道徳的価値判断の源泉としての
Ressentimentについて
三 輪
健 司
On the Ressentiment as a Source of Moral Judgement Kenji Miwa “凡ての高貴の道徳(Vornehme Mora1)が 勝ち誇った自己肯定から生じるのに反して,奴 隷道徳(Sklaven Moral)は,外のもの,他の もの,自己でないものを頭から否定する。そう してこの否定が,郎ち奴隷道徳の創造的行為な のである。評価眼のこの逆説一自己へ帰る代り に外へ向うこの必然的な方向一これこそまさし くRessentimentの本性である。”①そしてか 様のRessentimentは,“吾々が少さい日常生 活に於て吾々の前に見るところの諸々の出来事 と同じく,道徳観の歴史に於てもまた偉大な全 出来事を吾々に了解せしめる。”⑨“吾々の思 惟の種類は低度ではあるが,単なる否定と批判 とに創造的な力をひそかに混入するところのこ の毒物,即ちRessentimelltによって養われて いる。」e③それ故にRessentimentは人間の本 性に不可避的なものであり,吾々の日常の道徳 的行為の多くはまた,その多小にかかわらず, このRessentimentに基づく価値錯覚による ものといわなければならない。その時人々は Ressentimentによって,その価値を感得し意 欲しながら,而もそれを得る能力を欠く時には, か様の意欲の対象は実はその対象たるに値する 価値を持たないものであるという一種の価値錯 覚に陥る傾向がある。“我々は如何なるものも それを善と評価するが故に,それに対して努力 し,意志し,衝動的に努力し,欲望するのではな くt’むしろ逆に吾々がそれに対して努力し,意欲 し,衝動的に努力し且欲望するが故に,吾々は あるものを善と評価する”④というスピノーザ や,“ある人の欲求ないしは欲望する対象がい かなるものであろうと,それはその人に関する 限り善なるものと考えられ,嫌悪や忌避の対象 は悪なるもの,また無視の対象はつまらぬ,と るにたらぬものと考えられる。それというのも 善とか悪無視というような言葉はそれを用い る人と関連して常に用いられるからであって, 純粋に且つ絶対的にはそのようなものは全く存 在しないし,また対象そのものの性質から導き だされる善悪の普遍的な規準というようなもの も存在しない”⑤というホッブスによって代表 せられる価値主観主義は,実に価値錯覚の根本 形式である。それ故に純正の道徳はRessenti− mentにその基礎を持つことが出来ないとする ニーチェの主張は正当ではあるが,然し彼が同 時にまた‘‘高貴な種類の人間は,自己を価値決 定者として感ずる。彼は他人によって是認され ることを要しない。彼は判断する,一》われに害 あるものは,それ自体有害であるくと。彼は事 物に名誉をあたえる最初のものとしておのれを ①②③④⑤ 木場訳:ニーチェ,道徳の系譜(岩波文庫)S.37. M.Scheler=Vom Umsturzdar Werte B.1. S.96以下同書をUms.と略記する。 Ums. S. 96. Otto Baensch独訳:スピノーザ, Ethik S.109定理9註 戸鞠訳;ホソブス,リゾィアサンS.67.4 滋 大 紀 要 第 6 号 1 9 5 7 自覚している。彼は価値の創造者である”⑥と いうとき,彼もまた“発見者酌誤謬”⑦に陥っ ているといわれなければならない。この点に寝 て彼もまたコロンブスと同様であった。蓋し“ 発見者であって自らの発見した所のものの何で あるかを完全に知悉している例は稀である”⑧ から。これに対してシェーラーの価値客観主義 によれば,“純正の道徳性は,永遠なる価値の 段階秩序と,これに相応する明瞭な:る価値優劣 判定法則とに依存し,そしてこの法則は数学の 真理と同様に客観的且厳密に洞察されるもので ある。パスカルのいうが如く,道徳的天才が少 しずつあばき出すところの心の秩序と心の論理 があり,そしてこれ等自身は歴史的(histori・ sch)ではなく,歴史的であるのはその把握と獲 得のみである。然るにRessentimentは人間 意識に於けるあの永遠なる秒序の転換の一つの 源泉であり,それはあの秩序の把握に対する錯 覚源泉,即ちこの秩序を生活に於てする誤れる 想像の錯覚源泉である。”⑨それ故にここでは, “か様の価値錯覚の形式を価値把握の正常にし て真正なる形式にしょうとする理論更に一歩 進んで一種の価値生産の形式としょうとすると ころの理論が,如何に誤りであるかということ は”⑩極めて明らかなこととされる。 それではか様の価値錯覚の源泉であるところ のRessentimentとは如何なるものであり, そしてまたそれは如何にして形成せられるもの であろうか。 Ressentimentは体験統一,作用統一とし て,現象学的には単純な心理現象であり,⑪そ して“それは全く一定の原因と結果とを持てる 心的自己中毒(Seelische Selbtvergiftung)で ある。それはそれ自身では正常であり,人間性 の根本現象に属するところのある心意運動と激 情(GemUtsl)ewegungen und Affektion)との 爆発の,組織的になされる撃退によって生ずる ところの持続的な心的態度(Seelische Einstel・ lung)である。そしてこの態度はその結果とし て一定種類の価値錯覚と,この錯覚に相応する 価値判断に対するある持続的な態度を生ずる” ⑫めである。従ってそれは激情の如き強烈な情 緒ではなく,中に隠り,辛棒強く静かに燃え続 ける憎暮に充ちた情緒であり,復讐(Rache), 羨望(Neid),嫉妬(Scheelsucht),憎悪(Hass), 悪意(Bosheit),陰険(Hamischkeit)という が如き激情と深い関係を有する。⑬これらの激 情はその性質上,一時的爆発的であるのに対し, Ressentimentは永続的である。そしてこれら の激情はその爆発に於て解消する性質を有する が,Ressentimentは正しくこれとは反対に, これらの激情が内外の障害によってその爆発を 反復阻止されるところに,即ちその反抗的爆発 阻止による激情が,漸次内向的消極的となり, 習性化するところに生ずる。習性は一種の心的 態度ということが出来る。従ってか様の心的態
