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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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アメリカ社会学史の一節 −R.M.マッキーヴァー研 究−

著者 小笠原 真

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 25

号 1

ページ 101‑120

発行年 1976‑12‑25

その他のタイトル A Chapter to the History of American Sociology  A Study on R.M. MacIver

URL http://hdl.handle.net/10105/2564

(2)

奈良教育大学紀要 第25巻 第1号(人文・朴会)昭和51年 Bull.Nara Univ.Educ, Vol.25,No. 1, (cult.& soc.) 1976

アメリカ社会学史の一節

‑R.M.マッキーヴァ一研究一

小 笠 原   真 (社会学教室) (昭和51年4月28日受理)

I.は じ め に

101

本小稿は、かつてわが国の理論社会学の第一人者であった高田保馬氏(1883‑1972)によって 世界的な第一流の社会学者と評されたイギ1)ス生まれのアメリカの社会学者R.M.マッキーヴァ‑

(Maclver, 1882‑1970)の社会学、なかでも彼の理論社会学の骨子を解明することにある。だが Maclverの理論社会学、特に彼の「コミュニティ」 (community)と「アソシエーション」 associ‑

ation)の集団類型理論などは、戦前戦後を通じて、ドイツのF. Tbnnies(1855‑1936)の「共同社 会」 (Gemeinschaft)と「利益社会」(Gesellschaft)、アメリカのC. H. Cooley(1864‑1929)にはじ まる「第一次集団」 primary group)と「第二次集団」(secondary group)などと共に、最もよく 研究されているところであって、既にわが国の学界においても、優れた研究業績を多数にもつ(1) しかるに、ここに、私が「アメリカ社会学史の一節 ‑R.M.マッキーヴァ一研究‑」と題する 本小稿をあえて書こうと企図したのは、従来そうした研究の中で殆ど看過されていた側面、つま り、 Maclverが1917年の処女作rコミュニティ‑社会学的研究‑』以来、 1921年の『社会学 要論』、 1931年の『社会‑その構造と変動‑』、1937年の『社会‑社会学教科書‑』、1942年 のr社会因果論』、そして1949年のC.H.Page (1909‑  との共著『社会‑入門的分析‑』 ‑ と著作を重ねていく中で、自己の理論社会学のいかなる部分を修正し、もしくは発展させていっ たかを、幾分なりとも明らかに出来ればとひそかに念じたからである。なお、その際私はこの間 題意識を、 Maclverの初期の諸著作に示されていたヨーロッパ社会学、なかんずくイギリス社会 学の色彩のいかなる部分が、彼の後期の諸著書において、アメリカ社会学の色彩に染まっていっ たかを、社会学史とりわけアメリカ社会学史的な観点より考察しようと思ったから、上記の如き 表題を掲げた次第である。

II. Maclverの生涯と巣練

先ず、個々の社会学者の学説を理解する際の常道に従い、 Maclverの生涯と業績を手短に紹介 することから始めよう。

はじめに、 Maclverの略歴からみていくと、彼のフル・ネームはRobert Morrison Maclver であって、 Macのついた名前が示すように、彼も1882年にイギリスのスコットランドで生を享け た。長じて彼はエジンバラ大学に進み、古典科を首席で卒業した後、奨学資金を得てオックスフ ォード大学のオ1)エル・カレッジに進学したO 同大学では古典科と人文学科とを修めたが、その 成績は抜群で数々の賞を受けたが、なかでも比較文学の論文で授けられたパスモア・エドワード 賞はひときわ輝かしいものであったO

(3)

彼はオックスフォード大学を卒業した後、先ず、スコットランド東岸のアバディーン大学で、

1907年政治学講師、 1911年社会学講師となった。次いで、彼は1915年に政治学準教授としてカナ ダのトロント大学に渡り、 1922年同大学政治学教授兼政治学部長に就任し、 1927年までそこにと どまった。なお、カナダ時代の第一次世界大戦中には、同国戦時労働局次長に任命されたことも あるO 続いて、彼は1927年にコロンビア大学内にあるバーナード・カレッジ社会学教授として、

第二の故郷アメリカ合衆国に移った。そして、 1928年9月以降F.H.Giddings(1910年から11年に かけてのアメリカ社会学会の第三代目会長、 1855‑1931)の後をうけて、彼はコロンビア大学の 政治思想史、社会学を担当し、 1949年に同大学で停年を迎えるまでの二十数年間第一線で教鞭を とった。その間学内においては、彼は1929年に同大学の経済学、政治学の教授であったF. Lieber 博士(1800‑1872)にちなむLieber講座の特別待遇教授に任ぜられ、また同年同大学から名誉文 学博士の学位を授けられ、更に1940年から49年まで同大学の社会学科長の重責を担った。またそ

の間学外にあっては、彼は1934年にアメリカに帰化したが、その年直ちにアメリカ東部社会学会 (Eastern Sociological Society)の会長に選出され、 1936年には‑‑ヴァ‑ド大学から名誉文学 博士の学位を授けられ、ついに1940年には、アメリカ社会学会(American Sociological Society)

の第三〇代目の会長に選ばれた。

彼は1949年にコロンビア大学で停年を迎えたが、その後も引き続き名誉教授として、週一回行 なう大学院の特別講義を七〇歳を迎える1952年まで続けた。その間アメリカを席巻したMcCarthy‑

ism 旋風に彼は身をもって抗し、学問の自由を擁護したことはあまりにも有名である。その後 彼は1956年から61年まで「ニューヨーク市青少年犯罪問題研究所」(City of New York Juvenile Delinquency Evaluation Project)の主任として、社会病理の解明に業績を示した。そして1963 年以降は、ニューヨーク市に関する政治、経済、人種、社会福祉、芸術、都市計画などの研究機 関である「社会調査新学院」(New School for Social Research)の院長、顧問を歴任し、やっと 1966年一切の公職を退いたO ときに1966年といえば彼にとっては八二歳の高齢であったが、その 彼も四年後の1970年には永遠に帰らぬ人になってしまった。

次いで、 Maclverの研究活動の面に眼を転ずると、先ず彼が最初に著わした書物は、イギリス のアバディーン大学在職中の1914年に脱稿し、三年後の17年に出版した『コミュニティ‑社会 学的研究‑』(Community:A Sociological Study)である。彼は本書で、一方に、理論社会学 の研究として、社会講造の分析枠組として周知の三三二三テiとナシン三二ン昌シの両概念を用 意すると共に、他方に、政治社会学の研究として、国家(state)をアソシエーションの一つとし て捉える例の「多元的国家論」(pluralistic theory of the state)を展開した。そしてこの書のも つ分析の鋭さ・深さ、論述の明確さ等によって、彼は見事にカーネギー賞を獲得して華々しく世 界の社会学界にデビューしてくるのである。次いで、彼はそれ以後の研究活動も主として処女作 で用意した二つの基本線、つまり理論社会学(theoretical sociology)と政治社会学(political sociology)の二本柱を中心に展開していくのである。即ち具体的には、彼の理論社会学での研究 業績としては、 1921年の『社会学要論』 The Elements of Social Science) 、 1931年の『社会

‑その構造と変動‑』(Society: Its Structure and Changes) 、 1937年の『社会‑社会学 教科書‑』 {Society: A Te∬tbook of Sociology) 、 1949年のPageとの共著である『社会‑

