ISBN 0 2 8 8 ‑ 0 9 1 1
宗 心 九
慎宗連合學會研究紀要
第四十八輯ー―‑
平 成
1 6
年1
月顔 宗 連 合 學 會
真 宗 研 究
宗 連 合 学
第四十八輯
親鸞聖人の言語観
ことばと文字
無明についての蓮如上人の御教示 真宗相承に見る五念門の意義 ﹃浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察
他者との関係性をめぐって親鸞における信と疑⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝大谷大学
一一種深信を中心として
﹃安楽集﹄の三身説に関する一考察⁝⁝⁝⁝龍谷大学
隋代諸師の一二身解釈との比較を通して自然法爾の世界を頂く⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝三門徒派
ぶ入明版﹂系二正像末和讃﹂の成立過程⁝⁝⁝⁝本願寺派
︿異本﹀の存在証明とその意義
終末医療について⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝佛光寺派
ビハーラに学ぶ
真 宗
⁝⁝⁝大
⁝⁝⁝⁝⁝本願寺派
⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝京都女子大学
龍谷大学
谷派
研 究 第 四 十 八 輯 目 次
廣 澤 晃
佐 々 木 瑞
野 村 伸
西 智
谷 公 和
︵ 六 四
︶
長 谷 川 岳
殿 内
高 冨
木 淳 善
︵ 一 六
︶
岡
教 量
恵︵若︶ 史︵唱︶
夫︵
九四
︶
雲︵
一宕
︶
隆 (
‑ ︱
︱ ︿
)
恒(
‑五
︶
秀︵一︶
近代の真宗と真俗二諦
ー:梅原真隆を通して││
光明本と﹃尊号真像銘文﹂
浄土三部経諸註釈における一考察⁝⁝⁝⁝⁝木
道徳教育と宗教⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝高
ら ノ
力
新出の親鸞真蹟をめぐりて
伊藤証信の
. . . . . . .
懺
・ 働
. . . . .
彙 彙
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. . . .
. . .
と っ て は 何 か
' 9,
'
...•.••.••••••••••••
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⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝龍谷大学
星野元豊氏の親鸞浄土教理解⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝本願
において
の創出⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝大
ー 戦 時 期
・ 暁 烏 敏 の 教 説 を め ぐ っ て
1
﹁無我愛﹂運動と真宗⁝⁝⁝⁝⁝同朋大学
清沢満之の公共思想⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:大谷大学
ヽレ7月
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谷 派 前 田
谷派
朋
安 田
代 俊 孝
︵
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‑ 芙
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派 牧
野 治和宇
派 小 山 正 文
田 派 堤
冨 畑
信哉︵天九︶
正
貴︵
三ぺ
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辺派八カ廣超︵一一︿四︶
の関係について⁝⁝佛光
派 藤 谷 信 道
︵
四
学会彙報………••………•
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︱︱
︱
の願いとその歩み
名 畑
平 松
令
五
一
︵
^記 念講 演﹀
千 葉
降
もの 我々の救済の﹁場﹂とし 世尊我無上正覚の心を発せり︒願はくは仏︑我がために広く経法を宣べたまへ︒我当
の妙上を荘厳すべし︒我をし
る︒そして と説かれるように︑法蔵菩薩が我々の救済を願われ︑
まへ
︒
考察
ーー他者との関係性をめぐって
' 1
ー '
﹃浄土論註﹄同土荘厳に関する を実現するとして おいて速やかに正覚を成じ︑ て仏国を摂取
︵﹃
真聖
全﹄
一・
七貞
︶
・妙土﹂として荘厳された
四十八願を建立され︑不可思議兆載永劫に浄土を荘厳され︑浄土が成就して自らも
正覚を取られ我々衆生を救うと説かれている︒それは自ら仏に成ることも︑衆生を救うことも︑浄土を荘厳する
とにより満足されるということである︒即ち浄土を荘厳することにおいて︑自利利他円満するということである︒
しかしながら我々現代人の多くにとって浄土とは漠然としたイメージであり︑所謂通俗的なの世界﹂として の生死勤苦の本を抜かしめた れた浄土は﹃仏説無鼠寿経
現代社会における浄土
け
大谷派
土論註﹄国土荘厳に関する一考察
﹃大
経﹄
︶﹄
にお
いて
冨 岡 鼠
秀
が確認されるのである︒ あるのが︑不可解といわれる︒ しか想起されない︒さらには浄土という言葉そのものが︑既に死語となりつつある︒
︱つは﹁都市﹂という人工空間で合理性と客観性を生活の拠所
としている現代人にとって浄土は極めて神話的な世界観として説かれ︑到底信じられるものではないという側面︒
そしてもう一っは合理性と客観性を拠所としながらも︑依然として﹁死後の世界﹂という浄土観を根深く有する側
面である︒この相反する︱︱つの側面を内包しているのが現代社会の特性である︒
浄土がいかにも物質的・肉感的・感覚的に描かれるので︑何だか嫌になる︒
﹃浄土系思想論﹄・ニ九七頁︶ かつて鈴木大拙氏は浄土三部経にそれから︑西方十万億土などと︑
方角を定め︑距離を限定して︑ーたといそれが甚だ﹁不限定﹂なものであっても︑ーとにかく︑数字を並べて
と指摘している︒鈴木氏の指摘のごとく︑荘厳された浄土は﹁いかにも物質的﹂である︒
