埼玉大学紀要 教育学部
,5 7( 2 ):5 7 ‑7 2 ( 2 0 0 8 )
教育会 と教員組合
一教育 ガバナ ンス論の視点か ら一
森川 輝紀 *
キーワー ド :教育会、教 員組合 、沢柳 政太郎、埼 玉県教育会、信 濃教育会
は じめ に ‑ 「学政 の方法」‑教育 ガバナ ン ス論 と しての教育会一
岩倉使節団の文部担当理事官田中不二麿 に与 えられた課題は 「各国教育 ノ諸規則、乃チ国民 教育 ノ方法‑‑現二行ハルル景況 トヲ親見 シ、
之ヲ我国二採用 シテ施設スヘキ方法 ヲ日的 トス へシ」(「事由書 (
‑)
」大久保利謙編 『岩倉使節 の研究』宗高書房19 76
年)であった。国民教育 の内容 ・方法の調査 とともにその制度化の方法 についての調査が課題 となっていた。 また森有 礼 は 「学政ノ目的ヲ明瞭ニシ之二速スル方法 ヲ 確実」 (奥羽地方学事巡視中の演説)『新修森有 礼全集』 2
巻)にと、その制度化の方法に腐心 することになる。田中 ・森のいう国民教育制度 を実体化するための方法 を 「学政の方法」 とい うことにする。まずは 「学政の方法」 を教育ガバナ ンス論 と 等置することについてのべ る。ガバナ ンス論は、
1 9 7 0
年代以降、社会科学的用語 として多用 され ることになる。その背景には、ガバメン ト (国 家統治)概念で包摂で きないような現象が顕在 化 したことであった。たとえば、環境問題、社 会的アクターの活発化などが上げ られる。 日本 にあっては、行財政改革 と行政サーヴィス、あ書埼玉大学教育学部総合教育科学講座
るいは地方 自治論 に対応 して頻繁に使用 される ことになる。 とはいえ、明確 な概念規定が存在 しているわけではない。共通 しうるのは、国家 一 国民の対概念 を基本にするガバメン ト概念に 包みこめない意味をそこに込めていることであ る。ここではとりあえず「ルールの設定、運用、強 制にかかわる方向づけ」 という一般的な理解 に 立つ ことにする。そのアプローチ も①行政組織 の改革、②市場原理の導入、③政策ネッ トワー クなど多様であるが、国家の干与、ない しは行 政官僚制の発達を阻止 し、共同体の市民性 ・専 門性 にもとづ く、教育問題の解決をめざす行為 を教育ガバナンス と解することにする。
教育問題 にかかわる共同体的ガバナ ンス論の、
近代 日本 における系譜に教育会 を位置づけるこ とを課題 としたい。当然、そのことは国家、行 政官僚組織への抑止の意味 と同様に、共同体の 個 々の成員への抑圧的側面にも留意することに
なる。
(‑)田中の教育議会構想 と民衆 自奮
近代 は国民国家の時代であ り、近代教育は、
その国民の形成 という普遍的課題 を担 うことに なる。 しか し、次世代の育成 という教育的営為 は、また、人類に普遍する営みであ り、人々は、
その地域の自然性、文化性にもとづ く人間形成
‑ 57 ‑
の方法 を蓄積 して きてお り、その国民教育の制 度 ・方法 は、その限 りにおいて多様であ り個性 的な ものであった。欧米で発達 した国民教育制 度 をモデルに出発す る 日本の近代学校制度 も、
また、いかなる国家 をモデルにす るかによって、
さ らに 日本 の教 育文化 をいか に認識す るか に よって、その方法は異 なることになるのは当然 のことであった。
日本の近代学校制度の出発点 となる 「学制」
は、 フランス型の学区制 と中央集権的教育行政 システム とアメリカ型の教授論 によって構成 さ れていると解 されている。掲 げた理念 は、知識 才芸重視 の 開化 主義 であ った。 しか し、 この
「学制」 を、本来、 日本の近代教育制度 を構想 すべ く欧米 に派遣 されて、米国での調査 をおえ 欧州 に滞在 中の田中不二麿 と木戸孝允 は 「百端 粉飾」の開化主義であ り、欧米の近代教育、国 民教育制度の本質 を捉 えた ものではない と批判 していた。つ ま り、国家の統制主義 によっての み学校制度は発展す るものではな く、 また、知 性 は徳性 に裏付 け られた ものでな くてはな らな いことを認識 していた。ただ し、徳性 に裏付 け られた知性 の形成 としての国民教育の構想 は、
彼等 に して も困難なことであった。欧米社会 は キ リス ト教 を道徳的基盤 としてお り、彼等がキ リス ト教 を国民道徳の前提 としている点 に同意 しつつ、 日本の近代化 にあって、道徳的基盤 を 何 に求めるべ きか、その困難性 を田中 も木戸 も 痛感 していた。それ故 に、田中は国民教育 を普 通教育 と愛国心教育 と道徳教育の三領域か ら構 成す るも道徳教育の内容 ・方法 について具体化 の展望 を持 ちえなかった。愛国心教育は、歴史 ・ 地理 ・言語教育 によると展望 したが、道徳教育 については、家庭教育 に待つべ きとその場 を設 定す るにす ぎなかった。
田中が確信 を持 ちえたのは、学政の方法 とし ての、つ ま りは教育 ガバナ ンス論 としての統制 主義か 自由 (治)主義かの問題であった。田中 はアメ リカ流の 自由主義論者 として後 に批判 さ れ、定説化 してい くが、彼 を自由教育主義者 と
評価す るのは事実に即 していない といえる。田 中は、欧米視察の成果 を 『理事功程』全
1 5
