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生命・意識・價値・物質の四存在領域について-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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(1)

−プラトンの言責﹁†切のものも、矛盾するものから矛盾するものが成る、といふ如くに錬成する︵Pha己○コ、 冨アち︶。﹂と、アリストテレスの音葦﹁生成されるものが生成され絡へし時、それは存在するものとなる ︵3。t。Phys芳、嵩b買︶。﹂との二つより、我々は次の結論を導き出す、即ち﹁凡て矛眉するものが矛属するもの 1存在を可能ならしめる。﹂ 〓 右のことより、有は無により、無は有によつて初めてその存在の可能なることが明かである。かくてこ仮に 有の世界の奥に無の世界が認められ、有の世界の存在性は凡てこの無の世界とノの紺係交渉に於てのみ初めて解 明され得るものたることを知る。

商工経臍研究 弟七奄弟四襲︵摘‰配︶

生命・意識り慣借り物質の四存在領域について

生命・意識。債値・物質の四存在領域について

︵二六七︶ 治.

(2)

︵ニ六八︶ ニ

第七巻 第四鶉

ーニ無の世界は本来叫である。けれどもその有の世界に封する関係に於ては二つの姿を現する。即ち劇切の有が 最初そこより磯生するところの始瀕的無と予﹂切の有が結局そこにまで締着するところの穿極的無とである。 凡ての有の世界はこれら二様の無の他見の申に介在せるものと見る。 四 有の世界には生命。意識・慣値。物質の閥慮療領域あり、それらは各々、生活現象。精帥現象・文化現象・自 然現象を顛現してゐるものと見る。 玉 有の存在の現象形態としては、可能性・必然性・現優性が輿げられる︵山内博士著存在の現象形態︶。生命と 意識とはその可能性忙於て存し、慣値と物質とは必然性に於て存すると見る。現嘗性とは有無の叫切を涯然と 融合せる最も具憾的なる統叫的活動者そのものであり、随って絶封着であるとする。 六 この硯資性を、中心より次第に探り の外側に生命あり、生命の外側に意識あり、意識の外側に低値あり、慣倍の外側に物質あり、物質の外側即ち 最外側に究極的無ありと見る。 七 以上の存在関係より、生命は山方無に連ると共に他方意識に辿り、意識は両方生命に辿ると共に他方偶値に 邁り、僧侶は棚方意識に連ると共に他方物質に迎り、物質は∵万低価に迫ると共に他方無に痙ることが明かであ る。こ1に連るとは超越関係に於て存することである。 以上の各論結にはそれ人\多ぐの論詮を必姿とするが、今はそれの凡てを省き、只これらを根穣として生命・

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意識・慣値・物質の掴存在領域について解明を試みようとする。

叫 生 命 的 存 在

先づ生命とは叫照何であるか。この生命なる育英はリツケルトもいふ如く現代哲箪界に於ける一つの流行語で ある。.そしてこれがかく流行語たるに至った室田は、彼も詮明する如く、この育英が多義的であり、それ故に種 々にしてまた含蓄多き展望を開示するといふそのことの中忙存するであらう︵ロiePhニOSOPh訂desrebeコS.S.ご。 それ故に我々は先づその多くの意義について考へて見ねぼならぬ。 さて生命は生活現象の常鰭であり、普通には休止や固定に封する生成・活動・液剤を意味し、死に相封韮せる ものと考へられる。今世界あー切の事象を産物と無生物とに術分し得るとせぼ、その稀差となるものが生命であ る。即ち生命は二般に生物、香、全宇宙の存在の核心をなせる根源的活動力である。併しながらその生命の本温を 如何なるものと見るかは各軍着の立場や見解によつて叫定してはゐない。例へばこの概念の中には、生物畢的意 味の有機的生命、精紳科挙的意味の鰭験的生命、歴灸的意味の文化的生命、形而上畢的意味の宇宙的生命などが 考へられる。或はまた理論・思惟・知識に相封するものとしては具照的なる現葦的存在といふ如くにも解される。 ベーメは生命の概念の中に地上的・心意的・紳的︵ird許hes−S&落h川S−∽賢l昏es︶の三つのものを見出したが、 その最初のものは生物畢的生命、第二のものは人間的生命、第lニのものは宇宙的生命と解される。更に第一のも 塵命・意識什慣値・物質の四存在領域について ︵〓六九︶ 三

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︵ニ七〇︶ 四

賃七巻 第四渋

のを身餞的科革的のものと見る時、他の二つは精紳的形而上輿的のものとなる。サツケルトが生命を規定して鱈 翰の客鰐︵dasObj箕desEr昏芸︶となし、それ車乗茄せる生命︵dasab宣eb什erebeコ︶としての死に判立するも のとし︵a.a.〇.S・eかゝる生命に浸らんとする朗謂の生命哲啓を論難の対象とする時、そこ盟息昧されたもの は主として生物拳的生命である。ニイチエやショウベンハウエルが生命哲韓稟であるといはれる持、その生命と はかゝる種類のものである。併しリツケルトは生命をまた世界をその内面に於て統叫してゐるところのもの︵das d訂We≡ヨFコerS什eコN亡Saヨヨeコh賢︶と解してゐる︵a.P〇.S.︼N︶。かく見る時にはそれは形而上箪的暫牌曾如 き意味を有つ†若き時代のヘーゲルを初め、デイルタイ、ジムメル、オイケン、ベルグソンたどの高銅せる生 命はかゝる程朔のものであるや前者の生物塾的生命は概して生理的概械的、随ってまた盲目的衝動的のものであ り、後者の形而上撃的生命は仙般に精神的目的々のものである。併しながらかゝる置別は固より絶封的なるもの ではない。それ故に例へば物活論の如く、形而上箪的立場に於て而も唯物的機械的に生命を解したと思はれる如 きものも存してゐる。 さて然らば我々が前忙三方始漁的無に選ると北ハに他意愚論忙辿る︵諭接七︶といへるその牲命峰山鰹如何な る意味のものか。我々はこゝには寧ろ生物拳的電昧の鎮命を考へる。形而上畢的意味の生命盗単なる生倫ではな く、それは意識や僧倦の存在領域を包有せるものと考へるっ即ちそれ揉生物箪的舘命と矛屑するものでは照ぺ、 寧ろそれをぼ自らの根源的活力として必要とするものである。

