一、問題の所在 親鸞(一一七三―一二六二)の主著とされる『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)は、様々な経論釈からの引用文を介して論述が展開されている。これは当時の一般的な学問的手法であり、その意味で『教行信証』は、極めて学問的な著作であると言えるだろう。
もちろん親鸞は、学問が往生や成仏を得るための要件に なるとは考えていない。しかし一方で、学問に何らかの意味を認めていたことも事実である。同様に真宗史においても学問の意義は繰り返し論じられており、特に時代が近代に移ると、「真宗学」の在り方や方法論を巡って活発な議論が交わされることとなった。
その中で、「真宗学」に一つの明確な定義を与えたのが、金子大榮(一八八一―一九七六)の講演「真宗学序説」(一九 二二)である。ここで金子は「真宗学」の性格を、「何故に(目的)」「何を(対象)」「如何に(方法)」という三点か ()1
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《研究論文》
『教行信証』における親鸞の学的営為 ──題号の「顕」と「文類」を通して──
親鸞仏教センター研究員
青 柳 英 司
ら論じている。すなわち、「生死出離の一大事」のために、「親鸞聖人の学び方」を学び、「理由を内観する方法」によって行われる学問が、純粋な意味での「真宗学」であるとするのである。「理由を内観する方法」とは、真宗の伝統的な表現で言えば「聞思」に当たり、自身の主観を通して思索するという方法である。これによって金子は、宗門の護持や知的好奇心の満足を目的とする「学」の在り方や、客観的な視座に留まって親鸞の著作を読解する「学」の在り方を、明確に批判したのであった。
このような「真宗学」観を提示し得たことは、もちろん金子の不朽の業績である。しかし、金子を含む大谷派の近代教学に対しては、いくつかの問題点も指摘されている。これらを加来雄之は、次の二点にまとめている。
一つには実践的な問題、つまり近代教学と民衆との絶望的な乖離をどうするかという問いである。(中略)もう一つは、近代教学は個の自覚という側面に偏りすぎてしまい、その結果、社会への眼差しを失ったのではないかという批判である。 (中略引用者「現代と親鸞」『信の念仏者 親鸞』
(吉川弘文館、二〇〇四年)一七七頁)
また大桑齊も、金子の「真宗学」観について以下のように述べている。
金子大榮師はまた『真宗学序説』では、「親鸞聖人の著述を研究するのは真宗学でなくして、親鸞聖人の学び方を学ぶのが真宗学である」、「こういうことになれば、自分は真宗学というものが、始めて公開せられると思う」と、公開を問題にしている。しかし「真宗学というものを十方衆生の前に公開する」とあるのは、外部世界への公開という意味を持っていようが、内部世界に留まっている感がある。
(『『蓮如上人御一代記聞書』試論』(東本願寺出版、
二〇一七年)四頁)
金子の言う「公開」がいかなる意味であるかは、慎重な検討を要することかもしれない。ただ、加来と大桑の指摘 ()6
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には、「一脈通じるものがある」という評価も見られる。確かに「真宗学」の定義付けに際して、金子が自己の主観を強調する一方、「外部世界」との関わりを積極的に論じなかったことは事実である。もちろん、他者と議論を戦わせたり、他者を批判したりすることが、「真宗学」の目的ではない。しかし学問には、個人の中だけに留まらない側面もあるだろう。他者と対話し、他者の批判に応答することを通して、新しい知見が開けるということもあるはずである。そのような点が十分に論じられていないという意味で、金子の言う「真宗学」は確かに、「内部世界に留まっている」という批判を受けるものだった。
一方、他者との対話と教学との関係について、興味深い指摘をしているのが安田理深(一九〇〇―一九八二)である。
親鸞は一切の教学を捨てて念仏に立っているのではない。むしろ念仏から新しい教学を立てると。古い教学を捨てて新しい教学を立てていくというような事業が『教行信証』というものだろうと思うのです。『教行信証』というものが無いと念仏というようなことを言 っても対話ができないのです。話し合いが出来ないでしょう。やはり仏教というものが仏教に留まったら世界と話し合いが出来ない。対話ということが無ければ仏教が小さいものになる。念仏の世界性とか、仏教の世界性というものがないと仏教学というものがただ個人体験に終わって、個人の悟りに終わってしまうわけです。そのためにはやはり思弁的な古い教学は要らないけれども新しい教学が要るだろうと思うのです。(『親鸞における救済と自証』七(東海相応学舎、
一九九二年)三一七頁)
ここで安田は、『教行信証』が無ければ「対話ができない」と言い、「対話」が無いのであれば、仏教学は「個人体験」に終わってしまうと述べている。では、そもそも『教行信証』における学的営為とは、具体的にいかなるものなのだろうか。特に安田が指摘する「対話」は、『教行信証』のどのような点に見出すことができるのだろうか。本稿ではこの問題について、考察を試みたい。
そこで注目したいのが、『教行信証』の題号である。親 ()12
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鸞の師・源空(一一三三―一二一二)が、題は「一部の総標」であると述べたように、ここには『教行信証』の主題と形式とが端的に表現されていると考えられる。そこで本稿では特に、親鸞の玄孫である存覚(一二九〇―一三七三)が「能釈の詞」とした、「顕」と「文類」の二点に注目して、『教行信証』における親鸞の学的営為の考察を試みたい。
もちろん、「顕」や「文類」の主語を親鸞とする理解には、否定的な意見も存在する。しかし結論を先に言えば、「顕」と「文類」に親鸞の能動性を全く見ない理解は、不適切であると考える。この点についても、後に検討を加えたい。
二、「顕」について
二―Ⅰ、近世の研究史
親鸞は『教行信証』の題号に訓点を入れていない。そのため、この十字の書き下し方や理解の仕方を巡っては、先学の間に意見の相違が見られる。本稿が主題とする「顕」 の主語に限っても、およそ次の三通りの理解が見られる。 A、「顕」の主語は親鸞であるとする理解。
B、「顕」の主語は釈尊や七祖等であるとする理解。
C、AとBを統合した理解。
このうち、「顕」の解釈にAとBの両説があることを示した初期の著作が、本願寺派・智暹(一七〇二―一七六八)の『教行信証文類樹心録』(以下『樹心録』)である。
此に二義有り。一に云わく。顕の一字は是、能顕。浄等の九字は是、所顕なり。顕は明なり。(中略)此の顕の字を以て、高祖に属するなり。一に云わく。顕等の九字は是、所集。類の一字は是能集なり。初めに所集の九字の中、顕・文の二字は是、能顕。浄等の七字は是、所顕なり。此の顕・文二字を以て、如来及び列祖に属す。類の一字を以て、高祖に属するなり。(中略引用者『真宗全書』三六・一頁) ()14