巻 に まとめているが、そ こに見 られる学政の方法論 は、統制か 自由かの二元論 ではなかった。た と えば、 ドイツ編 にイギ リスの視学官パテイソン の ドイツ教育 についての レポー トを翻訳転載 し ている。そのパ テイソン報告 は、 ドイツではプ ロシャの学政の方法は自治主義であ り、ブラン デ ンブルグでは統制主義 をとっていること。そ の結果、プロシャでは住民が 自発的に学校教育 に参加 している点 を評価 し、対 してブランデ ン ブルグでは干渉主義の結果、住民の 自主性が見 られない と指摘 している。 また、田中は、 ドイ ツの統制主義 (義務教育の強制主義)は、ルター 以来の教育 を義務 とす る宗教観 にもとづ くもの であ り、統制 は国民的合意があって成 り立つ も のだ と理解 していた。 アメ リカ編 において も、周知の ごとく、田中はマサチューセ ッツ州の義 務教育の強制主義 ‑不就学者への罰金制 を評価 していた。つ ま り、統制か 自由かについての彼 の認識 は、統制 は国民的伝統 (文化)の基盤が あって成 りたつ こと、 また 自治主義が住民の学 校教育 に対す る自発性 ・自主性 を喚起 しうるも の とい うことであった。(拙稿 「田中不二麿の統 制主義 と自由主義 について
」
『埼玉大学紀要 教育科学
』5 4‑1 ,2 0 0 5 )
そ して、教育事業 は他の社会資本の整備 と異 な り、人間の形成 とい う 「無限の事物」 にかか わるものであるが故 に、実際教育 に従事す る者 の英知の結集によらねばな らず、 自治 ・自由こ そが方法的原理でなければな らない と考 えるこ とになる。帰国後、文部省の中枢 にて腕 を振 う ことになる。 まず、「学制」の修正 に手 をつける ことになるが、彼が まず具体化 したのは教則の 自由化 と私立小学校 の設置の容認であった。そ の理由 として彼 は、「欧米各国ノ経験二出ルモ其 良法 ヲ発明スルハ多 ク之 ヲ実際従事スル者ニ ヨ リ得 テ、其理 ヲ机案上二論スル者二得ル所極 メ テ甚少キヲヤ」 とのべ、中央の机案 を強制する ことは適切ではない とのべている。彼の 自治論
‑ 5 8‑
は、東京学士会院、教育議会構想 に端的に示 さ れ
ている。
1 8 77
年6
月の 「学士会院ノ成立 ヲ要ス」で田 中は、「抑政府二文部アリテ学政綜理ノ
権 ヲ有ス ト錐一般開明二干渉スル教育ノ事業 ヲ挙テ
到底 数箇吏員ノ要断二任スルハ其当ヲ得 タルモ
ノ ト 云 フ可カラス、宜 シク衆智 ヲ尽 シ公論 ノ帰スル 所二拠テ以テ方向ヲ定サル可 ラス
」(
『文部省第
3
年報』)と、人間形成 という教育的課題は「衆 智」 を集めた公論 にもとづかねばならない
との べている。1
87 8
年5
月に立案 した 日本教育令で は、教育議会の法制化 を提案
することになる。
「第
6 4
章 教育ノ進歩 ヲ謀 ランカ為二議会 ヲ開 クコ トヲ得へシ 第6
5
章 教育国会教育府県会 等ナ リ」 と。 この条文は教員集会 (第57章)の 規程 とともに太政官
修正によって削除され、陽 の 目を見ることはな
かった。田中は、太政官で の審議中に、改めて1
87 8
年12
月、「教育国会 ヲ創 設スルノ論」 を提言 している。
議会 ノ人間二須要ナル
独 り政治上二止マル ノミニアラス教育上二於テ
モ亦然 リ トス、顧 フ二世 ノ教育者夙二聡明ノ
資アリ ト錐安 ンソ 能ク有限ノ知識 ヲ以テ無限
ノ事物二接 シ其利 害得失 ヲ甑別随テ施為スル
所其宜二通スルモ 保 ツ可 ンヤ是 レ議会ノ創設ハ
教育上最欠ク可 ラサ ル良図 タル所 以 ナ リ
」
(
『文部省 第5
年 報』)教育 とい う 「無
限の事物」は教育者の叡智に 得たねばならず教
育国会は必須だと改めて主張 している。彼 にと
っては、政治的価値 と教育的 価値 は相対的に区
分 されるべ きこと、教育的価 値は専門家の衆議
に待つべ きとするものであっ た。そ して、教育
国会の現実的条件 として 「各 地方ノ現況 ヲ査ス
ルニ一府一県若 クハ数府県連 合
シテ教育会議 ヲ開クモノアリ世論 ノ趨 ク所 ヲ 知ルへ シ」 と
、1 8 76
年以後、開催 されている大 学区教育会議の実績 に着 目していた。
この田中の学政の方法 としての自治論は、通 説
的には田中の批判者 に位置づけられ、国家主 義的統制主義 を
議長に就 くことになる。伊藤は翌1
8 8 2
年に憲法 調査のため渡欧 し、後任 は山県有朋であった。参事院という立憲制への準備機関の副議長に伊 藤が田中を抜擢 したことは、森の文部大臣への 登用 と重なる点 として興味深いことといえよう。
田中の自治主義 を国民教育 に関する学政の方法 と伊藤が解 していたためであったといえよう。
山県は政変後の地方政情、 と.りわけ民権派の動 向を懸念 して、全国各地に、1
8 82
年 と8 3
年に地 方巡察億 を派遣 し、その調査 にあた らせた。田 中も1883
年、東北北海道に巡察億 として派遣 さ れ、地方政情 を調査 している。田中の教育状況 に関する報告書の検討によって、改めて田中の 学政の方法 としての自治論 についてみてみ よう。田中の教育問題 に関する報告書は、他の巡察 億の報告に比 して、異色の内容 となっている。
他の巡察使の報告は、第
2
次教育令の統制主義 と徳育路線の強化が、地方教育の実態にいかな る影響 を与えているかを報告 している。そ して、統制主義 によって就学率は上昇 しているが、財 政不足一 民衆が教育費の負担 に応 じない一 に よって教育条件が悪化 していると指摘 し、 この 対策 として教育費の強制徴収の法制化 を提言 し ていた。他方、徳育路線の重視 は、なお適切 な 教科書がな く必ず しも効果を上げていか ‑とす るものであった。 ところが田中の報告は、あた か も第