(5)

デイルタイ蜂生命に閲しその特質的なる庵のとしで統一性。開聯性・生動性・合目的性・輩達性・、自由性などの 性質を蔑げ、ごれらを以て軍なる知識から生命を分つ所以のものであるとする。そLてこれらが犬鰻に於て生命 哲学者の考へて偽る隼命の現象性と見られ村る。例へぼジムメルに於ては特に超越性や矛眉性などが亜姿祓せら れ、べルグ㌢ン・に於ては活動性・攣化性・飛躍性・創造性・進化性・連綬性・自由性などが主として詮かれ、オイ サンに於ては精神性、ミラフー・フライニンフエルスに於ては非合理性が特に強く詮かれるなどの如き差はある としても、何れも要するに固定・休止・合理・抽象などの性質を有つ坪知的なるものに相対立せるものとして、以 上の如き生命の現象性が正思にも指示せられるのである。 併しながらこれらの生命解繹は、我々の意味する生命の解繹に比Lて、少Lく形而上畢的色彩の濃厚に過ぎる 嫌がある。何故ならば我々の只今意味してゐる生命は攣ろ生物串的意味のそれに近いものだからである。それ故に ヽ’ 以上の如漕凡ての現象性を、殊に瀾動性や統嘲性などを生命のみの特徴として撃不することはできぬ。何故ならば これらは、生命をすらも包括せるところの最も具鰭的なる硯嘗性そのもの1特徴︵諭桜丘︶でもあるからである。 さて我・々の意味する生命は、前述の如く、叫方無に述ると址ハに他方意識に蓮るところの可能性である︵論掠七、 瓦︶。それ故にその現象怯もか∼る存在関係から自らにして生じ解るものである。 生命の現象性としては党づ第劇にその可死性が蓼げられる。生者必滅、生きとし生けるものは何時かは必ず死 せねぼならぬ。閻にこれほどの屏理がまたとあらうか。可死的なるものこそ生命であるといへる。生命のか1る 及愈・意識‖慣値‖物質の四存在領域について ︵二七﹂︺ 五

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第七巻 第四渋

︵二七二︶ 六 性質は、それが無に法る〓呵を有つ︵冷媒七︶といふことから常然にも訝らされる飴儀なき現象性である。その 故は死は生命的存在が無に辟入することに外ならぬからである。可死恍はまた有限性である。その敢は死は錆命 が有としての存在を経ることだからである。かくて生命は明かに有限的のものであるっ ハイデッガーに於ける人 間的現存在が無としてのせ界内に存在し、その故にそれ自ら無的なる性格を有つところの有たるの運命を負され るに至つたものと考へられる限り、それは我々のいふ生命的存在領域のものと解される。即ちそれは飴儀なくも 有限的性質を運命づけられたものである。ハイデッガーに於ける原罪的宿命的思想の要義は、かゝるところに最 も明かであるといへる。俳教思想に於てもこの種の存在観の甚だ濃厚であることはかの十二田繚の詮について見 るも察知し得られるところであり、その二般的情調としての無常感はまさしくかゝる半面を強く意識するところ に自ら結果するものと息はれる。世の所謂厭世観的宿命論者は人間的生命のこの字面をのみ唯側絶封のものと誤 信せるところに生じたものである。彼等は生命が無に連るが故に可死的であらねばならぬといふこの竿面をのみ 見詰めることに厄されて、他の年回を見ることの飴裕を失へる着である。寄寓、坐命の可死件はまさしくその牢 固のみで、決してそれのみが生命の唯叫絶封の現象悼ではない。否寧ろ生命は他の牛面に於てこれとは全く相反 する不死性をすらもその時彼として有つものである。 即ちこ1に生命の第二の現象性として教展性が撃げられる。萄展性は創造的進化性で参り、また無限性ヤある。 何故ならば生命の進化費展吟無限の梓度に於て可能だからである。生命の無限性は不可死性である。無限の錆命