度としてのRessentimentは,もはやある特
む 定の対象の意図は持たないが,然し逆に特定対象の意図は,凡てこのRessentimentによっ
て規定せられるようになる。それ故に,1.消極 的反応性,2.心的態度としての一般性,3.価値 錯覚の源泉は,Ressentimentの本質特徴であ るといえ得よう。その反応性に於て,上記の激 情と同一種類と考えられるが,その消極性,一一 般性に於てこれら欲情と区別され,特にその価 値錯覚の源泉たる点に於て,その根本特徴が最 も鮮明にされる。か様の価値錯覚は価値自身の 錯覚であり,これによって価値と価値の段階秩 序とは全く顛倒され,それ故に価値錯覚は正常 化され,ニーチェのいう奴隷道徳が正常にして 真正道徳と見倣されるようになる。ここでは, 以上の如き激情の中で,最も強烈な復讐及び羨 望との比較に於て,Ressentimentの本質とそ の形成過程とを明らかにしよう。 e Ressentimentと最:も深い関係を有する ものは復讐心である。一般に抑圧のないところ には復讐心は起らない。それ故に復讐も記述の 如く一種の応答反応である。他人によって加え ⑥竹山訳:ニーチェ,善悪の彼岸(新潮文庫)S.270⑦③ @ Ums. S. 95. @ M. Scheler: Formalismus. S. 33. @@ ibid. S. 55. N. Hartmann: Ethik S. 42. @ Ums. S. 51.られた損傷に対する直接的報復は,反撃心(Ge− genschlag)によるのであって,これはその直 接性に於て復讐心とは区別されねばならない。 反撃心には一般に強い怒りが伴い,そしてこの 怒りの直接的衝動的爆発に於いて反撃心もまた 解消する。これに反し復讐心はか様の怒りの抑 制によって形成される。復讐心には》江戸の仇 を長崎で討つくというが如き隠忍性と持続性が ある。〉いまにみろ《ということは復讐心の根本 特徴である。人はその復讐の成就のためには, 凡ゆる困難に耐え忍ばなければならないし,ま た耐え忍ぶことが出来る。それ故にシエーラー によれば復讐心の現象的特徴として第一には, 直接的な反撃心をある期間持続的に抑制し,復 讐の成功のための条件が整うまで辛棒強くその 時を待つということ,そして第二には,復讐心 は徹頭徹尾ある特定の対象に対する復讐の明瞭 なる意図を有するということが挙げられる。⑭ 然らば何故に反撃に於ける直接的衝動的爆発が 復讐心に於ては抑制されるのだろうか。 直接的反撃に於ては,直接的衝動的爆発に於 てその怒りは解消されるのであるが,その際♪ こには,反撃の成否の意図は存しない。これに 反して復讐心に於てはその意図は復讐の成就に ある。然るに事実復讐者は直接的反撃の成功に 対する先見的確信を欠くものである。このこと はまた成功に対する力の欠如を意味する。力の ないところに意図遂行に対する確信は生じ得べ くもない。それ故に復讐心は本来無力の体験 (Ohnmachtserlebnis)の上に生ずる体験であ む む り,この意味に於て復讐心はまた本来弱者の事 む 柄である。強者は反撃し,弱者は復讐する。然 しその無力に悩みながら,叉は強き圧迫下にあ りながら尚且復讐しようとする意志には,消極 的な強い意志志向がなければならない。この持 続的志向が弱者をして復讐の成功に対する希望 のを抱かしめる。それ故に復讐心は本来ある特定 の対象に向けられた復讐(gerichteten Rache) であり,この復讐志向(Rache−lntention)が, 復讐心を一方では単なる激怒から区別すると共 に,他方Ressentimentから区別する本質徴 表である。そしてまたか様の復讐志向の:支え が,その正当性(Rechtsei11)の意識である。 ここから,正義は実現せられなければならず, り 正当なる復讐は何時かは必ず果されなければな らないという強い当為要求が生れる。そしてこ の当為要求が高揚する場合には義務意識とな る。それ故に復讐はその成功の確信の下に義務 として感じられ,その現実的成否は別として復 讐の遂行を怠るものは,その無力に悩むのみな らず,義務の不履行として良心の女癖に苦しま なけれぽならない。ギユイヨーはダーヴィソの ある義務の観念についての報告について次のよ うに述べている。オーストラリア人は自己の種 族の者が死ぬとそれを近隣の他の種族の呪誼の せいにする。そこで彼等は近隣厘族の者を殺 し,近親者の死に復讐することを以て神聖な責 務と考える。病気でその妻の一人を亡くした土 人は,その復讐を禁じられることによって悔恨 に責め苛まれ,生気を失い食うことも眠ること さえ出来なくなった。然し復讐を果した後に於 てはまた再びすっかり元気になった。⑯ それ故に復讐心は無力のために反撃衝動の抑 圧によるその単なる延期を意味する。この無力 の体験による不能(Nichtkδnnen)の意識は, 報復延期の理由であっても,決してその断念を 意味するものではない。直接的報復は延期され む む ても何時か必ず遂行されなければならない。そ こには成功に対するひそかな確信がひそんでい る。復讐者はその無力を時を以て補うものであ り,そしてこの時の麦えが義務意識であるとも いい得る。従って加害者と復讐者との間に,そ の力の相異の明瞭なる意識が存し,而もそれが 運命と感ぜられる場合には,もはや復讐心は生 じ得べくもない。例えば自ら奴隷と感じている 奴隷には,主人の如何なる暴行に対しても復讐 心は生じ得ないだろうし,叉,一般に子供はそ の親に対し,児童はその教師に対して復讐心を 起さない。本来無力体験に由来する復讐心は弱 者の事柄ではあるが,尚そこには正当性の意識 を裏付けるある種の対等の意識を伴っている。 ホッブスは人閥は自然ながらには平等(精神的 @ Ums. S. 56. ⑮長谷川訳:ギェイヨー,義務も制裁もなき道徳(岩波文庫)S.63.