2
次教育令など存在 しないかの如 き視点 でまとめ られている。就学問題 に関 しては、地 域の経済的、生活的条件 を踏 まえて分析 し、何 よりも師範学校 における教員養成の実態の調査 に力点をおいていた。なぜ なら、民衆の学校教 育への関心は、良教師によるす ぐれた実践 を介 して昂 まる ものであ ると認識 していたためで あった。 また、小学校教育を実際に担 う学務委 員の実態について も詳細 に報告 している。(拙稿「田中不二麿の地方巡察便報告書について」『埼 玉大学紀要 教育科学
』5 6
‑1,2 0 0 7 )
つ まり、田中の報告は、国民教育の進展は、
地域住民の自主性 と教員のす ぐれた実践による との視点に貫かれていた。第
2
次教育令後の統制主義、儒教主義の復活 という現実に対 して、
なお国民教育に関する学政の方法は、地域の 自 治主義 と専門家の衆議による統制 という立場 を 堅持 していた といえよう。 この田中のガバナ ン ス論は、本格的な国民教育制度構想 とその具体 化に着手することになる森有礼 と同一線上に立 つ ものであったといえよう。
それ故に、伊藤は憲法調査の途次、1
8 8 2
年森 有礼 とパ リで会談 し、意気投合 し文部大臣の席 を約束することになる。二人の合意は、立憲国 家 日本の国民の形成は教育が担わねばならない とする点であった。それは、旧来の儒教主義的 忠孝主義 を脱 し、かつ また欧米のキリス ト教 を 基盤 とする道徳教育に代わる新たな視点か らの 国民教育の方法の 「創造」 を森に期待 しての も のであった。教育ガバナンス論 としての「自治」
主義 を共有 しなが らも、田中と森の立つ時間的 位置は決定的に異 なっていた。田中は近代国家 の教育制度のデザインを期待 された ものの、い まだ国家構想の不分明な、 したがって国民の内 容 を特定で きない時点での国民教育の構想 とい
う難題か ら自由にはな りえなかったといえよう。
つ まり学政の方法 としての自治主義に傾斜 し、
徳育に裏づけられた知性 を持つ近代人の形成 と いう課題 を具体化で きなかったのである。
その点森有礼 は、明治
1 4
年の政変を経て、天 皇大権下の立憲体制 とい う国家構想の骨格が確 定 した もとでの国民教育の構想 を委ね られたわ けであ り、田中の立つ地平 とは異 なる もので あった。森は、教育論の前提 としての 日本にお ける近代国家のシステムについて、 自らの構想 を提 示 して い る。そ れが『 A Re pr e s e nt a t i ve Sys t e mo fGo ve r nme ntf o rJ a pa n
』 (「日本政府 代議政体論」)であった。その翻訳(
『新修森有 礼全集』 5巻) によりなが ら彼の国家論 をみて おこう。森はまず人間の能力は不同であるが故 に、その平等性 を確保するため国家は、法を作 成 して きた と認識 している。そ して、その法は 文明の進歩 とともにあ り、近代 にあっては人間 行為の外形 を律するのみではな く、「信教ハ全 ク‑ 6 0‑
各人各個ノ意二属スヘキ」 と思想 ・信条の自由 を保護するまでに達 しているとのべる。法によ る平等性 を確保する法の制定のためには二つの 方法があるとのべ、その第
1
は、す ぐれた代議 員を選出することであ り、第2
には国民教育に よる国民の知識の向上は必要だとのべ る。前者 に関 して、欧米では納税代議制が とられている が、その導入は日本においては適切ではないと 独 自な論 を展開 している。後者については 「少 年輩 ノ心智発達ノ為メニ強迫法 ヲ用 ヒ且公費 ヲ 地テモ国事不得止 卜者倣二到 シ専一ノ事実也」と、義務教育制度の確立が近代の国民形成には 必須のことだとのべている。 しか し、 ここでは 国民教育論についてこれ以上は展開せず、 日本 における代議制について次のように論 じている。
森は日本の 「特別ナル史的事実」 を踏 まえな ければならないという。第
1
には 「今 日二至ル マテ一系ノ帝酢連綿 トシ永続 シ帝位 ノ常二吾国 民ノ中心 タリ」と、「帝位 ヲ尊崇」することを介 して 「邦国ヲ愛慕スルノ念」 を形成 して きた事 を指摘する。第2
には、欧米のごとく個人を単 位に、かつ権利に対応する義務 としての納税主 義 とは異な り、 日本では家 を単位 とし、かつ納 税 は権利にともなうものではなかったことを上 げている。そ して、すでに地方にあっては納税 代議制をとっているが、「放縦 ノ弊」があるとの べている。そこで、森は納税代議制 (直接代議 刺)に代わる間接代議制 こそが 日本の歴史的事 実に対応するとしている。つ まり、「教育衛生商 業製造理学技術等二関スル協会」 を設立 し、そ の専門家の協会 と地方会か ら代表を選出 し、国 会 を構成すべ きとのべている。地方会か らの選 出は各戸主会‑町村会一都区会一府県会‑国会 と間接選挙 を重ねて国会議員を選出するとして いる。それ と同様 に各協会 も順次各段階の選出 を経て国会議員を選出するとのべている。それ は 「専門の知識」 とともに専門性 にもとづ く高 い倫理を求めてのことであった。森は人間の能力は不同であるが故に、立法官 に優秀な人材 を選出 し、立法にあた らせなけれ
