九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
私の鹿児島大学教育学部
濱田, 啓介
http://hdl.handle.net/2324/4742049
出版情報:雅俗. 15, pp.105-107, 2016-07-30. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
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リレーエッセイ◉私の研究履歴
私の鹿児島大学教育学部 濱田 啓介
私は昭和三十二年十月鹿児島大学教育学部に赴任し、四十年九月に離任するまでの八年間を、鹿大の講師・助教授として鹿児島市内に在住した。三十三年春、神戸に実家のある文恵と結婚して家庭を持ち、長女・長男に恵まれた。当時鹿大教育学部は伊敷のキャンパスに在った。それはもと日本陸軍の兵営であって、敗戦後その地が、鹿大教育学部・国立病院・看護学校等の用地とされたものである。学部の一隅に、高く架上に渡したコンクリートの渡りが有って、兵士の訓練に用いた痕跡を留めていた。私は妻とキャンパス続きの教育学部官舎に入居した。木造一棟二住居(二室と台所)で、壁ではなくて板隣りは、当初は漢文の裏先生、その後教育学の竹岡先生に替った。栴檀の老樹が屋根を覆って立ち、紫の花を咲かせ、落花した。三年の後、学部は鴨池 (郡元)に移転したが官舎はもとのままであった。伊敷の研究室は木造二階の一室、国語学の木之下先生、漢文学の裏先生、近代文学の蓑手先生に私の四人一室だが、他の先生方は授業の前後に寄られるだけであったから、ほとんど私一人が多くの時間ここに居て、読書をし、授業の用意をした。夕方五時を過ぎると戸締りのおばさん日平の大平さんが来て、「先生オケラハンカチ」と言った。何の事かと聞いたら、「もうお帰りなさらんか」と言うことだった。大学の授業は一年を前期後期に分け、私は国文学概論、国語科教育法概説、国語科教材研究の一部、中世文学講読、近世文学講読などであった。国文学概論には多少の用意が有った。在学中、小島憲之先生へ呈出のレポートに用意した一と山が有った。京大の地理学の書庫の旅 ●生年月日 一九三〇年八月十一日●卒論題目 「馬琴に於ける書肆、作者、読者の問題」(主論文)/「八犬伝構想論」(副論文)●デビュー論文 「馬琴に於ける書肆、作者、読者の問題」(「国語国文」一九五三・四)●思い出の研究書(論文) 木村架空著『蕪村夢物語』。灘中の生物の川崎先生が読みなさいと貸して下さった。先生は俳句をやっておられた。小生、生意気にも、子規あたりの受け売りで蕪村句の絵画性などを論じていたらしい。この書によって蕪村理解の浅薄さが思い知らされ、夢醒め、句ごとに伝統的教養にもとづく発想・表現・知巧の有ることを教えられた。●研究以外の趣味 昔は山歩き。今は街歩き。 ◎プロフィール
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行記を通覧して(英語仏語の範囲)、原住民らの芸能記事を見つけ次第写し取っていた。小島先生がデータをすっかり頂きたいと仰言ったので写し直してさし上げた事がある。それを用い込んで文学発生論的な講義をした。私の鹿大最後の年の講義でも、日本武尊を論じていた記憶が有るから、ずっと民俗学的な文学発生論、上代文学にこだわっていたのであろう。昭和三十七年から「柳田国男全集」の刊行が始まった。鹿大の文理学部にフレーザーの金枝篇の原文が有ったので、民俗学には必要な事と思い、それを通読した。柳田さんもそうされた事というので、及ばずながら追ってみた。教育学部が郡元に移っていて隣接の文理学部に往来することが自由だった。全集刊行という事で思い出す。「日本古典文学大系」の刊行が私の鹿大赴任の年からスタートした。そして、昭和三十四年から「群書類従」の再刊が始まり、月々市内の書店から届けられた。当時はそういう時代であったのだ。何よりも容易でないのは、国語科教育法概説であった。国語科教職のための必修授業であり、全国の教育系学部においてなされてい たところである。文部省の国語科指導要領を教科書として授業するのだとも聞いた。私は指導要領の、実務的な多項目列記というのが気質に合わなかった。私は国語教育が何故人間にとって必須不可欠であるのかを考える外はなかった。私はコトバと人間生存の本質との関係を知らなければならなかった。それは研究ではなくて、未熟な私の学習であった。幸にして教育学部の書庫には発達心理学系の図書が収められていた。私はそれらを借覧した。そうして、私なりに、人間の生存と伝達行為とコトバとの関係、生得の言語(母国語)と後学の言語(外国語)とにおける獲得法の差異を知った。