愚中周及『稟明抄』と『宗鏡録』
柳
幹
康
はじめに
本 論 文 は 愚 ぐちゅう 中 周 しゅう 及 きゅう ( 一 三 二 三 ― 一 四 〇 九 ) が 編 ん だ『 宗 すぎょう 鏡 録 ろく 』 の 撮 要 本『 稟 りんみょうしょう 明 抄 』 の 構 成 に 着 目 し、 同 書 一書中において『宗鏡録』が果たしている役割に対し考察を加えるものである。 『 宗 鏡 録 』 は 東 ア ジ ア 全 域 に 伝 播 し た 禅 宗 の 思 想 を 考 え る う え で 極 め て 重 要 な 書 物 で あ る。 同 書 は 五 代 十 国時代の中国の禅僧 永 えい 明 めい 延 えん 寿 じゅ (九〇四―九七六) により編纂された百巻にもおよぶ大部の書で、その内容は禅 宗所伝の一心を核に唐代以前の多元的な仏教思想を一元的に統合するものとなっている。宋が中国を統一し 強大な皇権が確立すると、皇帝の勅許のもと仏教の正統説と公認されて大蔵経に編入され、禅と浄土を主軸 に 諸 宗 融 合 の 道 を た ど る 宋 代 以 降 の 中 国 仏 教 に 対 し、 そ の 理 論 的 根 拠 を 提 供 し 続 け た。 そ れ に 伴 い『 宗 鏡 録 』 の 評 価 は 急 速 に 高 ま っ て い き、 清 朝 第 五 代 皇 帝 の 雍 よう 正 ぜい 帝 てい ( 在 位 一 七 二 二 ― 一 七 三 五 ) に よ り「 震 しん 旦 たん ( = 中 国) 宗師の著述中第一の妙典」と絶賛されるに至る ( 1) 。 また本書は早くから朝鮮・日本にも伝わり、両地の仏教思想にも多大な影響を及ぼした。すなわち朝鮮では 第 四 代 高 麗 国 王 の 光 クアンジョン 宗 ( 在 位 九 四 九 ― 九 七 五 ) が『 宗 鏡 録 』 を 読 ん で 延 寿 に 弟 子 の 礼 を と っ た ほ か、 当 時 多 く の 僧 侶 が 延 寿 の も と に 留 学 し て 法 を 嗣 ぎ、 近 年 で は 曹 渓 宗 の 宗 チョンジョン 正 ( 代 表 ) を 歴 任 し た 性 ソンチョル 徹 ( 一 九 一 二 ― 一 九 九 三 ) が 戦 後 の 仏 教 復 興 に あ た り『 宗 鏡 録 』 を 用 い、 そ れ を「 竜 樹 以 降 最 も 偉 大 な 著 述 」 と 高 く 評 価 し て い る ( 2) 。 一 方 日 本 で は 栄 西 ( 一 一 四 一 ― 一 二 一 五 ) ・ 円 爾 ( 一 二 〇 二 ― 一 二 八 〇 ) ・ 夢 窓 疎 石 ( 一 二 七 五 ― 一 三 五 一 ) など鎌倉・室町期の臨済宗の禅僧を中心に諸宗で広く受容され、江戸期には日本臨済宗中興の祖とされる白 隠 ( 一 六 八 六 ― 一 七 六 九 ) が 悟 後 の 修 行 を 明 か す 重 要 な 書 物 と し て『 宗 鏡 録 』 の 名 を 挙 げ て い る ( 3) 。 こ の よ うな『宗鏡録』の受容状況を分析することは、日中韓の仏教思想の展開を理解するうえでも、また東アジア 全域に展開する禅宗の思想を展望するうえでも、ともに重要な作業だと考える。 愚 中 周 及 は 室 町 時 代 に 活 躍 し た 臨 済 宗 の 禅 僧 で あ る。 一 三 二 三 年 ( 元 亨 三 ) に 美 濃 ( 現 岐 阜 県 ) に 生 ま れ、 七 歳 よ り 教 院 に 学 ぶ。 十 三 歳 の 時 に 夢 窓 疎 石 の も と で 出 家 し て 沙 弥 と な り、 夢 窓 の 俗 甥 で 弟 子 の 春 しゅんおくみょうは 屋 妙 葩 ( 一 三 一 二 ― 一 三 八 八 ) よ り 教 え を 受 け る。 十 七 歳 に し て 比 叡 山 で 受 戒 し、 翌 々 年 建 仁 寺 に 掛 錫 す る も 同 所 の 接 化 に 満 足 せ ず、 天 龍 寺 造 営 の 資 金 捻 出 の た め に 夢 窓 が 発 案 し た 貿 易 船 に 乗 り 元 に 渡 る。 潤 州 ( 現 江 蘇 省 鎮 江 市 ) 金 山 の 即 しっきゅうけいりょう 休 契 了 ( 一 二 六 九 ― 一 三 五 一 ) に 参 じ、 一 三 四 七 年 ( 至 元 七 ) 二 十 五 歳 の 時 に 大 悟 し そ の 法 を 嗣 ぐ。 一 三 五 一 年 ( 観 応 二 ) 帰 国、 出 家 の 師 で あ る 夢 窓 に 参 じ て 即 休 よ り 嗣 法 し た こ と を 告 げ、 そ の 許 し を 得 る。同年のうちに夢窓と即休が相次いで亡くなり、愚中は夢窓の三年の喪に服した後に南禅寺の書記となる が、即休からの嗣法を快く思わなかった者から迫害を受けたため同寺を出、その後播磨・丹波・丹後など各 地 に 寓 し た。 一 三 六 五 年 ( 貞 治 四、 四 十 三 歳 ) 大 おお 中 なか 臣 とみ 那 な 珂 か 宗 むね 泰 やす に 請 わ れ て 丹 波 金 山 天 寧 寺 の 開 山 と な り、 一 三 九 七 年 ( 応 永 四、 七 十 五 歳 ) に は 小 こ 早 ばや 川 かわ 春 はる 平 ひら に 招 か れ 即 休 ( 佛 通 禅 師 ) を 勤 請 開 山 と し て 安 芸 に 御 お 許 もと 山 さん 佛 通 寺