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このように智暹は、「顕」の解釈に二通りの可能性があることを提示している。ただ智暹自身は、どちらの説が妥当であるかを論じていない。また、以後の本願寺派の宗学でも、どちらか一義を採り、もう一義を捨てるという理解はあまり見られない。どちらの立場を採るかで明確に意見が分かれるのは、むしろ大谷派の方である。たとえば慧琳
(一七一五―一七八九)の『教行信証文類六要鈔補』では、次のように述べられている。
有る録に曰く。能所を以て之を釈するに二義有り。
(中略)二説、取るに任す。今謂わく、二説の中、後義が穏暢なり。(中略引用者『真宗全書』三七・三頁)
本文中には明示されていないが、「有る録」とは『樹心録』のことであろう。そして慧琳はこの二義のうち、「後義が穏暢」であると述べる。つまり「顕」の主語は釈尊や三国の高僧であり、「文類」が親鸞の事業であるという理解に、妥当性を見るのである。門下の深励(一七四九―一
八一七)も、同様の説を採っている。 しかし同じ慧琳の門弟でも、鳳嶺(一七四八―一八一六)の見解は異なっている。『教行信証報恩記』には、次のような記述が見られる。
樹心録に云わく。能所を以て之を釈するに二義有り。
(中略)二説、取るに任す。今謂わく、前説を正と為す。(中略引用者『真宗全書』二一・四頁)
ここで鳳嶺は明確に『樹心録』を挙げた上で、「前説を正と為す」と言い切っている。つまり「顕」の主語は、あくまでも親鸞であるとするのである。では、どうして、このような見解の差異が生じたのだろうか。
まず「顕」の主語は親鸞でないとする深励の場合、論拠としているのは『正像末和讃』の「是非しらず邪正もわかぬこのみなり」という句や、『御伝鈔』の「愚禿勧むるところ更に私なし」という記述である。これらを受けて『教行信証講義』では、以下のように述べている。
〔親鸞は〕御自身打ち出して。われ浄土真実教行証を ()17
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顕すと仰せられぬ筈なり。(中略)釈尊並に三国の高僧方が。真実の教行信証を顕させられた。その真実の教行信証を顕させられた文を集めた処の文類ぢやと云うことで。「顕浄土真実教行証文類」と題号をなされたものなり。
(括弧内・中略引用者『仏教大系』教行信証第一 五四―五五頁)
このように深励は、親鸞が自身の功績を全面に出すような人物ではないと捉えており、これがそのまま『教行信証』を著す学的態度にもなっていると理解するのである。
対して鳳嶺が論拠として挙げているのは、『教行信証大意』の以下の記述である。
親鸞聖人、一部六巻の書をつくりて、『教行信証文類』と号して、くはしくこの一流の教相をあらはしたまへり。(『真聖全』三・五八頁)
すなわち鳳嶺は『教行信証』を「一流の教相をあらは」 した書物であると見ており、その点を強調して題号の「顕」の意味も理解しているのである。もちろん深励の『教行信証講義』にも、
この六巻の広文類は吾祖開宗の御撰述。一天四海に比類なき御宗門は。もとこの広文類の四法よりおこる。(『仏教大系』教行信証第一・六四頁)
という記述が見られるように、『教行信証』は「立教開宗の書」として位置付けられている。そのため「顕」の主語の理解に差異を生んでいるのは、『教行信証』観の相違であるとは言い難い。むしろ、愚禿に徹した親鸞の姿勢を尊重するのか、それとも真宗を顕開した親鸞の業績を強調するのか、その差異であったと見るべきだろう。
一方で本願寺派では、早くからA説とB説を統合したC説が主張されていた。たとえば道隠(一七四一―一八一三)の『教行信証略讃』では、次のように述べられている。
後に題目を解すとは。(中略)此に二義有り。(中略)
二義は終に、一致に帰す。謂わく、三国の祖師、各々斯の一宗を興行すと言うが故に。三国の列祖、各々真宗の教行証を顕示したまう。然るに其の顕示の功、高祖選集の手を経て、顕明す。故に能顕の高祖の功と為すなり。又、愚禿勧むる所、更に私無しと言うが故に。高祖の顕示したまう所は、全く七祖の顕示したまう所を顕して、更に異途無きが故に。終に一致に帰するなり。(中略引用者『仏教大系』教行信証第一・七七頁)
このように道隠は、A説とB説の「二義」を挙げた上で、両者は「終に一致に帰す」と結論付ける。すなわち、七祖が「顕示」したものを、親鸞が「文類」によって「顕」わしたものが『教行信証』であるため、A説とB説は矛盾しないとするのである。同様の理解は幕末の大谷派でも見られ、このC説が「顕」の主語に関する議論の帰結という感がある。
しかし、A説とB説を安易に統合させることには、問題も残るのではないだろうか。異なった二つの視座から「顕」の字の意義を、ひいては『教行信証』の性格を考察 するということも、必要な試みではないだろうか。C説が二つの視点を放棄させるだけのものになってはならないと思われる。この点については、後に改めて考えたい。
二―Ⅱ、近・現代の研究史 近代に入ると大谷派では、再びB説が注目される。たとえば、山辺習学(一八八二―一九四四)と赤沼智善(一八八
四―一九三七)の手による『教行信証講義』(法藏館、一九五
一年、以下『山赤』)では、次のように述べられている。
『顕浄土真実教行証文類』という題号をみて、私共の先ず第一に感ずるところは、親鸞聖人の無我の態度である。(中略)親鸞は少しも珍しい法門を説きひろめるのではない。自ら、この真宗の教行証を敬信して、人にもそれをそのまま説き伝えるだけであるという思召があらわれているのである。顕浄土の顕の一字も親鸞聖人につく文字ではなくて、三国の祖師の功をあらわす一字である。ただ類の字が類聚の意味で、要文を ()20
あつめた書ということになり、聖人の力に帰するのである。(中略引用者『山赤』教行の巻・五二頁)
このように親鸞の「無我の態度」が強調され、「顕」の主語も「三国の祖師の功」を表わすものとして理解されている。これは明らかにB説であり、この点では、深励らの主張と同じものである。
また『山赤』も『教行信証』を、「立教開宗の本典」と位置付けている。しかし一方で、
聖人自らは、自覚せずにし給うたことではあるが、これがやがて、浄土真宗の立教開宗となったのである。語を強うしていう。立教開宗は聖人の素志ではなくして、聖人の活動の結果であったのである。(『山赤』教行の巻・二三―二四頁)
という記述が見られるように、親鸞が「立教開宗」を目的として『教行信証』を撰述したとする理解には、否定的である。さらに『山赤』は、「『教行信証』製作の縁由」とし て、承元の法難や高弁(一一七三―一二三二)の論難には言及するものの、別の箇所では、
