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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

学校慣習法分析の基礎理論〔三〕―法社会学的方法 に関連する経営学的・行政学的吟味―

著者 高野 桂一

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 16

号 1

ページ 141‑160

発行年 1968‑02‑29

その他のタイトル THE FUNDAMENTAL THEORY FOR ANALYSIS OF THE SCHOOL CUSTOMARY LAW [III] ―DETAILED ANALYSIS FROM THE STANDPOINT OF THE BUSINESS MANAGEMENT AND THE SCIENCE OF ADMINISTRATION AS A SUPPORT OF METHODOLOGY OF THE SOCIOLOGY OF LAW―

URL http://hdl.handle.net/10105/3280

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141

学校慣習法分析の基礎理論 〔三〕

一法社会学的方法に関連する経営学的・行政学的吟味‑

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(教 育 学 教 室)

第二章 学校慣習法の経営学的・行政学的基礎と限界‑法社会学的方法の 支持としてみたる学校経営体の相対的独自性の分析(承前)

さて、すでに提示した学校慣習法の成立基盤としての学校経営体の相対的独自性は、経営学的

・行政学的見地からはいかなる意味において保障され、あるいは方法論的限界を示すものであろ うか。ここでは、その視点から吟味を試みることによって、法社会学的アプロ‑チの意義と役割 杏‑そう厳密に裏づけてみるとしよう。今日における経営学の発展とその教育科学とくに学校経 営理論への影響、あるいはまた行政学・教育行政学・教育法学への浸透には著しいものがみられ る。そして、それはまた、学校経営体の性格分析に変化を与えつつあるといってよい。ここで は、この面に関する諸説の整理をまず試みることによって、体系的考察の基礎としたい。

一 学校経営体の相知的独自性をめぐる諸説の検討

学校が一つの経営的実体として認識されうるかいなかは、学校における教育活動やその条件整 備活動が自律性をもらうるかいなかということでもある。そして、それは、学校の場で行なわれ る諸活動の行為規範の生ける法としての固有性・独自性・実体性を経営学的・行政学的にたしか めることに関係する。学校がより多くの独自性・自律性・創造性をもって運営され、しかもそれ が学校に対する教育行政管理の要求と恵ちに一致することが理想と考えられるO しかし、現実に はこの両者はしばし二律背反的なとらえ万をされ、問題とされることが多いのである。学校の経 営管理的独自性・自律性を強調することが行政管理の意味や役割を軽視することとなり、学校の 行政管理を強調すれば学校の独自性・自律性が失なわれる、というような対置的なとらえ方がな

されがらである。

〔‑〕学校経営体肯定説

まず、学校経営体の独自性を肯定する代表的な天城・有倉両氏の教育法解釈学的見地は次のよ うにいう。

学校は、学校の種類にしたがって、教育目的を達成する人的・物的総合施設であり、目的遂

行の営みをつづける経営体である以上、この施設ないし、経営体の経営を管理する機能は当然

存在するものであり、また必要なものであるO学校管理機能は、決して学校の外からの規制力

とてしのみ発動すると考えることは誤りであり、この外在的な規制のほかに、当然いわばその

内在的規制力としての管理機能をともなう。校長の職務権限とは、この内在的な管理機能であ

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学校慣習法分析の基礎理論〔三〕 (高野)

り,校長を管理者とする考えもこの機能を認めるからである。すなわち経営体においては、経 営体の目的遂行にともない、経営を管理するという固有の機舵が存在し、経営をよりよく発展 せしめるた馴こは、経営管理機能の発展こそ必要であることが認識されている(傍点筆者)O

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ここでは、学校はあくまで経営体とみられており、そのための相対的独自性をもつものとみら れている。この説の特質は、教育の法解釈学的見地に立ちながらも、学校経営をあくまで非法律 的事実行為としてとらえるところにある。教育行政管理の対象としての経営実体として学校を法 的にとらえるとともに、その内在的経営管理性を事実的にとらえている。そして、校長はその事 実行為としての経営の長としての地位を与えられている。

〔二〕学校経営体否定説

上記に対して、学校経営体の経営的独自性・主体性に疑問を投げ、結局、否定論的傾向に導くも‑

のに清水説がある。それは、学校経営の主体性に関して、いわゆる校長の現実態は通説のいうよ うな「経営者」の体をなしていないとし、また、そのことは学校教育法第28条の校務掌理権や所 属職員監督権についても同様の権能と解するところにある。学校経営の基本要素としての職員構 成や物的条件をはじめ基本的なことの多くが学校設置者や教育委員会の手ににざられており、ま

た教育活動についてさえ、校長はpolicy‑makingを十分に行なう余地など与えられていないで はないか、というのであるo

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また、教育界における経営及び管理の概念は経済界におけるそれらの慣用と逆であることを指 摘する。経営概念は管理に優先する意志決定policy‑makingの機能をもつのであるが、現実に は、これは学校設置者ににざられているから、 r学校経営の主体は、公立学校に関しては地教委 であって校長ではない」というのである。

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さらに、学校経営の規模という観点から、個々の学校は「経営体」としては小規模すぎて、小 企業や零細企業のカテゴリ‑に属するから、大規模経営を背景にして成長してきた凝営学や人間 関係論の導入は不適当であり、そこにおいてはLJ:せん篤農的経営しかありえない、とするO近 代的経営は地教委に統轄される学校群にしかありえない、というのである。

このように清水説によれば、一つの学校単位には経営現象や機能は考えられず、そこにはま

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た、近代経営学理論導入の余地はない.端的にいって、ここでは教育行政管理面の経営化に著し くウエイトをかけ、教育そのものの経営化の固有性を軽視しているきらいがないでもない.経営 規模の近代性についても学校固有の経営規模について考えず、一般企業体の経営規模をそのまま ストレートに通用し評価している点で問超があるo

〔三〕折  衷  説

ところで、教育委員会と学校をふくめて「教育慮常体」というものを構想する点では清水説と 類似していながら、学校の経営体的性格を必ずしもきびしく否定していない説がある。それは、

学校経営体の独自性を、その長であるところの校長の地位において、 ‑そう経営学的に明確化、

具体化しようとするOそれは、教委制度と Community Schoolの理念にもとづき、多数の学 校の複合体をして地教委の統一による公教育事業経営体として、まず構想する。そして、意志 決定職能を教委に、その日常的具体的意志決定及び全般的管理職能を教育長に、それらの委任に よる経営現場の学校教育活動についての部門管理職能を校長に与える。また、ここにおいては、

top‑manager としての教委・教育長、 middle managerとしての校長の位置が図式的に鮮か

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学校慣習法分析の基礎理論〔三つ(高野)

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に描き出される点で、まさに経営学的である。

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しかし、この折衷説が清水説と異なるようにみえる点は、校長を明確に中間管理者として描き つつも、他の箇所では経営学的経営体論を学校に通用していることである。すなわち、学校は、

