芸術と教育(その2) : シラーの美的教育について
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(2) . 第 19 巻. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 第2号. 芸. と. 術. 教. 3年12月 昭和4. そ の 2. 育. 一M シラーの美的教育について --. 川. 広. 正. 治. 北海道教育大学函館分校教育学教室. ′△ : A=s and Educat ion NO Sho i 日ー j t tolむい、 .2 f l i h s i l o E d h h 一-- i t t t t --- n uca on o c er e aes e c. 次. 目. m 教育的理念と しての 「美的国家」 N シラーにおける芸術と教育との問題. まえがき 「美的」 ということ 教育における 「美的なもの」. ま. え. が. き. 芸術は文化の-領域 として, その発生の 当初から, 教育と不可分の弁証法的関連のなかで発展 してきた. そしてわれわ れはすでに前稿において, 一応概括的に文化としての芸術と教育との関 係, 教育における芸術と 教育の関連をみた. それでは, 芸術なり, 美といわれるものは, 教育の なかでいかなる意 義なり, 性格をもつのであろうか, 芸術教育は芸術による教育, 芸術的表現の 諸手段を通しての教育であ った. その場合には, 芸術は教育の手段と考えられ ざるをえない, そ れでは美的教育というのはどのような教育をいうのであろうか, 教育においては, 芸術とか, 美 的 な も のと い わ れ る も の は どの よ う な 意 義 を も つ の で あ ろ う か.. われわれは以上の問題を, 主として シラーの美的教育を検討するなかで明 らかにしてい きたい と思う. 1. 「美的」 ということ l l ich von schi i ) は す ぐれ た カ ン ト学 徒 と し て, er edl ‐ (Johann Chrictoph Fr ツラ‐. 彼の美 学. を継承すると同時に, さ らに 「カ ント美学の主観性を克服して, 美の客観的原理を確立」 しよう ) と努力する ことによ って, ヘーゲル美学への道を開いたのである1 . われわれが シラーの美 学に 着眼するゆえんのものは, 彼こそ芸術活動に自然と道徳, 感性と理性との統一調和せる全 人的活 動を初めて 自覚した人であると考えるか らである. われわれはまず, 彼の 「美」 の概念を明 らかにしよう. 彼の根本思想には自然を一つのいきい ) が, その客観的自然における 「完全性の形 きとした全体とみるライ プニッツ的考え方があ った2 0) 式」 を質料とする形 式, すなわち 「形式の形式」 が 美といわれた (A.P .1 . -109-.
(3) . 広. 川. 正. 治. カ ン トに と っ て は ア ラ ビャ 模 様 や そ れ に 類 す る も の は, 美 と し て, 最 高 人 間 美 よ り も 純 粋 で あ. ると主張され, 論理的なものと美 的なものとが明瞭に区別されるが, シラーにあ っては, 美がそ の対象の論理的性質を克服するな らば, 正しくそのゆえ に, 美はもっとも輝しくあ らわれるとい う (A,P ,9) . すなわち, 美は単に論理性から区別されるだ けでなく, 対象の論理的性質, 完全 性の形式をも克服して, それを質料とする形式, すなわち形式の形式となること によ って最高の 輝きを発するのである. 彼の原理に従えば, 美は純粋自然 によ って規定されるものであって, 概念によ って満足を与え られるものではない, すなわち, 美 におけるわれわれの快感には, それ以前に概念が予備的に存 在するということはない. 美は絶対的 に概念に依存しなし ・か ら, 理論理性によ って規定せ られる 道 徳 性 か らは, 美 を 導 き 出 す こ と は で き な い の で あ る (A. P .25) .. 道徳的行為も, それが美 的行為となるためには心情の自律と現象における自律とが相合致する ような自由な行為でなければな らない. 道徳的行為があだ かもおのずか ら生ずる自然の結果であ るか のように見えるとき, 美的行為となる, 道徳的なも のが理性的なものの自己規定, 純粋な理 性規定であるのに対して, 感性的なものの自己規定, 純粋な自然規定が美的なのである (A.P . 32 ) 一般 3 3 的には意志的努力を伴う行為 でありなが ら, 主観的 にはおのずか らなる快感を伴う , . ものが美的なのである, 美が 「現象における自由」(A.P ) といわれるゆえんである. 自分の .22 義務でありなが らやすやすと, あだかも単 に本能か ら出たかのように 全く自己を忘れて行為す , る と き, 美 的 な の で あ る, 美 は ま た 「技術 性 に お け る 自 然」 (A. P ) と は, 規 則 に よ る .48) と 規 定 さ れ る, 技 術 (Kunst と こ ろ の も の で あ る.. 自 然 と は, そ れ み ず か らによ っ て い る と こ ろ の も の で あ る. す な わ ち 美 は そ の 意 味 で 両 者 の 統 一 と し て, そ れ み ず か らの 規 則 に よ っ て い る と こ ろ の も の 規 則 に お け る 自 ,. 由, 自由における規則である. 技巧が物自身か ら発生しない場合, 技巧が内か ら出てくるのでな くて, 外か ら入 って来る場 合, あるいはそれが物にとって必然的・生具的でなくて, それに与え られたものであり, したが って偶然的である場合, これ らの場合はいずれもその技巧は不自然で 強制的な不快 感を与える, 美が生ずるのは形式 の内的必然性によるのである, 美が技術性におけ る自然 であるというとき, それは内的本質と形式との純粋な合致である. シラーによれば, 波状線が美しいのは, その線が徐々 に気づかれないように方向を変 じている とい う点にある. 三角形の頂点のように角をなしている線は, 突然方向を変化している線であ っ て, 突発的に, 強制的に変化さ せ られている線以外の何物でもない, したが ってそれは美的とは い え な い の で あ る (A. P. 73) ,. 交際の美は, よき礼儀作法としてあ らわれる. 礼儀作法の第一法則は, 他人の自由を保護せよ と い う こ と, 第 二 法 則 は, 自 己 の 自 由 を 示 せ, と い う こ と で あ る. こ の 両 法 則 が と も に 満 足 さ れ. るような交際が美的な のである. その例として舞踊があげ られる. い っさいは, 各人がただ自己 の 考 え に の み 従 っ て 動 い て い る よ う に 見 え, し か も, 決 し て 他 の も の を 妨 げ る こ と の な い よ う に. 「 巧みに按配され かつ 無技巧的に相互に交合している それは 自己のものであると主張せ ら , , , , れるところの自由と, われわれが尊重しなけ れば な らない他人の自由と の最も適切な象徴である (A. P,25) . そ の よ う な 舞 踊 の あ り 方 が 美 的 な の で あ る. シラ ← は カ ン ト美 学 の 主 観 性 を 克 服 し よ う と 努 力 は し た の で あ ろ う. し か し 結 局 の と こ ろ そ の. 主観性をまぬがれえてはいないであろう. 少なくとも観念的であることを否定することはできな い. 要するに彼の美は 「現象における自由」 であり, 「技術性における自然」 である. しかしこ -110-.