ばな らない と強調する。 と同時に、代議制によ る多数の意志に絶対的信認を認めてはいなかっ た。立法 と行政の関係 にあって、立法議会の
3
分の2
の賛成するものは、行政府 はそれを執行しなければならないが、それ以外 は行政府の判 断を優先するとしていた。つ ま り、 3分の 2以 上の賛成によって、多数の意志 を制限 し、代わっ て、専門家の知識 と倫理に普遍性 を担保 しよう
とするのが森の国家構想であった。
こうして森は、国民教育の課題 を 「心智 ノ発 達」 と天皇への 「尊崇」 と国家への 「愛慕」 と いう歴史性 にもとづ く忠君愛国主義 ・愛国心の 形成にお くことになる。 と同時に、専 門家 (性) にもとづ く統制 という方法 を求めることになる のであった。ただ し留意すべ きは、天皇の絶対 性 を無条件 とするものではなかった。森はいう、
天皇は 「政府 ノ機軸」であるが、 また 「陛下 自 ラ率先開導 シ給 フ所 ノ立憲政体 ノ旨こ背 カサル 限 リハ、臣民利益 ノ為 メニ万機 ヲ固定 シ活動セ シメ給 フ」と、「立憲政体 ノ旨」に反 しない限 り、
それぞれの機関の活動にまかせ るべ きとしてい る。立憲政体 とは、立法による人間社会の平等 性 と思想 ・信条の自由を保護する体制 として形 成 されて きた点を森が前提的に認識 していたの は、すべ にのべた通 りである。決 して、元田的 儒教主義の道徳的存在 としての天皇の絶対性 と
しての忠孝主義ではなかったのである。
文明進歩の基盤 としての人智の開発 と、愛国 心の形成に国民教育の課題 を求めた森の次の課 題は、その方法についてであった。「学政ノ目的 ヲ明瞭ニシ之二達スル方法 ヲ確実ニスルヲ得へ キナ リ‑‑自理和働 トハ
」(
「奥羽地方学事巡視 中の演説」
『新修森有礼全集』 2巻) と、「学政ノ目的」 を明確 にした森にとって必要なのは、
「学政の方法」であった。その方法 として森は、
「自理和働」を主張することになる。「自理 とは 如何、云 く町村 は町村、府県は府県 と能 く適当 の法 を設けて行政官の干渉を受けず各地方 を理 むの講にして、決 して気随気俵の請に非ず、換 言すれば其郡の教育事務は其郡の教育会にて取
‑ 61‑
扱 うことを言 うものな り
」(
「岩手県下での演説」
1 8 8 8
年1 0
月1 2
日 『新修森有礼全集』 2
巻) と自 理 を説明 している。各段階における教育会 とい う教育関係者の合議体による運営 を 「自理」で あるとのべている。なぜ、教育会なのか。「全体 小学校 ノ事業 タルヤ或ハ中学校 ノ七 トモ其通 リ デアリマスガ、中央政府二於テ案 ヲ立ルヨリ実 地地方二於テ其任二当ル者ガ案 ヲ立ルガ適当デ アル ト思 ヒマス」 (
「府県学務課長に対する演説」1 8 8 9
年2
月5
日 『新修森有礼全集』2
巻) と、教育関係者が実際の経験 を踏 まえて教育問題に 対するのが至当であるとのべ、その機関として 教育会に期待 しているのであった。その会員資 格 については、①土地家屋の所有者に して
2 5
年 以上の年齢の者、②土地家屋 を有せ ざるも其郡 内に寄留 (又は借家) して多年其郡の教育上に 付て熱心 に其壷力 したる篤志家、③教育事業に 対 して資本金 を寄附せる者、④現在教育に従事 し2年及至 3年以上授業 を執 りたる教員等 との べている。いわゆる名望家 (財産を有 し教養あ る市民) と教員によって構成 されるとしていた。この教育会の自理にかかわって、森は特 に学 校長 (教員)の任命権 を教育会に与えるべ きと のべている。「文部省 にては、将来此職の任免の 権 を知事に全任せず、教育会に附する此大権 を 以てせんと欲するな り
」(
「宮城県警察本部での 演説」1 8 8 8
年1 0
月5
日) と、学校長の任命権 を 教育会へ とのべている。 これは単に府県立学校 長のみにかかわることではなかった。森は国民 教育普及のキースクールである師範学校生徒の 募集に際 して、郡長推薦 を重視 し、卒後の任用 も郡長に委ねていたが、それ もやがては教育会 の事業に移すべ きと考えていた。就学対策、学 校資本金の確立、教授法の改良のみならず、教 員の人事権 をも教育会の 自理にまかせ るべ きと 考えていた。 自理は 「一人一家‑村‑那‑市一 府一県 ヲシテ各 自其区域二責任 ヲ尽」 と期待 し ていたが、学校組織 においても同様であった。校長一教員は、それぞれの責任 を明確 にして学 校の自理は成 りたつのであ り、それは任命権者
の責任 に帰す ことになると考えていた。任命権 者の責任 にともなう倫理による自律性 を森は求 めていたのであった。
田中は 「無限の事物」 たる教育問題は衆議に よらねばならない と一貫 して主張 していた。何 よりも教育現場の経験 を踏 まえた議論 を求めて いた。国民教育は、国民が学校教育の価値 を実 感 として認識するとともに発展 してい くとの見 通 しを持っていたといえよう。それ故に、第
1
次教育令の 自由主義 を批判 されて も、なお、そ のガバナ ンス論がプレることはなかった。先に ものべたが、伊藤がこの田中を参事院副議長に 就けた点は軽視で きない点を持 っているといえ よう。 自治主義 と徳性 に裏づけられた知性の形 成 という田中のガバナ ンス論への同調性、少 な くとも儒教主義にもとづ く徳育 と統制主義に国 民教育を伊藤は展望 しえなかったためであろう。それ故、森有礼 にパ リ会談を契機に傾倒するこ とになったといえよう。田中のガバナ ンス論を 立憲国家の国民教育論 として再編 したのが森有 礼であったといえる。その際、現実的基盤 とし たのが名望家 と教員による教育会における 「自 理」であった。
