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フロイ トの 『夢判断』 について

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フロイ トの 『 夢判断』 につ いて

川 東 雅 樹

Ube rdi el c h‑ St r ukt urγonFr e uds̀ ̀ Traumde ut ung"

MasakiKAWAHIGASHI

Zusammenfassung

DieUnverstandlichkeitdererinnertenTr益umebegreiftFreudalspsychologischnotwendiges,falsches Bewusstsein,alsProduktvonZensur.Lasstmanum dieSinnfragmentedesmanifestenTrauminhalts freieAssozlationensi°hkristallisieren,soenthtilltsi°hnich上nurdieursprunglicheBedeutungderTraum‑

elemente,sondernzugleichdieArbeitsweisederpsychologischenZensur:"dieTraumarbeit".Damitdie Traumdeutungdetekivisch dieseTraumarbeitrtickganglg maChen kann,miissen paradoxerweisedie Traumesoverniinftigentstelltwerden.Dennesistgeradedasbewusstelch,dassiezu interpretieren versucht.d.h.diepsychischelnstanz,dierepresentiert,wasmanVernunftundBesonnenheitnennen.

WahrenddieBedeutungderTraumezwarim Erwachendiskursivschwerzuerfassenist,Weilsie sicheigentlichnichtaurdasbewusstelchrichten,kannderTraumerdockwenlgStenSim Schlafenseinen Traum solebendigwiediesogenannteWirklichkeitwahrnehmen.Darauslasstsi°hdurchdasTraumen einAufbaudesseelischenApparatsahnen,derauchdier左tselhafteWeltalssolcheindennichtdiskur sivenSymbolismusaufnimmt.

夢判断』(1900)はフロイ トが 自分 の最 も重要 な著作 のひ とつであることを認 めた仕事 で,事実 またその後 の 精神分析研究 の方向を決定づ ける一歩であ った ことは間 違 いない。 しか しもともとフロイ トの革命的業績 の出発 点 とな ったのは ヒステ リー研究 であ った。十九世紀後半 の 「治療 ニ ヒリズム」)の支配 す る ウ ィー ンで は ヒステ リー症状 はその原因が身体的 に も解剖学的 に も確 かめ ら れないためにまともに取 りあげ られ ることがなか ったが, それを心因的 に探 ることが は じま りだ った。 目に見え る 原因 のない,原理 として は誰 にで も確認で きるよ うな原 因が見つか らない病気 の根元 を突 き止 め ること, しか も それを科学的手続 きを経 て行 うこと, これが フロイ トが 自 らに課 した課題 であ った。初 めか ら精神分析 とい う学 問が抱 えている方法論上 の ジ レンマに直面 していた とい え るだ ろ う。

*

フロイ トが ヒステ リー研究 において原因を心的な もの に求 め る契機 はふたっ あ った。 ひ とつ は当時,留学先 の パ リのサルペ トリエール病院で ヒステ リー研究 の第一人 者 シャル コーの着眼 と手法, つ ま り,症状 があ るな ら病 気 がある, とい う見解 と, またそれを証明す るのに用 い た催眠術 に接 した こと。 もうひ とつ, そ して こち らの方 が重要 なのだが,友人 の ヨーゼ フ ・ブロイア‑報告す る

女性 の ヒステ リー患者の症状である。いわゆる 「アンナ ・ 0 の症例」であ る。 ブロイア‑は患者 のア ンナと共 同作 業 のよ うな形 で,彼女 が ヒステ リーの徴候 を きたす きっ か けにな った出来事 を言葉 に表現 してい く。 そ もそ もこ の出来事 を彼女 白身 は忘 れて しま ってお り, またそれが 自分 の病状 と関わ りがあ るとは気づ いていない。 しか し その出来事 に対 して抱 いた感情 の記憶 を い と ぐち に し, ブロイアーの助 けを借 りて,意識化 し,言語化す ること で,病状が軽減す る効果を得 る。言葉 となって意識 に上 っ た とたん に症状 が解消 され るとい うわ けで, ア ンナ 自身 が 「煙突掃除」 と名付 けた もので ある。 ここで問題 にな るのは,か りにフロイ トや ブロイア‑が主張す るように, 患者が意識的 に語 ることによって,結果 と して神経症が 軽減 された と して も,病気 の徴候 とその動機 とされ る出 来事 との関係 が確認 されたわけで はない ことだ。 くだん の出来事 にともな う感情,つ ま り観念が実際の徴候 とい う現実 の出来事 に直結す るとは言 い切 れないのであ る。

精神分析がなによ りもまず治療行為で あることは明白 だが,同時 にそれが科学 的認識 に基づ くものであ るとフ ロイ トはたびたび主張す る。 しか し一般論 と して,科学 性 を成 り立 たせ るには通常次 の二点 の条件 が満 たされな ければな らない。 ひ とつ は原則 として誰 にで も原因 と結 果 を事実 と して確認 で きることであ り, もうひ とつ はあ

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る出来事 か ら次 の出来事への予測 を可能 とす る ことだ。

(あ る事実) に対 して不快 や恐怖 を感 じて, それが後 に 神経症 を引 き起 こす とい う推論 において,我 々が確認 で きるの は (あ る事実) だけであ り, その事実 に対す る当 事者 の感情 は検証 で きない。彼 な り彼女 な りがそのよ う に証言す るか ら認 め るとい う次元 の ものであ る。 しか し 神経症 の原因 は (あ る事実) で はな く, まさにその とき に抱 いた感情 であ り,言 い換 えれば当人 がそのよ うに感