我が聖人は論議する方でもなく、批評する方でもない、ただ讃嘆する方である。一生九十年、論議の場を逃げ帰って、静かに独り仏徳を讃嘆し給うたのである。『本典』六軸、また実にこの讃嘆である。(『山赤』教行の巻・二六五頁)
とも述べている。すなわち『山赤』は、論争を好まず「静かに独り仏徳を讃嘆」する「無我」の人物として親鸞を捉えており、この人物像を「顕」の解釈にも投影しているのである。つまり『山赤』の理解は、仏徳を讃嘆するという親鸞の著述姿勢を、より強調するものになっていると言えるだろう。
しかしこのような読解は、『教行信証』における親鸞の主体性を、相対的に軽視することにも繫がる。「顕」の主語に関する議論において、この問題を明確に指摘したのが安冨信哉(一九四四―二〇一七)である。安冨は深励の説を ()21
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挙げた上で、次のように述べている。
それでは没主体となりはしないであろうか。私は、むしろ本書の著者である親鸞の大いなる志願を顕の一字に窺う。(『『教行信証』への序論』(真宗大谷派宗務所出版部、
一九九九年)四二頁)
安冨は「顕」の主語を仏や七祖に見る場合の問題点として、親鸞の「没主体」化、親鸞の「志願」の不明瞭化があることを提起したのである。これは単に深励一人に対する批判ではなく、『山赤』等の理解に対しても、批判の意味を持つものだろう。
そして安冨は「親鸞の大いなる志願」を、次のように説明している。
浄土宗を開創した法然は、その真意を理解されないまま、誤解や偽解そして非難にさらされた。法然亡きあと、明恵上人高弁を初めとして、一層の非難が高まっ てきた。そういう非難に、浄土宗の理論的基盤の存亡の危機をひしひしと肌身に感じながら、親鸞は、浄土の真実(浄土の真宗)を顕すアポロジー(護教論)を書く使命と責任を、その門弟のひとりとして痛感した。ここに顕浄土真実という名を冠して、本書が著わされねばならない理由があったといえるだろう。(『『教行信証』への序論』四三―四四頁)
親鸞が『教行信証』を撰述したのは、浄土宗に対する様々な非難に応答し、師・源空の「真意」を顕らかにする使命と責任を自覚したからであり、ここにこそ『教行信証』の題号が、「顕」の字を冠する理由があるとされる。
このような安冨の視座は、幕末以降に発展した歴史学的な研究の成果を踏まえたものである。そのため鳳嶺のように、宗祖としての親鸞を強調しようとするものではない。しかし「顕」の字に親鸞の主体性を見ていくという点ではA説的であり、A説の現代的展開として位置付けられるものだろう。
二―Ⅲ、小結 ここまで、「顕」の主語に関する議論の変遷を見てきた。近代以降の研究史を踏まえるのであれば、A説は親鸞の主体性や問題意識を強調する視座であり、B説は親鸞の著述姿勢を尊重する視座であったと言える。
そもそも、『教行信証』における「顕」の用例には、釈尊や三国の祖師が主語となるものと、親鸞が主語となるものとが共に存在する。前者の場合は「爾則此顕真実教明証也」や「斯乃顕真実行明証」などの記述が該当し、これらの「顕」の主語は明らかに、引用されている経・論・釈の言葉である。後者の具体例としては、「因茲今顕真仏真土」や「顕開聖道浄土真仮」などの記述が該当する。そのため「顕」の主語を、どちらか一義に固定すべきではない。題号に重層的な意味を見る視座は、保持されるべきである。
しかしA説とB説を安易に「一致」させることは、二つの視座が存在するという事実を、不明瞭にする可能性もあるだろう。A説は『教行信証』の目的に関する視座であり、 B説は『教行信証』の論述姿勢に関する視座である。両者は問題にしている分野が異なるものであり、これらは混同すべきものではなく、共に尊重すべきものである。 まずA説についてだが、親鸞が属した比叡山の伝統において、「顕」の字を冠する著作には最澄(七六七―八二二)の『顕戒論』がある。また吉水教団の中では、親鸞の兄弟子に当たる隆寛(一一四八―一二二八)が、『顕選択』を著わしている。そしてこれらの著作はどちらも、異なった立場からの論難に応答するものである。このような先例を踏まえて考えるのであれば、親鸞が『教行信証』の題号に「顕」の字を用いたのも、『興福寺奏状』や高弁の『摧邪輪』に代表される論難に応答するという、親鸞の宣言であると見るべきであろう。少なくとも、当時の学僧が『教行信証』の題号を目にしたのであれば、そのような印象を持ったのではないだろうか。 ただ論難への応答は、親鸞の独断によって為されるものではない。この点を明らかにするのがB説の視座である。「総序」において、 ()23
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爰に愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり。聞き難くして已に聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳深きことを知りぬ。斯を以て、聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなりと。(『定親全』一・教行信証・七頁)
と述べられ、また「化身土巻」の末尾には、
慶ばしい哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良とに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜弥至り、至孝弥重し。茲れに因って真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。(『翻刻篇』六七一―六七二頁)
という記述が見られるように、親鸞の基本姿勢は「如来の恩徳深きことを知り」「良に師教の恩厚を仰ぐ」という点にある。親鸞にとって「浄土真実教行証」は確かに、「西蕃月支の聖典」や「東夏日域の師釈」によって、顕らかに されたものなのである。A説とB説を統合するC説の立場は、この二つの視座を共に尊重するものでなければならない。 では、この「顕」を実現させる「文類」とは、いかなる営為なのだろうか。この問題を、次に考えてみたい。
三、「文類」について
三―Ⅰ、『楽邦文類』と『教行信証』
近世以前の題号の研究において、「文類」の意味に関しては、それほど複雑な議論は見られない。先学の多くが指摘するのは、以下の二点である。
①「文類」という表現は、宗暁(一一五一―一二一四)の『楽邦文類』に由来する。②「文」は「文章」「要文」、「類」は「類聚」「分類」等の意味。
まず①についてだが、『楽邦文類』は親鸞が『教行信 ()29
証』の中にたびたび引用する著作であり、題号の「文類」がここに由来するという説は否定し難い。
