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華厳における仏の光明について(下)

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智光には前節のごとき法を照らすはたらきに対し、同 時に機を照らす作用があるとされる。﹁普応群品﹂とい われるものである。個女の個別性において種女雑多なあ り方をなしているのが機であるが、その個別的なものを 個別的なままに照らし出し、その多様性に応同するので ある。しかしそれでは、ここに説かれる機の現実、群品 の真実相とはいかなるものであるか。この問いに対する 答えとも見られる経文が盧舎那佛品巻第二には、左のご とく説かれる。

二の念中に於いて無量の佛刹起り

諸佛の所持の故に国清浄に垢を雛る

或は佛刹の起るあり泥土清浄ならず

華厳における佛の光明について︵下︶

型 明を離れて常に闇冥にして罪の衆生の所住なり

或は泥土の刹あり煩悩にて大いに恐怖し

楽少なく憂苦多し薄福の所処なり

或は鉄の世界あり或は赤銅の国あり

諸石山は械悪にして衆生の業の故に起る

或は泥土の刹あり衆生常に苦悩し

長に冥く光明を雛るるも光明海は能く照らした ⑳ 斗牛串謂ヘノ○ 経典が力をこめて宣揚するように、ここではこの念 中に無量の佛刹があり、諸佛に所持された清浄なる国が 開かれる。そこでは何ものも佛性を離れてはあり得ず、 一切は必然的に佛国土を根底に持つのである。したがっ て、すゞへてが佛にささえられてあるというのは、釈尊の 教えを真にその根源に立ち帰って理解しようとした佛弟

鍵主良敬

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子たちの到り得たゆるぎない一つの確信であったという ことができる。 ℃も、 しかしこの絶対に思われる確信にもそのままうのみに することのできない欠陥があり、大きな陥巽がある。そ れは教えの側の問題ではなく教えを受け取る側の問題で ある。つまり、いかにわれわれが佛国土にささえられて いるといっても、現にあるわれわれのあり方は何ら佛国 土的でないという矛盾である。教えがそうであることに は少しの疑いもないとしても、教えられれば直ちにわれ われの現実が教えのとおりになるものではない。そこに は越えることのできない断絶が存在し;いかにしてみよ うもない壁が検たわっている。 その現実に立ちながら、教えのとおりであるとして無 理やりにわれわれのあり方を教えに当てはめてみても、 より手ひどい矛盾が露呈するだけである。それによって 佛国土が実現するわけのものではないのである。佛国士 があり得ないにもかかわらず、その現実を認めるにしの びないがゆえに、あえて佛国土が実現したかのごとくみ ずからに思いこませることによって、厳しい現実に目を ふさいでしまうことは可能である。しかし、それは宗教 のアヘン的あり方であり、錯覚の上に成り立った単なる 幻影にすぎないものである。本来、佛国土が人間をささ えるという意味は、現実に目をつぶるような安易な受け 取り方によって明らかになるものではない。かえって見 るにしのびない現実をもあえて凝視し、その透徹した観 察を通して、はじめて佛国土自身が、人間の分別的思惟 を絶して顕現してくるものである。そこには何らの残津 をも残さない厳しい現実との闘いがあるはずである。 以上のごとき立場からわれわれの現実を見直せば、そ れは佛国土を根底に持つといわれながら、事実としては 何らの光もないただの泥土にすぎず、しかも、汚れ微れ に充ちあふれたものにほかならない。そこではきたない ものを無理に捜す必要はない。あるものをあるがままに 見ればそれが﹁泥土不清浄﹂になるのである。われわれ の肉眼には必ずしもよごれたものばかりが見えるわけで はない。ときには美しいと思われるものも確かにある。 しかし、その美しさは、美しさだけで成り立っているの ではなく、泥土を根に持つことによって、かろうじてそ れ自身の存在が許されているにすぎない。泥土不清浄と は、美しいものが何もないというのではなく、いかなる 美しいものも→不清浄を背景にすることなしには存在し 得ないということである。すなわち、そこではいかに明

