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十六世紀の日朝通交における大蔵経求請交渉の推移

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(1)

  

十六世紀の日朝通交における大蔵経求請交渉の推移

 

押 *    川   信   久

   

はじめに一 中宗十二年︵一五一七︶日本国使臣の大蔵経求請

二 中宗三十二年︵一五三七︶﹁日本国王﹂使臣の大蔵経求請

三 中宗三十四年︵一五三九︶大内殿義隆使送の大蔵経求請

おわりに

*福岡大学人文学部非常勤講師

( 1 )

(2)

はじめに 朝鮮王朝は︑建国以来︑日本の諸勢力の求請に応じる形で︑仏教経典の集大成である大蔵経を継続的に回賜してい

た︒従来の研究では︑十五世紀を通じて日本の諸勢力が様々な手段を使って朝鮮王朝に大蔵経を求請したことに注目

が集まり︑一九一〇年代より多くの成果が積み重ねられてきた

︒近年は︑大蔵経求請の個別事例を分析していくなか *1

で︑求請を主導した勢力の中に﹁偽使﹂が多数含まれていたことや

︑十五世紀後半以降︑特定の寺院が日本国王や大 *2

内氏などに大蔵経の求請を依頼する形式が主流となっていたことが解明されている

︒さらに︑求請によって日本にも *3

たらされた大蔵経の利用と移動の実態についても︑着実に研究が進められている

*4

一方︑朝鮮王朝の王室では︑王妃・大妃が中心となって︑仏教が篤く信仰されていた︒王室にとって︑大蔵経は自

らの安寧のよりどころであり︑これを日本の諸勢力に回賜することは︑自らの王権の威信を内外に示すことを意味し

た︒そこで︑王朝政府は︑国内に散在する仏教経典の所蔵状況をあらかじめ調査して︑経典およびそれを所蔵する寺

院に関する情報を把握し︑日本の諸勢力から求請があれば︑自ら経典の供出を寺院に求め︑収集した経典を大蔵経と

して回賜する体制を構築したのである︒加えて︑世祖四年︵一四五八︶には︑世祖が自ら王朝政府と仏教界を動員して︑

五〇部の大蔵経を印出する事業を展開し︑自らの王権の正統性を内外に誇示した︒以上により︑朝鮮王朝は︑十五世

紀を通じて︑日本の諸勢力への大蔵経の回賜を継続することが可能になった

*5

しかしながら︑日本の諸勢力による大蔵経の求請は︑十六世紀︑特に中宗五年︵一五一〇︶に三浦の乱が勃発して

( 2 )

(3)

以降

︑急速に下火になってしまう︒結局︑中宗三十四年︵一五三九︶の大内殿義隆使送による事例第三節で詳述︶ *6

を最後に︑大蔵経求請の動きを史料の記述より見いだすことは不可能になる︒こうした点自体は︑先行研究でもすで

に指摘がなされており

︑﹁日本による朝鮮への大蔵経求請とは︑一五世紀に特徴的な状況であった *7

﹂とする見解もある︒ *8

しかし︑従来の研究では︑大蔵経の求請が下火になるに至った要因に対して充分な説明がなされておらず︑そもそも

十六世紀に入って大蔵経の求請および回賜が次第に行われなくなった経緯について︑史料の分析に基づいた追究がな

されたことはなかった

*9

そこで︑本稿では︑十六世紀の日朝通交における大蔵経の求請および回賜の状況を把握するための基礎的な作業と

して︑当該期の関連事例を逐一検討することにしたい︒

一  中宗十二年︵一五一七︶日本国使臣の大蔵経求請 三浦の乱後︑はじめて朝鮮王朝に大蔵経を求請した日本の使者は︑日本国使臣太蔭である︒中宗十二年︵一五一七︶

八月︑中宗は昌徳宮仁政殿で太蔭に接見した

︒このとき︑太蔭は︑朝鮮王朝に対して︑大蔵経と助縁の回賜を求めて *10

いた︒   ︻史料︼︵﹃中宗実録﹄巻二十九︑十二年八月丁巳︵十四日︶条︶

申用漑︑以日本使臣押宴官︑行宴後復命仍啓曰︑客使等曰︑大蔵経︑則雖不秩已賜一件矣︑但無蔵経器︑思欲造

( 3 )

(4)

成︑請助縁至於再三︑考其前例︑則布紬各二百匹︑今亦可給也︑︵中略︶伝曰︑助縁当依前例給之︑︵後略︶

右の史料には︑申用漑が日本使臣押宴官として宴会を催した後に復命した内容の一部が記されている︒これによ

れば︑客使︵太蔭︶は︑大蔵経について︑全巻揃っていないけれども︑すでに一件を賜っているとする一方︑ただ﹁経

を蔵める器﹂すなわち経蔵がないので︑造営を希望すると述べ︑再三助縁を請願していたという︒そこで︑申用漑は︑

前例を勘案して︑布︵麻布︶・紬︵絹布︶各二〇〇匹を日本側に助縁として賜給するよう提言した︒

史料に見える申用漑の復命より︑大蔵経については︑太蔭の求請に一件を回賜することで対処し︑経蔵造営の助

縁については︑前例にならって布帛を賜給することで応じようとしていたことがわかる︒申用漑の復命に対して︑中

宗もまた︑前例に依拠して助縁を賜給するよう指示している︒このとき︑中宗は︑大蔵経に関して特に言及をしてい

ないが︑おそらくすでに大蔵経の回賜を実施していた申用漑の対応を支持していたのであろう︒

ところが︑助縁として布帛を賜給することの是非については︑まもなく王朝政府内部で異議が提起されることになっ た︒   ︻史料︼︵﹃中宗実録﹄巻二十九︑十二年八月庚申︵十七日︶条︶