そして、人間に生存行為の起点となる未分化の核と、分化された観念的客観的な領域が有る事、ある人の核からの発信が種属間で共有するところの観念に変えられて伝達され、それが受信者の生存の核心に到達する図式を私が納得する形に構成した。それに人類が理解し合って生存を完うするという言語伝達の理想を導入して、言語伝達の私と公という認識を持ち、国語科教育法概説の枠組とした。それを以て当地当時の国語教壇の風潮、「ネサヨ追放」「方言追放」などに対 する批判の理論的論拠とすることができた。この学習・思考の結果として得たところは私にとって大きかった。それは私にとり、その後国語教育論を放れて、研究対象とする国文学の、営為・評価を考える時の基本的視点となった。明日は国語科教育法概説の授業が有るという日は大変だった。私は歩きながら思考した。授業の前夜は、夜半を過ぎて、伊敷の国有地の中を歩き回って論を立てノートを作った。見上げるとそこには看護学校寄宿舎の窓が有る。怪しみ咎められる事が有ったのも当然である。私は国語教育の領域で研究業績を出さなければならない立場に在った。私は全国の高等学校へ手紙を出し、その学校の文芸部の雑誌を送ってもらった。その年に収集した高校文芸部誌のコレクションは、今も鹿大教育学部国語教育科の書棚の一隅に遺っているのではなかろうか。その結果として、「高校生の文学生活研究序章」(
60・ 高校生の文学生活研究」( 9)「文芸部の危機
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60・ のが、私の近世文学史研究の視点につながる とができた。文学生活という視点に集約する 「実践国語教育」(穂波出版社)に掲出するこ 11)の二編を
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方法であった。さて放置しておれないのは、近世文学の論攷制作である。「馬琴の所謂稗史七法則について」(国語国文
59・ 水春暁齋伝攷」(同 8)「画本読本の作者速 61・ 向」(近世文藝 1)「幕末読本の一傾 61・ 問題」( て提出した「曲亭馬琴に於ける意識と思想の いて来ていた。「国語と国文学」から求められ などして論文に仕上げた。だが蓄財は底をつ をとり了えてあったもの。休暇時に補充する 5)は神戸在住時にデータ
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が立項された。稗史、稗説、演史、怪異、小昭和四十年五月、鹿児島大学にて日本近世 た。ともかくノートが五冊用意され、諸条項る事もあった。 し、それぞれの文献用例を書留る作業を始め県立短大教授)の御宅に近く、御うかがいす 思った。私は馬琴の小説論関連の用辞を立項西鶴町人物研究の先覚松浦一六先生(鹿児島 私はすぐにでも始めなければならないと家屋を購入して、妻子両親とそれに移った。 私は大切に心の中に留めた。磯への隧道の入口近くに、主屋に副屋付きの 御話の中であげられた「間情偶寄」の一書を、住んだ伊敷の官舎を出て、鹿児島市稲荷町、 お教えを頂いて、心の荷を軽くして帰った。宅を処分し、鹿児島に両親を引取った。六年 ねして悩みを打明けた。例によっていろいろ過す心構えをしていた。父に勧めて神戸の居 は思い切って九州大学に中村幸彦先生をお訪私は当地へ赴任の時より、鹿児島に生涯を た。そのような体験は生涯初めてである。私私の近世文学研究の履歴に大変有効であった。 知っている。私は研究の今後への不安を持っ仕事を鹿児島在住の後半で進行させた事は、 ところ穴だらけなのである。自分はそれをなのか分からなくなっている。ともかくこの 4)には後めたさが遺った。実のなったが、今見てどこまでが鹿児島での作業 ノートは条項が増し文献が増し二十数冊に る。着手の日にその事をしたらしい。この 説史などの引用が同一筆で書き続けられてい 志、四庫全書総目提要、国字小説通、支那小 全く手当たり次第に、月氷奇縁序、漢書芸文 と、第一冊第一頁の「稗史・稗官」の項に、 いうイメージが湧かなかった。今開いて見る 時の私には、カード整理の抽斗を用意すると はカードでなされるべきであろう。しかし当十年記念の「近世文藝」 道、通俗……等とある。本来このような仕事文学会が開催された。その時の事は、学会三
にして京都へ向った。 講義、研究、思索の森を荷って、鹿児島を後 の九月、この八年間に繁らせた、知友、学生、 だが、母校だけは別の話である。私はその年 それまでの幾つかの人事をお断りしてきたの れた。私は鹿児島に骨を埋める思いを持ち、 記した。その折に私の母校への人事が伝えら 35号に回想記として