を 開 く。 一 四 〇 八 年 ( 応 永 十 五、 八 十 六 歳 ) 足 利 義 持 と 面 会 し、 翌 年 五 月 に 紫 衣 を 受 け て 足 利 義 満 の 一 周 忌 の 法要を執り行う。同年八月二五日に結跏趺坐して遷化、僧臘七十一、世寿八十七。佛徳大通禅師と諡される。 その霊骨は天寧寺と佛通寺の塔に納められ、その門下は両寺を中心に各地へ教線を伸ばした ( 4) 。 愚中を直接の研究対象とした論考は少なく、管見の限り以下の三者のものがあるのみである。 一、蔭木英雄[一九七八] 、愚中の伝記と詩作を紹介・分析。 二、 柴田章延[二〇〇二] [二〇〇四] 、愚中の伝記とその門下の動向、ならびに愚中が中国より伝えた 当時の発音 (佛通寺読み) を紹介・分析。 三、千葉正[二〇一四] 、『稟明抄』を分析。 このような研究状況のなか、拙論が『稟明抄』における『宗鏡録』の援用状況に焦点を絞り分析するのは、 以下の三つの理由による。 第一に、当時夢窓門下において『宗鏡録』が盛んに用いられていたことである。たとえば夢窓の法嗣では 無 む 極 ごく 志 し 玄 げん ( 一 二 八 二 ― 一 三 五 九 ) が『 宗 鏡 録 』 の 撮 要 本『 色 塵 集 』 三 〇 巻 を 編 ん だ ほ か、 春 屋 妙 葩 が 一 三 七 一 年 に『 宗 鏡 録 』 を 開 板 し、 義 ぎどうしゅうしん 堂 周 信 ( 一 三 二 五 ― 一 三 八 八 ) は『 宗 鏡 録 』 を 閲 覧・ 書 写 し て い る。 ま た 夢 窓 に 学 び 無 極 志 玄 の 法 を 嗣 い だ 空 くうこくみょうおう 谷 明 応 ( 一 三 二 八 ― 一 四 〇 七 ) は『 宗 鏡 録 』 の 講 義 を 行 っ て い る ( 5) 。 愚 中 は 法 こそ即休に嗣いだが、夢窓のもとで出家し春屋妙葩に学んだ経歴の持ち主で、愚中より嗣法し一三五一年に 帰 国 し た 後 も、 春 屋 を 始 め 夢 窓 派 と の 交 流 は 続 い て い る ( 6) 。 愚 中 が『 宗 鏡 録 』 の 撮 要 本『 稟 明 抄 』 を 編 ん
だのは、このような夢窓門下における『宗鏡録』の盛行を承けたものと思しく、おそらくは愚中が見た『宗 鏡録』も春屋妙葩が開板したものであっただろう。かかる愚中の『宗鏡録』援用を分析することは、当時の 禅門における『宗鏡録』受容を理解する上で重要な作業だと言える。 第 二 に、 『 宗 鏡 録 』 は 愚 中 自 身 に と っ て も 重 要 な 典 籍 で あ っ た こ と で あ る。 そ の 年 譜 に 記 さ れ る 典 籍 の 名 は少なく、わずかに⑴『法華経』普門品 (T八一・九四a) 、⑵『信心銘』 (同九四c) 、⑶『宗鏡録』 (同九七c、 九 八 b ) 、 ⑷『 十 牛 訣 』 ( 同 九 九 a ) 、 ⑸『 金 剛 経 』 ( 同 九 九 c ) の 五 種 が 見 え る の み で あ る。 余 他 へ の 言 及 が 一 度 の み で あ る の に 対 し、 『 宗 鏡 録 』 は 二 度 言 及 さ れ て い る。 ひ と つ め が 一 三 七 五 年 ( 永 和 元、 五 十 三 歳 ) の 条 に見えるもので、愚中は臘月十四夜に『宗鏡録』を閲覧していたおり迅雷を聞き二首の偈を作ったという。 ふ た つ め が 一 三 九 三 年 ( 明 徳 四、 七 十 一 歳 ) の 条 に 見 え る も の で、 『 宗 鏡 録 』 を 閲 覧 し そ の 撮 要 本『 稟 明 抄 』 を編んだと記されている。愚中が二首の偈のみならず撮要本をも作った書物は『宗鏡録』の他に例がなく、 愚中が『宗鏡録』を重視していたことが窺える。 第 三 に、 『 稟 明 抄 』 に 対 す る 研 究 に は 既 に 千 葉 正[ 二 〇 一 四 ] が あ る が、 以 下 に 見 る 重 要 な 問 題
│
『 稟 明抄』というひとつの書物において『宗鏡録』が如何なる役割を果たしているのか│
については、まだ十 分に論じられていないことである。 そ こ で 拙 論 で は 以 下、 『 稟 明 抄 』 全 体 の 構 成 を 視 野 に 収 め つ つ、 そ の な か で『 宗 鏡 録 』 が 果 た し て い る 役 割について分析を加える。本
論