入門的分析‑』 (Society: An Introductory Analysis)などが主要著書として挙げられる.ま た、政治社会学のそれとしては、 1926年の『近代国家論』 (The Modern State)、 1939年の『1) ヴァイアサンと人民』 {Leviathan and the People)、そして1947年の『政府論』(The Web of

(4)

アメリカ社会学史の一節 ‑R.M.マッキーヴァ一研究‑ 103

Government)などが主な著作であるO

ところで、以上の二領域以外でも、 Maclverの注目すべき研究業績に、一つは、アメリカにお いて1930年代の社会学方法論論争に参加して、統計主義・行動主義を厳しく批判した論文や著書、

例えば、 1930年の「社会学は自然科学か」("Is Sociology a Natural Science? " Publications of the American Sociological Society, XXV) 、及び「社会学の対象と方法」 (̀̀Gegenstand und Methode der Soziologie,'zeitschriftfur V∂Ikerpsychologie und Soziologie, 6 Jahrg., Heft, 4.) 、 1931年の論文「社会因果論」("Social Causation," Publications of the American Sociological Society, XXVI) 、そしてこれらの論文を体系化した1942年の『社会因果論』 {Social Causation)などがあることも見落としてはならない.更に残る一つに社会思想家としてのMaclver がアメリカ国内や国際間の不調和や混乱に対して鋭い分析と批判とを加えた諸著作、つまり、1943 年の『恒久平和論』(Towards an Abiding Peace)、 1948年の『より完全なる統合』(The More Perfect Union) 、そして1950年の『自由の抵抗線』(The Ramparts We Guard)などであるが、

これらはいずれも彼の民主主義的、人間尊重的、自由主義的信念に裏付けられた好著であって、

これまた見逃してはならない。

III. Maclver社会学の二面性 一線合社会学と個別科学的社会学一

先ず、社会学の対象に関わることであるが、Maclverは社会学をどのように認識しているか、別 言すれば、社会学についての彼の立場はいかなるものであるかを検討してみたい。

さて、この点に関して管見の範囲ではあるが、従来わが国には二つの見解があるようである。

即ち一つは、 Maclverの社会学を「個剖科幸助夜会学」 einzelwissenschaftliche Soziologie)な いし「痔疾科学としそd)在会学」(sociology as a special science)と見なす立場であるo例えば この見解はMaclverの教えを大学院時代及びその後の数年間直接受けた菊池綾子氏(1905‑ ) の「かれはホップ‑ウスやズナニエツキーとは理論的にきわめて接近した心理学的社会学の立場 であり、体系的には特殊科事由社会李の立場をとった世界指折りの理論社会学者である(2)」 (圏 点筆者記、以下同様)の主張の中や、同じく1949年から50年にかけて彼の下で学んだ大道安次郎 氏(1904‑ )の「第一の問題は、社会学を社会科学界における‑平民として見るか、帝王とし て見るかという問題である。 ‑・‑・彼の社会学は、社会関係という特定の視角から対象をとりあげ ているという意味において、個別科学的な社会学に属するといえよう。一一だから、彼の社会学 のとらえ方は、社会科学界の帝王としてではなくて、‑平民として位置づけているといえよう(3)」

と記述している個所に明瞭に示されている。

これに対して、今一つの見解は、Maclverの社会学を最初は「療会社会単」(synthetic sociology ) であったが、 1930年代以降「個別科学由社会学」へと移行していったとみるものである。例えば 新明正道氏(1898‑  の次の主張がまさにそれである。つまり̲「彼は『コミュニティ』を公に した当時には社会学を療会如斗李と見る癒合夜会幸の立場を採用していましたものの、 1930年代 以降におきましては、ジンメルによる形式社会学の提唱に共鳴して、社会学をもって他の社会科 学と同格的に社会を関係的視角から特殊的に考察する一つの痔疎め社会科学と見る立場に移行す るにいたったものであります(4)」とO

では、これちの二種の見解のうち、いずれがMaclverの社会学観をより的確に捉えているであ ろうか。私はある意味では両見解とも正鵠を射ているといえるし、またある意味では両見解とも不

(5)

充分な捉え方ではないかとも思う。何故ならば、処女作『コミュニティ‑社会学的研究‑』

において、既にMaclverは社会学を広狭二種、つまり広義の綜合社会学と狭義の個別科学的社会 学の意味において使用している。しかし、彼自身がこの処女作及び1921年の『社会学要論』にお いてアクセントを置いているのは、明らかに綜会社会学である。従って、そうした意味では確か に新明氏の見解は正しいといえよう。だが、本来固有の意味の社会学としての個別科学的社会学 も明らかに第一作以来共存しており、新明氏も指摘していた通り、 1930年代以降著作を重ねるに つれて、次第にこの立場が明確化してくる。それ故、こうした狭義の社会学に限定してMaclver の社会学を捉える限りでは、菊池氏や大道氏の見解も勿論正しいといえるからである。

では、幾分具体的にMaclverの所説からこの点をうかがってみよう。先ず、彼は第一作の『コ ミュニティ‑社会学的研究‑』において、既に「社会学は、広義には、特殊社会科学を包括 するものであるo 狭義には、それは‑特殊科学としてあらゆる社会関係を研究するものである(5)」

と記述し、自己の社会学に広義の綜合社会学と狭義の個別科学的社会学の二種のあることを明白 にしている。そして、社会学に対する彼のこうした認識の仕方は決して彼独自のものでなく、ド イツのTbnniesやアメリカのGiddings, P. A. Sorokin(1889‑1968)などが、社会学を広義の一 般社会学(general sociology)と狭義の特殊社会学(special sociology)に区分する方法と、大筋 において軌を一にしているといえる。さて、 Maclverは同著において、このように広狭二種の社 会学を用意しているとはいえ、明らかにウエートは広義の綜合社会学に置いている。例えば、こ のことは同書の第一版及び第二版の序文で、今日「社会学という綜合科学」(synthetic science of sociology)の必要性がにわかに高まり、本書はそれを究めるものであるとか、「本書の趣旨は一一 特殊諸科学がその内客として取り扱わない社会についての現実の科学、つまり統一体としての社 会、即ちコミュニティの科学の存在を知らせることにある。」と明記し(6)、綜合社会学の確立に主力 を注いでいるところからも証明されよう。なお、 Maclverのこうした綜合社会学観にあって、注 意しなければならないことに次のことがある。即ち、かかる彼の主張はある意味では綜合社会学

‑の復帰であり、全体認識‑の要請であろうが、それはもはやフランスのA. Comte(1798‑1857) やイギリスのH. Spencer(1820‑1903)によって代表される初期の社会学の如き、諸科学の寄せ集 め的綜合や観念的な哲学的理論となってはならず、あくまでも諸科学の分業とその提携を前提と した上に成立する綜合社会学でなければならないということである。次いで、 1921年の『社会学 要論』においてもMaclverはこの見解を基本的に踏襲し、綜合社会学の確立に努めている。つま

り「社会生活の特殊な局面を研究する一群の科学」は「どれひとつとして、全体としての社会を 研究していない。」それ放「より綜合的な科学の存在する余地が残される。否、事実これらの諸科 学はこの綜合的な科学を要請している。これが今日社会学と名付けられている科学である。」そし て社会学は「社会の全体的な構造・社会の諸機能・諸関係の全体的な相互依存的体系について」

研究しなければならない、と(7)

ところが、 1930年代以降になると、もともと処女作以来Maclver学説に潜在していた個別科学 的社会学、つまり社会学を社会関係の研究に限定する、いわゆる狭義の社会学観がはっきりと彼 の論文や著作に顕在化してくる。そしてこのことは、 1920年頃をピークとし、その前後の10年か ら15年にかけて黄金期を迎えたドイツの形式社会学   周知のように、この形式社会学はG.