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るいものも闇を背景とするがゆえに、その明るさは真の 明るさではない。いつでも闇に転落し得るような明るさ は、明るさということはできない。その意味でわれわれ の現実は常に﹁闇冥﹂である。闇冥の中にあって明であ ると分別しているにすぎないというのである。 常に闇を持つことが罪である。常識的な意味での犯罪 を罪というのではない。たとえ罪は犯さなくとも、暗黒 の中に流転していることが罪とされるのである。すなわ ち常なる闇冥こそが﹁罪之衆生の所住﹂であり、闇の中 に住するがゆえに何が突発してくるか予測することので きないあり方となるのである。そこでは明るさも暗いと いう意味の明るさであり、善事も悪事と同様な善事にす ぎない。つまり何事も悪を離れてはあり得ないあり方し かなされないのであるから、一切が罪となるのである。 また、われわれの立つ場所が汚れに充ちた泥土である 場合には、煩悩に悩まされ大いなる恐怖を離れることが できないといわれる。泥土にすぎないとは、それが真に 安んずることのできる場所ではないとの謂である。その 時女の条件によって、かろうじて安定を保っているよう に見えても、その実そこには何らの根拠もない。結局土 台がないのと同じである。真の佛士が明らかにならない 限り、土はあっても士にならない。すなわち土台のなさ が一切の不安の根となり、闇冥となって現われる。その 暗さを背景にして煩悩がさまざまの形でわれわれに迫り 来たり、煩わし悩ますのである。 したがって︲畑悩の煩悩性は、いかなる形であっても 煩わしめるところにある。善。悪、美・醜を問わず、そ れが悩みの種であるとき、煩悩の対象となる。美はそれ を失わざるために、醜はそれを避けるために、それによ ってわれわれが動かされるのは煩悩によるのである。つ まり、種次なる対象に対してさまざまに対応し、それが 自己にとって好ましいか好ましからざるかを決定し、好 ましいものの喪失を恐れ、好ましからざるものの接近を 恐れる心理作用が煩悩である。その煩悩がわれわれ自身 の生きていることそのことを構成しているために意志 的な努力及び反省等を無意味にするほどに、強力にわれ われを突き動かす。対象が必ずしも憎む録へきものではな いにもかかわらず、それを憎むべきものとひとたび決定 すれば、それを避けることが唯一の自己の生きる方法で あるかのように錯覚して、事実の真相を失わしめるはた らきとなるのである。 つまり、諸法は諸法自身でなりたち、われわれの都合

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によって左右されるものではない。しかもそのことがそ のこととしてあることには、ある今へき必然性があるとい わねばならない。しかるに、それが自己に不利益である との深い迷妄から来る判断、すなわち煩悩による決定に 立つために、そのことがみずからの運命の上にのしかか ってくることを極度に恐れ、逃げ隠れようとする。そし て、現実は人間の分別によってどうにかなるものではな いことを知らざるために、時に縁起である現実の冷厳な 実相を垣間見て、最も失いたくないものを失わねばなら ぬみずからの危険極まりない事実に気づき、大いに恐れ おののくのである。 その結果、そこで明らかになるのは、楽はその中にあ るときには楽と感じられず、楽を失ってはじめて想い出 として感じられるものにすぎないということである。楽 とは何ものでもないという形でしか感じられないもので ある。しかるに、われわれは、想い出となった楽こそ人 間を満たすものであるという錯覚に立つために、得られ ず、しかもあり得ない楽を求めて、必要以上に苦しまね ばならない。それは楽と思われているものの本性が知ら れないために$楽である特定の状態があるとする想定の 上に立つからである。楽は相対的であるから絶対の楽と いうものはない。しかも、その楽には永続性がない。分 別の上に描かれていた楽と、実際に手に入れたそれとは 異なるから、思い描いていた楽を、事実として捕えた場 合には、常にその価値を減少している。しかして、手に 入れた楽は、楽と感ずるわれわれの感覚の本性上、その ままでは徐女に楽の意味を喪失していく。したがって、 得た楽を楽のままで持続させるためには、より大きな楽 にするよう常に大きな努力を払わなければならない。そ のために楽を目的としながら、楽の持続のための苦が岫 大し、得られた楽は減少する。﹁楽少憂苦多、薄福之所 処﹂である。 しかも、衆生の業によって起こる世界は、鉄世界・赤 銅国。諸石山といわれるように、かたくなな頑迷さに固 定された世界である。それは動きのとれない束縛の中に 逼塞している状態であり、固晒といわれる不柔軟の世界 である。 また、われわれの根底が泥土である場合には$土台の ないことが常なる苦悩を現出する。現象的に現実を見れ ば、人生には少ないにせよ楽があり、また苦もある。も しくは苦でも楽でもない状態もあるといえそうである。 しかし、事実はそうではない。つまり、仮に楽である状