化し︑或いはまた別世界︵死後の世界等︶
なる神話的な世界としての意味しか持たないのであろうか︒
わち浄土が﹁物質的﹂・﹁実体的﹂に説かれるところに︑浄土が荘厳という形で表現される意義があるといえるので
はないだろうか︒ として実体化する具体的な相がある︒ 説かれる浄土について 現代人の捉える浄土の特性には二つ側面がある︒ ﹃浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察
そこに我々が浄土を神話
では現代人にとって浄土は最早単
しかしながらそこには必然性があるはずである︒すな
その因由は我々の虚妄性にあるのではないか︒したがって﹁国・土﹂として荘厳される浄土を明 らかにすることは︑我々衆生の虚妄性が明らかになることと︑決して別のことではない︒この点に浄土の救済論理
浄土が荘厳される必然性と我々との関係について安田理深氏は︑
我々は社会というが︑これは畢党浄土の問題ではなかろうか︒浄土ということは仏道の問題であるけれども︑
浄土のない仏道は二乗である︒宗教的エゴイズムである︒浄土なくして人間は成立しない︒
﹃浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察 について社会学者の青井和夫氏は︑ いう言葉を広く社会に認知させたのはマッキーヴァー と指摘している︒我々の現代社会の問題は︑浄土荘厳の中に見出され︑立の根源的な問題として見出されてくるのではないか︒
以
t
の様な問題意識から︑現代社会を振返ったとき︑我々の生活の場はている︒それは
コミ
ュ
コミ
ュ
コミ
ュ
ィの崩壊
コミュニティの基礎は︑地域性と共同性にあるという点ではかなりの
コミ
ュ
︵﹃安田理深選集﹄第九荏.1
. 言
それは社会の問題として止まらず︑人間成
では現代社会は浄土の荘厳に具体的にどの様な問題を見出
の関係性の喪失を意味しているのである︒この他者との関係性の喪失は現代の特徴的な問題として捉えられて
いる︒しかしこの問題は現代社会のみが抱えている特徴的な問題ではなく︑我々が他者との関係性において根源的
( R
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, 18821970)
一テ
ィと
である︒このこと
アメリカで一九二
0
年代のコミュニティ解体時代に﹃Co
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St
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(1917)﹄という有名 致をみているだろう︒このコミュ
ティ
とはもといられる概念で︑によってそのであ 現代社会におけるコミュ に抱える問題ではないかと考える︒ が多く用いられているの
の
ティ
てゆく為という他
の
は に
ている︒このことからコミュ
ティ
には﹁共同体・ すことができるのだろうか︒
一テ
ィ
という問題である︒この
ティ
﹂とい に﹂ということにおいて深刻な問題
地縁・血縁コミ
さ~ヵは一九六九年に国民生活審議会が次のようなコミュ ニティ崩壊による危機感は新た
ティの概念規定を行っている︒ する︒これ
の必要性を論義する契機となっ
﹁生
活
から︑宗教的・精神的性格を排除することを意味する︒ ﹁人間本来の使命感や全体性﹂という我々人間存在の意味にも繋がるような深刻な問題意識
我 へと展開
ている︒この間遅は単なる都市構造的な問題
まら
ず︑
から排除し 0
頁 ︶
ティは消失し︑ の匿名 な本を書きまし
ニテ
ィ
の場﹂が転換したこと
てい
る︒
戦後いろいろな社会変動をへて大体 にコミュニティの解体がはっきれるようになりま
﹃浄
土論
註﹂
国土
荘厳
に関
する
九二
0
年代
それから社会学では地域社会のことをコミュニティ
への希求を原動力とする﹁生活
︵中
略︶
日本は時期的にはだいぶ遅れまして︑
になってこのような現象が起きたのだと思いま
ュニ
ティ
﹂四
O ・ ロ ︱ ︱
1 0
%におけるコミュニティ崩壊の危機感は︑地縁・血縁を基盤とする農村コミュ
の危機感である︒それは都市化により農村から都市へ
換の背景には排他的な地縁・血縁コミュニティを脱却し︑都市の閲名性を希求するという側面がある︒
の転換は深刻な問題を社会にもたらすことになる︒芦原義伯氏は︑
都市化が進めば進むほど︑戦前やさらには江戸時代のような地縁的な人間関係の深いコミ
生も死もそれぞれの専門家にまかされ︑人間本来の使命感や全体性を見失いがちになるのである︒
・街並みの美学﹄
の問題を身近な ちょ
口 が 一 ︱
‑ 0
%を割る前後なんですね︒ と指摘している︒さらにコミュティ崩壊が 考察
れはじめた時期について青井氏は︑
﹃コ
ミュ
ニテ
ィ﹂
四
0
.一
六頁
︶
うになっ
四
る︒この転
六 頁
︶
口が三
0
%代んで
す︒
I浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察 のことについて芦原義信氏は︑ と指摘している︒ いうものは少ない︒ コミュニティというのは︑
五
ティとは
されること 場と他者との関係性を喪失した現代社会
の場﹂である都市は︑基盤整備も整い︑近代的高層ビルも建ち並ぶ︑衛生的で﹁豊かな﹂都市環境
れる側面がある︒しかし一方では︑西欧と日本の都市比較におい
の地域共同体であるが︑確かに日本の都市には市民の間にそういう共同意識と
ると
き︑
されるの
︵﹃
日本
都市
論﹄
五三
頁︶
コミュニティを喪失させる日本の都市という﹁場﹂はどの様な性格を有しているのだろうか︒そ ニティ
る ︒ る ︒
の都市のおけるコミュ の都市のは常に指摘 我々の の関係性﹂はの関係にあるれているのである︒ しあることをそ
とするのである︒すなわち
と 様々な
の関
係性
﹂
てをコミュティとないということ
コミ
ュ
この提言はその後のコミュ して︑地域性と各種の
共通目標をもった︑開放的でしかも構成員相互に信頼感のある集団をコミュニティとよぶ︒この概念は近代市
民社会において発生する各種機能集団のすべてが含まれるのではなく︑
着
H
するものである︒一ティ計画推進の端緒を拓くものであった︒ここべきは我々に発生する の場において︑
して