じた とい うことが事実 なのであ る。 そ して この事実 を第 三者 は確認す るすべがない。 フロイ ト自身後 に客観 的事 実 よ りも心的事実 を重視す る姿勢 に転 じる ことにな り, 例 えば幼児期 の性 的 トラウマをめ ぐる見解 を修正 してい

る。幼児期 に被 った性的虐待 や近親相姦 の衝撃が トラウ マ として後 々まで深 くその人物 の行動 に影響 を与 え, し ば しば神経症 と して傷 を残す とい う主張 を フロイ トは展 開す るのだが,後 に自分 の診 て きた患者 たちの語 った虐 待や衝撃的体験 の多 くが実 はフィクシ ョンであ ることが 判明す ると,事件 その もので はな く, そのよ うな体験 を 得 た と信 じていることに焦点 を移 し, なぜ多 くの神経症 患者 たちが幼児期 の性的体験 とい う幻想 にと らわれ るの か とい う問題 を注視する。そこか ら得 られた成果がエディ プス ・コンプ レックスであ る。 そのよ うな結実があ った に して も,心的事実がいわゆ る科学 的検証 に耐 え られ る 事実であるか どうか はまだ唆味 なままであ る。

夢 もまた同 じ議論 にさ らされ る。夢 の解釈 が科学性 の 衣装 をまとうとき,つね に対象性が問題 にな る。夢 は夢 見 る人間がかかわ ることので きない,すなわち無意識 が 圧倒 的 に支配す る現象 であ って, それだか らこそ科学 的 認識 の対象 にな りうるものだ とした ら,夢 の舞台 あ るい は創造者 と しての一個 の人間の意志 だ とか欲求 あ るいは 反応 はどこまで主体的であ り得 るのか。 もともと夢 を他 者 はのぞ くことがで きない。夢 を他人 が実況 中継す るこ ともで きなければ,観察す ることもで きない。誰かが夢 を見 てい ることを知 るには,彼 の 目を覚 まさせ,夢 を見 ていたか どうかを確認 し, そ してその内容 を聞 き出す以 外 の方法 はない。 しか し聞 き出す とい って も夢見 た当人 がそれ こそ実況 中継す ることもかなわず, ただ見 た夢 を 杏語 る, それ も思 い出す とい う手続 きを踏 む しか な い。

夢が事実か どうか とい う問題 に絞 れば, これだ けで もう 十分 に幾通 りもの フィル ターが間 に介在 していることは はっきりしている。 に もかかわ らず フロイ トは経験的 に は一人 の人 間のみ にかかわ る主観的な ものをあたか も客 体 のよ うに して取 り扱 うことによ って, 自然科学 の立場 か らの批判 を何 とか して くい止 めよ うとす る。彼 は神経 症治療 において,患者 の本来 と らえ どころのない生 の有 り様 を強制的 とも言 え る言語的秩序 の枠のなかに捉える。

そ して これがあなたの人生であ り, あなたの心 の一部始

柊 だ と独断 に も似 た解釈 を下 してい るに もかか わ らず, 客観主義的な判断を下 しているのだというスタンスをけっ

して崩 さない。科学的であ ることへの フロイ トのかた く なな こだわ りは,おそ らく当時彼を取 り巻いていたウィー ンの学会 の動 向,風潮 そ してそれに見合 う処世術 とい う 観点 か ら説明す る事 もで きるか も知れない。 しか しそれ よ りももっと関心 を引 くのは, フロイ トが向 き合 わざる を得 なか った この事象 の対象性 と個人 の内的空間の暖味 な関係 その ものが もってい る創造性であ る。 ルネサ ンス 以降 の科学 的思考やデカル ト以後 の ヨーロ ッパ近代 の認 識哲学 の行 き詰 ま りと新たな知のあり方への胎動が,ニー チ ェやマル クスそ して ソシュールな どが独 自に切 り開 い た世界で生 じたの と同様 に,世紀末 ウィー ンとい う希有 の時代思潮 のなかで,無意識 とい う不可解 な領域 を舞台 に始 まっていたのであ る。

*

夢 がひ とつの体験であ り,夢 の内容 もまた事実であ る ことは間違 いない。 ただその内容 を夢 を見 た本人以外 の 誰 も体験で きない とい う点 で通常言 う事実 とは性格 を異 にす る。共有空間を もっていない とい うことであ る。 そ れで はや は り夢 は事実 で はないのか。 いわゆ る実際の体 験 と夢 の体験 は分 かつ もの は何 なのか。 た とえば夢 のな かで見 た ことと覚醒時 に自分以外 に他 に誰 もいない とこ ろで見 た現実 は,体験 の質 において,第三者 に とって差 があるだろ うか。 その内容が荒唐無稽で あろ うと, あ る いはいかに もあ りそ うな ことであろ うと第三者 にはいず れの場合 も当事者が情景 を描写す ること,物語 ることに よって しか伝達 され よ うのない ものであることに変 わ り はない。 さ らにいえば現実 の体験 の レベルで も,複数 の 人間が同 じ光景 を見聞 した ところで,厳密 に考 えれば必 ず しも同 じ体験 を した とはいえない。 それぞれが抱 え る 過去や性格,能力 に応 じて眼前 の出来事 を独 自に解釈す るのはきわめて 自然で ある。体験 とい うものがそ もそ も 個人的な もの と規定すれば夢 と現実 の体験 を区別す るも のはない。 そればか りかユ ングの言 うよ うに逆 に共通 に 見 る夢 だ って考 え られ るのである。