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は永生を意味するに外ならぬからである。生命のか1る性質は、その無に邁る〓別に於てゞはなく、その反封の 意識に遜る他の ん軍超越的なる紳を求めこれと合閻せんとする方面に向つて無限なる開展をなし得る能力む有つが故に、それ自 ら無限なり不朽たることができる。か1る生命の無限性は朗謂文化慣値の追求嘗現によつて潜らされるものであ り、文化によつて象徴されるものである。事賓、文化にまで生命は自己の無限性・永琴隼不朽性を刻印づける。 例へば希膿民族の生命はその哲畢の上にその塾術の上にいとも輝かLき永生を象徴して傭然たるのである。生命 のかゝる牢固を艶調して立つ時、こ1に珊想主義の人生親が硯はれる。こゝには運命の軽椅の下に憤惰する人間 的存在ではなく、寧ろ運命を自ら打開せんとする紳にも似たる弧き人間的存在が現はれる。 さて以上の生命の二つの現象性に於て、その可死的年間を生命の下向的薪應的性格と名づけるならば、その彗 展的年而はその向上的創造的性格ともいへるであらう。これらの何れの牢固により多くの関心を有っかによつ て、その人の生命観即ち人生槻に封時的なる差異を生ずるに至る。かくて例へぼ同じく生命を高調する立場に於 ても、ショウベンハウニルは厭世親に傾き、ニイチエは反厳世毒薬を唱へるに至つたのである。また﹁汝の観の 人草叫月に千頭を絞り殺さむ﹂︵古事記︶といふ時、それは生命の可死的牢固を東漸に浮き山止たすものであり、﹁汝 然したまは羞ロはや二日に千五百床屋立て1む﹂︵古事記︶といふ時、それはその発展的牢固を弘く主張するもの である。かゝる可死的有限性と磯民約無限性との相矛盾する弼性質を生命的存在はまさしく自らの申に包括して 草平素議・僻値ル物質の四存在領域にっいて ︵こ七三︶ 七

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ゐる。その馬に生命は常にその何れかの方向忙向つて絶えず生動してゐる。こ1にその活動悼も考へられる。即 ち生命は仙瞬と雑も静止同定してあることを得ない。これ生命の常に欒化し流略してあらねばならぬ朗以、そし てこの攣化流柑は以上の嗣方面の何れか.に向つてゞある。この相矛盾する二つの性格即ち有限鮭と無限性とを自 らの中に包括せLめてゐるところに、生命の生命たる所以がある。 かくいふ時人は生命的存在がかく二つの矛盾せる嬰素を同時に共在せしめ得るといふことの甚だしき不合理を 指摘して、以て我々の詮述に論駁を加へるでもあふぅ。併しながら我々は貰はか′ゝる論駁が由つて以て根掠とす るであらうところのその理由の申に、却って我々が夢二の生命の現象性として撃不せんとサるものゝ因つて生じ 得るその根掠を見出すのである。それはγ牌何であるか、生命の一元性といふことこれである。かくて我々は一 兎性を生命の第三の現象性として奉げる。山元性は包括性であり、包括性は統叫性である。統一性はまたこれを 開聯世・錦織性ともいふことができる。この生命の仙兎性は存在の現象関係よりこれを観する時、その存在が触 と叫究的意識との間に介在せる︵諭擦七︶緊張領域に於て存するといふそのことに根接を有してゐる。即ち生命 は、分化せんとして未だ分化せず、蟄せんとして未だ敬せざる、謂はゞ浦を持して放たざるところの力の充溢な るが故に、その緊張拍備に於てよく有限性と無限性、・可能性と不可能性などの矛眉的二要素をいみ℃き輩調の許 に融合し統仙して存在し得るのである。されば生命はその本来の如驚なる姿に於ては、一切の異質的封立を渾然 とLて融合せしめてゐる谷き一元性である。即ちそれは有無を同時に包有し、有限と無限とを同時に可能ならし 第七令 弟四戟 ︵二七四︶ 入

(9)

め、神性と獣性とを同時濫還せしめてゐる揮然慣であり、それ故にこそ如何なる向上的畿展をも叉下向的頚應 をも同じくそれより結発し得るところの可能的存在たるのである。かくて具慣的流れとしての生命そのもの1中 で.は、二男の慣値的封立は阿はり、凡ての主客や内外の到立も未だその彩を潜め、その姿を現出せしめぬのであ るバ生命そのものには善悪、眞償、美醜の院削があり得ないといはれるのもこれに因るぺ生命の領域にはかくし て専ら未別の滞沌のみがあり、恐ろしき凰力が只勤めいてゐるのみでぁる。これ生命が箪なる理知のみを以ては 規定し把捉し得ざる所以、即ちその発き非合印倖なる痢以である。かくて生命は叫切の封立をその中に包括して 獣然たる渾沌︵ChaOS︶であり、滞米の波乱を約束して未だ聾なき静かなる嵐ともいふべきものである。即ちそれ は無限の寅烹や神秘を赦しっ1而も砦滞々たる搾淵にも比すべきものである。 生命の包括性は併しながら同より無秩序性ではない、それは自らなる雑多の統刷鹿である。生命が叫の統佃鰭 ヤぁるこ之は、既にアリストテレスによつても指摘せられしところ、現代の蕉命哲単著がこれを唱導することも 固よりいふまでもない。統山性は閥聯性であり、閲聯性は組織燦である。組織性は秩序を意味する。即ち生命は 渾沌︵nha。S︶であつて而も宇田︵C。Sヨ。S︶的意味を有つ。秩序の璃には一定の原珊を必穿とする。こゝに生命の 督的性も生じ来る。この日的性も亦速くアリストテレス以来唱へられ来ったところ、この目的性の故にこそ、人 間的生命は自ら意識を黎み、精細を聖勤せLめ、漆慣をなし、情佑的存在へと進展もしてゆくのである?生命が 意識を争むとは生命が生命自らを意識することである。人間的生命は箪に生きるのみのものではなく、それ自ら 生命・意識・慣借小物質の四布衣領域について ︵ニ七五︶、九

(10)