Simmel(1858‑1918)、L. v. Wiese(1876‑1970)などによって提唱されているが、これは初期の綜 合社会学と鋭く対立するものであって、いわゆる研究対象を「社会関係」(soziale Beziehung)ま たは「社会的相互作用」(soziale Wechselwirkung)に限定する個別科学的社会学である‑が、

(6)

アメリカ社会学史の一節 ‑R.M.マッキーヴァ一研究‑ 105

Maclverの学説に大きな影響を与えて、彼の社会学観を変えていった点とも少なからず関係して いる。即ち、既に1930年に書いた「社会学の対象と方法」という論文の中で、 Maclverは社会学 を「人間関係の学」と限定し、更に「我々が今社会学を社会の研究としてでなく社会関係の探究 として定義することを始めることに対しては、極めて十分な理由が挙げられる。我々が人間関係 の組織もしくは構造を社会として了解するならば、この社会という表現を用いても何ら混乱を生 ずることはない。しかし我々は『社会』という言葉を屡々、社会的条件のもとに営まれる全生活 すなわち社会的全体内の文化や文明の仝現象を入れる括弧のようなものとして使用する。かくし て『社会的』とは、実際には『人間的』と同意義になり、そして我々の社会学も、百科仝書的に 限界も特殊の徽標も持たないで危険にも拡大されるのである。かかる状態の下では、社会学は全

く文化人の人類学、高級文化の全体研究に変わるO もちろん、このように一切を包括する科学が 試みられてはならないという理由はないのではあるが、それを社会学と同視することは確かに得 策とはいえず、またかかる巨大な企図を人間関係の研究と混同することが危険なのも確実である.」

と主張する(8)しかし、その後彼は1931年に『社会‑その構造と変動‑』、 1934年にE. R.A.

Seligman (1861‑1939)が編集した『社会科学辞典』(Encyclopaedia of the Social Sciences, vol.XIV.)に寄稿した論文「社会学」 sociology) 、更には1937年に『社会‑社会学教科書‑』、

1949年にPageとの共著『社会‑入門的分析‑』等の著書・論文を書いているが、しかしこれ らの研究論文においては、この個別科学的社会学の概念を必ずしも一義的な明確さをもって提唱 してはいないけれども(9)、社会学の学問的性格を個別科学的社会学に限定する彼の社会学観が不変 であることは、彼の所論の行間から充分に読みとれる。なお、社会学をもって社会関係の研究で あるとするMaclverの個別科学的社会学にあって、注目しておかなければならないことに次のこ とがある。つまり、 Maclverは一般に形式社会学の傾向に属する学者であるといわれているが、

これは決して狭義におけるそれを意味しているのではないということである。勿論、社会関係の 事実を基礎的範時と見なす人が形式社会学の傾向に属すると考える場合においてはいざ知らず、

彼が単なる形式社会学者でないということは、彼の関心説を考察する時明白となるであろうM。

IV. Maclver社会学の方法論的特徴‑反自然科学主義的方法‑

前節では、 Maclver社会学の対象の問題を考察してきたので、本節では当然彼の社会学の方法 論的特徴を摘記すべきであろう。

さて、 Maclverはイギリス時代の1914年に脱稿した処女作『コミュニティ‑社会学的研究‑』

の序文で、 「筆者は、物理学や生物学の方法や定式に対する従属から自らを解放することなしに は、社会科学の進歩は決してないであろうと堅く信ずるものである。社会科学は固有の主題をも つと同時に、また固有の方法をもつ(ll)。」と断言して以来、論文や著作を重ねるにつれて強度を加 えつつ、批判の鉾先を社会学史において陰に陽に自然科学的社会学を標梢してきた人びと、例え ばComte, L.A.J.Qu占telet (1796‑1874), H.C. Carey (1793‑1879), V.Pareto (1848‑

1923), G.A.Lundberg(1895‑‑ ), R.Bain(1892‑ )等に向けていくのである。

つまり幾分具体的には、カナダ時代の1921年の『社会学要論』において、 Maclverは、一般的 な見解として科学なかでも自然科学は「測定measurement)にはじまり測定におわる」と主張さ れるが、社会科学は「測定出来るものと測定出来ないものとの混同がごく普通」であり、とりわ け社会学は「内在的な意志」を扱うから、測定出来ない領域が大きな割合を占めており、従って

(7)

社会学は自然科学の量的方法によらず、ドイツの社会学者であるM. Weber (1864‑1920)流の「理 解的説明」(deutende Erkl'arung)の方法ないしは「理解社会学」(verstehende Soziologie)を 採用すべきである、と説くのである(l劫o

その後、 1927年に彼はカナダからアメリカへ移るわけであるが、その頃既にアメリカでは「社 会調査」 (social research)の二大接近法、つまり「事例研究法」 case study method)と「統計 的方法」(statistical method)との間の方法論論争が展開されていた。即ち、「事例研究法」は主と してシカゴ学派のA. W. Small(1854‑1926)の下に集まったW.I. Thomas(1863‑1947), C.A.

Ellwood(1873‑1946), E.S.Bogardus(1882‑ )などによって提唱されていく。しかし、この 方法は社会心理学的傾向を帯びた質的方法に依存するために、そこには主観主義的傾向の欠陥が あったのである。これに対して、「統計的方法」はコロンビア学派の嘩師Giddingsを中心として、

その門下のF.S.Chapin(1888‑ ), W.F.Ogburn(1886‑1959), S.A.Rice(1889‑ ), J.

L.Gillin(1871‑1958)などによって支持されていく。そして、この「統計的方法」はいわゆる量 的客観的調査法であって、先の「事例研究法」における不可避的な主観主義を回避し得ることに よって、その優れた業績をしばしば示すことが出来た0劫oそれ故、「統計的方法」が新たに最も戦闘 的な唱導者Lundbergなどの「新実証主義」の登場によって、次第にアメリカ社会学の主流を占 めていくのであるM

ところが、このLundbergなどの「新実証主義」の主張に対しても、また別の主観的立場から これを批判し反対する人びとがあらわれてきた。つまり、これらの人びとがEllwood, H. P.Fair‑

child (1880‑1956)などであり、 Maclverもこうした人びとの貴先端に立って、社会学における

「新主観主義」を確立していくと共に、彼自身も処女作以来の社会学的アプローチにおける反自然 科学主著的態度を強めていくOちなみに、彼のこうした態度の一端を、先ず1930年代の一連の論文即 ち「社会学は自然科学か」、 「社会学の対象と方法」などの中から読み取ってみると、例えば、

Maclverは「社会学は自然科学か」の中で、社会における主観的現象の重要性を強調し、社会学 は当然この主観的現象をその研究対象として内包すべきであるとし、更に「客観的な観察可能な 資料に関する独占的見解はすべて誤りである」とさえ主張するu90同様に、彼は「社会学の対象と 方法」という論文においても、アメリカ社会学の特質を特にドイツ社会学のそれと比較して、社 会科学と自然科学との間に何ら本質的相違を認めない点に求め、最近刊行されたLundbergを中 心とする論集『ァメリカ社会学における諸傾向』(Trends in American Sociology, 1929.)にお いて、著者の一人Bainが「アメリカ社会学の主要発展線」とみる諸原則の第一に、「社会学は自然科 学である」という主張を提出している個所をとりあげ、この命題は殆ど自明的なものとして述べ