ただ、経論釈の要文を収集するという著述の形式は宋代に流行したものであり、仏教の典籍においても『天台文類』や『円宗文類』にその例を見出すことができる。特に『楽邦文類』は宗暁自身が、「蓋し儒家柳宗直の西漢文類の作に倣う」と述べており、唐代文献の様式を継承するものであることが明記されている。
また『楽邦文類』の撰述意図について、宗暁は序文の中で次のように述べている。
我が仏能仁、(中略)機に随いて化を闡くが故に、大小偏円の教法をして殊なり有らしむ。最後の法華は、高会一道にして偏り無し。彼の権乗を開いて、悉く真実に帰せしむ。故に出世の本懐、是に至って始めて暢ぶ。又、将来の世人、根は暗鈍にして自ら出離を求めること能わず。唯、弥陀の本願、土を極楽に取り、以て愛河を横截し、径ちに仏地に超うるべきが故に、諸の大乗経において殷勤に往を勧むること一ならず。斯 れ蓋し、如来の異妙の方便なり。(中略)然して大教東流するも、人、或いは未だ知らず。而るに東晋の遠公法師、神機秀発にして肇めて化源を開き、水を引いて蓮を栽え、浄社を締結す。(中略)故に茲に社の興るや、専ら弥陀を以て宗主と為し、諸経を司南と為す。晋唐より以来、高僧・巨儒、咸著述有りて、斯の事を讃美す。(中略)是に由って諸経を嚢括し、衆製を網羅す。(中略・改行引用者『大正蔵』四七・一四九頁・中)
釈尊は「自ら出離を求めること能わざる」「将来の世人」のために様々な経典において阿弥陀仏を讃嘆し、往生を勧めている。これを受けて廬山の慧遠(三三四―四一六)は白蓮社を結び、晋代や唐代の人師も皆、著述においてこれを「讃美」した。宗暁が目指したのは、これらの諸経や人師の著述を「嚢括」「網羅」することである。すなわち浄土教関連の経釈を総合的に集成することが、『楽邦文類』の撰述意図であったと言えるだろう。
しかもこの著作は、単に浄土教の典籍を集めるだけのも ()30
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のではない。
其の得る所に即して、次に之を編す。経呪に始まって、詩詞に終わる。凡そ十有四門、総じて二百二十余首なり。析ちて五巻と為し、目して楽邦文類と曰う。(『大正蔵』四七・一四九頁・中―下)
とあるように、『楽邦文類』は「経」「呪」から「詩」「詞」に至る十四門に分かれ、それらのカテゴリーに沿って、浄土教系の諸文が配置されている。つまり『楽邦文類』の「類」とは、「収集」であると同時に「分類」なのである。江戸宗学が「文類」の「類」に分類という意味を見出したのも、このような『楽邦文類』の性質に由来するのだろう。
しかし、すでに三木彰円が指摘しているように、『楽邦文類』と『教行信証』の著作形式は同じではない。『楽邦文類』が収録する諸文は、各々が独立したものである。引文の展開によって、何らかの思想や主張を表現しようとするものではない。 これに対して『教行信証』は、引文の配列や構成に何らかの思想的な意図があると考えられる。つまり『楽邦文類』と『教行信証』は、決して同じ性格の著作ではないのである。そのため江戸宗学が提示した①と②の指摘だけでは、親鸞が用いた「文類」という学的手法を、十分に説明しているとは言えないだろう。
三―Ⅱ、「師資相承」と「証文」
むしろ『教行信証』の著述形式は、「集」ではないのかという指摘がある。近世・大谷派の学僧である法住は、『金剛録』の中で次のような見解を提示している。
文は要文、類は類聚也。類を分けて文を集むるが故に文類と云ふ。文類の例は『楽邦文類』『円宗文類』等なれども、今正しく此の文類の拠は『選択集』なり、類を分けて文を集むるが故に文とこそ云へ、文類即集なり(『続真宗大系』七・三二頁) ()33
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法住の教学は、『教行信証』と『選択本願念仏集』(以下
『選択集』)との連関を強調する点に特徴があり、ここでも『教行信証』の著述形式は、『選択集』を「拠」としたものであると述べられている。確かに『教行信証』は、経論の「疏」「註」ではなく、単なる「讃」や「偈」でもない。また親鸞の生涯において、『選択集』の付属が大きな意味を持ったことは事実であり、そもそも『教行信証』の撰号は「愚禿釈親鸞集」である。そのため、『教行信証』の著述形式が「集」であるという指摘は、決して否定できない。
ただ、浄土教の伝統において「集」の字を冠する著作は、『選択集』が唯一ではない。『教行信証』が引用するものに限っても、他に道綽(五六二―六四五)の『安楽集』と源信(九四二―一〇一七)の『往生要集』とを挙げることができる。
では、これらの著作に窺える「集」の形式とは、いかなるものであろうか。まず『安楽集』だが、その冒頭には次のような記述が見られる。
此の安楽集一部の内に総じて十二の大門有り。皆経論 を引きて証明し、信を勧め往を求めしむ。(『真聖全』一・三七七頁)
このように『安楽集』は、「経論」からの引文を再構成することによって、十二の各大門の中に設定された主題を「証明」し、有縁の衆生に「勧信求往」するものである。また『往生要集』では、
念仏の一門に依って、聊か経論の要文を集む。之を披き之を修するに、覚り易く行じ易し。総じて十門有り。分かちて三巻と為す。(中略)之を座右に置きて、廃忘に備えん。(中略引用者『真聖全』一・七二九頁)
とあるように、十の主題ごとに「経論の要文」を集め、「易覚易行」の道を明らかにすることが目指されている。同様に『選択集』も、「憖に念仏の要文を集めて、剰え念仏の要義を述ぶ」と端的に示されているように、「要文」の収集によって「要義」を明らかにするものである。
以上の点から「集」という形式は、主題ごとに聖教の要 ()35
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文を収集し再配置して、「要義」を明らかにするものであると言えるだろう。そして『教行信証』も基本的には、同様の形式を採る著作であると考えられる。
では、どうして親鸞は、このような形式で『教行信証』を著わさねばならなかったのだろうか。
この問題に関して注目したいのが、「師資相承」と「証文」である。これらは親鸞当時の学問空間において共に重視されたものであり、前者については、たとえば『興福寺奏状』の専修念仏批判の中に、次のような記述が見られる。
第一に新宗を立つる失。(中略)今末代に及びて始めて一宗を建てしむるは、源空、其れ伝灯の大祖なるか。豈に百済の智鳳、大唐の鑑真の如く、千代の軌範と称すや。寧ぞ高野の弘法、叡山の伝教に同じく、万葉の昌栄ある者か。若し古へより相承して今に始まらずとならば、誰の聖哲に逢ひて面り口択を受け、幾の内証を以て示導を教誡するや。(中略引用者『親鸞聖人行実』(真宗大谷派宗務所出版部、
二〇〇八年)三三―三四頁) 源空が浄土宗を開宗したことに対して、「面受口択」の有無が問題となっている。源空は「偏依善導一師」を標榜し、善導の思想を受けて浄土宗を立宗したが、源空は善導に直接師事したわけではない。この点を『興福寺奏状』は問題にしたのであり、当時の仏教界において「面受口択」が持っていた意味の重さが窺われる。そして『教行信証』が七祖の伝統を示し、その著作を中心に引用する理由の一つには、「師資相承」が重視された当時の風潮も関係していると考えられる。
