九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
法華念佛兩宗の展開と唯一宗源神
長沼, 賢海
https://doi.org/10.15017/2344418
出版情報:史淵. 9, pp.65-106, 1934-05-31. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
既成宗派の亜雌下にあって口蓮宗が新根擁地を洛巾に定め︑一歩一歩宗勢を發展せしめた脈川の一
として述べたいことは京都韮川の諸師の川には︑公卿の肌身群漸く多かったことである︒南都北繊を
初め︑諾大寺が皇族叉は椛門勢家に川でたる蛍族价侶に依て共の川仙Ⅲ的︑泄川的勢力を一脈弧化し
たるが如く︑之れに依て蓮門の諸師が︐肺禽的の地位を向上し︑公武の枇交界に於ける一存在を形成
し︑それが一流の宗義信仰を︑文化保持考であり︑指導群であった.公武の川へ注入するに大に役立っ
たことはいふまでもない︒切支丹の作天辿は布教上の大切なる法莱として︑まづ一剛の叫王を諭破す
ることに努力した︒彼此祁通ずるものがある︒
辻椰士は既に﹁足利時代に於ける側蓮宗の常廷への接近﹂の研究に於て予のとLに云はんとする史
從の大半を述べられた︒則ち妙木寺川明が三條家の川であり立木寺川髄は裏辻家の川︑妙蓮寺日雌
法華念佛剛宗の展開ご唯一宗源祁六五 法華念佛雨宗の展開ご唯一宗源榊
︵一︶妙顯寺大覺の素性
I
長沼賢海
リ
二 餌 1 j f l I
︐ I
法華念佛胴宗の腰肌さ唯一宗源抑六六
は雌川亜布の子であること︑又川明のⅢ弟中には久我前方大脇の子がゐたこと︑九條前附白政忠の子
が立本寺仕持となったこと︑朧刺政半の子か妙本寺に入誰せること︑木剛寺H了が花山院前左府政遮
の猫子であること等︑多くの史料に依て老諭せられてゐる︒血統によるⅡ述宗の克上蓮勅と︑多くの
宗帥が裕総に依る公武への接近とは吸要なる附係を布することは︑右研究に依て十分であり︑今蛇足
の感なきにあらざるも︑と上に近術家と妙瓢寺及び本洲寺との血統關係につきて一考を添へたい︒
妙瓢寺と近術家との血統關係如何といふととは︑妙顯寺を刺雌した︑像の後胴大兇が近術經忠︵恥
河殴と純す︶の子であるといふ税︵本化別佛肌統紀︶の庇否如何といふことである︒n像が妙瓢寺
を創立した年代は不明であるが︑妙瓢寺か初めて締旨老賜はったのが雄武元年川月凹︑︑球で院宜を賜
った︒かつ叉柑時︑鵬足利氏の御識悲を典へられてゐるから︑其の以前の事であらう︐併し錐琳がや
うやく充庇するのは共の以後にあったらう︒而して妙瓢寺文諜に日像から大兇に與へた群状中には大
兜より妙瓢寺の川途を寄附せしことを謝するものがある︒典の内には御唯供米︑熾汕料などの名目が
あり︑又迭掛料助成川途三批文などあるものが見られる︒之れは妙瓢寺唯塔の造僻料にあらざるなき
か︒淵昨大兇は川舍にありしこともⅡ像の書状に依り明白である︒そして田舎にゐて一寺に住持して
ゐたのではあるまいか︒右造掛料助成川途の繩状の中に﹁又︑何も︑彼焼失事返凌総入候︑兼も風に
○COCO○○00○○O○○は体承候しかども︑御唯までの事は不旭寄候虚︑猫港淺坤候ノ︑︑門徒人港をもよく可被訪仰候也﹂
とある︒焼失したといふ御堂といふのは︑或は大晃の化寺してゐた寺のお雌であったかも知れない︒ Ir
︑
−
然らば彼れが妙瓢寺の伽礁大成に張力せることは葬術でなかったことが分かる︒
大蝿が右様の従刀をもつてゐたこと塁︑彼れが近術家の川であったといふことを穴勝ち否定せざら
しめるものがある︒加ふるに妙瓢寺の敷地が大路の父と仲へられる近術經忠の寄進といふことが賊る
性かなやうである︒妙淑寺文沖に
目斐
妙瓢寺雑堆服立巾三條州洲欺地邪
右傲所考故堀河入逆内大臣家御寄附之川︑多年価掌無祁述︑而彼御子孫中塒家雑鍛︑蕪冬雌迷飢之
間︑爲明糺奉行就訴巾︑雌被對下訴状︑不及陣容︑︵中略︶致瀧吹之條無訓次第也︑凡佛陀雌入之
地︑不被悔愛之俄︑公法分明也︑其上擬被破父川之行砺︑教令述犯之答︑厘逝粁乎︑彼奇附欣等案
文進随之︐早被叱糀峨妨︑欲被成下安垳勅裁而巳
唯安元年五川Ⅱ
と上に中將家とあるは︑維忠の子維家のことか︑維家の名川年公卿袖任にあらはれず︑前附内近術辿
胴の子披川此の年川川十九H右近術巾將に任ぜられてゐる︵公卿袖任︶から︑迩伽を云へるか︒券ふ
るに維忠建武旧年Ⅲ川吉野に川非して以来︑子孫純家を以て絶え︵錬卑分脈︶經忠の叔父維半の子孫
近術家として榮えるやうになり︑經忠の寄附を拒否しようとしたものであらう︒而して維忠が土地を符
附したのは︑︑像の門弟として己が子が入紫してゐたが鯛めではなからうか︒大路が隙り部から述か
法華念佛雨宗の展棚さ唯一宗源祁六七
4
1
’
’
法華念仙雨宗の展鮒さ唯一宗源祁六八
らざる川舍にありしは︑戎は經忠の吉野塞向に州聯して︑特に京都を去ってゐたのではあるまいか︒
更らに老ふるに︑川像は价仰に任ぜられることもなかったやうであるが︑大蝿は早くから僻都に作ぜ
られてゐたことは︑円恢の彼れに宛てた押壯には必ず榊都とあり︑特に澱を陣りしてゐる︒﹁識上大
晃价都御腸﹂﹁識上二位椛少价都御腸﹂﹁祁上价都御腸﹂等あり︑極めて稀れに﹁僻都御脇﹂とのみ
あるものが見られる︒︵妙瓢寺文押︶そして後︑彼が妙瓢寺仕持となり︑ついで大价都となり︑︵延
文二︑正︑冊二附足利氏御鐡神に妙瓢寺大价郡御腸と宛つ︶後仲正に任ぜられた︒︵延丈二︑︑三$什五
足利氏抑教書に妙瓢寺榊派御脇と宛つ︶而して円像も︑大憂の後川朗源も僻愉を有しなかったやうで
ある︒︵血治五︑二︑晦︑韮訟の御教将に妙瓢寺川源上人抑屍と宛つc佛肌統記に貞治川年椛少都とな
りとあるも︑恐らく誤りならん︒或は此の以後任術するととあるか︶かくの如く犬晃が︑妙瓢寺の前
後に類例なき械浦に任ぜられてゐるのは︑妙瓢寺の寺格に起因するものでないことは明かであらう︒
建武三年八月二十五︑足利氏の御識評には塒に法花寺椛少併都御腸と宛て上届る︒これ彼れがまだ妙
顯寺の衆徒であった時の事であり︑Ⅱ像の仕持時代であった︒然らば北朝及び足利氏の妙瓢寺に對す
る蹄依は︑其の唖から日懐に對するものにあらずして寧ろ大兇にあったものAやうにも思はれる︒雌
永二十年大晃より三代目の妙顯寺仕持川明具蝿が任僻正の事から山徒の反對通勤の起った事を︑大乗
院寺耽雑事記文明三年正川二十三日の條に或記に云とて﹁唯永廿年五H八日︑法花宗妙法︵木の課か︶
寺之坊主大价都典兇係椛僻正︑Ⅲ師大兇上人任僻正例云煮六H冊五日山訴︑可被召返穴下︑則彼法
!