統一的意志によって規制された組織的活動体として、教育という社会機能を負担し、それを経営 職分として自覚的に担当して、その合理的遂行を営む「意志活動体」である、という。そして、

その理由は、学校経営体が経営学的経営体理論におけると同様に、社会構成体に固有な封敵性、

経続性、強制進行性の三つの基本的属性をもっている点にある、とされる。

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これをみると、この説の特質は教委に統轄される「教育経営体」と同時に、経営の意志活動体と しての「学校経営体」という別種の経営体を想定しているところにある。しかし、後者の経営性 は前者の「中間管理者」的経営性であることは、すでにみたところである。したがって、この説 が、もし教委や教育長の経営性を著しく強いものとみて、それと校長の経営性との質的ちがいに 注目しない点を残すとすれば、構造的に矛盾をもつことになるであろう。この説が、行政管理体 からの経営体の分化分離の方向を学校経営体にも類推していることからして、そうではないよう にもみられるが、その点に関してなおあいまいなものを残している。

また、この説と同じような経営学的類推は、 L&E・Cookなどの所説にみられる。それによれ ば、教育長と校長は産業社会学上のいわゆる資本の最高経営者と労働者との間に位置する施設の 義(the plant foreman)であり、中間管理者(middle man)にたとえられる(上記の説で は,それはtop・managerであったが)Oしかし、彼はここで現実の教育長や校長の地位が必ずし もそうなっていないことをも付説している。 Cookがこのような校長中間管理者説をとるのは、

この問題が通常論議されているように、学校が官僚行政機構(bureaucracy)からはずされるべ きかいなかの組織論的問塩ではなく、むしろそこに起こる官僚的欠陥は校長の民主的運営論によ って解決すべき問題だと考えているからである。すなわち、ここには、組織論的には教育行政的 経営体一元論をとる点で前記清水説に近似した点もあるが、校長の個人尊重主義にもとづく運営 論を同時に強調する点でやはり折衷説といってよい。

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ニ 経営学的見地からの吟味

上記の諸説は、学校論そのものとしてなされながら、すでに何らかの意味で「経営学」的思考 に立ったものであったo しかし、そこでは鐘営学的導入の通すじが必ずしも明確ではなく、その 論拠も十分に琵示されていない。ここでは、少なくともそのような経営学的影響をうけている点 につき、その導入の類比的可能性と限界をはりさげてみることにする0

まず、前記折衷説にもあったとおり、学校は経営学的に一般経営体のもつ封鋭性・継続性・強 制進行性という三つの属性に類似した性格をもち、その意味で経営体といっていいO しかし、こ のような学校経営活動の組織形式から類推するだけではなく、その活動の実質的内容からも検討 する必要があるOすなわち、活動内容の実質的見地からすれば、経営学における経営体の活動内 容は経済的給付生産に限定されるから、そのような意味での経営体概念からすれば学校は経営体 といわれないことになる。したがって、経営学における経営体概念が教育組織体としての学校に 適用されうるのは,その起織活動目的論的な面からではなくて、前述の社会機能論的な三つの属

性の面からということになろう。

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ところで、経営学的営利・生産の概念の変化は非営利的企業たる公企業体観念を生み出した。

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ユ44

学校慣習法分析の基礎理論〔三⊃ (高野)

最近、学校のように本釆非営利的・公共的性格をもつ施設も企業的性格をもつものであることが 意識され、そこに企業経営理論の導入が試みられてきている。企業観念の拡大は、私学はもちろ んのこと、国公立学校にも企業的性格を認砂、とくに国公立学校の場合公企業の一種と考えら れてきている。学校は本来教育活動の場であるから企業そのものと割り切ることはできないにし

ても、 「企業のごとき性格や側面がそこに多分に存在することは、否定しえない」のである。

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さらに具体的にみれば、経営学上、公企業は財務経済的目的、統制経済的目的、社会的目的の 三つの設立目的によって分類される。これからすると、学校は博物館、病院などと同様に、この 第三の社会的目的によって設立されたものと考えられることになる。そしてまた、経営経済的に は、公企業は余剰経営としての公的営利企業、実費経営の交通・サービス業、不足経営の福祉的 公企業とに三分きれる。学校は有償の私立学校などもふくめて、この第三の福祉的公企業と考え られる。それは、学校の事業目的が社会的要求を満すことから、給付の価格には原価補償を必要 とされないからだ、とされている。学校経営は補給ないし不足経営であり、授業料などが原価の 一部を回収するにしても、他は財政資金に依存し、受益者の必要に応じて社会政策的に決定され

る。そこでは、施設ないし役務の積極的提供が特色とされる。

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なお企業経営の発展段階からみると、現在私企業にあっては資本(所有)からの経営機能の分 離分化の方向がとられ、公企業においては財政行政あるいは政治からの経営機能の分離の方向が

たどられつつある。公私両企業とも経営独立化や経営自主権の確立に進みつつある今日である

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したがって、学校組織体が教育行政管理のなかにありながらも、何らかの程度において行政管理 からの経営体的自主独立化を進めようとすれば、行財政から相対的に分離する公企業的発展の方 向をとるものとならなくてはならないであろう。なぜならば、自主独立化に志向する経営体の第

‑の直接活動目標は生産性ということにおかれ、それは経営体の自主的・主体的な正しいあり方 によって確保されるとする点で、学校経営体も同じであるからである0

三 行政法学・教育法学的諸説とその吟味‑営造物説・公企業体説をめぐって

〔‑〕学校営造物理論の再検討

ここで、さらに伝統的にまた今日でも有力な影響力をもつ行政法学上の学校営造物理論や、ま た最近強調されている教育公企業体説の検討が必要となる。

学校組織体を営造物とする考えは、戦前・戦中または現在の行政解釈の理論的根拠をなすとこ ろのものであるO現行実定法上では、国立学校は国家行政組織法第8条1項で文教施設ときれ、

公立学校は地方自治法第244条1項及び第2条第3項5号で公の施設たる「教育に関する施設」

ときれ、条理上従来からの営造物概念通用の根拠を与えているものとの行政解釈等がだされてい るO そして、営造物とは、一般的には、 「国文は公共団体により特定の公の目的に継続的に供す る人的物的手段の統一体」とされているO したがって、また国公立学校も、国や地方公共団体と

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いう行政の主体が、経続的に教育を行なうために設けた一体的設備(教職員と物的設備)である から、営造物の一種とされることになっているO

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いうまでもなく、営造物理論は、その勤務関係と利用関係において特別権力関係の包括的支配

の理論を根幹としている。すなわち「特別の権力関係においては、権力者は単に特定の作為を要

求しうるだけではなく、一定の範囲において包括的な権力を有し、その権力の及ぶ限度において

は不特定な作為を命令し及び時としてはこれを強制しうる権利を有する」のである。それは、国民

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学校慣習法分析の基礎理論⊂三⊃ (高野)

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あるいは住民であることから発する一般的義務にもとづくのではなく、特別の法律原因・特別の 関係にあることにもとづくものとされる。したがって、また「国や地方公共団体は、特定の目的