また「証文」については、親鸞の著作や語録等に、以下の用例が見られる。
『一念多念文意』この文どもは、これ一念の証文なり。おもふほどはあらはしまふさず、これにておしはからせたまふべきなり。(『定親全』三・和文篇・一三八頁)
また『阿弥陀経』の、七日もしは一日名号をとなふべしとなり。 ()38
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これは多念の証文なり。おもふやうにはまふしあらはさねども、これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。(『定親全』三・和文篇・一五一頁)
『歎異抄』あやまて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生いかゞあらんずらんといふ証文もさふらうべきや。(『定親全』三・言行篇・一七頁)
かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文さふらふにこそ。(『定親全』三・言行篇・一八頁)
辺地往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。この条、なにの証文にみへさふらうぞや。
(『定親全』三・言行篇・三二頁)
かまへてかまへて聖教をみ、みだらせたまふまじくさ ふらう。大切の証文ども、少々ぬきいでまひらせさふらうて、目やすにして、この書にそえまひらせてさふらうなり。(『定親全』三・言行篇・三七頁)
まず『一念多念文意』だが、本書は周知のように隆寛の『一念多念分別事』の註釈書である。この著作は、「一念」と「多念」が共に「ひがごと」でないことを論証するものであり、そのために様々な経釈が引用されている。親鸞が「証文」と呼んでいるのは、明らかにこれらの引文である。つまり、ある事柄の正当性を証明する文章が、「証文」なのである。『歎異抄』の用例も、基本的には同義であると言えるだろう。
口伝を受けたか否かは第三者の判断が難しいものであり、師の滅後であれば詐称することも不可能ではない。しかし「証文」は公開性の高いものであり、時代が移り変わっても客観的な論証が比較的容易である。そのため親鸞当時においても、自説の正当性を証明するためには、「証文」の提示が不可欠であったと考えられる。
特に思想的立脚地の異なる人物を相手にする場合、自身 ()40()41
の信念だけを吐露し続けても、対話は成立しない。自身の思想的背景や問題意識を明示し、自身の解釈の妥当性を客観的な根拠によって証明することが、対話を実現する前提となるだろう。『教行信証』が「文類」という形式を採用するのも、この点に理由の一つがあると推測される。
ただ『教行信証』には直接、「証文」という言葉は見られない。しかし「行巻」の中には、
斯れ乃ち、真実の行を顕わす明証なり。(『翻刻篇』一一一頁)
という一文があり、親鸞は引用文を指して「明証」と呼んでいる。この表現は、仏教界において広く使われたものであり、七祖の中でも道綽や善導の著作に見られる。これらはいずれも聖教を挙げて論証とする際に使われるものであり、『教行信証』の「明証」も基本的には同主旨であろう。
以上の点から、『教行信証』が「文類」という形式を採用する理由は、自身の主張が経典や七祖等の著述に基づくものであることを証明し、個人の独断ではないことを示す ためであると考えられる。しかし「文類」は一歩間違うと、恣意的な文章の収録によって、自説を正当化するものにもなりかねない。『教行信証』の「文類」は、このような在り方と峻別できるのだろうか。この点については、次に検討を加えてみたい。
三―Ⅲ、『安楽集』と『往生要集』の 引文から 親鸞は「文類」という学的方法の意義を、直接には語っていない。ただ、いわゆる「後序」(以下「後跋」)の末尾には、以下のような記述が置かれている。
慶ばしい哉。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。茲れに因って真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。唯、仏恩の深きことを念じて人倫の嘲りを恥じず。若し斯の書を見聞せん者、信順を因と為し、疑謗を縁と為して、信 ()42
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楽を願力に彰し、妙果を安養に顕わさんと。『安楽集』に云わく。真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は先を訪え。連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を、尽くさんが為の故なりと。已上 爾れば末代の道俗、仰ぎて信敬すべきなり。知るべし。『華厳経』の偈に云わく。若し菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすこと有りとも、菩薩皆摂取せんと。已上(改行・傍線引用者『翻刻篇』六七一―六七三頁)
前半部分は親鸞の自釈であり、「慶喜」と「至孝」を背景として、「真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う」ということが述べられる。これは明らかに『教行信証』の執筆を指すものであり、「文類」とは不可分の事柄である。そして後半部分には、『安楽集』「第一大門」の文と、『華厳経』
(唐訳)「入法界品」の文とが引かれている。ただし、傍線部分は全く同文が『往生要集』に見られるため、『華厳経』からの直接の引用ではない。むしろ親鸞は、『安楽 集』と『往生要集』という二つの「集」を引くことによって、『教行信証』を結んでいると見るべきだろう。では、どうして親鸞は、この二文を引用したのだろうか。 まず『安楽集』の文だが、ここでは「真言」を「採集」することの意義が、「往益を助修せしむ」ためであると端的に示されている。これは前段の、「真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う」という言葉と呼応するものだろう。 そして道綽における「真言」の「採集」は、単なる個人の営為ではない。「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は先を訪え」とあるように、道綽が見据えているのは、仏法の伝承という課題である。先学の教えを継承して後学を導き、ひいては「無辺の生死海を尽くさん」とする課題に立って選び取られたのが、「集」という方法なのである。親鸞が「後跋」の最後に『安楽集』の文を引くのも、このような課題を共有することの表明であったと言えるだろう。 さらに言うのであれば、親鸞にとって「集」や「文類」という実践は「連続無窮」に続けられるべきものであり、どこかで完結するものとは考えられていなかったのではな ()44