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態、もしくは苦でない状態があるとしても、その楽はほ んのわずかの条件にささえられて成り立っている楽にす ぎず、いつでも苦に転落し得る可能性をはらんだ上での 楽でしかない。ただ、われわれはその驚く。へく大きな自 己の現実を見る目を持たないために、みずからの目に入 る些細な、そして大きな目から見ればどちらでもいいこ とにかかずらい、その些細なできごとをどうにかするこ とにのみ気を奪われているから、一見無事に見えるとい うだけである。その平穏無事が、いかに危険な事実、一 瞬にして人間のす尋へてを無に帰し、その存在のすべてを 失わしめるような現実の上に成り立っているか計り知れ ないものがある。したがって、そこでは苦と感ずるか感 じないかによって苦が決まるのではなく、その立ってい る事実そのものが苦である。しかも、苫の上に立ちつつ、 苦とは感じられないがゆえに、恐るべき苦である。 その苦は、一にかかってその恐る、へき事実を見ること ができないこと、すなわちとこしえの暗冥の中にさまよ って、光明を見ることができないことに由来する。苦を 苦と感じないのは、事実として苦でないから感じないの ではない。苦と感ずる目が失われているからである。つ まり光を離れているからである。光を離れつつ明るいと 思いこんでいるところに、真の暗さがあるのである。 ﹁長冥﹂とはその暗さが思量を絶するほどの長さによっ てつちかわれたものであり、一朝一夕に解決さる︽へき、 簡単なものではないことを示す言葉にほかならない。凡 夫であることの暗さが持つ意味は、われわれが推察する よりもはるかに深く底知れぬ︲ものを内含しているという べきである。それゆえにこそ、暗さが暗さであることに 気づくのは至難のわざとなるのである。 しかしその底知れぬ暗黒が何ゆえにわれわれに実感と してうなずかれるのであろうか。単に暗黒のみであるな らば暗黒ということもあり得ない。それは昼が昼のみで は昼ということも成り立たず、夜があってはじめて昼と いえるのと同様である。したがって、無限に深い迷妄の ⑳ 暗さが知られ、計り知れない疑惑の障りに気づかれるの も→その暗さより深いI深広無涯底な光明に照らされ るからにほかならない。すなわち佛の光明海が、光なき 凡夫のとこしえの闇を残るくまなく照らし出すからこそ、 闇が闇としてその本姿を現わすのである。光あればこそ 闇は闇としてその全体を顕示する。それは底知れぬとい う形で、一歩一歩その全姿をあらわにするにせよ、闇の 闇たる性は光をまって初めて明らかになるということが

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できよう。闇に先立って、絶えざる光明海のはたらきが あればこそ、到底不可能な闇の照出が、佛智不思議とし て可能となるのである。 したがって、果て知れぬ暗闇の中に流転するというの ⑳ は、光に気づかない凡夫の側からの言葉であって、一切 をみそなわす佛の眼よりすれば、すゞへては光明の中にあ るものにほかならない。すなわち、佛はいついかなる場 合にも衆生を大悲するとの本性を壊せずして、光となっ て清浄の法輪を転じたもうのであり、衆生がそれに気づ くか否かに左右されるのではない。衆生が光を見ないの は、光がないからではなく、煩悩に障礒せられて、みず から堅く己が目を閉じているからということになる。か かる衆生の現実にもかかわらず、佛の光明海は能く衆生 を照らして止むことがないといわれる。 ︵佛︶一切時に壊せず$清浄の法輪を転じたまう。 若し衆生器に非ざれば、佛の見ざらしむるに非ずし て、煩悩に障砿せられ、如来の意を見たてまつらざ ⑳ るなり。 である。 かくして法蔵が智光は普く群品に応ずるという場合の 本質的意味は、群生といわれ、衆生といわれるそれぞれ の業に生きる存在に対し、佛の智光はそのあり方に応同 して、ともにその業を果たしつつあるということでなけ ればならない。そこでは機類がそれぞれに持ついかにす ることもできない相違を、相違性において智光が内面か らささえるのであり、差別を差別のままに成り立たせる ということである。個女の機を、対象的に外側から照ら し出すというよりも、応同という形において、機そのも のに成りきり、機の果たさねばならない一切の行業を、 隔てなく荷負しつつある点で、法を照らす場合には普遍 的である光が、全く特殊化され、それ以外にないところ に機を照らすといわれることの重要な意味があるという ぺきであろう。 以上のごとく、機を照らすというのは、対象的意味で はなく、機の内にあって機に応ずることであるから、機 の立場から見れば、個女の機はその機のままでいつでも 佛の智光に触れることができるのである。また、みずか らが智光に応同されている一﹂とを認めるか否かにかかわ らず→智光にささえられることにおいて、はじめてその 全存在が成り立っているというべきである。いわゆる ⑳ ﹁法身五道に流転するを衆生という﹂であり、智光が智 光の意味を失うことなく煩悩生死海に流転するというこ