御不時経筵︑参賛官成世昌曰︑日本国使臣︑助縁請賜︑而有教考前例賜給矣︑①彼国無礼楽之甚︑求請仏道之事︑

於他国家而恬莫為恠︑我国之尚儒闢仏︑所経一路︑亦可見知︑今若但以為助縁而賜給︑則恐彼人以我為亦尚浮屠

之事也︑賜給之際︑名之以他事可矣︑︵中略︶侍読官申光漢曰︑今聞成世昌之言︑始知有此事矣︑前此亦有外国

( 4 )

(5)

人請仏経於我国而給之︑②然待外夷之道︑当使其人知我国所尚之正︑而亦使知其国所請之非礼也︑今求而給之非

也︑雖有前例︑亦不須拘例而給之也

右の史料によれば︑臨時の経筵の席上で︑参賛官成世昌と侍読官申光漢が︑日本国使臣に助縁を賜給することに

ついて︑自らの考えを述べている︵引用史料文中の傍線および番号は引用者による︒以下同じ︶︒成世昌は︑日本と

我が国︵朝鮮︶の間で儒教と仏教に対する姿勢に差違があることを指摘した上で︑もし日本国使臣に助縁の賜給を行

えば︑おそらく日本側に我が国が仏教を崇尚していると思われるとし︑賜給の際に名目をあらためるよう求めている

︵傍線部分①︶︒また︑申光漢は︑日本国使臣に対して︑我が国が儒教を崇尚していることは正当であり︑求請が非礼

であることを理解させるべきであるとし︑助縁として布帛を賜給することについては︑前例に拘泥して賜給すべきで

はないとしている︵傍線部分②︶

史料の記述を見る限り︑成世昌と申光漢は︑助縁として布帛を賜給することの是非を︑王朝政府の儒教および仏

教に対する姿勢に関わる問題として捉えている︒彼らにとって︑日本側に助縁を賜給することは︑儒教を国是とする

王朝政府の立場に背反することであった︒それゆえ︑成世昌は︑助縁以外の名目で布帛を賜給することを主張し︑申

光漢は︑助縁を賜給することそのものに反対する意向を示したのであろう︒

成世昌と申光漢の議論を承け︑中宗は︑政丞︵領議政・左議政・右議政︶等に伝教して︑日本側に大蔵経と︑助縁

としての布帛を賜給することの是非を諮問した︒次に掲げる史料には︑中宗と政丞等の間でたたかわされた議論の

( 5 )

(6)

内容が記されている︒

︻史料︼︵﹃中宗実録﹄巻二十九︑十二年八月庚申︵十七日︶条︶

伝于政丞等曰︑礼曹啓云︑日本国王求請大蔵経及助縁︑可依古例賜給云︑故允之︑有言其非者︑故問之耳︑回啓曰︑

①経則已給矣︑且我国不尚而已︑雖給之何妨︑助縁亦可給之︑果以為助縁而給之︑則似乎我国亦為其事也︑当語

其不崇之意︑而以爾求請之切︑故給之︑非為助縁也云︑則可矣︑伝曰︑②大蔵経︑則礼曹已言賜給之意︑今可給

之︑若助縁則不可給也︑︵後略︶

このとき︑政丞等は︑大蔵経の賜給について︑すでに賜給したことがあり︑その上我が国では崇尚していないので

あるから︑これを賜給しても差し支えないとした︒また︑布帛の賜給については︑助縁のためではなく︑求請が懇切

であることを理由に賜給するのがよいと述べた︵傍線部分①︶︒政丞等の主張は︑史料の記述における成世昌の議

論に近似しているといえるであろう︒

ところが︑中宗は︑大蔵経は礼曹がすでに賜給の意向を語っているので賜給すべきであるが︑助縁は賜給すべきで

ないと伝教した︵傍線部分②︶︒すなわち︑このとき中宗は︑史料に見える申光漢の議論を支持したのである︒中

宗は︑翌日の朝講の席上でも︑同様の見解を述べており

︑最終的に日本側に大蔵経のみを賜給し︑助縁としての布帛 *11

は賜給しないことにしたのであろう︒

以上より︑朝鮮王朝は︑日本国使臣太蔭による大蔵経と助縁の求請に対して︑大蔵経一件を回賜することで応じて

( 6 )

(7)

いたことがわかる︒このとき︑王朝政府内部では︑大蔵経を回賜することの是非について︑特に問題とされることは

なく︑前例にしたがって回賜が実施される一方で︑助縁の賜給に関しては︑これに反対する意見が提起され︑最終的

に見送られることになった︒

二  中宗三十二年︵一五三七︶﹁日本国王﹂使臣の大蔵経求請 中宗三十二年︵一五三七︶正月︑東陽東堂が﹁日本国王﹂の使臣として朝鮮を訪れ︑書契を呈上して大蔵経の回賜

などを求めた

︒東陽東堂は︑中宗十一年︵一五一六︶にも大内義興の使者東陽西堂として朝鮮を訪れたことのある外 *12

交僧であり︑さらに博多聖福寺の住僧であった可能性が強いといわれる

*13

東陽東堂による求請を承け︑中宗は︑三公︵領議政・左議政・右議政︶に伝教を下し︑史官を派遣して議論を促し

た︒このとき︑中宗は︑日本が大蔵経を求めるのは一度や二度ではなく︑我が国が仏教を好まないことを示せば︑仮

初の言辞で答えても差し支えないと述べている

*14

中宗の伝教に対して︑まず︑領議政金謹思と左議政金安老が︑大蔵経の所蔵状況が不明であるので︑ひとまず嶺南︵慶

尚道︶の大蔵経を所蔵する邑に問い合わせてその有無を確認することを進言した︒続いて︑右議政尹殷輔が︑大蔵経

は嶺南の巨刹に必ず所蔵されているので︑その所蔵の可否を的確に把握し︑その後に議論して処理するのがよいとし

︒金謹思・金安老・尹殷輔の発言より︑三公の意向は︑大蔵経の所蔵状況を確認した上で︑東陽東堂の求請に応じ *15

( 7 )

(8)