6 滋 大 紀 要 第 6 号 ユ 9 5 7 肉体的能力の総計に於て)であり,能力の平等 から希望の平等が生じ,ここに猜疑は由来し, 猜疑から暴力や諸口による争いが,即ち》総て の人間に対する総ての人間の戦争くが生ずると いう。⑯本来的な奴隷と主人,親と子,教師と 児童との間には何等の意味に於ても対等の意識 は存しな:い。それ故に主人,親教師による加 害は,それが特別に大きいか又は病理的でない 限り,被害者には当然のこととして一甘受され る。これに反し,対等の意識は不当の加害には 耐えられない。不当の不均衝は恢復されなけれ ばならない。他からの不正に対して永遠に屈し 得ないということは人間の高貴の本性である。 従って不当の加害に対する報復としての復讐も また人間の本性に属する。ところがこの復讐心 が抑圧によって反復延期されるとき,一:方に於 てはある特定の復讐対象への志向を失うと共 に,他方それが習性化し,その結果生ずる特殊 の心的現象としての復讐心は,一般的心的態度 としてのRessentimentを形成する。殊に偉 大な誇りが,長い間不当の圧迫や,不当の外的 社会的境位におかれる場合は,Ressentiment の形成にとっては最も好都合であろう。それ故 に次のように主要な社会学的命題が成立する。 即ち“政治的合憲的な,又は風習に相応した法 的地位と集団の与論的な勢力及びその実際の力 の関係との間の》分化くが,大きくあれぽある 程それだけこの心的ダイナマイトの多量が形成 される”⑰という命題がそれである。この分化 こそ祉会革命の原動力である。換言すれば,形 式と実質との不均衡の社会は,実にRessenti− ment形成にとって最も重要なる社会的要件 である。か様の祉会事態に於ては,一種の補償 作用として,力による反抗に代わって,所謂 Ressentiment kritik⑬カミ現われる。それは一 種のうつ憤画しとして何等の積極的意味をも 持たない批判である。力ある者は端的に自らを 表現し主張するが,弱者の主張は常に他の批判 と否定とからはじまる。そしてその批判に寝て は言行は一致しない。それは主張と意欲との不 一致であり,自己の無力のための不安と恐怖の 補償としての大言壮語である。か様の批判の究 極の基盤は権力への意志(Wille zur Macht) とは反対に,権力に対する畏怖(Scheu vor der Macht)であるといい得る。⑲
⇔ シェーラーはRessentimentの形成の
第二の出発点として羨望を挙げる。⑳羨望も復 讐と同様に消極的感情として,無力感より生ず る感情である。然しこの場合,無力感の原因は自 己自身であるよりは,他人にあると感ぜられる。 羨望は“他人が貨財を所有することによって, 貨財獲i得のための努力に対するところの無力か ら生ずる。”⑳貨財獲得のための努力にも拘ら ず,それを得る力の欠如による無力感との間に 生ずる一種の緊張感は,貨財所有の他人との 比較に由来する。それ故に無力感による単なる 不快の念を,羨望にまで至らしめるものは貨財 所有の他人との比較より生ずる一種の錯覚とし ての,因果関係による錯覚(Kansaltauschung) によるのである。“私が獲得せんと努力すると ころの貨財を他人が所有していることについて の単なる不快感は羨望ではない。か様の単なる 不快感は,貨財を何等かの仕方で,即ち労働, 購入,暴力,掠奪等によって獲得する動機であ る。”⑳ところがどうしてもこの貨財を獲得する ことが出来ず,而もそれと共に他人との比較に 於て自己の無力感が体験せられるとき,この貨 財獲得の不可能の原因が,他人の貨財所有に帰 せられることによって初めて羨望となるのであ る。羨望も復讐と同じく,その深い基盤を無力 感に於て有するものであるが,然しその無力の 原因が他人に求められるところに両者の本質的 醤油がある。それ故に羨望は,利欲(Habsucht), :支配欲(Herrschaftsucht),虚栄心(Eitelkeit) のように,文明発達の動力と見ることは出来な い。後者は獲得への意志(Wille zum Erwerb) を強化するものではあるが,前者はむしろ本質 酌には,その無力感の故にか様の意志を弱体化 するものである。従って羨望も復讐と同じく Ressentiment形成の主要成素をなすものであ ⑯戸鞠訳;リゾィアサンS.143−146, ⑰ @ ibid. S. 63. @ ibid. S, 64. @ ibid. S. 65. Ums. S. 62. @@ ibid. S. 65.る。 一体多くの人間の生活は他人との価値比較の 生活である。そしてこの価値比較に敵て自己に 対する他人の優位に於て劣等感が生じ苦痛を感 じる。それ故にまた吾々の多くの意識はこの苦 痛感の解消と密接な関係を有する。吾々の仰い で模範とする理想像も,何等かの意味に於てこ の自他の価値比較に関係がある。例えば若しも 吾々が英雄をその理想縁として選ぶならば,そ れは英雄iに断て他人に優越した価値を見出すか らに外ならない。然し,この自他の価値比較に「 於て,高貴なる者と卑俗なる者とでは,その比較 の仕方に於て全く相反する。シェーラーによれ ば“高貴な者とは,その現存の意識的瞬間を速 続的に賊す暗き,彼の自己価値と存在充実の全 く素朴な無反省の意識,即ち,云わば宇宙に於け るその自存的な根源性(selbstandige Einge− wurzeltheit)についての,か様の意識を持つ ものである。”⑳然しか様の高貴の意識は,高慢 (Stolz)と判然区別されなければならない。