働 に い ろ い ろ と 重 荷 を か け な け れ ば な らな い の で あ る.」. 児童 労働を. 搾取せざるをえないような生活条件に, 労働者や農民をおと しいれてい るかぎり, その教育の開放 性を子どもに利用させることのできるのは有産者だけとならざるをえない。 資本主義社会の発展につれて, 矛盾がきびしくなればなるほど, 学校もまた基本的に対立する両 階 級 の 外 に 立 っ た り, 中 立 で あ っ た り す る こ と は 許 さ れ な い. しか しだ か ら こ そ ブ ル ジ ョ ア 国 家 が. 文化的であればあるほど, その国家はますます巧妙にうそをついて, 学校というものが政治の外に 立ち, 社会全体に奉仕することができると主張 してきた。 しかし実際には, 学校は ブル ジョア ジー の階級的支配の道具に完全になりはてていたのであり, 「忠勤をはげむ奴僕と, ものわかりのよい 3 ) のである. 彼らは 「知識を自分の独占物と 9 労働者とを資本家に提供することを目的としていた」 ) の で あ る した が 4 0 み な し, そ れ を ば い わ ゆ る 『下 層 民』 に 対 す る 自 分 の 支 配 の 道 具 に して い る」 .. “) って 「生活からはなれ, 政治からはなれた学校なるものは, 偽りであり, 偽善である」 と レーニ ンは公然と声明する. 学校が政治の外に立つことができるかのようにいう見解は ブル ジョア的偽善 である. ブル ジョア ジーは学校教育の中立性という命題を提出しておきながら 「自分では, 学校事 業の重点をその ブル ジョア的政治におき, ブル ジョア ジーのための従順ですばしこい召使を仕込む と い う こ と に, 学 校 事 業 を 帰 着 さ せ よ う と つ と め, 普 通 教 育 さ え, こ れ を 下 か ら上 ま で, ブ ル ジ ョ. アジーのために従順ですばしこい従僕, 資本の意志の執行者, 資本の奴隷を仕込むことに帰着させ ようとつとめてきたのであって, 学校を人間の人格を育成する道具 とならせるために配慮 したため 1) レー ニ ンの こ の 指 摘 は, 高 度 に 発 達 した 資 本 主 義 国 と して しは, た だ の 一 度 も な い の で あ る.」4 - 8 -.

(10) . 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和4 6年9月. の 戦 後 の わ が 国 に お い て も 見 事 に あ て は ま る の で は な か ろ ぅ か。. 大十月 革命を成功させたソ連邦の勤労大衆にとって, 知識は解放のための彼らの闘いの道具であ ること, 彼らの失敗の理由が教育の不足にあること, 教育をすべての人びとが実際に手に入れ るこ と の で き るも の と す るか ど う か は, い ま や 自 分 た ち 自 身 に か か っ て い る こ と を 理 解 し 自 分 た ち の ,. すすめてい る闘争を勝利におわらせるためには, 教育がどんなに必要であ るかを知ったのである 。 6 . 女化の民族的性格に関する問題 教育や芸術の階級性・党派性と関連 して, 諸民族の 牢獄といわれたツ ァーリ・ロシヤでは 第一 , 次世界大戦の前夜にあって, 軍備競争が激化し, 排外主義の風潮が一般化していた そ して一方で 。 は排外主義が支配的大ロシヤ民族の特権を保障し, 他のすべての民族を従属, 不平等, 無権利の状 態におこうとする反動的民族主義が, 他方では民族文化, 民族的排他性をもって民族を離間させる ブル ジョア的民族主義およびブル ジョア民主主義的民族主義がはびこっていた ここから第一に , 。 