それに もかかわ らず現実 の体験 と夢 のそれ とは決定的 に性質 を異 にす るものであることは誰 もが直感的 に知 っ ている。 それぞれの事象 を生 む母体 の違 いが理 由のひ と つ に挙 げ られ るであ る。夢 を生産す るの は個人 の内的な 空間である。 自己 とい う内部空間のなかで繰 り広 げ られ る出来事であ って, いわゆ る現実 とは決定的 に違 う。次 にその夢 を体験す る主体 につ いて考 え るな ら,体験 とい う次元で はすで に述 べたよ うに,夢 と覚醒時 の現実 の差 はないのだが, ただひ とつ大 きな隔た りがあ る。 それ は 夢見 る人 は夢 に対 して行動 を起 こせ な い とい うことだ。

夢 が 自然科学 が対象 とす るよ うな現象であ って, いわば

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単 なる肉体 的,生理 的な現象 な ら夢 を解釈 して個人 の内 面 の分析 に貢献す るとい う方法 その ものが意味をな さな くなる。 しか しそ うだか らとい って, われわれ 自身が 自 らの夢 に積極的 に反応 し, それ に参加 し行動 を起 こす と い う頬 の もので はない ことは自明で, その意味で は人文 科学 の範時 にはいるとは簡単 に断定で きるもので もない。

つ ま りわれわれ は自分 自身 の夢 にどの よ うな関係 にある のか とい う問 いか けざ るをえないのだ。

夢 を見 る」 は ドイツ語 で は "traumen", 英 語 で は

"dream"で, いずれ も 「だ ます幻惑 す る」 とい う意 味 に遡 ることがで き, この現象が もって いる現実感覚 と の落差 を強調 している。 日本語 の 「夢 を見 る」 とい う表 現 は別 の位相か ら夢 の厄介 な仕組 みを露 出 させ ることに な る私 は夢 を見 る」 とい うとき, ここで見 られてい る夢 は誰 の夢 か と問えば, もちろんそれ は 「私 の夢」 で ある。 そ してそ こで は夢 は行為 で はな く,名詞的な対象 として とらえ られている。2)見 る」 とい う行 為 が本来 見 るもの と見 られ るものの問の距離 を前提 とす る限 り, そ れ は見 るもの と しての 「私」 とい う主体 と見 られ る もの としての 「私 の夢」 とい う客体が対峠す る二元構造 を必 然的 に派生す る。 同一 の人間の中で生 じる出来事が, そ の人間を分裂 させ るのであ る。 もちろん これ は本来 は分 割不 可能 な出来事 を,夢 を ・見 る」 とい うふ うに言 語 に分節化す ることによって生 じた分裂 にす ぎない と考 え ることもで きる。 ち ょうど馬 が走 る光景 を,「馬 」 とい う物体 と 「走 る」 とい う動 きに分割で きないの と同 じこ とで,言語 の暴力的な文法が認識 の方法 その ものを決定 す る例 だ ともいえ る。 しか しそ うだ と して もわれわれの 日常経験す る夢 は確 か に視覚 的な印象 に依存す ることが ほとん どで, われわれ はあ る場面 を観察 す ることもあれ ば, あ るいは役者 のよ うに演 じなが らひ とつの舞台を動 き回 ることもあ るのだが, いずれ に して も周 りを見て い る自分 とい うものを実感 していることは確かである。見 る (主体), 自分以外 の ものを知覚 し,意識す る (主体) とい う感覚 を簡単 には放棄す ることがで きないのである。

そ して この (主体) は自己 とい う統一体 と して 自覚 され て きた。 これ はただ単 に自己 とい うものが統一体 と して 定義 されて きた とい う言語 の問題 だ けに収 ま らない もの で,普通 の人 間で も瞬間的 にはた とえばボー ドレールの い う万物照応 に似 た 自我 の拡張感 や融解感 を体験 で きな い もので もないが, そ うい う詩的な侠 惚 状態 は例 外 で, この統一感 はや は り相当強固な実感 なのであ る。分裂す る自己 とい う命題 な どあ らためて取 りあげるほどの もの で もないか もしれない。 それで もや は り銘記 しておかな ければな らない ことは,夢 のなかでの こととはいえ,一 個 の統一体 の内部 で起 きることは隅々 まで分 か っている のだ とい う幻想 が崩れ落 ちるときに, 自己 とい う統一体

の根拠 もまた危 うくな るとい うことだ。見 られ る もの と しての夢が不可解 で,覚醒時の理解能力 の限界 を超 えて いることと, それが ほかな らぬ 自分 が産 出 したのだ とい う事実 のほざまで 自己の統一感 はあや しくなる。