(三)沢柳 の 「教育世論」と 「委員 によ る統
治」
いまだ森が生 きた時代 は、啓蒙の時代であ り、
教育会の社会的基盤が充全 に成 り立っていたわ けではない。む しろ、教育会 という自理組織 を 介 して、名望家 と教員を結集 し、「教育社会」を 形成 しようとするものであった。それ故に、行 政主導の下での自主 ・自治 という矛盾 を抱 えこ むことになった といえよう。その後、 日清 ・日 露戦争 を経て、 日本の資本主義化 は進展 し、義 務教育制度の普及 と学歴の有効性の実質化 にと もない中等学校制度 も整備 され、国民の教育的 関心 も昂 まってい くことになる。 とりわけ第
1
次世界大戦 を前後 して、名望家社会か ら大衆化 する社会への展開が顕著にあ らわれて くること‑ 6 2‑
になる。沢柳 はその変化 を 「教育社会 という一 つの社会
」( 1 9 1 4
年 「異教主義の一致」 『沢柳政 太郎全集』 8)の成立 と捉 えていた。「教育社 会」の成立 した時代、帝国教育会会長( 1 9 1 6
年2
月就任) として、教育世論の形成 とその権威 化、それにともなう事実化 を掲げたのが沢柳で あった。沢柳 は教育社会の世論の形成 と権威 と 事実化について次のようにのべている。教育社会 という一つの社会‑・・・其社会の事 柄が其社会の世論に依て大体決せ られて行 く 様になることは、望 ましいことであろうと思
うのであ ります。‑‑其世論が努力 を持 ち権 威 を持って、それが事実 となって現れている 様 にならなければならない と考えるのであ り
ます。‑‑其教育界 に世論があって必ず権威 を持つ という様 にな りたい と思 うのであ りま す
O(
「異教主義の一致」)沢柳 は教育世論の形成 と権威化がなされてい ない一例 として、教科書改訂問題 をとり上げて 以下のようにのべている。
其の如 き改正 (国定教科書一筆者)は、先 づ教育者に依て唱へ られなければならぬ、斯 の如 く改正 しなければならぬ ということは、
教育者の多年の経験 を基礎 として唱導 されな ければならぬ筈であるのに、そ うではない と いうことは、甚だ教育界に取って望 ましくな いことであ り。 (同上)
教育世論が形成 されず、現実の教育課題に影 響 を与えていない点を厳 しく指摘 している。そ れは、沢柳 にとってはジレンマであった。「それ は大体 に於いて小学校教育の進歩発展は上に立 つ官吏 とか或いは学者 とかの研究によって行は る ゝでな く、実際家の充満 したる智誠によらね ばならぬ と思ふ」
( 1 9 1 4
年 「今後に於ける国民の 覚悟 を論 じて教育に及ぶ」
『沢柳政太郎全集』8)
と、国民教育の進展 は官吏 ・研究者の研究によ るのではな く実際家の智織によらねばならぬ と 主張 している。にもかかわらず、現実は 「実際 家の智識」の結集 としての教育世論の形成が充 分 にされることな く、官吏 ・学者の研究に主導
されている点を問題にしているのであった。
沢柳が文部官僚 として次官 まで務めたエ リー トであ り、また教育学者で もあるだけにその意 味は重いといえよう。そこには、既成の教育学 者、官僚への強い不満がこめ られていた。彼は
1 9 0 9
年 『実際的教育学』を著 し、教育学が一つ の思想 ・論の展開にす ぎず、実験 によって検証 されていない点を指摘 した。「学校教育」に限定 した 「教育的事実」 (時間割、学級定員、教材 等)の実証的研究の必要性 を主張 した。つ まり、教育問題は学校教育 という事実 を実験的に検討 することによって科学化 しなければならないと いうのが沢柳の立場であった。文部官僚時代、
彼は教科書の国定化 を支持するが、それは国家 による作成 とそれに対応する実際家の検証 によ る相互交渉による教科書の充実を見通 してのこ とであった。彼 は民間の検定教科書の府県一括 採択制にその相互交渉の可能性 を兄い出 しえな かったのである。つ まりは、沢柳のいう教育世 論 とは 「実際家の智恵」の結集 を意味 していた。
では、何故、権威 を持ちえないのか。沢柳 は次 のように指摘 している。
教育界 に於いては、教育者が各弧立 して一 致団結する処がない処か らして、教育界の力 が生 じないのである。‑‑然るに教育者の間 に一致共同することが欠けて居 るが為めに比 較的勝れたる素養 を以って して尚教育者 とし ての権威が十分に他 に認識 されていないので ある
。( 1 9 2 0
年 「拾五年間を顧みて」
『沢柳政 太郎全集』 8)教育社会 としての 「団結する処」が不充分で、
教育世論が形成 されていないためだ と指摘 して いる。 ところで沢柳がいう 「団結
」
「教育世論」
/は単純 に多数の意志の表明に普遍性 を求めるも のではなかった。彼はデモクラシーについて「貴 族政治即官僚政治に対抗するもので‑‑自然の 傾向で‑‑・又、正当のことであると認めか ナれ ばならない
」( 1 9 1 8
年 「民主主義 を論ず」
『沢柳 政太郎全集』 8)と、デモクラシーの多数主義 を官僚政治への批判 として認めるとともに、そ‑ 6 3‑
1uH一J‑tl」.I‑...