ブル ジョア民族主義者やえせマルクス主義者たちは 「まずは じめに民族 的任務 それからプロ レタ , リ ア 的任 務 だ」 と 言 う. こ れ に 対 して レーニ ンは 「ま ず 第 一 番 に プ ロ レタ リ ア 的任 務 だ」 と 主 張 す. 4 ) からであり, プロ レタリア国際主義 プロ 2 る. なぜなら, それが 「民主主義の利益を保障す る」 , レタ リ ア ー トの 歴 史 的任 務 の 観 点 か ら民 族 問 題 を と り あ つ か う べ きだ か ら で あ る 。 「プ ロ レタ リ ア ー トに 奉 仕 しよ うと 欲 す る も の は, 『自 国 の』 ブ ル ジ ョ ア 民 族 主 義 に 対 して も 他 国 の ブ ル ジ ョ ア ,. 民族主義に対しても, ぅむことなく闘争し, あらゆる民族の労働者を統一しなければならない 一 。 …われわれのなすべきこと は, まさにわれわれの民主主 義運動と労働運動の歴史のうちにある萌芽 を, もっぱら国際主義の精神に立って, また他国の労働者とも っとも緊密に同盟 してこれを発展さ せ な が ら,. ブ ル ジ ョ ア 的 な 支 配 的 民 族 文 化 と た た か うこ と で あ る 」4 3 ) おのおのの民 族文化のなか .. には 「ブル ジョア的文化の思想」 と 「民主主義と社会主義の思想」 がある 「マルクス主義者は . ,. 4 ) しな け れ ば な らな い と レー ニ ン 第 一 の 種 類 の 『文 化』 と 闘 い な が ら, つ ね に 第 二 の 文 化 を 区 別」4 は い う・. ところが帝政ロシヤの学校における 「民族文化」 の内容は決して国際主義的ではなかった だか 。 らこそ レーニ ンはこの 「民族文化」 とたたかわねばならなかった. 「あらゆる資本主義社会におけ る重大な階級闘争は, なによりもまず経 済と政治の領域でおこなわれる.」 4 ) だから, 「民族内部の 5 階級闘争からあらゆる副次的考慮をと りさって純粋にす るというとき, これは あきらかに 二 , , っ けいな論弁であり……この領域から学校の領域を分離させることは, 第一に, ばかげたユ ートピア 4 5 ) なぜなら, 芸術を含めて 「民族文化」 一般と同様に 学校を経済と政治から切 り離す である.」 , ことはできない。 学校事業等は 「いわば社会生活のもっともイ デオロギー的な分野」 であり いわ , ゆる 「純粋の」 民族文化も しくは教権主義と排外主義との民族的培養がもっとも容易におこなわれ る分野である。 したがって経済的 ・ 政治的生活から, そういう 「学校事業等を分 離させることこ そ, 『純粋の』 教権主義と 『純粋の』 ブル ジョア排外主義を温存し, 激化し, 強化す るだろうから 6 ) このゆえに で あ る。」4 , 教 育 に お い て 培 養 し, 育 成 せ ね ば な らな い の は, 民 族 的 文 化 で あ っ て い. わゆる 「純粋の民族文化」 であってはならない。 「民族文化のスローガンの意義は その国と世界 , のすべての階級の客観的な相互関係によってきまるのであ る 」 3 ) その相互関係が排他的 ・ 差別的 。4 であっ てはな らない。 それは民主主義的。国際主義的でなければならない 「他民族を抑圧してい . る民族は自由ではありえない」 というエンゲルスの言葉を引用 しながら, 「自分の奴隷的地位を正 当 化 し美 化 す る奴 隷 (た と え ば, ポ ー ラ ン ドや ウ ク ライ ナ な どの 首 を しめ る こ と を 大 ロ シヤ 人 の ,. 『祖国防衛』 などとよぶような) , このような奴隷は, 当然の憤りと軽蔑 と嫌悪の情をよびおこさ せ - 9 -.