られているが、アメリカ社会学にあってもドイツ社会学の如く、自然科学と社会科学との間に厳 密な区別を設けることが今日最も必要であり、更に量的方法に対しても以下のような批判を行な っている.即ち「現在のところいわゆる量的方法に対しては非常に多大な尊敬が払われているが、

かかる尊重は、それがより狭い有効範囲に制限される限りでは極めて正当なことである。すなわ ち、それは、われわれが測定し数えうべき単位を問題とする如き領域に於ける研究の前段階なので ある。しかし、これらすべては確かにまったく社会学の本来的課題たる社会関係の研究にとって は予備的作業に過ぎないo アメリカに於ては、科学と事実探求とは同一のことを意味しないとい うこと、また前者は体系的知識の全体であり後者はそれへの補助手段であるということ、とが十 分認識されていない。われわれはまた、 『質的』と名付けることが適切とはいえないが、ともかく そう称せられる方法は、量的方法に対する価値の低い暫定的な代用物ではない、ということをも

(8)

アメ1)カ社会学史の一節‑R.M.マッキーヴァ一研究‑ 107

注意すべきであろうO」と000

次いで、このような見解を敷宿して一つの著作にまとめあげた1942年の『社会因果論』では、

Maclverは主観主義の立場を一層拡大し、新たに「事実の内的体制」及び「外的体制」の概念を設 定して、「社会的行為の主観的要因を内包する内的なもの‑の認識は、社会学者にとって絶対的に 欠くことの出来ぬものである」と説いて、アメリカ社会学に支配的な客観主義的偏向に対して、

次のような鋭い批判を加えている。つまり、社会現象は事実として存在する内的体制と外的体制 との相互的諸関係と、その調和より生ずる現象を指す。ここにいう内的体制とは、意識・感情・

欲求・行為の動機を与えるものとしての、意志の複合凝集した体制を意味し、外的体制とは、環 境的要因と社会的表象の複合融解したものを意味する。この両者の相補的諸関係を社会科学は一 義的に追究するが、一方自然科学はこれとは対照的に外的に存在する一切のものの秩序を研究す る。従って、自然科学と社会科学とはその研究対象において根本的に相達しなければならない。

このように社会の研究者はただ客観的な経験可能な、つまりその接近をゆるされる事実のみを取 り扱いはしないために、そのアプローチの方法もまた自然科学者のそれとは異ならねばならない、

と主張する(1カ。

要するに、 Maclverのこうした一連の主張をおさえながら、彼の社会学の方法論的特徴を要約 してみると、社会科学の対象である社会現象は、自然科学の対象である自然現象とは異なる因果関 係をもっている。それは人間現象であり、人びとの行為の背後には自然現象とは異なった社会的 心理的な特殊な複雑な関係が存在する。それ故、それは外部から測定し、自然科学的に割り切る ことの出来ぬ「意味」の世界をもっている。勿論、量的方法も十分利用しなければならないが、

それはあくまでも補助的手段に過ぎない。創造的推理・論理的分析・論理的総合の三つが社会学 的研究における絶対に不可欠な条件となる。けれども、社会現象は複雑な構造をもち、かつ次々 と新しい条件によって変化するものであるから、一挙に完全な把捉を許すことは不可能である。

別言すれば、社会学的アプローチは第一次的接近、第二次的接近、第三次的接近  というよう な漸次に進む方法、つまり「漸次的研究法」 social action approach methods)を必要とする。

なお、この節を終えるにあたって、 Lundberg流の「新実証主義」とMaclver流の新主観主義 的「理解社会学」との論争の、その後の成り行きについて一言附言しておくと、わが国の安Ef]三 郎氏(1925‑ )も指摘しているように(l砂、議論の結着のつかないままに、やがて、Lundbergなど の提唱する新実証主義的な数量的方法が、 Maclver などの「新主観主義」の確立に努める人 びとからの厳しい批判にも拘わらず、次第にアメリカ社会学に浸透していった点は否めない。そ

して今一つ、 Lundbergらの「新実証主義」とMaclverらの「理解社会学」との論争の過程から、

S.M.Lipset(1922‑ ) , R.Bendix(1916‑ )などの中間派ともいうべき立場があらわれて きた(19)点も見逃してはならないであろうo

V. Madver社会学の発展(1)一社会構造論に関して‑

第一に、 Maclverが社会構造を分析する際、最も重視したコミュニティ概念の意味内容が、初 期の著作と後期のそれとの間で、修正されている点をとりあげたい。

先ず、コミュニティ概念について考察してみると、既に私は世界の社会学界には三種の指導的 なコミュニティ概念、つまり一つは、Maclver,イギリスの政治学者G.D. H.Cole(1889‑1959), 同国の社会学者M. Ginsberg (1889‑1970)などが提唱するコミュニティ概念‑従って、松本潤

(9)

一郎氏(1893‑1947)の如きはかかるコミュニティ概念を英国社会学の貢献に属するものである という帥‑であって、これは要するに広狭いずれにせよ人びとの生活の全領域にわたってさまざ まな関心を共有して、ある程度自足的な社会生活の営まれる地域の全体を意味する上位概念的コ ミュニティ概念(generic community)であり、他の一つは、第一の上位概念的コミュニティ概念 とは鋭く対立するところの下位概念的コミュニティ概念(specific or particularistic community) であって、これはコミュニティを大小様々の地域的集団の中からある特定の‑種類にのみ当ては めたものであって、その主流はアメリカ農村社会学のコミュニティ概念であり、残る一つは、ア メリカの人間生態学ないし社会生態学(human ecology or social ecology)における生態学的コ ミュニティ概念(ecological community)であって、これは人間共同生活において人びとが生物学 的生活環境に適応して生きるいわば生態学的アスペクトを指すのであるが、以上の三種のあるこ

とを指摘しておいたか伽、ここでは、Maclverのコミュニティ概念に対して、他の二種のコミュニ ティ概念を支持する人びとから、どのような批判が加えられているか、更にはそうした批判の下 にあって、意識的にか無意識的にか、彼自身コミュニティ概念の意味内容を初期の著書と後期の 著作とで、具体的にどのように変化させているかを、幾分なりとも明らかにしてみたい。

さて、 Maclverは1917年の『コミュニティ‑社会学的研究‑』において、コミュニティを

「共同生活の一定領域物」と定義し、更に幾分具体的に「私は、コミュニティという語を村、町、

地方、国、更にはもっと広い地域さえ含めた共同生活の一定の地域を意味する。コミュニティの 名に値するのは、この地域がより広い地域から何らかの仕方で区別されていなければならず、こ の共同生活はこの地域の境界が何らかの意味をもつようなそれ自身のある特徴をもっていてよい のである脚。」と主張しているところをみると、 Maclverの考えるコミュニティは、要するに、広 狭いずれにせよ人びとの共同生活の営まれる地域の全体を意味する上位概念的コミュニティ概念 であって、具体的には村(village)とか、町(town)とか、都市city)とか、地方(region)とか、国 民社会(nation)とか、更には人類世界(universitas kumana)とかをコミュニティと考えるOこの ように、 Maclverの処女作『コミュニティ‑社会学的研究‑』におけるコミュニティの意味 に村落とか都市とかを意味する地域社会(集団)と、国民社会とか人類世界とかを意味する全体 社会との二義があるけれども、明らかに同書に関する限りは、後者の全体社会を意味する用法が 支配的であるといえよう。何となれば、 Maclver自身が同著の第二版序文で、「本書のアイディア はその内容が法学または政治学のような諸特殊科学によっておおわれない社会の真の科学、統一 体としての社会、即ちコミュニティの科学が存していることを指示するにある伽。」といっている が、彼はこの場合、コミュニティをもって統一体としての社会、即ち全体社会と全く同一のもの