意識 しうるものは自己の一部 で しかな く, 自分 は自分 を知 らない とい う発想 は,無意識 とい う概念 を導入す る のに好都合であ り, フロイ トが素材 に した夢 はそのため の格好 の媒体 なのであ る。 い うまで もな くフロイ トの考 えて いた無意識 はけっ して実体で はない。折 々にその説 明 は唆味 に変化す るので,一種 のエネルギーのよ うな も の ともとれ る し, また一定 の場所 とも理解できるのだが, いずれ にせ よ意識 の前 にはっきりした姿 を現す ことはあ りえないのである。無意識 はそ こか らの働 きの結果や効 果 と してのみ語 られ うる。厳密 にいえば無意識 を説明す る言葉 はすべて仮構 にす ぎない。力 と して,存在 として, あ るいは空間 と してイメージ して もそのすべてを拒絶す るのであ る。 いわばその存在 がひ とつの世界観で あ り解 釈 だ といえ るよ うな ものであ り,定義 の言葉 のパ ラ ドッ

クスに依存 している。意識が人間が主体であ るためのよ りどころだ と した ら,無意識 はまさにそのよ うな人 間の 自立性への挑戦であ る。個人 の主体性 な どとい うものが 近代 の幻想 に過 ぎない ことを見抜 いたのはフロイ トが最 初で はない。 ポール ・リクールは 『フロイ トを読 む』 の なかでマル クス, ニーチ ェ, フロイ トにつ いて次 のよ う に言 っている。

しか しこの三人 に共通 な意図 に遡 ってみ るな ら, そ こに兄 いだ され るの は, まず意識 を全体 と して,

虚偽」意識 とみなそ うとす る決 意 で あ る。 そ こに おいて,彼 らは三人三様 の仕方 で, デカル ト的懐疑 の問題 を再 び とりあげ, その問題 をデカル ト主義 の 本拠 にまで もち こんで くる。 デカル ト学派 によって 哲学的形成 を受 けた哲学者 は,事物 は疑 わ しく, そ れが見え るが ままでない ことを知 っている。 だが彼 は,意識 は意識 自体 が現 れ るまで ままであ る, とい うことを疑 ってみない。つ ま り意識 において,意味 と,意識 の意味 とは一致す るので あ る。 マ ル クス, ニーチ ェ, フロイ ト以後, われわれ はその ことを疑 うよ うにな った。事物 につ いて懐疑を抱いたあとに, われわれ は意識 につ いて疑 いを抱 きは じめたのであ

る。3)

意識 と しての 自己があ りのままの 自己に通暁 している 幻想 を指摘 している。主体が失われたなどと大げさに言 っ て いるわ けで はない。 ただ全面 的 に自分 を コン トロール しうる主体 な どは じめか らなか った とい う ことだ ろ う。

自分 で意識 で きない ものを自 らの内部 に抱え込んだ結果,

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自己の統一 が破綻 した とい うとい うよ りも, む しろ主体 とい うもの と関係づ けることす ら難 しい無意識 の圧倒 的 な勢 いを設定す ることで,欲望や願望か ら主体 を切 り離 し,制限を加 え,意識 は全能 でなければな らない とい う 近代 の重圧 か らあ る意味で は自己を解放 したのか もしれ ない。 自 らの内部 に抱 え込んでいる未知 な るものがい っ たい誰 の ものなのか, とい う問 いか け自体が,知 と所有 の隠微 な共謀 を暗 に指摘 してい るのだが, この理性 を根 拠 に して世界 を把握 し, そ してそれを所有す る近代市民 社会 の理念 の行 き詰 ま りはまさに統一性 のある自我 とい

う観念 の終蔦で もあ る。

*

夢 の解釈 とい う作業で フロイ トが主張 した ことのなか で最 も重要 な ことのひ とつ と して願望充足があ る。無意

識 を源泉 とす る個人 の秘かな欲望が,夢 の中 においてそ

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のままのかたちで噴出すれば, それ は夢見 る当人 の眠 り を妨 げる。 そのため検閲 とい う規制が働 き,夢 の潜在的 な内容 (夢思考) に歪曲 とい う加工 を施 し,現 にわれわ れが見 る顕在的な内容 (夢内容) として 自 らを表現す る とい うものである。一見 もっともらしい論理のようだが, 何 とも奇妙 な手続 きで, そ もそ も眠 りとい う行為 その も のか ら生 じる無意識 の抜雇が眠 りを妨 げる力 とな るとい う展開 に矛盾 があ ることは一 目瞭然であ る。 またひ とり の人間の内部 で,眠 りを破壊す るほどの根源的な願望 に 耐 え られ る機関 と, それを検閲す るもの と, そ してそれ を受 け取 ろ うとす る機能 が混在 してお り, そのよ うに複 雑 な構造 のなかで複雑 な手続 きを経て伝達 されねばな ら ない願望 の中身 はどうい うものにな るのか。 当然意識 に 上 るのが はばか られ るものだ と想像す るのだが, フロイ トの挙 げてい る例がすべてそ うとは言 い切 れない。 む し ろ何故 この程度 の願望がわざわざ検閲を受 けねばな らな いのか首 を傾 げざるをえない もの もある。願望すべてが 夢 に表現 され るものでない と して も,夢 に表現 され るも のすべてが意識 にとって ネガテ ィブな側面 を もつ とい う 論理 には,夢 と ヒステ 1)‑を同一 の現象,つ ま り夢 もひ とつの病 の徴候 としてみ る見解 と重 な り合 うものがある。