第七巻 裔四渋

︵二七六︶ 脚○ その生きてゐることを知るものである。こ1に自覚が生れ、生命の自己反省が生する。併し反省は分裂であり、 分裂は生命の切断である。反省し且つ反省せられた生命望息識の作用又は対象となりし生命であり、随ってそれ は生命といふよりも意識と呼ばれるものである。かくて自己反省をなすことは嘗は生命が生命自らの命を断つこ とである。こ1に生命の自己超恕が行はれる。併しこの生命の自己超剋は驚は革なる生命否定や致死ではなくし て寧ろ生命の高揚を結果する。かくてニイチエもいへる如く生命は不断の自己超剋を必要とするものであり、ま たそれによつて向上し、途には超人にまでも高まらねぼならぬものである。かく﹁一哉思ふ﹂︵CO山itO︶によつて﹁我 在り﹂︵Suヨ︶ が次第に高次的となり、最後には紳にまでも近づくに至るところに人間的生命の特色が存してゐ る。かくの如く人間的生命は必然的に意識し意識せられる生命であり、その限りに於てはそれは分裂せる生命で あつて純然たる生命ではなく、随って寧ろ意識的存在と呼ぼるペきものとなる。これ我々が特に生命的存在と意 識的存在とを分てる所以である。

〓 意 識 的 存 在

意識的存在の領域は将帥又は心意の世界と見ることができる。即存在的に崩する時、この狩衣板城は生命と同 じく可能性に於て存し︵論桜丘︶、山方その生命を自らの存在の底礎上して有つと共に、他方認識或は偵鳩め慨赤 の存在を自ら底礎づけてゐるものである。即ち意識は山南生命に蓮ると北ハに他面認識又は評慣を尊くみ、慣悠に

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連る︵諭接七︶。こ1に明かなることは、生命を預想せぬ意識は存在L得ぬが、意識を操忽せぬ生命は存在し得、 また意識を預想せぬ認識や許憤は存在し得ぬが、認識や評傾を預想せぬ意識は存癒し得るといふことである。以. 上の如き現象関係から、単に染物串的生命のみを考へてそれ以上の慣借的なるものを認めぬ所謂の生命腎畢は、 サツケルトも厳しく難する如く哲単なる高見の名に値し得るものではなく、また反封に慣偲判断のみを以て意識 現象をも訟明し、生命の如き非合瑠性はこれを哲蓼の領内より駆逐L去らんとする償値哲蓼の誤りであむことも 明かである。 さて然らばこの意識的存在としては如何なるものが蓉げられるか。まづ意識的存在は精神現象として普通物質 的存在たる自然現象から明かに区別されてゐる。そしてその国別の翳らされ得る所以、即ち心が物から区別され 得る所以の特質は、例へぼデカルトに於ては薦表性︵Ex什eコSiO︶に封する思惟性︵nO篭at亘 であるとせられ、ま た普通常識的には、それの身餞内部に存すること、或は形鰹や他意のないことなど∼せられてゐるが、併しこれ らは凡てその本質的なるものではなく、その最も*質的なるものはブレンタノによつて新たなる認識にまで翳ら され窒息識の志向性にあるといふことも認容されてよいであらう。その意識の志向性とは、ZOeS訂︵作用的意味 要素︶とコ。eヨa︵封衆的意味箪革︶ との問に存する粕銅々係を意味するものに外ならぬ。さて然らばその場合 コ02ヨかに嘗る存在領域には山鰭如何なるものが存在してゐるか。それはいふまでもなく認識の封象として指定さ れる常馬的存在ではなく、意識の意味附輿作閂に相應せる資有的存在であること、換言すれぼそれは慣値︵Wert︶ 塵命・意識小慣値‖物質の四存在領域について ︵二七七︶ 山一

(12)

の世界ではなく意味︵B2deutuコ也Om・Sぎコ︶の世界であることも疑ひ得ぬことであらう。然るにそめ意味の世界は 明かに山切中等金無差別のせ界であり、それ故にこそ仙知的であり、尚謂はゞ−元的存在性であることがいひ得 られる。即ち意味的存在の世界に於ては、如何なる慣値的差別の封立もなく、一切のものは只ひたすらに恵威さ れ意味づけられたものとして存在し、例へば虞も馬も、蕃も恵も、美も醜も皆それん\平等に只存在するものと してのみ放ぜられる。アウダスティヌスが存在するもの轟く善であるといふ時、それはか⊥るせ界のものを意味 するであらう。か1る叫兎的無差別的意味の世界が意識の封象となり得る朗以は、意識作用そのものが何等愕喝 的差別を以て選捧的に封象に働きかけるのやはなく、只全く平等一如に、例へぼチに封する詔母の眼差しのそれ の如くにあらゆる封象に意味づけの働きをなす放である。かく意識は凡てをそのあるがまゝに州如無差別的に意 味づけるが故に、こ1には知覚と同様に幻覚も錯覚も、善人と同様に恵人も、それ′ん\意味あるものとしてその 存在性が保証される。以上のことから意識の働きは全く仙兎的なるものであることの埋が明かである。 併Lながら意識的存在は生命的存在とは異り、それ自ら眈に自覚的存在たることを意味Lてゐる。そしてその 自覚とは主観・客観の分裂を意味するものに外ならぬ。志向性とはそれ自ら内在的封象を有つことであ古都、そ れはとりもなほさず作用と封象との分裂を苦味するものである。デカルトのC。笠。は食も純粋なる意味の澄識 といはれるが、そこには既に意識的存在の自己反省が動いてゐる。フッセールの純粋意識も亦C。笠at訂︵思惟作. 用︶なる富薬によつて特質づけられ、而もそのnO笠註○が更にCO笠○の封象となるものでな町れぼならなかつ 第七巻、第四既 ︵二七入︶ 叫二