(11) . VOI .I .22 No. ion I C) ion (Sect i ido Un i lo f Hokka t Journa ver s y of Educat. Sept . ,1971. 7 ) と非難しなが ら, 真の民族的誇りというものは, 「平等の人間的原則 4 る下司であり下郎である」 4 8 ) 民族 のうえにうちたてるところの, 自由で独立的な, 自主的で, 民主主義的で, 共和主義的な」 のものであることを教えている. この観点からして, 戦前のわが国の朝鮮民族に対する教育的・文 化的政策, すなわち 「一視同仁」 という 「同化」 政策や戦後の崇米思想とアメリカによる日本のア メリカ化的傾向にもとづく文化的・教育的政策が問題にならないか どうか. 現在のわが国の文化・ 教育の問題を考える場合に, この問題を避けて通ることはできないであろう. おのおのの民族のなかには, 資本主義社会であるかぎり, ブル ジョア文化があり, 単に諸要素と してではなく, 支配的な要素と してある. しかし, それとともに勤労被搾取大衆がいて, 彼らの生 活条件が不可避的に民主主 義的イ デオロギーと社会主義的イ デオロギーをう み 出 す. した が っ て 「おのおのの民族文化のなかには, たとえ未発達なものであるとはいえ, 民主主義的文化と社会主 義的文化との諸要素がある. ……われわれは, おのおのの民族文化のなかから, その民主主義的要 4 9 ) のだ. そうした文化こそ民族的文化である。 なおこの場 素と社会主義的要素だけをとりあげる」 合, 補足 していえば, マルクス 主義者の仕事は, 民族をへだてることではなく, あらゆる民族の労 働者を団結させることであり, 「われわれの旗のうえにかかれているのは, 『民族文化』 ではなく… 4 9 )と ) と レー ニ ンは 強 調 す る が, そ の 「国 際 文 化 は 無 民 族 的 な も の で は な い」 0 … 国 際 文 化 で あ る」5. いうことである. それは国際 文化の精神に立った, 民族間の民主主義的・社会主義的要素か らなる 個性的文化にほかならない. 決していわゆる 「純粋な」 無国籍的文化ではない し, あってはならな い. この意味において, わが国の最近の文教政策における民族主義的強調は大いに警戒されねばな らないと同時に, 「純粋な」 芸術, どこの国のものともわからない無民族的な芸術文化は批判され なければな らない. 7 . 共産主義的教育と芸術のリアリズム 0年1 0月 帝政ロシヤを打倒 して, 共産主義建設に向って新しい国づくりに第一歩を踏み出した192 レーニンは共産青年同盟第三回全ロシヤ大会において, 共産主 義建設のための青年の任務を明らか 1 ) と強 調 す る。 共 産 に した. そ の な か で 何 よ り も ま ず 「そ の 任 務 と は, 学 ぶ, と い う こ と で あ る」5. ) しかし, 共産主 5 2 主義を希求するすべての青年は,「総じて, 共産 主義を学ばなければならない。」 義 や プ ロ レ タ リ ア 文 化 は, どこ か ら と も 知 れ ず 飛 び 出 して き た も の で は な い. マ ル ク ス 主 義 の 創 始. て, 資本主義の発展が不可避的に共産主義をもたらすこと 者たちは, 人間社会の発展法則を研究し . を理解 した. 彼らによるそのマルクス主義は 「共産主義が人間の知識の総和か ら現われたことをし めす手本」“) である. したがって, 青年の学習, 教育, 教養は, 古い社会が残してくれた材料から 出発 しなければな らない. 古い社会が残してくれた知識・組織・施設の総和により, 古い社会が残 してくれた人力と資材の蓄えを用いてのみ, は じめて共産主 義を建設することができるのである。 しか し古い資本主義社会が残した実悪や災害もあるが, そのなかでもっ とも大き な も の の 一 つ は 5 4 ) である. だから, 共産主義を学ぶ場合, 「本と生活の実際とがまったく食いちがっていること」 特に 留意 しなければならないことは, 「理論と実践との結合」 すなわち, 演説や論文からえた理論 5 5 ) は, 各方面の日常活動や闘争 と関連させ, それによって点検しながら, 習得することである. そ れな しに, ただ書物の うえでの共産 主義の知識は, 三文の値うちもない. 共産主義という未来社会 の理想は, 「生産労働を伴わない教育と教養も, 教育と教養を平行的に伴わない生産労働も, 現代 5 6 ) とい う点に あ の技術水準と科学知識の状態とが要請するような高さに達することはでき な い」 る. また, 教育は政治的に中立ではありえない. 政治・経済から分離させた教育は偽 善である. そ れはつねに現実生活, 特に階級闘争 と結合していなければならない. しかしだからといって 「まだ. - 10 -.