れが政治の 目的を達成する方法にはならないと 次のようにのべている。
政治の 目的を完全に達するには、 どうした らよいのか と考 え来る時、必ず しもそれに適 合せぬ ものであるか らである。‑‑・教育 ・宗 教 ・農工商の各方面の人物の活動 は次第に訓 練 された専門家によって経営 されるといふ傾 向を示 して来てをるではないか、教育の実溝 を挙げるには、専門の教育家の力 によらねば ならぬ。 (同上)
デモクラシーよ り更に一歩進んだ政治 を想 像すると、既 に其の曙光が見えてをるのであ る。 これは一字であ らはす言葉がないが、直 訳すると 「委員による政治」 といふのである。
(同上)
沢柳 はかつて森有礼が代議政体論で展開 した、
多数ではな く専門家の知識 と倫理に近代の価値 を認めたと同様のスタンスをとっていた。大衆 化 しつつある教員社会にあって、いかに教員 を 結集 し、その世論 を権威化するのかが彼の課題 であった といえよう。結集 (教員 ・参加) と世 論の権威化 は自由を抑圧する戦前の権威主義体 制の下で、参加 ・動員に傾斜 しがちであった。
沢柳の団結 ・教育世論の権威 ・委員による政治 は、権威主義体制下にあっていかなる可能性 を 切 り開 くことがで きたのであろうか。
(四)戦時下の教育会
田中の教育議会構想 ・森の教育専門家の代議 制による政策立案 と教育会による自理の構想、
そ して沢柳の教育社会の団結 (参加) と世論形 成 ・「委員による政治」という、学政の方法 ‑ガ バナンス論は、 日本の近代化の進展 に即 して展 開されて きた。 しか し、 日本的課題は、その衆 議、あるいは専門家 による討議による世論 とそ の権威化 と事実化 は、自由なる空間をともなう ものであったかいなかであった。近代欧米社会 にあっては、封建制か らの開放 としての自由主 義の獲得、資本主義化 にともない名望家 (市民)
の自由はやがてその範囲を拡大 して民主主義の 時代 を迎えることになる。 しか し、 日本の近代 にあっては、 自由民権運動‑の対抗 としての権 威主義的国家構想 にい きつ くことになる。 しか し、経済の資本主義化 にともない、権威主義的 秩序の基盤であった家、地域共同体か らの個の
自立は、否応 もな く進展 してい くことになった。
それ故に、 自由の抑圧下において、大衆の国家 への結集のため、社会組織‑の参加 ・動員が図 られることになる。つ まり、参加 ・動員 として の民主主義が 自由の抑圧下にすすめ られるとい
う、奇形性 をおびることになるのであった。
森の教育会による自理構想 は、名望家社会を 前提 にした会員構成をとることになる。 しか し、
日露、第一次世界大戦 を経て、日本社会は、除々 に名望家社会か ら大衆的社会への変貌 をとげて い くことになる。沢柳の「教育世論」形成論は、教 育社会 という大衆的社会が現実化 した局面での 教育ガバナ ンス論の再構成であったといえる。
帝国教育会、各府県教育会の連携 による教育世 論の全国的形成であ り、女教員会 をは じめ とす る教員の階層的結集が大 きな課題 となったとい えよう。 しか し教育界が権威主義的国家の下に ある以上、権威主義的秩序か ら自由であること はなかった。大衆化 した教貞の参加 と団結 とい う民主主義的課題は、 また同時に自由と対立す る権威主義的秩序 とともにあった といえる。そ の陸路 を沢柳 は、「専門家 (委員)の政治」とい
う方法で止揚 しようとしていたのであった。
彼はデモクラシーを官僚政治打破の一点にお いて評価 していた。 しか し、多数者に信 を置い ていたわけではない。「詰 りデモクラシー とは、
人民 による人民の為めの政治で、人民それ自身 の為めに人民が総がか りでやる政治 と解釈すべ きであると思ふ。随ってデモクラシー と民本主 義 とは白か ら裁然たる区別があることを知 らね ばならぬ
。
」(1 91 8
年 「民主主義を論ず」 )
と、民 本主義 との違いを明瞭にしている。「人民総がか りでやる政治」 としてのデモクラシーに距離感 をもっていた。そこで、理想の政治は 「委員にー 6 4‑
..:=‑∴‑㌧∴∵1.