花錐破却畢︑w下被刊返之云だ﹂とある︒と上に大兇を川師と云ったのは妙本寺肌師の意であらう︒
同寺に於ける其地位を察すべきである︒叉大蝿の外にはM寺に任僻正の先例なく︑〃明は三條家の川
であったが︑尚ぼ怖正の蚕格がないといふのが︑川徒の表面の反對理川の一つであったらうと魁ふ︒
以上諦種の蕊怖を老ふるに︑大兇が近術忠經の子なりと仰ふる宗内の説が遮かに否定し雌きものある
ことをこ上に韮砿したい︒木法寺日税は仰熾抄に於て大蝿期源の日字の橘乘りを稲せざりしことを指
摘し︑﹁故コソ有ラメ共﹂と断りながら︑碓例に背くことを我めてゐる○大昂は近術家を川で大兇と
稲し︑其の後日像に蹄依したが︑大兇として既に任宙の地位にあったから︑抑ぴ︑字名に改めること
をしなかったものであらう︒
京都の本滿寺の州山日秀は近術迩胴の子︑ほは瀬尾氏と体へられる︒︵木化別砿佛祁統記︶傘卑分脈
には逝伽の子雅剛の外に慈辨︵天台唯主︶良昭︵一乘院Ⅲ跡︑典川寺川常︶あれど︑︑秀に比定すべ
き群がない︒或は其の似湘尼氏災から歩して︑Ⅱ秀は系州に洲れたのであらうか︒後法典院︵逝伽の
子兼伽の称孫關白太政大伍政家︶Ⅱ記に近術家と木浦寺との關係を察すべき史料が随所に發見される︒
以下佛聯に就いて刑粁が五ひに征來せしあとを祥かにしたい︒何脚記は蒐正七年に始ってゐるから︑
謎徳二年五月八Ⅲに疾を示して化したH秀の在仙中にかkってゐないから︑政家と木洲寺との開係は
法華念佛剛宗の歴開さ唯一宗源測六九 ︵二︶本満寺開山日秀の家系
I
I
=
三lljB■■IⅡⅡ
〆
文明十川年七川六Ⅱ政家の女腸が他界した︒臨経正念であったから歎の中の再び之れにしか歩とⅡ
記にあり︑杵辿にいふ臨維正念の意味で︐念佛従生であったと察せられる︒而して葬式は本沌寺に於
て行はれた様子はないが︑中陰以下の事を本減寺に巾付くとある︒叉同年八側七日政家は杜の十三川
忌法称を本洲寺に於て行ひ︑父の祁閤脇伽を始め一家之れに参加してゐる︒越えて文明十六年七川六
︑等心院︵政家の女腸の溢號︶の三阿忌法愈を本滿寺に於て畢行してゐる︒文明十八年二月十五Ⅱ杵
礎寺股三十三M践法内を例に依て木洲寺に於て法命を行ふ︒政家の女等は何寺の塔砿と川はれる識林
坊を術坊として逗冊した︒文明十八年三月十九Ⅱ木洲寺に於て先師Ⅱ蹄上人三十三回忌あり︑政家術
してお純の噸蛎︑雑で琳顕殺林坊に於て盃附︑住持に柵して師宅してゐる︒日焔の三十三M忌日より
遡って老ふるに其の十三Ⅷ法称は文脈元年三N十九日に徴り︑Ⅱ記同川の條に︑後杵擬寺殿十三M賎
の事を錐し︑此のⅡ即ち側焔の恐日から六卿二十九日まで即ち後杵贋寺殴の忌日迄︑父房伽が噺澗粘
進する杼を記し︑而して六月二十九日は法命を識めるとと前記の如くである︒然らば後杵礎がと本州 がある0
法堆念佛雨宗の展州さ唯一宗源帥七○
直接H秀に開するものでない︒ⅢⅡ記文正元年六〃二十九Ⅲ︑後杵贋寺股︵兼刷の子良伽︑政家の肌
父︶の十三M践法街が本洲寺に於て行はれてゐることあり︑此の吋外で政家は肌父の法禽を行ってゐ
る様子がなく︑股︵殿下の意︑父腸伽を指すならん︶睡和院︵政家の弟︑准三后墹迩︶等︑一家をあ
げて本滿寺に到り法事に参加してゐる鮎から老ふれば︑少くとも本洲寺は良伽の菩提寺たるが如き棚
−
−
一年の机速あり︒他に記事なく︑出家して日蓮宗に脈伏したかどうか︑明らかにすべき史料がない︒
而して同じ人を︑木澗寺では日熾上人として三月十九側を感日とし︑近術家では杵彊寺殿として六月
二十九日を忌日としたといふのも鍵である︒隅だⅡ焔と杵畏赤殿と︑同年に亡くなったものとすべき
であらう︒長享二年十H十九H祁州賜州蕊去し︐小介川西雌に於て非職あり︐海賊院︑将触寺の次に
本洲寺が調經をなし︲巾陰の能僻四人の外に︑七日七Ⅱの法事には三人の本滿寺の術を洲へしめた︒
そしてこれは﹁光公御肺依﹂によるとあり︒Rつ面簡︑の法御は本測寺に於て行はれ︑一家之れに詣
して鵬ることは例の辿りである︒明雁五年十一N二十五n政家の妹︵法號瑞光院︶が没せんとし︑ま
だ蔀切れざるに先きだって之れを本州寺に移し球で入滅した︒処年三川六日奥御所︵政家の坤族親で
あらう︒法號善枇袖︶は本滿寺に於て逝去してゐる︒而して發病したのもⅢ寺に於てしてゐるから︑
鹸程以前から同寺に止桁してゐたものであらう︒以後川粁の忌日法愈は本滿寺に於て行はれてゐる︒
明雌八年八川川川政家は水油寺前化Ⅱ通七川愚法称のため川寺に詣し法称の後盃附あり︑経って川辿
は政家の邸に来訪してゐる︒
上記の如き近術家と本洲寺との法要に州する往来は何を物諦ろか︑怜も本滿寺は近術家の氏寺の如
く︑近術家は本浦寺の根本椛那の如きものにして︑しかも非なるものがある︒父腸川の葬式に於ては
法華念佛雨宗の展洲さ唯一宗源祁七一
寺の先師日燈とは川人のやうにもある︒尊卑分脈の良剛の條に︐﹁悠水州年月日出家﹂とあるのみ︒公卿柿征雌永二十九年の忠伽︵良州後忠伽と改む︶の條﹁忠刷川十前附白壬十月十︑川家﹂とあり︑[
、
I
一一I
近術政家の日記に兇ゆろ日蓮宗の寺院としては本浦寺の外には︑本國寺︑本蝿寺︑本能寺︑妙姥寺︑
妙蓮寺及び頂妙寺と立本寺である︒此の内本岡寺との交渉は可なり深く︑化持の佃派任浦のこと︑氷
旨に附して公事ありしこと︲先住日発斥けられ︑末寺より新住入山せるとと等を鋒してゐる︒而して
法韮念佛雨宗の展州さ唯一宗源刷七二
海賊院柳恩寺が主となり︑本洲寺之れについで弍に臨んでゐる︒海瓶院は藤陳氏に淵係探い束・州寺
然珈の海賊院であらう︒斯くの如き交渉は勿論州粁の信仰關係に因るものなりしは否定すべくもない︒
扉伽斑去の際七七日法向に︑腸刎がⅢ寺に肺依してゐたから本滿寺の价衆を加へたといふに依ても明
かなるべく︑奥御所が逝去以前からM寺に淋亦し︑Ⅱ蓮糸の信仰に依て救濟せられて死んで逝つたそ
の信仰状態は政家の側記に祥記してある︒
剛者は法要の以外に於て蹴りに往來し︑畔に湫樂を交換してゐる︒併し日記に見える本棚寺仙代日
熾︑日通︑日威︑円虹の四代の仕持と近術家との血統的關係の有無等を察すべき何物もない︒併しな
がら正式の寺椛の關係なくして非棟以上の交渉ありしものは恥なる信仰關係に依て發生し︑發逹した
ものとのみ見ることが川來ない︒或は本化別頭佛皿統記に見るが如き開山日秀と近術家との血統的關
係の存在を否定すると←が川来ないといふ辻博士の日秀の素性に開する結論を.一脈弧い意味に於て
こ上にくりかへしたい︒猫旺政家と多くの日蓮宗寺院との關係を究はめて参考としたい︒
︵三︶近衛政家と立本寺及頂妙寺
!