夢 を見 ない人間 はほとん どいないだ ろ うか ら人間全員 が 病 んでい るわ けか。 あ る意味で は人間 は病 んでい るか も しれないが, そ うす るともともと病気 と健康 な どとい う 区別 自体 に意味がな くな り, ヒステ リー も病気 で はな く なる。 にわかに納得 で きない話であ る。精神的な外傷 が 抑圧 されて,意識 に上 るのを拒 み, そ してその抑圧 が ヒ ステ リ‑を生 む とい う。 ところがその ヒステ 1)‑を取 り 除 くには,無意識 の トラウマが意識化,言語化 されねば な らない とした ら, これ は錯綜 した論理であ る。 もとも と意識 に上 るのを拒否 した結果 としての症状が,意識化 され ることで消滅す るとい う奇怪 な経過である。意識化,

言語化 とい うプロセスで当の人間の成熟 と他者 の関与が 重要 な要素 と して働 くことを フロイ トは強調 した いの か。

夢 の解釈 は 「夢 の作業」 を逆 にた どってい くことであ る。論理構造 と して はまず無意識 があ り, それが圧縮 や 移動,形象化等 の検閲 を通過す るための歪 曲過程,つ ま り夢 の一次加工 を経 て,実際 に見 られ る夢 とな る。 さ ら にその夢が夢 見 た当人 が語 る とい ういわ ゆ る二 次 加工 (フロイ ト自身 はこのよ うな表現 を使 って いな いが) 杏 受 けて, いわば客観的な夢,言葉 に変 え られた夢 と して 分析 の対象 にな る。厳密 に言 えばおそ らく,夢見 た当人 が 自 ら意識す るのが二次加工 で, さ らにそれを第三者 に 語 る際 に行 うのが三次加工 だ と考え られ るのだが, フロ イ トはそ こまで細 か く分類 して論 じて はいない。夢 の解 釈 はこの言葉 に変 え られた夢か ら, そ こに至 るまで に加 え られた歪 曲,変形 な どの フィル ターを順次 はぎ取 って いき,最終 的には本体 と しての無意識 に到達す る試 みで あ る。到達 した無意識 は もちろん無意識本来 の形で表現 され る ことはない。 そのよ うな ものなどは じめか ら存在 しないのだか ら。 したが ってそ こで言 われ る無意識 はあ くまで比境 と して提示 され る。逆説 めいて くるが,無意 識 の解 明 は意識 の極限でな され ることにな る。近代的理 性 の担 い手 と しての意識 が, その力 の及 ばない領域 の存 在 に目が向 け られ ることによ って, 自 らの虚偽的性格 が 暴露 された ことはすで に述べた。 ほかな らぬ フロイ トが そのよ うな理性 の刺客で ある。 しか し注意 して みれ ば, 意識 は無意識 を意識言語 に変換す る装置を案 出 し,無意 識 との境界 にまで接近 し, その結果 自 らの限界 を確認す ることで, その延命 をはか ってい るともいえ るのだ。無 意識 とい う謎 の領域 の存在 が クローズア ップされれば さ れ るほどに, それを意識 的世界 に迎 え入れ る働 きも価値 を増す ことにな るのであ る。 そ こに,謎 としての世界が, その謎 を解明 しよ うとす る知 の情熱 と巧轍 を育んでい く 関係 を読 み とることは難 しくない。 こうしてみ るとフロ イ トの思考方法が ヨー ロ ッパの伝統 に連 な っていること はす ぐに理解 で きる。世界 の構造 は分か らない,世界 は あ りの ままの姿 を決 して人間の前 に現 さない とい う前提 か ら出発 し, そのオ リジナルな もの, あ る場合 は真理 で あ り, また神で もあ るよ うな絶対的な存在 を, なん とか してわれわれの経験 しうる表象 に翻訳 しよ うと して きた のが ヨーロ ッパの知的格闘の歴史であ る。 プ ラ トンとい う源流 を遡 るまで もな く,真実 は隠 されて いるとい う前 提が まず あ って, その ヴェールをはぎ取 る作業が知的活 動 と して意味を持 っ。 しか し立場 を変 えてみれば, その よ うな世界があ って, それに対峠す る人間の行為が正 当 化 され るので はな く,人間の知的行為 を意味 あるものに す るために, そのよ うな世界 が要請 された とも考 え られ

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る。真理 やオ リジナルな ものが隠 されているのではな く, 謎 を暴 く知 の働 きを正 当化 す るために,隠 されているも

のを真理 とし, オ リジナルな ものは謎でなければな らな い とい う論理構造 であ る。謎 を発見す る手法のためには, まず謎が創造 されなければな らないので あ る。 時間 的, 因果的論理 と していずれが先か とい うことはさ して重要 で はないだろ う。奇妙 な言 い方 だがそれ は同時 に とい う か,一挙 に進行す るプ ロセスだ ろ う。