ることで一本化されていたと見てよい︒

しかし︑翌月に至ると︑成均館進士柳健等が上疏し︑大蔵経を日本の使者に授けるのは︑異国に我が国が仏教を崇

奉していると示すことになり︑はなはだ恥ずべきことであると主張した

︒これに対して︑中宗は︑当初︑仏経は我が *16

国が重んじているものではなく︑日本の使者に与えても差し支えないと述べたが

︑結局︑三公にあらためて意見を求 *17

めるに至った︒

   ︻史料︼︵﹃中宗実録﹄巻八十三︑三十二年二月辛亥︵二日︶条︶

︵前略︶領議政金謹思議︑︵中略︶①日本国所求大蔵経︑其給與不給︑豈関於我国之崇仏與否︑此非始於今時

自 祖宗朝︑亦有賜給之時︑交隣之義︑給之似不妨︑左議政金安老議︑︵中略︶②日本専使求経︑旧刹残棄之蓄︑

在所不惜︑但答以我国不奉其法︑其書不存︑代賜吾儒之書︑並致他物︑以慰其望何如︑︵中略︶伝曰︑︵中略︶③

大蔵経︑非我国所重︑雖給倭使可也︑大抵待夷以信︑亦是覊縻之道︑不可使有缺望也︑若不給其所求之経︑而只

給吾儒之書︑則豈不缺望乎︑仍伝于政院曰︑④以大蔵経給倭使時言曰︑我国不崇仏法︑而仏経散尽無全︑故僅拾

残経︑以副厚望︑仍以吾儒経伝給之曰︑我国崇重者唯此而已︑則既慰其遠人之望︑而崇吾道闢異端之意︑一挙而

両全也︑此意言于礼曹

右の史料には︑日本の使者に大蔵経を回賜することの是非について︑金謹思・金安老・中宗の見解が記されてい

る︒まず︑金謹思は︑日本が求める大蔵経を賜給することは︑我が国の崇仏の当否に関わりないことであり︑さらに

( 8 )

(9)

祖宗の代より行われているので︑交隣の義に照らしても差し支えないであろうと述べている︵傍線部分①︶ 一方︑金安老は︑日本の使者が求める経典は︑旧刹に破棄すべき蓄えが惜しみなく残されているとしつつも︑ただ

日本側には︑我が国は仏法を奉じておらず︑仏書が存在しないと答え︑代わりに儒教経典を賜給するよう求めている

︵傍線部分②︶

金謹思・金安老の議論を承け︑中宗は︑大蔵経は我が国が重んじるものではないので︑日本の使者に賜給してもよ

いとする一方︑大蔵経を賜給せず︑ただ儒教経典のみを賜給しても︑日本側を失望させることはないと答えた︵傍線

部分③︶︒そして︑日本の使者に大蔵経を賜給する際に︑我が国は仏法を崇奉せず︑仏経は散逸して完全なものがな

いので︑残経を収拾することで厚望に沿う旨を伝え︑そこで日本側に儒教経典を賜給して︑我が国が重んじるものは

これのみであると伝えれば︑日本側の望みを満たし︑我が国の崇儒闢仏の意向も一挙に全うできるとし︑以上を礼曹

に述べるよう︑承政院に伝教した︵傍線部分④︶

史料の記述を検討すると︑特に金安老が︑大蔵経の代わりに儒教経典の賜給を求めていたことが注目される︒金

安老がこうした発言を行った背景として︑中宗二十九年︵一五三四︶の春に︑大内義隆の使者が朝鮮を訪れて﹃五経

正義﹄と二箇所の寺院の新たな扁額を求め︑朝鮮王朝もこれに応じていたこと︵次節で詳述︶が挙げられる︒金安老

は︑日本の使者が行った新たな要求を斥けるのではなく︑日本との通交を円滑に進めるための新たな方法として活用

することを志向したのであろう︒

( 9 )

(10)

さらに︑金安老の主張は︑日本側の要求を満たすことに加え︑日本側に儒教を国是としていることを積極的に表明

するための手段としても受け入れられていた︒前節で指摘したように︑王朝政府内部では︑日本側の仏教関連の求請

に応じることについて︑儒教を国家の基本思想として採用している自らの立場に背反するとする批判が存在していた︒

中宗は︑こうした批判に応える方策として︑金安老の主張を全面的に採用することにしたのであろう︒

中宗が承政院を通じて礼曹に命じたのを承け︑礼曹は︑日本国書契の仏経を求請する条項への回答として︑我が国

は仏教を崇奉せず︑ゆえに大蔵経はみなすでに散逸しているが︑厚意には沿わなければならないので︑残経を集めて

一帙を準備し︑使者に与えることにし︑知製教にこの意向を踏まえて書契を作成させると上啓した︒これに対して

中宗は︑その内容を妥当としつつも︑儒教経典を賜給する意向が述べられていないことを指摘し︑知製教に書啓を作

成させる際に︑儒教経典の賜給についてもあわせて取り上げるのがよいと伝教した

*18

以上のごとく︑朝鮮王朝は︑東陽東堂の大蔵経求請に対して︑日本側に儒教を国是としている自らの立場を顕示す

るために︑仏経に加え︑儒教経典を回賜する方針を示すに至った︒この方針が︑以後の大蔵経の求請と回賜をめぐる

日朝双方の交渉にも︑少なからず影響を及ぼすことになる︒

三  中宗三十四年︵一五三九︶大内殿義隆使送の大蔵経求請 中宗三十四年︵一五三九︶八月に︑大内殿義隆の使送として︑上官人僧龍穏東堂等一五人が朝鮮を訪れ︑慶会楼で

(1 0)

(11)