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以上の論述において問題にし来たった機は、本来個別 的であることを本質とし、普遍的性格においては捕えら ⑳ れないことを原則とする。ところが智光は探玄記巻第四、 および阿弥陀経通賛疏巻中で見たとおり、普遍の肌を対 象とするのであり、一般性をその特質とすると考えられ る。したがって、智光がその内容として法とともに機に 関与するという法蔵の理解には、根本的な矛盾があると いわねばならない。すなわち機が機であるためには、明 確に法に対して区別される面を持つのであり、法に区別 されることにおいて、機は機たる意味を全うするのであ るから、両者は混同さる︽へきものではない。個別的であ るものはどこまでも個別的であることを失ってはならず、 その本質を確立することを怠ってはならないはずである。 すなわち、機であるものは法ではなく、法であるものは となるといってもよい。 尽くすことによって佛智の具体的はたらきを証明する機 らされるがゆえにあえて流転を恐れず、かえって流転を なく、流転を越えるべく流転せるものとなる。智光に照 とである。そこでの衆生は単に迷妄に沈浦せるものでは 五 機でないがゆえに、両者はそれぞれ機であり法であるこ とができるのである。 かかる点から、機に対する光明の関係を見れば、機は ⑮ 機である限り、普遍的な智光に関するよりも、個別的な 身光に関すると見るほうがより妥当な見解であるといわ ねばならない。この点を明らかにしたのが法蔵の梵網経 菩薩戒本疏巻第一の説である。 此に光明遍照と云うは然して二義有り。 一には内に智光を以て真法界を照らす。此れは、受 用の義に約すなり。 二には外に身光を以て大機に照応す。此れは他受用 ⑳ の義に約すなり。 もちろん、この説は、探玄記巻第川に光明覚陥の宗趣 ⑳ を明かして、智光は理に応じ、身光は事に応ずとする文 に照応するものであるから、ここのみに突如として述、へ られたものではない。しかし、同じく光明遍照の事義を 解しながら、一は智光に入れ、一は身光に入れるという のは、明白なる矛盾である。法蔵が何ゆえかかる矛盾し た叙述を行なったのか、いまはその根拠を明らかにする ことはできないが、考えられることは、次のごとき見解 である。すなわち、まず明らかにしておかなければなら

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ないのは、この両者の矛盾は必ずしも法蔵が誤りを犯し たものと断定すべきではないということである。なぜな ら、光明覚品の注釈において知られるように、身光は事 に関していわれるものであり、事は機を内容とする点で、 梵網経菩薩戒本疏の説は特に目新しいものではないから である。したがって、問題があるとすれば、機は智光に ⑳ 関するという探玄記巻第三の説である。しかし、この点 について明らかにしなければならないのは、法蔵の立場 である。 すなわち、華厳における相即の論理は、一は一であり つつ同時に多であり、多は多であることを失わずして同 時に一であるとされる。一は単に一切であるのではなく、 一でありつつ一切である。一は一でありつつ一切を内容 とする点で、その一は単なる一ではない。その意味で単 なる一は存在しないことになる。しかし、それは一は一 でないという意味ではない。一はどこまでも一でありっ ⑳ つ、しかも一ではない。かかる相即の論肌に立てば、特 殊はどこまでも特殊である。しかし、その特殊は単に特 殊的なのではなく、普遍を包みつつ特殊でなければなら ない。ここにはじめて普遍的なものの特殊化の問題が成 り立ち、特殊であるような普遍こそ、真の普遍として実 在することが明らかになるのである。つまり、機は機と いわれる限りどこまでも機であり、特殊化を失うもので はない点を述琴へたのが梵網経菩薩戒本疏の説であり、そ の機が単なる機でなく、普遍的なる理法を内包した機で あることを明かしたのが、探玄記の説であると見ること ができる。両者は明らかに矛盾するように見えて、その 実かかる矛盾を通して、実在の本質を現わしたものと見 なければならないのである。 以上のごとく、機は普遍的なる法を内容としつつ特殊 であるが、矛盾するものの相即を認めた上で、機に照応 するのは身光であるというのが、次の問題となるのであ る。すなわち、智光と身光を同時的に媒介するのが機で あるが、その機を照らすものとして明らかにされねばな らないのが、身光なのである。かくて、法蔵によれば、 ⑪ 身光は常光と放光の二面から考えられている。そもそも 身光とは、佛の身体より発する種女なる光明の総称であ り、その一点については、古来よりさまざまの説がなさ ⑫ れている。したがって、ここに言う二種の身光も、法蔵 の全くの独創ではなく、いろいろに説かれる身光を二極 にまとめたところにその特色があるというべきである。 ⑬ まず第一の常光は円光ともいわれる、常恒不断の光明