(12) . 第 22 巻 第 1 号 方. 、 一口 C) 北海道教育大学紀要( 第一部 \子′ 、. 昭和4 6年9月. 年少な成長中の世代の頭に, つたないやり方で, この政治を持ち込もうとする誤りと試 みはこれま でもあったし, いまでもよくみ られる」 が, 「基本原則のこのような乱暴な適用に対 して われわ , れ が つね に 闘 わ ね ば な らな い こ と は, 疑 い を い れ な い」4 1 ) こ と であ る 人類 の全発展 に よ て つく っ 。. り出された文化についての正確な知識をもっときにだけ, 古いもののなかから 現在の課題解決に , 必要な, たたかいに有利な, 共産主義建設に役立つものをえらび出し よっても て古いものを つ っ , く りか え る と きに の み, プ ロ レタ リ ア 文 化 を建 設 す る こ と が で き る の で あ る . 「人 類 が つ く り 出 し. たすべての豊富な知識で自分の意識を豊かにす るときにはじめて 共産主義者となることができる , 5 ) このさい特に必要なものは 科学の最新の成果に 従 てきずかれた 現代的な基礎 7 のである。」 , っ , = 電化 で あ る。. つぎに青年同盟の任務として問題にな るのは, 共産主義的道徳 である それは 「同盟自身の実 践 。. ) 「仕 事 へ の 協 力 を 組 織 す る こ と」5 8 活 動 を 組 織 す るこ と」5 9 ) で あ る こ れ は ま っ た く プ ロ レタ リ ア .. ートの階級闘争の利益に従属するものである。 たたかいに勝つための不可欠の要求は団結であり , 自覚的規律である. 共産主義, 特にそのモラルは, プロレタリアと勤労者とのたえまない闘争に結 び つ け られ て こ そ, は じめ て そ れ を 学 ぶ こ とが で き る 。. 以上のことから, レーニンが教育 に要求してい ることは, 人類の文化遺産である科学の知識・技 術の総合的基礎と実践活動を組織す る能力, 闘いに勝利するための団結 自覚的規律であ ることが , 理解されるであろう. しかもその教育の対象はどこまでも働く人民大衆である 人民が国の主人で . あり, なければならない社会主義国家では, 当然のことながら文化は大衆のものである レーニン 。 はロ シヤ 文 化 を, トル ス トイ, チ エ ル ヌ ィ シ ェ フス キ ー あ る い は ゴ ー リ キ ー の 水 準 に よ て で は な っ. く, 大衆の文盲の事実によって性格づけ, 大衆の文化水準の向上をこそ問題に したのである 6 )レ .0 ーニンは大衆性を卑俗性から区別してつぎのようにいう 「大衆的な著作家というものは 非常に 。 , 簡単な, 一般によく知 られた材料か ら出発して, 簡単な考察か, うまく選 んだ実例の助けをかり て, それらの材料から主要な結論を出して, ものを考える読者を つぎつぎとそのさきの問題に突き 当らせながら, 読者を深い思想へ, 深い学説へと導 いていくのである ……彼は未熟な読者のなか 。 にひそむ, 頭を働かせようという真剣な意向を相手にしており, 読者がこの真剣で骨の折れる仕事 をするのを助け, 読者が第一歩を踏み出すのを助けながら, それからさき自主的に進んでいくよう 1 ) こ の 前 半 で は ま さ に リ ア リ ズ ム の 芸 術 の 正 しい 機 に教 え な が ら, 読 者 を導 い て い く の で あ る.」6. 能が, 後半では共産主義教育の正しい機能が示されている。 これに対して 「俗流著作者 はものを考 ) のである 6 1 えない読者, また考える能力のない読者を相手にする」 . 科学的知識・技術の総合的基礎の教育についてはどうか, レーニンの草稿 「総合技術教 育につい て」 によれば, 「すべての人が, 指物工, 鉄工等々に, しかも最低限度の一般教育と総合技術教育 6 ) 表面的には 「手工業者」 であるが 単な る職人 2 をつけ加えたそれに, ならなければならない.」 , 的技術者なのではなくて, 「広い一般教養をもっているように」 ならなければならないのであり , それは 「科学の基礎原理の最少必要量を知っているように」 「総合技術的な視野と総合技術教育の 6 ) と要求され る内容のものである さらに総合技術教育の 基礎原理 (初歩) をもっているように」 3 . 原則的意義からして, 「マルクスに従って, わがロシヤ共産党の綱領に従って6 4 )……共産主義者 で 3 ) と要 求 さ れ る つ ま り そ の 教 育に は 階 級 性 が 裏 づ け られ て い るの で あ る あ るよ うに」6 。 , .. このように, 階級性に立った, 広い一般教養と科学的な知識と技術の基礎を 総 合 した 教 育 内 容 は人格形成の内容であるかぎり, 統一的に身につけられなければならない そのためにこそ 実践 。 , を通 して の 吸収 が 必 要 な の で あ る が, レー ニ ンは 同 時 に よ り 一 般 的 に 重 要 な 原 則 と して プ ロ レタ ,. リア革命の主要な任務を 「組織者的な任務」 「長期の教育と再教育の組織 活動という課題」 「数千 一 11 」.