中宗より宴席を賜った

︒龍穏東堂について︑﹃中宗実録﹄では具体的な記述を欠くが︑すでに先行研究によって︑安 *19

芸国厳島大願寺の僧印漢と比定されている

*20

印漢は︑大願寺より大蔵経入手の使命を托され︑義隆より書契と勘合を受け取り︑当初正使として朝鮮に赴くこと

になっていた︒ところが︑印漢は︑途中の対馬で渡航を渋った上に︑船頭との間でトラブルを起こし︑ついに使命を

放棄してしまった︒そのため︑実際には︑同じ大願寺の僧であり︑副使として同行することになっていた尊海が︑代

わって正使として朝鮮に赴き︑朝鮮王朝に大蔵経を求請したのである

︒このとき︑尊海は︑朝鮮より﹁瀟湘八景﹂を *21

八曲一双の屏風に描いた水墨画を大願寺に伝えている

︒さらに︑屏風の裏面には︑尊海が自らの朝鮮紀行を墨書した︑ *22

いわゆる﹃尊海渡海日記﹄が残されており︑現存する日本人の朝鮮紀行のなかで︑最古のものとされている

*23

さて︑尊海を中心とする一行は︑前述のごとく︑義隆より︑朝鮮王朝の礼曹参判に宛てた書契を受け取っていた

次に掲げる史料は︑このとき尊海一行が携行していた書契の本文

の一部である︵引用史料文中の﹇﹈は割註︒以 *24

下同じ︶

   ︻史料︼︵﹁大内義隆朝鮮国礼曹参判宛書翰写﹂

日本国王臣左京兆尹兼都督長史武衛次将多多良朝臣﹇義隆﹈︑奉書朝鮮国礼曹参判足下︑︵中略︶①抑去天文参年

之春艤船︑奉書求以五経正義両寺新額︑献以不腆之土冝矣︑彼船及于今不帰国也︑只怪着岸上陸而献方物否︑却

没溺洋海之風波否︑日待回封耳︑越又吾弊邦之内有州︑曰安芸︑某社号厳嶋︑安弁才多聞両天︑為社主︑而年代

(1 1)

(12)

深遠也︑夫大蔵経載道器︑而包含万象万里矣︑運転之則全覆燾︑繞旋之則保国家安泰︑加之︑古人以孔子比釈氏︑

以十哲弟子︑比十大弟子︑然則儒釈一致︑不可外焉︑繇韙吾扶桑之神社仏宇︑無大無小︑以安置此経︑為善道也︑

②当社亦往昔雖寄置之︑或有蠹虫破費︑或有雀鼠侵耗︑有蒸潤者︑有残断者︑壱函亦不敢全︑仍不克補完粘綴者︑

年既久矣︑③仰冀殿下︑頒賜大蔵金文壱蔵︑付回使載帰︑則以為億兆無疆之賜︑︵中略︶天文五年二月 日︑

内多多良義隆

史料の記述に基づき︑尊海一行が朝鮮王朝に対して︑書契を通じて請願した事項を整理していく︒これによると︑

まず︑天文三年︵中宗二十九年︵一五三四︶︶の春に︑義隆の使者が船を準備し︑書契を奉じて朝鮮を訪れ︑﹃五経正

義﹄と二箇所の寺院の新たな扁額を求め︑進物を献上したが︑いまだに帰国していないと述べ︑その安否を尋ねてい

る︵傍線部分①︶

続いて︑厳島社には以前に大蔵経が安置されていたが︑虫食いや湿気などのために毀損や遺失が激しく︑補修が困

難になっていることを訴え︵傍線部分②︶︑朝鮮王朝に大蔵経一蔵を求請している︒

傍線部分②の記述より︑尊海一行の大蔵経求請が︑厳島社の要望を承けて行われていたことがわかる︒また︑傍線

部分①の記述より少なくとも中宗二十九年︵一五三四︶の時点において︑義隆が朝鮮王朝に対して︑﹃五経正義﹄

と寺院の扁額を求請していたことが読み取れる︒さらに︑義隆は︑五年後の同三十四年︵一五三九︶の時点に至って

も︑﹃五経正義﹄と扁額の送付の是非をあらためて尋ねており︑大蔵経に加えて︑﹃五経正義﹄と扁額の請来を切望し

(1 2)

(13)

ていたことが窺える︒

尊海による一連の求請に対して︑朝鮮王朝は︑礼曹参判姜顕が義隆に宛てて回答の書契を作成した︒次に掲げる史

は︑このとき姜顕が義隆に宛てた書契の本文

の一部であり︑尊海は︑この書契を携え︑帰国の途につくことになっ *25

た︒   ︻史料︼︵﹁朝鮮国礼曹参判返翰写﹂

朝鮮国礼曹参判姜︑奉復日本国王臣左京兆尹兼都督長史武衛次将多多良朝臣義隆足下︑︵中略︶①前索五経正

義及両寺新額︑即付回使︑未知何縁中滞︑想今已達矣︑茲者復承求索大蔵経︑来使又体雅意︑求之勤懇︑豈不欲

勉副雅意︑但前代高麗之時︑所印経蔵︑後因衰季喪乱︑幾尽已散︑以及本朝︑深山古刹︑容有遺貯︑累将件帙奉

塞貴邦之請︑②近縁国家専尚周孔不崇釈教︑時好不存︑遺失不収︑年代浸遠︑無復留余︑勢難転啓︑良乖修好之

義︑徒懐愧恨︑惟希恕諒余︑冀雅摂無愆︑不宣︑嘉靖十八年九月 日︑礼曹参判姜 史料記述によれば︑まず︑以前中宗二十九年︵一五三四︶︶に義隆の使者が﹃五経正義﹄と二箇所の寺院の

新たな扁額を求めたことについて︑すみやかに回答の使者に付託したとし︑どうして中途で停滞したか未だにわから

今やすでに日本に達していると思っていたと述べている︵傍線部分①︶︒これにより︑朝鮮王朝が中宗二十九

年︵一五三四︶の時点で︑﹃五経正義﹄と扁額の求請に応じていたことがわかる︒

一方︑大蔵経の求請に関しては︑近ごろ国家︵朝鮮︶がもっぱら周孔を尊敬して釈教を崇拝しなくなったことにより︑

(1 3)

(14)