(13)

たほどに、しかく自己戊省的のものであつた︵−告eコuSW.仰望∴00︶。意識がかく煎茶反省的なる活酌であることば ブロティノスによつても強調せられしところ、彼に於ては意識することはm小惟が自己肖らの中に反へろことに外 ならなかった。意識はそれ自ら括劫であると共にまた自己自らを謁す鈴でさへもあつた。かく意識が自己自らを 省ることは即ち自己の中に客観を封立せしめることであり、そしてこれが意識の本質であるとせば、意識的存在 は元々二元的存在たるの性格を有つものと見られねぼならぬ。これ意識的存在が銀白鬼無反省の叫常的年命の存 在とその存在領域を異にする所以、そして意識のこの二兎的傾向がやがて認識や評慣即ち仙般に僧侶的存在の把 捉によつて滑らされる慣倍の世界の重き二兎性を結廃するものとなるのである。即ち意識が自らの二元性をその まゝ封象に移して凡てのものを二元的封立に於て観じ、そしてその封立の〓々例へば眞・善・莫・堂などを自己 に叶はしきものとしてこれを探捧し、他の⋮方例へば惰・患・醜・俗を望ましからぬものとしてこれを雫却する時 は、それは物象真申に如資なる存在のま1に意識するのではなく、炭理を眞理として認識し、導を垂として評僻 し、美を莫として聖を聖として憤借づけるものとなり、朗謂⋮単なる意識ではなく、認識し許慣する働きを元すも のとなる。この場合その封象として硯はれ来るものは意味の世界ではなくして慣借のせ界であるっこ1に於ては 意識は既に意識的存在の領域を超え、憤値的存在となるのである。 かくて意識的存在は∵万一元的に働くと共に他方自ら二元的性格を鮮示する。をの山寵性はそれが生命的存在 紅蓮る牢固に生する現象性であり、その二元性は慣備的存在に蓮る牛酎に餞する現象性である。その故は生命は 座食∵忠詑∵惰隠・物質の四存在領域について ︵こ七九︶一三

(14)

全き剛蒐性であり、慣値は全き二乗性であるからである。かく山元的働きむなす二兎的性格者としての意識も、 併しながらそれ自らに於ては叫つの統剛態である。それは生命と慣値との中間に位固づけられた︵論梯七︶緊張 領域であり、生命を償倍化させるもの、また僧侶を生命にまで括取せしめるものである。かくて偉大なる憤倍の 創造者は常に必ず豊富液剤たる意識作用の所有者即う偉大なる精神生活者たらねぼならず、また崇高左る文化憤 倍の受用搾取の馬にも教寒されたる非凡の精神を必要とするのである。

三 億 偲 的 存 在

次に我々は横倍的存在につい七その現象性を概観せぬぼならぬ。尭づ僧値的存在の現象性は、〃それ自らが必然 性に於て存し︵論掠五︶、而五U〓聞宙ちに意識的存在に連ると共に他所物質的存在に連ってゐるといふ現象摘係 ︵論穣七︶から自らにして翳らされる。即ちそれは先づ第仙に常馬性といふことである。何故ならば常薦性とは意識 即ち精神的存在に関する限りに於ける必然性に外ならぬからである。我々はこの必然性に於ける雷碍をS皇eコ︵不 許不︶として、これを同じ必然性に於て而も偵伯的存在ならざる他の存在領域としてのさ諾seコ︵不可不︶から移 別せんと欲する。即ちS。ニeコを以て精帥現象に関する限りの必然性となすに勤して、三訝seコをぼ物質的存華甲 ち自然現象に閲する限れの必然性なりと関するのである。s。l訂コとLての目的及普馬は以上によつて明か滋る如 く、必然性の意識的存在に連る方面に於ける惰値的存在の現象性であり、玉露seコ としての樺械的必然は、後

第七谷 第四沸

︵二八○︶ 二囲

(15)

に明かになる如︿︵二二貫︶∵慣値的存在の謂はゞ外側にあろ物質的存在の現象性と見られるのである。 さて嘗焉性は自らにして二乗性である。何故ならば先金なる矛盾封立がそこ・には必然的だからである。矛盾封 立は例へぼ生と死との封立に於て見られる如く∵万が他方に挑戦する関係に於て存してゐる。仙を存置せしむべ 鳴 きであり‖そ するのでぁる。営為性はかくて 問の張り合ひに於てのみ可能であり、拘束は互に相手を有つことに於てのみ可能である。慣倍的存在の現象性は かくて何よりも先づ二元的勤立に於ける樟州的傾向の姿として硯はれるのである。 慣借の二元性は自らその相封性を結果するものとなる。何となれば毘・幸・莫・聖はそれそl備・悪・醜・俗に相 勤し、また反割に惰・譜・醜・俗蜂眞・普・葉・聖に封立し、そしてかく葡封立する限りに於てのみ各々それらのも のとして存在し得るからである。即ち償値あるものは憤値なきものと相封宜することによつてのみ初めて偶値あ るものとして存在することができる。そしてその慣値・不慣倍の決定をなすものが即ち我々の評慣作用であり、 横倍判断である。その評偶作用は意識の叫つの働きであるに外らぬ。即ちそれは二元的樺山的に働く限りに於け る意識の作用である。か1る作用によつて僧侶あるものと認められる限りに於て、事物は慣借あるものとなるの である。その同価あるものが慣借なきものに相封立してゐるが故に、特にこれを秦曝し存在せしめねぼならぬと する時、こゝに常焉性が坐する。即ち嘗焉性あるが故に僧侶ありとなすカント的立場は、こ1に慣倍あるが故に 生命⊥革識ふ惣甲物質の四存在領域について ︵二八こ 劇五