とみなしている。更に彼は本文の中でも、 「コミュニティの仝実在を理解するためには、人びと の際限なき無組織の関係を考慮に入れなければならない鵬」と記し、また「コミュニティは意志間 の数えきれない全体系¢6)」と記すように、それをしばしば「社会」(society)そのものとしての「全体 社会」(total society)を意味するものとして用いているからである。それ故、高田氏の如きも1922 年に出版した『社会と国家。という著書の中では、 「マタイバアの共同社会(コミュニティ‑

筆者註)が全体社会を意味する点には寸秦の疑いもない¢乃O」と述べているほどである。

ところで、 Maclverは第一作で用意した地域社会(集団)と全体社会との二義のあるコミュニ ティ概念を、その後どのように使用していったであろうか。先ず、 1921年の『社会学要論』では 彼は処女作同様コミュニティを地域社会(集団)と全体社会との二義に用いているとはいえ、ア クセントを全体社会に置いているようである。例えば、その証左は、彼がコミュニティを社会の

(10)

アメリカ社会学史の一節  R.M.マッキーヴァ一研究‑ 109

段階的な発展の諸形態を示す概念としても用いている個所に最もよくあらわれている。つまり、

彼の見るところでは、社会進化の過程は(1)血族社会(kin community) 、 (2)村落社会(village community)、(3)都市社会(city community)、 (4)封建社会(feudal community) 、 (5)国民社会(nation

community)の五段階があるとしているが朗)、この場合のコミュニティ概念の用法は、明らかに「社 会」  ety)と殆んど同じ意味で用いられているからである。

さて、 Maclverの初期の二著作における上述の如きコミュニティ概念に対しては、他の二種の コミュニティ概念、つまり生態学的コミュニティ概念や下位概念的コミュニティ概念を提唱する 人びとから、次のような厳しい批判が出てきた。即ち、先ず、アメリカ人間生態学の父といわれ るR.E.Park(1864‑1944)は、知られるように、アメリカ社会学を哲学的思索に基づく社会学か

ら帰納的理論としての科学的社会学に転換し、実証的社会学の伝統を築いた代表的社会学者の一 人であるが、その彼にとっては、確かにMaclverの『コミュニティ‑社会学的研究‑』でい われるコミュニティ概念は、 Spe 、 L.T.Hobhouse(1864‑1929)にはじまるイギリス社会学 の伝統と同じくイギリス流の経験主義とを盛り込んだ極めて哲学的な問題提起を含んだものであ るために、実体のない(insubstantial)、未熟な(jejune)ものとしてしかうつらなかったようであ る¢9)。また、次いで、アメリカ農村社会学者の一人であるE. D. Sanderson(1878‑1944)も1932年 に出版した『ルーラル・コミュニティ‑社会学的集団の自然史‑』{The Rural Community:

The Natural History of a Sociological Group)の中で、次のように主張するo つまり、

Maelverは初期の諸著作において、コミュニティの語を地域によって決定されるどんな集団にも 適用するのであって、あたかも昆虫も晴乳類も共に動物であると同様の意味で、局所的なルーラ ル・コミュニティ(local rural community)も国家(state)一 厳密にいえばMaclverは国家をア ソシエーションの一つと考えているけれども‑ないし国民社会(nation)も共にコミュニティと している。 Maclverのこのような用法では、コミュニティの語は結局実際的には、 「社会化されて いる状態」 a state of socialization)と同意語に過ぎない。しかしながら、局所的なルーラル・

コミュニティにしろ、国家ないし国民社会にしろ、われわれが科学的に処理する限り、それらの 間の構造と機能とにおける本質的な差異を認めなければならないことは不可欠のことであるO か くして、かかる局所的なルーラル・コミュニティと近代都市(modern city)や国家ないし国民社 会との差は、単なる程度の差(difference in degree)だけでなく、痘痕ゐ蓋(difference in kind) でもある、と¢0)0

ところで、こうしたアメリカの人間生態学や農村社会学のような、極めて実証性の高い社会学 からの厳しい批判の下で、その後一連の『社会』と題する著、即ち1931年の『社会‑その構造 と変動‑』、 1937年の『社会‑社会学教科書‑』、そして1949年のPageとの共著『社会‑

入門的分析‑』といった著作、を重ねていく中で、 Maclverのコミュニティ概念にも次p)よう な意味内容の変化があらわれてきた。それを先ず結論的に示せば、初期の著作にあらわれていた コミュニティに顕著なイギリス流の思想性が、その後の『社会』という一連の著書では大きく後 退し、かわってアメリカ的な科学的概念としてのコミュニティが地域社会(集団)を前面に出し て精緻化されていくが、同時にこのことは、初期の著作にあらわれていたコミュニティの全体社 会と地域社会(集団)の二義のうち、 『社会』という一連の著作では、コミュニティが専ら地域社 会(集団)と規定され、全体社会を把握する概念として新たにソサイエティ(society)の概念が 明確に設定されていく点とも関連しているということである。それ故、この変化を主として処女 作と1949年のPageとの共著との間より幾分うかがってみると、先ず、コミュニティに顕著なイギ

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リス流の思想性が大きく後退した点であるが、それは、処女作の中でMaclverが自己の見解の拠 り所としたものの多くがSpencer, Hobhouseその他イギリスのJ.S.MilK1806‑1873), A.Mar‑

shall(1842‑1924),H.J.Laski(1893‑1950)等の学者であって、アメリカの学者としてはL.F.

Ward(1841‑1913), Small, E.A. Ross (1866‑1951)が僅かに一、二個所登場してくるのみで あったが、後のPageとの共著では、それが逆転し、 W. G. Sumner(1840‑1910), Cooley, Park, Ogburn, Sorokin, T. Parsons(1902‑  等数え切れない程のアメリカ社会学者が登場してく るのみならず、彼等の所説を採用しつつ自己の見解を開陳している点にあらわれている。次いで、

初期の著作ではなお不明瞭であることを免れなかったコミュニティ、ソサィエティの概念を、後 期の著作では整理して、コミュニティを地域社会(集団) 、ソサイエティを全体社会と規定した 点であるが、この点に関しては、 Maclverは共著で先ずコミュニティを定義して、「如何なる集団

もその大小の如何に拘わらず、人びとが特定の関心を分有するのではなく、共同生活の基本的な 諸条件を分有しているような形で共同生活をしている場合、その集団をわれわれはコミュニティ

と呼ぶ60。」といっているが、既にこの定義からも明らかなように、彼は確かにコミュニティを集 団として認識している。そして、このことは同書に掲げている社会構造内の集団一覧表をみれば 一層明瞭となろう。つまり、そこではMaclverは(1)包括的地域的統一体としてのコミュニティ、