(4) . 芸 術 と. 教 育 その2. れは美的なものの普遍的現象ではあるにしても, 結局するところ主観的感情によってのみ把握さ れ る も の で あ ろ う.. カ ン ト に おい て も そ う で あ っ た よ う に, 彼 に おい て も ま た, そ の 美 的 概 念 は. 社会的現実か ら遊離して論 じられており, 反歴史主義である. 美の客観性は, 正しくは現実世界の客観性に求め られなければな らない. 「自然が美しい のは われわれが自然のなかに美を 『考える』 か らではなくて, われわれにと って美的な有意義性をも っているような特性が自然にあるか らである, われわれが一定の社会関係や一定の人間の性格の ある性質を美として評価するのは, 気ままや主観的なむ ら気によるのではなくて, 実際に相応す ) る現象が実際的な美しさをも っているか らである3 」 し か し, 客 観 的 に 美 し い も の と そ れ に つ い , ての主観的表象とをは っきりと区別しなければな らない. 後者はつねに相対的であり, 何よりも まず, 一定の社会的・歴史的原因によ って条件づけ られている, いかなる時代, いかなる社会的 階級も, 美についての基準をも っている. それは結局は実践的利益によ って示唆されている, 美 は実際的現実性の現象に属している, その意味においてその客観性は絶対的性格をも っているの である. しかし絶対的なものは美の客観性そのものだけである. われわれの美についての表象, その美的感情は, それが 歴史的に発達したものであるがゆえに, 相対的であり, 社会的・階級的 ) に条件 づけられているがゆえに相対的である4 . 以上のようなシラーの基本的弱点にもかかわらず, われわれの関心をよぶものは, 美的なもの の性格としての自然についての考えであり, 論理的・理性的・道徳的なものを内に克服した自由 の考えである, しかしその美的なものの性格としての自然・自由は, 内に論理的・理性的・道徳 的なものを克服しているものであるがゆえに, 単なる存在としての自然ではなく, 当為としてめ ざされている自由という性格のものであろう, それならどのようにしてその当為としての自由に 到達するのであろうか. われわれはさらに 「美的教育に関する書翰」 の検討に移らねばな らない. 口. 教育における 「美的なもの」 シラ ー の 「人 間 の 美 的 教 育 に つ い て」 の 書 翰 が 当 時 の デ ンマ ー ク 王 子 フ リ ー ドリ ッ ヒ . ク リ ス. チ ア ンの 好 意 に 対 す る 感 謝 の 表 現 で も あ っ た こ と, や が て ホ ー ル シ ュ タイ ン・ ア ウ グス テ ン ブ ル 5 ) によるた め で も あ ろ う グ大 公 と して 国 政 を 執 る ク リ ス チア ン王 子 を 念 頭 に お い .て 書 か れ た こ と. が, それは強い政治的関心のもとで執筆されている。 たとえば第二書翰にみられるように、 「国 家の民」 として、 「時代の民」 として, 自己を民族的歴史的に自覚した立場から, 社会の道徳的 事情がさしせま った深い関心をそそ っていた当時, 真の政治的自由の建設が 深刻に要求されてい た当時, 国民の眼が, ふかい期待をも って政治的舞台裏に注がれて 離れず, そこでは今や人類の 大きな運命 が議せられていると思われていた. そうした時代への関心があ った. 政治的にはフラ ンス革命を中心とするヨーロッ パ全土にわたる革命的変動期, 文化的風潮としても, いわゆる狂 欄怒涛の時代, 新しい生活秩序の創造と人間解放を求める革新的時代を, シラーはその豊かな鋭 い感覚で受けとめていたであろう. 何よりも彼の処女作 『群盗』 は当時の彼の祖国の専制政治と 社会の封建的思想に対する許し難い闘争の表現であった. そこにまずわれわれは彼の民族的情熱 をみる. 「全人類に共有せらるべき人権と霊感をそそる自由と喜ばしき平等」 のフラ ンス革命の 叫びに激しい関心と深い理解をも っていたシラーも, その立場から専制政治を原則的に排斥はし たものの, しかしまた非合法的破壊的革命運動には賛成することができなかった. ここに彼の歴 史的階級的制約がある. 1 792年彼の 『群盗』 が改作されてテアトル・ ド・マレに上演され, 革命 -1 11-.