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(教育)のために学校を設置したものであるから、国や地方公共団体は、学校の教育活動がその・

目的に照して正当か不当かを判断し、これを規律することができる主体」となる。そして、営造 物職員としての教職員はその勤務関係において、また営造物利用者たる児童生徒は利用関係にお いて特別の一方的服従を強いられる関係におかれる

0

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このような営造物理論の伝統的(古典的)基本性は、歴史的にみれば、絶対制国家の君主が臣 民に対する包括的支配関係を背景に構成されてきたものであり、それはとくにわが国第二次大戦 前・戦中において大きな弊害をもたらしたものであった。いわゆる絶対主義官僚の教育行政の非 民主的一方的支配の正当化に有効性を発揮したものであった。そこでは、学校経営体の内在管理 的独自性や自律性は無視され、学校は単に画一的・一方的に行政庁の一分肢とのみ考えられたO

したがって、現在ではそのような古典的営造物理論の基本性をただそのまま適用するものは少な く、多かれ少なかれ、その何ほどかの変容がなされて用いられている。

ところで、渡辺孝三氏によれば、いわゆる伝統的古典的営造物説(いわゆる氏の「営造物説」)の ほかに、さらに「営造物機関説」 (「営造物法人説」、 「社会福祉的教育機関説」、 「企業体的営造物 説」の三つをふくむ)と「階級的営造物説」とを類型化してとらえる。簡単にいうならば、営造物

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法人説とは、フランス流の公益務理論の流れをくみ、学校を公益務上の独立機関として位置づ げ、その自由権によって学校を管理しようとする説。この営造物法人説では‑般行政権力の支配 を認めず、専門職教師の専属権限としての教育活動が確立している。 (ただ、営造物法人内部で は特別権力関係が成立するがO )たとえば、フランスの総合大学の場合やわが国の田中新太郎説 の場合がそれである。

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社会福祉的教育機関説は、公共団体の学校管理の責任は、学校の設備の保障、補助金の支出、

医療その他の特別サービスのような外的事項の条件整備にあるとし、教育の内的事項すなわち教 育課程編成等は各学校長と教員の自律的責任とする。とくにイギリスにおいてこの型がみられる。

すなわち、学校は教育行政の一部ではなく、個々の学校ごとにそれぞれ管理機関をもつ独立体と きれる1944年法では、そのために運営規則(instrument of management)が各公立小中学 校ごとに定められ、これにもとづいて小学校には運営理事会(body of management)が、中学 校には管理委員会(body of governers)が設けられるべきことを規定しているo ここではドイ ツやフランス流営造物説のように公法は存在せず、私法的規制が基本とされている。ここには、

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イギリスのCommon law体制における学校の慣習法的自律性の幅の広さがうかがわれる0

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企業体的営造物説(教育企業体説)は,第二次大戦後の社会経済的要求による公益務の発展と しての公企業の社会化的拡大とそこにおける私法浸透現象に対応して、教育の社会的福祉的意義 にもとづく学校管理を考える。ここでは学校を「私教育」から現代的に社会化きれた学校として の「公教育」への遺すぢ、すなわち社会的公教育法制‑の転換のなかに位置づける。国家的公教 育法制におけるような公権力作用としての営造物管理権ではないところの、私立学校の場合と同 質的な社会的企業経営権が、国公立学校の管理権の性格とされる。会社企業と同様に、法令違反 のないかぎり、学校自主・自律権が認められ、教育内容・方法及び児童懲戒等の内的事項には教 師の専門職性としての「教育権限の独立」が保障されるものと考えるO ここでは、現行教育基本 法制において、教育行政権と教育権を法的に異質な作用として分離する考えに立つ。

階級的営造物説は、古典的営造物説をはじめ上記のすべての説が労働者・農民52勤労者の階級

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学校慣習法分析の基礎理論〔三つ(高野)

的利益と相容れないものであることを批判する。いわゆる古典的営造物説は国家主義・権力主義 的思想に立つものであり、営造物法人説は教育を権力から解放するけれども教師の集団化を阻害 するものであり、企業体的営造物説は科学的経営管理の名のもとに資本体制の効率をのみ正当化 するものだ、と批判する。ここでは労働者階級としての教師集団を学校管理の中核にすえようと する考え方に立つ。

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上記の古典説以外の営造物諸説はまさに学校経営体の相対的独自性の決定原理をそれぞれの特 色をもって打ち出している。端的に、いわゆる営造物説(古典的営造物説)をのぞいては、その いずれもが何らかのmodification として現われている。それらは,いわゆる教育行政管理から の学校経営の相対的分離の方向をとり、学校経営体の自主・自律性をとくに教育の内的事項や専 門職性を根拠にして確立しようとしているのである。

ところで、そのうち企業体的営造物説すなわち教育公企業体説についてはなおここで留意しな ければならない重要な点がある。なぜならば、今日営造物管理権の本質はいわゆる公権力作用で はなく公企業経営権であることを広く行政法学説が認め、また文部当局の解釈もそれにならい学 校管理権は非権力作用たる「教育事業経営権」だと規定する点で、この説の一般化が行なわれつつ あるにもかかわらず、それが前記解説とは似々非的方向を志向するものがあるからである。すな わち、文部省木田宏説を代表とする論理は、形式的には学校を公企業経営体を基礎に理解し、い わゆる公権力作用としての古典的営造物説から脱け出しているかのようにみられる。ところが、

そこではなお、この公企業経営体なるものは、一般の事業経営者がその事業や所属職員の経営管 王劉こ包括的な経営管理権を有すると同様に、包括的支配権力をもつものと考えるO ここで経営主 体は公立学校に関し教委としてとらえられ、学校はその包括的支配のもとで自律性なきものとし て行政管理のなかに埋没させられる。すなわち、それは実質的に古典的営造物説における「特別 権力関係」をそのまま温存した公企業体説であり、内容的には公企業体説というよりも古典的営 造物説そのものというべきであるo

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この木田説がもつ公企業経営権の現代的形式論理性を認めつつも、むしろ、それを学校経営の 自主・自律性の方向においてとらえようとするのが兼子説である。すなわち、氏は、学校教育法 第5条の学校管理権を私教育法制上の私学経営の自由を母体とし、公教育法制において国公私立 を問わずすべての公教育機関たる学校の管理権として組織されたものと解する。国公立学校の場 合は教育行政権でもあるが、その本質は公権力作用ではなく、私学同様の「教育企業経営権」