た個人お
そのうちで生活の場に立脚する集団に
五都市計画﹂九/貝︶
ある︾という逆説を示してくれる︒ 京﹂についてロラン・バルト氏は︑ つねに︽充実︾している︒ そこでまず第一にとりあげられるのは︑都市空間における自己の滅却であり︑個人は大きな空間の全体性の中に溶けて平均化してしまうというわが国独特の性格をあげることができよう︒
と指摘する︒これは前述したように︑
日本の都市化推進の背景が︑都市の匿名性への希求を原動力とした﹁生活の 場﹂の転換だからである︒現代社会は農村の地縁・血縁コミュニティを排他的な﹁煩わしい﹂ものとして﹁場﹂と
﹁他者との関係性﹂を放棄し︑﹁自己の滅却﹂と﹁平均化﹂という匿名性を希求したのである︒この固名性の希求
は︑芦原氏が指摘したように︑﹁生・死﹂という人間としての宗教性・精神性の放棄ともなる︒そして日本の都市
は身近な﹁場﹂から宗教性・精神性を排除するという特性をもつにいたるのである︒
日本と西欧との﹁場﹂を比較したとき︑西欧の都市では︑教会や市庁舎が広場に面して配隧され︑都市の中心と
ロラン・バルト氏は西欧の﹁場﹂ では我々は新たな﹁場﹂を都
のもつ中心性について︑
いっさいの中心は真理の場であるとする西欧の形而上の歩みそのものに適応して︑
と指摘している︒西欧都市には中心としての﹁場﹂が明確に位置づけられているのである︒
あり︑同時に人々が集い﹁他者との関係性﹂を築く﹁場﹂なのである︒
神的性格を有している︒
都市︵東京︶ いうものが核として存在している︒ 市に見出したであろうか︒ ﹃浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察
ぶが徴の帝国﹄四三貞︶ わたしたちの都市の中心は
︵﹃表徴の帝国﹄四三頁︶
そこは﹁真理の場﹂で
その中心は﹁真理の場﹂として宗教的・精 では我々の都市の中心は如何なる性格を有するのだろうか︒日本の都市の代表である﹁東
は︑次のような貴重な逆説︑︽いかにもこの都市は中心をもっている︒だが︑その中心は空虚で
と興味深い指摘をしている︒既存の﹁場﹂を放棄することによって都市化を進め︑新たな﹁生活の場﹂として選ん
﹃続・街並みの美学﹄三六頁︶ 六
と
﹃浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察 だ都市は︑単なる構造としての中心性を有するが︑﹁場﹂としては何ら機能しておらず︑する︒この﹁場﹂的・精神的﹁場﹂を放棄し︑新たな宗教的・精神的﹁場﹂をも見出せないという︑﹁場﹂る︒この﹁場﹂けが抱える問題ではない︒
我々の現代社会は﹁場﹂と﹁他者との関係性﹂の﹁空虚﹂さを抱えている︒しかしこの問題は現代或いは日本だ
それは我々人間存在が﹁場﹂と﹁他者﹂に対して本質的に抱える問題であると換言でき
るのである︒
の﹁空虚﹂さは︑都市の様々な﹁生活の場﹂においてみられるのである︒現代社会は古き宗教
の﹁空虚﹂さは︑﹁他者との関係性﹂
そのことを浄土の荘厳に確認することができるのである︒
浄土の荘厳は前述したように物質的であり︑実体的であると指摘される︒しかしながら我々の現実を振返ったと
き︑我々を取巻く日常は全て物質的であり︑実体的であるといえる︒我々が精神的に訓練し︑深化したとしても︑
現実に我々を取り巻く物質的・実体的な世界を越えて思索し︑精神的に深化することは不可能ではないだろうか︒
そこに人間の根源的な﹁虚妄性﹂があるのではないだろうか︒
親鸞は浄土の本質である﹁真如
1 1法性法身﹂について︑
法身はいろもなし︑
我々は﹁いろがあり︑ かたちもましまさず︒ 我々に場を開く国土荘厳
七
そこは﹁空虚﹂であると
の喪失状態にあるといえ
の﹁空虚﹂さという必然的現象を生み出すのである︒
しかれば︑こAろもおよばれずことばもたへたり︒
︵﹃定親全﹄三・一七一頁︶
﹃唯信紗文意﹄に語る︒我々にとって﹁真如
11
法性法身﹂は決して触れることの不可能なものである︒対して かたちがあり︑ことばがある﹂という極めて﹁物質的・実体的﹂であるところにおいて初め
浄土の荘厳は世親の﹃浄土論﹄︑
格を荘厳しているのは︑
﹁不浄﹂であれば︑必ず﹁不浄﹂となる︒﹁清浄﹂とい ても荘厳されているところに﹁場﹂としての特性が見出されるのである︒
まず曇鸞は﹁器﹂と衆生との根源的な関係について﹃論註﹄
古真
聖全
﹄
曇鸞の﹃浄土論註︵以下﹃論註﹄︶﹄によって︑十七種の国土荘厳︑
の﹁巻下・善巧摂化章﹂において︑
一・三三八頁︶
て﹁何か﹂を認識し︑思索へと展開することができるのではないか︒したがって浄土の荘厳は人間の﹁虚妄性﹂に
八種の仏荘
厳︑四種の菩薩荘厳として二十九種荘厳功徳成就が明らかにされている︒この中において浄土の﹁場﹂としての性
具体的には国土荘厳である︒この国土十七種荘厳は器世間といわれ︑環境と換言すること ができる︒そして国土十七種荘厳の内容には単に﹁器﹂としての荘厳のみならず︑浄土の住民の﹁関係性﹂につい
一ならざるは則ち義をして分つ︒異ならざるは同じく清浄なればなり︒
器は用なり︒謂く彼の浄土はこれ彼の清浄の衆生の受用する所なるが故に名づけて器とす︒浄食に不浄の器を 用いれば器不浄なるを以ての故に食また不浄なり︒不浄の食に浄器を用いれば食不浄なるが故に器また不浄な
るが如し︒要ず二つ倶に潔くして乃ち浄と称することを得︒これをもって︱つ清浄の名に必ず二種を揖すと︒
と語られる︒根源的に曇鸞は﹁衆生及び器﹂︑
は相互作用するということがある︒﹁身﹂・﹁土﹂
土﹂が相互作用し共に﹁清浄﹂ 衆生及び器︑また異を得ず一を得ず︒ 応じたものであると捉えることができる︒ ﹃浄土論註﹂国土荘厳に関する一考察
すなわち﹁身と土﹂は﹁不二﹂
いずれかが
うことを実現するためには︑﹁要ず二つ倶に潔くして乃ち浄と称することを得﹂と語るのである︒浄土とは﹁身・
であることによって成立するのである︒
この人間と環境との相互作用について三木清氏は次のように指摘している︒
であると語られるのである︒そこに 即ち人間と環境とは︑人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている︒この関係は人間
}¥
の物質的基礎となるのであり︑︵中略︶五ハ同体﹂が何よりもまず占有するところの対象となる︒
﹃浄土論註﹄国土荘厳に関するご芍察 ﹁富﹂包括的な基盤ともいうべき﹁上地﹂こそが︑他ならぬ