先 述 の 通 り『 稟 明 抄 』 は、 愚 中 が 一 三 九 三 年 ( 明 徳 四 ) 七 十 一 歳 の 時 に 編 ん だ『 宗 鏡 録 』 の 撮 要 本 で あ り、 その書名は『宗鏡録』 (巻九九、T四八・九五一b) に引かれる『提婆菩薩伝』の語「我れ明を心に 稟 う け、外に 仮 か ら ざ る な り 」 ( T 五 〇・ 一 八 七 a ) に 由 る。 『 宗 鏡 録 』 は 百 巻 に も 及 ぶ 浩 瀚 の 書 で あ る が、 愚 中 は そ こ か ら 要 文を抜粋し僅か一巻にまとめている。その文章はごく一部の例外を除き、ほぼ全てが『宗鏡録』の引用から 成る。 その例外のうち、注目すべきが巻頭と巻末の部分である。うち巻頭には、以下の一段が記されている。こ れは『宗鏡録』からの引用ではなく、愚中が自ら加えたものであり、いわば『稟明抄』の冒頭にあって、そ の主題を提示する一段と見ることができる。 初 祖 菩 提 達 磨 円 覚 大 師 梁 普 通 元 年 十 月 一 日 至 金 陵。 武 帝 問 曰、 「 朕 即 位 已 来 造 寺 写 経 度 僧 不 勝 記。 有 何功徳。 」師曰、 「並無功徳。 」帝曰、 「何以無功徳。 」師曰、 「此但人天小果有漏之因。如影随形、雖有非 実。 」帝曰、 「如何是真功徳。 」答曰、 「浄智妙円、体自空寂。如是功徳不以世求。 」帝又問、 「如何是聖諦 第一義。 」師曰、 「廓然無聖。 」帝曰、 「対朕者誰。 」師曰、 「不識。 」帝不領悟。 噫。師亦不識、帝亦不領。可謂函大蓋大。 (L一a・一) 初 祖 菩 ぼ 提 だい 達 だる 磨 ま 円 覚 大 師、 梁 りょう の 普 通 元 年 十 月 一 日 金 きんりょう 陵 に 至 る。 武 ぶ 帝 てい 問 う て 曰 く、 「 朕 即 位 し て 已 このかた 来 、 寺を 造 つく り 経 を 写 し 僧 を 度 す こ と 記 す る に 勝 た え ず。 何 の 功 徳 か 有 る 」 と。 師 曰 く、 「 並 ならび に 功 徳 無 し 」 と。 帝 曰く、 「何を以てか功徳無き」と。師曰く、 「此れ 但 た だ 人 にん 天 でん の小果、 有 う 漏 ろ の因なるのみ。影の 形 からだ に随うが 如し、有りと雖も実に非ず」と。帝曰く、 「 如 いかなる 何 か是れ真の功徳」と。答えて曰く、 「 浄 じょうちみょうえん 智妙円 にして、 体 は 自 おのずか ら 空 くうじゃく 寂 な り。 是 かく の 如 き 功 徳 は、 世 を 以 て 求 め ず 」 と。 帝 又 た 問 う、 「 如 何 か 是 れ 聖 しょうたいだいいちぎ 諦 第 一 義 」 と。 師曰く、 「 廓 かく 然 ねん 無 むしょう 聖 」と。帝曰く、 「朕に対する者は誰そ」と。師曰く、 「 識 し らず」と。帝 領 りょうご 悟 せず。 噫 いい 。師も 亦 ま た識らず、帝も 亦 ま た 領 さと らず。 謂 いっ つ 可 べ し、 函 はこ 大なれば 蓋 ふた 大なりと ( 7) 。 こ れ は『 景 徳 伝 灯 録 』 ( 巻 三「 第 二 十 八 祖 菩 提 達 磨 」、 T 五 一・ 二 一 九 a ) 等 に 記 さ れ る 有 名 な 達 磨 と 梁 武 帝 の 問 答 で あ り、 禅 宗 初 祖 の 達 磨 が イ ン ド か ら 中 国 に 来 た 際 に 梁 の 武 帝 と 次 の よ う な 問 答 を し た と 伝 え ら れ る
│
武 帝 が 達 磨 に 尋 ね る、 「 朕 は 即 位 し て か ら 数 多 の 寺 院 を 建 立 し て 度 々 写 経 し、 無 数 の 人 々 を 出 家 さ せ て き た。 ど の よ う な 功 徳 が あ る だ ろ う か 」。 達 磨 は に べ も な く 答 え る、 「 功 徳 な ど 何 ら あ り は し な い 」。 武 帝 は 驚 き 尋 ね る、 「 な ぜ か 」。 達 磨、 「 そ れ は い ず れ も 人・ 天 の 来 生 と い う 取 る に 足 ら ぬ 果 報 を 得 る だ け の こ と、 結局のところ輪廻をもたらす原因に過ぎぬ。それはあたかも身体に寄り添う影のごとく、実体の無い虚妄な ものだ」 。そこで武帝は尋ねる、 「では真の功徳とは一体どのようなものなのか」 。達磨は答える、 「清らかな 智慧は円満であり、その体はもとより空寂である。このような真の功徳は、世間的な行為によって求めるこ とはできない」 。武帝は尋ねる、 「究極の聖なる真理とはどのようなものか」 。達磨は答える、 「がらりとして 「聖」などというものも無い」 。武帝、 「では今朕の目の前にいる者は誰なのか」 。達磨、 「 識 し らぬ」 。武帝はそ の意を悟ることがなかった。一般にこれは世俗的な有相の次元に留まる武帝が、空なる無相の立場から達磨が発した言葉を終ぞ理解す ることができなかった問答として理解される。ところが愚中は、このような理解を反転し次のようにコメン トしている
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あぁ、達磨も識らず、武帝も悟らず。これぞ箱が大きければフタも大きいというものだ│