だ、というのである。兼子説も、国公立学校在学関係が特別権力関係だとされる根拠理論として

51招P威

の部分社会・特別社会関係説を、現代社会の自己規律的社会集団(とくに企業体)の様態から一 応肯定するo そして、企業関係において、法律関係の一方当事者たる企業管理主体にある程度の 包括的権能(個別的成文条項の根拠を要しない法的権能)の条理上の必要及び教育企業利用関係 としての在学関係に関する同様の必要性を認めてはいる。しかし、次の二点において木田説とは 異なる方向をとるのである。すなわち、第‑に、包括的権能は「当該企業関係の条理に照らし必 要最少限度にとどまらなければならず」 、それをこえることは憲法上の人権保障にてい触するンと 考えること。また第二に,企業管理主体等に包括的権能を認めることが即包括的支配権や特別権 力になると考えることには疑問があり、その場合には権力性の検討は別箇の問題ときれるべきで ある。むしろ、当該関係は権力関係ではなく契約関係と解し、そこでの‑定限度の包括的権利は

「付合契約上のそれ」とすることで足りる、と考えることにおいてである。そして、国公立学校

ご・:、

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学校慣習法分析の基礎理論〔三〕 (高野)

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の在学関係を権力関係と定める明文の規定がなく、特別権力関係説が一つの条理解釈であるとす る立場から、その条理上の根拠いかんが当否の決定基準であると考える。利用関係については

「在学契約関係説」を構成し、在学関係を「一般私法の特別法たる教育法上の契約関係」と解す m.

(2a)

それならば、営造物的あるいはその企業経営体的粉飾のもとに温存きれる特別権力関係に対し て批判的立場に立つ兼子説は、学校経営の自律根拠としての内在管理権をどのような論拠をもっ て認めようとするのか。それは、次のような法解釈的論理の展開に明らかである。

(前略) 「学校の自律性」の法原理は、一般化すれば、非独立的営造物の管理行政庁に対する 独立性の問題である。 ‑・経済的収益的営造物の場合には、所管行政庁とは別衝の「管理者」が設

けられ(地方公営企業7‑16条)、独立採算性に基づく経済的独立のしくみがすでにかなり成立 している。他方、非経済的営造物において一般の行政省庁にみられない特徴的な点は、営造物職

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特殊な公務員任用手続(聖祭誓え表鮎二)等によっ.て千㌢す聖され‑o*る.こ.と.で.あ.る.O

そこでかような非経済的な営造物の所管行政庁に対する専門的独立性が、条理上の根拠をもつ ようになりつつあるのではなかろうか。 ‑・少なくとも、教職の専門性の確立をみている現行教 育法下の学校営造物(教育企業)については右の専門的独立の条理が認められてよい段階にき ているように思われる。

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また、このような考え方の根底には、教育企業の条理解釈として,学校が教育課程に関する内 在的管理権(教育課程編成権)の自主独立性すなわち教育権限独立の論理が存在することはいう

までもない。そして、このような専門的見地は、単なる行政法学・教育行政法学的見地からより

‑そう教育作用の本来性に密着した教育法学的見地に立つものときれる点にも注目すべきものを もっている。

さらに、営造物理論(とくに古典的)の本家であるドイツにおいても、最近、 Hans Heckelの ように、 「行政機能は学校教育の補助機能Hilfs‑funktionにすぎない」として,学校の教育機能 の重視に向いつつある状況がみられるO氏は、まず、個々の公立学校は、教授及び教育の管理に ついて固有の任務をもつと同時に、公行政の一般的組織構造の一部をなすものと考えるO これら の二重的性格は、学校にとって必ずしも利益をもたらすものではなく、そこでは常に行政的任務 が重視され、学校固有の任務が忘却されるという危険がある。 「管理されすぎた学校」 (Verw‑

alteten Schule)とは、あまりにも官庁機構の末端化した学校に対する警句である、とする。

しかし、 Heckelは、この教授及び教育の確保のための補助機能としての行政機能を軽視してい るのではない。それは、不当な官僚化をまねかないかぎりにおいて、やはり欠くべからざるもの なのである。そこでは、個々の学校は学校維持者(Schultrager)の非権力的営造物であり、自 治体立国公立学校は自治法上の非独立的共同体機関(unselbstst云ndige Gemeindeanstalten) である、とされる。このように公立学校は官庁類似の性格をもつが、また他面一定の自治的権能 をもつものと考えられている

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ところで、 Heckelは、上記のような問塩意識から、 Hochschuleをのぞく現実の公立学校に

そのような自治たるべき教育の自由(die P云dagogische Freiheit)が法律的保障として与えら

れていないことについて、 「疑問があり、不健全なことである」とする。なぜならば、 「自由で自

律的な人間を形成し、育成すべき一個の機関がそれ自体不自由であってはならず、個々の個性あ

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学校慣習法分析の基礎理論〔三〕 (高野)

る生きた人間が得に更新される固有の環境において教授され、陶冶されるとするならば、形式や 命令が支配的であってはならない」と考えるからである。結論するところは、学校が法(Rechten) からではなく、学校維持者(Schulti云ger)のために運営されなくてはならない、とする。

「学校政策の任務及びそれに対応する法制の課題は、必要な制限の枠内において学校の自由を正 しく保障することにある」このようにしてこそ、「管理されすぎた学校の堕落」 (Entartungsform der Verwalteten Schule)を最も効果的にふせぎとめることができる、というのである

このように、いまやドイツ(西ドイツ)における営造物理論も、学校経営体における教育の自 律性をとくに強調する論理にかわってきているのである。

〔二⊃ 学校の公企業体的性格の吟味

さて、上記を総じて、行政法学・教育法学的には、学校がその独自な経営体(内在管理体)と して成立する可能性は、公企業体説(あるいは公企業体的営造物説)ともいうべき新しい教育企 業体の方向に兄い出された。しかし、さらに、そのような公企業体的性格は、従来の古典的営造 物説といかなる意味で異なるものと考えたらよいのか。営造物的性格よりも公企業体的性格を強 調する意味はどこにあるのか。その点についてはりさげてみるとしよう。

田中二郎氏によれば、 「公企業も営造物も、ともに国文は地方公共団体が一定の行政目的を逮 行するための非権力的な人的物的施設の総体を指す観念」であり、時により代替可能なものとし て用いられているが、しかし両者は別個の視角にもとづく概念である。すなわち、 「営造物は、

人的物的施設を静的に把握した観念であるに対し、公企業は、これをその企業的活動に着目して、

動的に把握した観念である。 」 (傍点筆者)このような静的・動的両者の区別は美濃部達吉博士そ

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の他もとる説であり、通説ときれる。

また、原龍之助氏は、 「鉄道・郵便のような交換経済の見地において営まれる事業であると、

学校・図書館のような純公共役務として行なわれる事業であるとを問わず、この両者をふくめ て、施設の観点からこれを営造物とよび、企業の観点からこれを公企業とよんでよい」とする。

そして、 「行政主体により、一定の行政目的のために供用される人的物的手段の総合体を営造物 とし、その施設によって営まれる事業の全体を公企業として統一的に理解するのが妥当である」