仏経が散逸して集まらなくなっていると答え︵傍線部分②︶︑拒否する意向を伝えている︒尊海による求請が拒絶さ

れて以降︑日本の諸勢力が朝鮮王朝に大蔵経を求請する事例は︑管見の限り︑史料上から見受けられなくなる︒した

がって︑先行研究でも指摘されているように︑結果として︑尊海一行による事例が﹁最後の大蔵経求請

﹂となったの *26

である︒

一方

︑朝鮮王朝は

︑前述のごとく

︑中宗二十九年

︵一五三四︶以降

︑儒教経典の回賜に応じるようになり

︑同

三十二年︵一五三七︶に東陽東堂が大蔵経を求請した際にも︑仏経に加え︑儒教経典を回賜する方針を示していた

そこで︑義隆は︑中宗三十五年︵一五四〇︶に正首座等を使送として派遣し︑使送の一行は︑十二月に中宗の接見

を受けた

︒次に掲げる史料︑義隆が天文七年︵中宗三十三年︵一五三八︶︶十月日付で朝鮮王朝の礼曹参判に宛 *27

てた書契の本文

の一部である︒ *28

   ︻史料︼︵﹁送高麗国疏﹂

日本国大内左京兆兼太宰大弐防長豊筑雍芸石州太守多多良朝臣義隆︑奉書朝鮮国礼曹参判大人足下︑︵中略︶今

復遣専使正首座︑伏悉下愚︑以祝聖寿無疆︑盖先是謹奉表文︑叩諭懇求︑以故所辱寵賜物数事︑五経大全各一

部︑仏廬僧房榜額之手迹等︑許坐受領︑然愚陋僻惷︑至今無階答謝︑惟積慙惶︑切希恕宥︑①抑亦如朱氏新註

五経︑上古弊邦諸儒蓄之者︑家々汗牛︑戸々充棟︑而近世一秦殆成坑灰︑其僅存者散乱毀裂︑十亡四五︑僕為書

生学官病之甚至︑伏乞憐察︑②又如刻漏制度之器︑伝記所載︑設其図昭着︑而説所刻之法亦詳矣︑雖然東人頑疎︑

(1 4)

(15)

徒解観図︑不解製器︑況其法乎︑是以無弁昼夜刻分︑不奈之何︑苟自非就上国求得漏器然後刻之︑安能使人解日

午打三更之惑哉︑③伏望︑所謂新註経各全部及漏匱・漏壺・渇烏・箭盆等器︑一無遺失︑更垂賜與︑︵中略︶天

文七年冬十月日︑左京兆兼太宰大弐多々良義隆

史料の記述によると︑義隆は︑﹁朱氏新註五経﹂が失われ︵傍線部分①︶︑﹁刻漏制度之器﹂が整備されないでい

る現状を訴えた上で︵傍線部分②︶︑新註の経典および漏匱・漏壺渇烏・箭盆等の器具を求めていたことがわかる

︵傍線部分③︶︒﹁朱氏新註五経﹂は︑朱熹が新たに註した五経︵﹃易経﹄﹃書経﹄﹃詩経﹄﹃礼記﹄﹃春秋﹄︶であり︑﹁刻

漏制度之器﹂は︑計時の器具をさすと考えられる︒このとき︑義隆は︑儒教経典と計時の器具の求請を第一の目的と

して︑正首座等を使送として派遣したのである︒

義隆による一連の求請は︑先に儒教経典の回賜の推進を掲げていた朝鮮王朝の意向に沿うものであった︒そこで

朝鮮王朝は︑求請に同意する内容を記した書契を義隆に送ることにした︒

   ︻史料︼︵﹁朝鮮国礼曹参判任権書契﹂

朝鮮国礼曹参判任権︑奉復日本国大内都督大卿兼兵部侍郎防長豊筑雍芸石七州太守多多良朝臣義隆足下︑︵中略︶

前送五経曁寺額︑因蒙遠索︑聊申綏好之礼︑何用煩謝︑念此諸経︑皆具伝註︑苟能講究︑足以闡道義出治化︑無

以復加矣︑①而足下猶慊然於心︑復勤遠价︑更求朱子新註五経︑可見足下向道之切︑慕学之篤︑不覚敬嘆︑儻有

︑豈敢愛惜︑︵中略︶②今承再索美意︑不可虚負︑唯念五経之中︑詩書尤切於講習︑今各添送壱件︑以為好書

(1 5)

(16)

之助︑③更漏之器︑亦係欽天授時之具︑有土者之所不可闕︑足下又以為請益見雅尚之得其要矣︑貴国之人︑必有

通於候暦之術者︑其制象之器︑応亦致精矣︑今所求蓋欲参校刻︑益究其精耳︑其意不亦嘉哉︑本国漏器︑規制

不一︑取其中簡易能致遠者壱具︑︵中略︶嘉靖二十年正月 日︑礼曹参判任権 右の史料︑嘉靖二十年︵中宗三十六年︵一五四一︶︶正月に︑礼曹参判任権が義隆に宛てた書契

の本文の一部 *29

である︒これによると︑朝鮮王朝は︑義隆が朱氏新註五経﹂を求請したことに対して︑﹁慕学の篤きこと不覚に

も敬嘆せり﹂と︑驚きを交えて賛美している︵傍線部分①︶︒そこで︑五経のなかでも︑﹁詩書﹂︵﹃詩経﹄﹃書経﹄︶が

とりわけ講習において重要であるので︑各々一件を送付すると回答している︵傍線部分②︶︒また︑﹁更漏之器﹂につ

いても︑義隆による求請を賞嘆し︑国内より﹁簡易にして能く致遠する者壱具﹂を選んで送ると答えている︵傍線部

分③︶

以上より︑朝鮮王朝が︑義隆との通交においても︑儒教経典の回賜を推進する方針のもとで︑大蔵経の求請を拒否

する一方︑儒教経典と計時の器具の求請に応じていたことがわかる︒義隆もまた︑大蔵経の求請が拒否されたことを

承け︑大蔵経から儒教経典と計時の器具へ︑求請の品目を切り替えたことにより︑所期の目的を果たすことが可能に

なったと考えられる︒

(1 6)