九
﹁共同体の基礎理論﹂ がまさにそれによっところ てきたといにみることができるのである︒そのことについて大塚久雄氏は︑ Jの人間にとって最も基本的な 我々人間であるる︒すなわち である︒すなわち具体的な価値・評価対象としての環境の捉え方である︒もう
占有対象としての環境の捉え方である︒どちらも﹁人間と環境﹂を分断した捉え方であ
であると捉えている︒その﹁虚妄性﹂に対して︑曇鸞は﹁身と土﹂とは
ので
ある
︒
であると捉えてきた具体例を︑である﹁大地を である
‑﹂
つは︑環境を形成しているのは
ているのではないだろうか︒︱つは︑我々は環境を極めて限定的なものとして捉えているのではないかということ が顕在化してくるのではないか︒我々の﹁形成作用﹂を捉えた場合︑は二つの捉え方をし
よっ
しているのであり︑その関係我々てを認識することを超えないのである︒そこに人間の としての﹁形成作用﹂の関係に 作用﹂には必然的に﹁形を与えということがある︒即ち我々はその相互作用において具体的な
し)
との間にばかりでなく︑人間と社会との間に
とによって自己を形成してゆく︑これが我々の生活の根本的な形式である︒我々
﹃哲
学入
門﹄
七貞
︶
に存在している︒︵中略︶人間は環境を形成するこ
すべて形成作用
味をもっている︒︵中略︶人間のあらゆる行為が形成的であるというのみでない︒人間は環境か
自然の作用も︑社会の作用も︑形成的であるといわねばならぬ︒
の日常が物質的・実体的である因由をこの﹁形成作用﹂に見ることができる︒人間と環境が関係する﹁形成
・﹁実体的﹂なものとして捉えてしまうのである︒我々の社会はこ れると
置いて︑畢党安楽の大清浄処を得しめむと欲しめす︒ 上﹄の﹁清浄功徳﹂に して︑浄土の国土は荘厳されるのである︒ また当に往生を得ざるべきなり︒ と指摘されるように︑﹁大地﹂を﹁占有する﹂という人間の欲求を満足させる﹁場﹂として捉えてきたのである︒その
﹁ 場 ﹂
土﹂として捉えられるものである︒我々にとって﹁場﹂とは︑必然的にその中心と領域が設定されるのである︒同
時に﹁他者との関係性﹂も自己中心的な領域を有する︑限定された関係となってしまうのである︒
この様な捉え方は現実社会に対してだけでない︒我々は浄土に対しても同様に自己の中心的な欲求を満たす
﹁場﹂として﹁占有﹂し︑都合の良い﹁他者との関係性﹂しか見出さないという根深い
悪 ﹂ ︑
ヽ ー
の占有を巡って︑我々は古来より争いを展開してきたのである︒その最も象徴的なものが我々に﹁国・国
もし人無上菩提心を発せずして︑ただ彼の国土の楽を受くこと間無きを聞きて︑楽の為の故に生を願ずるは︑
と指摘するのである︒この人間の﹁為楽願生﹂という極めて限定的な﹁場﹂としての浄土観︑すなわち﹁不浄の 食﹂をもって浄土を捉えれば︑曇鸞が﹁不浄の食に浄器を用いれば食不浄なるが故に器また不浄なるが如し﹂と語 るように︑浄土という﹁器﹂は必然的に﹁不浄﹂なものとなるのである︒このような人間の占有を超越するものと 浄土は様々な相をもって荘厳されるが︑曇鸞が浄土の総相と語る﹁清浄功徳﹂︑その無限の体相を語る﹁量功
そして根源としての﹁性功徳﹂の一︱︱つを基軸として展開される︒我々の現実相について︑曇鸞は﹃論註・巻
三界は是虚偽の相︑是輪転の相︑是無窮の相にして︑駅鰻循環するが如く︑蚕繭自ら縛わるが如くなり︒哀れ
なるかな衆生︑この一︱︱界の顧倒の不浄に締るを見そなわして︑衆生を不虚偽の処に不輪転の処に不無窮の処に である︒そのことを曇鸞は
﹃論
註﹄
の﹁善巧摂化章﹂に︑ ﹃浄土論註﹂国土荘厳に関する一考察
﹁真
聖全
﹄
︵﹃
真聖
全﹄
一・
ニ八
五頁
︶
一・
三三
九頁
︶
﹁虚妄性﹂を抱えているの
10
を﹁広大にしてま
の如
くし
て︑
﹁浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察 Jと無し﹂とするのである︒何故ならば﹁彼の景︑能<衆生 ︑Aとしの住民にもたらすのである︒という無限のは︑そのの志願
ー場
﹂と
し
彼の国の人天も
る︒そして
また十方世界
算数のその多少を知るこ
かくの如きの戸軍の中に住して︑志願広大にして︑
能<衆生のの量を成ず︑何ぞ思議すべきや︒ ま
の如
くし
て︑
jと
無け
む︒
る所なり︒しかるを彼の世界常の如しの相無し︒彼の中の衆生 往生を願ずれば︑もしは已れ︑もしは今生れ︑もしは当
時一
日の
頃︑
︵﹃
真聖
全﹄
をもって浄土
の国
土の
量︑
二九貞︶
る浄
士は
︑
は人間の限定的で占有された
に対
して
︑
の国土﹂という無限の﹁場﹂をもって超越するの と語られるように︑として開かれるのである︒
ば心に随い成ずる所なり︒人各かくの如し︒
﹃真
聖全
﹂
一・ニ一九頁 ・楼閣︑もしは広さ一由旬︑もしは百由旬︑もしは千由旬︑らむと欲ヘ ていることが示される︒このような人間に対して
・巻
下﹄
の
こ ︑
. r
それは大地の地形等による限定であり︑或は﹁国界分部せ
とし
て︑
という自己中心的な欲求を満たす
と続いてに語られるのである︒このは人間の世界が如何に限定されたものであるか したまへり︑願わくは︑の如く広大無際ならむと︒
一・
三八
八頁
︶
或は山河開ち障ふ︑或は国界分部せり︒此の如き等
の事
有り
︒
の故に菩薩此の荘厳量功徳を興 ニ界を見そなはすに︑映・小・ 々の現実世界の阪定性について と人間の・不浄性﹂という現実を語る︒その﹁虚偽性
は﹁
窮ま
り﹂
る世界なのである︒
・闘・陪.隋にして或は宮観迫辻なり︒或は土田過陰し︑或は志求路促まり︑
に之を住持せられむ︒ くに臀ふ
から
むや
︒
に願を典したまへり︒願わくは我が国土には常
﹁真
聖全
﹄
:
九四
頁︶
と指摘されている︒この関係は浄土という﹁場﹂において成立する関係なのである︒
有る国上を見そなわすに︑羅刹を村と為す︑則ち率上相職す︒宝輪殿に駐まる︑則ち四域虞無し︒之を風の靡
っ
にし
、
八頁
︶
化生す﹂というい王と脊属﹂という関係性が荘厳される︒この関係性について安田理深氏は︑
・脊属功徳を掲げて︑社会関係における社会的身体をあらわす︒そして次の受用功徳・無諸難功徳・大
義門功徳をもって社会生活をあらわ
︵﹃
願生
浄土
﹄
浄土の関係性においてはの阿弥陀法王善く住持したまへり﹂との衆は正覚り における
﹁関
係性
﹂
' , .