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とする点で、前説と類似する。

前記兼子説が、国公立学校に「公企業経営体説」をとった立場もほぼこれらの説と同じであ り、営造物性を否定したものではなく、営造物説の変容理論としてであった。

さらに、田中二郎氏は両者の具体的差異につき、次の四点をあげている。

① 営造物は、人的物的施設の一体化されたその継続的な施設に着目して立てられた観念であ り、これに対し、公企業は、企業経営(人的行為)そのものに着目して立てられた観念であ る。したがって、

⑧ 公企業とは、企業経営的に収支相償うべきことが予期される事業、例えば、電車・バス等 の事業について用いられる傾向があり、学校図書館などは普通は公企業とは称しないに対 し、営造物とは主としてこれらの精神的文化的な事業に用いられる傾向がある。

⑧ また、公企業の観念は、必ずしも継続的な事業であることを要素とせず、一時的な事業を 含むものであるに対し、営造物の観念は、継続的な存在としての施設の意味に用いられる。

④ 公企業の観念は、人民に役務を供し又は人民をして使用させることを要素とせず、社会公

益のために国や公共団体の行なう一切の非権力的事業を包むのに反して、営造物の観念は、

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学校慣習法分析の基礎理論〔三〕 (高野)

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狭義には、人民の利益に供される施設を指すのを通例とする。

、こu'

すなわち、この具体的判断の指棟からすると、学校はとくに⑧の観点(営利性)ということか らすれば公企業ではないことになる。また、 ③の継続性を必ずしも要件としないことに対する学 校の経続的特質や、 ④に関しては狭義の公益性をもつ学校の、むしろここでの営造物的特質は、

相対的には公企業というよりも営造物的というべきかもしれないO この点、前記のように、原氏 が学校を具体的にさして、作用的には公企業であるとしていることとやや異なっている。しか

し、田中氏においても、 ①の組織‑作用区別的な観点がとられていることからすれば、原氏の学 校を公企業とする理由はまさにその考え方にあたり、両説全く異説だということはできない。ま た、田中氏も①の観点から学校については具体的に検討していないから、その点では不明確であ り、学校公企業体説を否定していることにはならない。その意味では、前記の学校を公企業体と 観念する諸説の多くは、少なくとも学校の動態的側面、事業的側面をさしているものであり、静 態‑動態あるいは施設一事業の観点に立つ区別論を前軽にしたものである。 (しかし、実際には、

学校公企業体説をとる木田説、兼子説にしても、いまだその点にまでは言及していない。時には 営造物とし、時にまた公企業としている点から、そのように把握できるということである。 )

lLlご・

山田幸男氏は、前記田中二郎氏の⑧の公企業が一時的事業をふくむという視点及び④の公企業 の営利性(その反面に営造物の精神文化性)という視点の両者に対し、その区別の不明確さを指 摘するOいまそれを述べるいとまはないが、いずれにしても田中説の②以下の具体的メルクマ‑

しL;呂 、

ルには、なお検討すべき余地があるとおもわれる。山田氏は、結局、公企業について、その内容 的・作用的概念性からそれを次のように規定する。

① 地方公営企業は企業自体には法人格が存せず、勾法人の営造物行政として行なわれること。

③ 公企業の利用関係は、法に特別の定めある場合をのぞき私法関係であるが、その逆は必ず しも真ではなく、私法規定の適用のあるためには、公企業たることを当然の要件とするもの ではないこと。

⑧ 公企業の内容的・作用的見地から、それは組織形態が公法上のものであるか、私法上のも のであるかを問わないこと。

・、こ1.ド

ここでは、主体性・目的性・収益性の三点からの公企業体概念が挺示されている。ききの兼子 説における「在学契約関係説」がこの⑧の観点に立ち、 「一般私法の特別法たる教育法上の契約 関係」を主張したことはいうまでもない。

以上の諸説の検討からして、学校が公企業体と観念される新しい方向は、やはり学校経営体の 動態的作用面あるいはその事業性への注目から導かれたものと考えることができる。学校が自由 創造性に富む教育的経営活動を必要とすることからして、とくにその面の強調は必然の方向とお もわれる。いまや学校は、従来の静態的一方的従属性を行政に対して強要された営造物観念から 新しい意味で相対的に脱却する必要がある。学校の公企業体的動態性に注目するということは、

従来の営造物観念の何らかの修正を意味するものである。それは、前記のように、山田説や兼子 説では現行法のマキシマムな解釈によって果たされようとしている。そこに学校経営体における 私法論理の拡大や、自律性の確立の方向がみられるわけである。

上記のような静態一動態二分論や施設一事業二分論に立つとき、そのことばの論理的意味にお

いては、営造物概念は否定しえない.いまや否定されようとしているのは、従来の営造物概念の

もつ歴史的内容のゆがみの面なのである。その修正のテコ入れとなるものが動態的公企業説なの

(11)

150

学校慣習法分析の基礎理論〔三コ(高野)

である。そのことが、おのづから行政管理からの経営管理の相対的自律性の強調を志向すること は、ききの経営学的発想の折衷説にもみたとおりである。方法論的には、それはまさに行政学に 対する経営学的思考の影響浸透なのである。論理的焦点からすれば、それは前記兼子説にみたと おり、特別権力関係の新しい構成の問題であるo (それは、少くとも戦前の営造物理論における 特別権力関係を否定し,自律的社会集団たる公企業としての学校におけるものでなくてはならな い。それは、前記木田説のように、結局は法的効果の実質において戦前の営造物理論とかわらな い教育公企業体説であってはならない。 )特別権力関係の新しい構成とは、法社会学的学校慣習 法分析の視点に立てば、学校集団(とくに教師集団)の自治的sanctionの構造化であり、その 明確化に連なるものであるO具体的には、学校の直接的担い手としての教師集団の自己強制力の 最発見の問題なのである。

四 若干の補説と総括

上記諸説において、学校経営体に何らかの意味での独自性・自律性を認めようとする傾向のあ ることを確認することができたD しかし、それはあくまで相対的な意味においてであって、教育 行政管理からの国公立学校の絶対的独立を主張するものはない。だが、なおここで問題になるこ

とは、学校経営体の相対的独自性の意味が必ずしも十分に統一的にとらえられていないというこ とである。ここでは、若干の補説を加えながら、総括を行なってみることにしようO

その第‑は、二っの学校を経営体としてみる場合と、複数の学校をふくむ教育行政管理の総体 を経営体としてみる見方との対立の問題についてである。一つの学校を文字どおり経営体と名づ けたのは前記天城・有余説であった。しかし、その場合、一つの学校は教育の事実行為において 経営体なのであって、また別に営造物的特別権力作用が行なわれる場合の行政管理的法律行為と

してではなかった。

これに対し、前記清水説が一つの学校の経営体的性格を否定し、複数の学校をふくむ行政管理 の総体を経営体としたことは前述のとおりである。

(1)しかし、ここで経営学でいう「経営」の「管理」に対する上位性が「管理」‑「経営」と運用され ていることについての批判は、必ずしも当らないO現代公教育の論理的形式からすれば、私立学 校でさえ他の一般企業体よりはその公共性を強く問われざるをえないのであり、行政管理の形式