(13) . Vo l .I .22 No. i i ive i f Bducat i do Un lof Hokka ty o on (Sect on I C) r s Journa. Sept . ,1971. 万, 数億の人 びとを組織するという任務」 「労働の組織化と教授の仕事を結合」 する任務として提 ) これは前述 した道徳的側面でもあるが, 内容に対する形式, 組織的側面として, 科 6 5 起している. 学的な総合技術教育と統一的に理解されなければならない. な お こ の 点に関連 して補足すれば, し【ニ ソはツ ァーリの軍隊を 批判 しな がら, 近代的な科学技 術と民主的・近代的組織 が, またソ連赤軍の経験からしても, ブル ジョアのあらゆる文化, 知識お 6 ) 6 よび技術 が, 共産主義建設に不可 欠であることを教えている. かかる科学的客観性にもとづく総合に対して, 宗教的な神の観念で対立矛盾や多岐性を統 一しよ うとする考えを, し【ニソはきびしく批判する. すなわち, あらゆる 「神は腐敗」 であり, 「人間 の愚鈍なおさえつけられた状態, 外的自然と階級的抑圧とによって生み出された観念, このおさえ つけられた状態を固定させ, 階級闘争を眠りこませる観念の複合体」 であること, 神の観念は, 支 配者が 「人民を奴隷状態に保っておくのを助ける」 もの, 「生けるものを死せるものにすりかえる ) こ のよ うに 6 7 こ と に よ っ て, い つ で も 『社 会 的 感 情』 を 眠 り こ ま せ, に ぶ らせ」 る も の で あ っ た.. レーニ ンは 「宗教は民衆の阿片である」 というマルクスの名 言 (「ヘーゲル法哲学批判序説」) を受 けつぎ, 「現代のす べての宗教と教会, あらゆる宗教団体は, 労働者階級の搾取を擁護 し, 彼らを 6 8 ) と糾弾している. いまわが国の教育内容や道 麻酔させる役をする ブルジョア反動の機関でさる」 徳教育を裏 づけている 「期待される人間像」 はこの立場か ら批判されなければならないであろう。 文盲の国といわれたロシヤの人民大衆に, ブルジョアジ ーから受けついだ知識の総和を身につけ させ, うそや偏見に打ちかつ能力をもった真の共産主義者に育成するためには, 「生活のあらゆる 6 9 ) しなければならない. 「大 領域での生き生きとした, 具体的な実例や模範によって大衆を教育」 衆を再教育することができるのは, 扇動と宣伝だけである.」 ここに扇動 家 ・ 宣伝家としての教育 ) この点からレーニ ンの具体的な指摘を例 示 7 0 者や芸術家の活動上の重要な任務があると指摘する. す れ ば, 一 つ は, ロ シ ヤ 革命 の 鏡 と して の レ フ・ トルス トイ で あ る。 トル ス トイ の な か に は 一 面, も っ と も い ま わ しい も の の 一 つ で あ る 「悪 に 抵 抗 す る な」 と い う 宗 教 の 説 教 が あ る が, 他 面 で は,. 「資本主義的搾取の仮借のない批判, 政府の暴力, 裁判と国家行政の茶番劇の暴露, 富の増大や文 明の成果と労働者大衆の貧困, 野性化およ び苦悩の増大との間のきわめて深刻な矛盾の暴露」 とい ) ま た 有 名 な プ ロ レタ 1 う 点 で は 「こ の う え な き き び しい リ ア リ ズム」 が あ る と 高 く 評 価 して い る。7 リ ア の 歌 『イ ンタ ナ シ ョ ナ ル』 を つ く っ た フ ラ ンス の 労 働 者 詩 人 ウ ジ ェ ー ヌ ・ ポ テ ィ エ に つ い て. は, 彼の詩はおくれた人びとの意識を目 ざめさせ, 労働者に統 一を呼びかけ, フランスの ブル ジョ ア ジー と そ の 政 治 を 鞭 打 っ た し, コ ミ ュ ー ンの 思 想 を 全 世 界 に 広 め た. 