木図寺開山日課は妙瓢寺開山日腺と共に日刈門下にして︑本則︑妙淑州並んで洛中蓮門の巾柵をなし
てゐた關係上︑剛寺の關係あつく︑向然本流寺と本岡寺との蝿係深かりしことも︑政家のⅡ記にあら
はれてゐるのは徴然である︒木晃寺以下妙述寺迄は︑何収もM系統の寺盈である︒永緑川年のH我の
﹁久逵寺︑妙本寺惣血脈筋﹂といふものには︑以上の寺盈は︑日像︑大蝿︑円舞の下に注記しあるを
以て艀川流と見ぺく︑n然近術家と之れ等の寺だとの關係は近術家と大兇以来紬ばれたる脚総に依る
ものと察し柵られる︒こ上に老へて見たいことは政家と立木寺及び煎妙寺との關係である︒Ⅱ記川脳
五年五月六日︑或る備坊に術して法華か一聴剛せるとと見ゆ︒之より後数川此浦を録してゐるが︑翌年
の九川六日の催に︑籍盈立本寺に詣して訓經を聴くとある︒之より先きには彼が立木寺に詣すること
は︑記に見えないや弓である︒そして以後彼れの苑去の餌まで術に同寺に通って聴聞してゐ港︒忠ふ
に彼れは立木寺の名をH記にあらはすことを述唯して或る寺と記し︑ついで後特箕詣ると錐し︑終に
寺號を鋒するやうになったのであらう︒而して立本寺は叉彼れと交渉ある多くの寺だと共にⅡ像︑大
蝿の系統に川でたるものなることは︑Ⅱ我の惣血脈に雌してある︒然るにこの川流︑川に宗義上の紛
祈のありしととがⅡ親の辨仲熾錐に見えてゐる︒川澁H像Ⅲ家之撫の條に
○○○雌然多キ︵日像門流︶巾一一姪ゼルハ︑妙本寺︑立木寺︑妙蝿寺︑妙蓮寺︑本能寺︑弘經寺也︑各糞
ノ川人ハ我等弟一ノ︑トコソ忠フランナレドモ︑外兄一只妙本寺ヲ嫡流ト可云シ︑燗タ後迂ノ川人
等モ多分ハ余力恩ヘル一ャ︑夫一一収テ妙本寺ノ別術ヲハ知味聖人ト云︑庇名ハ月明蝋︑側Ⅱ川ノ立
法韮念佛朋宗の腰洲さ唯一宗源川七三
」
1
1
−1
法華念佛雨宗の展州さ唯一宗源抑七四
本寺ヲ川デ抄児寺ヲ泄立セシ︑又妙兇寺川川口通ノ刊舞ト不快ノ︑門家ヲ被・分ケル縁起︑弘維寺ノ
附川ヲ︵大妙坊ト云︑大妙坊ト大隅大徳ノ文本寺ヲ被川ケル子細︑又妙蓮寺ヲ収テ立本寺卜中速ヘ
ル異論︐又慶林坊日降妙兇寺ヨリ川ル公躯︑夫レ如雲︲如世︑故一一派士︿縦ノ海モ乾ク斗ダル間︑
不能典記︵下略︶
政家のⅡ記に妙兇寺と妙辿寺と戦手せることか記してあるが︑その洲はれも方の記那に依て察し得べ
く︑政家が己の鮎依する一流の紛乱に依て立本寺に詣せることを初めは秘したものであらう︒彼れが
晩年立木寺に川人せろは全く法談純法等の聴聞にありしか如く︑典の川本漁寺本岡寺等との交際とは
nら異り需問︑盃附等の躯は殆んどないと云ってよい︒
政家と円韮寺宗院との關係は共の日記の初めに於ては独だ特なるものはなかった︒則ち文正沁年彼
れ二十一放の年のⅡ記より︑文明十二三年に至る間︵尤も文明元年より川十年まで峡く︶の日記には
胴群の交渉に開する記耶は数簡所に過ぎず川ち文脈・沁年六川二十九日にⅢ父の佛事の爲めに本滿寺
一L淵すること︑文明十二年Ⅲ月七日に水油寺仕持来訪すること︑川年八Ⅱ十六日に自ら同寺に詣する
こと︐文明十三年川月本湖寺及び本卿寺の仕持の來訪することなど見ゆるに過ぎない︒ことに戒妙寺
に到って法華の法談を州いたと恩はれる所には或寺に桁して法華の法談を剛くとあり︑︵文明十三︑
二︑冊三︶次に繭妙寺を煙妙寺と誤り記してゐるところあり︵文明十三︑七︑十四︶以後瓶妙非に術
り法談を聴くとと殆んど辿月絶えないのは注なすぺきである︒彼が壯年の蝕彼の邸に川入すること班
’
梁であった併隅は︐一族川身のものを除いては︑海城院や零文紀阿餓︑郁凹堂︑禰諜記︑尊職主等の
祁徒とおぽしき人物であり︑彼れはそれ等に就いて専ら經諜や詩文の誰義を聞いてゐる︒然るに文明
十五六年の餌から鵬盈賦妙寺に諾り︑知りに法華の法談を聴くやうになり︑同時に本沌寺との往来も
漸く薬くなったやうであるが︑本沌寺に於ては多く一家の佛躯又は一般の仙冊的交際が主であって︐
法談︑説法を雌川することは寧ろ從であった︒されば繭妙非に術って雌剛する記事の前後には常に﹁
心中念訓如例﹂と記錐してゐる︒︵挺享三︑七︑十三︒延徳二︑七︑十九︒同四年︑四︐十三︒川年
同川十九︑明雁二︑六︑六︒同三︑九︑十九c文他三︑七︑十三︒永正・北︑七︑十三︑等こそして
本洲寺に詣れる場合の如く︑盃岫の餐雌を一父けるやうな率もなく︑魎妙非が彼れを訪問して交漱する
といふやうな事も殆んどないやうである︒
併時は頂妙非開山Ⅱ州が文明五年以来上洛し︑預妙寺を刺立して猟りに妙法を穴場してゐる時であ
った︒本化別頭佛川統記に披れぱ︑細川治部少杣勝振なる群が粘介を建立して彼れな迎へて州川とな
し︐其の子細川商凹︑商叫の子氏綱拷彼れに肺伏し︑永正十年八川十六側疾なくして化すと見ゆ︒政
家の側記には︑妙寺と細川氏との關係を知るべき何ものもないやうである︒而して勝益は商凹の父で
なく土佐の細川氏で︑持益の子勝益であって︑文他二年死して煎妙寺に葬られると辻博士の老誰に見え
てゐる︒それはとにかく杵仙細川氏と法雅宗との接近にはⅡ帆の布教も共のNをなしてゐたものであ
らう︒柵時頂妙寺仙持︵Ⅱ帆ならん︶は徳風の雌んな群であったらしき記那政家の日記にあり︑則ち
法韮念佛剛宗の腱聞さ唯一宗源抑七五
1
|
■
I
法華念伽咽宗の展州さ唯一宗源紳七六
明脳七年七川二十五川の條に以下の如き川化持の談を錐してゐる︒日はく此の年二Ⅱ︑︑肌は河内剛
にあり︑率に依て田川尾張守︵入迩卜川︶に對而︑盃附を交ふるの洲︑宗斤の法文に就て少盈油縦する
や︑彼は直に信心〃發し︑吉川を定めて受法す云奄政家も偶廷煎妙寺に到りて北あ法談を聴いて信
心を發したものであらうか︒Ⅱ呪はもと千葉氏といばれる︵佛祁統記︶から︑公家衆と血縁又は之れ
に雅歩ろが如き關係のある篠はない︒而して政家が彼のk洛後の題nの樅を川くに至った継起は︑恐
らく父川以来の木洲寺との關係が媒介をしたと推定することが不可能でないから︑政家が卿妙寺に折
りて法談か聞くに至ったのは出川細川の如く偶然のことではなかった︒尤も共初めは彼が立木寺に川
入をし初めた時のやうに或る法華求の寺と録し︑次に遥妙寺と課記してゐる如き︑彼が立木寺に對す
ると同じやうに述胆があったのではあるまいか︒頂妙寺刺延につき元和七年の肥前勝典寺化持日憶の
﹁松尾山山來井川川Ⅱ林聖人之事﹂に
一京部耐妙寺川米之邪︑法狩暁川雅ヨリ満候文二︑懇二候川︑鰯世雌︑其文一一云︑︑帆御巾粁︑淵
︵マB︶院Ⅱ叫之御弗子︑陀期御諭取心而御上洛一一テ︑Ⅱ英之御建立洛巾妙狭寺ト巾恢一一弘通峡︑細川述
州御受法惟Ⅲ︑処迄預妙寺股ト巾二付テ︑妙法寺迄改一ァ耐妙寺ト御橘乘︑共催御在京$文云一一見
エ巾候︵下略︶
一方之戒妙寺之州川日帆群ハ︑柑寺ニテハ導師十五代︑一テ候然蒋頂妙寺モ淵剛|一テ候柑寺之末寺
へh力︶一テコソ可有之︐子細粁十川代目導師︑親聖人建立妙蝿寺モ術寺ノ末寺ニァ候︑呪日刷粁十九代 Ⅷ︒■1頂門
1
−
凸 ●
目叉Ⅱ親之弟子ヲイ︸一テ候︵下略︶
細川氏と川棚との關係も之れに依て更らに明かであらう︒細川中川法華寺川徒より︑口親︑日川あら
はれて京都に側什以来の弧問な布教をした︒恐らく日帆も日親の縦風か襲うたものであらう︒自然妙
瓢︑本剛の門流とは對抗的立場にあったのであらう︒これ初め政家が立木寺に出入することを速胆し
たらしかったと呵様に︑︑妙寺に出入することをも︑初めは一寸連胆したものであらう︒.さて政家が
益く信仰開係から川入した耐妙寺と︑彼との關係は︐彼と立木寺との關係の如きものあり︑彼れと本
流寺との關係の如きものはと上にも見ることが川來ない︒然れば水滿寺と政家との關係は雌なる信仰
關係によるものでないことはこの職から老へても仙解川来るのである︒
n韮糸が西漸して洛巾十吸簡大寺が川現するまでには︑複雑な歴史があらう︒山來比叡川の上力に
於ける澱椛は絶對的であったことは云ふまでもない︒鎌倉に起った一向︑日韮の剛宗が︑いづれも上
方に向って布識をしたに就いては︑合従の脈辿を如何にしたかといふ罪が︑新附宗の小仙に於ける糸
史の一大要同であると云ってよい︒切支丹佛法ですら或るバテレンは︑上方の布教を志して上洛する
や︑比叡に秀川して︑雌主に挨拶をしたやうであることは︑予のかつて論じた所である︒下克上がや
うやく価和として兄はれる吉野昨代の唖から︑雨糸の勢力は克上しつ上あると共に︑台徒の峨辿を免
法推念佛州宗の展州さ唯一宗源抑七七 ︵四︶蓮門宗風の天台化
|
一
鍵呼挙簔窪・寧潅澤部需号
W一︑一堯僖紅
色一合匡一︲1 語雲制嶺畏龍鴬籠閏普 .舎裂再総〃 斗呼塞斡雲御︾・聴罵繼雲 調g
く鐸譜桧・雲剥道Q砦仁塾綴
ヨー︾︾︾侍︾︾︾一︾斜︽︽︾
信蛍淵w二繁山︲心細淵〃緯罫 一一sJU一三・仁室生Ⅱ母鎧便筆洋龍 瞑封︑樽Q望亜剰料E単諄〃望刊E S等差獣劃Nま望鑿箒迂窯箒塑 淵哩蚕制塞張剖︒Qいぃ一嵩ご一心塁制 鐸畢搾呼準空幸一笥斡蝉恕信塞筆琴靴 ︾舞要詳塞罐一︸澪琴杢唖隷罎窯雲封 三︲令善望塁鑿挙靭嘩掴推制︽葦 需綿棒侭営零蓋詐渉潅舘睾尋睾毒 9J茶卓彗帯N謂逗蝉〃誉權↑〃 三塞斗坐︾認識鐺芹澤﹀.︿宰脅・刊隈学 等Q︵一樵豈仁N
蜂幸︾銅拳隼郵毒宰純御塞識一︽奉鍛.