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いだろうか。『楽邦文類』の序文にも、以下のような記述が見られる。
其れ、集の尽くさざること有らば、当に吾と志を同じくする者有りて、これを続くべし。(『大正蔵』四七・一四九頁・下)
このように宗暁は、自身の「文類」が完全でないならば、志を同じくする者によって、この事業が継続されることを願っている。そして『教行信証』の場合、親鸞は本書が「真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う」ものであることを明言している。つまり親鸞の自覚において『教行信証』は、「真宗の詮」や「浄土の要」を網羅した著作ではなかったのである。あくまでも親鸞の立場は「連続無窮」なる伝統に参与したという点にあり、またその伝統は、「後に生まれん者」によって継承されるべきものだったのであろう。
次に『華厳経』の偈文だが、これは「入法界品」に説かれる善財童子の善知識の一人、瞿波の言葉である。瞿波は遠い過去世から釈尊の伴侶であった女性であり、善財童子 は彼女に次のような自身の課題を告げる。
聖者よ。我、已に先に阿耨多羅三藐三菩提の心を発せるも、而も未だ知らず。菩薩は云何が生死の中に於いて生死の過患の為に染せられず、法の自性を了して声聞・辟支仏地に住せず、仏法を具足して菩薩の行を修し、菩薩地に住して仏の境界に入り、世間を超過して而も世に於いて受生し、法身を成就して而も無辺の種々の色身を示現し、無相の法を証して而も衆生の為に諸法を示現し、法の無説を知りて而も広く衆生の為に諸法を演説し、衆生の空を知りて而も恒に衆生を化することを捨てず、諸仏の不生不滅なるを知ると雖も、而も勤めて供養して退転有ること無く、諸法の無業無報なるを知ると雖も、而も諸の善行を修して恒に止息せざるや。(『大正蔵』一〇・四〇六頁・下)
すなわち、「生死の中にあって生死に染まらず、いかに菩薩行を実践して衆生を教化するのか」という課題を持って、善財は瞿波を訪ねたのである。瞿波は「一切菩薩の三 ()47
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昧海を観察する」という法門を成就しており、この境界を善財に開示する。それは一切衆生の善と不善とを悉く知り、同時に諸仏と諸菩薩の在り方を悉く了知するというものであった。そして「若し菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすこと有りとも、菩薩皆摂取せん」という偈文は、この瞿波が了知した菩薩の大心を端的に示すものなのである。
ただ、先述のようにこの文は、『往生要集』からの孫引きである。源信もこの瞿波の偈文を以て、自著の最後の引文としているのである。そのため親鸞の引用意図を考える場合には、『華厳経』だけではなく、『往生要集』の文脈をも勘案することが必要であろう。
源信が瞿波の偈文を引用するのは、次のような問答の中である。
問う。引く所の正文は、誠に信を生ずべし。但、縷々私の詞を加えたるは、蓋んぞ人の論謗を招かざらんや。答う。正文に非ずと雖も、而も理を失わず。若し猶謬り有らば、苟も之を執せず。見ん者、取捨して正理に 順ぜしめよ。若し偏に謗を生ぜば、また敢えて辞せず。『華厳経』の偈に云うが如し。「若し菩薩の種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすこと有りとも、菩薩は皆摂取す」と。当に知るべし。謗を生ぜんもまた、是結縁なり。我若し道を得ば、願わくは彼を引摂せん。彼、若し道を得ば、願わくは我を引摂せよ。乃至、菩提まで互いに師弟とならん。(『真聖全』一・九二四頁)
源信は要文集である『往生要集』に「私の詞」を加える是非を問い、「正理」に違背しない限りにおいて、それは意味を持つと答える。そして、もし『往生要集』に「謬り」があったのであれば、取捨を加えて「正理に順ぜしめ」るべきであり、誹謗も拒まないとするのである。『教行信証』に引かれる「『華厳経』の偈」は、このような「謬」「謗」に対する源信の思想的立脚地を示すものである。すなわち、衆生の心が「善」か「不善」かを問わずに摂取するのが「菩薩」の精神である以上、自分もその精神に随順していくことを、源信は表明したのである。 ()50
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なぜなら誹謗もまた、「結縁」という意味を持つからである。つまり源信は他者の批判から耳を閉ざすことによって、その他者との関係性が失われることを問題としたのであろう。特にこの文脈における「謗」は、外道からのものではない。「正理」を希求する心から、投ぜられたものである。そうであるならば、他者の批判に耳を閉ざすということは、「正理」を求める他者の心をも否定することになりかねない。むしろ、批判を真摯に受け止めていくことによって他者との「結縁」が成立し、さらには「菩提」に至るまで「互いに師弟」となる関係が開かれると、源信は考えていたのである。つまり、批判を拒まない精神こそ、源信の「集」の精神であったと言うことができるだろう。
そして親鸞が、このような『往生要集』の末尾の文脈を意識していたのであれば、「疑謗を縁と為して」という「後跋」の記述も、『往生要集』の「謗を生ぜんもまた、是結縁なり」という一文と重なるものだろう。すなわち親鸞は『教行信証』において、「不善の心」の者たちと訣別しようとしたのではないのである。むしろ「菩薩」の精神に随順し、理解の異なる他者と「互いに師弟」となる関係 を結ぶことこそ、『教行信証』という著作が持つ「学」の姿勢であり、親鸞が「文類」という形式によって目指したものだったのではないだろうか。 だからこそ親鸞は「疑謗」すらも「縁」に変え成す阿弥陀仏の摂取を仰いで、『教行信証』の擱筆に『華厳経』の偈文を、『往生要集』から引用したのであろう。四、結びにかえて
本稿では「真宗学」における「対話」の在り方を課題として、題号の「顕」と「文類」という言葉を手掛かりに、『教行信証』の学的営為について考察を行った。
まず「顕」についてだが、この一字に対しては①「親鸞の課題意識」と、②「親鸞の著述姿勢」という二方面からの読解が可能である。
前者の「課題」とは、源空の「浄土宗」に向けられた批判や誤解への応答が、主たる内容となる。『教行信証』は明らかに対論者を想定した著作であり、自身の信仰世界を表白するためだけのものではない。そうである以上、この ()52