。 達 磨 の「 識 ら ぬ 」 と い う 高 次 の 接 化 に よ り、 た と い 武 帝 は そ う と は 知 ら ず と も、 「 悟 ら な い 」 と い う 高 次 の 結果を引き出すことができたと言うのである。 た だ し こ こ で 注 目 し た い の は 愚 中 の コ メ ン ト で は な く、 こ の 問 答 に お い て 達 磨 が「 功 徳 無 し 」「 有 り と 雖 も 実 に 非 ず 」「 体 は 自 おのずか ら 空 寂 」「 廓 然 無 聖 」「 識 ら ず 」 な ど「 空 」 を 説 き 示 す 否 定 的 な 物 言 い に 終 始 し て お り 「心」の字は見えないことである。 これに対し『稟明抄』の末尾に記される願文には「空」を明かす表現はなく、それとは対照的に「心」が 端的に提示されている。以下のように言う。 仰惟 大日本国誉田天王八幡大菩薩 霊鏡普照之理徳、神剣摧破之智用、理智一体、本地法身大牟尼 尊、伏願 益和其光、加護斯抄、開示末学、悟入本心。 (L一九a―b・一二) 仰ぎて 惟 おもんみ れば、大日本国 誉 こん 田 だ の天王八幡大菩薩、霊鏡普照の理徳、神剣摧破の智用、理智一体にして、 本 地 法 身 大 牟 尼 尊、 伏 し て 願 わ く は、 益 ますま す 其 の 光 を 和 わ し て 斯 こ の 抄 ( =『 稟 明 抄 』) を 加 護 し、 末 学 に 開 示 して本心に悟入せしめたまえ。ここではいわゆる本地垂迹説に基づき、日本の地に八幡大菩薩として 迹 あと を垂れた本地法身の釈迦牟尼仏に 対し、智慧の光を和らげて『稟明抄』を加護し、人々に本心を悟らせるよう祈っている。つまり『稟明抄』 の目的は人々に本心 (本源の心) を悟らせることにあると明言しているのである。 このように冒頭で主題を提示する部分では「空」を明かす表現のみで「心」への言及はなく、末尾で本書 の目的を示す部分では「心」のみが提示され「空」への言及はない。そしてその中間に記される『宗鏡録』 からの引用に目を転じると、この「空」と「心」を結びつける文章が多く見られることに気が付く。ここで は煩を避け、その全てを列挙するのではなく、端的で見易いものを五例のみ挙げる。 まず第一の例が、上に見た達磨と武帝の問答の直後に引かれる以下の二段である。 華 厳 経 出 現 品 云、 「 仏 子、 如 来 成 正 覚 時 於 其 身 中 普 見 一 切 衆 生 成 正 覚。 乃 至 普 見 一 切 衆 生 入 涅 槃。 皆 同一性。所謂無性、無何等性。所謂無相性、無尽性、無滅性、無我性、無非我性、無衆生性、無非衆生 性、無菩提性、無法界性、無虚空性、亦復無有成正覚性。知一切法皆無性故、得一切智、大悲相続、救 度衆生。仏子、譬如虚空、一切世界、若成若壊、常無増減。何以故。虚空無生故。諸仏菩提亦復如是。 一切衆生於一念中悉成正覚与不成正覚等無有異。何以故。菩提無相故。若有相則有増有減。 」 釈 云、 「 此 品 文 旨 宏 奥、 能 頓 能 円。 窮 衆 生 之 本 原、 罄 諸 仏 之 淵 海。 根 本 法 輪 之 内 更 処 其 心、 生 在 金 輪 種中、復為嫡子。妙中之妙、玄中之玄、並居凡類之心。小功而能速証、安得自欺不受。……」 (L一b―二a・一) 華 厳 経 出 現 品 に 云 く、 「 仏 子 よ、 如 来 成 正 覚 の 時、 其 の 身 中 に 於 い て 普 あまね く 一 切 衆 生 の 成 正 覚 を 見 る。
乃至 普 あまね く一切衆生の入涅槃を見る。皆同一性。 所 い わ ゆ 謂 る無性、何等の性か無き。 所 い わ ゆ 謂 る相性無く、尽性無 く、滅性無く、我性無く、非我性無く、衆生性無く、非衆生の性無く、菩提性無く、法界性無く、虚空 性無く、 亦 ま 復た成正覚性有ること無し。一切の法の皆な無性なることを知るが故に、一切智を得、大悲 相続して、衆生を救度す。仏子よ、 譬 たとえ ば虚空の如し、一切の世界、 若 も しくは成り若しくは壊れて、常に 増減無し。何を以ての故に。虚空の無生なるが故に。諸仏の菩提も 亦 ま 復た 是 かく の如し。一切衆生、一念の 中に於いて 悉 ことごと く正覚を成ずると正覚を成ぜざると等しくして異なり有ること無し。何を以ての故に。菩 提 は 無 相 の 故 に。 若 し 相 有 ら ば、 則 ち 増 有 り 減 有 ら ん 」 と (『 華 厳 経 』 巻 五 二「 如 来 出 現 品 」、 T 一 〇・ 二 七 五a―b) 。 釈 に 云 く、 「 此 の 品 の 文 旨 宏 奥 に し て、 能 よ く 頓 能 よ く 円 な り。 衆 生 の 本 原 を 窮 し て、 諸 仏 の 淵 海 を 罄 つ く し、根本法輪の内に更に其の心を処す。生じて金輪種の中に在りて、 復 ま た嫡子 為 た り。妙中の妙、玄中の 玄、 並 ならび に 凡 類 の 心 に 居 す。 小 功 に し て 能 く 速 や か に 証 す、 安 いずく ん ぞ 自 ら 欺 い て 受 け ざ る こ と を 得 ん。 ……」と。 前 段 と 後 段 は そ れ ぞ れ『 宗 鏡 録 』 巻 一 四 ( T 四 八・ 四 八 八 c ) と 巻 四 一 ( 六 五 八 c ) か ら 引 か れ た も の で あ るが、後段が「釈に云く、此の品……」というように前段に引く出現品を受けていることから、明らかに一 続 き の も の と し て 録 さ れ た も の で あ る。 ま た 両 段 の 冒 頭 を『 宗 鏡 録 』 で は「 華 厳 経 云 」「 古 釈 華 厳 出 現 品 云、 此品……」としていたのを、 『稟明抄』では「華厳経出現品云」 「釈云、此品……」に変え、両段の連関を明 示する形になっている。