筆︾幸塞率学昏尋群︾坐嘩尋︾雪号
咋﹃凡
当︒皇室帯刊捺謹桧一町一︸一﹄昼心瞳篭翼藩
G挫釧頁︒豈藁雑言盾く謹鵲魂〃邉鯉芝
炉庚融蔀坐捧澤ヨーか謝喉型喋辛罎塞辮誹ヨ
ーー
繧蒋SI●二索﹁還患川忙窒止袈︲一三造袈 響筈圭常且親剰豈唾砦暴一﹂心薄嘱ご.¥ゞ 鴬三里却誰〃塞当宣川﹃一﹈三f芝◇令窒 蔓幻塔三掌舞・三睡到篝室鴇鵡三皿・ 侍U窯言員案言・目〃号掬誤三〃二
心﹀Q籠豐︒々箒毎重剰菅禽壕諾 晏篝笥岩津窒幹謡得U︲曙厚延鑿豈 員鐸4苗刈JQ
●
善再鴬鳶蕗内川一恥作
く蒔菫鷲時繁丙伊南二︒
丙濤岸↑ワ妾罫鳶ご・農︒
JS琶沫八門﹄.列菖︒
削尋作菖呉麿殉ヨ坪蕊︒
鴬一琴言︒二偉可芦f 淵︒
艤封丙国烏一︑ 宗八ン才︒
ま一﹂茶︾毎至F作Ⅱ︸尋︑ 垂弄一一↓﹂庁滝岳珪やO
泥鐸評鏥壺袖壺寒識語一・一一.
諏峠吟一桐翔味鍛李諏一︽一声
程静作芳壽胤腰︺J詞謙︒
晨檮鎌蕊静︒童殿パン美︒
1N言︺fパ曹撫壽弓朧︒
罰①が二汁眞善壼罵追ゞ
奉露︾恥罐牽儂ゞ季澪諦昌一到
寺茸ン琴謙丙訟汁隣二 作d66時撫〆が菫菫
︲烏号芳二房露呈尋壽二
琴が︑蕊茶烏6罠ご一馬︾
で脚e蒔当一零川島・麦.
丙︑埒劃憲誌濤ジグづが酷学琴
・卜耐やや戦︲一︲|一律罵
二零号尚e澪・陰爺鴬
完︑/ふ伊言蕪︲−1罰持卦
輩汁切がe僧川涛岸庁
一向卦砒一 一謡示討手粥弐一斗
畷謹増︵汁舜二︾︒宕韓 堀評罐︿・咋雨率線︲匡
押里 吟.二坪が淵が今 ︒︷二﹄が崖︒6斗缶葬 ご 何再一Ⅷ一二一s6コ
丘
巽詐幸準確率渉弔
些呑
葬弔垂一︾や零詑露
奉や窪畢率壱鍛率
だ.Sが謬丙祥徴
善号卦民や汽裂露弓N
.病涛が嘩黛汁(‑‑'¥gle報が弄涛三動き.丙宗6=三÷=景令三婁惑黛壽璽鵬三。号JYgγ号舜奔 rjS一汁J拝トヒニi堯寺三や穿鈩舎蒔諄喜(=静索蚕薑零s作農=トート淵が可誌丙号岸へ。、'隼苦rY・が &蚤彗r‑f童号い作e汁(卜吾庫罵写dy。(鳶丙式S鑿鴬̲rl(‑丙鳶謙二I汁。鳶蒔義當S鳶三へF冒三
,(○sルrjS鈩汁で馬齢群作「Yが曄蝉l rl添門雪片三芳鳶S篇学曽'群蕗ご卜>Hチヨi鶚諜濤軍再謂号S計
N侭霞壼盲.N彗爵シ窯.錐雪片富,事・ =言章N(陰。)>指三三.韓喜旱差降気侭雪片簿奏鶚.箒言津言.鯨
lllljワ■011
對抗したのではあるが︑一而に於ては天台化を粧ひ︐或は天台化しつ上あったのであらう︒天文の山
門衆徒とⅡ迩蹴との法飢後幕府は︑弛兼の諦寺に鋤し三簡條を令した︒其の一簡條に︑
日通蹴衆价井喋禽華︑洛叩洛外於俳柵粁︑得御意可成敗︑彼榊可令遼裕︑或は州紛他求族在之粁︑
可筋Ⅲ罪︑然上者彼等於許容粁︐可致罪科事︵本能寺文神︶
とあり︑他家に粉ふ族とあるは︑勿論天台糸に粉らはしき族の意であることは察するに難くない︒又
他の一條に﹁日通午玉﹂の呪符を家掩に帖ることを禁じた︒これ叡山及び其の勢力範附に脇する寺枇
の兜札の勢力を催すことを止めたものでもあらうが︑比淑山の兜符に粉らはしいのを制したものでも
法華念佛雨宗の展州さ咄一宗源八○
五輪打塔は勿論日迦聖人の雄であったらうと旭ふ︒外川Ⅱ雄煙雄三年九川二十日の條︑典聖法輪寺
の制派に﹁天台米日通之徒﹂とある︒水神は術求の巾に︑派士恭を認めてゐるか︑日並糸を認めてゐ
ないのは︑Ⅱ蓮法華氷と天命法華求とを脈別してゐないのであらう︒本幣の日並僻を攻唯したと忠は
れる文にも︑糸猪をあらはしてゐない︒川神川年M川十川川の條に︑柑昨天鍵地鍵の知りに辿るのを
慨き︑これ﹁時那か川に迷ふこと多きが故なり﹂と術じてゐる︒其の列難する時事六簡條の節二に︑
﹁布一禿士︑議聖諮法︑率共徒数十人︑以惑剛人家︑犯殴浦侶︑以是川蛾去﹂と指袖してゐる︒一禿
士といふのは徴時瀕〃に外に對しては五伽の大聯を商咄し︑永内の一部を斫伏しつ上あった日親をさ
すのであらう︒そして法華米の一禿士と呼ぶことを川徒に對して逮慰したものではあるまいか︒川徒
の雌辿が益盈洛中浴外の蓮Ⅲの諸寺に加へられるや︑一方に於ては法力を鍋すととは勿論武力に依て
−
あったらうと思ふ︒仰熾抄に振れば︑愉昨日通米の寺家にして︑仁王經︑大般若経の守札を帖るもの
があると慨いてゐる︒日韮宗の寺院が自ら發行したものであらう︒既にして天文十七年近江六両氏の
識力に依て山門迩門の和睦が成立したやうである︒此の年二月洛小韮門十五簡寺連群して三簡條の催
糞を六角氏の被竹平井︑進藤Ⅷ氏にあて1提川してゐる︒︵本能寺文書︶其の内前二簡條は衣柵装束
等に開するもの︑雌後の簡條は諾米訓読は派諭の無たることを︑存知するといふにあった︒何唯に迩
門十五術寺より川門三院執行代に宛てた論文の︑前二簡條は平井進藤あての諦文に等しいけれども︑
堆後の簡條は﹁祭澱川脚﹂として一千災文を十五簡寺より山門に進紬するといふととであった︒︵本
能寺文需︶然るに方の條件を以てしては︑直に談がまとまらず︑交渉の結果蓮Ⅲ諾寺川門の末寺と爲
すといふ事に依て結末したやうである︒︵本能寺文辨︶兼し迩門諸寺に於ては先きに祭臓川脚の病義
として︑一千批文を紬むることを巾川でkゐるが︑山川は末寺錐等の名目のもとに︑他例の川務とさ
せやうとしたのではあるまいか︒一向米と山川とは木末の關係の名のもとに和峠したと忠はれる躯は
予かつて本誌に於て論じた辿りである︒垳川川迩Ⅲ修交協議の際︑木末寺の名今篭坐﹂ることに就いて
は︑流石に並Ⅲの諸寺は遮かに承認しなかったやうである︒それを和峠の媒介群であったと恩はれる
六角氏が血しくとりなしたやうである︒其の紡果は明かでない︒初め日像識を都下に布墜L以来上方
に於ては︑特に巡川の糸瓜をして︑天台に近づかしめた︒ついで天台のⅡ蓮︑京都のⅡ通の仰脆が生
れるほど︑Ⅷ群の洲を狭史ら粉らはしくして来た弛門の洲大寺が︑天台末寺の名を弧ひら肌ても︑多
法華念佛湘宗の展洲さ唯一宗源祁八一︒
jl1
1
’
奉るに際し︑降盛は専ら︑親の爲めに誰力をした︒又朴撚寺某︵親暹ならん︶は叉住本寺の椛那であ 術報に依て仙され︑全人格から立ち︑そして求逝に蘇生した群であるならば︑其の更生前の環境と
其の史生の信仰内祥とは払だ附係深きものではない︒北此の妙法信仰は・公卿のそれと塗る籍はないの
である︒併し諏盈の併絲に樅されて︑所謂偏徒となり︑械那と稲する群の多いことは兼教の如何を間
は歩︑雁史の古今を間はないのである︒否︑むしろさうした信徒械徒に依て識禽は維持されるのであ