(17)

おわりに 本稿でこれまで考察した内容を整理すると︑下記の通りになる︒

中宗十二年︵一五一七︶八月︑日本国使臣太蔭が朝鮮王朝に大蔵経と助縁の回賜を求めた︒朝鮮王朝は︑前例にし

たがって大蔵経一件を回賜する一方︑王朝政府内部で儒教を国是とする自らの立場に背反するとする議論が出された

ことにより︑最終的に助縁の回賜を見送った︒

同三十二年︵一五三七︶正月︑東陽東堂が﹁日本国王﹂の使臣として朝鮮を訪れ︑書契を呈上して大蔵経の回賜な

どを求めた︒王朝政府内部では︑当初︑大蔵経の所蔵状況を確認した上で︑東陽東堂の求請に応じる方針が示されて

いた︒ところが︑成均館進士柳健等が上疏して大蔵経の回賜に反対したことにより︑あらためて中宗と三公が議論を

交わした結果︑日本側に︑仏経に加え︑儒教経典を回賜する方針が示された︒これにより︑朝鮮王朝は︑東陽東堂に

残経一帙と儒教経典を回賜した︒

同三十四年︵一五三九︶に安芸国厳島大願寺の僧尊海をはじめとする一行が︑大内義隆の使送として朝鮮を訪れ

大蔵経一蔵を求請した︒このとき︑義隆は︑同二十九年︵一五三四︶に使者を派遣して﹃五経正義﹄と二箇所の寺院

の新たな扁額を求めたことに言及し︑これらの送付の是非もあわせて尋ねた︒朝鮮王朝は︑大蔵経の回賜を拒否する

一方で︑﹃五経正義﹄と扁額の求請については︑同二十九年︵一五三四︶の時点ですでに応じていたと回答した︒そこで︑

義隆は︑同三十五年︵一五四〇︶に正首座等を朝鮮に派遣して﹁朱氏新註五経﹂と﹁刻漏制度之器﹂を求請し︑朝

(1 7)

(18)

鮮王朝も義隆の求請を受け入れた︒

以上の検討を通じて︑十六世紀の日朝通交における大蔵経の求請と回賜をめぐる交渉の推移を追跡することができ

た︒朝鮮王朝の政府内部では︑三浦の乱が終息して以降︑自らの王権の威信を示すために︑日本の諸勢力から求請が

あれば大蔵経を回賜していたことに対して︑儒教を自らの根本思想とする立場に背反するとする議論が提起されるよ

うになった︒こうした中で︑義隆の使者が﹃五経正義﹄と寺院の扁額を求請したことにより︑朝鮮王朝は︑それまで

の大蔵経を回賜する方針から︑儒教経典を回賜して︑儒教を国是とする自らの立場を誇示していく方針へ︑漸進的に

転換を果たしていったと考えられる︒一方︑義隆をはじめ︑日本の諸勢力もまた︑朝鮮王朝の方針の変化を察知し

大蔵経の求請を控えるようになったと推測される︒こうした両者の対応が︑結果として︑尊海の求請が実らずに終わっ

て以降︑日朝通交において︑大蔵経の求請と回賜の痕跡が史料上より見えなくなる状況が生まれる一因となったので

あろう︒ しかしながら︑本稿の論述を通じて︑あらためて多くの課題が浮彫になった︒なかでも︑朝鮮王朝が日本の諸勢力

への回賜品を大蔵経から儒教経典に変更した要因に関しては︑当該期における王朝政府の仏教政策の推移もあわせて

考察する必要がある︒従来の研究では︑中宗代の仏教政策について︑一貫して仏教への排斥が推進されたとみなされ

てきた

︒しかし︑中宗の治世が三九年におよび︑その間に複雑な政治的変化を経ていることを踏まえれば︑仏教政策 *30

に対しても︑個々の政局の推移や権力構造の変遷等を適切に把握した上で︑王朝政府内部での論議の展開を逐一検証

(1 8)

(19)

することが求められる︒以上については︑稿をあらためて論述することにしたい︒

  ︻註︼

*1

当該期の日朝通交における大蔵経の求請および回賜に関する研究の嚆矢は︑古谷清﹁足利時代渡鮮日僧の目的

に就て﹂︵﹃朝鮮﹄三六京城︑一九一一年︶であり︑当時朝鮮に渡った日本の僧の多くが大蔵経の獲得を目

的としていたことをはじめて指摘した︒菅野銀八﹁高麗板大蔵経に就いて﹂︵朝鮮史学会編﹃朝鮮史講座

  特別講

義﹄︵朝鮮史学会︑京城︑一九二四年︶︶は︑大蔵経が日本に招来された事例を網羅的に整理した︒今村鞆﹁足利

氏と朝鮮の大蔵経板﹂︵﹃朝鮮﹄一八六︑京城︑一九三〇年︶︑川口卯橘﹁大蔵経板求請と日鮮の交渉﹂︵﹃青丘学

叢﹄三︑京城︑一九三一年︶江田俊雄﹁日韓国交を媒介した高麗版大蔵経︱足利義持と李朝世宗の場合︱﹂︵﹃

和﹄三五︑東京︑一九五六年︶は︑十五世紀初頭の日本と朝鮮王朝の交渉において︑日本の使臣が朝鮮王朝に大

蔵経板を求請した事件の顛末を追跡した︒竹内理三﹁中世寺院と外国貿易︵下︶﹂︵﹃歴史地理﹄七二︱二︑東京︑

一九三八年︶は︑日本の各寺院が十五・十六世紀に明や朝鮮へ使船を派遣して積極的に貿易活動を展開したとし︑

日本の諸勢力による大蔵経の求請もこうした貿易活動の一環であったとした︒一方︑韓国では︑一九六〇年代後

半以降︑日本の諸勢力による大蔵経求請の事例を包括的に考察した研究が発表されている︒代表的な成果として︑

(1 9)