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である。大智度論巻第八には 刑うて曰く、云何が常光と為すや。 答えて曰く、佛身の四辺に各一大の光明あり。菩隣 生ずれば便ち此れ有り。是れ三十二相の一なり。 名づけて丈光相と為す。⋮一切諸佛の常光は無量に して常に十方世界を照らす。釈迦牟尼佛の神通身光 ⑭ は無量なり。 といわれるが、法蔵は佛の身より発する円明無磯に不断 に輝く光を、特に常光というのである。したがって常光 は︲いついかなる場合でも光輝いて止まないものである から、佛の光そのものである。それは佛の身光が、佛の 立場から見られたものということもできる。凡夫の立場 に立つ限り、常恒不断ということはあり得ない。それゆ え、常恒不断は、佛の立場であるといわれねばならない が、それは凡夫にはないのではなく、それに包まれなが ら、凡夫はその立場では見い出すことのできないもので あるということができよう。その常恒性は、凡夫が認め るか否かによって左右されることなく、常に闇を照らす ものである。その意味では、個女の事象に関係すること によって、本来個別的であることを特質とする身光が、 その個別性を内面的に否定して、普遍性へのかかわりを 示すものが常光である。 特定の限界の中にある身光が、その限界を破って不変 の真即への迎繋を見い出し、それによって、みずからの 特色を否定的に表現したのが、常光であると解される。 ここに身光は智光を離れたものではないことが明了にな り、その媒介をなすのが常光であることになる。その意 味で常光は、智光から身光への関連を機がはたしたごと く、身・智二光の蝶がりを逆の立場から証明するものと みられるのである。 かくて常光は、差別的世界をその本来の対象とする身 光が、個別的あり方をより鮮明に示すために、かえって 普遍的である面を現わしたものと考えられる。個別性は、 その裏に常に法の普遍を内含することにおいて、より個 別的であることが示されるのである。差別の事象を、蛎 象たらしめるのが常光なのである。しかもその常光は、 光ることをみずから志向することによって成り立つ光で はなく、光悉見い出したものが、光に照らされることに よって、逆にその存在自身が光の意味を無言のうちに語 り出すものであるとみなければならない。すなわち常恒 にへだてなく、その対象のいかんにかかわらず、光の徳 性としてそれ自身からはたらきつつあるものである。意

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志のいかんによるものの上には常恒という意味は成立し ないはずである。常恒である限り、個別的でありつつ常 に無腰にはたらく意味が︲円妙であるといわれるもので なければならない。 ⑮ ところで、常光が衆生と関係する場合、凡夫の眼にと っては、それのみでは光であるということも気づかれな い。したがって、具体的に佛身の特定の場所より、特定 の時を得て、衆生を警覚するために放たれるのが放光で ある。放光は神通光・現起光ともいわれ、大智度論巻第 七には 佛は時ありて大光明を放ち大神力を現ず。生の時、 得道の時、初転法輪の時、諸天聖人大集会の時、若 しくは外遊を破する時皆大光明を放つ。今其の殊特 を現ぜんと欲するが故に、大光明を放ちて十方一切 の天人衆生及び渚の阿羅漢畔支佛菩薩に皆見知を得 ⑯ しむ。 といわれる。すなわち、放光はある時もあり、ない時も あるものであり、さまざまな限定を持つことにおいて、 それが光であることを明らかならしめんとするものであ る。佛眼にのみ見られる常光が、衆生の上にはたらき、 いつにかかってその迷妄を照出し警悟せしめるところに 作用するのが放光である。それゆえ、放光以外の光は、 放光を前提にしていわれるものであるにすぎない。放光 によって初めて、われわれは佛ありとの根源的事実に目 ざめることができ、己をつつむ無限の闇の本質を垣間見 るといえるのである。光によって警悟されるとの法蔵の 解釈は$無明を無明と知らしめ、過誤を過誤と知らしめ て、みずからの根源的事実に立ち帰らしめるものこそ、 放光によることを示すものであろう。すなわち、直観的 な裁断によって$凡夫における知的迷妄を単的に照らし 出し、瞬時にその欠陥の全貌を覚悟せしめるものという ことができるのである。それは身光が、最も具体的な形 でその個別性を表現したものであり、佛の光明が、衆生 済度の場において、最も単的な相をとったものというこ とができる。時あって放たれるがゆえに、それが光であ ることが明了になる。その意味で、佛と衆生の接点は、 佛の光明を個別的な相の上で︲より個別化した放光をお いてはないといわねばならない。 常に光の中に照らされながら、その常恒性を知り得る のは、放光という時処の限定の上であり、その限定に立 って初めて、放光が単に一時的なものでなく、不断の州 を持ちつつ放光としてあることに気づかれるのである。