る︒蓮門の流流漸く京都に柴え︑諸寺の械那が激蛎はしたものA︑妙法の厩の信仰は詔はN環境に脳
脳して多くの鍵化を免がれ御なかった︒俳熾抄に擁れぱ︐住吉祁批の川主某は住本寺の椛那であっ
た︒Ⅲ川主が天台︑眞言の諦价を術じて︑千部の經の誠訓を僻むととあるや︑彼を棟那に持つ住本寺
の仕持はそれ等諸術と符合って千部雑を誠んだ︒其の外泌法の肺寺に術するなど沙汰の限りであった
といふので︑同親は之を説伏し︑其の仙持は今本法寺に居住す云盈︒又住背の祁主ばかりではない︑
○○0000○変茂祁職︑八幡榊主命嫌︑桝仕等他求の躰ながら蓮門の弟子と號して︐供養を受ける考あり云奄
又同抄に擦れば︑川條大納言︵降礎ならん︶は例め己が籾族の軒で︑日親の弟子となった群があっ
たⅢみにより︑法を日親に聴いてゐたが︑終に妙法に脈依したらしい︒服正年間︑親が奏欣を朝廷に
法華念佛雨宗の展州さ唯一宗派洲八二
小我腿し易かったと凪はれるから︑天台末寺の名も内凌承引したのではあるまいか︒
︵五︶蓮門宗風の一般的環境順應
つた︒然るに其の特佛唯には︑地職︑棚帝以下他米の位牌等を多く肥り︑家守の札には︑仁王經.大
般蒲維の守札等数を知らず貼りつけてゐた︒又之れ等の公卿は相川寺︑御蛾耽に毒一詣するなど﹁惣別
虹らに此の宗︵H遮永︶の立韮を知り給はず﹂と︑親は慨いてゐる︒そしてそれに對してnつ教訓し︑
Ⅱつ笑ったが︑性本寺は之れに對して何の指南もしないのは諦法を敢てするものなりと釿じてゐる︒
叉何抄に擦れば京都上行寺の州Ⅷ日存が自ら川雲方而に化導して起した寺盈には︑阿伽陀を本尊と
するものあり︑地瓶︑獅汁を本錬とするものがあり︑或る寺に於ては︑本尊州陀三妙の佛椛の川剛に
障子を立てまはし︑其の表面に本尊︵題日些茶羅ならん︶か懸けられてゐた︒かくて﹁怯花ボハ捌陀
無絲ノ法川ヲ沙汰スレドモ︑從一ス深ク信ズル︵州陀を︶故に︑准リ|ス︵州陀の︶魅ル﹂︵日通氷
の本尊を︶といふ他宗の難誹を州くに至った︒叉寺によっては其の械那と稲する群の中︑竿分は他米
の群であるやうな例もあった︒化水寺門徒︑即ち日存門下として傑川してゐた︑端ですら多弧爽郎左
術川といふ祁寺の柚那の鯛めに︑川礁ぞしてやったこともあった武凌
上記の如き事は測り︑存の川流ばかりに起ったことではない︒近術政家の如きは勿論︑恐らく愉時
の公武の所訓信粁なる務の一般がさうであったのであると断請することを伸らない︒近術腸川のH迩
宗信者であったことはⅡ秀の家系を述べる條に説いた︒後慈眼院殴記︵九條術經Ⅱ記の明徳三︑十︑
十三︶にも此の恥が兄えてゐる︒然るに腸伽は雁Ⅷ家と競争をして︑その子を南都一乘院へ弟子入れ
させようとし︑將耶焚政の紹介まで利川してゐる︒一乘院Ⅲ主は赤川肺頭に於て川胆を卜つた結果︑
法華念佛雨宗の鵬附さ唯一宗源祁八三
一qll111
一一I
唯仁前後から日述兼備州が.公武の肺交界の一存在をなし︑時に殿上の交りをすることすらあった︒
川科言繼の如き一nに本州寺︑本能寺を﹁見物﹂してゐる︵言繼卿記天文十九︑十︑十三︶仙川的交
際はⅢ然川価川的交際にまで進まざるを得ない︒それは公武の肺交人のみに止まらない︒祁家も︑密
激家も其の巾に縦込れて来るのであった︒辞山側録長雄三年八月二十一日の催に﹁立木寺之衆而餘
︑︑岡芹読訓法華雑︑與春・公赴共場Ⅲ之﹂と見え︑雌助往年記永灘二年服川の條に﹁二條法花堂本兇
寺御肱也﹂と見ゆ︒誰し木蝿寺の法唯に参詣したといふ意味であらうか︒かうして集って來た群に
それ人︑順雁して供養もされざるを得なかったであらう︑布施も批はざるを得なかったであらう︒か
くして伸び行く雅川の不知不識の川に於ける環境順唯化は到底免がれ得なかったであらう︒ 稗斫伏正装紗に見えてゐる︒
状稚念佛胴宗の展州さ唯一宗派柳八四
鵬司家の方に定めた︒大乗院寺肺雑報記︵文明二︑七︑汁︶に此の聯を錐して﹁賜明御事︵腸剛︶法
花米被立之︑令述川胆欺之川︑Ⅲ︑乖被仰之云だ﹂と兄えてゐる︒然らば腸剛の信考といふも︑日親等
をしていはしむれば︑又誘法の法韮行群といはなければならぬ︒近江政家の川側を塊巻いた本州寺や
妙瓢寺の門徒の巾にも︑蠅陀︑槻汗︑地雌を水愈として安世し︐仁王維︐大般經の守札を寺家に貼り
つける等︑誘法の椎郷榊て計るべからずと体熾抄に見えてゐる︒九州方面に於ても肥前小城の光勝寺
末寺である浦水來芥の寺は洲・汗を水草とし︑M末寺脚亦寺の本尊は薬師であったのをH机は取かへた
と其の幹埴谷抄に兄えてゐる︒又下総の水妙寺の末寺の中にはM剛松丸郷の加陀蝋があったとⅡ親の
P
謝師に比淑登山就単の風のあった事である︒本則寺Ⅱ純頓死し︑その後繼につき紛乎せる際︑日經の
前化日仰の弟子H蝿が一昨之れをつぎ︐H暁史らに之れに繼ぐや弓になった︒此の﹁︑雌ト云人︑爲
票文︑川門一一令仕﹂と体熾抄にあり︑叉同神に﹁Ⅱ昭門家ノ法式ノ事ハ︑都祁正一一法花ボノ様一只諸
門徒ノ人糞不作賊︑其択本ハ︑叡川戒皿ヲ路メル故雌ト兇タリ︑是川無餘韮題日タリ﹂と見え︑其の
門流按察阿淵梨日仰︵本阿寺川術日傅とは別人か︶に至って﹁法花宗ナル唯口︑少シキ瓢レキ﹂と云
はれ︵仰熾抄︶彼は天台の受戒群ではなかったやうであるが︑其の外の此門流は艀﹁叔川ノ戒旦ヲ跡
ノミナラズ︑肺塞仰詣等ノ振郷誘法以下ノ源.不可稲汁﹂と川井に見えてゐる︒かくいふⅡ親も亦宵て
ま川就學をした一人であったやうである︒体瞭抄にⅡ親が﹁化山ノ昨モ︑川上ノ術ノ物研一一就︑京都
ニァハ法花宗正諭旦那︑川涛スルナンド︑被沙汰ケルヲ兄州タリシ﹂と見えてゐる︒
京都に於けるH巡米の天台接近の一現象と←見るべきものは︑日並宗の三十恭椰信仰の流布であ
らう︒三十稀川は川の内三十脚に三十川を川したものである可柑時又三十仰なるものあり︑月の内三十
円に三十佛を叩したものである︒臥塞日俳錐握職四年間九月六nの條に以下の記事あり︑塒雅韮政庇 京都韮川の宗風が環境信仰に服雌して他化し︑姓に天台化する側向が弧かつたに就いては︑他にも加川がある︒とkに氷・門の講師の仲記には特に体へなかったと恩はれることがある︒それは京都述門
法稚念佛雨宗の歴州さ唯一宗源洲
︵六︶日蓮宗と三十番榊
jl
八 五
−一
鴬署噛三壱鵬e当臺'ロ誉|婆篶鴦<1〈
三や心、/′「111+匡報星壹捧等窯腱蛍」‐U&蝋浄Qヨニ里・雲塞二FU43‑.剥帯蕊且迩雲雲静謹弐j得
=・今壹幻蕊廻追三三‑U・迄望梢毎'Q・spg群誉Q吟三且鮓〈寒帯′AJ暑掬=="Q思蕪且繧言弾筈亀