高 慢は自存的な自己価値意識の欠如に由来するも のであり,従って自己価値とその存在充実との 減少意識に対する人為的の防禦である。それは 直接自己の価値を自指すもの”⑳であり,か様 に“金縛りにされるが如くその眼が自己の価値 に懸っているところの高慢の人は,必然的に夜 と暗の中に生活する”⑳人である。高慢の壁に 囲まれた牢獄に鞭ては,人は豊かな価値世界の 中にありながら価値世界の光と遮断されるため に,その壁は段々高く築かれ,いよいよ以てそ の価値世界は狭醗となる。高貴のものは自己の 外に出て理想へと向上努力し,自己と竹馬と一 切を超越せんと努める。また彼は自己価値に捕 われず,自己と同様に他人を重んずる。それ故 に高貴の人は内的には謙譲の人(der Demuti− ge)である。シエーラーによれぽ,“謙譲は愛の 様式であり,それは苦痛に充ちた高慢が,漸次 馬蝉となる自我を,帯びで巻きしめるところの 硬い氷を,全く太陽の如き力で打ち破るもので あり”⑳また“それは単なる自己生活の中にあ @ jbjd. S. 68. @ ibid. S. 29. @ ibid. S. 69. @ jbid. S. 28. @ ibid. S. 31. (gl) ibid. S. 70.
⑳⑳⑫
る,あの限度以上に尚心が繰り拡げられるとこ ろのあの深い技術である。”⑳庭に“謙譲は高慢 に対して凡ての価値の世界に対する精神的眼を 開くものである。”㊧ それ故に“謙譲は富者の 徳であり,高慢は貧者の徳である。凡ての高慢 はやせ我慢(Bettelstolz)であり,悪魔であり, 否定者である。”⑳高貴な者は仮令それが素朴な 無反省な而も暗きものなるにもせよ,その存在 が自己価値意識に充され,孤独を怖れず安価な 妥協を嫌うが故に,その価値態度は積極的であ り,価値判断の基準を常に自己におく。従って 彼はもはや他人によって動揺させられるような ことはない。彼は他人の積極的価値を落着いて 受理することが出来るし,また世界の価値充実 を喜んで甘受し,そしてより以上愛しようとす る。これに対して高慢の人は,凡ての価値世界 を自己から遮断し,他を否定することによって 自己の内に籠る。彼は他人の眼を怖れ,他人の 眼を以てのみ自己をも見る卑俗の人である。そ れ故にシェーラーはいう。”高貴な者のこの素 朴な自己価値感情は,彼の本質と存在自身に関 係する。それ故に彼は正に他人が彼にこの〉特 性く》特性くに於てすぐれて居り,これ又はあ の能文はあの力に於て,’更には凡ての能力に於 てすぐれているということを落着いて自己と比 較しながら認めることが出来る。”⑳これに対し て卑俗な者は,“自己価値把握と他人価値把握 とが,自己価値と他人価値との》阻めく関係把 握に基づいて実現されるという点に於て,そし て自己価値と他人価値との間の》可能なるく分 化価値のみが,一般に把握されるという点にあ る。”⑳高貴な者の価値態度が自己から他人と事 物と世界に向うのに対して,卑俗の者の価値態 度は正しく逆である。それ故に彼は単に他人と 価値比較をするのみならず,常に自己の劣弱に 悩む者である。”高貴な者は比較》以前くに価値 を体験し,卑俗の者は比較に》撃てく且つ比較 を》通してく初めて価値を体験する。構造,即 ち自己価値と他人価値との関係は,それ故に卑 俗の者に於ては自己自身の価値把握一般の選択 ibid. S. 30. ibid. S. 30. ibid, S, 70. @ ibid. S. 30−31.8 滋 大 紀 要 第 6 号 1 9 5 7 の条件となる。同時に卑俗の者は……それ故に 他人自身を他人に於て》測るくことがない。”⑫ 自他の価値比較関係による自他の価値把握と いう卑俗的な一般的な態度が,それぞれ強弱の 力と結びつくとき,この卑俗な者の類型は,野 心家(Streber)の型とRessentimentの人の 型とに分れる。 ←)シェーラーによれば,野心家の本質はそ の目標の如何を問わず,目標に二っての強力な 突進にも,またその達成にもあるのではない。 野心家もまた一種の羨望者たることには変りも ない。従ってその自己価値は常に他人との価値 比較に於て与えられる。ただ彼には比較的に力 の体験がある。それ故に自他の価値比較に予て 彼は他人以上であらねばならない。即ち“彼は 他人との可能なる比較に於て,より以上の存在, より以上価値あること等をその努力の目標内容 として,何等かの性質の事物価値の》前にく常 に押し立てる人である。”⑩か様に自他の価値比 較の可能が野心家形成の根本条件であるから, 社会制度的に身分の固定した,例えば印度のよ うに四姓の身分的階級制度の確立している祉会 に於ては,野心家は存し得ない。か様の社会に 於ては階級的差別は運命と感ぜられるが故に, 階級間の価値比較は本来なし得べくもない。即 ち“か様の時代に於ては全く各々が》おかれて いるくと感ずるところの,神によって与えられ た地位,自.然に与えられた地位の思想が,凡て の生活関係を支配する。この地位価値の内部に 於てのみ,各人の地位の価値感とその願望とが 回転しているにすぎない。王様から娼婦や荊吏 に至るまで,此の世界に於ては各々が,その不 動の》地位くにあるというあの形式的な高貴の 態度を負っている。”⑧これに対し野心家の存し 得る社会は,凡てが凡てに対して優越せんと意 欲し得る社会であり,か様の社会は所謂競争組 織の社会である。ここでは各々の地位は過ぎ行 く》一点くにしかすぎず,彼の努力を制約する 何物もない。