彼 は 歌 に よ る も っ と も 偉 大 な 宣 伝 家 の 一 人 で あ っ た, と 評 価 した. ま た 音 楽 と して の 『イ ンタ ナ シ ョ ナ ル』 に つ い て は 「自 覚. した労働者がどの国にやって来ようと, 運命が彼をどこに連れていこうと, 祖 国 か ら 遠 く は な れ て, 言葉も通ぜず, 知合いもなく自分をどんなに他国人だと感じていようと, 彼は 『イ ンタナショ 7 2 ) ナ ル』 の 熟 知 した 旋 律 に よ っ て, 自 分 の 同 志 と 友 と を 見 つ け る こ と が で き る で あ ろ う」 と い う.. 教育に しても, 芸術に しても, それが正 しく有効に機能 し, 社会生活に実 り豊かな影響を与える もっとも重要な条件は, その思想性と人民性, 勤労者大衆の闘争との結合にあった. し【ニンの考 えに従え ば, 芸術家も教育者も, 真に自由であるためには, 社会主義のための闘争に参加すること であり, 人民に奉仕 することであった. 学校が真に人間の人格を育成する機関になるように 配慮し うるのは, 芸術的創造の真の自由が保障されるのは, 階級的隷属からも, 社会的不正からも, 民族 的抑圧からも, 経済的恐慌か らも, 失業や貧乏からも, 古い偏見の抑圧からも自由となった社会主 義社会においてだけだからである. 教育はすべて共産主義建設のための人間 づくりに向けられる. それによって文化的水準を高めることなしに, 芸術を人民のものとすることはできない. 芸術もま - 12 -.

(14) . 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和46年9月. た広く大衆にふれ, 彼らの心に 深い痕跡を残すものとな らなければならない. 芸術と教育は相互に 助けあい補いあいながら, あらゆる進歩的なもの, 創造的なもの, 民主的なものを支持 し, 誠実で 大胆な勢力に依拠し, これらの勢力のおくれた, 誤 っ れ傾向を克服するのを助 け な け れ ば な らな し、.. あ らゆ る国 の 社 会 主 義者 を マ ルク ス 主 義 に ひ き つ け て い る 打 ち か ち が た い 魅 力 は, ま さ に こ の 理. ) と レー ニンはいうが, 最高 7 3 論が 「厳密な, 最高の科学性と 革命性とを結合していることにある」 の科学性と革命性とを総合統 一した価値であればこそ, すべての人びとを打ちかちがたくひきつけ る の で あ り, そ の 魅 力 こ そ ま さ に 美 で は な か ろ う か. (註) .14 . 1 ) ソ同盟共産党中央委員会付属マルクスニエンゲルスーレーニン研究所編集 『レーニン全集』 第四版, T ジのみを示す. 巻とペー 集 第四版については 』 以下 『 レーニン全 1 c 9 T p , . , 2) T.14 .43 . . cTp. 3 ) 認識論における実凌の規準性については, し←ニンも 「唯物論と経験批判論」 で指摘しているように (T.. バ 第二 の テ ー ゼ」 で, エ ン ゲルス は そ の後 「フ 14 .125. マル クス は1848年, 「フ ォイ エ ル ッ ハ に 関 す る , cTp. 1 888年) で明らかに している. ォイエルバッハ論)(. 4) T.14 .126 , , OTP P 5) T.38, OT .220. 6) T.38, CTP .161 . c T p 7) T.14 .130, , 8) T.14 .126, , OTP p 9) T.14 .288, . cT 10) T.14, OTP .162 , 11) T.38, cTp .157. 12) T.38 .140, , cTp 13) T.38, OTP .199, 14) T.38, OTP .173 , 15) T.38, cTp .186,. T 962年, c p .334 , 16 ) ソ連邦教育科学アカデミ ヤ心理学研究所, スミ ルノフ主監 「心理学」 第二版, 1 17) 同 上, cTp .335, C T 18) T. 33 .284. , P 1 9 ) レー ニ ン 「何を な す べ き か」 T.5, c”.476, 参 照. 20) T.14, GTP .116,. 