的上位性を否定することは、とくに国公立学校の場合には不可能であるO教育の本質的機能とし ては、教育という実体や事実性のなかにその本来的意味での最高経営性が内在するのであり、そ れを方法的・手続的に執行する過程でこそ、行政管理という過程が「補助機能」として出てきたも のと考えられる。学校教育の経営の意味は、もともと学校の場の状況そのものから発したもので ある。その機能が分化し拡大して行政管理というものに固まっていくというのが、自然発生的な 本釆の姿であろう。 (わが国公教育の発展の図式は著しくそれとは反対の方向で出発したが。 )そ れゆえに、もともと学校の場にある経営機能の一部が次第に行政管理に委託されたものという本 質観に立つとき、たとえ形式的に「管理」‑「経営」となっても、教育の本来的意味が逆になるわけ ではない。それは、教育の場における本来的意志決定性を現象的形式的に教育行政管理に「補助 機能」として代行させているのであるOまた、経営学の論理が「経営」‑「管理」という用法ばかり ではなく、その道の用法をも時おりふくんでいることは、すでに本山政雄氏なども指摘するとこ ろである。よしんば「経営」‑「管理」という用法を一義的に用いるにしても、学校経営の実体にそ

・蝣‑0*11

(12)

学校慣習法分析の基礎理論〔三コ(高野)

151

れのもつ論理体系をそのままストレートに導入しなければならないということはないであろう。

(2)また、清水説のように、教育委員会を公立学校の経営主体と考える場合でも、その作用自 体は行政管理作用であることにちがいはない。たとえそれを経営的作用とみるときでも、それは おのづから行政の経営作用である点で、学校自体の経営管理作用とは異なる意味をもつはずであ る。清水説のとるところは、学校経営体説というより教育経営体(教育行政管理体)説とでもい うべきものである。

(3)ここにはまた、経営学のストレートな導入をはかろうとするあまりに、現実の学校経営の ゆがみとしての無力さと現実の教育行政管理の盗意性とが無関連に把撞きれ、地方教育行政管理 への経営機能のより‑そうの吸いあげと強化の面のみがみられる。それは、これまでの教育行政 管理における営造物理論の歴史的ゆがみについての反省と検討を欠いたものである。経営学の論 三哩によって、むしろ現実の学校経営・教育行政のゆがみを合理化し定着させる危険さえもつo経 営の主体性を教委にのみ与え、学校そのものから吸いあげることが、現在の歴史的段階で少なく

ともどのような意味をもつかの検討に不十分であるO

(4)さらに、清水説は、経営学における経済的営利企業体の経営規模をそのまま学校にあては め,学校規模の宿命的小規模性のゆえに‑学校経営の否定の論拠とするが、それがたとえ教委単 位になったからといって、現代企業経営の規模を直ちに満足するとはかぎらない。 (相対的には 進歩の一面をもつが、現在の地教委設置単位の問題を省みれば、それは五十歩百歩というはかな いo )学校経営の規模は、学校固有の立場から考えられるべきであって,経営学上の大規模性を

もって律するわけにはいかないのである。

(5)清水説は、学校が人事や財政の意志決定作用を完全に掌握しなければ「経営」とはいえな いと極論するが、それは、また教育委員会においてさえ例外ではない。現実の教員人事管理や原 案送付権なき教育財政管矧こおいて、一般行政部門からの教委に対する圧力や枠の強さをおもえ ば、教委の経営主体性でさえあやしくなる場合が多いOいずれにしても、経営の主体性の意味を もっと相対的限定的に吟味する必要がある。学校経営の内包を、現実の学校教育から固有の形で 確定しようとする具体的努力の方向からみると、清水説は少しく綿密さを欠いている。

(6】経営学の理論や技術の導入は学校経営固有のものを構築する意味においてなきれるべき で、経営学そのものの模倣であってはならない。清水説は、その意味で、学校経営体の完全な否 定の論拠を提示しているとはいえないのであるo

し1tt、l

また、前記折衷説は、複数の学校複合体たる教委単位に経営体を想定し教育経営体に類するも のを考えながら、なおそこに経営的独自性をもつ‑学校の経営体的性格のものを意志活動体とし て併存せしめていた。しかし、組織論的には、必ずしも二つの経営体的性格のちがいを意識的に

とりあげていたわけではなかった。

このような考え方に類似した教育行政法学・教育法学的見解は、兼子説によって打ち出されて いたO それは、学校の性格を公企業的経営体として包括的に認識しつつ、同時にまた、一つの学 校の経営的独自性を内在管理権の自律性から条理法的に肯定しようとしたものであった。もちろ ん、この説も前記のとおり、国公立学校の場合には、非独立的営造物として、その非公権力作用 としての企業経営権を教育行政管理体においている。その意味では、教育企業経営体を教育行政 管理体としてまず描くけれども、学校経営体を組織論的に具体的に明確に描くまでには至ってい

ない。いいかえれば、それは、学校経営体の実体に類する独自性・自律性を条理法的原理的に裏

づけたものである。現行実定法の解釈学の枠内にわけるかぎり、この論理はそのぎりぎりの線に

(13)

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学校慣習法分析の基礎理論⊂三コ(高野)

まで迫ったものであり、逆にまた法解釈学の限界を示したものといっていい。

現在、学校を公企業体として考えようとすることは、前記のとおりやや一般化されつつあると いっていいとおもわれる。がしかし、そのことは、静態的組織論的には、性格やレベルを異にす る二種の経営体を想定することを示唆L/ているようにおもわれるOその一つは複数の学校を対象

とする行政的経営(行政管理)ともいうべき教育経営体のレベルであり、他は一つの学校の経営 を考える学校経営体のレベルである。国公立学校の場合、前者は明らかに教育行政管理体であり 後者は学校経営管理体というべきものであろうO私立学校の場合にも、厳密にはその両者が考

えられる。 (いわゆる私立学校行政の観点に立つとき、私学も国家・地方行政と無関係ではない ことからして。 )がしかし、それは、一般的には教育経営体即学校経営体という形の私企業体と して認識できよう。もともと公企業自体が私企業的経営性を基礎とする亜型としてとらえられて いいもので、 Eg公立学校もその意味で私企業体的性格からの特別の分化として考えられるであろ う。学校が公共化の過程をたどることによって、前記のように二重構造的な雨経営体のかみ合っ たものとして位置づけられるのが、国公立学校の姿であろうO(なお、私立学校が営利を基本とし ないところの、現行教育法の一般的規制をうける公教育である点で、準公企業≪quasi public administration≫と考えられている例もある。 )