(16)

第七容 第四渋

︵二八二︶ 〓ハ 普馬性を有つといふ現象箪的立場に置き換へられねばならぬ。そして事物の慣佑の有無は人々に封する限りに於 て′ゼあり、それ故に惜倍は人々にとつて相射的なるものであるづ即ち偶佑の相封性はそれが人々の評偶作用に依 存してゐるもので参るといふ事情に基づいてゐる。評偶作用は時代により場所により人々によつて必ずしも同血 であるとはいへぬであらう。掩ってこの鮎のみより現する時には、慣備には︷欝不攣の性質即ち客咽性かないと もいひ得るであらう。即ちこの場合慣佑は凡て主観的なるものとなる。串嘗、償倦の主観性のみを詮いてその客 観性を認めぬ塾改も少くはない。かくの如く、童親に依存するが故に人々にとつて相封的であり、慣惜なきもの に相封立することによつてのみ初めて偶値あるものと観ぜられるに至る如き慣値を、我々は政友右印幡士と共に 文化偵備と.名づけで遭4︵全集頭金偵倦め鰻系︶?即ち文化偵値とは慣倍の相封的性質に着目して附せられ挺洛名 柄であ かくて文化慣倍は必す冷感的頂備に剖豆せる積極的憐情であり、随つてそれはその背後に必ず不偶備を負うて ゐる慣倍である。謂はゞそれは彫を負へる光である。アリストテレスの蕃概念は叫般に偵倍概念によつて琶き換 へられる低質のものであるが、この蓉概念について彼は二つのものを直別してゐる。即ち絶射的奮と個々の沓と である。今これを中庸の徳について見る時、抱動的善としての中庸は絶射的中のものであり、これは′各人凡てに 封して僧岡山のものである。これに反しで偶々の蕃としての中儲は相対的中のものであり、各人によつて貸それ ぞれに其れるものである︵≡kOヨaChischeEthik〓思aN00よピ。絶勘的蕃は相射的書記を超越して常遁的のもので

(17)

あるが、個々の普は恵打あらざるものとして、即ち怒に封立せるもの上しての相封的蓄である。か1る相封的馨 が即ち我々の呼んで以て文化慣倍となすところのものである。恵は単に偶値のないものであり、消極的慣倍であ って、慣倍を超越してその範園外にあるものではない。文化低値は積嶺的僧値として必ずこの消極的愕億に封立 Lてのみ存在し得る。こ1にその二元的世界のものでなけれぼならぬ所以が存し、叉その相制約ならねぼならぬ 甥曲が存するのである。 文化偶倍には色々のものを考へることができる。例へぼ眞。蕾。芙・聖。力・愛・利などである。そしてこれ鱒封 立せる消極的憤値はそれ1ドー・燭・志・醜・俗・無力・憎・不利益などである。これらのものはそれ′川\又科挙的・道 徳的・垂術的・宗教的・政治的・融合的・経済的慣佑、或は不慣低と呼ぼれる。文化とはこれら文化慣倍の蜜現過 程に外ならぬ。かく、て文化の多様は文化僧侶の多様に基づくのである。そしてその文化情他の多様は人類に於け る文化的括動領域の多様を意味し、その文化的活動領域の多様は生命の戦規模式即ち生活形式︵﹁ebeコSfOrヨeコ︶の 多様に基づくものである。文化慣借の多様が生活形式のそれに相應するとなすシュナランガーの詮は是認さるペ きである。 併しながら文化慣値の種類の多様は、文化慣値それ自らの二元性とは別異のものである。即ち文化慣値は多く の種類を持しっ1而もそれらの各々の慣値が二元的なのである。多様は文化慣値の獲現し得る領域についていは れるのであり、二元はその同じ領内に於ける積極・滑庵の封立についていはれるのである。今著し仙領域内の文 虫愈・意識‖償借小物質の四存在領域について ︵〓八一ニ︶一七

(18)

第七春 希四既

︵ニ八四︶ 仙入

化憤低が他の凡ての領域内の文化慣低から明かに区別せられる性質を稲して慣値の判明性といひ得るとせぼ、同

叫領内に於てその積極的慣値がそれ自鰻消極的慣借から鮮かに直別され得る性質はこれをその明晰性とも呼ぼれ

得るであらう。各々の文化領・城に於ける天才は、か1る判明なる慣値領域を保持すると共に、また最も明晰なる

憤値性の創造賛規をなすものである。

かくて例へぼ道徳的慣倍の領域に於ける天才は、この領域に於て故も傑出せる特色を有ち、他の如何なる文化

領域に於ても嘗現し待ざる偉大なる慣億の創造を途げ、而もその故にこそまた道徳的慣値たる蕃に飢えることも

甚だしく、その焉にまた惑への自覚に人山償苦しめられねぼならぬものである。偉大なる蓉術家や偉大なる料率

者が各その卓抜なる美または眞の領域む開拓しっ1、而も何自らの作品や菜蹟に勤して他にも増して不満足を感 じ、その故に寧ろ扱混的なる微香の情に慰められるよりも心恒に探刻なる苦悶によつて打ち憾まされつ1ある所