ょ ︑
と具体的には
主功
徳﹂
︑
﹁大義門功徳﹂と捉えるこ
でき
る︒
浄土の国土荘厳の特性はr
この
﹁無
星﹂
﹁場
﹂と
して
1関係性﹂が荘厳されていることる︒国土荘 質を見出されていたのではないだろうか︒ と﹁清浄功徳﹂とを一体として語られる︒
のこ
とか
ら︑
﹁清浄功徳﹂と
の本
彼の世界を観ずるに辺際無し︒ること広大にし
の如
し︒
親鸞は る︒この
の
に
の国土﹂に荘厳される他者との関係性 ということにおいて﹁場﹂と我々人間との決定的な関係性が見出されるのである︒ の心行の量を成ず﹂と語るように︑ 五浄士論註﹄国土荘厳に関する一考察
の﹁
無量
﹂
の文
を引
かれ
︑
また
﹃入
出
その国土の住民の志願の
にお
いて
は︑
頁 ︶
さを決定するからであ
ように︑我々は
こにあるのは他者との軋礫である︒軋礫を回避しようとすれば芦原氏が
全体性の中に溶けて平均化してしと指摘したような関係性となってしまうのである︒このよ
彼の安楽国土は是阿弥陀如来正覚浄花の化生する所に非ざることなし︒同一に念仏して別の道無きが故に︑
く通ずるに夫れ四海の内皆兄弟とするなり︒脊属無量なり︒
と浄土の﹁脊属﹂
﹃浄土論註﹄国士荘厳に関する一考察 関係性に対して︑ 本的に生じない︒
されるのである︒浄土の脊属は一に念仏して
︵﹃
真聖
全﹂
一・
形成される関係性である︒そこ の滅却であり︑個人は大き
二五
貞︶
社会の 々異なり﹁雑業
1 1 様々を有しているからである︒それ故に もしは胎もしは卵︑もしは湿もしは化︑
故に
︒
ということは見出せないのである︒何故ならば︑それ
りc
我々
って︑個人的な
々異なっている︒それ故に個人が形成するぶ場﹂
凡そ是雑生の世界には︑ 々異なった であると示される︒
を破るのである︒ は:法王ー
の
が
をも れるように
互
し) に
を巡って喰らいあっているのである︒
の占有という視点で﹁主﹂を捉えたならば︑それは我々一人一人が
とするのである︒このとしての占有を象徴する
となって個人的な限定された
を形成し︑そこに自己中心的な他者との関係性を築いているのである︒それは国・国土
れ︑五羅刹を君と為す︑則ち率土相諏す﹂
それに対して浄土の であれ個人であ
する﹁無量の
にあるのである︒我々の社会には︑そういう
['場﹂が重層的に︑且つ錯綜しているのである︒この﹁場﹂を巡る関係は一則ち率土相諏す﹂という関係性しか基
雑業を以ての
︵﹃
真聖
令﹂
•三二五貞)
であ
り︑
そ である︒我々はこの
を中心として国・国土という領域を﹁場﹂として
するのである
cさらに の国・国土は
し)
は
ち三
︱︱
一の
品な
れど
も︑
今は
の殊異無し︒同に念仏して別ればなり︒猶洲湘の一味なるが如きな 女人根欠二乗安楽浄刹には永く生ぜず︒如来浄華の諸の聖衆は︑の華よ諸機は本則 義門功徳﹂を引文される︒さらに﹃入出
では
﹃教
行信
証﹄
の﹁証巻﹂には﹁脊屈功徳﹂︑﹁大義門功徳﹂を引き︑ についてとう︑iとしを引文し ﹃定親全﹄一・ニ六五貞
﹃論
﹄に
て虚空の如し・広大にしと口うなり︑往生と言うはには皆受自然虚無之
﹃教
行信
証﹄
の五真仏土巻﹂において︑ るのではないだろうか︒ る︒特にという側面ならばなる﹁場﹂における﹁関係性﹂への着目と捉えることができ は︑﹁清浄功徳﹂と﹁犀功徳﹂という﹁場﹂
なの
であ
る︒
べき
﹁道
﹂
のである︒その
して捉え︑その根源としての
には如来浄華衆正覚華化生と口へり︒又同一念仏して無別の道故と云へり︒
の国土荘厳中︑
にも﹁脊属功徳﹂︑﹁大
ヘ
国土荘厳に﹁関係性﹂が荘厳されるという特性にて着目されている︒親鸞のに対す
お わ り
に
して
に﹂歩む 我々に対しヽ~としは﹁四海の内皆兄弟﹂と
} j
i
i l
﹁念
仏﹂
ヽ ょ
とし一人一人が歩む共通の
﹃浄
土論
註
j国土荘厳に関する一考察
が見出されるのである︒﹁空虚を初偉する 1四
の
凡 引用・参考文献 を﹁共に﹂見出すような関係性が荘厳されることに︑ と
三経七祖部
第一・ニ巻
蓑輪秀邦編
﹃浄土系思想論﹄鈴木大拙著
﹃コミュニティ﹄四
0
地域社会研究所編﹃ 都 市 計 画
﹂ 日 笠 端 著
﹃ 日 本 都 市 論
﹄ 上 田 篤 著 [続・街並みの美学﹄芦原義信著
﹃表徴の帝国﹄ロラン・バルト著
﹄ 大 塚 久 雄 著
第九•安田理深著
例
引用に際して︑原漢文のもの嘆字は匝則として通行の字体に改めた︒また出典は以下のように略した︒
﹃真
宗聖
教全
書﹄
i
﹃ 真
﹃定本親鸞聖人全集﹄ー←
[浄土論註﹄国土荘厳に関する一考察
を 組 み 合 わ せ て
とし
た︒
るのである︒
五
の救済論理を見出されたのではないだろうか︒ は
士という﹁場﹂に﹁念仏﹂とい
む べ き
り
゜
︵﹁
定親
全﹄
I )
p '
親鸞が信疑の決判を明確に述べる文として︑﹃教行信証﹄
ス ル ニ テ ヲ ス カ ヘ ル コ ト ハ
還 二 来 生 死 輪 轄 家 一 決 以
11疑
情芦
曰二
所止
1
速 入 二 寂 静 尤 為 楽 一 必 以 信 心 為 一 能 入
︱
と讃じられている︒これは︑親鸞の師法然が
ル次深心者︑謂深信之心︒帝戸知︑
スル
決 定 九 品 往 生 者 也
︒
は じ め
に
︱一種深信を中心として
親鸞における信と疑
﹁行
巻﹂
﹃選
択集
﹄﹁
=一
心章
﹂で
︑
ニ ハ テ ヲ シ ト
生死之家以レ疑為
1一
所止
︑
ニ ハ テ ヲ ス ト
涅槃之城以レ伯為二能入10
と述べたのを受けたものである︒法然のこの信疑決判は︑己翫経﹄所説の三心︵至誠心・深心・回向発願心︶
深心について︑善導の二種深信の説示を仰ぎながらなされたものである︒ここで法然は信疑の得失を示し︑続いて
﹁故に今二種の信心を建立し﹂と述べている︒つまり︑法然において信疑の決判は︑二種深信が何故善導によって
大谷大学
正信傷の源空章に︑
高
木
の中
︑
︵真聖全一・九六七頁
淳
︵定親全一・九了貝︶
ニ メ ノ グ
故今建二立二種信心︑
善
親鸞における信と疑
本願を信ずること︑
その
ゆへ
は︑
むねをいだしたらましかば︑ 以降機の深信の必要性が説かれてくる︒
一七
じめ
れた
という︒この見解
べる
︒
わたくしに此二つの繹を見るに て生死の家︑すなわち迷いの境界に止まるとしているが︑ここでいう﹁疑﹂とは︑
(1 )
の記述を参照してみたい︒か︒﹃和語燈録﹄所収の﹃往生大要紗﹄
︵中
略︶
﹃往
生大
要紗
﹄
で法然は︑深心について 法然におい何故
し 親鸞が﹁正信偽﹂で︑信疑決判を以て法然を讃嘆していることを鑑みると︑法然の信疑決判の説が︑て里要な意味を持っていたことが窺えよう︒本論では︑親鸞における信と疑の関係について︑法然の説示をふまえて︑特に二種深侶の教説が持つ意味を中心に考えていきたい︒
二種深信と疑惑—~法然の示唆ー| れなければならなかったのかという
のち
五往生礼讃﹄と﹁観経疏﹄﹁散善義﹂の深心釈の文を取意して引いた後︑
はじめにはわが身のほどを信じ︑
たゞしのちの信心を決定せしめんがために︑はじめの信心をばあぐる也︒
には︑仏の本願に依っ
すなわち法の深信だけでよいのではないかという問題が前提されており︑それに
る形
で︑
どのような内容を持つものなの
のちにはほとけの願を信ずる也︒ によって確かめられていくのか︒
しめるために︑機
ので
あれ
ば︑
法然は
その
もしはじめのわが身を信ずる様をあげずして︑たゞちにのちのほとけのちかひばかりを信ずべき
︵中略︶まさしく禰陀の本願の念佛を修しながらも︑なを心にもし貪欲ふ瞬圭心の ︵真聖全四・五七七\五七八頁︶ をもっ
とっ
の根拠に関わる事柄として位償付けられているといえる︒
ふにて侍る也︒
︵真
聖全
四・
五七
九頁
.傍
点筆
者︶
Jのような機の疑惑が︑何故本願への疑惑であるとされるのか︒機の疑惑は︑...............