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点を踏まえないまま『教行信証』が読まれるのであれば、それは安冨が指摘していたように、親鸞の志願を不明瞭にするものだろう。
後者の「著述姿勢」とは、聖教の言葉に依るということである。親鸞は自身の勝手な見地から、他者の理解を批判しているのではない。だからこそ『教行信証』は、「文類」という形式が選ばれたのである。すなわち、自身が相承した伝統を示し、聖教に対する自身の理解を公開するということが、親鸞の「顕」の姿勢であり、「文類」という形式を採用する意義なのである。
ただ親鸞は聖教の権威によって、他者からの批判を封じ込めようとしたのでもない。「疑謗」もまた「縁」となる場合があるとするのが、『往生要集』を受けた親鸞の立場であったと推測される。
つまり『教行信証』は、安易に「疑謗」を排除するための著作ではないのである。むしろ批判に応答することを通して、理解の異なる他者と「対話」し、「互いに師弟」となる関係を目指すという点に、親鸞における学的営為の、一つの積極性を見ることが可能であろう。 そうであるならば、『教行信証』を「対話」のための著作とした安田理深の視座は、重要な意味をもつ。この「対話」という視座こそ、『教行信証』の批判精神と、親鸞の機の自覚に基づく著述姿勢とを、無理なく両立させ得るものではないだろうか。 また『教行信証』の中に「対話」という性質が見出せるのであれば、「真宗学」の在り方を考える場合にも、この点を踏まえる必要があるのではないだろうか。以上の問題提起をもって、本稿の結びにかえたい。
◆凡例一、漢文を引用する場合には原則として書き下し文に改め、読み易さを考慮して適宜整文した。また旧字体は現行の字体に改め、句読点等を付した。一、和文を引用する場合には、仮名は全て平仮名に統一し、左訓等は省略した。一、主な引用文の出典は、次のように略記した。『顕浄土真実教行証文類 翻刻篇』(東本願寺)→『翻刻篇』『定本親鸞聖人全集』(法藏館)→『定親全』『真宗聖教全書』(大八木興文堂)→『真聖全』
『大正新脩大蔵経』(大蔵出版)→『大正蔵』『昭和新脩法然上人全集』(平楽寺書店)→『昭法全』一、江戸期の講録は、以下に収録されているものを参照した。『真宗全書』(蔵経書院)『真宗大系』(真宗典籍刊行会)『続真宗大系』(真宗典籍刊行会)『仏教大系』(仏教大系刊行会)
◆註加来雄之「「文類」といういとなみ―親鸞における宗教言説の伝承―」(『親鸞教学』九二、大谷大学真宗学会、二〇〇九年)参照。たとえば『唯信鈔文意』では、次のように述べられている。「不簡下智与高才」といふは、下智は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。高才は才学ひろきもの。これらをえらばずきらはずとなり。
(『定親全』三・和文篇・一六五頁)このように「才学」が広いか狭いかは、往生の可否を決めるものではない。鍋島直樹「真宗学の目的と領域―エンゲィジド・ピュアランド・ブディズムの探求―」(『仏教をいかに学ぶか 仏教研究の方法論的反省』、日本仏教学会、二〇〇一年)、参 照。親鸞滅後の時代において、学的営為の在り方を問題とした最も早い例は、『歎異抄』の第十二章であろう。経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ、念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。(『定親全』四・言行篇・一六頁)ここでは学問に、二つの側面が見出されている。すなわち、「往生の要」にはならないという否定的側面と、「本願のむねをしる」ために有効であるという肯定的側面である。このような学問観は、以後の時代においても大きく変化することは無いように思われる。真宗学の方法論に関する論文の目録が、「真宗学方法論関連論文目録」(『真宗研究会紀要』三〇、龍谷大学大学院真宗研究会、一九九八年)に収録されている。また、その後に真宗学の方法論を扱う研究としては、鍋島前掲論文や、杉岡孝紀の『親鸞の解釈と方法』(法藏館、二〇一一年)等がある。『真宗学序説』(文栄堂、一九六六年)二一頁。『真宗学序説』三〇頁。 ()1
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『真宗学序説』九〇頁。寺川俊昭「真宗学方法論序説(二)―真宗学の対象―」(『親鸞教学』三八、大谷大学真宗学会、一九八一年)、参照。現代の大谷派においても、金子が施した真宗学の定義は重視されている。龍溪章雄の論文「真宗学方法論研究学説史―その一―」(『龍谷大学大学院紀要 文学研究科』五、龍谷大学大学院紀要編集委員会、一九八三年)や、東真行の博士論文「金子大榮研究―浄土顕揚の課題―」(大谷大学、二〇一六年、
http://id.nii.ac.jp/1374/00005265/)では、金子の言う「公開」は、「宗派の学」「教団御用学問」からの脱却を指すと理解されている。藤原智「真宗大谷派における宗学の問い直し―大谷大学の真宗学の名称をめぐって」『日本仏教を問う 宗学のこれから』(春秋社、二〇一八年)一二五頁。「信巻」所引の『涅槃経』文には、次のように説かれている。是の六部の経を受け已りて、論議の為の故に、勝他の為の故に、利養の為の故に、諸有の為の故に、持読誦説せん。是の故に名づけて聞不具足と為すとのたまへり。已上(『翻刻篇』二二四―二二五頁)このように、「論議」「勝他」「利養」「諸有」の為に経典を 読む在り方は、「聞不具足」であるとされる。『昭法全』二八六頁。『六要鈔』『真聖全』二・二〇五頁。金子も「顕」と「文類」とに、『教行信証』の「方法」があると述べている。『教行信証総説』(『金子大榮著作集』一〇、春秋社、一九八三年)二六頁、参照。ただし例外はある。たとえば芳英(一七六二―一八二八)の『教行信証集成記』は、「顕」の主語を親鸞とする。『定親全』二・和讃篇・二二四頁。『真聖全』三・六五一頁。類似した理解は、僧鎔(一七二三―一七八三)の『本典一渧録』、玄智(一七三四―一七九四)の『顕浄土真実教行証文類光融録』、興隆(一七五九―一八四二)の『顕浄土真実教行証文類徴決』、僧叡(一七五三?―一八二六)の『教行信証文類随聞記』、松島善譲(一八〇六―一八八六)の『顕浄土教行証文類敬信記』、大江淳誠(一八九二―一九八五)の『教行信証講義録』、桐渓順忍(一八九五―一九八五)の『教行信証に聞く』などに見られる。また大谷派でも、法住(一八〇六―一八七四)の『教行信証金剛録』(以下『金剛録』)や、金子大榮の『教行信証の諸問題』(『金子大榮著作集』九、春秋社、一九七八年)は、同様の理解を採る。『山赤』教行の巻・三頁。 ()8
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なお、このような親鸞観や『教行信証』観は、『山赤』に限ったものではない。金子大榮の『真宗学序説』にも、『教行信証』こそは、親鸞の自内証の世界であって、(中略)『教行信証』は親鸞が自己のために書いたのである。