以のものも、その驚現せる慣値が守るしく明晰であり判明であるによるからに外ならぬ。最も明るき光は最も喝

き影への関心を飴儀なくせられるのである。併しこれら天才の共通に有つ苦悶は固より生みの悩みであつて、只

徒らなる俗人の背痛ではない。偉大なるものは如何なる場合にも常にその背後に偉大なるものを魚ふ。それ故に

天才には凡人の預怨もL得ざる心の動播があ少、関心があり、またその故に凡人の企及し得ざる刻常勝精があり 得るのであるJ併しながらか1る心の動揺、かゝる刻苦励精の中に、天才はまた凡人の夢想もし葡求もし得ざる

希望と慰籍との光を有つ。悪魔に憑かれたるものにして初めて秤の恩寵への眞の欺富と感謝とを有ち得るのであ

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る。慣倍の創造膏現に伴ふか1る尉籍及び緻菩は、併しながら〓版に慣倍の相封性からは翳らされるものではな い。慣値の創造賞硯者に封してその天釆の恩寵を約束するものは、驚に慣値の絶封性で くて慣値は叫周相封的であると共に他聞給料的である。こ1に我々は進んで憤倍の絶封性について顧みるところ がなけれぼならぬ。 憤倍の絶封性は、即存在的に敬する時、それが間接にであるとはいへ、絶到着としての硯資性︵論摸五︶にそ の存在の根株を有つといふ現象関係から自らにして生じ来る性格である。即ち評憤的意識に逸る〓卸に於て仝′∼ 相封的であつた慣佑が、凡てを統仙する活動としての絶封的硯嘗性に存在根嬢を有つといふ叫両に於ては絶封的 性質を帯びるものとなる。 この慣倍の絶封性は憤借主親の評慣によつては左石されないところの偶値の本質性である。この本質性に於て 異に超障墨的なる慣倍の永久性・不滅性が考へられる。慣倍の客観性もこ1に初めて確立される。慣値のか1る 牛面に着目する時、我々はこゝに絶封的慣値を考へることができる。絶封的慣値は全く無制約的であり、無前提 的であり、凡ての評傾から猫立的である。か1る絶封的慣値の最も明かなる概念を我々はアリストテレスによつ て主張された絶判的善の概念に於て見る。彼の拓封的聾は前述の如く個々の誉ではなくして尊堂のも▼のである。 それは怒に判一皿せるものではなく、相封的善意を超越して普遍的なる善一般であり、即ち絶動的慣借着である。 アリストテレスの中庸に於ける絶封的中がか1るものとして傘げられる。我々はまたか1る亀封的慣値を政友右 虫命㍉意識・償倍・物質の四存在領域について ︵二八五︶一九

(20)

︵二八六︶エロ

籍七巻 葦四渋

田博士の用語に従つて創造者慣備︵全集週番九四貢︶とも呼ぶことができる。相封的慣値としての文化憤値は評 慣する意識的存在に依存するものであつたが、絶封的慣値としての創造者慣値は寧ろか1る評慣的存在に勤して 規範を輿へるものである。かくて放じて主観が評慣するといふことは驚は絶封的慣借を相封的慣値たらしめるの 謂に外ならぬ。即ち客観的絶封的創造者慣倍を東胡化し相封化して文化慣値たらしめることが我々の評偶作用で あるともいへる。このことから創造者慣倍は決して文化慣嘩に依存するものではなく、寧ろその由つて生すると ころの根撮であるといふことが明かにされる。そしでまたそれら雨情値の互に矛盾拝絡すべきものでないことも 以上によぅて明かである。 以上の絶封的慣値と相封的慣値、即ち創地番償値と文化慣値との間の全き調和柄立が如何にして可能であるか といふ、乙の電路的なる間髄を、在釆の憤値研究者は、例へばワッケルトや政友石田博士なども、専ら慣値の慣 値性そのもの1検討に於てのみ見極め解決しょうとした。それ故に明瞭なる解決がそれによつては輿へられ得な かったのである。何故ならばこの間題は慣値真申に慣値そのものとしてその慣低位を検討することによつては解 決し得られるものではなく、慣倍をもーつの存在として、その偶値的存在の存在性を、そしてまたその存在の可 能棋擦を閃ふこと忙よつてのみ初めて解決し得られるものだからである。即ちをれは慣備の現象単なる新衝野忙 於てのみ初めて全き解決にまで潜らされ得るので軋る。而してそれに封する我々の解決は、慣侶的存在の拓勤性 は統′﹁的に活動する硯資性としての絶封者にそ紆存在の根撮む有つといふことから明かにせられ、またそα相封

(21)

性は生命に基づく部慣意識に直接建ってゐるといふ現象関係から自らにして結兆する性質であるとなすことによ

つて、果されると思ふのである。

餞以上とは全く其れる方顧に於て我々は慣他段階の無限性をも考へることができる。慣値段階の無限性は固よ

り憤借領域の多層性でぼないC低位領域の多様性は生活形式の多様基づくものであつねが、偶値段階の無限性

は寧ろ叫つの憤値領域に於ける惜値象の無限の差に基づくものである。この慣低温の差の無限性即ち慣倍の程度

の限りなき差異性が、各々の個倍傾城にそれ′ぐ1その慨値の列序段階の存在を可能ならしめる。慣値の列序段階 は最高程度の積極的慣倍より最高程度の消極的憤備に至るまで無限の喜忙別たれる云=山2ra−nh訂を形成する。

即ち例へぼ道徳的憤値領域に於ける積極的慣倍としての善にも、また消極的憎倦としての恵にも、殆ど無限の差

等があり、縫って全人類に於ける各個人が有つ蕃または悪の程度は各人膚全く同じではないのである。そして今

これを最高度の善人より最高度の恋人に至るまでその程度の順列に配する時、そこに望網善意の慣倍のエすarch肯 を宥つことができる。一つの個倍領域についてか1る慣値段階を見ることば、多くの憤値領域についてその従展