(5) . 広. 川. 正. 治. に 燃 え た フ ラ ンス 国 民 に 異常′な 喝 釆 を 博 し た こ と が あ っ た.. し かし 当 の シラ ー はこ れ に対 して全. く冷淡であり, かえ ってルイ 十六世のために, 大胆にも血に餓えた隣国民に対して 一個人として 警告の言葉を叫びかけようと決心し, 王の訴訟事件にわりこんでい ってこれについて勧告女を草 ) 彼 の初 期 の自由 解 放 へ の政 し て み よ う と い う 誘 惑 を 抑 え か ね る, と ま で い わ し め た の で あ っ た6 .. 治的関心と戦闘的革命的情熱は, しだいに内面的思索の方向へ, 静かな芸術的哲学的限想へと変 転 す る.. そ こ に は 彼 の 病 魔 と の た た か い, 経 済 的 困 窮 と の た た か い と い う46年 間 (1759~1805). 1 )に の苦闘の生涯 があわせ考えられなければならない. この一連の書翰がかかれた時 ( 793~94 ) 7 おいては, 政治的問題を解決する道として 「自由よりもまず美 」 をとりあげるのである。 すな わち, 自由の問題は政治的に解決せられる問題であるよりは, 教育的に解決せられねばならない の で あ っ た。. 彼の思想の主要な根拠は, この第一書翰で彼自身い っている通り (S .4)カ ント哲学にある. そ igkei f t)」 か ら区 別 して 「理 t)」 を 「精 神 の 必 然 (Notwend の立場から, 「物質の必要 (Notdur 想の芸術」 を実現するためには, 物質の必要は, 克服され, 超越されなければならない現実の, 性 格 と 考 え られ る. 必 要 (Not ) と か 効 用 (Nut zen) と い わ れ る も の は, 彼 に お い て は, た だ 自 然. 的規定からのみ生まれたもの, 盲目的必然 生の支配のもとにあるもので, 道徳的人格と しての人 間には決 して満足することのできないもの, 棄て去 らねばな らないもの, 超越されねばならない 現実性にすぎない.. 「美こそ自由へ赴く通路であるから, かの政治的問題を経験のうちで解決す. る た め に は, 道 を 美 的 問 題 に と ら ね ば な らな い」 (S ,7) の で あ る.. 人間は どのような過程を経て教育され るのであろうか, 人間が教育された人格に向上するためには, つ ぎの二種類の人間を克服 しなければな らない. それは未開人と野蛮人とである (S 3) .1 . W l de イ, 未開人 ( i ) というのは, 感情が原則を支配する場合の人間であり, 彼は芸術を軽蔑 r ba し, 自然を自分の絶対者とするのに対 して, 口, 野蛮人 (Bar r ) は原則が感情を破壊す る場合 の 人 間で あ り,. 彼 は 自 然 を 職 笑 して こ れ を 辱 しめ る が, 未 開 人 よ り も い っ そ う 下 劣 な こ と に は, しば しば 自 分 の 奴 隷 の 奴 隷 で あ る こ と を 続 け て い っ こ う 平 気 で い る の で あ る,. 両者を克服すること のできた人間が教養ある人間である. ハ, 教養人(de rgebildete Mensd・) は自然をおのれの友とな し, ただ自然の窓意を抑制するだけで, その自由を尊重す るのである, 秩序を無視 して氾 濫する自然の感情の洪水でもなく, 堰とめ られてひからびた河床でもなく, ま さに堤防にそ って流れる河, 法則的に豊かな感情を統御することのできる人格が教養人であ る. 自然 (感性) は雑多を要求 し, 理性は統一を要求する. 自然を理性的に調和する技術が芸術であ る. 教養人は したが ってまた芸術人=美的人間であるであろう. その意味では美的人間は教育の 結果であり, めざされるべ き人間像であろう. しか しここで注意を要することは, 美的 「人間」 は 目 的 で は あ っ て も, 「美 的」 (as i thet sch) と い う こ と は, 必 ず しも 単 に 目 的 で は な い と い う こ と で あ る. こ の 点 は 後 で ふ れ よ う, シ ラ ー に と っ て, 人 間 の 教 養 (Kul tur) と は ど う い う こ と か.. 人間には二 つの衝動 があ る. 一 つは, イ, 質料衝動 (de i l i i l n l r sヒo”trieb, der s che Tr eb) で あり, 他は, ロ, 形式衝動 (de i rFo ) である. 前者は変化を要求 し, 後者は統一と不変不 rmt eb r 動とを固持する, この両者 の傾向 が互いに矛盾 していることは 真実であるが, しか しそれは, そ れ らが同一対象物のうちで矛盾 しているのではないということであって, 両者が互いに衝突する かぎり, 互いに出会 っているからにほかな らない. ゆえに二つの衝動に決 して本性から対立 して -112-.