(中略引用者『真宗学序説』一三〇―一三一頁)という記述が見られ、『教行信証』の対他的側面は強調されない。加来が指摘していたように、これが近代における一つの傾向なのであろう。『翻刻篇』一四頁。『翻刻篇』一一一頁。『翻刻篇』四六一頁。『翻刻篇』五四五頁。最澄は小乗戒を廃し、大乗戒のみによる授戒制度の確立を目指していた。しかし南都からは批判が噴出したため、これに対する反論として著されたのが、この『顕戒論』である。なお南都からの論駁は最澄の死後に再び起こっており、これに対応するため弟子の円仁(七九四―八六四)は、『顕揚大戒論』を著わしている。これに関して『法然上人行状絵図』には、次のような記述が見られる。爰上野国より登山し侍ける並榎の竪者定照、ふかく上人念仏の弘通をそねみ申て、弾選択といふ書をしるし て破文をつくりて隆寛律師の庵におくるに、律師又顕選択といふ書をしるしてこれをこたふ。その詞には、「汝が辟破のあたらざる事、たとへば暗天の飛礫のごとし」とぞあざむかれて侍る。定照いよいよいきどをりて、ことを山門にふれ衆徒の蜂起をすゝめ、貫主にうたへ奏聞をへて、隆寛、幸西等を流形せしめ、あまさへ上人の大谷の墳墓を破却して、死骸を鴨河にながすべきよし結構す。(中井真孝『新訂法然上人絵伝』
(思文閣出版、二〇一二年)三五六頁)このように、定照(生没年不詳)の『弾選択』への反駁を企図して著わされたのが、隆寛の『顕選択』であった。しかし『弾選択』と『顕選択』は共に現存しないため、その詳細は不明である。国語辞書の定義は、次の通り。同じ種類の事柄を集めること。また、その集めたもの。類集。
(『日本国語大辞典』第二版・一三
(小学館、二〇〇二年)一〇一六頁)林五邦「楽邦文類解題」(『国訳一切経』諸宗部七、大東出版社、一九七八年)四頁、参照。『大正蔵』四七・一四九頁・下。ただ『西漢文類』は現存しておらず、詳細は不明である。 ()22
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三木彰円「親鸞の思想課題における「文類」形式の考察」(『真宗研究』四七、真宗連合学会、二〇〇三年)では、次のように述べられている。親鸞における「文類」とは、形態として『楽邦文類』におけるそれに沿いながらも、それを思想表現の積極的な手法として換骨奪胎している点を決して看過してはならないであろう。(『真宗研究』四七・六四頁)そもそも宋代に成立する「文類」「類集」形式の著作の多くは、初学者の勉学に便宜を計るためであったとされる。柴崎照和「義天『円宗文類』の研究―四明如吉と高麗義天―」(『印度学仏教学研究』四四(二)、日本印度学仏教学研究、一九九六年)参照。しかし『教行信証』は、そのような性格の著作とは考えがたい。『翻刻篇』一四九、一五一、三三一、三九一、四六五、五七六頁。そのため法住は『金剛録』において、次のように述べている。其の文類集の相承は『選択集』がもとなり。その『選択集』は『往生要集』をもとゝし、『往生要集』は『安楽集』をもとゝす。
(『続真宗大系』八・四三六頁)もちろん「集」という著述の形式は仏教界に広く見られるものであり、浄土教のみが「相承」するものではない。し かし『教行信証』の著述形式を考えるに際し、この三つの「集」を踏まえるという視点は重要であろう。『真聖全』一・九九三頁。『真聖全』一・九九〇頁。ただ親鸞は、七祖の著作だけを引用するわけではない。この点については、親鸞が問題視していた当時の思想状況を踏まえる視点や、本願念仏を伝承させる第十七願のはたらきに注目する視点など、多角的な視座からの論考が可能であると思われる。しかし、それは本稿の目的でないため、ここでは割愛する。『定親全』三・和文篇・一二五、一三九頁。たとえば小原仁は、『往生要集』の学的手法について、次のように述べている。この時代の学問的著述の方法は、要文の抄出とその構成からなされるのが一般で、経論章疏から抄出された文を組み立て、構成することによって自己の主張が表現される。だから源信の学問方法はごくオーソドックスなやり方に基づいているといえる。(『源信』(ミネルヴァ書房、二〇〇六年)一三五頁)この指摘に基づくのであれば『教行信証』の学問方法も、「オーソドックスなやり方」であったと言えるだろう。たとえば『安楽集』では「『随願往生経』の明証有り」(『真聖全』一・四三〇頁)という記述が見られ、『観経 ()33
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疏』の「玄義分」には「悉く仏説を取りて以て明証とせん」(『真聖全』一・四五四頁)とある。なお「別序」には、「且く疑問を至して遂に明証を出だす」(『翻刻篇』一五〇頁)とあるように、問答によって「明証を出だす」と述べられている。しかし三心一心問答や三心一異問答の中にも、引用文は少なくない。そのため問答と「文類」が、別個の学的営為であるとは言えないだろう。法住『金剛録』、加来註(
鈔はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。 親鸞は「鈔」の字義について、『唯信鈔文意』の中で、 系』教行信証第九・七〇五頁、参照。 略讃』に依った。『真宗大系』一七・二七四頁、『仏教大 この理解は鳳嶺の『広文類聞書』や、道隠の『教行信証 『仏教大系』教行信証第九・六九四頁、参照。 1)論文、参照。
(『定親全』三・和文篇・一五五頁)と述べている。しかし「摭」の字については、「ヒロフ」(『翻刻篇』五四二、六七二頁)という左訓を施すのみで、詳しい解説を加えてはいない。なお親鸞所覧の字書と考えられる『廣韻』では、「鈔」は「抄」と同義で「略」「略取」の意であり、「摭」は「拾」の意となっている。『校正宋本廣韻』(芸文印書館、一九八一年)一五四、四一六、五一八頁、参照。 事実として『教行信証』は、親鸞の著作の中では例外的に奥書が入っていない。これは『教行信証』が最後まで、未完の書であったことを示すものだろう。李通玄(六三五?―七三〇?)の『新華厳経論』によれば、太子時代の釈尊には「耶輪陀羅」「瞿波」「摩奴舎」という三人の妻があったとされる。『大正蔵』三六・九九八頁・中、参照。『大正蔵』一〇・四〇七頁・中。山田亮賢「華厳経における瞿波善知識と親鸞聖人―『教行信証』後序と『伝絵』六角夢想段とに関連して―」(『親鸞聖人』、真宗大谷派宗務所、一九六一年)参照。「別序」には「毀謗を生ずること莫かれ」(『翻刻篇』一五〇頁)という記述が見られるが、こちらは明らかに抑止の対象となっている。そのため、「後跋」の「疑謗」と「別序」の「毀謗」は、区別して考える必要があるだろう。『教行信証』の文脈を考える場合、衆生を「摂取」する「菩薩」とは、法蔵菩薩のことであろう。 ()43
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