(20)

李載昌﹁麗末

  鮮初   對日

  關係

  高麗大藏經﹂

︵同著﹃韓國佛教史

  諸問題﹄

우리출판사서울一九九三年︶

所収︑一九六六年初出︶︑金柄夏﹁高麗大藏經

  對日輸出﹂

︵同著﹃李朝前期

  對日貿易

  研究﹄

︵韓國研究院︑서울

一九六九年︶︶︑羅鍾宇﹁朝鮮前期

  高麗大藏經

  日本傳受﹂

︵同著﹃韓國中世對日交渉史研究﹄︵圓光大學校出版局︑

益山︑一九九六年︶所収︑一九八九年初出︶︑韓文鍾﹁조선전기일본의

  大藏經求請

한일간의

  文化交流﹂

︵﹃

日關係史研究﹄一七︑서울︑二〇〇二年︶が挙げられる︒

*2

村井章介﹁︽倭人海商︾の国際的位置︱朝鮮に大蔵経を求請した偽使を例として︱﹂︵同著﹃アジアのなかの中世

日本﹄︵校倉書房︑東京︑一九八八年︶所収︑一九八七年初出︶は︑﹁夷千島王﹂﹁久辺国主﹂﹁琉球国王﹂の使節

と称して︑朝鮮王朝に大蔵経を求請した偽使の事例を分析し︑これらの偽使の行動をすべて︽倭人海商︾の活動

と総括できるとした︒また︑偽使研究の動向の詳細については︑田代和生・六反田豊・吉田光男・伊藤幸司・橋

本雄・米谷均﹁偽使﹂︵第一期日韓歴史共同研究委員会編﹃日韓歴史共同研究報告書︵第二分科︶﹄︵第一期日韓

歴史共同研究委員会︑東京︑二〇〇五年︶︶を参照︒

*3

堀池春峰﹁中世・日鮮交渉と高麗版蔵経︱大和・円成寺栄弘と増上寺高麗版︱﹂︵同著﹃南都仏教史の研究

  下

 

諸寺篇﹄︵法蔵館︑京都︑一九八二年︶所収︑一九六〇年初出︶は︑一四八二年の日本国王使が円成寺のため

に大蔵経を求請し︑このとき日本にもたらされた大蔵経が増上寺に所蔵される経緯を述べ︑同﹁室町時代にお

ける薬師・長谷両寺再興と高麗船﹂︵同著﹃南都仏教史の研究

  下   諸寺篇﹄

︵前掲︶所収︑一九六〇年初出︶は

(2 0)

(21)

一四八七年の大内政弘の使者が長谷寺のために大蔵経を求請したことを明らかにした︒丸亀金作﹁高麗の大蔵経

と越後安国寺について﹂︵﹃朝鮮学報﹄三七・三八︑天理︑一九六六年︶は︑一四八七年の日本国王使が越後安国

寺のために大蔵経を求請したことを紹介した︒関周一﹁室町幕府の朝鮮外交︱足利義持・義教期の日本国王使を

中心として︱﹂︵阿部猛編﹃日本社会における王権と封建﹄︵東京堂出版︑東京︑一九九七年︶︶は︑足利義政期

に︑特定の﹁一禅刹﹂のために大蔵経を求める遣使が通例となることを指摘した︒伊藤幸司﹁室町幕府の外交と

夢窓派華蔵門派︱﹁日本国王使﹂の外交僧をめぐって︱﹂︵同著﹃中世日本の外交と禅宗﹄︵吉川弘文館︑東京

二〇〇二年︶所収︑一九九九年初出︶は︑一四五六年の日本国王使による美濃相国寺と越後安国寺のための大蔵

経求請を考察の対象とした︒

*4

ケネス・ロビンソン﹁一四〜一六世紀の朝鮮と日本における経典の移動﹂︵早稲田大学古代文学比較文学研究

所編﹃交錯する古代﹄︵勉誠出版︑東京︑二〇〇四年︶︶は︑Kenneth R. Robinson "Treated as Treasures: The 

Circulation of Sutras in Maritime Northeast Asia from 1388 to the Mid-Sixteenth Century," 

East Asian History

no. 21 Canberra: Australian National University, 2001︶の抄訳であり十五世紀初頭に二度にわたって大

内氏に賜与された経典を中心に︑朝鮮から日本へ渡った経典の履歴を検討し︑その譲渡の背景を提示した︒須

田牧子﹁大蔵経輸入とその影響﹂︵同著﹃中世日朝関係と大内氏﹄︵東京大学出版会︑東京︑二〇一一年︶所収

二〇〇七年初出︶は︑日朝関係における大蔵経輸入の全体像を概観した上で︑大内氏による大蔵経輸入の実態を︑

(2 1)

(22)

輸入大蔵経の納入先を追究する作業を通じて明らかにした︒橋本雄﹁大蔵経の値段︱室町時代の輸入大蔵経を中

心に︱﹂︵﹃北大史学﹄五〇︑札幌︑二〇一〇年︶は︑中世日本社会における大蔵経の価値を考究する一環として︑

室町時代に朝鮮から輸入された大蔵経の︽値段︾を約三〇〇貫文と算出した︒

*5

世祖代の大蔵経印出事業の顛末については︑李智冠﹁大藏經

  傳來

 