(2)明確な組織をもたか‑関心的・意識的統一体としてのカスト、階級、群集、 (3)明確な組織をも つ関心的・意識的統一体としてのアソシエーション、の三種の集団形成(groupings)を考え、そ れらをいずれもソサィエティに下属するものとして捉えている¢物,らであるoこれに対して、Page

との共著で彼はソサイエティを社会関係の押(the web of social relationships)と規定してい るが¢3)、このことは、実は古来より社会の本質に関する対立的見解と見なされてきた社会実在論 と社会名目論の一方性を克服して、人間的主体に即した関係として捉えることを意味している。

だから、一方において人間的主体を実在的に肯定すると共に、この主体は社会を離れては存在し 得ないし、同時に関係はまたこの主体を通して発現することによって現実的たり得るということ を意味する。そして、彼が「現代のソサイエティには多くの範囲と程度のコミュニティがある帥」

といい、既述の如く、ソサイエティに下属する集団としてコミュニティ、アソシエーション等を 掲げている個所をみる時、最早ソサィエティが全体社会を意味する概念として使用されているこ

とは疑う余地がない。それ放、高田氏の如きも1950年に出版した『改訂社会学概論』においては

「ここにいう全体社会の概念に当るものとしてはギデイングスのintegral societyがあげられるで あろうOマキヴァアのsocietyがそれに当ると思う09」と改めざるを得なくなったのである。

なお、 Maclverの初期の著書でのコミュニティ概念の意味内容の不明瞭は、別の見方をすれば 同書ではコミュニティの内包及び外延、特に外延についての厳密な規定を怠っている点に由来し ているとも考えられるのではなかろうか。つまり、コミュニティの内包についていえば、それは 包括性、即ち従来しばしば用いられてきた言葉で置き換えれば自給性、自足性の程度であるが、

その点に関して彼が「社会生活のなにか全体的な領域」としてコミュニティを認識したのは、明 らかにコミュニティの包括性についての強調であった。これに対して、コミュニティの外延につ いてみると、それは日常性、即ち日常生活における生活圏城の直接的な拡がりと人びとの直接的 な接触を意味しており、それは確かに交通通信の発達によって拡大されたとはいえ、比較的限定 された地域的空間‑従って全体社会のレヴェルにまで拡大されず‑におさまっている。それ 故、この日常性についての厳密な規定を欠くために、彼の初期の著作では、コミュニティの概念 を地域社会(集団)の部分社会(partial society)と国民社会や人類世界の如き全体社会を含むもの

(12)

アメリカ社会学史の一節 ‑R.M.マッキーヴァ一研究‑ 111

として観念することになったのではなかろうか。かくして、 Maclverの初期の著作のように、コ ミュニティの概念を部分社会及び全体社会を含むものとして定義することは、生活の全体性(包 括性)の点においては適当であるにしても、日常性という点になると疑点があると同時に、全体 社会の面を強調すれば、コミュニティの最も重要な属性の一つと考えられる個人と全体社会を媒 介する中間集団としての意味を、看過ないし過少評価する危険性を内包しているといえよう¢Oo

第二に、第一の点とも幾分関連するが、 Maclverが処女作『コミュニティー社会学的研究‑』で は全然論じなかったところの、コミュニティの主観的基礎としてのコミュニティ感情(community sentiment)を、何故に1949年のPageとの共著では、「コミュニティの基礎は地域性(locality)とコ ミュニティ感情である的」といって、コミュニティの客観的基礎としての地域性と共に、あえてそ れを強調しなければならなくなったかについて考えてみよう。

先ず、 Maclverは処女作『コミュニティ‑社会学的研究‑』においては、主としてコミュ ニティが発生し、成立するプロセスを論究する結果、コミュニティの客観的基礎としての地域性 や共同関心(common interest)を強調する反面、コミュニティの主観的基礎を看過することにな ったのに対して、後のPageとの共著『社会‑入門的分析‑』では、一旦成立したコミュニテ ィが存続し、発展する過程を主として論述する結果、コミュニティの客観的側面としての地域性 と共にそれの主観的側面であるコミュニティ感情を重視することになったのであろう。何となれ ば、コミュニティの存続していく過程において、各人が各自様々にその中で社会的欲求を充たし

ながら無限に複雑多様なる接触をするが、そこに何等かの主観的因素つまりコミュニティ感情が なければコミュニティの存続は約束されないと少なくとも私には考えられるからである。それ故 Maclverのコミュニティ分析のこうした視点の移行が、彼をしてコミュニティの主観的基礎とし てのコミュニティ感情を強調するに至った理由の一つと思われる。

次いで、 Maclverがコミュニティの主観的側面を強調しなければならなくなった一因に、また 以下のことがあろう。即ち、 Maclverは1917年の著作では、コミュニティを人間の共同生活

common life of beings)または社会的存在者の共同生活活動^common living of social beings)と 規定する88)oところが、共同生活が如何なる意味内容のものであるかについては、彼自身明確な説 明を欠くが、思うにこの共同生活は人びとの存在を前提とし、彼等の社会的相互関係、意志され た関係の網ないし意志間の関係の不可測なる全組織を内容とするものであって、それは極めて一 般的、抽象的なものである。それ故、 「共同生活」の具体的な内容の規定が不充分であるから、共 同生活の一定領域としてのコミュニティを具体的に確定することも、自ら困難なこととなってく

る。事実彼自身も「コミュニティとは程度の問題ないし事柄(a question or matter of degree) である」ということを認めている@9)。更に、最近の日常生活における交通・通信機関の発達による 人びとの移動の増大は、ますますこの地域という基準からするコミュニティの識別を難しくする。

これが彼をしてPageとの共著でコミュニティ感情をコミュニティの要件として重視するようにな った一因とも思われる(40)。だが、かつてM.R.Stein(1926‑ )が1960年に出版した『らミュニテ ィの消滅』(The Eclipse of Community)というショッキングな題名を付した著書の中で、産業 化、官僚制化、都市化によって、現代アメリカのコミュニティは消滅しつつあることを力説した。

しかし彼の論旨を辿ってみると、消滅するコミュニティは一つの社会心理学的コミュニティであ って、コミュニティ自体の消滅を意味しない。「われわれ感情」とか共属感、いわゆるMaclverの いう「コミュニティ感情」に当たるものの消滅である。確かにSteinのいうように、コミュニティ の心理学的基盤と情緒的表出とが、とりわけ大規模な都市から失なわれつつあることを認めざる

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をえない(軸。それ故以前に比べてコミュニティの客観的基礎としての地域性のもつ比重が小さくな ってきたと同様、コミュニティの主観的基礎としてのコミュニティ感情のもつ比重も小さくなっ てきていることも見落としてはならないであろう。