(6) . 芸 術 と. 教 育 その2. い る の で は な い (S . 46) と 考 え る,. 教養の課題は, 二つの衝動がそれぞれ独自の立法性と固有の領域をも っているから, その両衝 動のおのおのにその境界を確立することである. その任務は, 第一に, 感情能力の完成によ って 自由の侵略に対 して感性を擁護することであり, 第二に, 理性能力の完成によ って, 感覚の力に 対して人格性を完全にすることである (S .47) . つまり人間教養の本質は一面では, 人間の感受 能力に客観世界との出来るだけ多様な排触面を供給すること, そ して, 感情の方面で受動性を最 高度に推進することであり, 他面では, 規定能力に, 感受能力からの最高度の独立性を 得させる こと, そして, 理性の方面で能動性を最高度にまで推進することである, 「質料衝動を 人格性が また形式衝動を感受性あるいは自然が, おのおのその正当な枠内に止まらしめ」(S .52) ること によ って, これ らの両方の性質が合一させられるとき, 人間はそこに最高の独立性と自由を, 存 在の最大の豊かさとに結合することになるのである (S ,48) . 教育された人間=教養人というのは,,世界から感覚的材料を多様に受容する質料衝動と, それ らの感覚的材料を人格化する形式衝動とを, いわば弁証法的両契機と して, 止揚綜合するところ に形成されると考えられるのであるが, シラーはそう した止揚綜合の衝動を遊戯衝動と して設定 l i t i する. ハ, 遊戯衝動 (d e r eb ) とは, 感性的な遠心的契機と しての質料衝動と理性的求心 e rSp 的契機と しての形式衝動とを弁証法的に克服 して, 内的な統一をもた らす衝動である, 遊戯衝動 は形式衝動および質料衝動に対 して並存的な, いわば第三の根本衝動であるのではない. それは む しろ, 両衝動の交互作用を自己のうちに含むところの, より高次的な人間的衝動を意味する. この両衝動が真に交互的な働きかけのうちにあるということは, 互いに一方 の活動が他方の活動 を根拠づけると同時に限界 づ けるものであることを意味 しなければな らない. \ 遊戯衝動は対立する契機の媒介作用であると考え られる. それは感覚の多方面的外延性と理性 の独立的内包性とを調和する働きである. それは感覚や感情の外面的なうつろい易さを排除 し, 理性の法則からその道徳的強制力をうぽい去る作用である. 遊戯衝動は単に質料でも, 単に形式 でもない. む しろ同時に両者でありながら, 両者でない, 感性は理性を待 ってはじめて自己の存 在理由を獲得 し, また理性は感性の存在を 通してはじめて真に理性たることができる. なぜな ら ば, 人間は感性と理性とを具えた存在では なくて, 感性的であると同時に理性的な存在であるも ) のだからである8 . まさに媒介作用なのである. 「美 しきものは単なる生命でも単なる形態でも ) といわれるように, 遊戯衝動 がまさに美 あるべきでなく, それは生命ある形態である (S .59 的 な の で あ る, 「人 間 は 美 と と も に た だ 遊 ぶ べ し, ま た 美 と と も に の み 遊 ぶ べ し」 と い わ れ 「人. 間は言葉の完全な意味において人間である場合にのみ遊戯 し, また彼の遊戯する場合にのみ完全 に人間である」(S ) といわれるゆえんである. 人間的幸福と人格的完全性とが調和的に発達 .59 している人間が, 美的人間であり, そうさせる働き が遊 戯衝動である. こ の こ と か ら, 前 に 問 題 に して お い た こ と が 明 ら か に な る.. 美 的な 人間自体 は 教育の目的では. あっても, 美的な働きは媒介作用と して, それは美的人間への教育作用 である. 遊戯衝動につい ていえば, 遊戯状態は相対的な目的であるが, 遊 戯作用は手段的であるといえるであろ う. l 理想美は不可分で単一でありながら, 一面にお いて融和的( ende) 性質を, 他面におい s chme z て 気 力 的 (energi sche) 性 質 を も っ て い る.. そ して 融 和 の 美 は 緊 張 した 人 間 の 心 を 調 和 さ せ, 気. S 力の美は弛緩 した人間のうちに気力を恢復させるのである ( .65) , このように美は, 感性と理性 i tand) とを調和させるもの, 質料と形式, 受動と能動との一つの中間的状態 ( e ne r mittlere Zus へ運んでくれるもの, 互いに相反 して決 して一つとなることの出来ない二つの状態を相互に結び -1 13-.
(7) . 広. 川. 正. 治. 合わすもの (S .67) である. この意味で美は中間的媒介者と して過程的であり, 手段的である. こ こ で 問 題 に な る の は, 「感 性 的 人間 を 理 性 的 人 間 に す る に は, こ の 人 間 を ま ず も っ て(zuvor). 美的にするより以外に道はない」(S .87) とシラー がいうときの 「美的」 の解釈である。 それは 美的人間の意味なのか, 美的作用の意味なのか。 ここの説明で彼は, 「感覚の所動的状態から思 惟および意志の能動的状態へと移 って行くことは, 美的自由の中 間的状態を通してより以外には 行なわれない」(S .87) という, してみるとここの美的は中間的状態ということにある, 中間的 といわれるかぎり, たとえそれが状態であるに しても過程的という意味が強い, さ らに, 「美的 人間を見識や偉大な志操へ導くためには, 大切な機縁を与える以外に何もする必要はないが, 感 覚的人間をそのようにするためには, 先ずも っ て彼の本性を変えなけれ ばな らない. 美的人間の 場合には往々に してある崇高な境地へ誘導するだけで彼を英雄とも賢者ともな しうるが, 感覚的 9) という. この場合 人間の場合は, これを先ずも って別な天地へ移さなければな らない」(S .8 の美的人間は教育目的と しての人間であるよりは, まさにそれへの過程としての中間的状態であ る, してみれば, ここでの美的人間は教育的には手段的性格のものと考えられよう. i i t しか しま た, 「美 へ の 教 育」 (Erz ) と い わ れ る よ う に, そ れ は 感 性 的 お よ ehung zur sch6nhe. び精神的な諸力の全体を出来るかぎり調和的に仕上 げて行くことを目的としており, あるいはま た, 自然は人間の精神を目覚めさせることによ って, みずからより高次な精神に到達する, そう していわばこの高次な自然と高次な精神とが, 人間の美的状態のうちにより完全な統一をみいだ す, といわれるように, そのように調和された美的状態は 「最高の実在性の状態」(Zus t andder l h6chs t i tat ) (S.82) で あ る と い う 意 味 で, 目 的 と して も 見 られ るで あ ろ う, しか し, こ の en Rea. 点の理解については後でふれる. m. 教育的理念としての 「美的国家」 シラ ー は, 時 間 の う ち に あ る 人 間 が い か に して 理 念 の う ち に あ る 人 間 と 合 致 す る こ と が で き る. か, 国家がいかに して個々人のうちにみずからを主張 しうるか, という問題を設定 して, その方 法 に つ ぎの 二 つを あ げ て い る (S .11) .. 第一は, 純粋人が経験人を圧迫することであり, 国家 が個人を破棄することである, den) ことであり, 時間のうちにある人間が理念のうちにある 第二は, 個人が国家と成る (we r . ・ , 人間にまで自分を高めて行 くことである. 以上の表現からただちに理解できることは, 純粋人 (de r reine Mensch) と 国 家 と が 照 応 し, 経験人 (de r empirische Mensch) と 個 人 と が 照 応 す る こ と, さ らに, 時 間 の う ち に あ る 人 間 t (der Menschin der Zei ) は 個 人 に, 理 念 の う ち に あ る 人 間 (der Menschin derldee) は 国 家 に 照 応 す る こ と で あ る.. そ して, 「こ の 純 粋 人 は, あ らゆ る 主 体 の う ち に 認 め られ る も の で, こ. れを代表するもの が国家」 であり, その国家は 「あらゆる主体の雑多がそこで互いに合一しよう と努めるところの客観的な, いわば基準的な形式としての国家」(S ) であるという表現によ .11 て っ , 以上の照応がい っそう明らかになる. すなわち, 経験人は個々ばらば らの, 遠心的多様性 と しての感覚的人間であるのに対 して, 純粋人は, 「客観的で基準的な形式」 と しての 「国家の 成員」 にほかな らない. 経験的人間は時間のうちにある人間と して生物的であるのに対 して, 純 粋人は理念のうちにある人間と して精神的であるであろう. しかもその純粋人はそのゆえにこそ 国家の成員=国民なのである. 純粋人は理念のうちにあ って, 決して現象しない精神的なもの, あ らゆる人間主体のうちにあるものであって, それを代表するもの, それが綜合統一されて基 準 -114-.