その内容について見ると、前段では如来の成正覚・入涅槃と同時に一切衆生もまた正覚を成じ涅槃に入る と説き、その理由として「一切の法」が「皆な無性」であり、世界が「虚空の如」く「菩提」も「無相」で あ る こ と を 挙 げ る。 そ し て 後 段 で は そ れ に 対 す る 注 釈 と し て、 こ れ が「 衆 生 の 本 原 ( = 心 ) を 窮 し て、 諸 仏 の 淵 海 を 罄 つ く 」 す も の で あ り、 「 妙 中 の 妙、 玄 中 の 玄 」 が 凡 類 ( 一 切 衆 生 ) の 心 に 具 わ っ て い る の だ と 述 べ て い る。 つ ま り 愚 中 は「 無 性 」「 無 相 」 と い う 空 を 説 く 前 段 と「 心 」 に つ い て 説 く 後 段 を 一 続 き の も の と し て 引用することで、 「空」と「心」を結びつけているのである。 第二の例が以下のものである。 ……心法本来無有形相。心法本来無有住処。一切如来尚不見心、何況餘人得見心法。一切諸法従妄想 生。以是因縁、今者世尊為大衆説三界唯心。 心懐染著従妄縁現 。縁無自性、心性本空。如是空性、不生 不滅・無来無去・不一不異・非断非常、本無生処、亦無滅処。心法之体、本不可得。非心法者、亦不可 得。如是悟者名見真諦。悟真諦者名為賢聖。 (L四b―五a・三) ……心法本来形相有ること無し。心法本来住処有ること無し。一切の如来すら 尚 な お心を見ず。 何 な に況 んや餘人の心法を見ることを得んや。一切諸法は、妄想 従 よ り生ず。 是 こ の因縁を以て、 今 い 者 ま 世尊、大衆の 為に三界唯心と説きたまう。心に染著を 懐 おも うことは、妄縁 従 よ り現ず。縁に自性無し、心性 本 も と空なり。 是 かく の如くの空性は、不生不滅・無来無去・不一不異・非断非常にして、本と生処無く、 亦 ま た滅処無し。 心法の体、本より不可得なり。非心法の者も 亦 ま た不可得なり。是の如く悟る者を真諦を見ることと名づ
く。真諦を悟る者を名づけて賢聖と為す。 こ の 一 段 は『 宗 鏡 録 』 巻 一 一 ( T 四 八・ 四 七 六 a ― b ) に 引 か れ る『 大 乗 本 生 心 地 観 経 』 ( 巻 八「 観 心 品 」、 T 三・三二七b―c) を節略転引したものであり、心が本来無相・空であることが端的に述べられている。なお 千葉正[二〇一四、一八二]は「愚中が見ていた『宗鏡録』は全百巻そのものを全て読んでいたのか、或は 抜 萃 本 ( 例 え ば『 冥 枢 会 要 』) で あ っ た の か 」 と 疑 問 を 呈 す る が、 『 冥 枢 会 要 』 に は 傍 線 部「 心 懐 染 著 従 妄 縁 現」以下の後半部分が録されていないことから、少なくともこの箇所が『冥枢会要』からの転引でないこと は明らかである。おそらく愚中は、抜萃本ではなく『宗鏡録』そのものを読んでいたのだろう。 第三の例が以下のものである。 普賢観云、 「観心無心、法不住法、我心自空、罪福無主。 」即是無心無数、名為正観。文殊当真空無礙 之理、普賢当離相無尽之行。諸大菩薩所表、人皆有之、不離一心、悟之即是。世人聞道諸仏皆伝心法、 将謂心上別有一法可証可取、遂将心覓法。不知心即是法、法即是心。不可将心更求於心。歴千劫終無得 日。不如当下無心便是本法。乃至出家、皆不出一念心地。 (L六a―b・四) 普 賢 観 に 云 く、 「 心 を 観 て 心 無 く、 法 は 法 に 住 せ ざ れ ば、 我 が 心 は 自 おのずか ら 空 に し て、 罪 福 に 主 無 し 」 と (『 普 賢 観 経 』、 T 九・ 三 九 二 c ) 。 即 ち 是 れ 無 心 無 数 を、 名 づ け て 正 観 と 為 す。 文 殊 は 真 空 無 礙 の 理 に 当 た り、普賢は離相無尽の行に当たる。諸の大菩薩の表す所、人 皆 み な之れ有り、一心を離れず、之を悟れば
即ち是なり。世人、諸仏 皆 み な心法を伝うと 道 い うことを 聞 き きて、 将 まさ に心上に別に一法の証す 可 べ く取る 可 べ き 有りと 謂 おも いて、遂に心を 将 もっ て法を 覓 もと む。心は即ち是れ法、法は即ち是れ心なることを知らず。心を 将 もっ て 更に心を求む 可 べ からず。千劫を 歴 ふ とも 終 つい に得る日無し。当下に無心にして 便 すなわ ち是れ本法なるには如かず。 乃至出家も、皆な一念の心地を出でず。 こ の 一 段 は『 宗 鏡 録 』 巻 二 四 ( T 四 八・ 五 五 〇 a ― b ) か ら の 節 略 引 用 で あ る。 こ こ で は 心 の 空 を 明 か す 『 普 賢 観 経 』 の 経 文 を 引 い た 後 に、 か か る 心 が 一 切 衆 生 に 悉 く 具 わ っ て い る こ と、 た だ し 世 の 人 々 は 本 来 空 である心そのものを見ず、その上に「法」という相を作り出すため迷っていること、そのような相に執われ ず無心に回帰することが肝要であることを明かしている。 第四の例が以下のものである。 観和尚於一心門立十浄土、成十種如来、坐十種道場、説十種法門。一金剛如来在於金剛道場能説金剛 法門。以自心智見我心性、此心従本来永無諸相、猶如虚空湛然不動。明見之心、名金剛如来。所説金剛 法 門 者、 如 経 偈 云、 「 菩 薩 智 慧 心、 清 浄 如 虚 空、 無 性 無 依 処、 一 切 不 可 得。 」 所 云 十 浄 土 者、 如 経 云、 「十方国土、皆如虚空。 」…… (L七b・四―五) 観和尚、一心門に於いて十浄土を立て、十種の如来の十種の道場に坐して十種の法門を説くことを成 ず。一に金剛如来、金剛道場に在りて、能く金剛の法門を説く。自心の智を以て我が心性を見るに、此