宴に凡てに対して無制限の社会で @ ibid. S. 71. @ Ums, S. 74, @ FQrmalismus. S, 234. ある。 ⇔ 自他の価値比較に自己の無力感が結び付 くとき,羨望者は最も典型的なRessentiment 型の人間となる。この価値比較に於ける他人の 優越に対し,同時にまた強い無力感を抱くため に,いよいよ以て絶望的な劣等感に陥らざるを 得ない。この苦悩に充ちた緊張の解消はここで は,幻想的な価値付与による以外には途はな い。即ちそれは幻想的な価値付与による価値の 顛倒である。か様の価値錯覚を吾々はRessen− timenttauschungと呼ぶことが出来る。 この 錯覚の現象的特性とも云われるものは,価値担 り 持者に関する錯覚,即ち価値認識の錯覚ではな く,価値性質の存在自身についての錯覚である ということである。従って“それがその実現に より以上の力,苦労,労働等を要求するが故に, それをより価値あるものとみるということは, 全く一種のResselltimentによる価値錯覚であ る。”⑧》失敗は二化の母である《とか,》平門汝 を玉にすくというが如き精神に於てみられる, 消極的価値感情体験をより積極的な,より高い 価値実現の意欲の必要条件とする心情倫理学 む は,例えば溺死者に対する救助行為と救助の願 望とを区別しない心情倫理学は,心情錯覚を見 落している。それ故に,“専ら心情に於てのみ 道徳的価値の担持者をみるところの心情倫理学 は,なし得ないもの(Nichtk6nnenden)の Ressentimentに帰せられなければならない。” ⑳価値秩序の顛倒によって初めてRessenti− mentはその劣等感から解放されるのであるが, そこには第一には,比較対象の価値の幻想的抑 圧,又はか様の価値に対する特殊の盲目性があ り,第二に価値自身に関する幻想と虚構(Fals− chung)がある。所謂価値主観主義は客観的自 体存在としての価値と主観的感情状態,価値意 識と欲求意識とを混同するものである。シェー ラーによれば“事実各々の努力には当該価値の 感得に於て,優劣判定作用に於て直観的に含ま れているところの,努力を基付けている価値意 識がある。”⑰“兎に角価値所与は,努力とは結 び付いてはいない。即ち積極的価値一努力され @ ibid, S. 118,
るもの,消極的価値=嫌厭されるもの,という 意味に於ても,また価値は努力に於てのみ吾々 に与えられていなければならないという別の意 味に於ても。”⑧それ故に“今や兎に角,努力に 於て与えられているところの各々の価値には, 感得に於けるこの価値の可能なる所持がまた属 しているということが本質連関である。”⑧か様 の自体存在としての先天的な価値世界があるか らこそ,RessentimentもRessentimenttaus− chungも事実存立し得るのであって,若しも 上記の如き方程式が成立するものならば,もは やRessentiment・も,従ってまたRessen− timenttauschungも存立し得べくもない。な んとなれば,か様の場合には人々はその無力の 故に,価値実現への衝動的努力を諦めることの 代わりに,逆に価値をその衝動的努力能力の線 にまで引き下げるだろうから。従ってか様に価 値を任意にその麦配下におくことによって,も はや人はその無力感による劣等感に陥るような ことはないだろう。それ故に価値主観主義は Ressentimentの起源ではなくて,逆にそれは Ressentimentの産物であるということは注意 されなければならない。 四
更にか様のRessentiment型の特殊の精神
的変種として,背教者(apostat)と,ある種の 浪漫主義者(Romantiker)と呼ばれるものが 挙げられる。 ←う背教者は一種の心情転換者である。然し その転換方向が新しい価値への方向ではなく, む む 古き価値からの方向であるところにその特質が みられる。従ってその心情の志向対象は新しい 価値ではなく,古い価値であり,その根本精神 は否定精神である。彼もまた否定の人である限 り,その最深なる確信の突如たる爆発的急変 も,その本質的な志向ということが出来ない。 彼は飽くまで古き確信の否定にのみ生きる人で ある。即ち“背教者と呼ばれる人は,尚その新 しい信仰対象に於てもまた,精神的に一次的に は,その積極的内容とこの内容に相応する目標 @ Formalismus. S. 30. @ ibid. S. 33. (4iij ibid. S, 86, @ Formalismus S. 269. の実現に於で生ぎるのではなく,古き信仰対象 に対する闘いに於てのみ,そしてその否定のた めに生きるところの人である。”⑩それ故に彼は 本質的には改宗者ではなく,正に裏切り者であ る。改宗者は新しい確信のために古き確信を否 定する人であるが,裏切り者は,専ら古き確信 の否定のために新しき確信を求める人である。 背教者の新しい確信は精神酌過去に対する反作 用的意味を有するにすぎない。彼はその精神的 過去に対する憎悪によって,それだけ固くまた 過去に束縛され,過去に対する憎悪,闘争,否 定のために,新しい確信は高々付随的役割を演 じるにすぎない。“それ故に,背教者は宗教的 型としては,新しい信仰内容とそれに相応する 新しい中心的生活過程とが主要価値である再生 者に対する極端な反対である。”⑭:再生者は信念 の新生者であり,自己に捕われないから,世界 と事物自身との直接交通に生きる人であるが, 背教者は実は憎悪者であり,自己に捕われるが 故に,世界と事物自身とに重くらむ。