続いて、既述の如く、 Maclverは初期の著作では地域社会の包括性を強調したが、後のPageと の共著ではむしろ地域社会の日常性を問題にするようになったと指摘したが、同時にこのことが コミュニティの主観的基礎としてのコミュニティ感情を強調する一因と更になったとも考えられ る。即ち、一般の人びとの日常的生活の直接的な拡がりは、さまざまなコミュニケーション手段 の発達に拘らず、依然として一定の限界があることは否定し得ないであろう。そして、一定の領 域において人びとが日常緊密な接触を保って営む生活から、自ら生活方法を共有するという意識 つまりコミュニティ感情を育成することは極めて自然をことであるO かくしてMaclverはコミュ ニティ感情の三要素として、 (1)われわれ意識(we‑feeling)一 分割不可能な統一体に自他の意識 なく共に参加しているという比較的情緒的な意識、 (2)役割意識(role‑feeling)‑集団内の自己 の位置ないし持ち場の感情、 (3)依存意識(dependency‑feeling)‑ コミュニティ‑の物質的、精 神的依存の感情、を挙げ、これらは人びとが共に生活しさえすれば自然に生ずる、と説くのであ

aa

第三に、 Maclverが初期の諸著作『コミュニティ‑社会学的研究‑』及び『社会学要論』に おいて、社会関係を捉える基本概念として「態度」 (attitude)の概念を全然使用していなかったが、

特に1937年の『社会‑社会学教科書‑』以降、それを今一つの「関心」 (interest)の概念と共 に、何故に強調しなければならなかったかについてしばらく考えてみよう。

さて、 Maclverは処女作『コミュニティ‑社会学的研究‑』において、社会関係を一般に 意志された人びとの関係とみたが、この場合意志はかならず対象をもち、意志された関係はすべ て意志の対象の存在を媒介にしてのみ成立する。しかし意志の向けられる対象は物資その他の対 象物ではなくて、それの所有や使用のもたらす満足であり(43)、この意味の意志の対象が彼において は「関心」と呼ばれる。このようにMaclverの関心は意欲の対象たる満足の状態をいうのであっ て、満足とは所詮心の状態であるo それ故、彼の初期の著作におけるこのような用法では、関心

をあまりにも意識に内在化せしめているといえる。

ところが、その後Maclverが『社会学要論』より『社会‑その構造と変動‑』へ、更に『社 令‑社会学教科書‑』 、 『社会因果論』 、そして『社会‑入門的分析‑』と著を重ねる につれて、関心の内在性よりもそれの外在性をますます強調するようになっていった。例えば、

彼が『社会因果論』の中で、 「われわれはわれわれの対象の獲得の追求の中に満足を得る。しか し対象は対象が生む満足と同一視されてはならないo もし人びとが対象を得ることの中に快楽を 見出すならば、それはただ彼が前もってそれらの対象を欲したからであり、快楽が欲せられた対 象であるからでないM 」というが、この文章は先の「関心」の内在観を訂正するものと考えられ る。何故ならば、満足は行為がその途中または後にもたらすものであって、必ずしも行為の目指 すもの(「関心」)ではなく、また関心は心の中にあるのではなくて心の求めるものであって、そ れは最早主体の中にあるのではなくて客体の中にあることを意味するからである(梱O かくして、

Maclverのかかる用法での「関心」は「行為を誘発し、当行為の目的となろうとするもの‑即 ち主体的行為者の動に変ずべき位相態の一定の方向性を与えるもの(40」として理解されるべきであ ろうo

このように、確かにMaclverの場合「関心」はその価値ないし意味において、意志主体に内在

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アメリカ社会学史の一節 ‑R.M.マッキーヴァ‑一研究‑ 113

しているにしても、事実ないし存在におけるその客体性(「関心」の対象のもつ客体性)に重点が あるのであり、彼か初期から後期への既述の一連の著作を重ねるにつれて、 「関心」の内在性より

もかかる外在性を益々強調するようになってきたが、このことが後期の著書において、 「態度」の 概念を導入することになったことと、少なからぬ関係があるようである。というのは、社会関係 の客観的な側面を「関心」で説明するには好都合であっても、それの主観的で内面的なアスペク トを説明出来ないので、 Maclverは後期の著では「態度」の概念を導入して、この概念でもって それを説明しようとしたからである。つまり、 「関心」と「態度」とはそれぞれ現実の相互依存 活動を規定するものである。そして「関心」は意識の客体(the object of consciousness)にある のに対して、 「態度」は意識の様式the mode of consciousness)である。 「関心」は主体的態度に 相対的な対象であり、 「態度」は対象に相対的な主観的反応である。 「関心」と「態度」つまり「客体」

と「主体」は相関的であって、いずれを欠いても社会的行為を明らかにしえない。前者は客観的 関係を説明し、社会関係の外面を、後者は主観的関係を説明し、社会関係の内面を構成する。両 者の綜合によって社会関係が理解されるのである(4カ。なお、 「関心」と「態度」の区別が集団の分類に 際しても適用されていること、即ち、コミュニティや階級はどちらかといえばより直接的な社会 的「態度」を表明するが、アソシエーションは機能社会であるために社会的「関心」に対して一 層密接な関係を有していることも、決して見落としてはならないであろう。

VI. Madver社会学の発展(2)一社会変動論に関して一

続いて、この節では、 Maclver理論社全学における社会構造論と共に、今一つの柱である社会 変動論について、彼が処女作以降一連の著作を重ねていく中で、どのような理論的発展もしくは 変化をさせているかを主として検討してみたい。

先ず、 Maclverは1917年の処女作『コミュニティ‑社会学的研究‑』において、社会の変 動を論ずるに際して、社会を「過程」(process)として捉え、その展開に当たっては専ら「発展」

(development)の概念を採用する。即ち幾分具体的には、 Maclverは先ず社会発展の方向を基本 的には「未開から文明へ」として捉え、原始の同質社会よりも現代の異質な文明社会の方が社会の発 展において成熟していると主張する(ォ,次いで彼は社会の発展つまり文明化を、集団ないし社会のレ ヴェルにおけるアソシエーションの激増とコミュニティの分化及び拡大、個々人の次元における 個性化(individualisation)と社会化(socialisation)の調和的発展、と認識する。そこで第一に、

Maclverが社会の発展を集団ないし社会のレヴェルにおけるアソシエーションの激増として捉え る点からみていくと、彼は社会の発展を人びとがより多くの関心とより高度の関心を満足させる ことによって理解する。それ故彼のこのような理解にあっては、関心はその追求のために各種の 無数のアソシエーションを生み出し、それが共同生活を以前にもまして豊かにし、従ってある意 味では社会の発展の歴史はアソシエーションの増大の歴史ということになる(49)。第二に、彼が社会 の発展を集団ないし社会のレヴェルにおけるコミュニティの分化と拡大として捉える点をみると、

コミュニティの分化は外面的にはコミュニティにアソシエーションが無数にあらわれてくる過程 であり、各種のアソシエーションは固有で独自な機能をもつものであるから、確かにコミュニテ ィに対するサーヴィスの面での充実となってあらわれてくるM また、コミュニティの拡大は大な るコミュニティの形成であるが、しかしここで注意しておきたいことは、その大なるコミュニテ

ィの形成が決して小なるコミュニティを無用なる残存物として廃止しはしないということである伍か。

(15)

別言すれば、大なるコミュニティの形成はより普遍的な欲求に根ざすものであり、そこには疎遠 な人格や抽象的な原則が働くのに対して、小なるコミュニティは大なるコミュニティでは充足す ることの出来ない親密な欲求、つまりより深く感性に根ざした欲求に基づくものであって、この 大小のコミュニティが相互に補充しあう関係にあるところに、われわれの生活の豊かさが保証さ れてくるのである6砂Oでは第三に、 Maclverが社会の発展をその構成月たる個々人の次元における 個性化と社会化の調和的な発展として捉えている点をみると、ここにいう彼の個性化とは、社会