フロイ トの夢 の解釈 も同様 の文脈 に並べ られるだろう。

論理的展開 と して は,何 よ りもまず無意 識 が先 にあ り, いわば時間的な因果関係 においての絶対的な先位権 を主 張 し,原因 と しての無意識 とい う地位 を強調 しているの だが,現実的 に無意識 が語 られ うるのは作用 や働 きの効 果 と してのみであ り, その効果が 目に見 え る形 と して, つ ま り夢 とい う徴候 と して確認 されて後初 めて無意識 も また確認 され るとい う仕組 みなのである。 出発点 になる 過去 を決定す るためには現在が絶対 的 に必要 とされ,両 者 を結ぶ因果関係 がそ こで作 られ る。時間の連続性 が逆 か ら作 り出され,後 ろがあ って初 めて照 らし出 され る前 なのであ る。起源を創 出 しよ うとい う試 みであ り, この 起源 は思 い出 されて,物語 られ ることによって しか表層 に出て くる ことはない。夢 の源泉 と しての無意識 か ら生 み出 された夢思想が は じめか ら存在 したので はな く,見 た夢 に夢 を解釈す る視線 を向 けた とたん に, そのよ うな もの として出現せざるをえないのだ

夢判断』 で フロ イ トは無意識 を探 るための徴 と しての夢 を考察す るうち に,夢 その ものよ りも, それを扱 う手っ き,考察の方法, テ クニ ックの妙味 に と りつかれてい く。 それ はち ょうど 探偵 が犯人 その ものよ りも,犯人 を兄 いだす過程,犯人 が隠 そ うとして痕跡 を逆 に探 り出す手続 きに魅せ られて い くのに似てい る。

フロイ トは人間の欲望が何 ものに も先立つ ものと考え, その実現 は文化 や法,制度 によって妨害 され,抑圧 され ると考 え る。 そのよ うないわば社会秩序 を守 るための人 工的な衣装 に人間 は意識す ることな (慣 れ親 しみ, それ を 自然 に身 にまとい,結果 と して衣装がなおい っそ う人 間 の欲望 を押 さえつ けるのに力 を貸 して きた と考 え る。

それゆえ まさに この衣装 を剥がす行為 こそ, ヨーロ ッパ の文化 と歴史 を批判的 に相対化す るものであ り, 自 らの 知 の価値 を保証す るもの とな る。夢 の読解 は, そ こに至 るまで ヨーロ ッパ文化 が 自然 と野生 に対 して行使 して き た抑圧 と隠蔽工作 を暴露す ることであ り, それ に力 を注 ぐフロイ トの異常 な情念 のなか に ヨーロ ッパ近代 の行 き づ ま りとこの野生 の復権が読 み とれ るのであ る。

*

無意識 は意識 を限界 づ けるのに,知 の通用 しない媒体 を提示 す る.つ ま り意 味不 明 の イ メー ジを提 供 す る

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「ほとん どの夢 は, その当事者 ににわか には理解 されず, 夢が意味を持っ とい う命題 はあか らさまな反論 を受 ける 可能性 がある。夢見 る人が夢 の伝 え るメ ッセー ジの意味 を記録 し損 な うのがふつ うだ し, なん らかのメ ッセージ が込 め られていることす ら記録 し損 な うものだ。」4)む し ろ意味を理解で きないか ら記録 し損 な うとい った方が正 しいだろ う。 もちろん意味が理解で きない ことは,意味 がない ことと同 じで はない。別 の次元 の問題 で ある。検 閲を通過 させ るために歪 曲 した結果,夢 の伝 え よ うとす ることが分か らな くな ってい るとい うのが フロイ トの見 解 だが, これ は夢が何 らかの 目的を持 った もの とい う機 能論 にあま りに も囚われす ぎて いるよ うに見 え る。願望 充足,抑圧,歪曲,検閲 とい った一連 の夢形成 の構想 に は,人間の社会制度 をそのまま心 の世界 に持 ち込 んだ安 直 さが付 きまとうのだ。人間社会 の政治 的葛藤が心 の仕 組 みにま った く反映 しない とは考 え られないが, それで ほとん どが解 明で きるとは納得 しがたい。 ライ クロフ ト は夢 の意味が理解 で きないの は, そ こで有効 な言語 の質 が覚醒時 とは異 な るせ いであ り, ランガーの定義 を援用 して覚醒時を論証 的 (discursive), 夢 の それ を非 論証 的記号 体 系 (non‑discursiveSymbolism)と呼 ん で い 。5)繰 り返 しにな るが,夢 の内容が非合理 だか らといっ て, それが夢見 る人間 にとって非現実 だ とい うことには な らない。非合理 とい う判断 は, あ くまで も覚醒 した と きの視点 か らの もので, われわれ は夢 を見 ているまさに その ときは,夢 に納得 している。 リア リテ ィは十分感 じ て いる。 ただそれを 目覚 めてか らの 自分や他者 にその リ ア リテ ィを伝 え る言葉 を もって いないだけであ る。 同様 に非合理であ った と して も, それが思考でない とはいえ ない。言語や理性 に価値 を置 く文化 で は夢 に現れ るよ う なイメー ジや視覚映像 を思考 とは見 な さない。絵画や音 楽 とい う限 られた世界 に,つ ま り芸術 とい う制度 にその よ うな思考 を閉 じこめ, それを一般 に通用す る合理性 の 範時か ら隔離 して きた。芸術 は腔 め られて きたわ けで は ないが,思考 は文字言語 によって獲得 され るとい う圧倒 的な固定観念 の傍 らで,人間の感情生活 の一部 を慎 ま し

く支 え る役割 に甘 ん じて きたのである。無意識 を前 に し ての意識 の不能 は, そのよ うに言語 を操 ることで世界 に 向 き合 い,近代世界 の骨格 を支 えて きた合理的な 自我 の 挫折 であ り