前者には 凡ての世界が開示され,従って彼は歓喜に充ち た光の人であるが,後者には世界は鎖され,従 って彼は絶望を抱く暗の人である。“愛憎の法 則の発見に於て凡ての倫理学は完結するだろ う”@とするシェーラーに於ては,愛は価値発 見者であり,価値世界の拡張者であり,他の価 値認識の先駆者であり,案内人であるが,憎は 正しくこれとは反対の作用であり,それは価値 を見失い,価値世界の縮少者である。それ故に 憎悪に燃えた背教者は,その憎悪対象の破滅に 於て,この破滅が残酷である程,その満足もそ れだけ大きく深い。然し彼自身はその無力の故 に憎悪を直接に表現することは出来ない。かく て吾々はニーチェの次の如き主張に於て,背教 者Ressentimentの最も典型な姿を見得るだ ろう。“それにしても天国の浄福とは何であろ うか。……天国に昇れる浄福なる人々は,地獄 に堕ちた者共の画せられるのを見るであろう。 そうしてそのため浄福は彼等にとって愈々好ま しきものとなるであろう。……また同じく主の 御名の絶滅者たるあの多くの総督達(地方総督 @ Ums, S. 36.10 滋 大 紀 要 第 6 ’号 1 9 5 7 達)が,.自らキリスト教徒に加えた狂暴の弄辱 の焔よりも更に熱烈な烙の中に熔け行くのをみ るとき! 更にまたあの賢明な哲人達が何物も 神に縁らずと説き聞かされ,霊魂は存せずとか, 或は少くとも元の肉体には再び帰らずと教えら れた彼等の弟子達と共に,その弟子達の前に自 己の不明を擁じづつ炎かれて行くのを見るとき !@ ⇔ 浪漫主義者はある意味に於ては丁度背教 者と相反する型のRessentimentの人である。 背教者が過去の否定から出発するのに対し,浪 漫主義者は現在の逃避から出発する。彼は理想 を未来に於てではなく,過去に求ある。彼は本 来回顧的感傷的であって,そこには何等の同質 性(Kongenialitat)も見出されない。‘‘彼の固 有の憧憬が第一次的にはその時代の本来的な価 値と財とが主観に及ぼすところの特別の魅力の 上にではなく,自己の時代からの内的逃避運動 に,そして》過去《の凡ての称讃が,自己の時 代と主観を包む現実を無価値にせんとする志向 を有する限り,Ressentimentによって共に規 定せられている。”⑭か様の浪漫主義者の過去に 対する憧憬は,第一次的積極的のものではな く,現在の否定を媒介とする第二次的のもので あり,彼は現在に不満であるが故にこそ過去へ 逃避し,過去の中に満足を見出すのである。 それ故に背教者とか様の浪漫主義者とは一見 相反する人間の型のように見えようとも,その 基底となっているRessentimentの表現とい う点よりすれば,その形式構造は全く同一であ る。即ち“何かAが肯定され,尊重され,称讃 されるのは,その内的性質のためではなく,そ の志向に於て一然し言語的表現をとどめるこ となく一他のBを否定し,無価値とし,否難 ずるによるのである。AとBとは相反する役割 を演ずる。”⑮背教者は過去の否定に於て現在に 生き,浪漫主義者は現在の否定に於て過去に生 きる。何れに於ても肯定の前に否定が立ち,一 次的積極的なのは否定であって,肯定は副次的 消極的でしかすぎない。否定は両者に於ける根 本的志向である。 五 以上に於てRessentimentの本質を解明し ながら,これに関係する限りその形成条件と過 程とについて述べて来た。即ちその形成は,第 一には人間の素質,換言すれば人間の性質に関 係し,第二にはその社会構造に関係する。Res− sentimentはその形成原因が,個人的であれ社 会的であれ,或はまた遺伝的であれ歴史的であ れ,何れにせよその欲求実現に対する無力感の 媒介によってのみ初めて形成されるものである から,本来弱者の心的態度である。従って結局 “Ressentimentは沈降し行く生の現象の一表 現”⑩である。それは加えられた抑圧に対する 直接的反撃の不能,従ってまたそれより生ずる 復讐心,羨望心に再三再四繰り遭えし加えられ た抑圧に対する消極的内向的持続的な憎悪であ る。然しこの場合の抑圧は必ずしも他人からの ものでなく,その存在自身の仕方によるもので もある。確に,人はその個人的事情とは独立に そのおかれている事態(Situation)によっても 往往Ressentimentに陥る。換言すればRes− sentimentを形成し易い事態がある。次ぎにか 様の事態について考察しよう。 ←う男性と女性の関係 女性は男性に比して本来身体的には弱く生れ ついているが故に“男性の寵愛を得んがため に,同性同志の競争にまで強制される婦人”㊥と いうものは,一般的にはか様のRessentiment 形成事態におかれている。復讐の最初の神エリ ー二」(Erinnye)は女神であり,魔女の形に 対する男性的対応物のないということは,不易 の人間性に基礎をおく女11生のRessentiment 形成事態の象徴とみることが出来よう。愛の競 争に於て敗れた女性はその敗因を競争相手たる 女性に於て求めずして,むしろ男性の彼女に対 する愛の欠乏に求めてこれを憎悪する。ところ む で=男性の生命は愛情以上に欲望にある。彼には 仕事,名誉,権力への欲望がある。これに対し り む む て女性の生命は愛情につきる。愛は本来相互愛 の性質を持つ。それ故に愛する者はまた愛され ⑱ 木場訳:ニーチェ,道徳の系譜(岩波文庫)S.54−55. @ Ums, S. 88. @ ibid. S. 88−89. @ ibid. S. 76. @ ibid. S. 78.