学校経営体は、その一般的性格の面においては、教育経営体としての教育行政管理体に包括さ れはするが、それは、学校経営体がそのなかに埋没してしまうことではないO学校経営の動態肘 作用性から機能的な見方をするとき、静態的には営造物性の濃い国公立学校も、その実質的内容 において個々に自律性をもつ経営体として確立きれる必要がある。その営造物的弊害は公企業的 作用性のつきあげによって、修正されなければならない段階にきているのである。一つの学校を 経営体として描くことは、経営学的類推をストレ‑トに行なうこととしてではなく、学校教育のJ 経営性の特質や固有性に即応してなされて、はじめて可能なのであるa

ところで、第二に、前記兼子説は、天城・有余説が名目的には「学校経営体」を打ち出してい ながら、その実質的内容において行政管理との関係を法的に連続させえなかった点について、一 つの解明のいとぐちを与えている。すなわち、学校の経営的自律性の根拠を条理法においてさぐ ろうとする点に特徴をもっている。経営体を一つの学校にも認めうる実質的根拠を法的(教育法 学的)に提示しているといえよう。天城・有倉説が‑学校経営体の経営行為を単なる事実行為の敵 城にとどめようとするに対して、それを広義の法的方法において条理法として積極的に構成しよ うとする。そこには、単に法律行為と事実行為の形式的二分論をこえて、学校経営体の広義の社 会現象としての法現象の分析に注目し,法解釈的保障を与えようとする意欲がうかがわれる。ま た、兼子説が具体的には特別権力関係をあくまで限定的に解し、その条理上の根拠を分析しよう とする点で、天城・有倉説と根本的に異なっていることはいうまでもない。 (天城・有倉説は、

いわゆる法解釈的には古典的営造物理論に近い。 )ただ、兼子説が公企業体説を打ち出し、現行 実定法を前むきに解釈しながらも、それが営造物法人説のような自律皮の高いものにまで向かお うとするものかどうかは、必ずしも明らかではないQ (田中新太郎説を否定する点では,それに 否定的のようにも受けとれるが。 )

一つの学校経営体の経営現象を広義の法的現象としても把握しようとする兼子説に対して、そ

の点に消極的な相良惟‑氏の説がある。相良氏は、 「学校経営という観念は、法律的な観念であ

るとはいいがたい。そしてまた、学校経営ということは,必ずしも、法律的根拠を絶対に必要と

するともいいきれない。実際、学校経営ということばの用例は、一般の教育法規にはほとんど見

(14)

学校慣習法分析の基礎理論〔三⊃ (高野)

153

い出しがたい」 (傍点筆者) 、とするだけで、それ以上の法規範性のはりさげを停止する。

し1丁、

現行実定法におけるかぎり「学校経営」なる観念は「法律的観念」としてはたしかに稀薄であ る。また、現実の学校経営現象を法律的に形式的にとらえることが、学校経営の生きた事実的機 能を渦渇せしめる危険を顧慮すれば、そのこと自体はあながち不当とはいえない。また、歴史的 にいえば、たしかに法律万能主義による戦前・戦中の学校経営のみじめさは反省されて余りある

ものがある。

しかし、そのような発想形式自体には誤りがないにせよ、その発想の実質的内容あるいは姿勢 のあり方いかんによっては、そこに問題がないわけではない。もちろん、そのような学校経営の 消極的法的認識が、事実機能の自由性の拡大や尊重に根ざすかぎり、問題はないとおもわれる。

だが、それと逆に、学校経営の法的規範性の軽視が、学校の主体性を弱めないという保障はな い。そこで、学校経営の法理を積極的に認識していかなければならないという現代的課題が出て くるのである。学校経営が正しく保障される意味での法規範認識は、やはり必要だといわなけれ ばならない。たとえば、前記兼子説のように、学校の経営体的性格をいわゆる法律主義の原理か

ら法源論的には条理法という形で「非法律的教育法規」においてとらえながらも、むしろそこに こそ積極的意義を兄い出そうとする場合もある。 「法律事項は重要な教育事項にとどまり、実際 には委任立法・慣習法などの非法律的教育法規が重要」だと考えることが可能なのである。とい

(38)

うことは、それが「重要なる教育事項」であるかぎりは積極的に法律化し保障することが必要で あり、そうすることが権力化を強め学校の自律原理を不当に侵害することとなる場合には、 「非 法律的教育法規」においてとらえることが妥当であることを意味するのであって、学校経営観念 が「法律的な観念であるとはいいがたい」ということではない。法律的観念としてとらえるべき 面はとらえるべき面で積極的な法律化がなきれなければならないのである。また、それが法律的

・ニ1rト

根拠がないからといって、いわゆる広義の法的保障までが取りはらわれてしまうかのような概念 法学的形式的解釈論の見地に立つことは肯定できないo法律行為と事実行為をただ形式論理的消 極的に二分割し、著しく狭量な制定法主義的「法律」 (Gesets, loi)観念で学校経営をとらえる

ことは、学校経営の自律性や主体的性格の保障に即応しない反面をもふくむことに注意しなくて はならない。学校経営が自律性をもつことは非法律的に保障されることもあると同時に、法律的 に積極的に保障されなくてはならない場合もあるのである。ここに広義の法的観念(Recht, droit)が重視きれなくてはならないといえよう。いわゆる「法律主義」原理において、 「法律」

・小ト

と「法」とは矛盾概念ではなく、前者は正しい意味で後者を前提にふまえていなければならない のである。しかし、そのような広義の法観念に立つことは、学校経営体の経営性を、その教育的 凝営の法則性をこえてまで過度に法現象としてとらえることを意味しない。それは、あくまで教 育的経営の法則が法的法則性と合致し、法的技術性を要求する限度においてである。また学校経 営の事実行為性が、法的発想によってせばめられることを意味しないのである。

このように考えるならば、学校の経営体的性格は、単に事実的にのみとらえられるだけではな く、条理「法」的あるいは慣習「法」的に、また実定規定の立法のあり方によっては必要な限度 で‑教育行政権力自体の自己規制を明確にし、学校の自律性を保障する等の意味で‑法律的 にさえとらえられる場合も全くないわけではないのであるo

ところで、教育行政管理権に対する学校経営の内在管理権を消極的に単なる事実行為としての

みならず、さらに積極的に法的に保障する明確な措置が望まれる。現行法下においても、すでに

ふれたように、校長の内在管理権を広く条理法的に非法律的法規においてとらえることができる

(15)

ユ54

学校慣習法分析の基礎理論⊂三⊃ (高野)