,

夢判断』 は夢 を語 りなが ら, 新 しい 自我 のあ り方 の可能性 を模索 してい るとも考 え られ る。

出発点 に立 ちかえ って,夢 を解釈す るとい うの は,夢 が意味 ある現象であ ることを前提 とす る。 ここで意 味 と い うの はた とえば夢 が単 に生理 的 ・肉体的現象で個体 の 生物学的な持続 のために意味があ るとい うよ うな ことを 言 っているので はな く,何 らかのメッセージ性をともなっ てい るとい うことであ る。 メ ッセージには必ず発信者 と

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受信者 が想定 されねばな らず, その間である事柄 が伝達 され るとい うことは,つ ま りコ ミュニケー シ ョンが成 り 立 っ とい うことはそれだ けで同時 に意味が生 じた ことに な るのである。意味 とい うの はそれ 自体 自立 して絶対 的 にあ るとい うもので はな くて,必ず あ る もの に と って, あ るいは誰 か にとって意味があ るといえ るものだ。 それ で は夢 は誰 か ら誰 に発せ られた ものなのか。夢 の発信者 は これ は自己以外考 え られない。 もちろん集合的な無意 識, 自己を越 えた ところか ら発す るメ ッセー ジが個人 の 夢 と して出現す るとい うよ うなユ ングの主張 もあ るが, それ は結果 と してそ うい うもの もあ りうるとい うことで あ って, すべての夢がそ うであるはず もな く,夢 の解釈 が もともと精神分析 とい う治療行為 の一環 と して案 出 さ れ た ことを思 えば,個人 の生 の もつ個別性 と深 く関与 し て いるものであ る。 自己か ら発す るものがそれを見つめ る自己に意味を持 たないわ けはないのであ る。 た とえば 身 の回 りにある石 ころや塵芥 があ る人間 にとって意味が あ るか どうか は, これ は考 え方 の もちよ うによ って ど う にで も解釈で きるものだ。石 ころを意味 あ る存在 にす る 絶対 的な根拠,つ ま り受取 る側 の人間 との否定 Lがたい 関係 な どないか らであ る。 しか し夢 は違 う。夢 は (私) とい う空間 に出現 し, それを (私)が経験 しているのだ か ら。逆説的だが, こう考 えて くると, いわゆ る現実 と 夢 を比べれば,確実 に意味のあ るのはむ しろ夢 の方 だ と もいえ るのである。夢 は自己か ら自己に発せ られた もの で あ る。

*

フロイ トの願望理論 は夢 の もつ表現的な機能 ばか りを 重要視 していた。検閲 の忌避,歪曲などの発想 はすべて 表現者 の側か ら来 るものであ る。 メ ッセー ジが理解 され るとい うのは発信者 と受信者 が同 じコー ドをよ りどころ に しているとい うことだ。 フロイ トの考 えで は,無意識 か ら発す る願望 は自 らの意図 を隠 そ うと しなが ら,同時 にその存在 を知 らせ るサイ ンを送 って い る ことにな る。

これ は隠 したい相手 と,知 らせたい相手が別 々にいるこ とを明確 に示 しているもので,超 自我 や前意識 な どの中 間領域 を もうけて心 の世界 を分割 したのは この ことに由 来 す る。 その根底 にあ るのは無意識 の破壊的 エネルギー の噴出 とその抑圧,馴制 とい う対立構造への信念である。

意識 と無意識 は,徹底 して快楽 を追求す る根元 の欲望 の 倫理的意味をめ ぐって対立 してい るのであ り, その次元 で は同 じコー ドの上 にあ るのだが, その欲望 の内容が伝 達 され るとい う次元で は別 の コー ドに属 してい る。夢 が 不可解 なのはそ こか らくるのだが, 同時 にその コー ドさ

‑正 しく理解すれば, つ ま り夢 の変換装置を掌握 し,夢 を的確 に解釈 しさえすれば,夢 は意識 の言語で読 み解 け ると確信 して いるのだ。 しか し実際 にそ うなのだろうか。

読 み解 かれた とい う夢, た とえば フロイ トの 自己分析 の 精華 とも評価 され る 「イルマの夢」 を読 めば,精微で 目 配 りの十分効 いた読解 には目を睦 る ものが あ るのだが, そ こで感 じる驚 きは夢が正 しく読 み解かれて いるとい う 実感 か ら来 るもので はな く, あ る出来事 か ら言語的かつ 心理 的な連想 を最大限 にまで引 き出 している実例 を前 に した ものである。 いわば意識言語 の精細 な力業 を見 てい るよ うで, い ったん引導 を渡 された意識 の権力が, こと もあろ うに フロイ トによ って復権 を果 た しているよ うな 奇妙 な光景 なので ある。 フロイ トは無意識 の力を前面 に 出 しなが ら, その無意識 か ら力 を吸引す るよ うに して意 識 の表現力 を拡大 し,結果的 に対立 の図式 を先鋭化 して いるのであ る。

それに して も夢 はほん とうに不可解 な ものだ ろ うか。

夢が不可解 になるの は, 目覚 めの直後 にその夢 に因果的 な繋が りを見つ けだそ うと した ときであ り,第三者 にそ れを語 ろうと した ときであ って,夢 を見ているときで は ない。第三者 や意識 的な 自己へ の橋渡 しと して夢 の二次 加工 が施 されていることにな っているが, よ く考 えれば この作業 は夢 を表現す る立場 か らの もので はな くて,夢 を発見す る (意識) の方 か らのアプローチであ り,夢 を 理解す るためのプロセスであ る。 このあたり 「夢の作業