投。きき<報心へ/′薑Q隠董弾き隠且・畠トJ鶚ねTQ且帯填ご<Q貿毎tQ置轡、Q呉縄景心帯′軽旦領匡曼
巖弐j領匡捧‑U穣舅<堂刊蝉糞命QIJFU掬掌料簡々・箒<漣等畏運装営韓埋昼J三号111+壹菫弾頭I‑J.+<室
曼冬埋11÷<匡巳星学釧‑c=I‑'穐埠AJ幻釦ミニ′壹譽鑿三弾,尊重‑j"IQ→'111+=三等毎、G琴Q唇初U
ぺJ*'‑鴬巨匡さぎ埋隠JIJigwQo;苔煙III+籠言Q哩三轡竺U箒〈且這篶抽暑呉華雌壹ド」得○挺人Q心。
・iUIJI1 1+馨言道ざぺj誤イニ旦雲IJl厚型昼挺琴Q弾一匡誹聖翼卜J零号且N暑熱替哩j楓AjS廷異IQ・
劇迄営侭Q匡隠旦埜.営線裳普鴦やQ111+窯鴦旦籠やIQAJPU哩峡′ (胄営<′隅'+1<′ '鴬罠1 1.111‑
=u引旦熱,熊言刈櫓$Qg.111÷焦言Q瀧刈昌巍)P<毒塞隼菫且龍や心AJFU浄域峡IJ(制碧111'+1 1'
睾) 『q,Qo輩達旦埜匡舗器Q帝望穐二′営撫堂々U引旦鮒龍‑‑)IJtQFq。ご卜'菩宣.含驫吾三着巳翼IJ
111÷焦言即碧(、IJ:3投AJ幻損長具IQo
寺箒《g三篝碑命。里'詳重雪冒且焦言三選譽言制箒冒亜種『・当9二'吾巳さ疑帝里計侭奉且。
皇トJ帯畏心匡窒Q准睾己・翼署装Q望却襄や諾二聿群蝉揖・IQAJAj早進骨s、‑U1間●IJQIQo鴬<g1 1=
且垣「精.言黛瀧萱軽・翼匡苦臺|置芸雲」・善<Qg111逢巳型「盾逮罵匡菩亙吾・禎冬言薑」 。=<Q篭早
謹且迩「諜華舅坐.Eご翼誉陦芝橲喜」 IM'w‑U望侭一監崇運〈噂驫徐Q議畳旦得二判眼蝿IJ亀心oざ
Q異さ翼菫営Q毒些且尋雪J樫巽逆=幸い得=・冒心旦N,即担三J挫蒋垣=舅山得や呉。号三冬全帝
−
後鈍所収集古文群に左の如くある︒ 円肺の弟子n坤より川たⅡ什は燃ゆるか如き剛志遊快いて上洛し︑六老价堕湫を叫び︑祇荏の新米規を主雌せる中に︑鋲守を建つべからずといふことがある︒︵仰熾抄︶Ⅱ親は立正治剛論に於て﹁今日本剛之一切衆生賊似行佛法︑遼辨生死業︐然間守謹捧測悪誘剛而移他方﹂と論じ︑現在の諸祗諸川に詣することを以て諦法の行俄と老へた︒柑昨京洛の間︑遮川紛子の川をなした問題は多かったが︑﹁肚参伽詣致シ︑致サズ﹂︵傳熾抄︶といふことも典の中の一つであった︒一向専修念佛の荻が雌介昨代より窒町時代にかけ︑肺参佛詣を以て雑行雑修となし︑大小祁祗を雌んする群があったのと川軌の事従なるぺく︑日像之れに對して︑法華守誰の三十祷川を天台に巣ぴ︑以て其非難に對へようとしたのではなからうか︒迩如が其の門徒に對し︑獅りに諸川諾佛を純んずべから歩と教へた︒︵御文章︶又天文六年本願寺成就院は雑府より六條八幡桝肺頭迭符の命を受けた︒
同時に腱州するn通︑一向川兼の雁史には州辿歩るもの出あるのは荊然であらう︒陪拠時代に於け
る思辿界の一大存在であった吉川彼仇と妙本寺化排Ⅱ芳との川に腱附せられたといふ恭紳川梓は︑日
法華念佛噸宗の展岨ご唯一宗源紳八七
六條八帷嵩肺珈躯︑就造櫛之隣︑水川寺成就院被仰付之上群︑川砿可令造之山︑川仰下也︑仙執速如件天文六年三川汁六日
成就
わ今4■・ILルツーI
禰閏並洛巾洛外諸遥︑庇盈以奉加︑
q『
似 位
、Pq
Ijlj
jも
凸
少日Ⅱ0■09
7111 内 j:
I
一
一s弐三〃暑言一更
﹄琴匡農U︲刊且蒔 縛心〆9畳J種+
制毎J坐零判w二且川 Q 蓋 侭菫︲Jo罰削 浄剃幻言二|心いこ 心Q鼬焦室骨唾︽ 判子一二一三o酒毒pj幻一雇
挙塞嶋媚雛罐電墨搾
幻やミロー三抑制川 三畏弐刈臺霊 草窺呉制三蓑7蕊 祭・里幻直信﹄や患
一言 判巳抑矛孝信I孝・一芸一再 匡劃域天禅二ご・通1−︲ 雑刊匡Q承仁幻・ 兼心全心︒畏鄙蒔 論〃蝉款得↑瀞川 美9群誰等︽美穂 堂寺三Q詳得舗諏鈩
逼窪︵s︷帝幻刈︹写J↑
■一学h
巳樫言三JJ雪規
芦二一一 叩承叩二
P廻三・咋一︲一ルー誤
三到垣合祭・韮心三 一三Q且且謹・望ヤ
澤奈思逢〃一品﹁雪譽 菫o二藁三雪︒割且等 罵夕廻三言川・詞蟇一三 鮨9や三崖 鑿・言制焦
1I心・一語一三P当IF1の1−1誉心型三逆当逆.﹄
一︑川 Q錦里心r畳到川 部得暑等Q潟U一望Q 謎や刊筈幸一三等Q愚 鵬無9心中垣引劉逆
︾藩︾澤一︾聖起
鯉 犀Q童呉 且還念Q業製亨o 雲三F11毎誰ふぱ Zg望︽莞 謹P兼得巖心轡蟇等︲ 帯逆轡過蝉琴心U︲至
崇三弾鮓善詣臺J 識祭群QQ匡旦三
P三却 岸謹畏
瞳当N
罫郁叩拾い−傷9判調 黒冨爺
当笥u一曙や〆青匡︵︾
戸︲一︲誤一
語川帝
型昌一巷窄小淨O匡 畏心〃 誤亜謝
型運勢 三こい
蕪↑ヨ︑彗刺咄幻且 壹一いぶ
むらか91A一口伊心①劃 心得〃
骨且△ し←三幻
9莚︾一三
淨当隼 Q型Q 芝量制 ●置剴珠
鵜Q単 署迂器
﹀律戸 室苣翼 心︽い ︾顎得9
心一喜IC 母Q弾心 ︒蝉篝
ド鮴一眞心 ︲割〃蒔得
澪一幅叙ml−l向︺・蝉削川Q
唖三一へ︵己理等︽酬罰︐十
﹁P0︐〃一
一更く曙o
Q帥Q望
、
(+D)併鯏トキ増画謹領辿量却誓I密繧綱
︑叩ト
燕︒
癌輻︑肘
u︲得 ﹄ロー
蝉言
w謂萄︽試自狸律
︵巳異
J祁U 0卜0gAJ 当当四
J般 信票
0︹ご 叩↑酉澆
︵い〜一二一
掲些﹃
やお 謡謎 営望
︾齢匡﹄涛戸
心︑二
灼J 和室 嘩挫
ね賀
当一昨年型U−
U−ご︾
無市巨
牌■﹄↑dP︐山
Q蝉 駕網 亘謡 脹堂
型三
弾一通皇Q 螺寺
Q倉 米g 謡呉
匡櫓 制心
︹︹
−
同時に叉此の反抗は全宗門の統制を乱し︐ことに敵前法仰の各部群に術はってゐた洛中洛外の諾大寺
の反目抗争を激化する一脚ともなり︑終には共の勢力の肋壌を助けること人もなった︒
日親は信考にあらざる群の土地の寺附共外一切の法施を認めず︑絡には王法護持の篤め法力の川動
を促した公武の命令をも否定した︒又妙法を斥けたる王法︑佛法の剛である日本に蕃艸が鈑雛すべき
叩川がないとなして︑大小の川耽に諾することぞ否定した︒之れに對して︑反日親蹴は川祇共のもの
を否定すべきではない︐大小艸祗は柵り妙法謹持の剛たる側迩宗の道場に鎭座するといふのか︑三十
群川の伽隙内棚誌の表面の抑諭であったであらう︒それはとにかく王法の爲めの佛法に對する勅加や
武家の所願をも眞向から斥け︑諦献参詣をも排したことは︑木佛敦史上特兼すべきことである︒体雌
抄に振れば︐永享嘉吉の川︑妙瓢寺日像が誹施を受けた.りしや否や︑則ち信考にあらざる群より土地