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放光が一時的な意味しか持たないならば、それは現象的 に有限なる光の意味を持つのみで、佛光となることはで きないであろう。放光も佛の光明として衆生を警覚する ものである限り、その形は一時的であっても、一時性を 超越して不断なるはたらきを持たねばならない。 不断に輝いて止まない光を背景にしてこそ、放光は放 光であり得る。しかも、常恒性が真に常恒性として肯ず かれ、常恒の意味を全うし得るのは、一時性においてで ある。一時性を持たない常恒性は、常恒であり得ないと いう点で、放光の内含する意味には、非常に深遠なるも のがあるといわねばならないのである。 以上が法蔵の所説を手がかりとして見た︲佛の光明の 種友相であるが、智光と身光に分けられた佛光が$再び 二義によって解明されているところにその特色があった。 そこには、主題を単なる主題としてあつかわず、可能な 限り分析して組織体系づける経典解釈の典型的な方法論 が見られる。もちろん、細分化のみに意を注じことには、 主題が何であるかを忘れて、枝葉末節に走る危険性があ る。それは注釈言が常に陥る欠陥でもある。しかし、そ ︷ハ の欠陥を認めた上で分析が行なわれるならば、その分析 は、主題の意味するものが何であるかをより鮮明に現わ し得るに違いない。すなわち注釈における細分化は、あ くまでも綜合を前提にしたものであり、分析は統一を予 定したものであるということである。 その意味で、これまでに述べきたった光明の種女相は、 単なる個別的な分析を目的としたものではなく、それぞ れの差別を持ちつつ、それらは相互に相即し統一的綜合 的に理解されねばならないことを示している。それらの 点についてはすでにその郡度必要に応じて処之に関税し てきたが改めて相即の面に焦点をあてて見ると、常光 は放光でありつつ→それは同時に智光として機法の全休 を照らし、智光もまた佛智として理法を普遍的に明らか にしつつ、同時に身光であるという二重の相即関係が、 光明にはあると見なければならない。この点を明確に示 したのが探玄記巻第三の説である。 此の中には身と智とが無磯なるが故に、身光即智光 なるなり。二の遍は無磯なるが故に、平遍即重重な るなり。光と遍とが無礪なるが故に、光明即遍照な るなり。遍く性闇を照して覚るをもって是の故に名 けて佛と為すなり。此れは下の文の世界海等の諸事

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の二が皆、是れ性に称ひ縁起無畷にして闇を離れ て覚照するを光と称し、法界に普周せざること無き ⑰ を遍と名くることを明すなり。 すなわち、身を離れた智はなく、智を離れた身もあり 得ないから、身と智は無磯であり身光即智光である。智 光といわれる透徹した智慧のはたらきも、佛身の上での ことであり、また、智を持たない身光であるならば、単 なる形骸であって身ではないという点で、両者は相即に おいて最も具体的にその作用性を全うするのである。湘 即としてあるものが光の根源的事実である。それぞれの 差異を持ちながら、本質的には同一の光であることによ って、種友に分析解明された光が、一つになって凡夫の 凡夫性たる無明l性闇を照らし覚らしめ、佛への道を 開くのである。したがって、佛の光に覚照されたものが 佛であり、佛とされることによって無底の深さを持つ無 明がその全姿を顕わすのである。問が真に闇と知られる ことが闇を離れたことであり、それは覚照によるのであ る。その覚照を成り立たしめるのが佛の光明である。 光に照らされて初めて、個友別女なる諸事の一点が、 それ自身の性として普遍の真理にかない、縁起無礒であ ることが明らかとなる。縁起の事実が縁起としてあるこ とが⋮いかなる差別も縁起において平等であることを示 し、無砿であることを現わすのである。縁起が縁起のま まに知られることが、事実が事実としてあることである。 それが縁起を縁起として見ることのできない深い分別の 闇を破って、如実知見が覚照される相である。光明即遍 照といわれる所以である。 この点をより布術して探玄記巻第四では 二に合とは、良に以るに理と事とは倶に融じて唯一 の境なるが故に、故に一事が即ち無辺に遍ずること を得、而かも本の相を壊せざるなり。境が無二なる に由るが故に、身光は即ち智光にして、唯一無礒な る光なるなり。.・・・: 又亦、則ち事覚が即ち理覚にして、平等唯一の覚な るなり。 又、此の光は党と境とに異ならずして、三法は円融 して唯一の法界なるを以て、平等にして相を絶すと 誰も而も一切を具し、恒に雑乱せず。無障砿なるを ⑱ 以ての故なり。 という。ここでは普遍の理と具体的事とはともに唯一の 境であり、差別であるその本相を壊せずして別物ではな いとされている。所照の境が唯一であるから、能照の光