を構成する個々人が「より自律的存在 autonomous being)に、つまり彼自身には固有の価値や 真価があるものとして、承認し承認される自己指導的で自己決定的な一段と独自のパーソナリテ

ィになる63)」ことを意味するo これに対して、社会化とは「人間が社会に一層深く根を張る過程、

つまり人間の社会的諸科学がより複雑かつ広範囲になる過程、人間が仲間との関係を増大させ、

発展させることにおいて、またそのことを通じて彼の生活の実現を見出す過程を意味する糾。」し かしながら、 Maclverにおいては個性化と社会化とは対立矛盾するものではなく、サイコロの表 裏のように、盾のそれぞれの半面である。しからば、サイコロそのもの盾そのものに相当するも のが何かといえば、彼にあってはそれはパーソナリティである。要するに、 Maclverの考える社 会発展の方向はパーソナリティの完成への方向であり、個性化と社会化とはそのあらわれに過ぎ ない、ということになる69。

.さて、その後Maclverは1921年に『社会学要論』及び1931年に『社会‑その構造と変動‑』

の著をあらわしていくが、そこでは処女作で「『進化』という語は、いろいろの点で極めて暖味で あるので、当面は論議から除いておきたい66).」といわれた、その「進化」(evolution)の概念が「発 展」にとってかわって登場し、 Spencer, Hobhouse以来のイギリス社会学の伝統に一層立脚した 進化論的社会変動論が展開される.つまり、 Maclverの場合社会「進化」は「分化」 (differenti‑

ation)を原画としているo従って分化が社会的構造と機能において行なわれることが社会進化な のである。この社会進化は人間社会の歴史において否定しえない事実として認められる。原始社 会と近・現代社会とを対比すればこのことは・明白となる。即ち、原始社会は物質とその潜在的エ ネルギーを含む自然領域、直接的生命現象を含む有機的存在領域、心理・精神現象を含む意識的 存在領域がカオス的に交錯複合しあっており、また、意識的存在領域内における文化秩序、技術 秩序、社会秩序も未分化のまま、微弱なその存在理由を断続的にあらわしているに過ぎない師.

しかるに、近・現代社会はアソシエーションがその数を増し、分化・特殊化の変転を経て、その 機能を明確・単純なものとするかたわら、これをさらに能率化し、またその機能範囲を増大して 既存のコミュニティ圏の拡張を刺激するようになる。このようにして近・現代社会は初期の画一 性に代替されるその多様性において、パーソナリティのより高度の発展を促しつつ、ますます特 性化されていくのである68).このように、確かにMaclverは「発展」にかえて「進化」の概念を導

入したとはいえ、その進化の主要な方向を未開社会から文明社会‑として捉えると共に、構造及 び機能の分化、なかでもアソシエーションの増加とみる点では処女作と殆ど変化はないo Lかし ここで一つだけ注目しておかなければならないことに、 『社会学要論』及び『社会‑その構造と 変動‑』において、彼は「進化」と「進歩」 (progress)とを混同してはならないことを強調し ていることがある。例えば、彼が「未開人が奴隷の助けを得てより高度の社会組織をつくりあげ る場合、それは確かに進化ではあるが、そういいうると同様に進歩であるといえようか。われわ れの文明は物品を増し、機械化され標準化された常規によるサーヴィスを増大せしめた。しかし 都市化によって生活が便利になり刺激が多くなるとともに、人口の密居集中が生じ、自然と自由

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アメリカ社会学史の一節 ‑R.M.マッキーヴァ一研究‑ 115

に接触することが出来なくなった。この利得と損失とをそれぞれの全体的な発生状況において計 量することは危険な個人的判断となる。しかしかかる評量は進歩のあらゆる属性の中に含まれて いる69).」というが、これは社会科学者が認識の領域にある「進化」の概念と評価の問題である「進 歩」の概念とを混同してはならないと同時に、後者の「進歩」の概念を社会の現実に存する価値 の多神教の故に、排除すべきであるとするMaclverの警告である。そして、このことは彼自身も 認めているように、明らかにM. Weberの「価値判断排除」(Wertfreiheit)につながる問題を内包 しているォ.

ところが、その後Maclverは1949年にPageとの共著『社会‑入門的分析‑』を著わしてい るが、そこでは「進化」の概念を警戒しながらも用いてはいるが、文字通り「変動」 (change) の概念を多用する。また「発展」の概念も厳密にいえば価値判断を含むのか、そこでは殆ど姿を 消す。そして、初期の諸著作と後のPageとの共著との間にみられる社会変動論に関する大きな相 違は、初期の諸著作ではイギリス社会学の伝統を受け継ぐ社会進化論的色彩が濃い社会変動論で あって、専ら社会進化の主要法則を兄いだすことにMaclverは主力を注いでいるのに対して、後 期のPageとの共著では、むしろ彼は今日の社会学的変動論、特にアメリカ社会学の特質である技 術動因論によって、社会変動論を展開することに努めている点である。即ち、MaclverはPageと の共著『社会‑入門的分析‑』において、周知の「文化遅滞説」 (cultural lag)で著名なア メリカの社会学者Ogburnの所論を批判的に摂取しつつ、 「近代社会の重要な問題はすべて技術的 変動(technological change)により開始されたか、あるいは少なくとも影響されて発生したとい

っても過言ではない(61) 」と主張して、社会変動における「技術」(techniques)の意義を重視し、こ れをかなり詳論する。だが、残り少ない紙数のために、ここでは必要な限りにおいて彼の所論を 摘記することでとどめようO さて、 Maclverは社会変動の条件として、先ず環境をとりあげ、人 間とその環境との変化が人間と人間との関係に変化を起こさせるとみる。したがって、彼にあっ ては社会変動は人間が自己の外的条件を征服しようとする努力の副産物なのである。次いで彼は この物的環境の変化と人間関係の変化ということに、社会変動における技術の意義を兄いだすの である。つまり、人間はその欲求を充たそうとして環境を変化させ、ここに技術を発達させる。

そして、この技術を利用して新たな社会変動を起こさせると彼は解するのである。続いて彼は社 会変動における文化の問題を論じて、 Ogburnの「文化遅滞説」に触れ、その意義を認めていると はいえ、 Ogburnのように物質的文化(material culture)と非物質的文化(non‑material culture) とを区別することは不適当であり、更に「遅滞」(lag)という用語も暖味であるとして、遅滞現象 を基本的技術と高度の技術的な政治的・経済的組織との不調整に限定すべきであり、この意味に おいて、文化的遅滞をむしろ正確には「技術的遅滞」(technological lag)と呼ぶべきである、と批 判する(6功。だが、最後にこのように、確かに、 Maclverは社会変動における技術の意義を重視して はいるが、決して技術を究極的変動要因とはみなしていないということに、特に注意しておかな ければならないo つまり、彼は社会変動における一義的決定論にあくまで反対する立場をとって いる。それ故、彼が広く知られる唯物論的歴史観を説いたK.H. Marx (1818‑1883)にかなり影 響されながらも、それにあえて反対しているのも、マルクス主義の変動論が一義的決定論である

と考えたからである。そこで、 Maclverは自己の社会変動論において、生物学的要因(主として 人口)、技術的要因、文化的要因が相互に関連しながら、社会変動をもたらす過程を分析すること を課題とし、技術的変動が社会関係のすべての重要な側面を決定するというような結論を急いで 出すことに対して、極力警戒しなければならないとしながら、なお、社会は、絶えず技術的変化

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