の寄附を受け︑叉は斬癖修法勅願の紬旨︲武家川願の識挫等の下賜を量け︑其の外公武より供養を愛
けたりや否やといふ事が︑京洛迩門内部に於ける一大問題であった︒Ⅱ親は凪ぐ日像の末流たる水児
寺日延︐庭如院Ⅱ樅︑弘維寺Ⅱ塾︑妙児寺側源等と稗談して︑其の筏否の坑机を読はめようとして果
さなかったが︑諸方川の聯怖を綜合して﹁肝要は抄本寺︵妙瓢寺︶に共物モアリ︑論文モアリ︑日限
ノ誘施ヲ受サセ韮ヘル吏瓢然也﹂と断じた︒叉川抄には﹁本叫寺ノ斫願寺クル悪名ハ如大風ナレ圧︑
シヵト誰擦ヲ不見Ⅲ︑難韮定欺︑迫テ可糺明﹂とあり︑而して川寺の勅脈寺.斬噸寺たるとと肱常時
に於ては可なり昔の邪であった︒旭ふにⅢ寺は求風の手前︑之れを秘して一般に知らしめなかったの
法華念佛噸宗の腱叩ご唯一宗源測八九
I
’
法華念佛雨宗の展州さ唯一宗源紳九○
ではあるまいかと云ふととが右の祁附に推て察し柵る︒
︑什︑日親の徒は不信の施物供養は不一虻なれども︑・公の場合に於ても不信の徒には不施であったか
どうかまだ側然しないO雁永二十年鎌倉・公方は︑川井満に於て︑先きに亡せる脇士の爲めに︑閥部法
華純誠訓の事を行ひ︑法華縦に對しては一子部を剛宛て︑比企谷三両部︑燃辻妙法寺三両部︑Ⅲ税の
妙降寺三両部︑演の法華寺百部と︑讃訓雀数が定められた︒仙餐の導師は天台米の僻心海といふ群で
あった︒この命令發せらる上や節一稀に日机︐鋪軍恭にⅡ什の門徒心光坊某が︑﹁他宗ト混乱ソ繭杣
仕マジク﹂と訴へ川た︒これは不備の背に封して誠訓供養しないといふのではなく︑他糸の併州と汎
介することを雄つたのである︒故に後の不唾不施の主碓よりは粕ご竃であったやうである︒而して上
述の如き木剛寺︑妙瓢寺に對する非難や︑雛介の供養に於けるH親の態度には︑確かに不施の糀川も
含まれてゐると凪ふ︒文緑五年の蜘而秀吉の妙法院供養に於ける妙斑寺の日奥以後姑めて不受不施的
對態度が川題となり始めたのではないやりに旭ふ︒仰熾抄には柑時兼門紛飢の根元となってゐた諦川
題の中には﹁諦法供養一堂︑不受﹂の問題をあげてゐて︑誘筏着に對する施︑不施といふととは別に稲
せられてはないが︑日親のいふ一堂︐不受の川越には︑自ら加︑不施の問題も含まれてゐるやうである︒
諦施の受不受問題と淵聯してと上に一言したいことは勝劣問題である︒脈次川現して日隆の本能寺
日眞の木隆寺門徒は何れも法華純の本迩に勝劣をつけて︑本迩一致論と抗守したことは京洛泄門の泥
飢を誘ふ狼要の脈川の一つであった︒Ⅱ什は勝劣を咄導し︑何時に不畳不施的態度を持し︑川帆は典 111
奥及び其門徒日誰が︑京洛に於ける一致派の大綜にして︑同時に非不受不施的縦風の大絲たる妙瓢寺
門流よりあらはれたのである︒
右叩主張が京都に於て新たに︑或は從來よりよく弧く主張されたのは︑京都北川の殺数的蝋塊の影
郷もあったら弓が︑亦同時に蹄撫時代の仙風の影郷のあることを見遁すととが川来ない︒剛主碓が教
那信仰の上から如何に淵係するものかを知らないが︑仙机ともいふべき下克上的な腰立精艸が︑胴主
張の根底に相通ってゐるのではあるまいか︒同じ時枇に︑しかも川じく信仰界に泳いで居た吉川披仏
の如き人が︑都下に花糞しく析助彩々なし︑發展をなし︑公武といはず︑价僻といは非︑川W命岬とい
はす︑皆之れぞ共のⅢ前に唯めた述門の諦大寺の川に於ける耐川越に封して︑何等の感興をも伽すこ
となく過し得る躰の人物ではなかった︒法華雑以外に對する不受不施的腱描の態度肱ぴ法華純内部の
本迩を勝劣肌する態度は︑紳佛川の木迩に勝劣を沢し︑唯一縦伽艸以外朧術する態度とは灸く帆を川
じうするものである︒叩粁に直接の關係はないとしても︑共に下克上的朧姶的仙州に川發してゐゐと
いふことは否む郡が川来ない︒之れ蝉と叉獅似の欣態に在ったものは一向求の下克上的︑排他的信仰
である︒その日蓮米にも坤して流通した糸瓜と洲祗仙の家と木肌寺との血縁關係とは明かに一同米的
法韮念佛期宗の展側さ唯一宗源祁九一
の背仰雄抄共の他に於て兇るが如く︑勝劣︑一致の術に立入ることを避けようとしてゐる︒それは外に封する叫筒の大事に全力を注ぐためであった︒けれども一致論群からは勝劣術と不受不施的の祇諭と鞄常に同刎にし︑細くて之れを以て阿卵に該僻する按敵となした︒而して戦叫時代の末︑前記の日I
’
洲を以て木とすとあり︑郭・川Ⅱ鋒に﹁余怖近時来門中人︑多遥塞慧︑肺念佛鯛小通︑而不言及︑況修 雛介時代に起った念佛嫌は其の昨代の経から背野時代にかけ漸く弘り︑紫町昨代に至るや上下の砒称に杵及した︒辻椰士はかつて史鯉雑附に於て﹁が士教の杵廷への接近﹂彩詳かにせられた︒悔廷に推近した念佛儒仰は︑勿術武家及び土災の川にも杵没した︒宝町時代に王り︑祁米の極朧時に際し︑其の榔米の大椛那であった塒取錐減︑韮政も亦内廷之れを信じてゐたのである︒義沌一冊胱雌に細ってⅡはく﹁祁娠難諦人︑縦修欲念仰如何﹂と︑又彼︑く﹁唖奉読術成川︑逗段脚縁︑問非武人所能︑其至難︑科︑不如修淨土︑鰯的柑也﹂云廷︵翰林甜砿雄︶北川錨金開の一階正面に彌陀三鯨が安世さ
〃れてゐる︒臥雲Ⅱ件録に故法花寺奪溪は北川弟を評し︐﹁此新施不可以西方械樂﹂と云った︒浬然四
方械樂を比べものにしたのではあるまい︒將順義政も東山鋪を緋むや︑東求蛾を進立し︑蠅陀三球を
主つった︒唯號の意は︑川よ・り來って東より求むるの意である︒而して東より何を求めたのか︑欠娠
西方州陀極樂ではなかったか︒明唯沁年六川十八日生雌商水寺尼の鰯め︑義政は阿彌陀雑を井鰯せし
め︑杵肛和長をして典記を作らしめた︒和瀝の記文中に﹁大樹以祁永所好︑幽嬢以淨土所念︑価合記
此二堺﹂と見えてゐる︒古來祁家にして念佛を液するものが多い︒臥墾Ⅱ件録に法然の令剛法戒末は 法韮念佛雨宗の展朋さ唯一宗源紳
刺陀儒仰を唯一宗源抑の上にあらはしたのではあるまいか︒
︵八︶念佛信仰の祇會に於ける反影
’
九二
『
| ,
−
迩偶すらく
即心即佛非心非佛不渉一途阿揃陀佛
評川之れを評し︐脚師は淨法を餘修するが故に此語ありと云令同日録巾に述窒集を諸所に引川して
ゐる︒典の中に水神の趾文あり︑それに擦れば此の神は學剛恭端桃.公の杵とある︒此の人初め天台を
跳び︑ついで念佛を催し︑更らに岬に肺伏した︒趾文の年號は竹徳八年︵永享三年︶三川十三日であ
るから︑恐らく元拒か明の時代の︑・岬念佛飛修の人であったらう︒︵彼れは迩崇集に念佛弘通の次第