開係を決定する慣他鰭系の間克とは自ら興れるものである。

横倍のかゝる畳的無限性は、慣値的存在の他の反面即ち物質的存在に蓮る︵諭摸七︶叫間から自らにして結果し

解る現象性である。憤値段階の無限はその分蚤的差異の無限であり、慣倍のかゝる分塵的考察は僧侶を物質の世

界に換算して見ることに外ならぬ。即ち偶倍の物象性がその列序段階を構成するものとなる。無限性はまたこれ

虫命・忠誠=償借り物質の四存在領域にづいて ︵こ八セ︶ 小〓

(22)

︵ニ八八︶﹂三

廃七懸 第四靡

を多元性とも見ることができる。即ち我々は情痛的存在の領域笹多発的怖質療見出す。そしてこの多元的性質は、 本死金き多元性であるところの物質のせ界に直接連るところから自らにして生じ来れるものである。 かくの如く慣値が物質に連ることは、やがてそれが物象化され、それによつてよく永久性をかち得る七とを意 味してゐる。即ち慣値は或は人格に於て、或は文字の上に、或は雷魚∵大理石・讃布・制度・儀渡などの上に物象 化されることによつてのみ、よく永遠不滅たることができる。か1る物的形式への象徴化・具饉化なくして吟如 何なる創造者慣倦もその生命を永遠ならしめることができぬ。文化財とはかゝる創造者慣備の稽有着である。文 化低値とは文化財によつて櫓宥せられてゐる絶封的客観的慣値を主観化し相封化したものである。創作とは絶封 的創造者慣値を物的形式の上に具象化し琶現することである。かくてこそ芸の彫刻の中に不滅の襲が盛られ、 鵬巻の書の中に永遠の眞理が赦せられ、一人の人格の中に不朽の蕾憤砥が宿されといふことも存し得るのであ る〇

四 物 質 的 存 在

最後に俄蒜物質的存在についてその現象性空曹せねばならぬ。物質的存在は既に見た如く、必然性の申の 吉sseコの世界であり、叫面SO蚕としての慣借的存存に連ると共に他面究極的無に連る領域を保持七てゐる︵論 椋七︶。こゝからその現象怯も生じ乗る。

(23)

先づ第一にその現象性は多元的といふことである。物質の特性として最初に螢げられるものは例へぼデカルト に於ての如く先づEx訂㌃iOといふことであらう。贋がりを有つといふことはやがて無限なる諮問的分割の可能 なることを意味してゐる。かくて例へば物質は凡て舞阪なるアトムの如きものに分割され得るのである。即ち物 質鱒無限なる要素から成る。無限なる質素を有つことはやがてそれの多元的のものであることを意味じてゐる。 また更にその無限なる要素は常に離合集散極りなく、随つてこ1に物質界に於ける千態馬楼の萎む置呈し、即ち 計黙視象の限りなき雑多性を結果するに至る。この意味に於ても自然現象即ち物質的存在は多元性のものである ことが明かである。物質的存在のこの多元性は、二元的なる偶借的存在の自らなる開展によつて生じたものとも 考へられる。何故ならば二元は孝冗の仙樟に外ならぬからである。そしてか1る多発性が反封に慣値的存在に反 映して、そこに慣倍盈の無限なる列序を生ぜしめたのである。 物質的存在の多元性は併しながらその有限性であることの性質を如何ともすることができぬ。物質的布衣の現 象は直ちに有為軸欒の自然現象そのものである。こ1に於ては凡てが消滅し欒化して寸時も常恒不欒であること はできぬ。即ちその有は暫しも有たらすして直ちに無に壷で欒化する。二切の有が無に連嵐のである。物質的存 在のかゝる有限性は、例へば生命的存在が始源的無に連る︵論操六︶こと忙よつてその有限性を得た如く、直接 に究極的無に蓮るといふその飴儀なき現象舶係︵論壕六︶から自らにして翳らされたものであるぐ物質的存在が 無に辟することによつて結凝せられる有の存在の終結は、やがて相封的なる有そのもの1絶封的無そのものに騒 生命・意舐・償値・物質の四存在領域について ︵二八九︶ ニ三

(24)

以上に於て我々は、凡て有の存在は結局に於て、始源的絶封無より出でゝ究極的絶封無に腐るものであること の理を知る。即ち有は無を負ひ、無を抱き、無の中に於て初めて弔として存在し、そしてまたかく有として存在 することによつて各々の存在領域に於てその現象性を畿押し得るものである︵諭穣二︶。その存在領域として我々 は上述の如く生命的存在・藩識的存在。慣値的布衣・物質的存在を盤げ、そしてその現象性は各々生清規象・精 神現象・文化現象・自然現象として指示され縛る︵諭掠凶︶所以の球を見終ったのである。併し以上の如く有の存 在の現象性は各々その猫自の領域に於て特異の姿を持して現はれてゐるものであるとはいへ、それらが相互に相 関聯してゐるもので奉ることはいふまでもない。さうしてそれが琴に蛛始源的及び究極的無と共に一丸となり、 所謂統一的宿動的絶封審としての硯資性︵論掠五︶を構成してゐるも、のなることぬ明か′である。 第七巻 寛四渋 入することの意味を有つものとなる。ご1に凡ての有の存在の限界がある。 , 灯 /′ ﹁∠ ﹁ ノ ノんr ︵二九〇︶ 二由

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