の心 本 もと 従 よ り 来 このか た永く諸相無くして、猶お虚空の湛然として動ぜざるが如し。明らかに之の心を見るを、 金 剛 如 来 と 名 づ く。 所 説 の 金 剛 法 門 と は、 経 の 偈 に 云 う が 如 し、 「 菩 薩 智 慧 の 心、 清 浄 に し て 虚 空 の 如 く、 性 無 く 依 処 無 く、 一 切 不 可 得 な り 」 と (『 華 厳 経 』 巻 五 九「 離 世 間 品 」、 T 一 〇・ 三 一 五 a ) 。 云 う 所 の 十 浄 土 と は、 経 に 云 う が 如 し、 「 十 方 の 国 土、 皆 な 虚 空 の 如 し 」 と (『 維 摩 経 』 巻 下「 香 積 仏 品 」、 T 一 四・ 五 五二b) 。…… こ れ は『 宗 鏡 録 』 巻 二 七 ( T 四 八・ 五 六 八 c ) 所 引 の 観 和 尚 の 説 を 転 引 し た も の で あ る。 観 和 尚 ( 未 詳 ) は 一 心 を 十 種 の 浄 土 に わ け、 そ れ ぞ れ の 浄 土 ( = 道 場 ) に お い て 特 定 の 如 来 が お の お の 法 を 説 く と 論 じ る。 す なわち⑴金剛如来は金剛道場において金剛法門を、⑵解脱如来は無著道場において無著法門を、⑶般若如来 は無住道場において無住法門を、⑷摩訶衍如来は無礙道場において無礙法門を、⑸菩提如来は無相道場にお いて無相法門を、⑹実際如来は無際道場において実際法門を、⑺真如如来は常住道場において常住法門を、 ⑻法界如来は法界道場において法界法門を、⑼法性如来は法性道場において法性法門を、⑽涅槃如来は寂滅 道場において寂滅法門を説くという。つまりこれは一心という真理を十の側面から分析したものであり、そ の う ち ⑴ 金 剛 如 来 と は、 己 の「 心 」 が 本 来「 諸 相 無 く 」「 虚 空 の 湛 然 と し て 動 ぜ ざ る が 如 」 く、 「 一 切 不 可 得」であることを看取することだという。つまりここでも「心」が「空」であると端的に示されているので ある。 第五の例が以下のものである。
仁 王 経 云、 「 能 起 一 念 清 浄 信 者、 是 人 超 過 百 劫 千 劫 無 量 無 辺 恒 沙 劫 一 切 苦 難、 不 生 悪 趣、 不 久 当 得 無 上 菩 提。 」 是 以 了 心 無 作、 即 悟 業 空。 観 業 空 時、 名 為 得 道。 其 道 若 現、 何 智 不 明。 心 智 明 時、 於 行 住 坐 臥四威儀中法爾能現自利・利佗之力。 (L一五b・九) 仁 王 経 に 云 く、 「 能 く 一 念 清 浄 の 信 を 起 こ す 者 は、 是 こ の 人、 百 劫 千 劫 無 量 無 辺 恒 沙 劫 一 切 の 苦 難 を 超 過 し て、 悪 趣 に 生 ぜ ず、 久 し か ら ず し て 当 まさ に 無 上 菩 提 を 得 べ し 」 と ( 巻 上「 菩 薩 行 品 」、 T 八・ 八 三 八 b ) 。 是 ここ を以て心の無作なることを 了 さと れば、即ち業の空を悟る。業の空を 観 み る時を、名づけて得道と為す。其 の道 若 も し現ぜば、何の智か明ならざらん。心の智の明なる時、行住坐臥四威儀の中に於いて 法 ほう 爾 に として 能く自利・利佗の力を現ず。 こ の 一 段 は『 宗 鏡 録 』 巻 一 〇 ( T 四 八・ 四 六 九 b ) か ら の 引 用 で あ る。 こ こ で は『 仁 王 経 』 の 経 文 を 根 拠 と し、心に作すところが無く一切の行為もまた空であることを看取すれば、悟りを得て心の智慧が顕現し、自 利・利他の力を自ずと発揮できるようになるのだと述べている。 以 上 に 見 た 五 例 は い ず れ も「 空 」 と「 心 」 を 結 び つ け る も の で あ っ た。 『 稟 明 抄 』 の 全 体 の 構 成
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巻 頭 と 巻 末 に そ れ ぞ れ「 空 」 を 示 す 達 磨 の 問 答 と「 心 」 を 提 示 す る 願 文 を 配 す る こ と│