ほとけの本願をばうたがはねども︑わが心のわろければ往生はかなはじと申あひたるが
とあるように︑念仏による往生は︑ 煩悩をもおこし︑身におのづから十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらば︑本願を疑惑しなまし︒
法然
は︑
もし機の深信が説かれずに︑法の深信だけが説かれたとしたならば︑本願への疑惑が生じるであろうとい う︒それは﹁まさしく弥陀の本願の念仏を修しながらも﹂とあるように︑表面的には弥陀の本願を信じ︑念仏を修
するという態度・事実にありながら︑生じる疑惑である︒
悪等の罪業を犯すことによって︑自身を怯弱.卑下してしまうことから生じるという︒
まことに此禰陀の本願に︑十磐・一磐にいたるまで往生すといふ事は︑
おこ
さず
︑
である︒今これを︑仮に﹁機の疑惑﹂と呼ぶことにする︒
親鸞における信と疑
やがて本願をうたが
同右
︶
みだりに自身を怯弱して︑返りて その疑惑とは︑心に貪眼等の煩悩が起こったり︑身に十
であろうという思いを抱く︒その思いが︑本願に対する疑惑なのだという︒
その本質は︑我が身に対する認識の在り方が問題とされているといえよう︒
おぼろげの人にてはあらじ︒妄念をも
つみをもつくらぬ人の︑甚深のさとりをおこし︑強盛の心をもちて申したる念佛にてぞあるらん︒
いわば聖者にのみ可能であり︑煩悩を起こし罪を造る我が身にとっては不可能
つまり本願に対する疑惑といっても︑
では︑このような我が身に対する認識の在り方の︑何が問題となるのであろうか︒考えるに︑煩悩を起こしたり 罪業を造るから往生できないと思う心の裏側には︑煩悩を断じて罪業を造らないようになれば往生できる︑という 思いが隠されているのではないだろうか︒すなわち︑自身を息慮凝心・廃悪修善の定散の機として認識しているの
つまり
︵真
聖全
四・
五七
八頁
八
ろう︒これま
に認めようとしている︒これに対して機の深信は︑
者になる可能性を完全に否定し︑﹁職劫より己来常に没し常に流転﹂する面罪罪悪生死の凡夫﹂でしかありえないこ とを︑﹁現にこれ﹂と︑徹底して説き示すのである︒法然は機の深信を︑先に引いた﹃往生大要紗﹄では︑﹁はじめ にはわが身のほどを信じ﹂と押さえる︒それは正しく機の疑惑に対して︑機の信知といえるものである︒
親鸞における信と疑 れ
る︒
きたように︑
の衆
生は
︑ その可能性を
一九
るものといえよう︒つまり︑自身が聖
自ら
して
︑
とこであ / 死
凡夫
︑
゜
機の深信は﹁散善義﹂で かれたということである︒ と述べる︒法然は︑ たるまるむね
ヘ
(真叩全四•五七八\五七九頁)
かへりみて︑この
われらがさとりにて︑
して積極的
のものを疑うわけではない︒
ほとけの本願はからひしる事は︑ゆめー︐\おもひよるまじき事也︒
と誡められているように︑衆生の価値観によって本願を計らい知ろうとすることが︑結果として本願を疑うことに このように法然は︑念仏行者における疑惑の問題を提示し
るとしぅ°
︑末来の衆生のこの
一種の深侶を説いたのは︑衆生がこの疑惑を起こすであろうことを顧慮してのことであ つまり︑衆生の我が身に対する認識の在り方に問題があるからこそ︑法の深信だけでなく機の深信も説
なると指摘されているのである︒ といわれるように︑
ひをおこさ
で ︑
一種
の
て ︑
‑.
五三
四頁
︶ し} と (真聖全四•五八0貞)
︵真聖全一・五三四頁︶...
と︑乗彼願力による往生を信ずることを内容として説かれるが︑法然はここで︑﹁つぎには決定往生すべき身なり
と信じて﹂と述べる︒
信だけでなく機の深信が説かれたことの意義が︑最も具体的に見出せるのではないだろうか︒
いう我が身の信知があればこそ︑法の深信を﹁決定往生すべき身﹂の自覚として頷くことができるのである︒我が
身の信知なしに︑
とする信心︑ つまり法の深信が︑決定往生の身の信知として語られているのである︒ここにこそ︑法の深
ただいたずらに本願念仏による往生を求めても︑
それは本願を︑
いわば対象として計らい知ることではなく︑正しく﹁乗彼願力﹂の事実として︑身を
もって信知することである︒ここに︑﹃往生礼讃﹄で︑
二者深心︑即是偵官信心︒信下知自身是具.一足煩悩一凡夫︑善根薄少流一轄三界一︑不払山一火宅一︒今信丙知禰陀 法の深信は﹁散善義﹂では︑
メ ク ズ ノ
決定深信下彼阿張陀佛四十八願︑
メ ヲ
撮二受衆生︑ かれた意義がある︒
..
.
はじめにわが身は煩悩罪悪の凡夫也︑火宅をいでず︑出離の縁なしと信ぜよといひ︑
(真聖全四•五七八頁.傍点筆者)...