(8) . 芸 術 と. 教 育 その2. 的形成として客観化されたもの, それが国家である. したがって, 純粋人というとき, その人間 はすでに時間のうちにある経験人から, 理念のうちにある国家の成員に, みずからを高めていな ければ ならない. 純粋人はもはや単なる個人ではなく, 国家の成員であることを自覚 している人 間でなければな らない. 経験人はいまだ雑多を要求する盲目的自然の支配する社会の住民にすぎ taat な い が, シラ ー に よ れば, 自 然 国 家 (Natur ) は 本 来 的 に 法 則 か らで な く, 力 か ら来 て い る s. ような政治形体であり, 必要国家 (No t t t ) は単なる自然法則に従って必要が形造 った国家で s aa ある. 両者はともに盲目的必然性の支配するところであり, 物理的性格の社会であ って, 道徳的 人格と しての人間には満足しえないところである, そうした動物性を克服 して, 自覚的 ・ 道徳的 ~ 人間に変えるもの, 人格のうちに最高の終局目的(de t chs eEndzwcek) を う ち 立 て る も の, 人 rhf 間を自然国家の住民と して満足させないもの, 必要から強制された仕事を自分の自 由な選択の仕. 事に造りかえ るもの, 物理的人間から道徳的人間にかえるもの, シラーによれば それが理性であ S る( .8) . 理性は統一を要求する. しかし道義的性格が自然的性格を犠牲にしたり, 住民の個性 の雑多を破棄することによ って統一を見い出そうとするような国家のあり方は, いまだ教養の不 S 足 しているものであり, そうした国法は不完全なものにすぎない ( .12) . それでは, 自然国家 の住民である経験人が抑圧されたり, 破棄されたりすることな しに, どのように して, 理念のう den) のであろうか, 存在から当為への対立の克服は, あ ちにある国家の成員=国民になる (we r え てな さ れ て は な らな い.. お の ず か らで な け れ ば な らな い, シ ラ ー は そ う した 闘 い を 否 定 す る,. 闘争による発展ではなくて, 遊戯でなければな らない. おのずからなる発展, そこに美の必要性 があ る. 物理的性格の自然国家から, 道徳的性格の国家へと高めるもの, 単なる力の支配から法 則の支配への橋渡 し (Ube rgang) となるような第三の性格 が必要となる (S .10) . それは 「道徳 i l i i t t t ) に対する感覚的担保と chke 的性格の発展を妨げることが, む しろ眼に見えない道義性 (S して 役 立 つ こ と に な る よ う な」 (S.10) 美 的 性 格 に ほ か な らな い.. さらにまた, 十八世紀末という当時では, 道徳改善によ って, 国家を変革しようと する如何な る企ても, まだまだ時期尚早であると考え られる, 「政治上のい っさいの改善は, 性格の高尚化 l (Ve r ed ung) ということから出発しなければな らない (S .29) . 理性による政治的創造 が行なわ れるためには, 何よりもまず, 人間の内面的分離・対立が止揚されなければな らない. いいかえ れば, 人間本性が完全な発達を遂げていなければな らない. それは人間性自体が芸術 家になるこ とを意味する(S .25) . 未開な国家体制の勢力下にあ っても, 政治的な腐敗の下にあっ ても, 性格 i を高尚化することの出来る道具 がある, その道具こそ美の芸術 (d eschme Kunst) に ほ か な ら な い (S .29) ,. 以上 から理解されることは, 自然国家から理性国家への道は, 調和的な高尚な人格, すなわち 「美 しき魂」 の人格によってのみ媒介せられるので あり, かかる教育力は芸術にある, というこ と で あ る,. 国家と個人との関係を教育的にみるとき, シラーにおい ては,経験人は純粋人に発展すること, 単なる個人としての自然国家の住民から, 国家の自覚的成員と しての国民へと発達することであ る, 人間は国家の自覚的市民とな ったとき, 道徳的な意味での人格となる, 個人と国家の対立, 自然国家と理性国家との対立を克服するものは, 美的性格であり,芸術の力によらねばならない, 「美的」 という性格はすでにみてきたように, 形式の内的必然性であり, 技術性における自然 である. 他人の自由を保護する自己の自由, 義務のおのずからなる遂行 が美的とし わ れ る. 内 に 論理的・理性的・道徳的なものを克服 している自然=自由が美的なのであり, 遊 戯的性格 が美的 -115-.