わけであるo しかし、それはなお権力の盗意により、あるいは解釈者のちがいによって必ずしも 十分に統一的であるとはいえない。法令上学校や校長の専属権として授権されているものはとも かくとして、個別の権限規程がない場合にはしばしば学校の内在管理権は浮動し、侵害きれるこ とがあり、問題となることがある.内在的に管理されている事項でも、それらが隈習法上・条理 法上の権限確認として行なわれているのか、それらが教育委員会や教育長の権限の校長への委任 として行なわれているのかが明確でないことがある(学校管理規則のなかにこの例がみられる)0 内在管理権の確立の方向からすれば、当然それらは条理法・慣習法上の確認であることの蛎権化 が必要である。また、地方教育行政の組織及び運営に関する法律第33条にもとづく学校管理規則 が、すでに校長の内在管理権を確認していることが明白な場合に、教委や教育長がなお学校や校 長に対して包括的支配権をもらうるかいなかが問題になることがあるo行政解釈は、すでに校長 の内在管理権として認めたものであっても、教委や教育長はなおも包括的支配権のもとにこれを 統制し、変更命令が下しうるとする。それでは、学校内在管理は何ら保障をうけていないことに なり、そこに法的な権力の自己規制が必要とならざるをえない。そこには、いまだ古典的営造物 理論の残浮がみられるし、教育機能の特殊性にもとづく専門的自律性の軽視の発生する基盤が温 存されているのである。したがって、学校内在管理権の独自性の保障は,単に解釈論議にとどま らず、立法論として法律的保障さえ必要となってくるといわねばならない。 (権力の自己規制条 項を設けるとか、条理法・慣習法上の効力の確認原則を何らかの形で打ち出すとかしてo )

いずれにしても、学校経営の内在管理権や相対的独自性の確立は、単に現行法解釈学の枠内に おいてのみでは限界があり、そこにはまた、法社会学的アプローチによる柔軟な問題解決が要求 されているとも考えられるのである。

第三に、学校経営体の独自性の根本論拠としての教育作用の特殊性についてふれてみよう。

学校経営体の自主・自律性が教育行政からの相対的分化分離の方向において行なわれ、しかも 教育的生産性が高められるとすれば、それは教育作用の特殊性であるところの自律性・創造性が 十分に発揮されたということにおいてである。学校を経済的生産性に比重をかけてみた場合には 学校経営体はまきに行財政的非独立的な無権能な機関としてのみ問題にされることになる‑と

くに国公立学校においてoまた、学校経営の非生産性(消費性)ばかりが注目されることになる。

学校教育の機能は,現象面における経済生産的な性格からいえば、あくまで直接的経済生産活 動ではないO それは超済生産に必要な労働力を未来に向けて生産する(人間形成を行なう)間接 的生産活動である。したがって、経営経済的には、むしろ財政的消費活動とさえみられるo この ような意味で学校経営体‑とくに国公立学校は、教育行政管理体(教育腫営体)から宿命的に分 離しえない、とさえもいえるであろう。そのような意味で相対的独自性(分離性)をとりあげ、

学校経営体の非自治・非自律性を主張することは必ずしも妥当ではないOなぜならば、間接的経 済生産性をふくみもつ教育的生産性(社会的生産性の一部)をあくまで直接目的としている学校 経営体は、学校の<教育的>経営に自律化の方向を求めるのが至当といえるからである。一般に 学校の<教育行政>管理の一般行政からの分離によって、教育的自律化をはかることがまず考え

られる。が、それは、さらに教育行政からの学校経営の相対的独立からも考えられなくてはなら ないのである。学校経営体は教育行政管理体の一方的統制をこうむるべきではなく、その教育的 経営たることを自律の根拠とすべきである

・」!、

このような考え方に関連して、相良氏も学校が「一種独得の性格をもつ施設であり、したがっ

て一般の官庁にみられない自主・自律性を有する」こと、 「学校経営の自主・自律性は、もとも

(16)

学校慣習法分析の基礎理論〔三コ(高野)

155

と学校の教育活動に端を発することはいうまでもないが、それは単に学校の教育活動に関しての み見られるものではなく、教育活動をふくむ学校の運営全般(後述では学校経営のすべてといい かえている一筆者)に関して存在し、認めらるべき」ものとする。

m.

さらに、このような考え方が、教育法学的にも、実定法上の営造物職員教師の専門職性から条 理法的に裏打ちきれることは、前記兼子説にみたとおりであるO

このようにして、経営学上の経営体概念をストレ‑トに教育行政管理体的性格のものとしての み、一枚岩的に類推することには限界がある。いな、それは不適当だ、というべきであろう。

第四に、そのような経営学的類推の不適切さを、現実の学校経営の状況からも指摘できる。そ の一つは、さきにもCookや清水説が一枚岩的にとらえようとしていた教育経営体(教育行政管 理体)における、教委‑教育長‑校長‑教師という経営職能構造の女トレ‑卜な類推の問題性に ついてである。ここでは、経営のIine構造を行政管理的系列においてのみ描こうとする。そし て、公立学校の校長は単に教育行政管理上の中間管理者でのみしかない。このことは、ききの学 校経営の自律性の原理から疑問になることはもちろん、現実的にも問題である。教育行政管理体 の一分肢としての国公立学校の校長は、教育行政庁の行なう学校管理の系列面(それは無条件の 包括的支配にではなく、条理法にもとづく意味で)においてのみ中間管理者であることは肯定で きるが、学校経営体の長たる性格はそれのみにかぎられない。教育行政的学校管理の一般原則を 学校経営体の個性的条件のもとで教育的に屈折させる働きをもつとともに、経営体内部において 相当に独自の管理性をもたなければならないし、現実には、そうでなければ学校は運営されえな いものであるO学校という教育的経営集団の中核者としての校長には、教育的な意味での意志決 定(decision‑making)といっていいほどのものが与えられていなければならない。それは、宿 政管理的な意志決定とは質を異にするものである。また、他の公・私企業における経営管理活動

とは著しく異なったものをもつとみなくてはならない。学校経営体のTr云gerとしての専門的教 師集団にしても、単なる企業体の部課貝の集合ではないという点で、特殊集団と考えなくてはな

らないO このような特殊状況のなかに、行政管理上のIineをストレートにもちこむことでは問 題解決にはならない。

まして、現実の日本の教育委員会制度が、アメリカのように、地域的自然発生的に学校を育て てきたという歴史過程を十分に経過せずして市町村単位におかれ、その民衆統制(popular control)に十分な信頼と期待がもたれていないわが国の状況がある。それによって、教育の専 門性が侵害されることも考えられるとき、一つの学校が、その専門職能性において、経営体的独 自性を傑障されることはより重要な意義をもつものであるo

したがって、学校経営体においては、教育経営体(教育行政管理体)とは別の次元で、独自の 職能構造‑それは最少必要としてのIineをふくむが‑が考えられなければならないのであ るOそこに、一般企業や官庁のような職能構造としての部門制や部課制を一枚岩的にあてはめる ことは不適当である。

し.131

以上を整理してみるならば、経営体論上の問題は、 <教育経営体>‑<教育行政管理体>と<

学校経営体>とのいずれを肯定し否定するかの二者択一の問題ではないo両者はそれぞれの特殊 性をもつ経営体として認められ、しかもかみ合ったものとしてとらえられなくてはならない。そ

して、教育経営体一辺倒論者が複数の学校経営を教委を温点として構想するとき、それは、とく

に公立学校の場合それ自体行政管理であることにかわりはない。それは<行政管理体>そのもの

にすぎないのである。組織論的には、それは何ら従釆の教育行政論とかわらないことになる。そ

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