5 1 T P 2 ) 前提 「心理学」 .3 ,O . 0 0 03ページ, 参照. 969年, 1 ) 伊東勉著 「リアリズム入門」 理論社, 1 22 ,1 23) T.2, OTP .498 , 499, 24) T.1. cTp .380 , 381, TP 25) T.10, O .27, 26) T.10, CTP .30, p 27) T.14 .331, , cT 28) T.14 .325. , cTp 29) T,10, OTp ,61,. 1 94ページ, クララ・ツエ 969年, 下巻, 1 3 0 ) 蔵原・高橋編訳, 「レトニン・文化・文学・芸術論」 , 大月書店, 1 トキ ンの 思い 出 か ら. 31) T.19, OTP .115, 32) T.19, cTp .117. r 33 ) T.19, cT .119. 121 G 34) T.19 w . , , 35) T.2 .422. , cTp 36) T.6, cTp . 365, 37) T.2, cTp .432 , 433 , 38) T.19 .184 , , OTP 39) T.28 .68 , , cTp. - 13 -.

(15) . Vo l .22 No .I 40) 41) 42) 43) 44) 45) 46) 47) 48) 49). lof Hokka ido Uhiver i Journa i i t on IC) s on (Sect y of Educat. Sept . ,1971. T.28 cTp .69 . . T.28 cTp . 386 . . T.20 .15 . cTp . T.20 .9 . cTp , T.20 .16 . cTp . T.20 . cか.19 . T.20 p .20 . cT . T.21 p . 56 . cT , T,21 , 創作,86 , T.20 .8 . cTp ,. 50) T.19 .498 . cTp .. 51 ) T.3 1 p 9 .25 , cT , 「量より質のよいものを」 では, 第一に, 第二に, 第三にも, 学ぶことを指摘している (T,33 コ 搾,447) ,C , 52) T.31 P .259 , GT . 53) T.31 .261 . cTp . 54) T. 31 .260 . cTp .. 55 ) 「量より質のよいものを」 では, 「科学が死んだ文学や流行の空文句に終らないように, また科学が真に血 となり, 完全な未来の姿で日常生活の構成要素となるように, これを点検することである」 と注意してし・る (T.33 .447) . . cTp 56) T.2 c T p . 440 , , 57) T.31 .262 . cTp . 58) T.31 .266 . cTp . 59) T. 31 p .273 . cT .. 60 ) ソ連邦科学アカデミヤ哲学研究所, 「哲学の諸問題」1 970年1 0月号, O 7 T P .1 . 参照. T.5 .285 , cTp . T, 36 , 491 , GTp , T. 36 . 492 , cTp , T. 36 .490 , . cTp 65) T.29 .141 .351 , 142 , 310 , T.30 . cTp . cTp , 66) T.8 p . 35 , T.30 .403 , 参 照. , cT , cTp 67) T.35 .89 , 93 . cTp . 68) T.15 .371 , 372 . cTp . 61) 62) 63) 64). 69) T.28 .80 . cTp , 70) T.31 .347 , 348 . cTp , 71) T.15 .180 , GTP , 72) T. 36 .187 , 188 . dTp , 73) T.1 .308 , , GTP. ′ r. - 14 -.

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