(9) . 広. 川. 正. 治. な の で あ っ た.. 芸術は どうか, 芸術 (Kuns t ) はやはり, 「技術性にお ける自然」 , 「自由における規則」(A. P A P 「 4 9 であり また ( 技巧における自律 ) 5 8 ) と して理解される 」 . . . , . 国家の変革について いえ ば, 芸術は 「理性の政治的創造にその実在性を保証するもの」(S .25) であ った. いずれに せよ, 芸術は人為的に人間によ っ て造 られるものではあ っても, ここでは美的なものとその性格 に お い て は 全 く 同 義 語 と し て使 わ れ て い る よ う に 思 う.. シラー が理想として描く社会は美的国家である. それは美 しい交わり の世界である. 遊戯的ダ ンス に よ っ て 示 さ れ る よ う に,. 自 分 の 自 由 が か え っ て 他 人 の 自 由 を 保 護 す る こ と に な る よ うな あ. り方の社会である, 権利の力学的国家は自然性を自然性によ って制御し, そこでは人間は 人間に 力と して対抗 し, 相互にそ の活動を制限する. 義務の倫理的国家は個人の意志を一般の意志に服 従させ, そこでは人間は人間に法則の威厳をも って対し, 相互に意志を束縛 している. 両者は, 物理的と道徳的との相違はあ っても, ともに強制的であるのに対 して, 美的国家は自由を自由に よ っ て 与 え る こ と, こ れ が こ の 国 の 憲 法 で あ る (S .117) . そ の 国 に お い て は, 人 間 は 人 間 の 前 に た だ 自 由 な 遊 戯 の 対 象 と し て の み 立 つ こ と が で き る の で あ る. した が っ て 美 的 国 家 に お い て は, い っ さ い の も の が 同 権 を 有 す る 自 由 市 民 で あ り, あ る,. こ こに お い て こ そ平 等 の 理 想 が実 現 さ れ るので. in) の 国 で あ り, あ らゆ る洗 練 さ れ た 魂 の しか し シ ラ ー に と っ て, 美 的 国 家 は 仮 象 (Sche. l in j うちに ( eder feingestim mten s )(S ee e .120) 存在する. それは彼によ って観念的に想像さ れた世界にすぎなか った. 彼のこの願われた理想国家と しての美的国家, そこの市民と しての美 的人間に目を向 けるな らば, 美的国家の美的人間は 教 育目的と考えられるでもあろう. しかし目 的と して実践的に目ざされるにはあまりに抽象的理念的にすぎる. それはただ人格の円満なる完 成というに等 しい. 実践的には無内容にすぎない. それにもかかわらず, も し美的人間, とくに 美的国家に重点をおいてそれを強調するな らば, 現実社会の経済的・政治的矛盾の実践的克服と いう闘いをぬきに して, ただ観念的にその理想の実現を強調するな らば, 明らかに全体主義的誤 りを 犯 す こ と に な ら ざ る を え な い で あ ろ う,. な ぜ な ら, 彼 に よ っ て 考 え ら れ て い る美 的 国 家 は,. 国民個々人にと っては, 各人の魂のうちにある理想我が綜合的に客観化されたもの, 基準的形式 の具体化されたものであり, 力による支配と しての自然国家は否定され, また国民は, 国家の自 覚的成員と して, いかなる意味でも闘 いによる自己向上は否定されて, おのずから純粋人になる のでな ければな らない. そこに国民教育の手段と しての芸術が問題にな るのであってみれば, な るほ ど彼の観念のうちではまことに都合よく願わ しい国民の教育的発展ではあろうが, それを具 体的現実において強調するときは, 結局いま現に権力機関と して存在する彼のいわゆる 「必要国 家」 に, 結果的にはただ従順に, 反抗することな しに, 道徳的改善による国家変革さえも否定さ れ るこ と に よ っ て, い か に も お の ず か ら 遊 戯 す る か の 如 く に, 国 家 の 要 求 に 従 っ て 行 為 す る こ と. のできる人間をこそ, 美的国家の美的人間とみることになりかねないからである, W. シラーにおける芸術と教育との問題. シラー が人間教育で考えている発展過程には, つねに, 弁証法的ともいうべき三段階が見られ る. すなわち, 衝動の発展過程は, イ,質料, 口,形式, ハ, 遊 戯で あり, 人間は, イ, 未開人, 口, 野蛮人, ハ, 教養人, または, イ, 物理的 (感性的) , 口, 道徳的 (理性的) , ハ, 美的であ る, 国家の発展では, ィ, 力学的な権利の国, 口, 倫理的な義務の国, ハ, 美的な美 しき変わり の国, とい った具合である. そ して最高段階とみられるものは美的であ って, 前の二段階, すな 16- 一1.