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も不二である。すなわち、円融無磯が真に円融無砿であ るのは、理は理、事は事でありながら互いに融通するか らである。それは身光・智光という性絡を異にした光が 同時にその差異を持ちつつ、同一光明として、無限に一 切のものを照らすはたらきとなることである。そこでは 光は単なる光でなく、たゆまざる衆生済度の事業をはた し行く菩薩道の象徴である。しかも、その象徴性は、象 徴であるがゆえに単なる形を現わしたものでなく、無辺 の衆生とともに、その迷いを尽して佛国土を開かんとす る、最も具体的な内容を示すものである。限りなく展開 して止まない佛道の実践がそこに具象化され、無尽の法 門を極めんとする菩提心の端的な表現が、そこに生きて ⑲ いるといえるのである。華厳経の説く普賢行の本姿が、 ここでは佛の光明として、みごとに顕示されているとい う寺へきである。 註⑳華厳経巻第四、盧舎那仙品︵大正9.川一五・C︶ ⑳琉伽師地諭巻第十一︵大正釦.三三○・b︶には ﹁当し知初明治一一三種暗圭一者夜脳、二者雲腋、三者障暗、 謂窟宅等。法明能治一一三種黒暗↓由し不三如修実知一一諸法一故、 於一一去来今一多生二疑惑一於一一佛法等一亦復如し是。此中無明及 疑倶名二黒暗聿又証観察、能治一一惜沈脈眠黒暗↓以三能顕二了 諸法性一故・﹂とある。法に照らされることによって明らか になる無明と疑惑を無暗とするわけであるが、智光の観察 を待って黒暗のす。へてが対治される点に留意しなければな らない。 、大智度論巻第七︵大正蛎・一四四・b︶には ﹁間日。有一一幾許人︽値一一佛光明一必得二阿縛多羅三貌三菩提︽ 若値一光明一便得し道者、佛有二大華堂何以不下常放一一光明一令牢 一切得↑道、何須一一持戒禅定智彗堂然後得し道。熔日、衆生 種々因縁得度不し同、有一一禅定得度者↓有一一持戒説法得度者︽ 有二光明触レ身而得度者弐警如下城有一一多門︽入処各各至処 不上し異、有二人光明触レ身而得度者↓有ャ若見二光明﹃若触レ 身不二得度一者エ・﹂といわれるが、光に値遇することによ って菩提を得る因縁は、衆生の業によって異なるから、衆 生の立場からいえば光に値いながら気づかない者も気づく 者もあり、それが機の差別となる。衆生の側からいえば光 は常にあるものではない。気づかれない限り、光はあって もないに等しいのが凡夫の現実であることを示している。 ⑳華厳経巻第四、瞳舎那佛品︵大正9.四一六・c︶ ⑳不増不減経︵大正略.四六七・b︶﹁即此法身過一於恒 沙↓無辺煩悩所し継従二無始世一来随二川世間↓波浪漂流從二来 生死一名為二衆生どの取意。探玄記巻館六︵大正妬.二二 七・b︶では﹁不墹不減経云、衆生界法界無二無別、即此 法身以二惑汚一故流二転五逆一名為二衆生ごという。 ⑳註⑭⑮参照。 ⑳法と機の関係をそのまま普通と特殊という概念で現わす ことには必ずしも妥当でない面があるかとも思われるが、 最近では﹁法は普遍、機は特殊﹂︵金子大栄先生︶という