とい う用語 につ いて も夢 を発す るもの と受 け取 るものの 視点が混用 されて いるといえ る。夢 は少 な くとも夢 のな かで は十分 に理解 されている。理解 されてい るとい う言 葉 が的確でないな ら,現実感 を もって受 け入れ られてい るとい って もよい。 フロイ トは夢見 る時を覚醒時 とは厳 密 に区別 し, それを対立的 に捉 え ることで, 自我 の構造 自体 も欲望 の完遂 とその抑止 とい う分裂 と対立 の図式 に 置 き換 えて いる。 しか しわれわれの 自我 はそれ ほど対立 的に分裂 し向か い合 って いるのか。夢 とい う空間 におい て は夢 の意味 は確実 に伝達 されているので はないか。つ ま り夢 のイメージの意味 は, フロイ トが考 えているよ う な (意識) に対 して は不可解で はあるが,夢 のメ ッセー ジの受信者 は もともとそのよ うな狭陰 な自己意識,つ ま り自分以外 の第三者 を意識 した 自己で はない。夢 は個人 的で,私的でそ してただ 自分 にのみ向 け られた コ ミュニ ケー シ ョンであ り,他者 とその意味を分 かち合 う必要 が ない現象 であ り, その意味を獲得す るのに公的な文法 を 要す る言語 は必要 ないのであ る。 その意味で は夢 はわれ われが 日常, ごく自然 に行 って いる想像行為 と同質 なの であ る。想像 は必ず しも論理 的な言語 の管轄 にあるわけ で はない。夢 の ごと く視覚的なイメー ジに頼 ることもあ れば,才能 によ って は聴覚 や嘆覚 に拠 る場合 もあ る。 し か しそ うであ って も思考であ ることには違 いはない。夢 においてた しか にいわゆ る意識 的な言語 の力 は弱 め られ ているのだろ うが,思考 それ 自体 は決 して休止 している

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わ けで はないのだ。 そ して この思考 は絶 えず 自己 自身‑

メ ッセー ジを送 り続 けて い るので あ る。

非論理 的 な言語 の領域 は意識 の支配す る論理 的 な言語 と対立 す るので はな く,一人 の人 間 の思考 をそれぞれ に 支 え る機能 を もつ。 しか しヨー ロ ッパ近代 の知 的営 みの 歴史 のなかで, あ ま りに も論理 的 な る ものへ重心 を置 か れて きたが故 に歪 め られた 自我 の構造 が, フロイ トを し て,非合理 な ものが圧迫 を受 けて い るとい う観点 か ら夢 を解釈 させ る ことにな ったのだ ろ う。非論理 的領域 か ら の絶 え間 ない メ ッセ ー ジは次元 を異 にす る意識 ‑ 向 け ら れた もので はな く, それを受 け取 ることによ って, まさ にその よ うな メ ッセ ー ジを受 け取 る ことので きる機 関 と しての存在 を証 明す る もので, それ は夢 によ って復権す るので あ る。 この機関 が統 一 的 な 自己だ といい きれ る も ので はないが,覚醒時 の (自我) が拒絶 し, あ るいは拒 絶 された記号世界 と通 じて い るとい うことで は,理性 の くび きで動 きが とれな くな った近代 の 自己意識 の弱点 を 補 うもので あ る。 この よ うに夢 を見 るとい う行為 が ( 請) とは別 の次元 での (自己) の創造 に関わ る ものだ と すれば,夢 の解釈 は,夢見 る人 が一見 あ らゆ る記号体系 か ら切 り離 され た 自 らの夢 を 自分 自身 の総体 との間 に関 係 を確立 させ よ うとす る試 みだ と考 え られ る。

一匡∃iiii

使用 した 『夢 判 断』 の テ キ ス トはSigmund Freud : StudienausgabeinzehnBanden.Hrsg.vonAlexander Mitscherlich, Angela Richards, James Strachey.

Frankfurtam Main (S.FischerVerlag)1972,Bd. DieTraumdeutung.

1)W.M.ジョンス トン (井上修一,岩切正介,林部圭一訳)

『ウィーン精神』みすず書房 1986 338貢以下参照 2)R.Schaferは精神分析が人間の内部をまった く自然科学

の対象のように語 る傾向に異議を申し立て,「行為言語」 を 用いることを提唱 している。それによれば行為 というのはあ る方向性をもった人間の態度 (Verhalten)全体をいうので あって,その考え方にならえば,考える」 こと,話す」 こ と,また 「何 も言わない」 ことも何かを 「思い出す」 ことも 行為 と言 うことになる。だとするとたとえば夢 という現象 も

夢」を 「見る」 という風な観点か ら分析す るのではな く,

考える」や 「思い出す話す」 と同 じように 「夢を見 る」

という人間一般の普通の行為 と見なすことができるというの であるoVgl.:RoySchafer:ElneneueSpraceftirdie Psychoanalyse.ubers.YonWolrgangKrege.Stuttgart 1982S.70ff.

3)P.リクール 『フロイ トを読む』 久米博訳 新曜社 1982 38

4)C.Rycrort:ThelnnocenceofDreams.London1996 p.47

5)Ibid"p.18

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参照

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