ることを願う。然し愛情以上の欲望に尚生ぎる 男性に対し,女性のこの願望は必ずしも充され ない。従ってその本性上,女性は男性よりも遙 かにより多く且より深刻な不安の状態にある。 か様の不安は女性の宿命的悲劇であり,そして ま’たそのRessentiment形成の避け難い事態 である。これに更に女性には風習の抑圧が加わ る。かくして女性の愛情は消極的反応的となら ざるを得ない。か様に人間的素質の相異と風習 とによる不安状態にある女性にとって,その愛 する男性による愛情の拒否は,女性のRessenti− ment形成に二重に作用する。男性よりの拒絶 によって生ずる差恥と,周囲から注がれる冷い 皮肉とによる二重の抑圧下に於て,そのRes− sentimentは容易に形成される。“多くの老嬢 というものは固苦しい消極的な価値批断を下さ んがために,常にその周辺環境に於て性的に重 要な出来事を探し求めようとする態度となるの であるが,か様の態度はRessentimentbefrie・ digungへ転換したところの性的満足の究極の 形式である。”⑮それ故に“老嬢は情深い衝動, 性衝動,生殖衝動が圧迫せられているが故に, か様のRessentimentgiftから全く免かれるこ とは出来ない。”⑲ ⇔ 世代の相異 新旧世代の相異もまた古い世代の新しい世代
に対するRessentiment形成の主要な基盤で
ある。古い世代は時代の変遷にも拘らずその育 年期を美化し,仮令,それが苦悩多きものであ ったにもせよ,それは既に忘却の淵に投げ込ま れ,その青年期の価値を特殊の価値とみること を忌避して,これを普遍化する傾向がある。此 処に形式的絶対主義成立の淵源がある。極端な 相対主義が誤りである⑩と同様に,形式的絶対 主義もまた他の形の誤りに陥っている。か様の 形式的絶対主義は“倫理学と実践的道徳との問 にあるエートス(Ethos)を知らないから,ま たこのエートス自身の変化を知らず,それ故に 恰も人間は何処でも,又,凡ての時代に対して も一様に,何が善であり,何が悪であるかを知っ ていたかの如くに,潜在的にではあるが,常に ({g>({1) ibid. S. 79. @ ibid. S. 316. 同質にして恒常的なものとして要請されるエー トスに対する単なる新形式を示して満足してい る。それ故に絶対主義は,既に価値とその段階 秩序の体験形式としてのエートス自身が有する ところの,最も本質的な歴史性(Geschichtli− chkeit)を誤認することによって,各々の時代 にはまた道徳的価値,並びにそれを把握する精 神を完全に汲み尽す倫理学が可能であるという 要請に必然的に達した。”そしてそこにはか様 の要請によって所謂絶対的道徳原理として一つ の原理が立てられる。かくて古い世代はこのエ ートスの変化に盲目たらんとする。然しエート スは変化するものであり,而もエ」トスの変化 こそ,道徳的相対性の次元に於ける最:も根源的 な変化なのである。⑳エートスの更新と成長に 於てより高い価値は発見され開示される。“か 様の変化と共に自ら新旧の価値の間の優劣判定 法則が変化し,そして仮令古い価値とその新旧 両面の客観性の間の優劣判定法則は触れられて はならないとしても,然しこれによって,より古 い価値領域はその総体に於て相村化される。”㊥ か様のエートスの更新と変化とを無視するとこ ろに,価値と価値秩序との錯覚が生じ,続いて価 値秩序の虚構と面倒とが生ずるようになる。⑲ 古き世代はか様の錯覚と誤謬に陥る。“正しい 時に於る諦めの作用のみが,自己錯覚に対する 傾向から吾々を自由にする。”⑳それ故に古き世 代が,この諦めに於て自己価値の絶対化の誤謬 を免れるとぎ,この諦めに於て客観的価値世界 が開示せられ,この客観的価値世界に於る彼の 相対的価値に於て安住することが出来る。これ に反し,か様の自存的な客観的価値世界を無視 することによって,彼は形式的絶対主義に陥り, その限りもはや新しい世代の価値を感得し得な くなる。宴に保守反動は古い世代に負わされた 宿命である。彼等がその狭隙な過去にのみ捕わ れている限り,進歩は彼等には退歩であり,創 造は破壊である。かくて彼等には,新しい世代 は危険であり,不信である。従って彼等は新し い世代に対して常に不安の状態におかれる。未 開伝話に於ては老人は,その豊かな経験によつ @ Formalismus. S. 314. @ ibid. S. 315. @ ibid. S. 317. @ Ums. S. 75, @ ibid. S. 309.12 滋 大 紀 要 第 6 号 1 9 5 7 て権威者として,それ故にまた支配者として尊 重され,畏敬されようが,文明社会に於ては,特 に民主社会に於ては,もはや経験は古さとは対 応しない。