よる政治」でなければならない と主張する。教 育世論の形成 と専門性 にもとづ く統制、そ して 権威主義国家 (行政) という三者の競合の中で, 教育会はいかなる位置 を与えられることになる のであろうか。
1 91 9
年下中弥三郎は 「民衆の 自治」
「教師の専 門性 に基づ く教育 自治」 を掲げて、啓明会 を設 立 した。その啓明会に下中の埼玉師範の教え子 が多数参加 している。その一人であった飯島彦 佐久( 1 91 7
年卒)は、「当時教員が郡視学や町村 当局に物申す ことは大変なことであった」 との べ、19 2 0
年2
月の啓明会熊谷大会への参加 につ いて 「車中一同集 まり四民平等的な談合つ きず、大宮 までの短 き感往 きの永 きに比せ られる」 と 日記 に記 している。「四民平等的な談合」‑自由 な談合 に清列な印象 を持つことになる。既存の 教育会の権威主義的性格の故に、彼 らは 「四民 平等的な談合」の場 を求めて啓明会 に参加 し、
やがて県教員会の結成へ向か うことになったの である。教育会が権威主義的組織である限 り、
それは教育社会で組織 した教員を行政に動員す る機能を強 く持つ ようになったといえよう。
長野県の信濃教育会の軌跡 をみてみよう。大 正期、キリス ト教、白樺派、西田哲学等 をベー スにした人格主義的教育論 とその実践が長野県 各地で展開されるが、信濃教育会はそれ等の自 主的活動 をバ ックアップしていた。その反動 と して1
9 2 4
年、桧本女子師範学校付小訓導川合清 一郎‑の弾圧事件が引 き起 こされた。川合訓導 事件 とは、修身の時間に国定教科書 を使用せず、森鴎外の 『護寺院原の敵討』を教材 としたこと が問題視 されたことであった。西尾実
(
『信濃教 育』編算主任)は、この事件の本質を 「こちら は教育的良心 を語ろうとし、視察者は只法的要 求のみを間ふ」 と捉 えていた。教育的良心 ‑敬 育専門家の視点か ら 『信濃教育』は、川合擁護 の論調 をとることになる。沢柳 も、川合擁護の 論 を寄稿 していた。 しか し、この信濃教育会 も1 9 3 3
年のいわゆる2 ・4
事件 による赤化教員逮 捕後、その自由を制限ない し喪失 してい くことになる。満蒙開拓青少年義勇軍の派遣に信濃教 育会は協力 し、参加 ・動員の機能を果たす こと になるのであった。決戦下、1
9 4 4
年大政翼賛組 織 として、全国単一組織大 日本教育会の支部に 各府県教育会は再編 され、上命下達の戦争遂行 機関となってい くのであった。戦後、敗戦にともなう権威主義的秩序一教育 勅語体制‑ の崩壊 にともなって、大 日本教育会 支部 としての各府県教育会は、再び1
9 46
年地方 教育会 として再出発することになった。教育社 会の大衆組織 として教員 と教育 を動員 した教育 会は、権威主義的秩序か らの開放 としての自由 の下で、本来の機能一沢柳のいう世論、権威、事実化‑ を生み出 しえたのであろうか。その再 生は、占領軍の権威 と労働組合法にもとづ く教 職員組合の結成 という新たな動向の下で、模索 されることになる。その具体例 を埼玉県を事例 にみてみ よう。
そこでの視点は、ハ ンナ ・ア‑ レン トを借 り れば 「教育勅語体制」か らの開放 としての自由 か ら、 自由を創出する合議体創設への道は、教 育会 と教職員組合の一体化 を必然のコース とす るものであったのだろうか ということである。
生活権擁護の教職員組合の課題は、複数の存在 に対応する公的空間の創設に成功 したのであろ うか。ア‑ レン トはフランス革命は初期には自 由の創出を課題 としたものの、途中か ら貧困か らの開放 を主要テーマ とすることになる。それ 故に、単一の人民の意志 (貧窮への同情) にも とづ く専制に帰結することになったという。対 して、アメリカ革命は、 自由の創出を可能 とす る政治体 を求めたものであ り、人民は複数なる が故に全員の参加する公的空間の創 出に成功 し たのだという (志水達雄訳 『革命 について』ち くま学芸文庫)。生活権擁護を第一義 とする教職 員組合は、複数的存在たる教育専門家 を対象 に
自由な合議体 を創造 しえたのであろうか。
‑ 6 5‑
(五 )埼玉 の教育会 と教職 員組合
①埼玉県教育会の改組 と解散
戦後、大 日本教育会埼玉支部の機関誌 『埼玉 教育』は、19
45
年9
月11日、1 50
号 をもって復刊 された。その1 50
号の追記は「本会は本部大 日本 教育会の方針 に伴ひ、定款 を改正 した。官庁中 心の経営か ら、現職者中心の経営 となる訳で、従って本誌 も会貞諸君の活発 なる意見 を盛 り上 げたい。・・・‑最近教育者団体が、本会系統以外 に同職組合 として、生活権確保 を標梼 して生 ま れた様である。‑‑本会 として陣容改革の後、
教職員厚生施設の方面に飛躍的進出をせねばな らぬ と思ふ」 と、再出発 に際 して記 している。
①行政主導か ら現職教員中心 に ②教職員組合 結成の動向を踏 まえ厚生事業の重視 をとりあえ ず意識 していた
。1 51
号 の岡田恒輔会長就任 の ことばとして、「近時各方面 に教員組合 を結成せ られ、教育会存在の理由に疑念 を持つ者あ り、教育会の活動 に就て も不満の声 を耳にします。
組合 と教育会の関係 には研究を要することが少 な くない と思いますが、組合の 目的は教員の生 活権擁護 に重点が置かれ、教育会は教育その も のの改善進歩、文化向上発達、教員相互の研究 修養、並 に其の福利の増進等、大切 なる使命が あると思ひます」 と、生活権擁護の組合に対 し て 「教育その ものの改善進歩、・・‑・」 を目的 と する教育会の存在意義 を明 らかにしなければな
らないとのべている。
その具体的事業 として
①研究学校募集 (国民学校1
7
、青年学校9
、 中等学校5)
②講習会、新教育についての教師の再教育 (文 化講習会)
③研究発表会
④科 目研究部の組織
(
「民主的方法 を以て実質 的人物 を選出委嘱す」 )
などに取 りくむとしていた。 とりわけ、②の文 化講習会は、新教育への出発 に際 して大 きな意 味をもつ ことになるが、その点は後に論述する
ことにする。
他方、教員組合に関 しては、埼玉県国民学校 教員組合 (埼国教)が、46年
2