ここに︑﹁はじめにわが身は煩悩罪悪の凡夫也︑火宅をいでず︑出離の縁なしと信ぜよといひ﹂と述べられている
ことに注目すべきであろう︒ここで法然は︑機の深信の文を﹁信ぜよ﹂という呼びかけとして聞いている︒
疑惑の衆生に︑機の信知への目覚めを促す言葉として︑機の深信を受け止めているのである︒
その目覚めは︑単に機の信知に終わるものではない︒﹁のちの信心︵法の深信︶を決定せしめんがために︑
めの信心︵機の深信︶
をばあぐる也﹂と述べられていたように︑法の深信を決定せしめるところに︑機の深信が説
つまり︑機の信知に目覚めることによって︑法の深信が決定するのである︒
身なりと信じて一念もうたがふべからず 一
方︑
﹃往
生大
要紗
﹄
では次のようにも述べられている︒ 親鸞における信と疑
ク ク
無>
疑無
>慮
︑ それは信心とはいえない︒我が身の信知を内容
メ ノ ニ
乗二彼願力
ン デ ト ヲ
定得
中往
生上
︒
はじ
つまり︑機の深信と つまり つぎには決定往生すべき 二0
親鸞における信と疑 に閉ざされることを意味するものではない︒
要紗
﹄に
︑
機の深信は︑衆生が自らの力を根拠としては生死を出離することができない凡夫であることを︑徹底して説き示
す︒それは衆生の信としては︑﹁無有出離之縁﹂の自身の信知として自覚される︒ の考察をふまえて見ていぎたい︒
いた
れる
︒
では
︑
し
れ
しかしそれは︑出離の道が完全
の内容とはいかなるものなのか︒
て
以下しめられていわすものとしては︑
﹁如
来
{4 )
の回向成就﹂である
し)
その
大伯釈 二 ︑
願心の回向成就としての二種深信 と説かれるように︑﹁信知﹂を内容とする二種の深信が︑﹁貞実の信心﹂として仰がれるものと思われる︒
以上
︑
五往生大要紗﹄によって︑^一種深信が説かれた意義と疑惑の関係について︑法然の領解を見てきた︒法然
は︑念仏行者が抱える問類として︑本願への疑惑を指摘した︒その疑惑の本質は︑自身を定散の機と認識し︑その
重要な示唆を与えたと考えるのである︒ 深心に関しされたのも︑これくするものう︒そしのこの説示が︑
こも
︐
ら ノ
か
ためであるという︒ い知ろうとすることであったといえる︒そして
れた
のは
︑
︵真
聖全
•六四九貞)
ているのか︒
親鸞における信と疑
﹁無
有﹂
二
ヵ ︱
等者
︑
ノ ヲ ク ス ゼ ヲ
正明
下不
レ論
ー一
有善
・無
善不
'レ
瑕
11自功\ ︱‑
7 ヲ ニ
出離偏在中他力上︵中略︶
︵定
親全
一・
一︱
︱口
貝︶
ノ1
ヲ ニ ス
テ今教依レ知
‑1自力無>功偏蹄
1一 佛
と釈されるように︑出離生死において自力が無功である︑と知ることによって︑他力による出離の道が開顕され︑
(5 )
﹁本願に帰す﹂と表白されるような自身の信知が獲得される︒それは︑法の深信として説かれる﹁乗彼願力﹂が︑
正しく身の事実として頷かれたことを意味する︒このことを親鸞は︑如来の願心の回向成就として頷いたのである︒
換言すれば︑二種深信とは︑願心の回向成就として衆生に信知されるものであり︑﹁無有出離之縁﹂﹁自力無功﹂と
いうことも︑決して衆生の人間的な反省や洞察によって知られるものではない︒あくまでも︑如来の願心の力用と
して︑衆生にもたらされる信知である︒
である︒これは︑ では︑このような信知をもたらす願心の力働性は︑どのように確かめられ
親鸞は﹃教行信証﹄﹁信巻﹂︱︱︱︱問答で︑﹃大経﹄第十八願に説かれる至心・伯楽・欲生の三心を推求することを
通して︑衆生に一心として成就される真実信の根源を尋ね求めていく︒まず字訓釈では︑三心を信楽におさめ︑真
実信の根源として見定めた︒続く仏意釈では︑その信楽を釈する中で︑
シ テ ク ス レ ト モ ハ ラ フ カ ヲ テ ク ニ ク ケ カ シ ヲ
一切凡小一切時中貪愛之心常能汚
11善心一眼憎之心常能燒二法財一急作急修如
11t灸
1一頭然一衆名二雑毒雑修之
テ ン ク ヰ 卜
善一
亦名
1一
虚瑕
詔偽
之行
不︱
︱︱
名
1
‑
]瞑官業一也︑以二此虚仮雑毒之善欲江王尤量光明土此此必不可也
と︑衆生が修する行は︑貪愛・眼憎の煩悩に汚染されているが故︑﹁虚仮雑毒の善﹂であり︑往生の正囚とはなり
得ないことを明示する︒煩悩具足の凡夫が︑﹁わがみをたのみ︑わがこA
ろをたのむ︑わがちからをはげみ︑わが
(6 )
さま/\の善根をたのむ﹂といわれるように自力をはげむことによって往生を求めても︑往生は不可能だというの
正しく機の深伯の﹁無有出離之縁﹂の自覚を表すものといえるだろう︒ ︵真聖全ニ・ニ八一頁︶
親鸞における信と疑 で
ある
︒
つま
の大
悲心
が︑
といわれるように︑信楽が衆生に回施され
に一種深信の信知を﹁必ず﹂成就しようと現働する心として仰がれて して頷かれるのである︒その内実は︑言うま 心が仰がれている︒その大悲心の
︐了ンテ
如来悲憐苫悩群生海以ーー尤げ廣大浮信
二種深信
ヘ
"
ニ
諸有海 られているのである︒しかも﹁必ず﹂といわれているように︑それを必ず成就しようとする心とし の信知にほかならない︒法の信知が︑如来の大悲心たの正因として成就し
同右
︶
如来の大悲 して確かめ 信楽が無条件に往生のような事実としに自覚されるのか︒それは彼の願力に乗じて︑で往生を得と
の
れることによって︑の正因と成ることを意味するもの
れる
︒
では
︑
往生の
よ ︑'~
レ
︶
どの ということではなく︑衆生に﹁無有出離之緑
機
と︑倍楽が如来の大悲心であるから︑ さらに信楽について︑
ナ ル カ
‑ ー ス ル
斯 心 者 即 如 来 大 悲 心 故 必 成 報 土 正 定 之 因
. .
必ず往生の
として成就さ
.