か様の社会に於ては,:文化の民主化 的普及と専門的分化とが特徴的であり,孤立独 占はゆるされない。交通機関の発達は益々交化 的交通を容易にする。”書物の印刷,その他容易 に可能なる教養手段の特殊の組織等による圧縮 された陶治(Bildungsverdichtung)が生活経 験にとって代る程,かくて老人がそれだけ多く それだけ容易に,その地位,労働,職業に於て 青年によって駆逐される程,それだけ古い世代 は若い世代に対して,支配の地位から防禦の地 位に追いやられる。”㊥進歩が急調子となり,変 化が目立って来る程,そのエートスの変化を拒 むところの老人は,益々進歩に対して不適応と な・り,而もその形式的絶対主i義を堅持している 限り,彼はRessentiment形成の危険に陥ら ざるを得ない。保守と進歩,復古と革新とは, 人間性に於ける避け難き世代の矛盾である。 “それ故に凡ての時代に対して,より若き世代 がより古き世代のRessentimentと困難な闘 争をなして来たということは,何等怪しむに足 らないことである。確にこのRessentiment− quellはまた,広汎の歴史的変化の基礎となっ ている。”⑭ ⇔ 家族関係 男女の性別及び世代の相異によって生ずる Ressentimellt形成の危険の事態は,家族間に 干ても成立する。然し家族間に於ける最も一般 的なか様の事態として,吾々は息子の結婚を挙 げることが出来るだろう。家族の新しい成員と しての息子の嫁に対する家族の関係事態は,息、 子の親及び兄弟によって夫々異ったRessenti− ment形成事態となるだろうが,その中で,そ の典型的代表的の事態は母親と嫁との関係であ る。父親の場合は母親の場合程著しくはない。 母にしてみれば,生誕以来長い間献身的愛を以 て養育して来た息子,従ってまたそれまで完全 に愛の対象として独占していたと信んじ込んで いた息子が,結婚によって突如として,今まで 全く見も知らぬ,而も若き同性に奪い去られる ということ,更に愛する息子に対して何にもし なかったにも拘らず,今や逆に全く正当なる権 利を以て息子を独占するということは,母にと っては息子からの,愛の請求権の剥奪として, 不iI三ど感じられずにはいられないだろう。愛情 を生命とする女性としての姑と嫁との間の争い は単に世代の相異による父と子との間の争いよ りも遙かに心中深くに位する避け難い宿命的悲 劇である。”それ故に凡ての民族の歌に於て,伝 説と物語りに於て,姑が悪しき且意地悪るいも のとして現われるということは何等奇異のこと ではない。”⑰ ⑳ 職業的僧侶 職業的僧侶は,権力に対する積極的な活動型 としての軍人と対比せられる人間の型である。 職業的僧侶の人間類型はニーチェが正当にも主 張したように一その結論は許容し難きもので はあるが その職業自体の性質よりRessen− timent形成の事態に陥っている。彼等は外面 的には地上的な権力に捕われず,むしろ原理的 には弱者の代表型として、その激情を麦配し,愛 と平和を説くにも拘らず,実は彼等は徒党を組 み,党派を結び,口でその否定した権力獲得の ために相闘っている人間である。史上職業的宗 教め争い程に深刻残忍な争は稀である。彼は外 面的には権力の否定者であるが,内面的には権 力の肯定者であり,更にその讃美者でさえある。 ただ彼等の権力獲得の手段が,柔よく剛を制す るという弱者本来の形式を装うに外ならない。 それ故に‘‘彼は本質上他の個人の人間類型より もより以上,あの慢性中毒の危険に晒されてい る。”㊥それ故にか様の職業的僧侶と宗教人(ho− mo religiosus)とは,判然区別されなければな らないし,叉,前者の政治的似而非殉教と,後者 の真正の信仰殉教とも同様に判然と区別されな ければならない。前者は卑屈の人であり,後者 は真の謙譲の人である。それ故に吾々はシェー ラーと共に次のように云うことが出来るだろ う。“謙譲の人はその支配の作用を,深く秘め られた奉仕態勢(Dienstbereitschaft)に於て @@ ibid. S. 81. @ ibid. S. 82.
行う。卑屈の人にとって正に中心(Zentrum) であるところのもの,即ち支配欲(Herrschen− wollen)は,謙譲の人にとっては,ただ態度 (Haltung)であるに過ぎなく,そして卑屈の 人にとって態度であるに過ぎないもの,即ち奉 仕態勢は,謙譲の人にとってはは正にその中心 である。”⑲職業的似而非僧侶と真の宗教人と は,その道徳的価値関係に於て,正しく逆であ る。(1956.9.25) @ ibid. S. 37.