月22日に、埼玉 県青年学校教員組合 (埼青教)が3
月1 2
日、埼 玉県中等学校教員組合 (埼中教)が6
月3
日に 発足することになる。46年7
月、、全国単一組織 の大 日本教育会は、都道府県教育会の連合体 と しての 日本教育会に改組 された。それに応 じて、埼玉支部の改組 にむけた協議が46年
8
月26日に おこなわれ、第2回協議会 ( 9
月9日)では、
下山、石井、逸見、今成、坂巻、田中、韮壕の 小委員会で原案 を作成することが決定 された。
約半数は組合の代表であった。1
0
月 9日の第 3 回協議会で会則 を決定 し、翌年 4月の改組が決 め られた。その会則案 は 「教育会は教育に理解 ある者が一体 とな り県下教育の振興普及‑‑」(第
2
条) と、教育者 と教育理解者によって構 成 され る としていた。その 日的達成のために「一、教育立国の実現 と教育 自主性の確立‑‑
八、教育者の地位の向上並 に厚生の施設」にと りくむとしていた。 しか し、この1
0
月案は、47 年1
月11日の三教組連合対策委員会の教育会改 組の申し入れを受けて、 3月26日に修正 された。「本会は現職教員が主体 となって職能の向上、
教育の振興・・
‑
」(第2
条)で、事業か ら教育立 国、教育 自主性の確立、教員の地位向上などが 削除されることになる。教員の職能の向上を中 心課題 とした現職教員中心の教育会の再出発 を 明瞭にしたのであった。47年7
月26日に埼玉県 教育会は再出発することになる。この三教組連合体
( 47
年7
月 埼教組 として 一体化) と教育会の二本立ては、教育会の役割 を 「職能の向上」 に限定 し、教育行政の改革な い しは教職員の生活権擁護の促進は教組が担 う とするものであった。 というより、占領軍の 日 本教育会 と日教組の在 り方にかかわる指示 をめ ぐる中央での傾向を反映 した消極的対応 として の教育会 としての存続であった。47年7
月15日 の 日本教育会総会は、占領軍の指示の解釈 をめ ぐって混乱 し意志の一致 を形成することがで き‑ 6 6‑
なかった。 日本教育会は、教育会存続 と解釈 し、
日教組は会員の自由意志 による解散か存続かの 決定 との立場 をとっていた。埼教組は 7月23日 に代表を中央 に派遣 し、中央での見解の一致を 求めていた。その際、埼教組 と教育会の二本立 てが望 ましい との見解 をうけ
、 7
月26
日の改組 大会 となったのである。その後、占領軍が必ず しも二本立ての見解で ないことが判明 し
、 9
月1 8
日に日本教育会 と日 教組の共同声明で二本立てか一本化は、それぞ れの地方教育会の自由にゆだね られるべ きとの 見解 を発表 した。それをうけて、埼教組 と教育 会は共同声明をだ し、会員の投票によって教育 会の解散か存続かを決定することになった。47
年11月5
日の全会員投票の結果、89 6 4:1 86 0
で 教育会は解散することになった。②権威主義組織 としての教育会批判
この圧倒的な会員投票の結果は何 を意味 して いたのであろうか。埼教組は、 この投票に際 し て、「最 近 の 教 祖 の 動 向 と執 行 部 の 所 信
」
( 1 8 47.1 0.21 )
を発表 している。そこでは 「教 育会の歴史性」 を厳 しく批判 している。半強制的に入会 を強要 させ られ、表面私設 とは名のみ、教員の福利 を常に宣伝 しなが ら 全然官設 と等 しく地方長官或 は之 に類す る 人々が会長 とな り、我 々教員は規約す らもろ くろ く知 らず、そ して一部有力教員によって 規制 され、時々開 く教育会議は当局の意思 を 教員に伝へ る代用機関であったのである。
私設 とは名ばか りの官設の動員機関であ り、
一部有力教員 による当局の伝達機 関にす ぎな かったと批判 した。「地方教育会は、正に戦時の 産報 に匹敵するものである」 と戦時下の教育会 活動 を総括 し、教育世論 (教権独立)、教育専門 家による'権威化 と事実化 とは異質な統制動員機 関であったとしている。それ故に、若干の手直 しによる教育会の存続は認め られない と結論づ けられていた。教育勅語体制下の権威主義か ら 解放 された教員の実態に即 した批判であ り、多
くの支持 を得ることになったといえる。当時の 学校の雰囲気 を教員組合結成 に尽力 した山下正 義は次のように記 している。
職員室の民主化 校長は太陽を背にし、火 鉢 をかかえている。女の先生は休み時間お茶
を呑みに くるが壁 に向かい無言で呑んで去 る。
職員会議 には、校長発言異議なしわか りまし たで終わ り。火鉢 は職員室のまん中にお湯を かけてお く、お茶は談笑 しなが ら呑む。職員 会議は毎週土曜 日午後開催、議長をきめて決 を採 り、多数決で きめる。職員室はにぎやか に談笑の渦を巻 く。
権威主義体制か らの解放 と民主化の雰囲気 を た くみに伝 えているといえよう。かつて、大正 期、教育会の権威主義 と抑圧性 に反発 し、 自由 な 「四民平等」的な討議 を求めた啓明会参加の 教員達 と重なる情況であった といえる。 しか も、
今回は労働組合法にもとづ く教員組合 は法的根 拠 を与えられ団体交渉権 を持っていた。組合の 声明 も教組運動 と文化運動は一体であ り、「教権 確立を法的根拠 を持つ組合によって」 とその点 を説明 していた。行政支配か らの教員社会の 自 律性の法的根拠が与えられたことは画期的なこ とであった。声明は 「米国教育使節団の報告書 にも教育の地方分権 を奨励 している所似 も此処 に存 していると信ずる。かかる教権の確立は団 体交渉権 をもたぬ教育会ではその実現 を望み得 ざる所で」 と、教育の地方分権は、教権の確立
‑教育者の 自律性があってのことであ り、法的 根拠 を持つ教員組合が必要であると論 じていた。
多 くの教員が支持 したゆえんであった。
(彰労働協約締結 と教育連営協議会
労働組合法にもとづ く教育運営協議会発足前 に埼玉県では独 自な構想 にもとづ く埼玉県教育 審議委員会が
1 9 46
年9
月6
日に発足 していた。その契機 は
、1 9 46
年7
月〜 8
月にかけて県下で 開催 された県教育会主催の夏季講習会であった。埼玉軍政部は、教育の民主化のため教育会に文 化講演会の開催 を求め、教育会は各班 (郡 ・市)