(10) . 芸 術. と. 教 育 その2. わち, 質料と形式, 感性と理性, 自然と法則, 多様と統一というような契機をいわば止揚綜合し た 状 態 と 考え ら れ て い る.. しか しそ の 美 的 状 態 は あ る べ き も の と して, 願 わ れ ては い て も, い ま. tur) は無限定性 だ実現されていない理念にすぎない. しかも, 美的教養 (d i e asthetische Kul l (di t immungs igke i e Bes t os ) で あ る. そ れ は 欠 如 か ら来 る 空 虚 な も の で は な い と して も 「美 的 な l i te f i ine erft immungs i 規定自由性- t) で あり, 「充 実 せ る 無 限 性」 (e 」(d reihe e asthetische Best. Unend l i i t ) (S chke .80) で あ る. そ の 意 味 で は や は り, 無 規 定 性 で あ る. した が っ て, 美 的 状 態. は願 求の対象たる理想というよりは, その無限の方向としての理念であろう. いわんや実践の目 的と して限定 しえない. この点はすでにのべたように, もし美的人間なり美的状態を, 教育実践 の目的として規定 したり, 期待される人間像として教育的に強調するな らば, 反動的でさえある であろう. そうではなくて, 「かの政治的問題を経験のうちで解決するためには, 道を美的問題 にとらねばな らない」(S ,7) といわれるように, 現実社会の問題解決への道として, 美的が問題 になるのでなければな らない, われわれがシラーから学ぶ べ きものはそこにあるであろう. 美的 な人間が問題にされるべ きなのではなくて, 人間を美的状態におく美的作用が問題なのである. こ の 場 合, 状 態 (Zus tand) は 第 四 書 翰 に み られ る よ う に, 人 格 (Per son) と 一 対 の 概 念 と して. とらえられており, 後者が永遠性の原理に立脚 しているのに対して, 前者は流転性の原理に 立脚 0 ) するものであると解釈出来るならばー , 美的状態の作用性は明らかであろう. 「美しき魂」 とい われるものも, 目的としての人間像であるよりは, かかる意味での美的状態を意味するので はな か ろ う か.. i t ie Seele der Sch6nhe ) を 説 明 して, た だ 活 動 の み が 享 楽 へ, ま シラ ー は 美 の 魂 (d. た享楽のみが活動 へ導くところ, 生命そのものから神聖な秩序が湧き出で, 秩序の法則からた だ 生命のみが展開してくるところ, 想像力は永久に現実を逃れな がら, しかも自然の素朴からは決 して 迷 い そ れ る こ と の な い と こ ろ, こ の よ う な と こ ろ で の み 始 め て, 感 覚 と 精 神, 受 容 す る 力 と. 形成する力とは好適な均衡をえて発展していく, この均衡こそ美の魂で あり, 人間性の条件であ る (S ) という. 美は中間的な可能性なので ある. 美的状態も正しくは 「実在的で能動的な .104 immbarkei t ) (S i 規定可能性」(d e reale und aktive Best .78) の 状 態 な の で あ る. こ の 中 間 状 態へ運んでいく働きが美的作用としての美的なので ある (S .67) .. シラーが願い求めている教育的理念は 美しき交わりの国の住民としての美的人間であろうが, たとえ言葉のうえでは 「充実せる」 とい ってみても, 現実的には, しょ せん, 無内容な可能 性に すぎない無規定性である, 実質的には, その時代, その社 会集団の具体的な要請によ って限定さ れたものでなければ, 教育目的として美的人間を設定しえない. この観念性・抽象性はどこに起 因するであろうか. 彼の芸術についての考えをみよう. 改めて指摘するまでもなく, カ ントの美が関心なしに満足を与えるものであり, 「概念なしに 1 ) 普遍的に満足を与えるもの1 」 といわれるように徹底した形式主義である. シラーの芸術の考え もまた同様である. 「真に美なる芸術品においては, 内容は何もする ことなく, 形式のみがい っ さいをなすべきである. 形式を通してのみ始めて人間の全体へ働きかけることがありうるのであ っ て,. 内 容 を 通 し て は む し ろ た だ 個 々 の カ ヘ 働 き か け る と い う こ と が あ る だ け」 (S .85) な の で. ある. 真の美的自由は, どこまでも形式からのみ期待されるべ きものであり, 材料を形式に よっ て扶殺し去るところに亘匠たるものに本来固有の芸術的秘義がある. 心に 一定の傾向を与えよう と す る こと に も ま して 美 の 概 念 と 衝 突 す る も の は な い」 (S .86) と い わ れ る よ うに,. シラ ー に と. っては, カ ント的な道徳律の至上命令も, いまだ真の自由ではなく, かえって他律と してす ら見 -11 7-.
(11) . 広. 川. 正. 治. えたのである. すべて命令は他からの強制であるという意味において, 自由とは相容れないもの ) 2 であったのである1 . 情熱的芸術とか, 道徳的芸術とか, 教育的芸術な どというものはす べて矛 盾した概念にほかな らない, なぜな ら, 美はあ らゆる束縛や拘束からの自由を意味するのだから である, 芸術作品が優秀であるかどうかは, 美的純粋性の理想に, どれだけ接近しているかにあ る, また, 理想の芸術は 「現実を見棄てて毅然たる態度をも って現実の必要を超越しなければな らない」 のであり, 「芸術は自由の娘であ って, 物質の必要からでなく, 精神の必然から, その 指令を受け ,ようとするものである (S .5~6) といわれるように, 芸術の方向は現実生活遊離にあ る,. かかるシラーの芸術に ついての形式主義的考えの誤りは, すでに前稿において, 文化の-領域 としての芸術の発生を検討したことのなか で明らかにされているであろう. 芸術は本来,具体的・ 歴史的現象であって, 決して単に抽象的・観念的なものではない, 芸術は他の社会的現象の総計 との現実的関連によ って, 何よりもまず, 社会の物質的基礎との関連においてみられる, 文化の 他の領域である科学や宗教や道徳な どと同様に, 芸術もまた社会的意識の一形 式であ って, その 存在と発展において, 歴史の基本的規則に従属する. したが って, 芸術の本質を理解するために は, つねに社会の現実生活との関連 において考慮しなければならない. 芸術の本質は, 一定の社 会的美的理想に相応して, 生活を変化さ せる目的をも った世界の美的自覚 にある, この理解は- ) 3 定の社会的 (階級社会では階級的) 利益の表現として形成されるの である1 , シラーの芸術 についての抽象性・観念性から来る形式主義は批判されなければならない, しか し,彼の美の中間的媒介性は,彼の意図とは反して, 本質的には存在と意識との相 互移行的媒介性 を反映しているのではなかろうか, 質料と形式, 感性と理性とを媒介するものとしての美的作用 , 彼のいわゆる遊 戯衝 動は, 教育実践のもっともすぐれた自覚的技術を予見したものと言えない で あ ろ う か, わ れ わ れ は す で に マ カ レ ソコ の 遊 び の 美 学 を 見 て き た. シ ラ ー の 美 的 作用 (spi l e en). はそれと通ずるものをもっていはしないだろうか, 考察の立場こそ違え, ともに同一の教育的作 用の客観性を反映して いるものではなかろうか, シラーの美的教育では, 内に論理的・理性的・道徳的なものを克服している自由が美であると いわれながら, 自由の問題は政治的な開いを逃避して, 教育的に解決するところに美的問題があ った, それは自己矛盾にほかならない, 真に内的に充実せる自由であるならば, 真に質料と形式 とを, 感性的多様性と理性的統一性とを弁証法 的に綜合するの が美であるならば, 政治的闘いを 終えてこそ, その矛盾を克服してこそ到達される美であり, 自由でなければならないであろう, その矛盾の克服を助け, その闘いに勝利する力を育成するところにこそ教育的解決の道があるの であ って, 政治的解決と教育的解決とを本質的 に区別するとこ ろに, 客観性を無視した主観主義 がある. さらに, 政治と教育とを本質的に分離する反動性がかくされているであろう, そうでは なくて, 正 しくは彼の美的教育は, その矛盾の克服を円 滑な らしめ, その闘いに勝利する力をお のずからに育成するところになければな らない. それこそ彼の美的な働きと しての媒介性なので あ る,. この中間的媒介性という美的作用 を, ただ, 言葉の上での観念性にと どめさせたも のは, 彼の 理性のとらえ方に起因する, それは経験からの 発達ではなくて, いわば次元を異にするものであ る, 彼のいう美的自然状態は, 「何一つ経験によ って与えられたものではない」 「理性の規定に よって」(S .8) 必然的に定められたものなのである. ここに根本的な誤り がある. 感性と理性の 調和とか, 質料と形式の統一とい っても, それが現実的なものになりえない, 単なる言葉のうえ 18r -1.