に 鑑 み れ ば、 『 宗 鏡 録』が『稟明抄』という一つの書物において、最初の「空」と最後の「心」を結びつけるという重要な役割 を果たしていることが見て取れるだろう。 もちろん『稟明抄』における『宗鏡録』の援用はこれのみに限定されるものではない。たとえば仏道修行における宗鏡の重要性 ( 8) や禅の頓悟の立場 ( 9) 、『宗鏡録』の要となる円信円修など ( 10)、『稟明抄』に引用さ れる『宗鏡録』の内容は多岐に亘っている。しかしながら『稟明抄』を単なる引用文の寄せ集めではなく、 ひとつのまとまりを持った作品と見る時、巻頭の「空」と巻末の「心」を結びつけることこそが、同書にお いて『宗鏡録』が果たしている重要な役割であると言うことができる。 なお『稟明抄』の序文において愚中は、 「心」と達磨の「不識」を関連させて、以下のように述べている。 夫宗鏡録一百巻、先徳讃曰、 「迥出衆典、金山独輝於九天。 」予雖在此中学浅力乏竟不識山之真面目、 然猶不能自己或遇親切著明易読易暁者、援筆録出、名曰稟明抄。是乃但欲毎鑑自心耳。豈敢備乎胡来漢 現者哉。 (L序一a―二a・解説二〇) 夫 れ 宗 鏡 録 一 百 巻、 先 徳 讃 じ て 曰 く、 「 迥 はるか に 衆 典 を 出 で、 金 山 は 独 り 九 天 に 輝 く 」 と。 予、 此 中 に 在 りて学は浅く力は乏しく 竟 つい に山の真面目を 識 し らずと雖も、然れども猶お自己或は親切・著明にして読み 易く 暁 さと り易き者に遇うこと能わず、筆を 援 と りて録出し、名づけて稟明抄と 曰 い う。是れ乃ち 但 た だ 毎 つねづ ね自心 に 鑑 かんがみ んと欲するのみ。豈に敢えて胡の漢に来たり現す者を備えんや。 愚 中 は い う
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『 宗 鏡 録 』 百 巻 に つ い て、 先 徳 は 讃 歎 し て 次 の よ う に 仰 っ た。 「 数 多 あ る 典 籍 を 圧 倒 し て 迥 か に 聳 え 立 つ 様 は、 金 山 が 独 り 世 界 に 輝 い て い る よ う な も の だ 」。 私 は こ こ に お り 浅 学 菲 才 の 身 で そ の 山 の真面目を 識らない 0 0 0 0 が、それでも簡潔かつ明晰で理解しやすい書物がないので、自ら『宗鏡録』から文章を抜き書き本書『稟明抄』を編んだ次第である。これはただ自心に照らし合わせようとしてのこと。どうして かの胡人が中国に来て示したものを備えているなどと言えようか。 これは愚中が『稟明抄』に寄せた自序であり、ここで愚中は謙遜して自分が金山に喩えられる仏法の真面 目を「識らない」こと、ただ自身の「心」に鑑みるために『稟明抄』を編んだのであり、かの胡人の達磨が 中国に来て示したものを備えているなどと敢えて言う気がないことを記している。だがこれはあくまで序文 における謙遜であり、その「識らない」という言辞は達磨の「不識」に通じていると見るべきであろう。実 際この直後に達磨と武帝の問答が引かれ、達磨の「不識」と武帝の「不領」について愚中は「 函 はこ 大なれば 蓋 ふた 大なり」
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達磨の偉大な「識らず」と同様、武帝の「不領」も偉大だ│
と述べていた。これに鑑みれば 愚中の「不識」には、謙遜のみならず達磨に通じるという自負の念も込められていると見ても、あながち的 外れではないだろう。その当否はいずれにせよ、愚中は序文においても「心」と達磨の「不識」を密接に連 関させて用いているのである。むすび
拙論では『稟明抄』の全体の構成に着目し、同書において『宗鏡録』が担っている役割について考察を加 えた。 『 稟 明 抄 』 は『 宗 鏡 録 』 か ら 要 文 を 抄 出 し た 撮 要 本 で あ り、 そ の 大 部 分 は『 宗 鏡 録 』 か ら の 引 用 よ り 成 る が、冒頭と末尾には独自に加えられた一段が録されている。すなわち、冒頭には専ら「空」を明かす達磨と武帝の問答が録され、末尾には悟入すべき対象として「心」を提示する願文が収められている。そしてその 間を結ぶ本文の部分には、 「空」と「心」を結びつける数多くの文章が『宗鏡録』より引用されていた。 つまり『宗鏡録』は『稟明抄』において、巻頭の「空」と巻末の「心」を結びつける役割
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換言すれば 一書にひとつのまとまりを与える重要な働き│
を担っていると言うことができよう。 注 本研究はJSPS科研費(JP一六H〇七三三六・一七H〇〇九〇四)の助成を受けたものであり、拙論の内容は 国際シンポジウム「東アジアにおける禅思想の諸相」の報告(同題、二〇一七年十二月十六日、東洋大学白山キャン パス)に若干の補訂を加えたものである。また拙論執筆にあたり小林圓照先生(花園大学名誉教授)より貴重なご意 見・ご指導を頂戴した。ここに深謝申し上げる。 ( 1) 拙著[二〇一五] 。 ( 2) 拙論[二〇一八a] 。 ( 3) 拙 論[ 二 〇 一 七 ]。 ま た 白 隠 は『 勧 発 菩 提 心 偈 附 タ リ 御 垣 守 』 に お い て「 伝 灯・ 会 元・ 広 続 灯、 碧 巌・ 虚 堂・ 宗鏡録 0 0 0 、及び一切諸経論の中、何ぞ専ら悟後の修を示さざる」と述べ、悟後の修行を示す代表的な典籍のひ と つ と し て『 宗 鏡 録 』 の 名 を 挙 げ て い る。 原 文 は 後 藤 光 村[ 一 九 三 四、 四 七 一 ― 四 七 二 ]、 芳 澤 勝 弘[ 二 〇 〇 〇、 一五一―一五二・三〇九]を参照。 ( 4) 愚中の伝記を記すにあたり『佛徳大通禅師愚中和尚語録』 「年譜」 (T八一・九三c―一〇〇c)に基づいたほ か、 蔭 木 英 雄[ 一 九 七 八、 二 一 七 ― 二 一 五 ]、 玉 村 竹 二[ 一 九 八 一、 七 一 ― 七 二 ]、 柴 田 章 延[ 二 〇 〇 二、 一 九 三―二〇一] [二〇〇四、五六〇―五六一]を適宜参照した。 ( 5) 拙論[二〇一八b、二七三] 。( 6) 一三七六年(永和二)に愚中は丹後の雲門庵に退居していた春屋妙葩に招かれ偈の贈答をしたほか、翌年にも 同所を訪れ春屋と偈のやりとりをしている(T八一・九七c) 。このほかにも愚中は 龍 りゅうしゅうしゅうたく 湫 周 沢 (一三〇八―一三 八八) ・ 古 こけんみょうかい 剣妙快 (生没年未詳) ・ 絶 ぜっかいちゅうしん 海中 津 (一三三六―一四〇五) ・ 黙 もく 庵 あん 周 しゅうゆ 諭 (一三一八―一三七三) ・空谷明応 ら夢窓派の禅僧と交流があった。蔭木英雄[一九七八]参照。 ( 7) 『 稟 明 抄 』 を 書 き 下 す 際 に は、 原 則 と し て 刊 本 の 訓 点 に 基 づ く。 た だ し 刊 本 の 訓 点 に 示 さ れ る 理 解 を 出 な い 範 囲において、読みやすさを考慮して若干の変更を加えた。以下同様。 ( 8) 『 稟 明 抄 』( L 一 〇 b・ 六 ) は 宗 鏡 を 仏 道 修 行 の 要 と す る『 宗 鏡 録 』( 巻 一 六・ T 四 八・ 五 〇 〇 b ) の 文 章 を 引 用 し て い る。 「 此 の 宗 鏡 に 入 れ ば、 語 を 出 だ す に 過 とが 無 く、 念 を 挙 ぐ れ ば 皆 な 真 な り。 …… 宗 鏡 に 達 せ ざ れ ば、 凡 およ そ見解有るは 尽 ことごと く謗仏・謗法・謗僧と成り、 任 たと い万慮千思するも、未だ曾て相応の日あらず」 。 ( 9) 『 稟 明 抄 』( L 一 一 b ― 一 二 a・ 七 ) は 禅 の 頓 悟 の 立 場 を 示 す『 宗 鏡 録 』( 巻 一 七、 T 四 八・ 五 〇 四 b ― c ) の 問 答 を 引 用 し て い る。 「 夫 そ れ 成 仏 の 理 は、 或 は 一 念 と 云 い、 或 は 三 祇 と 云 う。 未 い ぶ か 審 し 定 て 何 の 文 を 取 り て 以 て 印 せん。答う、…… 若 も し頓に真性を見れば、即ち一念に成仏す。故に知りぬ、利鈍同じからず、遅速我に在りと」 。 ( 10) 『 稟 明 抄 』( L 一 九 a・ 一 一 ) は「 円 信 円 修 」 に 言 及 す る『 宗 鏡 録 』( 巻 八 一、 T 四 八・ 八 六 四 b ) の 文 章 を 引 用 し て い る。 「 …… 此 れ 乃 ち 西 来 の 的 旨、 諸 仏 の 正 宗、 円 信 円 修、 権 漸 に 同 じ か ら ず 」。 「 円 信 円 修 」 の う ち「 円 信」 (円かな信)が完成したものが「頓悟」 、「円修」 (円かな修行)が「頓修」であり、この「頓悟頓修」こそが 「正に宗鏡に当たる」 『宗鏡録』の要である。拙著[二〇一五、二一九・二三一・二三四]参照。 略号一覧 L… 『稟明抄』 、「L丁数 ・ 頁数」と表記。丁数は『佛徳大通禅師愚中和尚附録 稟明抄』 (佛通禅寺蔵版、一八四四 年の跋文あり) 、頁数は『禅学体系』祖録部 第四巻(一喝社、東京、一九一二年) 。 T…『大正新脩大蔵経』 、大蔵出版、東京、一九二四―三四年刊行、一九六〇―七九年再刊。
キーワード 愚中周及 『稟明抄』 『宗鏡録』 参考文献 蔭木英雄 [一九七八] 「愚中周及の人と作品」 、『相愛女子大学相愛女子短期大学研究論集』二六、頁二一八―二〇五。 後藤光村(編纂代表) [一九三四] 『白隠和尚全集 第五巻』 、龍吟社、東京。 柴田章延 [二〇〇二] 「愚中周及と「佛通寺読み」の起源について」 、『仏教学仏教史論集
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佐々木孝憲博士古稀記念論集』 、 山喜房仏書林、東京、頁一九三―二一二。 [二〇〇四] 「愚中周及と「佛通寺読み」の起源について」 、『印度学仏教学研究』五二 – 二、頁五六〇―五六二。 玉村竹二 [一九八一] 『日本禅宗史論集 下之二』 、思文閣出版、京都。 千葉 正 [二〇一四] 「愚 中 周 及『 稟 明 抄 』 考│
『 宗 鏡 録 』 受 容 の 一 考 察 」、 『 曹 洞 宗 総 合 研 究 セ ン タ ー 学 術 大 会 紀 要 』 一 五、頁一七七―一八二。 柳 幹康 [二〇一五] 『永明延寿と『宗鏡録』の研究│
一心による中国仏教の再編』 、法藏館、京都。 [二〇一七] 「『宗鏡録要処』解題」 、『中世禅籍叢刊』第十巻 稀覯禅籍集、臨川書店、京都、頁六三一―六三四。 [二〇一八a] 「禅が伝える心の鏡 第 10回 朝鮮における『宗鏡録』の受容」 、『花園』六八 – 一、頁一一―一三。[二〇一八b] 「夢窓疎石と『宗鏡録』 」、 『東アジア仏教学術論集』六、頁二七一―二九三。 芳澤勝弘(訳注) [二〇〇〇] 白隠禅師法語全集 第八冊『さし藻草・御垣守』 、禅文化研究所、京都。