  再雕本

  印經考﹂

︵伽山李智冠스님華甲紀念

論叢刊行委員会編﹃伽山李智冠스님華甲紀念論叢

  韓國佛教文化思想史

︵巻上︶﹄︵伽山佛教文化研究院서울

一九九二年︶︶︑呉龍燮﹁世祖四年

  ﹁高麗大藏經﹂後刷考﹂

︵﹃文獻情報學報﹄五︑中央大學校文獻情報學科創

設三〇周年紀念特輯서울︑一九九三年︶︶︑﹁﹃搨印節目﹄에서

  世祖年間

  大藏經

  引出﹂

︵﹃書誌學研究﹄

三〇서울︑二〇〇五年︶︑拙稿﹁一五世紀朝鮮の日本通交における大蔵経の回賜とその意味︱世祖代の大蔵経

印出事業の再検討︱﹂︵北島万次・孫承喆・橋本雄・村井章介編著﹃日朝交流と相克の歴史﹄︵校倉書房︑東京

二〇〇九年︶︶を参照︒

*6

三浦の乱の経緯については︑中村栄孝﹁三浦における倭人の争乱﹂︵同著﹃日鮮関係史の研究

  上﹄

︵吉川弘文館︑

東京︑一九六五年︶所収︑一九五二年初出︶を参照︒

*7

菅野銀八

﹁高麗板大蔵経に就いて﹂

︵前掲︶

二〇七頁

︑羅鍾宇

﹁朝鮮前期

  高麗大藏經

  日本傳受﹂

︵前掲︶

二九五頁︑村井章介﹁倭人たちのソウル﹂︵同著﹃国境を超えて︱東アジア海域世界の中世︱﹄︵校倉書房︑東京︑

一九九七年︶所収︑一九九四年初出︶︑二五一頁を参照︒ちなみに︑金柄夏﹁高麗大藏經

  對日輸出﹂

前掲︶

(2 2)

(23)

韓文鍾﹁조선전기일본의

  大藏經求請

한일간의

  文化交流﹂

︵前掲︶は︑明宗十一年︵一五五六︶十月に朝鮮を

訪れた日本国王使臣僧天富等が大蔵経の求請を行ったとする︒しかし︑天富等は︑前年の乙卯達梁倭変勃発を承

︑丁未約条で制限された通交条件の改定を求めるために︑対馬宗氏によって派遣されたのであり︵中村栄孝

﹁十六世紀朝鮮の対日約条更定︱対馬の朝鮮貿易独占過程︱﹂︵同著﹃日鮮関係史の研究

  下﹄

︵吉川弘文館︑東京︑

一九六九年︶︑二〇二〜二〇五頁を参照︶︑大蔵経の求請を目的としていたのではなかった︒したがって︑天富等

の事例を大蔵経求請のそれとみなすのは適切でない︒

*8

須田牧子﹁大蔵経輸入とその影響﹂︵前掲︶︑一四六頁を参照︒

*9

十六世紀の日朝通交における大蔵経の求請については︑菅野銀八﹁高麗板大蔵経に就いて﹂︵前掲︶二〇七頁

金柄夏﹁高麗大藏經

  對日輸出﹂

︵前掲︶︑八九〜九二頁︑羅鍾宇﹁朝鮮前期

  高麗大藏經

  日本傳受﹂

︵前掲︶

二九五頁︑韓文鍾조선전기일본의

  大藏經求請

한일간의

  文化交流﹂

︵前掲︶一六頁須田牧子﹁大蔵経輸

入とその影響﹂︵前掲︶︑一四六頁に各々言及が見られるが︑いずれも概略的な記述にとどまる︒ただし︑中宗

三十四年︵一五三九︶の大内殿義隆使送の事例については︑中村栄孝﹁厳島大願寺僧尊海の朝鮮紀行︱巨酋大内

殿使送の一例︱﹂同著﹃日鮮関係史の研究

  上﹄

︵吉川弘文館︑東京︑一九六五年︶所収︑一九六三年初出︶が︑

一連の経緯を関係史料の分析に基づいて明らかにしている︒

*10

﹃中宗実録﹄巻二十九︑十二年八月壬子条に︑﹁上御仁政殿︑接見日本国使臣太蔭和尚﹂とある︒

(2 3)

(24)

*11

﹃中宗実録﹄巻二十九︑十二年八月辛酉条に︑﹁︵前略︶上曰︑昨議日本国王所索大蔵経及助縁︑若給之︑則名雖

不以助縁︑而其実則無異於助縁也︑我国不尚異教︑助縁非所宜為也︑大臣則以為当給云︑予意欲不給耳︑︵後略︶

とある︒

*12

﹃中宗実録﹄巻八十三︑三十二年正月癸巳条︒

*13

伊藤幸司﹁中世後期における対馬宗氏の外交僧﹂︵﹃年報朝鮮学﹄八︑福岡︑二〇〇二年︶︑六二頁︑橋本雄﹁﹁二

人の将軍﹂と外交権の分裂﹂︵同著中世日本の国際関係︱東アジア通交圏と偽使問題︱﹄︵吉川弘文館︑東京

二〇〇五年︶所収︑一九九八年初出︶︑二三三頁を参照︒

*14

﹃中宗実録﹄巻八十三︑三十二年正月癸巳条に︑﹁︵前略︶伝曰︑︵中略︶日本国︑自 祖宗朝︑求大蔵経者非一再︑

我国示不好仏︑雖以権辞答之︑固無妨也︑然前者求之不得︑今又求之不聴︑又不還其漂民︑則似彼缺望︑漂民雖

不可還︑勉従求経一事︑以慰悦之︑示信於隣国何如︑以此意遣史官議于三公︑︵後略︶﹂とある︒

*15

﹃中宗実録﹄巻八十三︑三十二年正月癸巳条に︑﹁︵前略︶金謹思・金安老議︑︵中略︶大蔵経蔵在與否未可知︑姑

問嶺南所蔵之邑︑知其有無︑然後更議施行似当︑︵中略︶尹殷輔議︑︵中略︶大蔵経︑前此日本索之非一再矣︑而

権辞以答︑例不與之︑然今又不給︑則容有缺望︑此経嶺南巨刹︑必有所儲︑其蔵在與否的知︑然後議処似当︑︵後

略︶﹂とある︒

*16

﹃中宗実録﹄巻八十三︑三十二年二月庚戌朔条に︑﹁成均館進士柳健等上疏︑略曰︑︵中略︶旁捜仏書︑欲授日本

(2 4)

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