を説き︑後楜の南撤︑肝の推導︑法照︑小股︑柳雅沁︑白居易︑末の永明︑諦慈︑楊傑︑王日休と次
鰯してある︶されば飛町時代の祁徒の念佛は必ずしも本棚念佛行群の系統に川たものとも断じ難い︒
或は韮業雄の如者新舳來井に依て餐はれた粁もあらう︒何押は念佛を排仰せるものであって︑中には
﹁念佛三味村︑M中之川︑噸中之邨︑大乗巾之大乗︑不可思瀧巾之不可思議﹂などの文句か兇えてゐ
今二Irr卓上上内外の沿航により念佛の偏仰はあらゆる肚向へ荘しく地味な伸展を見てゐるのである︒自ら郡I肌服
代の唖から戦叫時代に兀り︑念佛信仰の仙川に對する反郷があらはれて来るのであるc
眠って一夜海明かすも︑報佛州恩の内に明かし.蝿めて一川を蕪すも︑弘加内諭の裏に非す︑云凌と
いふやうな阿山枕の念佛信仰をⅨ影せしめた徒然恥の記聯は特名である︒私はかうした念佛の對仙Ⅲ
法韮念佛姻宗の展側さ唯一宗源抑九三
之蒋哉﹂︑とある︒︵竃正川.正︑十︶円録の記粁評山の師︑密渚祁帥が寛正川年派川臨終に際して茨○○I
法華念佛胴宗の腱附こ唯一宗派抑九四
の腹郷を究るのが︑信仰の雁史には雌も大切なことN信ずる︒然るに予はかやうな史料を数多くは發
見してゐないのを迩憾とする︒唯仁二年から文明十年に至る仙川の見附を雑記した見附雑記の中に
於派土縦︑布湘流云煮川西川︑鋲西韮也︐凡識逝ノ意︑叉部異也︑先西川ノ意ハ︑一生ノ川念佛
稲猪スト︑キヲョクスレバ︑臨維ノトキ似意散飢ストモ︑往生が土疑ナシト云冬銀凹ノ意︿︑タ
トヒ一生ノ間孵猪念佛ストモ︑命経ノ時︐正念二念佛榊名ナクやハ︑従生ノ俄叶ガタシト︑故一生ノ
間ノ念佛ハ︑臨経一念ノ孵橘ガ︑タシナムベキ方使ナリ云々側肺川険
此の記録の記粁縦承は︑醜制三謎院の寺僻であったと忠はれるから︑方念佛信仰の仙解は︑一般仙川
のそれとして取扱ふととがゆさるれやう︒巾樂帥金赤氏信︵祁竹︶の能樂諜である室迩要抄︵故吉川
束価沖士細︑能樂古典岬竹雄に擁る・木喋には左に引川する一細を︑王逝要抄より収川して︑祁竹文
正唯仁記の端に收めてある︶に︑念佛の自力他力を批判せる一條あり︑惟ふに素町中期に於ける念佛
備仰の価川に對する反彩として災収なる文献であらうと恩ふ︒左に其文を紹介しよう︒O○00○○○○O○○○00○○○0︒︒0000従生淨土木目云︑此名號二我心ヲソェ|ァ︑脚カノ功ヲ加ヘントスレ︑︿︑機ソ位ニャッレテ︑従生ノ
○○○○○○○J業伽ト成り難︑ン︑他力ノ名號ヲ念ズレ等︿︑︑カヲッノラザル故二疵ノ如ク︑名義ト机雌シ|ァ従生ス
又云︑我號ノ事︑衆生ノ三業ハ流郷ノ業凹ヲ紬プ故一一︑心二念ジ︑阿二咄ブルー皆淨土ヲ成ズルコ
ト難シ︑此故一一南雌ト云ハ︑法赦菩院ノ五幼思惟ノ脈︑阿蠅陀佛卜云ハ︑北戦永劫ノ行也︑噸卜行 ル也ト云荏
’
○○○○○○○○00○000○0○○○0○○O○Oトヲ名號ノ中一一柵在セル故一一︑凡夫ノ︑一咄へ︑心一一念ズレドモ︑史一一機ノ三業ノ功一一非ズ︑咄フ
0○○○○00000︒Oル〃一八十億劫ノ罪ヲ除キ︑念ズルゴト一︑北戦永劫ノ行ヲ得ルコト︑一一一佛力至一ア機一一成ズル灸
O也︑咄ル時︿雛一一瓢し︑念ズル時ハ心一一知ルヲ以テ︑我三業ノ行卜思フベカラズト云盈
又云小智ハ菩提ノ妨一一テ悪キコト也︑八一筋一一乃至十念︑ンテ噸二鮎シ︑一心専稲ノ信ヲ取ルョリ外
一一行アルペヵラズト云燕
以上は従生海士本nの巾︑川竹の布り雌いと感じたる二三節を引川したのであらう︒法然の後繼群必
ずしも信心一なら歩︑右の信仰は祁竹がいへる如く︑流案の阿山流心念佛信心であらう︒而して證筌
eは諾行非本願説を信じたけれども︑しかも禰行を締糊せること︑師脈法然に似てゐる︒されば諦室の
信仰より更らに仲歴したと恩はれる締窄の弟子側杢等の深求流の信仰をあらはしたものであらう︒
右の識に對して祁竹の髄解は誠に派確である︒吉川仲士は﹁祁竹は赴弊淨士流義の他力につきて疑
を作し︑此にⅧその批評を試みたる群にして﹂と注せられ︐そして彼を岬の行者とのみ断ぜられたの
●
はいか図︒岬竹は肥しく価解し︑内柵し︲北あ缶円にはnら倣卉があらはれてゐる︒典の仙解の文に
︵前の引川文に直ぐ練く︶
恐意一一存スル趣︑赴等ノ隣努ヤ︑蒜︐根本西川ノ流韮一一川デ︑深欺流ト立ラレタル所一一テ有ルベシ
○00○○○○O○○ト兇1︑典故ハ稀雌一一五劫思帷︑兆城・水幼ノ刷行ヲツヅメ細メタマヘバ︑咄ル所自力一一非ズシテ︑
○○○︒○○O○○○0000○此信心一一テ従生ヲ柵ルト州エタリ︑然︵名城榊名ノ外︑念佛憶念︑心飛汕拝ノ行︑拷名︵名號即チ
洪華念佛姻宗の展側さ唯一宗源祁九五
1
I
11
凡夫の榊桶︑凡夫の安心の功即ち﹁機ノ三業ノ功|一非ズ﹂といふ所に眼目があり︐岬竹は之れを肥し
く称得し︑衆生はた回州陀の噸行の鉱さを﹁剛キ得ルー念﹂の時︑伽の力により念佛し︵噸︶仰の力
によりて稲名する︵行︶のであって︑機︵凡夫の機︶の功徳にあらすと称得してゐるのである︒故に
○○○OCO○○○○コ誰モ咄ル所ト収ツメタル雛一一町ユル﹂︵一灘の稲名も凡夫自らが稲ふる所と自力に泥拘したる様
な信仰を︑主張するのを附くこともあるがの意であらう︶は如何あらんと云って︑斥けてゐるのであ
る︒次ぎに︑.朧モ咄フル所卜取ツメタル税一一町ユルハ如何アルベキ﹂の断案を災らに詳かに説い
法華念佛咽宗の展朋さ唯一宗源洲九六
市無阿州陀仰︶冊︵佛慨即ち州陀︶不二︑念︵企佛︶朧︵稲名︶一冊一一テ︑只此法ハ剛ノ位一一成ズ
ルニョリ︑超仙ノ肌トモ︑他力トモ︑易行トモ云テ︑仰ノ正兇ノ外二我等ノ往生ノ順行アルペカラ
ズ︑仰正蠅ノキザミ︑十方ノ椛生︿成ズレドモ︑三川ノ・衆生︑水川ヲ州卜川ザルトノ不川コソァレ
州︵恥︑三仙蹄入ノー心一デー川使稚生ノ身ト成ルー然︿彼冊ヲ見本リ︑猫號ヲ咄へ︑心一一念佛憶
○O念シ︑澱秤敬行ヲ致スモ︑猫號得生︑反般二柵ノ川︲・火本川ヲ川得ルー念トコソ仙解シ木し︑一雄
UO○○○○00○○○0000︒00○○○○○︒○○○○モ咄ル所ト収ツメタル様一一側ユルハ︑如何アルベヵラント蝿1︑内山一代ノ上人︵諦空をさすなら
ん︶頚識一一モ︑一朧モ市無卜咄へズシ|ァ︑稚生ヲ途タマフ人モマシマスト神レタリ︑処正シキ例誰
ナルヲヤ︑.︑
とある︒恩ふに右のが土木︑の要文は︑六字名號の市無と念じ︑阿州陀仰と行じて安心し︑往生する
のであるが︑北ら念佛︑榊名︑安心は何れも︑仰の航行に依て成就されたのであるから︑凡夫の念佛