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表現もなされているところから、今は機・法という語の持 つ複雑多岐な内容の中で特殊、普通なる語で表現し得る而 を抽出し、一応便宜的にかかる用語を用いることにした。 ⑰梵網経菩薩戒本疏巻第一︵大正如・六○四・C︶ ⑳註⑭参照。 ⑳縦④参照。 ⑳拙諭﹁大乗における相即の論理の内景﹂︵佛教学セミナー 第三号所城︶註③参照。なお、五教章巻第四︵大正妬・五 ○五・a︶には﹁二者一多相容不同門、此上諸義、随一二 門中一即具摂二前因果理事一切法門︽如三彼初銭中即摂一無尽 義一者此亦如し是。然此一中雌二具有壺多、側一非一即是其多一 耳。多中一等準し上思し之。除二門中、皆悉如レ是重重無 尽故山。..⋮三者諸法相即川在門。此上諸義一即一切、一 切即一、円融自在無砿成耳。。:.:﹂とある。 また華厳経随疏演義紗巻第二十九︵大正詑・二二四・c︶ には、左のごとくいう。 ﹁此偶了二多平等↓謂解一多由レー起弐解一一一由し多生︽無二 一不︾成し多無二多亦無一二、了一一彼一多相由生起二多之念息、 一多相平等、此会一一差別一帰二平等性千・・⋮言由二前平等成此 縁起一者、謂一有一一定性一不し由一一於多︽多有一一定性一不し由一一於 二今由三一無一一定性︽仮し多而起、多無一一定性弍由レー而生、 故由一一無性平等之義︽方成二縁起︽若有一一一可一二此是自性一、 若有一一多可︾多此是定性多。若是定性多、多不し因一一於二若 是定性一、一不し因二於多﹃今由し多故一、此一不二自一一今 由レー故多、此多不二自多︽多不︸一自多︽此多則無力、此一 不一一自三此一則無力、無力随一一有力弐一多互相収、故随二 一佛会一即二切佛会↓法界一切会即是一法会故、此一法会 不動而常遍、不分而常多。.:⋮﹂ ⑪華厳経に見られる佛の身光は註②に挙げた例をはじめと して枚挙にいとまがない。その他の例としては、大宝積経 巻第二十不動如来会、︹唐菩提流志訳︺︵大正n.二○ .a︶がある。﹁不動如来光明、普雌二三千大千仙之刹土弍 願於二来世一当下見一一此光一証二無上党↓因一見し光已一成即大菩 ○○ 提上、復以二身光一通二満世界ご なお澄観は身光・常光・放光について華厳経疏巻第九︵大 正弱.五六四a︶において左のごとくいう。 ﹁於一一身業中一開二常光一為二身光︽放光為一一光明一故有一一十句↓ ・・⋮・然諸経諭、説一一佛常光一尋↓準一禾思談品一常妙光明不 可説不可説、種種色相以為一一厳好︽為光明蔵、出二生轆量円 満光明︽普照一一十方一無し有二障磯弍然放光則有し時不レ放、 如二諸会面門毫相所放之類斗然相海仙、其三相常放二光明︽ 斯即放光亦通一一常光︽而分別者、常即湛遍、放則見レ有一一去 来一故・﹂なおこの箇処の華厳経随疏演義妙における相当部 分は巻第二十三︵大正調.一七九・blc︶である。 ⑫註②③⑪その他で知られるように、諸種の経典が説く佛 光は重に身光である場合が多い。 ⑳大智度論巻第八︵大正妬・二四・c︶には放光に撰ん で常光が放たれねばならない理由を左のように述ゞへる。 ﹁問日、上已挙身微笑及放一一毛孔光明﹃今何以復放一一常光一而 照一一十方争 答日、有し人見二異光明一調し非一一佛光︽見一一佛常光転大弐心則 歓喜、此実佛光、便畢至二阿褥多羅三読三菩提ご

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⑭大智度論巻第八︵大正弱.二四・c︶ なお、常光にも一丈と無量の二種がある理由が次下に左の ごとく説かれる。 ﹁如一諸佛常法︽但於二五濁世一為一一衆生少徳少智一故、受一二 丈光明︽若受二多光︽今衆生燕棉鈍根、H不し堪二其明︽如下 人見一一天身一眼則失参明、以二光盛眼微一故、若衆生利根禍誼、 佛則為し之現一一無量光明聿復次有し人見二佛常光一歓喜得度。 臂如示国王以二常食之餘↓賜一一諸群下↓得者大喜エ、佛亦如し 是有し人見二佛種種餘光一心不二歓喜︽見一一佛常光一必至二阿蒋 多羅三貌三菩提ご有限なる常光という概念は、常光が放 光への展開を内含しているものであることを示す例証であ るように思われる。 ⑮大智度諭巻第三十四︵大正酪・三二・c︶には ﹁諸佛寿命光明各有二二種弐一者隠蔵二者顕現、一者真実、 二者為一一衆生一故。隠蔵、真実者、無量。顕現、為寺衆生一者、 有し限有し量・﹂とあって、光が衆生と関係するのは、有限 の相をもって顕現するところにあることが明されている。 ⑳大智度論巻第七︵大正弱・一二一・a︶ ⑰探玄記巻第三︵大正弱.一四六・C︶ ⑬探玄記巻第四︵大正弱・一七二・a︶ なお、これに対する澄剛の説は華厳経疏巻第十三︵大正弱 ・五九五・a︶に明らかである。﹁二合者、良以事理倶融 唯一無砿境、故得三一事即遍二無辺﹃而不レ壊二本相︽身智無 二、唯一無曝光故、浬桑経瑠璃光菩薩処云、光明者名為一一 智慧﹃知悟不し殊、唯一平等覚悟之心、知し無二事非一レ理故、 又此二光不レ異二覚境﹃此三円融唯無腰之法界、雌一一平等絶P 相不し峻二光明之覚ごまた、華厳経随疏演義紗の相当箇処 は巻第二十九︵大正粥。二二二・a︶である。 ⑳華厳経巻第三︵大正9.四○七・Cl四○八・a︶ ﹁此光遍照二一切佛刹一於二念中一皆悉普照一一一切法界︽於一一 一切世界一雨一二切佛諸大願雲一顕一一現普賢菩朧千・⋮﹂

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