(12) . 芸 術 と. 教 育 その2. だけのものとな らざるをえないのは, この観念性にある. 彼がいうように真に美が 「感性の世界 ) であり, 「有限 を棄て去ることな しに, 理念の世界へ踏み入ることを可能にするもの」(S .101 における無限の実現の可能性」(S ) であるためには, 客観的現実世界をしっ かりとふまえた .102 うえでの媒介作用 でなければな らないであろう. 最後に民族教育の問題をみよう. シラ ソにあっては, 美的表象以外のい っさいの形式はみな, 専ら人間本質の感性的の面か, ま たは専らその精神的面かに基礎をおいているために, 結局は人間を分離させて しまうのであるが 美的表象だけは, それに達するために, それら両面の本性が合致しなければならないので, 結局 人間を一つの全体と して造り上げる (S 18) といわれる. こうした美的性格はまたさらに, 社 .1 会的には万人に共通するものに関係するものと して, 社会を合一する働きをもっと考えられる. 感覚的喜びは個人と し tung) i e Gat 、て味うもので, 普遍的喜びへ拡げることが できない, 類 (d はこれにあずかることができない. ところ が美的伝達は社会を合一する. 美は個体と してと同時 に, 類 と して, 類 の 代 表 者 と して, こ れ を 味 う こ と が で き る (S .118) と い わ れ る. こ の 考 え は. 自然国家と理性国家との対立を克服する美的国家という考えと結びつけるとき, さ らに, 始めに も指摘したように, 彼の美的教育論展開の動機には, 多分にフラ ンス革命に対する不満から来る 民族の政治的関心があ ったことな どとかかわ って, 彼の美的教育論の根底には民族教育の理 想 が 4 ) ひ そん でい た で も あ ろ う と 推 察 さ れ る1 . そ う した 推 察 に 立 つ と き,. シ ラ ー の芸 術 は 民 族 教 育 の. 手段と して, その美的媒介性を発揮できるためには, 彼の観念的な 芸術観, 現実生活から遊離す るところにその本質をみるような芸術観は, その逆立をやめて, 大地に しっかりと足をふまえな ければならない. 正 しくは芸術は一定の社会的・美的理想に相応 して, 現実生活をその理想の方 向に変化させる目 的をも っているものであり, その本質を社会的機能からみるならば, 芸術は現 実の美的認識および現実変革の手段である, したがってその主要な社会的機能は, 美的手段によ ) 5 る社会教育の機能にある1 . そこにこそ真の美的教育がある. 芸術は本来民族の芸術と して創造 . 手段となる根拠がある され, 伝達され, 発達 して来た, ここに芸術が民族教育の内容であり, . シラーが指摘する通り, 美的表現は結局, 人間を一つの全体と して造り上げる. 美的教育は単に 美的趣味, 美的感覚, 美的能力の教育にとどまらず, 現実に対する人間の全面的関係の教育でな ければならないであろう. しかも彼が指摘す る通り, その教育手段が 「技巧における自然・技術 性における自由」 と しての媒介性を発揮するならば 民族教育に大きく貢献するものとなるであろ う.. (註) 1) 草薙正夫訳 「美と芸術の理論 (力 」 岩波文庫版, p .97 ,98参照, 以下このテキストは Aと略 .リアス書翰) し, ページのみ示す. 2) 大西昇 「美学及芸術学史」 理想社, p .125参照. 3) ソ連科学アカデミー研究所編 「マルクス・レーニン主義美学の基礎」c 0 t p .43 . 4) 同 上, Ct p .433 .. 0 9参照. 5) 清水清 「シラー美的教育論」 玉川大学出版, p .3 6) 菊池栄一訳 「往復書簡, ゲーテとシルレル」 桜井書店, 上巻, p 9 0参照. .4 ,5 i iner Re ihe von Br i i f 7) Uber di thet e as sche Brz ehung des Mens chen in e e en .7 , . 玉川大学復刻版, S i t 以下こ の テ キ ス トの 場 合, Se e のみを示す. 43~144参照. 8) 金田民夫 「シラーの芸術論」 理想社, p .1 9) 同 上, p .141, 154参 照.. 10) 同上, p 0参照. .14. i i k der Ur i i l l ander i 11) Kant: Kr t t t e skraf Pz g ・1924 .S .58 , Le ,von K・ Vor .. 12) 金田, 前提書, p 16参照. .1 -1 19-.
(13) . 広. 川. 正. 治. 13) ソ連科学アカデミ ー研究所編, 前提書,c t 4~19 8参照. p .19 14) 篠原助市 「欧州教育思想史」 上巻, 創元社, p .256参照. 15) ソ連科学アカデミー研究所編, 前提書, c t p .200参照.. -120-.
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