:といわれる︒ここでと表現されているのは︵同
右︶
る ︒
如来の清浄願心の力用によっ
れ することの根拠が如来因位の修行
にあるというのである︒ ︒
<
ヽ ぶし⇒ノ ー
ì99何以故正 で
は︑
どうして衆生に一無有出離之縁﹂が自覚されるの
その根拠は︑如来の因位の修行が疑蓋無雑であることに求められている︒
によって知られるものではないことが確かめられる︒それはあくま
る信知なの タマ﹁9如来行
1‑
時キ
一念
つまり︑衆生が﹁無有出離之縁﹂を自覚
ここに︑﹁無有出離之縁﹂が人問的な洞察等 続いて﹁何を以ての故に﹂と︑
l i
ー
( l r i i ̀
その根拠がホされて
おり︑換言すれば︑二種深信の信知において︑
その如来の願心の力働性を示すものとして注目したいのが︑信楽釈に引かれる﹃華厳経﹄の文である︒
ク シ ム ト ナ リ ノ ヲ テ
如 来 能 水 斯 一 切 衆 生 疑 随 其 心 所 衆 普 皆 貪 渦 足
︵ 定 親 全 一
・
︱ 二 四 頁
︶
まず︑如来が一切衆生の疑いを断つと説かれる︒ここで言われる﹁疑﹂は何を意味するのか︒そもそも親鸞におい
て﹁疑﹂は様々な用例が見られ︑その意味も︑無明・自力心・罪福信等に解するとして︑古来詳細な分類がなされ
(8 )
てきた︒しかし基本的な意味としては︑如来の本願に対する疑惑であり︑衆生と如来の間に生ずる疑惑である︒こ
こでもそのように解すべきと考える︒
ここで言われる﹁疑﹂とは︑ その根源たる如来の願心の力働性が確かめられているといえよう︒
その上で︑今信楽釈の中でこの文が何を表そうとしているのかを考える時︑
まず第一義的には﹁虚仮雑毒の善を以て無量光明土に生まれんと欲する﹂ような衆生
の在り方が︑如来の本願に対して疑惑存在となっていることを意味するものといえよう︒このような衆生と如来の
関係における疑惑を断つということは︑如来の願心が衆生に﹁無有出離之縁﹂
あり
︑
それが衆生においては疑惑からの目覚めとなるのである︒ の信知として回向成就されることで
ここで問題としたいのが︑如来が衆生の疑いを﹁能<永く﹂﹁断つ﹂と説かれていることである︒如来が衆生の
疑いを断つことによって︑二種深信の信知を内容とする真実侶心が衆生に獲得されるわけだが︑
おいて︑疑いは完全に断じ尽くされるのであろうか︒思うに︑﹁無有出離之縁﹂の信知とは︑あくまでも出離にお
いて自力が無功であることの信知であって︑自力の心そのものが無くなることではない︒それまで無意識に肯定さ
れてきた自力の心が︑初めて無功なるものとして課題化されたことを意味する︒それは︑課題化されたことによっ 三︑仏智疑惑と果遂の誓い
親鸞における信と疑
では信心の獲得に ニ四
このよう
親鸞における信と疑 と説かれる︒親鸞は経往生文類﹄に︑ 如来の大悲心の現働にほかならないのである︒ の疑いを断たし てくると︑如来が衆生いを断つということは そ︑このよう となっていたこと て無くなるのではなく︑
人のしうしん
こよ
~…,.,
9~
…
二五
の回想の中の︑
むしろ以後継続して課題となり続けるものなのではないだろうか︒このことは︑例えば
﹃恵心尼消息﹄に記される︑親鸞五十八歳の時に病床で語られ
あるべしとおも︵思︶ひなして
らも窺えよう︒ここには親鸞自身が︑本願に帰しながらも消え去ることのない﹁執心自力の
れている︒これは︑自身がいつの間にか自力をたのもうとする︑本願への疑惑存在
かされたことを告白するものといえるのではないだろうか︒この省察は︑自力が功有りと
いう立場からは︑なされるはずのないものである︒自力が無功であるという﹁無有出離之縁﹂の信知があるからこ
れるのである︒極言すれば︑﹁無有出離之縁﹂の信知たる真実伯自身が︑
として︑親鸞の執拗な自力心を照らし出し︑
と説かれる﹃華厳経﹄ その無功なることを改めて信知させたのである︒
によって完了するのではなく︑むしろ獲信
••••
を契機として︑継続的に断ち続けようとしていくものであるといえよう︒であるならば︑﹁如来能<永く一切衆生
に︑このような頁実信の能動性が︑如来を主体とする願心の能動
して確かめられているといえるのではないだろうか︒それは︑衆生に一一種深信の信知を徹底させようという︑
そして親鸞の思索の展開として︑獲信以降の歩みにおいて浮き彫りにされてくる疑惑の問題が︑﹃大経﹄
に説かれる仏智疑惑の経説
ジ ゼ
テ於此諸智\疑惑不レ信︑ れていったと考えられる︒仏智疑惑は
モ メ ヲ ゼ ン
. ク ン ト
然 猶 信 罪 福
\
︑ 願 レ 生 二
思い知ったという体験が ︑Aとし ︵執心︶じりき
のし
んは
︑
よくノ\しりよ
二
その持つ能動性
(真聖全一•四三頁) を
︵定
親全
.ニ
・書
簡篇
一九
六頁
︶
仏智疑惑の衆生は胎宮に生ずると説かれる︒続いて︑﹁其の本の罪を識りて︑深く自ら悔責して彼の処を離れんと
求めよ﹂という経説が引かれ︑植諸徳本の願成就の内容として見定められている︒親鸞は﹃大経﹄
そのつみふかくおもくして︑ 生識
11其本罪︑深自悔責求二離"彼慮︒︵以下略︶﹂ ここに︑﹁植諸徳本﹂の心で名号を称する衆生の往生を︑必ず果たし遂げんとする如来の大悲心が誓われているが︑
その﹁願成就文﹂として︑﹃大経﹄の胎生・疑惑の経説が引かれる︒今︑その全てに言及することはできないが︑
願成就文︒﹁経﹄言︒﹁︵中略︶佛告二禰勒\此諸衆生亦復如戸疋臼で疑
11惑佛智一故︑生一彼胎宮
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の経説によって︑ 0
七賓の牢獄にいましめられていのち五百歳のあひだ自在なることあたはず︑三賓 定親全ー―-•和文篇一二五ー三六貞) 次のように説かれる︒ 正覺 定散自力の行人は︑不可思議の佛智を疑惑して信受せず︑如来の尊琥をおのれが善根として︑廻向して果遂のちかひをたのむ︑不可思議の名琥を梢念しながら︑不可梢不可説不可思議の大悲の誓願をうた
と述べているが︑善因善果・悪因悪果の道理を信ずる罪福信の立場から︑名号を善と執して往生を願うことが仏智
疑惑であるとされる︒善と執している以上︑行者の意識としては疑惑の感情はない︒
豆 若 此 衆
みづから浄土に
いわば無意識・無自覚の疑惑
であり︑人間の自己反省等によって認識されるものではない︒﹁定散自力の行人﹂ともいわれているが︑執拗なる
﹁執心自力の心﹂によって︑疑惑存在に陥ってしまっているのである︒
このような衆生の疑惑を断とうとする如来の大悲心が︑﹁大経﹄第二十願に説かれる果遂の誓いに見出されてい
設我得11
佛
\ 十 方 衆 生
︑ 聞
11我名琥\係二念我國一︑植11諸徳本一至ミ心廻向欲三生
1一
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1︑
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一果
遂一
者︑
不一
1一 取
11
︵定
親全
三・
和文
篇︱
︱︱
五頁
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ったのである︒第二十願は︑﹁浄土三経往生文類﹄広本︶では﹁植諸徳本の願文﹂として引かれる︒ がふ 親鸞における信と疑
︵広本定親全三・和文篇三四頁︶
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